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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる良い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。

「イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。

イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の負っている者をすべて、生活費を全部入れたからである。」(マルコ12:41-44)

* * *

「わたしは、他人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。ご存じのとおり、わたしはこの手で、わたし自身の生活のためにも、共にいた人々のためにも働いたのです。

あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主エス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。」(使徒20:33-34)

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惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承でなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。

神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる良い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。

「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。
 彼の慈しみは永遠に続く」
と書いてあるとおりです。

種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、わたしたちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。なぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです。

この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます。更に、彼らはあなたがたに与えられた神のこの上なくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです。言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します。」(Ⅱコリント9:6-14)

* * *

主の御座の高さと静謐さの中を歩む。私たちのこの手に、種以外に何もないように見えるとき、豊かな実りを約束して下さっている主の御言葉を思う。

毎年、筆者の年末年始や、特に新年の過ごし方は、とても深い意味を持つ予表的・象徴的なものであった。人々が自分の家庭に引きこもり、御馳走を食べて過ごすその瞬間、もしくは、神社や教会その他の宗教施設に通い詰め、行事や、あるいは買い物に明け暮れる中、大抵、筆者は、この世のすべての喧騒から引き離されて、ほんのわずかなキリスト者と共に、神との静かな歩みの中に引き入れられていた。
 
そこには、人の知れない、ひっそりとした喜ばしい交わりと、ほとんど単独者と言って良い、神の御前での歩みがあった。

今年は、そうした静けさの中で、自分自身を、本当に自分のためではなく、主の御心にかなう目的のために、なげうとうと決意させられた。

今でも忘れられないのは、ある新年のこと、ちょうど仕事の切れ目で、新しい職を探していた筆者を、ある姉妹が自分の別荘に呼び、心からもてなしてくれた時のことである。姉妹はその別荘で、誰にも言えない筆者の悩みをじっくり聞いて、筆者には広い自分のベッドを提供し、自分は寝袋を敷いて床に寝た。

階下にある温泉に筆者が浸かりながら、将来のことを思い巡らして悩んでいた時、彼女は台所でかいがいしく料理を作り、いかにして筆者をもてなそうかと心を尽くしていた。自分は温泉に行っても、あっという間に戻って来て、筆者の話に耳を傾けた。

だが、姉妹はそれらのことを本当に心から喜んでしており、筆者が悩みの渦中に沈んでいたにも関わらず、筆者といるのが、楽しくてたまらないという風であった。そして、その姉妹と一緒にいるときに、新しい職場からの連絡がかかって来て、筆者が進むべき道も定められたのだが、そうなるまでにも、彼女は、筆者の仕事のためにも、どんなに祈ってくれたか分からない・・・。

その姉妹は、あまりにも心清く、純粋な信仰を持ち、天に近いところにいたためであろうか、その後、数ヶ月で、実際に、天に召された。もう何年も前のことである。だが、その時にも、彼女が召されたことと引き換えのように、大きな慰めが天からもたらされ、信仰者ではなかったが、またもや新たな複数の友が、不思議な形で筆者の人生に与えられたのであった。

このように、なんの尊敬すべき取り得もなく、何一つ返せるものさえ筆者になかった時に、筆者の苦しみを少しも見下したり、蔑んだりすることなく、まるで筆者が神から遣わされた御使いででもあるかのごとく、心からの尊敬と愛情を持って、心を尽くして仕えてくれた姉妹がいたことは、筆者の心に深く刻み込まれた。

ああ、これが、キリスト者の奉仕なんだな、これが、互いに愛し合い、仕え合いなさいという御言葉の意味なんだな・・・と示され、それと同時に、彼女を通して、筆者がどんな境遇にあっても、キリスト者としての愛らしい魅力を失っていないこと、それが、仲間の兄弟姉妹にはちゃんと分かること、落胆すべきことなど何もなく、どんな瞬間にも、神の恵みに満ちた御業が確かに存在すること、それを分かち合って喜ぶことが、私たちキリスト者の使命であることを知らされたのである。

筆者自身は、その後も、しばらくの間は、自分が生きることに精いっぱいで、人々を助けるところまで、手が回らなかったが、ようやく昨年は、司法制度を通じて筆者が受けた恵みを、他の人々にも届けようと考え、そのために、自分の専門を捨てて、新しいことを始めた。

そうして、自己実現のための生き方を捨て、自分の専門を手放した報いとして、筆者は失ったものを余りある豊かな祝福を受けたのである。

神はやはり、私たちの生きる動機そのものをよくご覧になっておられ、正しい動機のために、私たちが捨てたものを、決して見過ごしにしてはおかれないのだと痛感させられた。

そこで、この新たな年には、筆者はよりまさった天の収穫を受けるために、自分をさらに捨て、神と人とのために、自分をなげうとうと決めた。と言っても、その方法は、あくまで秘密であって、それは人に知られない十字架の道である。

幼い頃に、兄弟たちに裏切られて、エジプトに売られたヨセフが、エジプトで宰相になるまでの間には、長い長い月日が経過した。エジプトはヨセフの故郷ではなかったし、ヨセフはそこでも、何度も、あらぬ罪を着せられたりして、苦難の月日を過ごさねばならなかったが、それでも、彼に与えられた神の力が発揮され、異郷の地でついに最後はファラオからも篤い信任を得て、重責を担う立場に立たされた。

だが、そうなった目的は、決して、ヨセフ自身が、偉い人となって、人々に君臨することにはなかった。むしろ、彼を通じて、彼の親兄弟たち、イスラエルの民が飢饉から救われ、生き延びることにこそあった。つまり、ヨセフは、エクソダスの象徴であり、ヨセフを通して、民が死から生へと贖い出され、命へと導き入れられるためにこそ、彼が兄弟よりも先にエジプトに遣わされたのである。

エクソダスとは、十字架である。つまり、ヨセフが辿った苦難と栄光もまた、主イエスの十字架の死と復活の象徴だったのである。

そういうわけで、一粒の麦が地に落ちて死なない限り、多くの実が結ばれることはない。キリスト者が学ばねばならないのは、自己の望みの最後の最後のなけなしのものに至るまでも、神と人とのために手放し、それによって、自分の思いをはるかに越えたところにある神の恵みに満ちた正しいわざを掴み、これを地上に引き下ろし、それによって生きることである。

筆者には、エジプト(この世)で果たさなければならない使命があり、非常に困難な召しが心にある。神を愛し、人を愛して生きるために、筆者は、この国の人々のために、役立つことをせねばならないと思っている。残りの人生は、もはや筆者自身の個人的な満足と栄光のために存在しているわけではない。

とはいえ、この国の人々のために・・・などと仰々しい言葉を使っても、それは決して、筆者が有名指導者になって、自分の名を冠した多くの組織や団体を作り、その先頭に立って人々を指揮し、皆から篤い信頼と尊敬を受けながら、輝かしい事業を率いて行くというものではない・・・。

そういう道を、筆者はこれからも選ばないだろう。筆者はこれから先も、ずっと神の御前の単独者として、何の栄光も受けない名もない人間として、ひっそりと人に知られない道を歩み続けながら、それでも、そこで自分の召された目的を従順に果たし続けるだろうと思う。

筆者の歩いている道は、誰からも理解もされず、評価も受けないように見えるかも知れないが、それでも、その時々で、神はその道が、確かに神の召しによって与えられたものであり、筆者を待ち受けている将来的な栄光が確かに存在することを、筆者のみならず、他の人々にも分かるように、不思議な形で示して下さり、その約束の確かさを、筆者に思い起こさせて下さるだろうと思う。

そうして自己を否み、日々の十字架を担って、主に従って、歩み続けることこそ、神が筆者に与えられた筆者の見えない「事業」であり、ミッションなのである。だが、その十字架は、私たちが負い切れないほどの苦難を負って、絶望や孤独や悲しみにひしがれながら歩むというものではない。

主は言われた、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28-30)

自分を捨てて、日々の十字架を負うとは、主の謙虚さにならって、負いやすい軛、軽い荷を担う道である。ちょうど主イエスがゴルゴタに向かわれたとき、主が十字架を負い切れなくなった瞬間、ほんのわずかな間だけ、人がそれを負うのを手助けしたことがあった。私たちが担う日々の十字架とは、そういうものであって、十字架の大部分は、すでに主が担って下さっている。

だから、主のへりくだりにあずかりさえすれば、私たちに与えられた軛は負いやすく、その荷は軽い。そして、主のへりくだりにあずかるとは、私たちがいついかなる瞬間も、自己の限界を迎えると思うときでさえ、主が豊かに与えられたように、惜しみなく与える人となることを意味する。それによって、私たち自身が、私たちの仕えている方の限りない豊かな性質を生きて体現することである。
 
こうして、 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:33-34)と書いてある通り、その道にさえ、忠実に歩んでいれば、筆者の個人的幸福や生活の必要性などは、すべてその後から「みな加えて与えられる」だろう。すべての必要が、自然と、不思議に満たされ、地上的な必要性のことで心をいっぱいに煩わせた挙句、明日のことまで思い煩う必要などどこにもなくなるのである。

すべてのものの供給者は神である。だから、私たちは、自分が不器用で、何も持たず、貧しいように思えるときにも、人に頼るどころか、むしろ、主にあって、豊かな者として、惜しみなく豊かに与えることが実際にできるのだ。

だから、筆者はエクレシアから一方的に命の供給を受けることなく、あくまで豊かに流し出す者としてそこに連なっているものと確信している。エクレシアとは、そもそも、命なるキリストが、神の多種多様な知恵が、天の無尽蔵の富が満ち溢れているところである。そのエクレシアに連なっている者が、日々、自分の必要性で窮々とし、絶えず人の助けを乞うしかないなどあるはずがなく、どんな状況にあっても、信仰によって豊かに命を流し出すときに、そこに主の栄光が現れるのであり、それこそが、私たちが絶え間のない命の交換に生きるための秘訣なのである。

キリスト者はこうして、まさに生涯の終わりの瞬間が来るまで、絶え間なく、与える人になることが実際にできる。そして、それだけが、私たちが、この地上的制約を解かれ、天の栄光と祝福の満ちたりた豊かさの中を、身を軽くして歩む秘訣なのである。しかし、この原則を知っている人は、とても少ないのではないかと思う。

何度も言うが、それは、与えるものが豊かに手元に備わっているから、与えるというもののではなく、むしろ、手元に何も残っていないように見えるとき、私たちの力が尽きて、できることがもう何もないように見えるときに、なけなしのものを、神の愛のゆえに、主のため、人々のために捧げることを意味する。

そうするときに、私たちがなげうったものは、何倍にも祝福されて、天から返される。

それは、最後のレプタ二枚を献金したあの女と同じであって、主イエスは、その女が命がけで神に自分を捧げたことを知っておられ、その女の信仰を誉められたが、その女は、その後、どうなったのだろう? 生活費全部を愚かにも賽銭箱に投げ入れたために、信仰と引き換えに、飢え死にしたのであろうか? そんな馬鹿なことは決してあるまい。

主イエスは別なたとえでこう語られた。

良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」(マタイ13:23)

最後のレプタ二枚を神に捧げた女は、きっととても不思議な方法で、天から百倍、六十倍、いや、どんなに少なくとも三十倍は、その報いを得て、必要を余りあるほど補われたであろうことを疑わない。

なぜなら、そういうことは、筆者の人生でも何度も起きて来たからである。

神が見ておられるのは、私たちが、神と人とに仕える動機であって、どこで、誰にどんな奉仕をするかというその内容や、規模ではない。たとえ自分の持てるすべての財産をなげうったとしても、その動機が、神への愛から出たものでなければ、報いはない。

しかし、神は、私たちが、主に従い、神の愛の中にとどまるがゆえに、自分の持てる最後のなけなしのものを捧げて神に仕え、人々にも与える立場に立とうとすることを、とても喜んで、評価して下さる。

そんなわけで、自己の力が尽き果てようとするとき、自分には何ももう誇るべきものがなく、誰にも分け与えるものも、評価や尊敬を受ける根拠もなく、与えて欲しいと願われるようなものさえ、手元にはもう何もないという境地になったときこそ、最も豊かに与えることができる瞬間なのである。

この原則を知っている人は実に少ない。(ただし、これは筆者が追い詰められているということの告白ではないから、そのように誤解することがないように言っておきたい。)

そういうわけで、自分の財布の中身が限られていると言って、そのことを嘆く人は、その後も、自分の財布を拡張することはできないだろう。財布とその中身を広げたいなら、そのためにも、まずはその限られた中身を、ことごとく神に捧げ、人に分かち与えることから始めるべきである。

この最後のレプタを投げ打つことができるかどうかで、その後の私たちの人生は決まる。もちろん、ここで言うレプタとは、様々なものの象徴であって、必ずしも、金銭のことばかりを指すのではない。それは、人の持っている自己の限界そのもののことを指す。

自分は苦しい、これ以上何もできない、捧げよと言われても、何も捧げるものはない、くれと言われても、与えるべき愛などない、これ以上、要求ばかりを押しつけられては困る・・・などと自己弁明したくなるその瞬間、自分には最も何もないと思われるときにこそ、信仰によって、豊かに与えられることを信じ、一歩を踏み出し、自己のレプタを手放し、主により頼むからこそ、それが考えられない規模で祝福されて、豊かに返されるのであり、手放さなければ、それはただのレプタ一枚のままである。

こういうことを言い始めると、早速、「カルトだ!」などと言い出す人があるかも知れないから、筆者は決してどこかの宗教団体に献金せよという話をしているのではないことを幾度も強調しておく。

筆者は誰にも以上のような生き方を強要するつもりもないし、レプタをあくまで手放したくないという人は、手放さないでいれば良いものと思う。

だが、何度も言うように、一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままなのである。天の祝福にあずかるためには、どうしても、それをなげうつ過程が必要となる。だから、筆者はこの新年に、すでに捨てて来たものに加え、さらに昨年手に入れたなけなしのものも、真心から主にお返しし、捧げようと決めた。手放すと言っても、それは心の中で、決してそれらのものにとらわれず、執着しないという意味であり、また、自己の満足のためにそれらのものを使用しないという意味である。そうすることと引き換えに、さらにまさった天の豊かな恵みを得ることができると信じている。

栄光は、ただそのようにしてのみ、やって来る。すなわち、信仰によって、絶え間なく、自己を手放すことにより。十字架の死を経由することにより。復活の力が何であるかを知りたいと思えば、まずは死を経由する以外に道はない。そして、死を経由するとは、主と共に十字架において自己の死を味わうということなのである。それが必ずしも快い体験のはずがないことは、誰しも想像できることである。

だが、主はその軛は負いやすく、荷は軽いと言って下さる。
 
わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。

人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。


神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」(マルコ8:34-38)

だから、筆者は、主イエスに従って生きたいと願う。地上のどんな尊敬できる人々の存在にもまさって、主イエスにのみ従いたいと願う。いつの瞬間も、以上の御言葉を実践して、自己の限界にとらわれず、主の命の豊かさを流し出して、福音を恥じることなく、生きられるようになりたいと願っている。

受けた恵みを、自分のもとにとどめることなく、自分で限界をもうけず、それを流し続けることをやめたくはない。そうこうしているうちに、そこにある命の流れが、必ず多くの人々を潤すようになり、パイプラインが、もっともっと巨大なものとなって、聖徒らの全ての必要を満たし、エクレシアを潤すようになり、私たちには主が確かに着いておられること、私たちの主が無尽蔵に富んでおられる方であること、それゆえ、その庇護を受けている私たちは、どんなことにおいても、不足がなく、心配する必要もないことを、やがてもっと多くの人たちに公然と証し、それによって主の栄光が誉め讃えられる日も来よう。そうなるまで、筆者のパイプライン建設はずっと続くのである。
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主に従う人は主を避けどころとし、喜び祝い、心のまっすぐな人は皆、主によって誇ります。

大晦日である。晴れた空に,夕日がいつになく美しく輝いていた。

その日は、筆者の関わるキリスト者の交わりが、文字でなく、音声でもなく、顔と顔を合わせた生きた交わりとなり、筆者の中で、エクレシアが完全に復興を遂げた日であった。

特段、何かがあったわけでないのに、信仰による交わりがあったというだけで、ここ数ヶ月の間、一度も味わったことがないほどの平安が心に訪れた。果たすべき課題はまだたくさん残っているが、それらをすべて脇に置いて、休むことができた。

これまでにも、様々な交わりに出席してきたが、その頃と今とでは、何かが違う。

こんなことを言われた。

「あなたにはねー、こんなこと言っていいかどうか迷ったんだけど、今朝、ヴィオロンさんと『不器用』という言葉が一つにつながったんだよ」

筆者はそれを聞いて「それはひどいですねー」とうわべは抵抗を見せつつも、頷いて笑う。

筆者は確かに不器用な人間であり、人のために何かしてあげようと思っても、そのタイミングを逸することが多い。筆者が動こうとする前に、気の利いた誰かが、もうすでに人々の世話に着手しているからだ。

ところが、キリスト者の交わりとなると、そんな不器用な筆者からも、世話を受ける人が出て来る。互いに仕え合い、満たし合う関係が不思議に成立する。

その日の話題は、主にあって、いかに自分の生来の力に対して弱められ、それに死に、主の力によって強められて生きるか、というところを巡っていた。筆者が不器用であっても、私たちは存在そのものが神の教会であり、己の力で何かを努力して果たすことによってではなく、ただ存在しているだけでも、世に影響を与え、信仰によって、キリストを人々にもたらす役目を果たせる。それができると信じて良い。

「もっと教会(エクレシア)に頼ったらいいんですよ」

とも言われた。以前には、なかなか人に頼るということができず、頼ることを恐れていた筆者であったが、ここ数年で、考えを変えさせられた。

近頃、筆者の周りには、どこからともなく、善良な人たちが集まって来るようになり、困難な日に、どれほど貴重な助言を受け、励ましを受け、支えられたか分からない。そうして助けを受けたからといって、決して、依存関係や、主従関係が生まれるわけでなく、それぞれが自分の信念を持ち、自立していながら、互いに支え合い、仕え合い、助け合う関係が成立するのである。

そのようなわけで、今年は、人から助けを受けることへの抵抗感がなくなり、特に、神の家族からの助けは、大いに受けて良いものであると分かった。肉の家族ではなく、天の家族が、はっきりと姿を現し、信仰の有無に関わらず、肉の家族以上に筆者を支えてくれるようになったのである。

筆者は、初めは恐る恐る、その人たちとの関わりに足を踏み入れ、恐る恐る、助けを受けた。かつて、あまりにも多くの交わりが、サタンの試みによって引き裂かれ、疑心暗鬼によってバラバラに分解されたので、またも同じことが起きないか、非常に心配であったが、何度、試しても、その交わりは分解することなく、筆者を取りこぼすこともなく、より安定して、強固なものになり、発展した。

以前にも、筆者はキリスト者の交わりを求めて、はるばる長い距離を移動した。その頃も、純粋にエクレシアを求めていたつもりであったが、その時と今とでは、何かが違う。エクレシアを求める熱心さにさえ、死んだのかも知れない。今、与えられているものは、恵みであって、筆者が探し求めた努力の結果とは言えない。

すべての希望が潰え、もう何も戻っては来ないだろうと思った頃に、望みをはるかに超えた恵みが、向こうから自然と姿を現したのである。

それは、天によって支えられている不思議な関係である。鳥が空中に巣をかけるように、地に属さず、地上のすべての関係を超越したところに、不思議な形で、交わりが保たれている。その交わりを何と名づけるべきか、分からない。だが、そこに筆者の居場所があり、平安がある。

その居場所は、信仰のない様々な人たちの間でも、不思議に成立している。たとえば、最近は、警察官から、「クリスマスケーキは食べたの?」と聞かれたり、この世の人から、「無事に年を越せるの?」などと言われ、御馳走を振る舞われたりもした。そんなに心配されるほど、筆者の境遇は危なっかしくはないのだと、とうわべは弁明するのだが、それでも、虚勢を張らず、ありがたく人の親切を受けるようにもなった。
 
これまでは、筆者を苦しめるためだけに、ひたすら筆者の嫌がることばかりをやり続ける人たちがいたが、今年は、そういう人たちと入れ違いのように、筆者が頼んでもいないのに、筆者が何を願っているのか、言葉も発していないうちから、筆者の願うことだけを、ひたすらやり続けてくれる人が現れるようになった。

しかも、それはただ単純に、望みをかなえてくれるという低い次元の関わりではなく、時宜にかなった助言があり、将来に渡ってまで、役立つ助けが与えられ、困難の中でも、率直に心の内を語り合い、互いに支え合い、励まし合う関係が成立している。そんな関わりが成立しうるとは、想像したことさえなかったが、筆者の未熟さによって揺るがされることのない、真実で誠実な信頼関係が成り立つことを知ったのである。

そういうわけで、「人が一人でいるのはよくない。彼のために助け手を作ろう」とおっしゃられた神の御言葉が、筆者の人生にも成就し、筆者自身も、人の助け手となったり、人々も、筆者の助け手となってくれたりして、これまでのように一人で時間を過ごすことがだんだん難しくなってきた。

かつてのように、開かずの間に向かって、扉を叩き続けるような、むなしい関わりが減って行き、そういうものが残っていても、ある時、バッサリと枝葉が切り捨てられるようにしてなくなる。そして、いつの間にか、筆者自身からも、命の水が細い川のように流れ出し、その流れを人々と分かち合うことができるようになった。

どういうわけか知らないが、長年、筆者を縛っていた敵の呪いが解け、筆者自身の中に残っている古き人の残滓が、どんどん筆者から切り離されて行くのである。恐れ、疑い、不信、肉なる情・・・、そういった古き人の思いが、御言葉による「手術」により、筆者から切断されて、取り払われて行く。これは人知を超えた不思議な逆説的なみわざである。

「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろともに十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。」(ガラテヤ5:24-26)

筆者を憎む者が、筆者を踏みつけ、勝利の快哉を叫んでいる最中に、筆者は、キリスト者の交わりの中に入れられ、愛によって取り囲まれ、信仰者からも、信仰を持たない者からも、心を尽くした助けと慰めと励ましを受け、魂を生き返らされている。

追い詰められ、殺されかかっているように見える時に、かいがいしく世話を受け、「生きよ」と命じられ、「私はあなたの敵を滅ぼす」、「すべての重荷を私に委ねなさい。」、「私はあなたを見捨てない」、「私を信頼してすべてを任せなさい」と、主から励ましを受ける。

一体、この恵みは何なのだろうか。多くの苦難と、それを圧倒的に上回る慰めに満ちた励ましとのコントラストである。

主は、信じる者をお見捨てにならず、恥の中に捨て置かれることもない。同時に、神の家族も同じように、愛する人々を苦難の中に置いて去って行くようなことをしない。

まるで多くの人たちからこう言われているようである、「疑わなくていいんですよ、ヴィオロンさん、私たちは目に見えない家族として結ばれているのですから、引き離されることはありません、互いに助け合うのは当然です」

神は報復なさる方であり、無垢な者を破滅させようと企む者には、したたかに報いられる。だが、主の勝利は、私たちが肉の腕で勝ち取るものではなく、信仰を通して、神がなさるみわざである。そうであるがゆえに、それがどのように現れるのか、私たちは事前に知らないし、己の力を誇ることで、敵に対する勝利を勝ち取るわけでもない。

キリスト者の原則はいつも、「私は衰え、彼(キリスト)は栄える」、というものだ。だから、来るべき年は、ますます肉の力によらず、信仰による神の御業を待ち望み、主の御言葉の正しさを地上で証明することに専念し、自分自身を誇るのではなく、ただお一人の神を誇りたいと願う。
 
二つの詩編を引用しておこう。

詩編第1編

いかに幸いなことか
神に逆らう者の計らいに従って歩まず
罪ある者の道にとどまらず
傲慢な者と共に座らず

主の教えを愛し
その教えを昼も夜も口ずさむ人。
その人は流れのほとりに植えられた木。

ときが巡り来れば実を結び
葉もしおれることがない。
その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。

神に逆らう者はそうではない。
彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。
神に逆らう者は裁きに堪えず
罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。

神に従う人の道を主は知っていてくださる。
神に逆らう者の道は滅びに至る。

詩編第64編

神よ、悩み訴えるわたしの声をお聞きください。
敵の脅威からわたしの命をお守りください。
わたしを隠してください
さいなむ者の集いから、悪を行う者の騒ぎから。

彼らは舌を鋭い剣とし
毒を含む言葉を矢としてつがえ
隠れた所から無垢な人を射ようと構え
突然射かけて、恐れもしません。

彼らは悪事にたけ、共謀して罠を仕掛け
「見抜かれることはない」と言います。
巧妙に悪を謀り
「我らの謀は巧妙で完全だ。
 人は胸に深慮を隠す」と言います。

神は彼らに矢を射かけ
突然、彼らは討たれるでしょう。
自分の舌がつまずきのもとになり
見る人は皆、頭を振って侮るでしょう。

人は皆、恐れて神の働きを認め
御業に目覚めるでしょう。
主に従う人は主を避けどころとし、喜び祝い
心のまっすぐな人は皆、主によって誇ります。

神に従う人の道は輝き出る光 進むほどに光は増し、真昼の輝きとなる。

「わたしの兄弟たち、何よりもまず、誓いを立ててはなりません。天や地を指して、あるいは、そのほかどんな誓い方によってであろうと。裁きを受けないようにするために、あなたがたは「然り」は「然り」とし、「否」は「否」としなさい。」(ヤコブの手紙5:12)

あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」(マタイによる福音書第5章36)

* * *

前回、神は人の心の極みまで明らかにされる方であり、隠れた事柄が明らかにされるのは、聖書の御言葉にかなっている、ということを書いた。

そして、神が立ち上がって報復して下さるためには、ある人がただ私たちクリスチャンを傷つけたというだけでは不十分であって、その人が、神を冒涜する言葉を述べている必要があるということをも書いた。

神聖なものが冒涜・蹂躙されて、初めてその事件は、単なる人間同士の小競り合いという域を超えて、神が対処されるにふさわしいものとなるのである。

そういう意味で、今、考えれば考えるほど、人の内心が露わにされており、神を信じない人は、自分は勝利を遂げたと快哉を叫ぶ瞬間にさえ、オウンゴールを遂げて自滅することを免れられない。

昔々、教会が主催する日曜学校で、こんな出来事が起きた。日曜学校では、お祈りしているときには、みんな目をつぶっていなさい、と先生が生徒たちに教えていた。

ところが、ある生徒が、お祈りしている途中に、他の生徒がちゃんと目をつぶっていないのではないかと疑い始め、お祈りが終わったあとに、先生に向かって、得意満面でこんな報告をした。

「先生、A子ちゃんがお祈りの途中に目をつぶっていませんでしたよ!」

先生は至極落ち着いてその子に問うた。

「どうやってあなたにそれが分かったの?」

もちろん、面目を失ったのは、A子ちゃんではなく、お祈りの最中に、他の生徒たちの行状を先生に告げ口しようと、あら探しを重ねていた生徒であったことは言うまでもない。

クリスチャンの罪を告発しようなどと考える不届き者が出現すると、こういうことが起きる。

ある人が得意満面で、クリスチャンの「失敗」や「不正」を神に報告しようとする。あそこの教会ではこういう不祥事が起き、あの信者は、別な兄弟姉妹と争い、また別な信者は、家庭内のいざこざを治められず、また別な信者は、信仰の道を踏み外し・・・etc. etc.

ところが、神は問われる、「なぜあなたがそういう出来事を知っているのですか。どうやってそれを調べたのですか。あなたは祈りの家と唱えられるはずの私の父の家で、父へ捧げられた礼拝の時間と場所を使って、かえってあなたの兄弟姉妹を不利に陥れるために、彼らが知られたくないと思う情報をこっそり集めていたのですか。そんなことがあなたにとっての『礼拝』や『祈り』なんですか」

告げ口屋は、それで万事休すだ。そのことは、子供向けの日曜学校だけでなく、それ以外の教会生活にも、現実の生活においても、同じように当てはまる。

まことの父に捧げられるはずの厳粛な祈りと礼拝の時間を使って、まるで興信所のように、兄弟姉妹の身辺調査を行い、彼らを不利に陥れるための証拠を嗅ぎまわる者がいる。

しかし、そうして他人の生活を盗み見て得た情報を、聖なる貴重な手柄であるかのごとく、礼拝に携えてやって来ることはできないし、そういう者には、神ご自身が「穢れた者よ、ここから出て行きなさい!」と厳しく命じられ、神の家から放逐されることになるのは、避けられないだろう。

たとえいと小さき幼子のような兄弟姉妹であっても、その者のためにも、以下の御言葉はある。だから、祈りや礼拝の最中に、兄弟姉妹を訴える材料を探す者は、最終的には、神ご自身を敵として歩むことになる。
 
もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。

だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。・・・」

これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:31-39) 
 
さて、これまで当ブログでは、東洋思想(グノーシス主義を含む)の目的は、「対極にあるものの統合」であると述べて来た。言い換えれば、それは「然り」と「否」との統合である。

さらに別な言葉で言えば、グノーシス主義とは、ただお一人の神だけに忠実に生きていない人が、自分の不実な生き方を隠そうとして作り出す、終わりなき自己弁明のための詭弁だと言って差し支えない。

だから、そういう者の発言の中には、必ず、「然り」と「否」が混同している。

たとえば、自分を罪から贖い、義として下さった神に献身して、生涯を伝道に捧げるために牧師として生きる、と言いながら、その実、全く別なこと(教会や兄弟姉妹を告発すること)をライフワークとして生きている。
 
キリストの贖いによって罪赦されて、自分はクリスチャンになったと言いながら、兄弟姉妹の罪を決して赦そうとせず、彼らを非難・罵倒し、罪に罪を重ねて生きている。

「金持ちが天国に入るのはらくだが針の穴を通るよりも難しい」という聖書の御言葉を知っていながら、「金持ちも天国に入れる!」と自分勝手な例外をもうけて、富裕者を対象としたセミナー、集会などを開いては、積極的に献金を集め続けている。

「義人は信仰によって生きる」という御言葉があることを知っていながら、「自殺は罪ではない」と触れ回り、心弱くなって自殺した人の肩を持ち、御言葉に人を救う力があることを否定する、等々。

こんな風に、御言葉に従うように見せかけて、それを曲げたり、逆らいながら、二重性を帯びた生き方を続けて行けば、「然り」と「否」との統合(対極にあるものの統合)が起きることになる。もちろん、それは統合できるはずのないものを統合しようとする錬金術のような生き方であるから、嘘であって、詭弁であり、やがてその破綻が誰の目にも明らかになる。

最近、筆者が手を加えなくとも、そういう人にはおのずから破綻が起きるのだということが分かるようになった。そして、そういう光景を見るにつけても、やはり神は、聖徒らに罪を着せようとする人間を、そのまま放っておかれることは決してなく、キリストの十字架の血潮の絶大な価値のゆえに、私たちの身の潔白を、ことごとく証明して下さるのだと感心しないわけにいかない。

以上に挙げた御言葉には、「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」と書いてある。

このことは、主イエスによって示された神の愛は、時空間を超越して私たちと一つに結びついていることを示している。この世の事物や、人の思惑が、どんなにその邪魔をしようと入り込んで来ても、それが私たちを神の愛から引き離すことは決してない。

その約束は極めて絶大である。人の人生には、その人自身の目にさえも、失敗と映る出来事が存在しないわけではないし、人の目から見て、何が正しく、何が間違っているかは、時に分からないこともある。だが、そういうときでさえ、キリスト者の人生にあっては、神がすべての出来事を益として下さり、神の栄光のために用いられる。

それゆえ、私たちの人生には、失敗とか、損失というものは存在しないし、思い煩わねばならない理由もない。

神に従う人の道は輝き出る光
 進むほどに光は増し、真昼の輝きとなる。
 
 神に逆らう者の道は闇に閉ざされ
 何につまずいても、知ることはない。」(箴言4:18-19)

ハマンはエステルの祝宴に招かれ、自分の地位は安泰だと過信し、モルデカイとユダヤ人たちを殺す機会は目前に迫ったと考えて喜び浮かれていたが、王はハマンがモルデカイを吊るすために自分の邸宅の庭に造った絞首台に、ハマン自身を吊るすよう命じた。ハマンの邸宅は、エステルに与えられた。

霊的な文脈においては、すべてのことについて、決着が完全についている。そして、筆者は、時を追うごとに、目に見える出来事を通しても、その霊的な勝利が少しずつ表されていること、カルバリの勝利は、信じる者に揺るぎのない約束として与えられており、私たちにはいつでもそこへ帰って行く権利が与えられていることが、分かるようになった。

「然り」と「否」を統合しようとする者は、最終的に、神ご自身によって討たれ、退けられる。すでに誰も強制していないのに、その者は、自らの内心を赤裸々に吐露して、自分を義としてくれた人の言葉を裏切って、自滅へと向かったことを見ても、なおさらそう思わないわけにいかない。

実に不思議なことであるが、その人が勝利のおたけびだと思って叫んでいる言葉が、そのまま、敗北の宣言に変わっているのだ。
 
そして、気づくと、十年来、筆者が解こうとして苦労して来た呪いは、いつの間にか解除されていた。

いつしか筆者の周りには、多くの人たちがやって来るようになり、一人でいるための時間も残らないほどになった。なぜそうなったかと言えば、筆者の手がけているプロジェクトが、完成に近づいているためである。

そのプロジェクトは、生ける命の水の川々をこの地から、筆者自身から、はるか遠くに及ぶまで、果てしない広域に向けて流し出すというものである。干上がったこの霊的飢饉の最中に、沙漠の中にオアシスを作るように、神の愛が川のように溢れ流れ出すよう、巨大なパイプラインを建設中なのである。

それは誰も注目しないみすぼらしい「干潟」から始まる。人知れない事業であった。だが、筆者が開拓した「干潟」からは、確かに命の水が流れ出し、周囲を潤すようになり、その水を求めて来た人たちや、筆者との交わりのために来た人たちが、泉の水を汲み出して飲み、そこに手足を浸して、体を休めている。パイプラインが建設された後には、人々が安らぐための広場が出来、緑の公園や、ベンチや、噴水が出来、子供たちが駆けまわる。

だが、まだ足りないものがある。それは、住まいである。多くの人たちを受け入れ、かくまうための住まい、彼らが荷を下ろし、時を忘れて静かに語らい、ゆっくりと休むことのできる住まいがまだない。
 
その住まいとは、神のために用意された神殿である私たち自身のことでもある。主イエスは、地上を去られる前に、私たちのために天に住まいを用意するために行かれると言われた。その住まいはたくさんあるとも。だが、同時に、私たち自身が、この地上において、まことの主人の到来にふさわしい住まいとして建て上げられ、整えられ、主の栄光を表すことが必要なのである。

それはまるで天と地とが呼応するようである。その住まいが完成されたとき、神ご自身もそこに喜んでやって来て、私たちと共に住んで下さり、それはついには朽ちることのない永遠の巨大な都を構成するようになるだろう。

そういうわけで、今は終わりの時に向かって、人々の内心がことごとく明らかにされ、それぞれが目的とするところが何であるかが試され、各自のビジョンが完成に近づいている時である。正しい者はますます正しく、悪い者はますます悪くなる。聖なる者はますます聖とされ、汚れた者は、なお汚れるままになると聖書に書いてある。

不正を行う者には、なお不正を行わせ、汚れた者は、なお汚れるままにしておけ。正しい者には、なお正しいことを行なわせ、聖なる者は、なお聖なる者とならせよ。

 見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。
わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。
 命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。犬のような者、魔術を使う者、みだらなことをする者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は都の外にいる。」(黙示22:11-15)

渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むが良い。この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。これに付け加える者がれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。また、この預言の書の言葉から何かを取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。」(黙示22;17-19)
 
だから、私たちは、より一層、霊や肉の穢れから身を清め、聖なる神の住まいとなるにふさわしく整えられたい。

荒野で、蛇にかまれても、さおにかけて上げられた青銅の蛇を見た者が生きたように、カルバリにおいて永遠に打ち立てられた御子の十字架を仰ぐことによって、私たちは生きる。

私たちの内に義があるのではなく、キリストが、私たちの義であり、贖いであり、聖なのである。彼こそが、私たちのために模範として与えられた、神の御心を完全に満足させる新しい人である。
 
神はそれぞれの心の内にある動機を知っておられ、これらをすべて万人の前に明らかにすることができる。神の御前には何一つ隠し立てできるものはなく、人の思いの不完全さも、神にはすべて知られており、明らかにされる時が来る。

筆者はまずはその光による照らしを待ちたい。その後、悪者たちには終わりが来る。その行程がどんなものになるか、筆者はここに明かすことはないが、主を信じる者が、失望に終わる事はないと聖書に書いてある通り、神はご自分を信じる者をみもとにかくまい、すべての悪巧みから救い出し、高いところに置かれる一方で、主に逆らう悪者にはしたたかに報いられる。

悪者は、自分を襲う恐怖を知らず、それに対策を打つこともできず、そこから自分を救うこともできない。主に叫んでも、その叫びはかえりみられることなく、その祈りは罪とされる。主に従う者の道は栄え、悪者は断たれる。それは聖書が一貫して告げている変わらない法則性である。


どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。

筆者は、筆者にとっての「干潟」と一つの約束を結んだ。その約束の内容は、ここには書かないが、今はその約束を守るために、とても重要な時期であるから、あえて主の平安と安息の中にとどまっていたい。
 
ウォッチマン・ニーが書いていた、私たちは、装甲の中にいてこそ、敵のあらゆる攻撃から身を守ることができると。

装甲とは、キリストの十字架である。もしも十字架から外に出れば、私たちには、防御の術がない。そして、十字架の装甲とは、神の愛の中にとどまることであり、同時に、キリスト者の交わりの中にとどまることである。

これまでひたすら筆者が学ばされてきたのは、この装甲から外に出ない方法であった。

読者はよく見ておかれたい。敵はしばしば激しい挑発を持って、私たちを装甲の外へ連れ出そうとして来る。だが、私たちには、どんなことがあっても、平安を持って、装甲の中にとどまることが必要であり、また、可能なのである。

逆に言えば、非常に困難な事件が起きるときには、それと同時に天に用意されている祝福も大きいのだと言えよう。筆者はこれまでの経験上、知っているのだが、とても重要な、栄光に満ちた出来事が起きる前に、サタンは人間を攻撃し、落胆させようとして来る。

そこで、私たちは困難が起きるとき、今一度、主がこの先、どんな栄光を私たちのために用意されているのか、考えを巡らしてみることは有益である。

今、人間の本心が赤裸々に吐露されているが、それを通して、多くの人たちが、その人の隠されていた内心と、その人の生きる目的を知ることになったろうと筆者は思う。

今は激しい戦いの行われている最中であって、時期尚早な言葉を述べるべき時ではない。だが、人の内心が明らかにされ、覆われていたものが明らかにされ、各自がどのような目的のもとに歩みを進めているのか、万人が知りうる状態になるのは、聖書の御言葉にかなった事実であり、私たちのこれからの歩みにとって、必要不可欠なプロセスであると、筆者は思う。

だが、それだけでは、まだ足りないものがある。それは今、試されているのは、私たちが神の御言葉に従っているのか、それとも、自分の思いに従って歩んでいるのか、という問題だからであり、これがはっきりするためには、各自の他者への思いだけでなく、神に対する思い、すなわち、聖書の御言葉に対する態度が明らかにされなければならない。

一言で言えば、神の御言葉を真実なものとして、これに従うのか、それとも、神の御言葉そのものがファンタジーであるとして退け、これに従わないのか、ということが試されているのである。

聖書には、神は報復なさる方だと書いてある。しかし、その瞬間が来るためにも、ただ人が人を非難したり、憎んだり、罵倒したり、傷つけたというだけでは十分でなく、その人の神に対する態度、御言葉に対する態度が明らかにされていなければならない。

何度も書いて来たように、人がキリスト者を憎むということは、その人が、神ご自身を憎むことと同じであり、人がエクレシアを破壊しようと試みることは、その人が、自分で神の宮として造られた自分自身を破壊しようとすることと同義なのである。

だから、キリスト者(兄弟姉妹)を憎み、これを害そうとする人は、自分で自分を傷つけることになり、相応の報いが降りかかることになる。

とはいえ、私たちキリスト者がただ傷つけられたというだけで、神が私たちを守るために立ち上がって下さるわけではない。私たちを防御するために、神が立ち上がって下さるためには、条件がある。

それは、兄弟姉妹を攻撃する人が、ただ兄弟姉妹を憎んでいるというだけでなく、神ご自身を憎み、聖書の御言葉に逆らっていることが、はっきりと言い表される瞬間が来ることである。

その瞬間が来ると、神ご自身が動かれる。

このようにして、ある人が、兄弟姉妹を愛するか、憎むか、という問題は、その人が、神御自身を愛するか、憎むかという問題に直結しているのだが、それでも、神が動いて下さるためには、はっきりと神ご自身に対する冒瀆の言葉が述べられていることが必要であると、筆者は考えている。その段階まで来ると、人が人を対処するのではなく、神が人を対処される。

このところ、筆者の周りで、キリスト者の交わりが復興している。神はそこで時宜にかなって、多くの祈りと、助けを与えて下さり、エクレシア(神の教会)が建て上げられるために、必要なことをなして下さっている。

このような時に、このような交わりが復興していることも、決して偶然ではなかろう。私たちは、兄弟姉妹を憎んでいる者ではなく、兄弟たちを愛する者である。神がご自分の命を私たちのために捨てて下さったように、互いに支え合い、助け合う。

世人でさえ、私たちに対して驚くべき愛を示してくれている。だとすれば、まして神の家族である者たちが、互いに愛を示さないはずがあろうか。

以下の御言葉には、兄弟を憎む者は、人殺しである、とはっきり書いてある。キリスト者を憎み、攻撃する者の最終目的がどこにあるのかが、ここにはっきりと示されている。単なる非難や、攻撃ではなく、殺意であると書かれている。筆者が殉教を語る理由がここにある。

「なぜなら、互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教えだからです。カインのようになってはなりません。彼は悪い者に属して、兄弟を殺しました。なぜ殺したのか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。

だから兄弟たち、世があなたがたを憎んでも、驚くことはありません。わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死にとどまったままです。兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません。イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。

世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同上しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。」(一ヨハネ3:11-18)

しかし、サタンの言い知れない憎しみに遭遇するときでも、私たちキリスト者は、平安の内にとどまることができる。そして、そのことによって初めて、敵の多くの攻撃が無に帰されて行くのである。

ステパノは石打ちにされる瞬間にも、人々の罪のためにとりなし、祈った。もちろん、ステパノには罪がなかったが、彼は自分を殺そうとする人々の罪のために、神にとりなしたのである。そんなことができたのも、ステパノが、石打ちにされるまさにその瞬間、天におられる主を見て、その栄光に満ちた姿を知っていたためである。

キリスト者があらゆる瞬間に、平安にとどまるための秘訣、もしくは、平安にとどまることができる秘訣は、その人が神を知っているかどうか、という一事に尽きる。
 
エクレシアとは、神の軍隊のようなものである。戦いに勝つためには、軍隊がきちんと建て上げられ、増強されていなければならない。そして、そのためには、最高司令官が、軍隊の成員に対して、自分を明らかにし、軍隊の成員が最高司令官を知るようになることが必要だと、最近のオリーブ園のオースチンスパークスの記事に書いてある。

最新の記事の一つから、少し引用してみよう。

「私たちの戦い」 第一章 最高司令官(5)

これは私たちを新約聖書に連れ戻します。エペソ人への手紙――あの偉大な戦いの手紙(なぜならそれはそのようなものだからです)――で、パウロは「知る」という言葉を大いに凄まじく強調しています。その冒頭で彼は祈ります、「それはあなたたちが彼の召しの望みの何たるかを知るためです」「それはあなたたちが聖徒たちの間にある彼の嗣業の(中略)富を(中略)知るためです」。「それはあなたたちが(中略)彼の力の卓越した偉大さを知るためです」(一・一八~一九)。「それはあなたたちが知るためです……」

「知る」というこの言葉が、私たちの戦いというこの問題全体を支配する言葉です。熟練した兵士だったので、パウロは主を知ることを大いに強調しました。「それは私が彼を知るためです……」と彼はある箇所で書いています(ピリピ三・一〇)。人々が重要だと見なしている他の何ものにもましてこれは遥かに重要である、と彼は述べました。彼はこの知識を彼が以前持っていたあらゆるもの――莫大なこの世の嗣業の富――と対比しています。「しかし」と彼は言いました、「私はそれをみな無――塵芥――と見なします。それは私が彼を知るためです」。これによりパウロはあのような戦士になったのであり、彼を通して教会の士気が大いに上がったのです。


 「最高司令官は、もし彼が賢明なら、自分の軍隊が自分を知るように配慮するだろう」。もしこの地上の死すべき人に関して賢明だと言えたとするなら、私たちの最高司令官はさらに賢明です。主は最高の知恵をもって――私たちはこれを謹んで申し上げます――彼を知る私たちの知識が絶えず増し加わるよう確証して下さいます。



これは非常に勇気を与えられる記事ではないだろうか。

なぜなら、神は、私たちから離れた遠くにいまし、沈黙のうちに、ご自身を現して下さらないような方ではないからである。神は、私たちに主を知る知識を与え、それによって、私たちを主に似た者に造り変え、私たちを創造された当初の目的へ――神がかくあれかしと望まれた人の姿へとー―建て上げて下さり、主と共に万物を統べ治めるというその使命を果たせるようにして下さる。

それは決して、達成できないようなはるか遠くにある目的ではなく、最高司令官は、私たちのそばに、手の届くほどそばに、いつも共にいて下さり、ご自身を現して下さる。

私たちが、あらゆる瞬間に平安にとどまることができるかどうかは、すべて主を知る私たちの知識にかかっている。パウロの祈りに心を合わせよう、どうか、主が、私たちに神を深く知ることができるようにし、私たちの召しにどれほど大きな希望がかかっているか、また、私たちに将来的に約束されたものに、どれほど大きな栄光が込められているか、心の目を開いて、見ることができるように。

また、地上において、いかなる艱難があっても、キリストがすべてのものを足の下に統べ治められ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に立っておられる以上、神は私たち信じる者に絶えず絶大な働きをなして下さることを信じよう。

軍隊の成員である我々は、最高司令官が、私たちのところにやって来て、私たちの労をねぎらい、ご自身を現して下さる瞬間を待ち望んでおり、それをこの上ない栄誉と考えている。その瞬間は、最初は、とても稀有なもののように思われるかも知れないが、次第に、より頻繁に、より長くなり、いつしか最高司令官は、いつも私たちと共にいてくれ、常にかけがえのない仲間として、喜びと悲しみのすべてを分かち合い、いつも絶えず共にいて、助けてくれることが分かるようになる。

一点、キリスト。いかなる瞬間にも、見るべきは、この方であり、その方の栄光に満ちた姿であることを知るようになると、私たちの平安は、揺るがされることがなくなる。

どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。

神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。

神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」(エフェソ1:17-23)


彼に信頼する者は、決して失望させられることはない。

「だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。

あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。

そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。聖書にこう書いてあるとおりです。

見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、
 シオンに置く。
 これを信じる者は、決して失望することはない。

従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、

「家を建てる者の捨てた石、
 これが隅の親石となった」
 のであり、また、
「つまずきの石、
 妨げの岩」
 なのです。彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。

 しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。

 あなたがたは、

「かつては神の民ではなかったが、
 今は神の民であり、
 憐れみを受けなかったが、
 今は憐れみを受けている」
のです。」(Ⅰペテロ 第2章)

* * *

当ブログは、聖書の神が、正しい、唯一の神であって、キリストの十字架の贖いが、人類にとってただ一つの救いであることを証しするために執筆されている。

従って、当ブログの最終目的は、神に栄光を帰することであって、それ以外の目的にはない。

このブログは、筆者が信仰の証のために書き続けているものであって、筆者の自己満足や、筆者が栄光を受けることを目的としていない。

とはいえ、このブログには、筆者自身の人間らしい歩みも率直に記されているので、一見すると、無価値にも見える多くの記事があるかも知れない。しかし、それも含めて、このブログは、干潟に溜まっている泥水のように、外見的には、みすぼらしく、魅力も、見栄えもしないが、そこには、神の愛に満ちた眼差しが確かに注がれているのであって、人知れず光合成が起き、泥水にしか見えない水が、神の目に尊く、すべての人々に役立つ、永遠に価値ある生ける水に変えられている最中なのである。

筆者がこの地に置かれてから後、筆者に与えられたミッション――すなわち、干潟を開拓して、そこから命の水が湧き出るためのパイプラインを建設し、これを稼働させること――が開始するまでに、相当な年月がかかった。

それは、この地にパイプラインを建設できるような土壌がなかったためで、地盤作りに年月がかかったからである。さらに、地中を深く掘り下げ、地下深いところから水を汲み上げるためには、多くの苦難が必要となった。

神の御業が現れるためには、信じる者の側にも、深い飢え渇き、願い求めが必要で、旱魃のようにも見えるむなしい実り少ない月日の間に、深く深く井戸を掘ることが必要となった。

だが、ある時が来ると、掘削作業は終わり、確かに水脈に達し、地下水を汲み上げる作業が始まった。そして、ついに筆者は、命の水が確かに流れ出す瞬間を見たのである。

二、三年ほど前までは、多くの交わりが試練に耐え得ず、分解させられるところを幾度も目撃して来た。

だが、そのことを通して筆者が学んだのは、人間関係とは、キリスト者の交わりも、そうでない交わりも含め、全て試され、揺さぶられることなしに、本物にはならないということである。不信や、対立や、分裂をもたらそうとする悪しき力や、様々な策略が働くときに、これに勇敢に立ち向かって、人々との信頼の絆を保ち、目的に向かって共に一致協力して前進できる関係を手放さない方法を学ばなければ、私たちは、順調な時しか人々と協力できず、逆境になると、すぐに人間関係が壊れ、これを手放すこととなり、そんなことでは、周囲の人々が、一体、何のために私たちの周りに置かれたのか、彼らが私たちにとって、どんなに重要かつかけがえのない役目を果たしてくれるかを、決して生きて知ることはできないままに終わる。

そうして不信や対立を乗り越えて、信頼を維持・強化する方法を学ぶためだけにも、相当の歳月が必要であった。
 
これと同様のことが、当ブログにも当てはまる。信仰の証としての当ブログは、これを中断させ、放棄させようとする様々な試みによって、絶え間なく揺さぶられ、試練を味わわされて来た。

しかし、それもまた、筆者が信仰の証を確固として保ち続けるために、これをやめさせようとするすべての策略に勇敢に立ち向かって、神への賛美と証を続けることの重要性を学ぶ過程であったと言える。

困難や試練に見舞われても、神に栄光を帰する作業を決してやめないでいること、兄弟姉妹や、愛すべき人々を、嵐のような試練の中で守り抜き、彼らとの絆を決して絶やさないように守ることの重要性を学ぶまで、確かに歳月はかかった。しかし、ついに、揺さぶられても、決して壊れることのない交わりが生まれ、相互の固い信頼の絆が生まれたのである。

そうして、地下深く掘り下げられた井戸から、汲み上げられた命の水が、地上から流れ出し始めた・・・。

今でも、当ブログを地上から殲滅したいとの願望が、筆者に向かってあからさまに述べられることがある。筆者がすべての主張を放棄し、これまで獲得したすべてのも成果を投げ捨てることによって、あたかも筆者の安全が保たれ、平和が到来するかのような主張を聞かされることがある。

だが、筆者に証を述べることを辞めさせようとする願望を聞くとき、筆者は、殉教者たちのことを思い出す。長崎のキリシタンであれ、皇帝ネロの時代のクリスチャンであれ、みな同じ要求を突きつけられ、同じ試練の道を通ったのである。自分の命や、自分の身の安全を第一優先し、神の御言葉を恥じて捨てるのか、それとも・・・。

主イエスは言われた。

わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。」(ルカ9:23-26)

筆者が第一に優先せねばならないことは、自分の命を真っ先に優先して守ろうとすることではなく、神の国とその義を第一とし、神の御言葉を人前で恥じることなく、伝え続けることである。
 
これまで当ブログでは、東洋思想(グノーシス主義)の時間の概念は、円を描く曲線であるが、キリスト教の時間軸は直線である、ということを書いて来た。

ここで言う「グノーシス主義」とは、聖書とは真逆の偽りの教えを総称したものである。
 
この問題を考えるとき、筆者が当ブログにおける信仰の証を自ら放棄・否定して、これまで達成して来たすべてを、なかったこととして否定しさえすれば、あたかもすべての争いから解放されて、安息を得られるかのような考えが、偽りであることが分かる。

何度も述べて来たように、聖書に反するグノーシス主義のシンボルは(東洋思想も含め)「円」である。この円とは、人類が時間軸を逆にして、歴史の初めと終わりを一つに結びつけること、すなわち、循環する時間の概念を表している。
 
このシンボルの究極的に意味するところは、人が自力で、神と人とが分離する前の状態に逆戻ることである。すなわち、聖書によれば、神が天地を創造され、人を創造された後、人は自ら神に反逆し、罪によって堕落し、神と断絶するに至った。

しかし、グノーシス主義は、人間が自分で時間を遡り、神から分離する前の状態に逆戻ることによって、あたかも、人が神に対する反逆という問題を起こしたことがなかったかのように、罪の問題を自力で解決して、自ら神に回帰し、救いに到達できるかのように教える。そのような偽りの考えを示すシンボルが、円(東洋思想における「道」)なのである。
 
それは、人が自力で母の胎内に逆戻り、生まれる前の状態に逆戻ることによって、この世の悩み苦しみの全てから解かれ、両親との一体性を取り戻し、胎内でもう一度、安息を得ようとする試みにたとえることもできよう。

しかし、普通に考えて分かる通り、人が自力で母胎に逆戻ることなど、できるはずもないのであるから、同じように、罪によって神と断絶した人類が、時間軸を逆向きにして、神と分離する以前の状態に自力で回帰することなど無理な相談である。

そのことを考えれば、筆者が当ブログを閉鎖したり、信仰によってエクソダスを遂げたことを否定して、幼い頃から慣れ親しんだもとの故郷に逆戻り、そこから出た後、昨日までに打ち立てたすべての達成を自ら否定してみたところで、それによって生まれる成果など何一つないことがはっきりと分かる。

私たちは、昨日までの歴史を否定したり、自分の信仰の証や、果ては兄弟姉妹の存在や、自分自身の存在までも否定して、何も起きなかった当初の状態に逆戻ることで、心の平和を得られるわけではない。

そういう意味で、人類が、神によって創造され、罪によって堕落したことは、それ自体、著しい悲劇なのであるが、それでも、私たちは、その悲劇が起きなかった以前の状態に自力で逆戻ろうとすることによって、問題解決を成し遂げ、平和を手に入れられるわけではなく、その悲劇の事実をしっかりと見据えた上で、これを真に克服できる方法を探し求め、それを手に入れて、先に進んで行かねばならない。

そして、神と人との断絶を克服する方法は、神の側から恵みとして与えられた十字架以外には存在しないのである。十字架は、エクソダスの道である。生まれながらの自分自身から、古い肉的な故郷から、私たちが目で見て、耳で聞いて、感覚を通して確かめて来たこの世そのものからのエクソダスである。
 
これまで当ブログでは幾度も述べて来たことであるが、聖書には、こうある。

「わたしたちは、キリストの体の一部なのです。「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。」(エフェソ5:30-32)

筆者が、この御言葉を幾度も引用するのには、理由がある。ここで述べられている内容は、非常に重要な奥義であって、それは神と人とが一体であるかのごとく親しく結びつき、一つとなって共に住まうことが、神の望みであることを示している。

つまり、聖なる神の宮として造られた人類に、神ご自身がやって来られ、人の内に住まわれること、そうして、神と、宮なる人類が一つとされ、それによって、花婿なるキリストと花嫁なる教会の結婚が実現すること、それこそが、教会の奥義なのである。

だが、この一体性が成り立つために必要な条件は、「人は父と母を離れて・・・」というものである。父と母を離れるとは、人が自分の生まれながらの出自に死ぬことを意味し、生まれながらに持っている堕落した天然の命に対し、キリストの十字架の死を経由し、自分の生れ故郷(ヘブル書では「出て来た土地」(ヘブライ11:15))を離れ、信仰によってよみがえらされて、新しい命により、新しい天の故郷へ到達するために、歩みを続けることを意味する。

生まれ故郷を離れないことには、新しい故郷にたどり着くこともない。地上的な故郷との結びつきが断ち切られないことには、天の故郷への道も開かれない。だからこそ、人はバプテスマを経て、生まれながらの自分に死んで、上から生まれることが必要なのであり、筆者自身も、真実な信仰を知って、神ご自身を探し求めるためには、エクソダスの道を通らねばならなかった。

筆者は幼い頃から形式的にはキリスト教徒だったのであり、信仰それ自体も、持っていたとはいえ、それでも、「父と母」のいる、もといた「故郷」、すなわち、物心つく前から筆者を取り巻いていた慣れ親しんだ宗教的な環境において、古き自分に死ぬことなしに、神ご自身に出会うことは不可能だったのである。

ヘブル書には次の通りある。

「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。

もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが、実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」(ヘブライ11:13-16)


神の御言葉は、あたかも裁判の判決が法的拘束力を持つように、霊的な拘束力を持つものである。そこには、人類に対する神の約束事が書かれている。約束が成就していないうちば、御言葉は、単なる空手形のようにも見えるかも知れないが、その約束には、生きた効力があり、聖書の御言葉には、約束を実現させる力が込められている。

とはいえ、その約束は、私たち自身がこれを承認し、信じ続けなければ、実現することのないものである。従って、私たち自身が、何があっても、御言葉に基づく望みの確信を手放さないことをせず、その確信を途中で投げ捨て、自ら否定してしまえば、その効力は失われる。
 
たとえば、ちょっとした困難が起きただけで、自分の命や、身の安全が惜しいからと、当ブログの信仰の証を、筆者が自ら否定し、捨て去ったり、筆者に与えられた尊い御言葉の約束を、筆者が自分で否定したりすることは、約束の放棄を意味し、それは結局、筆者が出て来た故郷へ戻ろうとする試みと同じなのである。そのようなことをすれば、さらにまさった天の故郷へ向かう道は断たれる。

それだけでなく、筆者のエクソダスも、意味がないものとなり、地上の故郷を出した後に打ち立てられた信仰的成果もすべては無に帰され、当ブログの存在も無用なものとなるばかりか、筆者自身の存在も、消えてなくなるであろう。

いや、消えてなくなるくらいならまだ良い。キリスト者が信仰の証を捨てれば、塩気を失った塩として、誰にとっても無用なものとして、道端に捨てられ、踏みにじられて終わることになるだけである。争いが終結して平和が訪れ、自分の命と安全が保たれるどころか、すべてが「無」に帰され、踏みつけられて終わるだけなのである。
 
当ブログは、筆者なりに、天の故郷へと続く道を歩く行程(天路歴程)なのであり、これを否定したり、放棄することで、筆者の安息(救い)が得られることは決してない。そのような考え方の中には、筆者を古い故郷へと戻らせようとする、偽りの思想に基づく循環の時間の概念が反映していると言える。

だが、繰り返すが、人類は自力で神の懐に回帰することができない以上、筆者がこれまでの歴史を否定してみたところで、それによって達成される成果など何もないのである。
 
私たちは、不可逆的な時間の流れの中に立っており、時には、根こそぎ心を揺さぶられ、自分が一体、何のために生きているのかも分からないと思うような、悲痛な出来事に遭遇することもある。だが、悩み苦しみが大きいからと言って、自分がこの世に誕生し、ものを考えるようになり、自己の意思を表明するようになり、神を求めるようになり、信仰を見いだす以前の、生まれなかった前の状態に逆戻ることによって、問題が解決するなど、断じてあり得ず、それは詭弁でしかない。
 
むしろ、目の前に大きな困難があるように見えるときにこそ、私たちには、神の御言葉という、絶大な効力を発する、勝利の約束が与えられていることを思い起こし、私たちの存在に、神の愛が注がれていること、それゆえ、御子の十字架が与えられていることを思い起こし、勇気を奮い起こして前に進んで行かねばならない。

御言葉が、私たちに勝利を約束してくれている以上、一体、何を恐れて、これを自ら否定し、証をやめて、御言葉を知らなかった頃の、古い故郷に駆け戻る必要があろうか。
 
なすべきことは、エジプトを恋しがり、あるいはソドムに未練を感じて振り返ることではなく、約束の確信に基づいて、目の前の紅海を最後まで渡り終え、復活の領域に達することである。

キリストこそ、私たちにとって、すべてのすべてであるから、この方の中にこそ、地上のあらゆる問題に対する「正解」がある。この方を信じる者は、失望に終わることはないと、はっきりと聖書に記されている通りである。その約束に立脚して進んで行くのか、恐れて退却するのかは、各自の自由な判断であり、選択である。
 
「「もう少しすると、来るべき方がおいでになる。
 遅れられることはない。
 わたしの正しい者は信仰によって生きる。
 もしひるむようなことがあれば、
 その者はわたしの心に適わない。」
 しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です。」(ヘブライ10:37-39)
  
さて、不思議なことに、筆者の人生においては、様々な困難が存在しているように見える中でも、失われた兄弟姉妹の交わりが、少しずつ回復している。筆者がキリスト教界をエクソダスして後に築かれた兄弟姉妹の交わりが、戻って来ており、そこで10年以上前から温められていたプロジェクトが、今も進行中であることが分かった。

それは、筆者がエクソダスを遂げるに際し、とても重要な役割を果たしたプロジェクトである。あれから相当な歳月が経ったので、筆者は、さすがにこの計画はもう放棄されているのではないかと思っていたが、そうではなかったことが分かった。

それは他の人たちが撤退して行った場所で人知れず続けられている計画であり、このことを見るにつけても、筆者は、神の国と神の義をまず第一にすれば、すべてのものは添えて与えられるとの御言葉の確かさを確信させられる。

人の目から見てどう見えようとも、神の御言葉の約束を信じてこれを追い求め続ける人の人生には、神ご自身がすべての責任を取って下さるという、生きた見本を見せられているようである。

聖書には、不正な裁判官のたとえがある。

神を畏れず、人を人とも思わぬ裁判官に対しても、やもめが懇願を続けて、ついに裁判官の心を動かし、正しい裁きを得たという、主イエスが語られたたとえ話である。
 
このたとえ話に登場する不正な裁判官は、神を象徴している。神を不正な裁判官にたとえるのはどうかと思われるかも知れないが、神の采配は、私たちには、ときには、非常に理解しがたく、納得できないものに見えることがある。

たとえば、神はなぜサタンの活動を許しておられるのか。なぜこれほど理不尽な悪事や災害が世に溢れ、神はこれを放置されているのか。もしも神がただちにサタンの働きを滅ぼしてしまえば、私たちは、現在の悩み苦しみからすぐにでも解かれたであろうに、なぜ神は善良に見える多くの人々の苦しみを黙認しておられるのか・・・。

そういった疑問は、クリスチャンであっても、実に多くの人たちが抱くものである。だが、それは愚門であると言えよう。神が望んでおられるのは、あくまで私たち自身が、自らの信仰を通して、理不尽や混乱に満ちたものに見えるこの状況の只中に、御言葉の約束の効力を及ぼし、それによって、サタンのわざを後退させて行くことだからである。

だから、私たちがせねばならないことは、いかなる状況の中でも、その状況の理不尽さに目を留めるのではなく、神の采配がどんなに理解できないものに感じられるときでも、神は正しく、真実で、公平な方であって、私たちのために、常に最善の解決を用意して下さっていることを固く信じ、主がカルバリで打ち立てて下さった勝利の御業を誉めたたえ、その約束に信頼しつつ、新たな一歩を信仰によって大胆に踏み出していくことなのである。

そうして、私たち自身の努力によるのではなく、神の側から恵みとして与えられている御言葉の約束に基づく解決を、混乱に満ちた状況の只中に、力強く現実的かつ具体的に引き下ろすことである。

そのために、私たちに必要なのは、あくまで望みを捨てずに祈り続けること、執拗に懇願し続けること、目的に向かって進み続け、決して後退しないことであり、断じて、脱出してきたはずのい故郷に帰ろうと考えることではないない。

そこで、仮に今、誰かが筆者の隣にやって来て、筆者の耳元で、自分の身の安全が惜しいなら、あなたの信仰の証をさっさと放棄しなさいとささやいたとしても、筆者は、そんなことは無理です、としか答えられない。

なぜなら、筆者には、キリストに出会わなかった以前の状態に戻ることはできないからである。その答えの中に、一切が込められている。キリストを否んで、信仰の証を捨てることができるか問われれば、当然のことながら、答えはノーであるが、それと同様、愛すべきキリスト者との交わりを手放せるかと問われれば、答えはノーである。敬愛する権威者・友人を捨てられるかと問われても、答えはノーであるし、裁判所の飛び地のようなところで、筆者に与えられている仕事を放棄できるかと問われても、答えはノーである。自分に与えられた信仰によるミッションも終わらないうちに、この街を出て行き、よその土地で暮らせるか、と尋ねられても、やはり答えはノーであると言うしかない。

信仰によるエクソダスをなかったことのように否定して、ブログを立ち上げる前の状態に逆戻り、地上的故郷に舞い戻り、そこで自分自身の名で、自分のために、地上的な功績を打ち立てることを目的とする人生を送れるかと問われれば、そのような人生は、すでにバプテスマと共に、水の底に沈んで死んでいる以上、思いめぐらすこともできないし、取り戻すことも不可能だと言うしかない。

そこで、誰かが筆者のそばにやって来て、筆者に向かって、あなたがエクソダス後の成果を頑固に手放さないから、私はあなたに間違った信仰の証を辞めさせるために、あなたを殺害することにしますと予告したとしても、やはり、筆者の答えは変わらないだろうとしか言えない。

だが、それは決して筆者が、歯を食いしばって、必死の思いで、あるいは涙ながらに、自分はこれからあらゆる恐怖に打ち勝って、信仰を守り通さねばならないと告白するような、悲壮な決意表明ではない。

筆者は、ただ与えられた御言葉の約束と、その前味として、すでに筆者の人生において成就している恵みの素晴らしさを知っているがゆえに、もはやそれを知らなかった頃に逆戻ることはできないという、シンプルで自然な思いを述べているに過ぎない。

一言で言えば、自分の全てを捧げてキリストに従うとは、愛ゆえに生まれて来る自然な告白なのであって、自分の力であらゆる苦難に立ち向かって信仰を守り通そうとする頑固で必死の努力の賜物ではないのである。

すべては愛のゆえである。信仰による応答は、まず何よりも、十字架でご自分の命を捨ててまで、筆者を救って下さった神の深い愛に対する、筆者の側からの愛による応答である。いかに幼い頃から信仰を持っていたとはいえ、筆者は目に見える教会生活を送っていた時代には、十字架のキリストを内に啓示されることで、主に出会うことはなかったのであり、その後、教会生活をエクソダスして、初めて、主ご自身に出会うことができ、聖書の御言葉と、それに基づく信仰の、真実で正しいことを身を持って知った。今、それによって得たすべての恵み、そして、来るべき報いに対する望みの確信を放棄して、主ご自身に出会う以前の状態に逆戻ることは、筆者には死を意味することであって、全く考えられもしない。

主に出会ったときに、筆者の人生は根本的に変えられ、自分が何のために生き、存在しているのか、その目的も、意味も、以前とは全く異なるものに変わった。ひと言で言えば、筆者はもはや自分のために生きているのではなく、神に贖われた者として、筆者のために命を捨てて下さった神に栄光を帰するために生き、存在している。どんなにその目的が、わずかしか達成されていないように見えたとしても、筆者に与えられた使命が失われるわけではない。

それに加えて、筆者がこれまで出会って、支えられて来たすべての人たちとの愛に満ちた交わりや、信頼関係がある。キリスト者の交わりへの慕わしい思い、筆者を助け、支えてくれている人たちへの愛がある。困難の中で得られた信頼や交わりは、とりわけ価値があり、それは筆者の手柄ではなく、まさに主が恵みによって与えて下さったものであるとしか言えない。

こうした信頼関係は、交わりがふるいにかけられて試される以前のように、頼りない、壊れやすいものではなく、試練にさらされても、それに耐えて残るだけの力があると確信できるものとなっている。

そうして新たに生まれた信頼に満ちた交わりが、とても喜びに満ちた、麗しく、慕わしいものであるがゆえに、それらを自ら否定したり、侮辱するくらいなら、ただちにこの場で殺されて息絶えた方がましだと筆者には思えるのである。
 
このように、主が与えて下さった人々の価値、また、自分が守ろうとしている信仰の証の価値を知っているがゆえに、それを守るために、死をくぐらなければならないとしても、筆者にはそれは大したことではないと思われる。

 おそらく、殉教した時のステパノは、そういう心境だったのに違いない。彼は栄光に満ちたキリストをそば近くで拝し、自分が今しも迎え入れられようとしている天の故郷の絶大なる価値を確信していたがゆえに、群衆に石打ちにされそうになっている瞬間にも、誰も彼を助け得なかったことなどには何の注意も向けず、むしろ、兄弟姉妹を安全なところにかくまい、自分を殺そうとして打つ人々に神の福音が届けられることを願いつつ、率先して地獄の軍勢の憎しみの只中に立ち、息絶えたことであろうと思う。

それは、彼が神の愛を通じて、人々を愛することを知っていたために、できたことなのである。断じて殉教者になることを目指し、それによって、信仰的に偉業を達成しようなどと考えて起きた出来事ではない。

そういうわけで、筆者は、人前で信仰の証を守り通すことは、ぜひとも必要だと考えているが、それも、神と人とに向けられる自然な愛の中で達成されることであって、決して、正しい信仰を何が何でも守り通そうとする不自然な努力の結果ではないと思っている。

しかも、聖書には、逆説的に、自分の命を捨てる者がそれを得る、と書いてあるから、筆者は、歴史的殉教者のようにはならないことであろう。筆者は、主の御名のゆえに、忍ばなければならない苦難や試練を避けるつもりはないが、それは決して悲劇的最期を迎えたいがゆえの愚かしい意思表示とは異なるのである。
 
むしろ、私たちキリスト者の人生は、終わりに近づけば近づくほど、ますます明るさを増して、健全かつ喜び言満ちた輝きを発することになろう。今、筆者の歩いている行程の先には、花婿なるキリストが、筆者を迎えようと、天に住まいを準備されている。筆者は、地上的住処には全く満足していないし、天には住まいがたくさん用意されていると、主ご自身が言われたこともあって、天の故郷に大いに期待しているのだが、最終的にそこにたどり着くまでの間にも、主は筆者のために、その時、その時で、恵みに満ちた地上の仮住まいを、備えて下さるだろうと信じている。そして、その仮住まい(筆者自身が仮の地上的幕屋である)を通して、神に栄光を帰するために、私たちは互いに交わりを持つ。

主の御名によって集まる二、三人の交わりの中に、主が共にいて下さる。主は互いに愛し合いなさいと、信じる者たちに命じ、そのことによって、私たちがイエスの弟子であることが皆に分かるようになる、と言われた。

やがて花婿なるキリストが再び地上に来られるとき、主が地上における信徒の小さな交わりに目を留め、それがとても愛に満ちた麗しいものである様子をご覧になって、ぜひともそこに共にいたいと願って下さるためにこそ、私たちは地上に存在している。

そういう意味で、筆者は使徒行伝の終わりが好きである。使徒パウロは、おそらくは皇帝ネロの迫害により殉教したにも関わらず、使徒行伝の終わりには、殉教を思わせる記述は全くない。かえって、これから何かが始まりそうだという期待感に満ちたしめくくりとなっている。

「パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。」(使徒行伝録28:30-31)

パウロが自費で借りた家に住んでいたことや、自分の私生活を後回しにして、誰でも訪問者を歓迎したことは措いておくとして、ここには、「全く自由に何の妨げもなく」(!)と書かれている。そのことは、パウロにこの間、いかなる迫害も及ばなかったとか、制約も生じなかったということではない。神の福音は、たとえ信じる者が鎖につながれるようなことがあっても、決してつながれず、地上的な、人間的な、あらゆる制約を超えて、人々のもとに自由に届けられて行ったのである。

これが、生ける水をもたらすパイプラインの効果である。キリスト者は、主の御名のゆえに、様々な信仰的な試練を通過するし、制約も負うが、御言葉は、その制約の只中から、溢れ出る泉のように湧き出て、全く自由に、何の妨げもなく、人々のもとへ届けられて行く。

筆者も、地上で重荷を負って、労苦奮闘しているが、その只中から、命溢れる成果が生まれ、やがてその苦労の先に、想像を超える大きな収穫が待ち受けていることを思うと、今感じている労苦など、何でもないという心境になる。

神が喜んで下さることこそ、私たちの喜びであり、満足なのであって、その達成のためになら、信仰のゆえに、地上で味わう試練などは、全く取るに足りない。それがどんなに人の目に損のように映ったとしても、神はそれを補って余りある恵みを、私たちに与えて下さることのできる方であり、それが幾分かすでに与えられている以上、筆者は、私たちが地上で味わうすべての労苦には、天の大いなる報いがあると確信する。
 
そこで、筆者は最近、目の前で何が起きていようとも、主が出会わせ、結び合わせて下さった愛してやまない人々と共に、この先も、主を賛美しつつ、地上での生涯を終えられるだろうとの確信を持つようになった。

エクレシア(教会)は、あちらこちらを訪ね求めて見つかるものではなく、私たちの信仰の只中から、私たち自身の神への愛と献身によって、生まれて来る。その愛に満ちた麗しい交わりこそ、キリストが再びこの地上へ来られるときを早め、引き寄せるための鍵である。
  
そうして、どんな困難や迫害の最中にあっても、私たちが喜びに溢れて主を賛美し続け、互いに愛し合い、神が私たちのそば近くにやって来られ、早く共に住まわれたいと、切に願って下さるような交わりを、地上で打ち立て、御言葉の約束を固く守り、これを実現していれば、主は私たちの抱えるすべての地上的問題に対して、速やかに解決の手を差し伸べて下さり、私たちが地上において悩みの種としているような問題のほとんどは、塵芥のごとく吹き飛び、あっけなく消えて行くであろうと予想する。

そのようにして、御言葉を守り、これを実現して生きることが、今、私たちに最優先で求められている課題なのである。
 
そして、それが真に神の御心にかなうことならば、私たち自身が、生ける水の川々を流し出す泉となることを止められる者は、地上に誰もいない。

「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである。」(ヨハネ7:37-39)