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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

国家権力は大昔から検閲・監視・密告を統治の手段として活用していた―ASKAの事件から見えて来るもの―

・事実上の共産主義国と化した日本――残された時間で全力で国の破壊にいそしむ安倍独裁政権――
 
安倍政権による日本破壊が続いている。政策にも外交にも全く成果が出ず、アベノミクスの破綻が明らかになって、いよいよ終わりが近いことを悟った現政権は、残された時間でこの国に対するありったけの破壊行為にいそしむつもりだと思われる。

国会でろくな審議もなしに凶悪な法案を次から次へと強行採決しているのはそういう意図を込めてである。もはやこの国の民主主義はほんの建前だけ、うわべだけのものとなった。前々から国会での審議など予定調和的な出来レースだと言われてきたが、かろうじて民主主義国の保たれていたうわべだけの体裁もかなぐり捨てて、今はあからさまな安倍の自民・官僚独裁体制へと移行している。

原発の爆発のツケは国民に回し、GPIFによる年金の運用損も国民に押しつけ、消費が活発化しない分は、カジノ法案を通し、ギャンブルで国民から巻き上げようという所存である。

10年を超える休眠預金はすでに国有化されることが決まった(「貧困対策や若者支援に活用=「休眠預金法」が成立」gooニュース 12月02日 12:20)。この「忘れ去られたお金」は500億~600億ほどは存在するという。貧困対策や若者支援など、これまで政府が一度たりとも本腰を入れてやったことのない政策へ活用するというのだから、そんなことは国民の資産を国が奪うための単なる口実に過ぎないのは明白である。この休眠預金の国有化は来るべき預金封鎖へとつながる初めの第一歩になるのではないかと囁かれている。

これから先、肥大化した官僚機構に率いられる国家権力が少子高齢化(と原発事故の影響による人口の著しい減少から生じる)財政難を乗り越えるために、いかに国民財産のありったけを強制的・合法的に収奪できるか、国会はただそのためだけの法整備の場所へ変わるものと見られる。
 
筆者は、この国はずっと前から事実上の共産主義国であると述べて来たが、いよいよ一人のカリスマ(というのにはあまりにも力不足だが)政治指導者のもとで、事実上、独裁化した中央集権が国民を徹底的に抑圧し、収奪するという、共産主義国には欠かせない政治形態が整ったと言える。もはや天皇さえも国家権力による抑圧のための飾り物のようにされてしまっている。
 
安倍は「美しい国」という偽りの夢(存在しないユートピア)を口実に、とことん人を騙し、国を滅ぼして来ただけで、何一つとしてこの国にリアルな成果を提供することはできていない。

安倍晋三を率いているのは、共産主義や、統一教会、ペンテコステ運動、国家神道を率いる悪霊と同じ種類のカルトの霊であって、これは偽りの父である悪魔から出て来た霊である。
 
安倍の政策は、ペンテコステ運動などと同じく、そもそもの最初から最後まで徹底的な詐欺の仕掛けなのである。その嘘の仕掛けは、かつてソ連が共産主義という、絶対にやって来ない夢を担保にして、とことん国民を騙し、巻き上げたのと同じである。
 
強行採決は、この偽りの霊が、安倍晋三というリーダーを現人神化し、残された時間内で、この人物を通して、とことん民主主義を破壊し尽くすという意志表示である。これを放置していれば、この国は暗黒時代に突入するだけである。


・偽りの北方領土返還の夢――無い夢を担保に、米国とロシアの二国にATM扱いされる悪夢をこの国はどう防ぐのか――

安倍は「強いロシアを取り戻す」というスローガンを掲げるロシアのプーチン政権に自分と同じ思想を見いだし、それゆえ親和性を感じ、個人的な親交を結ぼうとして来たわけだが、日ロの首脳会談は、今やまるで狐と狸の化かし合いのようになって来ている。

むろん、両方が精神性においては詐欺師と言って差し支えないのだが、こういう場合は、悪がより強い方が勝つと相場は決まっている。悪が強い方とはむろんロシアのことであって、この国の闇の深さは、これまで70年間平和を保って来た我が国の想像をはるかに超える。

一説によると、本物のプーチンはすでに死亡しており、現在のウラジーミル・プーチンは替え玉によるなりすましだと言う。プーチンの別れた元妻さえ替え玉であると証言しているというのだ。

長い間、筆者はそんな話はロシアを悪魔化するためのプロパガンダに過ぎないと考え、取り合わずに一蹴して来たが、最近になって過去の動画を比較してみると、確かに、以前のプーチンとは声も顔も違う。身体的特徴も異なれば、声のトーンも違う。


 

若い頃のプーチンには表情にどこかしら敏感で神経質そうな個人的特徴があったが、現在のプーチンには、それが見られず、物腰は訓練された工作員そのもので、電話機や銃を持つときの仕草にその特徴がよく表れている。面長だったプーチンの顔の特徴が丸く変わっており、目の色も変わっていると言われている。かつては流暢に話せたはずのドイツ語では、通訳を介さなければ意思疎通ができなくなった。

 

(秋田犬ゆめ、飼い主から撫でられそうになると顔を背け、逃げ去る)

プーチン死亡・替え玉説という話は深入りせず、この辺でさて置くとしても、こういう話を冗談として一蹴できない国がロシアなのだ。

話を戻せば、安倍が拙速なトランプ詣でをしたことによって、以下のニュースにも見るように、北方領土の返還は、ますます一層、遠のいたと言える。もはや日本は完全にロシアにいいようにあしらわれている様子がよく分かる。
 

岸田外相、プーチン大統領と会談 交渉の難しさ露呈フジテレビ系(FNN) 12/3(土) 1:14配信、から抜粋

岸田外相は、ロシアのプーチン大統領との初めての会談に臨んだが、2時間という、大遅刻の洗礼を受けた。
さらに、ロシア側との交渉の難しさが露呈する出来事が、次々に起こった。1時間50分遅れで始まった会談では、待たされていた岸田外相の前に、笑顔のプーチン大統領が現れ、会談は30分で終わった。
これに先立ち行われた国内行事で、プーチン大統領は、会談の予定開始時刻を1時間すぎても、雄弁に演説し、あわてる気配はない。
 思いがけないハプニングは、これだけにとどまらず、日本時間2日になって、ロシア側から日本側に、会談の出席者を4人から3人に絞るように要請があり、ロシアを担当する欧州局長が協議に入れない事態になった。


 筆者は必ず、こういうことになるだろうと前もって告げておいた。北方領土問題には、1%も希望などもともとなかったのだが、それでも、領土問題に進展がないのだと分かれば、即座に経済協力をひっこめ、プーチン大統領の訪日も中止するくらいのしたたかな駆け引きが日本の首相にぜひとも必要だった。しかし、安倍にそのような決断が出来るはずがない。

仮にもしもここ数年間に起きた日ロの急接近の中で、北方領土返還のチャンスが1%でも我が国にあったとしたならば、それはただロシアが米国に睨まれて国際的に孤立し、悪魔化されて包囲されていた他ならぬその時期だけであったと言えるだろう。だが、その間に安倍政権はロシアに近寄ることなく、むしろ、公然と対ロ制裁に加わった。そして一時はあわや世界大戦勃発に至るかと見られた米国とロシアとの対立も、今はトランプが次期大統領に選出されたことによって、ロシアにとっては緊張緩和の見込みが開けている。そんなバラ色の期待が高まっている今の時期のロシアにとって、わざわざ米国の傀儡に過ぎない日本の安倍政権に自ら歩み寄り、助けを求めねばならないような必然性はまるでない。

むしろ、この先は、米国とロシアとがタグを組んで可能な限りこの自立できない卑屈な属国を踏みつけにして、カモれるだけカモろうという態度を明白にしないように、釘を刺しておかなくてはらない時期に入ったのだ。確かに、安倍氏はそのようなことをされて仕方がないだけの卑劣な二枚舌外交を発揮して来た。自分が最も困難に陥った時期に、敵に回り、信頼と友情を確固として示さなかった人間に、誰がその人間が困ったときに救いの手など差し伸べるであろうか。そういうやり方は、人間関係にも通用しないが、外交としては完全な失敗である。

しかしながら、筆者は、たとえこの国のトップが狡猾な外交作戦を展開できうるだけの頭脳を持っていたとしても、やはり安倍政権の存続中に北方領土が返還される見込みは、初めから1%も存在しなかっただろうと考えている。そのようなことがもし起きうるとすれば、それはこの国が米国のくびきを断ち切って、完全に自立を成し遂げたその後のことである。

もともとロシアから見て、今の日本は米国の延長のようなものに過ぎない。そして、米国はロシアにとってずっと前から仮想敵なのである。日本が米国と共に対ロ制裁に加わった事実は、日本が自ら米国の手足に過ぎないと名乗り出たも同然であり、その記憶はロシアからこの先も決してなくなることはないであろう。いざとなればいつでも敵に変わり得るような国と見えているのだから、そんな国に、どの国が1ミリたりとも領土を明け渡すことがあろうか。そうでなくとも、どの国も自国の領土は1ミリでも大きい方が良いと考えるはずだ。普通に考えさえすれば結論は最初から見えている。

実際は、北方領土返還のテーマもまた国民を欺くための安倍のトリックに過ぎなかったのだが、安倍自身も、それが偽りの夢でしかないことに気づいていなかった可能性がある。

だが、こうした楽観の結果、日本は米国のみならずロシアからもATM扱いされ、国際的に自立できない国として蔑まれ、孤立して行く危険性に直面しているのだと言えよう。だが、ヘタレ国家のヘタレ政権には、そうなってもまだ、このくびきを跳ね返すだけの勇気も力もなく、自分たちが屈従を強いられている分の腹いせを、これから先、すべて国民に向け、国民をいたぶることで晴らそうとして来る可能性がある。それが最悪の結末である。


・強制集団化の始まり――原発事故処理の収束という天文学的負債を国家の破綻を経ずに乗り越えるには、国家が国民を徹底的に抑圧するしかないという悪夢――
 
いずれにしても、少子高齢化の中、半永久的に終わらない原発事故処理という天文学的な負債を抱え、これから先、財政難へと急落して行くことが目に見えている国である。その限りない負債をやりくりするために、この国では、この先、私有財産の国有化がなされ、徹底的に国民の資本と労働力を収奪するための強制集団化が始まるものと見られる。(ただし、こうした現象が起きるであろうという筆者の予測は、実のところは、日本だけでなく、米国やロシアにも当てはまるのだが、そのことは今は置いておく。)

さて、強制集団化とは何か。それは国民の労働力と財産を最後の一滴に至るまで搾り取って国の財産へと変えるための制度づくりである。安倍による農協潰しは、コルホーズ・ソフホーズの建設を思い起こさせる。マイナンバーも、国民財産と労働力を合法的に収奪するために活用されるであろう。いずれマイナンバーは体内埋め込み型のマイクロチップに取って変わり、その刻印を受けた人々はみな「マトリックス」に奴隷として拘束される仕組みが完成すると考えられる。

さて米国では、このほど、時期米国大統領に選出されたトランプの支持者であり、同氏の選挙チームの有力メンバーでもあった人間が、第二次世界大戦中の日系人強制収容所を手本として、米国で移民向けに強制収容所を建設することに言及したという(「「イスラム教徒の入国管理には、戦時中の日系人強制収容が前例になる」トランプ氏支持者が発言」The Huffington Post 投稿日: 2016年11月18日 17時15分 JST   更新: 2016年11月18日 17時31分 JST)

以前からネット上では、全米各地に大規模な強制収容所の建設が進んでいるといった話や、大量の棺桶が用意されているなどの怪しい話が飛び交って、国民に対する大規模な弾圧が行われると言われて来たが、こんな発言を見ると、以前には都市伝説や、流言飛語と思われても仕方がなかったような話が、いよいよ現実味を帯びて来たように感じられる。

つまり、米国は未来のトランプ政権下で、いよいよ本格的に戒厳令国家へと変貌しようとしているのではないかという予想が起きて来るのである。実際、米国民が最も懸念している点はそこであろう。移民抑制など単なる口実に過ぎない。まずは人権抑圧の最初のターゲットとなるのが、トランプが幾度となく憎しみを向けて口撃して来たマイノリティであるというだけで、最終的にはトランプ政権にとって不都合なすべての米国民は、みな強制収容所行きとなる危険を覚悟しなければならないような世の中になるのではないか。それがトランプ一人の治世で終われば良いが、米国の政権の特徴として後戻りできない形で浸透してしまう危険が考えられる。
 
そうなった場合、米国との腐れ縁を断ち切らない限り、我が国も、米国に続いて戒厳令国家へ突入することを免れられなくなるであろう。なぜなら、これまでの歴史的経験から、米国で起きたことは、数年遅れて、我が国の現実となって来たということが言えるからだ。たとえば、官僚だけがヒーローとなって、国民は恐怖に逃げ惑うか、もしくは移動も制限されて、家屋に閉じ込められて、TV画面を通じて報道される大本営発表を固唾を飲んで見守るしかない、という『シン・ゴジラ』のストーリーなども、未来の予表として描かれたものであるように思われてならない。

だが、一体、なぜ国家がそのような戒厳令下の世の中を用意せねばならないのか? 何のために国民の人権を抑圧するのか? それは、いよいよ国家が財政難その他のために経済的にも道徳的にも落ちぶれて行き詰まり、信用を失って崩壊の危機に瀕し、己の生き残りだけが全てとなって、いよいよ犯罪政権としての性質と正体を隠せなくなって来た時に、それでも滅亡を免れるためには、国民から収奪を強化し、手ひどいやり方で反対を封じ込めるために、国民の人権を大規模に抑圧することしか、残る方法はないからだ。

かつての一億玉砕と同じである。国の面子が保たれ、国体が護持されるためであれば、国民が残らず死んでも構わないという発想である。そのような発想の下では、国民は文字通り、犯罪性を帯びた政府と心中させられることになる。
 
だが、人は通常、自分自身の幸福のために生きているのであり、誰も強いられない限り、「お国のために」生きようなどとは考えない。だから、国民の財産と労働のすべてを国家のために合法的に供出させる仕組みを作るためには、まず、国策に反する者は誰であれ、権力の判断で恣意的に逮捕でき、人権(財産権を含む)を放棄させるような仕組みを作らなければならない。強制集団化のような過酷な政策の実施は、流血を伴うのであり、まずは国策に従わない国民から人権を奪って強制的に収容所に送って奴隷労働に従事させるなどの恐怖政治の仕組みを作らない限り、実行できない。
 
だが、初めから、権力のために国民の人権を抑圧しますなどとは、おおっぴらに言えないので、緊急事態や、外敵の脅威を口実に、国内で恐怖政治を常態化させるのである。しかも、最初から国民全体を縛るためにと言っては誰も同意しないので、最初はあくまでごくごく一握りの社会にとって不都合な、国民全体にとって脅威となりうる集団だけを取り締まり、排除するのだと言って、人権抑圧の仕組みを作り、作った後で抑圧の対象を無限大に広げて全国民を取り締まるのである。こうして戒厳令国家の仕組みが成立する。


・国家権力は大昔から検閲・監視・密告を統治の手段として活用していた――ASKA逮捕の事件から見えて来る監視社会――

ところで、筆者はCHAGE&ASKAのファンではなく、この事件にそんなに興味もないが、この度のASKAの逮捕という出来事は、以上のような文脈において、実に象徴的・暗示的であったと思うので触れておきたい。

このほど、二度目に逮捕された歌手のASKAは、本人の言によると、盗聴盗撮の被害を訴えて警察に被害届を出そうと通報したところ、その言い分が「薬による幻覚」であるとみなされて、自身が逮捕されてしまったという。
 
芸能人であるとはいえ、政治家でもない人間が、何らかの犯罪被害を訴えて警察に通報したことがきっかけとなって、逆に自分が疑われて逮捕されたというわけだから、これは人々を震撼させる出来事であり、この日本社会の大きな曲がり角である。

ASKAは週刊誌では脳が壊れたなどとしきりに笑い者とされ、危険な薬中毒患者だから何をされても仕方がないかのような報道がされているが、世論はASKAにかなり同情的で、この行き過ぎたバッシングに拒否反応を示し、真相を疑っている。

実のところ、ASKAに起こったことは、明日には国民全体に誰でも起きうる現実である、と言える。それが分からずに、ASKAを特別な人間と考えて笑い者とし、人権侵害を正当化している人間は、よほど愚かである。

ASKA逮捕が、当局によって周到に仕組まれた計画のもとに行われた罠であったろうことは、逮捕前からメディア中ですでに逮捕の予告が公に報道され、乗ったタクシーの映像まで勝手に公開されるという異常な状況から容易に推測される。

つまり、ASKAが逮捕されるはるか前から、警察、メディア、民間企業などが連携プレイを行って、本人に対する監視体制を作り上げ、網で魚を捕えるように、ただ逮捕の機会を伺っていただけであるとみなさなければ、そういう事態は起き得ないのだ。
 
(「ASKA逮捕を事前予告して“見せ物”に! 清原逮捕に続く警視庁組対5課の情報操作とそれに乗っかるマスコミの手口」 LITERA2016.11.28.などを参照。)

このようにメディア・警察・民間企業の見事な連携プレーを見せられると、「盗聴・盗撮されている」というASKAの言い分が、逆に正しかったのではないかと見えて来るのも当然である。
 
ちなみに、タクシー内の映像ではしっかりと運転手と話をし、料金を支払っているASKAの姿が映っているようなので、覚せい剤の影響で脳が壊れたとの公式発表を完全に否定する証拠となっている。

もちろん、ASKAの逮捕が、年金カット法案や、廃炉費用の国民負担や、カジノ法案の強行採決など、政府の実行しようとしている恐るべき凶悪な国民の権利抑圧の政策を覆い隠すためのスピン報道として存分に用いられたことは疑いの余地がない。だが、この事件は、スピンだけが目的の全てではなかったものと思う。

ASKAはこの逮捕がなければ、活動を再開する準備が整っており、今回の二度目の逮捕は(一度目の逮捕に至る経緯も周到に計画されたものであった可能性が高いが)、社会復帰を妨害する上で重要な役割を果たした。中でも、特に、ASKAが執筆しすでに公刊が近かったとされる『盗聴国家・日本』の出版を妨げるために極めて重要な役割を果たしたのは見逃せない。

(「ASKA容疑者 著書執筆中だった テーマは「盗聴国家・日本」」 スポニチ 2016年11月29日 05:30参照)

ちなみに、今でもごく普通の生活レベルで人々が接触する街の交番や警察署のお巡りさんは、道に迷った人にも親切で、気前も良く、そんな街のお巡りさんだけを見ていたのでは、警察が凶悪な組織だという印象は持ちにくいであろうが、しかし、それはあくまで警察組織の最下層の話であって、組織の上層部はこれとは全く異なる性質を持っているものと考えられる。国家権力の一部としての警察組織が恐るべき腐敗・犯罪性に陥っている可能性については、たとえば、神戸の児童連続殺傷事件についての少年A君冤罪説に関する一連の記事の中でも触れた。

今日、国民の誰かが仮に自転車盗難などの被害を訴えて交番に赴いたからと言って、自らが窃盗容疑で逮捕されるようなことはないと思うが、ASKAの事件は、これから先、平凡な国民が、本気でこの国の闇・タブーに触れるような何かの事件を告発する側に回ると、それをきっかけに、警察を含め、国家権力全体から監視対象としてマークされ、社会活動が不可能となるような妨害を受け、警察に何かを相談しても、かえって疑われ、狂人扱いされ、逮捕され、隔離されるきっかけとされるような、恐ろしい社会が到来しようとしていることをよくよく物語っているように見受けられてならない。

筆者はASKAをかばいだてするためにこう言うのではなく、国民に対する権利侵害に鈍感でいると、それがいずれ全国民の身に降りかかって来ることになると言っているのである。芸能人だから、再犯を疑われたから、自分とは扱いが違うとみなすのは誰しも早すぎるであろう。
 
仮に今、ASKAが訴えた盗聴・盗撮の被害は事実であり、この度のASKA逮捕は、この組織的犯罪を隠すための国策逮捕であったと仮定しよう。

すると、浮かび上がって来る疑問は、これら二つの間には密接な関連性があって、集団ストーキングは連携プレーによる逮捕と同じく、国家権力が不都合な人間を抑圧し、追い込むための闇の統治手段ではないのかということだ。

集団ストーキングという用語は、ネット上で調べると、カルト宗教から脱退した人への報復措置として言及されていることが多く、ネット以外の世界では、そういう話は、ほとんどが薬による幻覚か、もしくは、統合失調症のもたらす妄想として片付けられて終わっているようである。いずれにしても、現実世界はこのような問題の存在自体を頑なに否定しているのである。

だが、盗聴・盗撮という問題を単純に妄想と片づけるのは極めて愚かなことである。何より、ソビエト・ロシアの歴史を知っている者として、ここではっきり言えるのは、国家権力による盗聴・盗撮は、何世紀も前かられっきとして存在しており、いわば使い古された手段であって、何ら個人の妄想の産物でもなければ、新しい発想でもないということである。

全体主義政権は、いつの時代も、自らの政策の異常さ、残酷さ、誤りを、民衆の心に単純に訴えかけるアートの形で発表されることを何よりも嫌がった。そこで、政治家だけでなく、詩人、作家、音楽家など、芸術家をとりわけ厳しい監視対象としたのである。

たとえば、19世紀ロシアの詩人レールモントフは次のような詩を書いた。
 

Прощай, немытая Россия,
Страна рабов, страна господ,
И вы, мундиры голубые,
И ты, им преданный народ.

Быть может, за стеной Кавказа
Сокроюсь от твоих пашей,
От их всевидящего глаза,
От их всеслышащих ушей.



この詩には違うバリエーションもあるようだが、今はこの詩に正確かつ芸術的に完成された訳をつけることは目的とせず、単に意味を大まかに理解するだけに専念したい。もし逐語的に訳せば、次のような意味になるだろうか。

さらば、*無割礼のロシアよ、
奴隷らの国、ご主人様らの国、
おまえたち**青い制服にも、
奴らに忠実な民衆にも。

(注*無割礼と訳した言葉は、原語では「洗礼を受けていない」の意味、つまり、野蛮な、下品な、といった意味合い)
(**青い(空色の)制服とは、帝政ロシアの憲兵の制服)
 
ひょっとして、*コーカサス山脈の向こうまで行けば、
おまえの**官憲から逃れられるかも知れない、
奴らのすべてを見通す目から、
奴らのすべてを聴く地獄耳から。

(注*=僻地への兵役や流刑の方が都にいるよりもはるかにましだという意味)
(**原語では、パシャというオスマン帝国軍司令官の称号、複数形)
 
レールモントフがこの詩の中で激しい侮蔑と嫌悪感を示して糾弾しているのは、帝政ロシアの巨大な権力機構によって国民の間に徹底的に張り巡らされた監視・密告・検閲体制である。当時、ロシアの帝政権力による検閲は、ただ単に政治的な出版物やパンフレットの検閲だけでなく、あらゆる分野の出版物に及び、国民のあらゆる会話の監視・盗聴と、それに基づく密告が行われていた。貴族であっても、この監視体制から逃れられる者はいなかった。

このような徹底的な監視・密告・検閲体制は、ロシア国家の不治の病として、この国の歴史に深く刻まれ、ソビエト体制にも受け継がれる。帝政ロシアが権力を批判する文書を細部に至るまで統制し取り締まっていたと同様、特にスターリン体制になって以後のソビエト権力は、国内のすべての文書を厳しく事前検閲して取り締まりの対象とし、国民のあらゆる会話を盗聴し、国民同士による盗聴・密告体制を作り上げて、国家にとって不都合な人間を排除する手がかりとした。ソルジェニーツィンが収容所群島と呼んだ強制収容所には、国民同士の密告に基づいて「人民の敵」とのあらぬ嫌疑をかけられて秘密警察により逮捕され、証拠もなく有罪にされた数知れない人々が送られた。

だが、ソビエト体制になるよりもずっと前に、レールモントフが自らの詩に描いたのが、まさにこれと同じ世界であった。この詩人にとっては、それこそが「ロシア」であり、ロシアとこの盗聴・密告・監視システムは切り離せないものとして一体化して機能している。しかも、その奴隷のシステムは国家権力だけが独断で作り上げたものではなく、民衆の自発的協力と一体になって成立しており、そのようにして権力に自ら迎合し、媚びへつらい、屈従する国民の卑屈さ、精神的奴隷ぶりが、この誇り高い詩人には我慢がならなかったのである。

今日のロシア人は、この詩はシニカルに過ぎるものとして否定したがるかも知れない。そのような卑屈な奴隷根性を国民的歴史としては認めたがらないであろう。だが、これはロシア国家の不治の病であり、今日もそうした体質は変わらない。ロシアという国に対して幻想を持つのは早くやめた方が良いであろう。

筆者はかつて半数ほどがロシア人から成る小規模な仕事場で働いたことがあったが、そこで、毎日、毎日、ロシア人の集団と顔を合わせているうちに、普通ならば、国際結婚でもしなければ見えて来ないような彼らの国民性の負の部分を間近で観察することになった。その結果分かったのは、ロシア人には自分たちは虐げられているという被害者意識による団結力はあるが、それがあだとなって、自ら監視・密告体制を作り、信念を持たず、浮草のように力の強い者から力の強い者に流れ、何度でも寝返りながら、本心を隠して媚びへつらうという無節操ぶりであった。ロシア国民の大半はこのような無節操な人々から成ると見て良い。筋を通して権力に戦いを挑む真のインテリなど極めて稀である。

そのようなわけで、我が国の現状を相当に辛辣に批判する数多くの人々が、米国嫌いの反動のためか、今もロシアには甘い点をつけ、淡い期待を託している現状を、筆者は残念に思う。

たとえば、兵頭正俊氏でさえ「南スーダンの黙示録」(2016年12月1日)において次のように語っている。
       
 

2015年にノーベル文学賞を受賞したスベトラーナ・アレクシエービッチが日本にきている。

11月28日に、東京外国語大学で講演して、「日本には抵抗の文化がない」と発言した。福島第1原発破壊の福島を視察して、被災者から国の責任を追及する声が少ないことに驚いたものである。

福島で目にしたのは、日本社会に人々が団結する形での『抵抗』という文化がないことです。祖母を亡くし、国を提訴した女性はその例外です。同じ訴えが何千件もあれば、人々に対する国の態度も変わったかもしれません。全体主義の長い文化があったわが国(旧ソ連)でも、人々が社会に対する抵抗の文化を持っていません。日本ではなぜなのでしょうか

「全体主義の長い文化があったわが国(旧ソ連)でも、人々が社会に対する抵抗の文化を持っていません」という言葉をそのまま受け取るわけにはいかない。ロシアは、世界史に残るロシア革命を成し遂げ、またその革命が裏切られると、ソ連邦をも倒した

 
隣の芝生は青く見えるのであろう。だが、アレクシエーヴィチはロシアという国を十分に知った上で、以上のように発言しているのだ。それは知らない者に否定できる見解ではない。さらに、ロシア革命は、今日の言葉で言うカラー革命の一種であり、ソ連崩壊も同じことである。それらは決してロシア人の勇敢な抵抗の精神を物語る立派な歴史的事実ではない。とにかく、ロシアを色眼鏡で見て甘く評価することは、相当に危険である。この国の流血の歴史に比べれば我が国の方がまだ幾分か罪が軽いとさえ言える。
 
またもや話がロシアに飛んだので、ASKAの話に戻らねばならないが、ASKAが訴えている盗聴・盗撮などといった手法は、以上に記したように、何世紀にも渡り、国家権力が国民を取り締まり、統治を強化するために実際に用いて来た闇の手段なのであり、何も病人による筋の通らない戯言ではなく、さらに、公権力を批判する者が「狂人」や「病人」扱いされるという歴史も、今に始まったことではないのである。

いつの時代にも、国家権力は、人々が何千ページもある難解な論文や報告書を書いて政権を批判することよりも、絵画や、音楽や、詩などの、人の心に単純に訴えかける、民衆に広く理解される単純な形式による政権批判の方を目の敵にして取り締まって来た。
 
何千ページにも及ぶ論文は、読む人も限られるが、わずか数十分のプロモーション・ビデオなどは、誰でも容易に理解できる。

筆者が何を言わんとしているかもう分かる人もいるかも知れない。ASKAが訴えたような執拗かつ大規模な集団ストーキングが、もし国家権力と結びついたものであった場合、一体、それは何を理由として始まったのか。何がきっかけで、同氏はそれほど激しい妨害にさらされることになったのか。
 
誰でもすぐに思いつく重要なきっかけの一つは、 CHAGE&ASKAがかつて宮崎駿監督のスタジオ・ジブリの制作により、反原発をアピールする以下のプロモーション・ビデオ"On your mark"を作ったことである。「ああ、またもや、原発反対派による国家権力による陰謀説か。そんなものは聞き飽きた」と一笑に付すのは簡単だが、少し待ってもらいたい。
  


このプロモーション・ビデオは、Wikipediaの記述によれば、最初に公開されたのは1995年で、その後も、コンサートツアーで使われたり、2005年にはスタジオジブリのDVDにも収録されたりして、問題なく公開されていた様子なので、その事実を見る限り、最初からこのビデオが問題作として当局からの攻撃の対象となったという事実は全くないものと考えられる。

おそらく、福島原発事故が起きるまでの間は、かなりディープな問題提起がなされているとは言え、それほど物議を醸すことのない比較的無難な作品であったように思われる。

しかしながら、3.11後、権力にとって、このプロモーション・ビデオは、それまでとは全く違った意味合いを持つものとなった。すなわち、原発推進という「国策」に真っ向から逆らう、「権力に盾突く」深刻かつ見過ごせない内容の「危険作品」になったのである。

特に、当のASKA自身が明白に反原発のプロパガンダの意味を込めてこの作品を利用しようとしたことが、余計に当局の反発を買ったのではないかと予想される。

このプロモーション・ビデオのタイトルは、CHAGE and ASKAのライブとしては6年ぶりに予定されていた再始動の意味を持つスペシャルライブ2013“On Your Mark” にも大々的に利用されていた。このライブは、ASKAに「一過性脳虚血症の疑いがある」という理由で延期され、その後、完全中止になったが、この時につけられた病名が本当に正確な診断であったのかどうかについては色々な憶測が飛んでいる。

ASKAが最初に覚せい剤取締法違反の容疑で逮捕されたのは、2014年5月17日であり、この逮捕の影響により、それから約1か月後の6月18日に予定されていた上記のビデオの「宮崎駿監督作品集」の特典映像としての収録が中止になった。

筆者は、ASKAの覚せい剤使用の容疑が全て捏造であったと言っているのではない。おそらく一度目の逮捕の容疑は事実だったのだろうと想像する。だが、芸能人と暴力団や薬の使用との結びつきは、ASKAに限らず、あまりにもありふれた話でしかなく、当局はそのようなことはすべて知った上で、いつそれを大々的な事件として取り扱うかということだけに焦点を絞っていた可能性が高い。

当局は、有名人CHAGE and ASKAの華々しい再デビューと、反原発のプロパガンダのビデオが一つに結びついて、大々的に国民感情を揺さぶる現象を引き起こすことを何より恐れ、一計を案じたのではあるまいか。これを防ぐために、ライブの中止に向けて逮捕を計画しただけでなく、ASKAの名誉を徹底的に貶める執拗な報道によりビデオの信憑性を国民に疑わせ、その普及を阻止すべく手を打ったのではないかという見方が可能である。
  
さらに、上記のプロモーション・ビデオの他に、当局の恨みを買うきっかけとなったもう一つの事件が、ASKA自身が、(おそらくは国家権力と結びついた)大規模な盗聴・盗撮のシステム(集団ストーカー)の存在を告発しようとしていた事実である。

集団ストーカーの存在は、これまでネット上の妄言とされるばかりで、芸能人や著名人がその存在を認めることはほとんど無かった。影響力の大きい著名人の発言だけに、余計にそれが社会的に認知される前に早々に闇に葬る必要があったと見られる。

ASKA本人の手記によれば、同氏がこの問題に深入りするきっかけとなったのは、身近な他者が集団ストーカーの被害に遭い、自殺したという事件から生じた慙愧の念と義憤だったようである。同氏の手記を額面通りに受け止めるなら、他者の無念を晴らそうと、自らその事件に深入りしているうちに、組織的な盗聴・盗撮集団の存在を突き止め、これを追跡しているうちに、自身がターゲットとされたということになる。

だが、ASKAの手記を読むと、同氏は人を信じやすく、正義感が強く、疑うことのできない人柄の持ち主であったように見受けられてならない。そういう性格の人間を闇の中に誘導して陥れるには、親しい知人を痛ましい事件に巻き込むだけで良い。だから、真相は分からないとはいえ、監視集団の真のターゲットは、初めからASKAだった可能性も考えられる。

こうしたことは、栩内香澄美容疑者についてもあてはまる。ASKAはこの女性をも疑うことができないでいる様子だが、パソナにおける会長秘書という役職を考えるとき、おそらくこれは普通の人間ではないだろうという印象が拭い去れない。彼女はもともと一定の目的で派遣されたエージェントであった可能性が考えられる。道連れに逮捕されたのは目くらましで、当局の真のターゲットはもともとASKA一人だったのではないだろうか。
  
今回、二度目に逮捕される直前、ASKAは盗聴・盗撮集団の存在について、次のように言及していた。
   

  「ASKA容疑者 謎の言葉「ギフハブ」とは?」daily sports 2016.11.30 によると、
 
「同容疑者は警視庁に28日に逮捕される約5時間前に宮根誠司キャスターと電話で話し、その模様を29日に同番組で放送した。その際、同容疑者は「組織があるんですけど、ギフハブっていう。そこが組織を作って今…」などと自分の行動が監視されていると訴えていた。」



そこでASKAの語った具体的な内容は次のようなものだったという。
 

「ギフハブ」っていう組織があるんですけどそこが組織を作って。
今AR(拡張現実)っていう仮想現実なんですけど僕のいるところを映したりして。
携帯の中にそのアプリが埋め込まれてたんですよ。その証拠もとってるんですね。」


この秘密組織の存在は、様々な場所で、ASKAの妄想と幻覚を示す証拠のように嘲笑されているが、本当にすべてが作り話と決めつけられるであろうか。

何しろ、スマートフォンを含む携帯電話が、人々の位置情報、通話内容を含め、音声の盗聴及び盗撮に利用されうること、携帯電話を通して得られた情報をすでにCIAなどの大規模組織が大がかりに利用していることは、エドワード・スノーデンなどもすでに指摘していることであり、何ら新しい情報ではない。

それはあくまで米国の話だと我が国の人々は思って安心している。しかしながら、もしASKAの証言により我が国においても、同様の大規模監視集団の存在があることが明るみに出れば、人々はパニックに陥り、携帯電話を二度と使わないと決意するであろう。そのようなことを防ぐために、こういう話は早めに「妄想」と決めつけるのが手っ取り早い。病気でないなら、薬による幻覚、脳の破壊ということにして、「妄想の持ち主」を徹底的に見せしめに嘲笑すれば、そんな「作り話」は誰も口にしなくなる。

ところで、ARを作って、そこに現実の人物を置くことで、現実世界のパラレルワールドを作り、人間を監視するという、ASKAの語る監視手法は、上記のプロモーション・ビデオの中にもヒントがある。

"On your mark"のストーリーは、すべてがパラレルワールドから成り立っているとも言える。まず、そこでは、現実世界は放射能に汚染されて、人が住めなくなっており、人々は地下に現実を模した人工都市を作って、そこをあたかも現実世界のように思って生活している。それは人々を人為的に閉じ込める一種の「マトリックス」である。

この自由なき地下社会を支配しているのは、現実世界を放射能に汚染させて人が住めないようにした犯罪者政府であり、その犯罪者政府が、いかがわしいカルト宗教と手を結んで人心を統治しているというのが、このビデオの動かせない「現実」である。



ちなみに、このカルト宗教の掲げる標語"God is watching you"「神はあなたを見ている」は、この宗教の第一目的が、全ての人々を「監視する」ことにあるとよく物語っている。要するに、「おまえらはみな監視されているぞ」という脅し文句である。この宗教はフィクション版のフリーメーソンであり、そこで言う「神」とは悪魔を指す。

このすべてが裏返しのフィクションにおいて、主人公は、警察官の職に就いている友人同士の二人である。だが、二人がカルト宗教団体に突入するというストーリーの始まりは、そこからしておそらくはすでに幻想であり、妄想であると筆者は思う。

本当は、この世界においては、犯罪者政府とカルト集団による支配から逃れられる者は誰一人いない。現実における主人公は、カルト宗教・政府の手先としての「官憲」でしかないであろう。だが、ちょうど映画「マトリックス」がそうであるように、現実の欺瞞に気づき、これに耐えられなくなった主人公が、この「マトリックス」を脱し、勇敢に巨悪と闘うる正義の味方となるという「夢」を一人、空想の内に思い描くのである。

この「夢」の中で、主人公はカルト宗教にとらわれていた一人の翼ある少女を救出するというミッションを帯びる。が、何度も失敗しては、また最初からやり直しになる。ゲームのように、一度失敗すると、オールリセットして、また新たな策を練って、初めから出直しとなる。このストーリーでは、少女を救出して解放することが、人類全体の自由を取り戻すことと同義になっている。

その救出作戦の途中で、研究資料として政府に連れ去られた少女の位置情報を探り出すために、主人公はパソコンに向かう。パソコンの上には、不思議の国のアリスに登場するウサギを思わせる置物が置かれている。

少女の位置情報は、パソコンの向こうの仮想現実の中で見つけられる。「マトリックス」の世界に存在するすべては、コンピュータープログラムによって監視され、記録されているので、システム上で探り出すことが可能である。

CHAGEを思わせるもう一人の主人公が作ったものは、無線機のようにも見えるが、少女が監禁されている装置のロックを解除するためのリモコンであるらしい。





 
  
なぜこの少女は国家による研究材料にされて、試験管のような装置の中に閉じ込められたのであろうか?

推測に過ぎないが、この少女にはおそらく、放射能を無害化する特殊能力があるのだと思われる。そのことは、このストーリーの最後に、汚染された町で、少女一人が生き生きと羽ばたいて空へ向かっていく様子からも理解できる。

犯罪者政府とカルト宗教は、放射能を無害化する技術が一般大衆に知れ渡ると、地球が再生され、自分たちが人々を脅し、「マトリックス」である地下都市に監禁する口実がなくなるので、自分たちの支配が永遠に続くように、少女を隔離することによって、その技術を政府が独占し、外へ知られないように手を打ったのである。

むろん、この少女は存在自体が、主人公の「妄想」の産物である。実際には、この少女はカルト宗教に捕われて、無残に犠牲にとされた信者(もしくは奴隷)の一人に過ぎない。その犠牲者の少女に、地球再生の鍵が秘められているというのは、主人公の「夢」でしかない。

だが、その「夢」においては、政府と宗教団体の犠牲となって閉じ込められている一人のか弱い少女を救出して、汚染区域に解き放つことは、少女一人だけでなく、地球全体が救出される道である。少女が持つ放射能を無害化する力によって、汚染区域は、長い時間をかけて、再生の道を辿り、それによって地球は再び人の住める場所となり、未来の人類に、犯罪者政府とカルト宗教による支配から逃れる道が開かれるのである。

つまり、一人のか弱い人間を救うことが、地球全体の救済へとつながっているのであって、それを成し遂げることが、主人公が真の英雄へ至るミッションである。主人公二人は、汚染区域に入ったことによって、死ぬ羽目になるが、少なくとも、自己を犠牲にして、地球を汚染から解き放つ方法を提供することで、真の英雄になれたのである。

このビデオはフィクションとはいえ、現実世界の歪みを鋭く暴いて糾弾する意味を持っている。それは放射能の脅威(だけでなく人類の直面するあらゆる問題)を逆手ににとって、その脅威を悪用して人々を脅しつつ、カルト宗教と結びついて、人々の自由な暮らしを奪いながら、恐怖によって人心を支配する政府の存在を指摘していることである。その犯罪者政府にとって、放射能汚染という恐怖は、永久に取り除かれずに存在していた方が、むしろ、好都合なのである。

3.11以降、このフィクションに込められた現実の矛盾を暴きだす力が、あまりにも強烈なメッセージになったがゆえに、当局はこれをお蔵入りとし、闇に葬る必要があったのである。

そのために、フィクションの物語を裏返しにして、ASKAを模した主人公が、現実世界においてはスキャンダルと恥辱にまみれた「容疑者」となり、決して「英雄」にはなれず、少女も飛び立てず、再生の道が絶たれるように、悪意を込めて物語の事実をひっくり返したのである。

この悪意ある監視集団は、そのために現実とは別のもう一つの仮想現実であるARの世界をコンピュータ内に作り、そこでASKAを監視の対象、さらし者にした。そのARにおいて、彼らはどうやって同氏を罠にかけ、貶めるかを話し合ったのであろう。そして、その悪意が現実世界にも及ぶように、周到な計画を練ったのである。現実世界において、同氏をどんな風に罠に引き込んで凋落させるかを話し合ったのであろう。

「落ちて行くだけのコインは二度と戻らない」(コインでした。訂正します)とか「流行りの風邪にやられた」などの歌詞を彼らは弄び、悪い事柄だけが現実になって降りかかり、作品自体が本人を嘲弄する手段となるように粋を凝らしたのである。

この犯罪者集団は、おそらくはASKAの他にも自らの脅威となりうる人間に対して、ずっと同じ方法で監視を繰り広げ、その人物が真の社会的脅威となる前に、あらゆる方法を使って社会から排除されるよう、引きずりおろして来たものと想像される。小沢一郎、植草一秀、鳩山由紀夫などの政治的大物は言うまでもないが、影の政府にとって不都合な人間を欺き、その人間性を貶め、周到に罠にかけるのが彼らの仕事であり、今やその手法はただ単に社会的な大物だけでなく、一般人にまで及ぼうとしている・・・。

しかしながら、こうした恐るべき推測を一旦、脇に置いても、このビデオは宮崎駿の作品にしては、随分、不吉な印象である。特に、この翼ある少女には、宮崎作品に登場する多くの女性主人公のような主体性があまり感じられず、彼女はただ受動的に救いを待っているだけの、意志を奪われた無力な人間であり、どちらかと言えば、『風立ちぬ』に登場する女性のように、悲しい犠牲者の風貌をしている。このストーリーの中では、本当の彼女はきっと、翼もなく、ただ痛ましい犠牲となって死ぬおびただしい屍の一人に過ぎないのであろう。この犠牲者としての風貌の中には、汚染された地域の被災者の悲しみのすべてが、隔離された人類全体の悲しみが投影されている。

この哀れな犠牲者の少女を解き放つために、結果的に、二人の主人公も命を失う(としか思われないのだが)というエンディングもかなり悲愴である。話の運びのテンポは良いが、『風立ちぬ』もそうだが、エンディングが、ハッピーエンドなのか、悲劇なのか分からないという消化不良を観た者に引き起こす。『風立ちぬ』の主人公は、明らかに体制側についた人間であり、自らの想像力を悪なる戦争のために利用され、妻を救う手段も見つけ出せなかった無力な人間である。彼には妻の愛情に報いる術もなく、彼女が死の床についてから、病める時も、人生を共にしてやるという伴侶のつとめを果たせず、むしろ戦争の大義を優先したような非力で無能な男性である。それとほぼ同じように、このビデオの中でも、主人公が英雄になれるのは、自分の空想の中だけである。

もしかすると、このあたりが、現在の日本人一般男性の思考と能力の限界かも知れないと思う。何しろ、この国は、真の意味での精神的自立を成し遂げたことが今まで一度もないのだ。だから、これまで、この国で生きるということは、多くの人々ににとって、マトリックスの一員、体制側の人間として生きることしか意味しなかった。特に、男性が、社会に認められようと思ったときに、完全に反体制的人間として、マトリックスを告発する側に立つことはほぼ許されなかった。こうした意味で、我が国の遅れて閉塞的な文化的・精神的な状態はロシアに非常によく似ているのである。

だから、この国の男性たちはおおむね誰もが自分の魂をどこかで置き去りにし、権力に売り渡しながら生きて来たのであり、それが悪であることは、本人の魂が重々知っている。だが、それより他の生き方を選択できないので、その人々は自分の心の本当の願いを、フィクションや、仮想現実や、空想に託すしかない。上記のプロモーション・ビデオも、ある意味では、良心を曲げられ、屈従を強いられた人間の慙愧の念と良心の叫びから出て来る「妄想」や「幻覚」に近い現実逃避としての「夢」のように見受けられる部分がある。

しかし、ASKAはおそらくこの仮想現実の物語を地で生きようとしていたのであろう。カルト宗教団体に捕われ、犠牲となった少女を見捨てておけなかった主人公のように、集団ストーカーの犠牲となった死んだ友達をも放っておくことができず、原発事故被害を見過ごしにすることもできず、犠牲となった人々を助けたいという生来の義憤と同情から、深い暗闇に自ら首を突っ込んで行き、自分自身もその犠牲となったのである。

だが、その同情と義憤にこそある種の非常な人間観の甘さ、お人好しさがあったのだと言える。結局、人間が自分の手で人間を救おうとする試みは必ず頓挫し、犠牲は犠牲の連鎖を生むだけで、どんなに美しく見える人の良心も、愛情も、義憤も、決して人を生かす真の力とはならない。人間の救いは神にしかなく、人間自身には義はないからである。犠牲の連鎖を抜け出る新たな生き方が必要なのである。

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イゼベルの霊がもたらす男女の秩序転覆――男性化した女性たちと、非男性化された男性たち

・「偽りの期待を持たせて人を欺きながら、梯子を外し、騙された相手を嘲笑する」(ダブルバインド)イゼベルの霊の典型的な心理操作のテクニック

さて、話題は少し変わるようだが、以前の記事の末尾で紹介したEden Mediaの警告動画では、興味深い事実が告げられている。それは「イゼベルの霊」が、女性の男性化と、男性の非男性化という転倒した現象を人々にもたらすという指摘である。

本稿では、ペンテコステ運動に関わった信者たちと接して来た筆者自身の実体験を通して、この問題について、より踏み込んで考察していきたい。
 


 
 
筆者は、ペンテコステ運動とはイゼベルの霊に率いられる弱者救済を装った秩序転覆(キリスト教破壊)運動であると見ており、イゼベルの霊とは、端的に言えば、グノーシス主義の秩序転覆の霊を意味する。

なぜイゼベルという女性の名がついているかと言えば、この霊は神に対する人類(霊的女性)の側からの反逆の霊であり、より低い次元では、男女の秩序を覆すフェミニズムの思想を指しているからである。ペンテコステ運動にも、その思想的な基盤に、フェミニズム神学なるものが存在することはすでに確認した。
 
このように、イゼベルの霊とは、男女の秩序を覆す霊、もっと言えば、神と人類との立場を置き換えて、被造物に過ぎない人間が、己を神として自分自身を拝み、栄光化する人類の自己崇拝とナルシシズムの霊であり、他者の心の傷をきっかけに人の心に侵入し、ターゲットを抑圧的に支配する。当然ながら、この霊は、ターゲットが自分よりも強い男性であっても、弱みを握ることで、思い通りに支配して行く。

さて、「男性の非男性化、女性の男性化」という本題に入る前に、まずは最初にイゼベルの霊の心理的支配のテクニックについて述べておきたい。

以下の図は、以上の動画の画像に筆者が注釈を書き加えたものであるが、これはイゼベルの霊がターゲットとする人間を、自分に都合の良い「箱(マトリックス)」に閉じ込めた上で、様々な心理的な駆け引きを行うことによってターゲットを自分の支配下に束縛し、搾取・抑圧する手法を構造的に表している。
 
 
  
イゼベルの霊とターゲットとは、何らかの心の傷(コンプレックスや負の記憶のトラウマ)を通じて強固なソウル・タイによって結ばれている。この霊は一見、人の心の傷に優しく寄り添い、これを癒してやるように見せかけながら、ターゲットに近づいて行く。その偽りを見抜けず、心を開いたターゲットは、彼女の偽りの優しさに依存するようになる。だが、イゼベルの霊は、ターゲットの心の傷を癒すどころか、より押し広げ、ますます重症化して行くことで、ターゲットの弱みを半永久的に握って、自分から離れられないように仕向ける。「傷」を頼りに結ばれるこの「絆」が絶ち切れない限り、ターゲットはイゼベルの霊によって永久に搾取され、人格がどんどん弱体化して行くことになる。

イゼベルの霊は、愛や同情や優しさに見せかけて、自分がターゲットを搾取し、不当に抑圧していることを気取られないように、ターゲットを自分の用意した「マトリックス」(=イゼベルの霊の管理と統制が行き届いている閉鎖的な組織や宗教団体やサークル等)に閉じ込め、ターゲットが得られる情報が非常に偏った一方的な内容に制限されるように操作する。

情報こそ、人間が物を考え、自由を希求する上で最も有力となる手掛かりなのであり、人間へのマインドコントロールは、まずはターゲットとなる人間から自由な情報源を奪い、ターゲットを社会的に孤立化させて、得られる情報を制限することから始まる。ターゲットとなる人が客観的な情報を自由に幅広く入手した上で、自分自身の頭で、何が正しくて何が間違っているのかを自主的に吟味し、物事を疑いながら批判的に考察しながら判断を下す自由と考察能力を失った時点で、マインドコントロールの基礎はほぼ完成している。

イゼベルの用意する「箱(マトリックス、子宮)」はそのためにこそ存在する。つまり、この霊は、ターゲットがまるで子宮の中にいる赤ん坊のように、彼女からの栄養補給がなければ、自分では何もできないような、依存的で手足を縛られた状態にするのである。この霊は、ターゲットを何かの閉鎖的な組織や団体に閉じ込めることで、ターゲットが誰とでも自由に交流でき、様々な情報を自分の意志で広く入手できるような環境を奪う。経済的な自立を奪うことで、行動を制限することも少なくない。そして、この霊は、自分の気に入った一方的で都合の良い偏った情報だけを、ターゲットに「正しい情報」として与え、それ以外の情報を一切、「間違ったもの」として受けつけなくなるように教え込むことで、ターゲットが不都合な情報に接するのを禁じ、マインドコントロールを施す。

多くの場合、宗教団体がターゲットを閉じ込める「マトリックス」の役割を果たすことになる。イゼベルの霊は、「神」の概念を悪用することによって、自分にとって都合の良い情報にしかターゲットが接触しなくなるように仕向ける。彼女は、世話好きで、慈愛に満ちた優しい助力者、敬虔な信者や、宗教指導者の姿に仮装し、自分こそが人生の正しい指南役であるかのように、ターゲットの前に現れてその心を掴み、「神」や「宗教」に名を借りて、ターゲットが自分の与える情報や助言だけに依存して生き、彼女の思う通りの人間になるよう操作して行く。こうして、イゼベルの霊が、ターゲットを閉じ込めるための「子宮(マトリックス)」が完成する。

もしこの霊の閉じ込めがあまりにも乱暴で性急であれば、誰でも自分が操作されている危険に気づくであろう。そこで、イゼベルの霊は、ターゲットが自分は騙され、搾取されているだけなのだとは気づかないように、様々な偽りの「餌」を与えることで、ターゲットを懐柔しながら、アメとムチによって心理的駆け引きを繰り広げる。ある時は、ターゲットをおだてあげ、立派な指導者的な立場などを用意してやることにより虚栄心をくすぐり、ある時は、か弱いふりをして、泣き落としや、同情を引き出す作戦に出、ある時は、性的な魅力をアピールし、思わせぶりな態度を取ることで、恋人の代わりを演じ、ある時は、何か偉大な奇跡のような事柄を約束し、心を揺さぶる。そのようにして、ターゲットを様々な「餌」を使って自分に引きつけておきながら、いざターゲットがそれに騙されて近づいてくると、冷たく突き放して混乱させる。そして、その混乱した姿を見て、ターゲットを侮蔑し、恥をかかせ、それはターゲットが悪かったからそうなったのだと言っては、罪悪感を持たせ、態度の改善を求めて、自分から離れられないようにして行くのである。
 
このように相矛盾するメッセージを同時に投げかける心理作戦(ダブルバインド)に陥れられたターゲットは、イゼベルの霊の絶えず豹変する矛盾に満ちた行動にどう反応すべきか分からず、立ちすくんでしまい、彼女への同情心や、自分が慰めてもらいたい願望から、彼女を憎み切ることもできず、離れられないまま、対処に悩み続けることになる。そのように悩みながらこの霊と関わりを続けること自体が、すでにしかけられた罠にはまっていることを意味するのである。

さて、このようなマインドコントロールのテクニックを用いて人を思うがままに支配するイゼベルの霊の持ち主が、必ずしも、女性であるとは限らない。なぜなら、男性であっても、イゼベルの霊とソウル・タイを結べば、その人の人格は、やがてイゼベルの霊そっくりになって行くからである。

たとえば、筆者は以前の記事で、Kingdom Fellowship ChucrhのDr.Lukeによる信者への心理的駆け引きの手法についてすでに触れた。同氏には、青春時代において、将来の結婚を前提とする交際をしていた女性から結婚を求められた際に、曖昧な態度で身をかわし、返答を先延ばしにしたことがきっかけとなって、交際が破局したという事件が起きたことを、同氏自身が、自らのメッセージにおいて明らかにしていたことにも触れた。

Dr.Lukeはそれがきっかけで神を求めて回心に至ったと証するのだが、その後の人生でも、全くこれと同じパターンの行動を繰り返し、今度は、KFCという宗教団体を舞台として、そこへ集まって来る信者に対して、以上の女性に対して行ったのと同じ心理的駆け引きを繰り広げているのである。すなわち、同氏は、ブログやインターネットや動画や様々なツールを使って、いかに自分が霊的に高邁で魅力的な存在であるか(そこには性的な意味合いも当然ながら含まれる)をしきにりアピールしながら、人望を集め、その心理的トリックを見破れずに、同氏を魅力的な宗教指導者のように思って期待して近づいて来る信者らに対して、ことごとく「梯子を外す」ような行動に出て、彼らを失望させ、恥をかかせ、その信者らの混乱した様子を見て、「自分は何も約束していないのに、彼らは勝手に期待してぶら下がって来た。そういう依存的な心に問題があるのだ」などと言って彼らを侮蔑し、嘲笑するということの繰り返しであった。それでも、KFCに残り続けているのは、Dr.Lukeのそういう残酷な性格をよくよく理解した上で、殴られても殴られても夫のもとを去らない妻のように、何かの弱みがきっかけとなって、不当な扱いに完全に抵抗する力を失ってしまった信者たちだけである。

このように、何かの約束を口にしておきながら、それを守らず、あるいは思わせぶりな態度を取って人の心をひきつけておきながら、相手を突き放すことによって、ターゲットを混乱させ、その心を傷つけ、侮辱するという不誠実な行為は、典型的なイジメのテクニックである。こうした行動は、たとえば、Dr.Lukeが一方的に杉本徳久氏を提訴すると語った行動にも、よく表れていただろう。同氏は杉本徳久氏からの非難に遭遇した時、これに対してきちんと反論しようとはせず、誰も依頼していないにも関わらず、自ら勝手に筆者の名前を持ち出して、同氏に提訴の予告を行った。ところが、多くの関係者に絶大な影響を及ぼしたにも関わらず、同氏は、全く理由不明なまま、長期間に渡り、その宣言を実行に移そうとせず、ただ巻き込まれた関係者だけが大変な迷惑をこうむるという事態が起きた。Dr.Lukeがこの不誠実な行動に対して弁明らしき言葉を公に発したのはずっと何年も後になってからのことである。当時、筆者が同氏の行動の不誠実さを責め、どんなに対立している相手に対しても、そのような行動を取るべきでないと指摘し、回答を迫った時のDr.Lukeの反応は、まさに返答を先延ばしにすることで梯子を外し、自分の発言の影響に巻き込まれた全ての人間に恥をかかせ、追い詰めるものでしかなかった。しかも、KFC外の人間に対してはこのように曖昧な態度を取っておきながら、Dr.Lukeは元KFCの信者でありながら自分を批判する人間に対しては速やかな告訴に及んだのである。当時、同氏の行動の意味を正確に理解できる者はなかったであろう。

このようなことはすべてイゼベルの霊が行う心理的な駆け引きをよく物語っている。Dr.Lukeの行動は、自分の潔白を証明するために行われたものではなく、ただKFCという団体を通じて自分に接触して来た信者たちが、偽りの期待や、もしくは、何かのこじれた事件を通して自分自身につながり、半永久的に離れなれなくなることで、苦しめることを目的とするものであった。同氏は常日頃から特に何も事件が起きないまでも、他人にいたずらに期待を持たせておいて、約束したものを決して与えないことによって、いつまでも信者たちが自分から離れられなくなるように仕向けていたのである。

若い時分に、Dr.Lukeのこうした行動の背後にある不誠実さを見抜いた上で、同氏に対する希望を完全に捨てて、同氏の元を早々に去った女性は、その意味で、慧眼であったと言えよう。その女性に信仰があったのかどうかは知らないが、それに引き換え、これまで何十年間もDr.Lukeの人柄を観察して来たにも関わらず、今日になってもまだ、心理的なトリックを見抜けず、Dr.Lukeの信奉者となってKFCに束縛されている信者たち以上に愚かな存在はいない。むろん、彼らは何かの弱みを担保に取られていればこそ、不誠実な指導者といつまでも癒着を続けねばならない状況に陥っているのである。

このようなことは、村上密牧師のカルト被害者救済活動の場合にも、同じように当てはまる。村上牧師の人柄が、その外見とは裏腹に、全く信頼できない不誠実なものであることは、約14年前に鳴尾教会で同氏が引き起こした事件によって証明されている。村上牧師は、Dr.Lukeが公然とキリスト教界に反旗を翻すことで"ワル"をきどり、その挑戦的な態度で人気と注目を集めたのと同じように、キリスト教界に恨みを持つカルト被害者を集めて、裁判を通じてキリスト教界に戦いを挑むことで、自分自身を正義の味方のように見せかけたのである。

だが、その正義の味方としての立ち振る舞いも仮面に過ぎず、この牧師のもとに身を寄せた信者の中でも、裁判による解決に至るのはごくわずかでしかなく、裁判にも至らないケースが水面下に数多く存在し、真に解決を得られる信者は稀であった。さらに、鳴尾教会に対する訴訟に見るように、村上牧師自身が、スラップ訴訟としか言いようのない勝ち目のない裁判を自ら教会にしかけて、敗訴する側に回っている。そのように、問題解決の見込みがほとんどないにも関わらず、偽りの期待を持たせることによって信者たちを自分のもとに引きつけ、かつ、反対者をひどく中傷することで、自分自身の不誠実な行為の犠牲者となった人間を愚弄し、笑い者にするというのは、Dr.Lukeの行動とほとんど変わらない狭量さである。このような指導者が自らの配下にある者たちを守ることができないのは一目瞭然であろう。

だが、そうした特徴は、Dr.Lukeや村上密牧師といった個人に限ったものではなく、ペンテコステ運動全体の特徴でもある。天声教会のケースでも、KFCと全く同じように、教会という団体そのものが、指導者層が自分にとって都合の良い情報だけを一方的に信徒に信じ込ませるための「マトリックス」となっている。指導者自身も、社会から隔絶されたこの閉鎖的な環境に束縛されて、偏った物の見方しかできなくなっているが、信者たちもそこに束縛されている。

KFCや、天声教会や、カルト被害者救済活動のすべての例に共通するのは、彼らが指導者を中心に自分たちにとっての安全地帯である何かの「マトリックス」を作り、そこに閉じ込められている者だけが、正しい信仰の持ち主であって、自分たちの活動に反対する人間は皆、悪魔の手下であるかのような虚偽を流布している点である。さらに、既存のキリスト教界に対して挑発的に振る舞い、自分たちには従来のクリスチャンにはない正しさがあるかのように主張して、自分自身を正義の味方に見せかけ、常に反対者を侮辱したり嘲笑するようなメッセージを投げかけることで、批判を封じ込め、自分たちの優越性を主張しようとしている点も同じである。

彼らのメッセージ内容はほとんど全てが自分たちの正しさと優越性を誇示するためのものとなっている。それは彼らの「マトリックス」がいかに優れて正しいものであるかを、関係する信者たちに信じ込ませ、他の教会は堕落しているので決して行かない方が良いと思わせて、接触を禁じ、情報を統制した上で、自分たちのもとに永遠に束縛するために使われるマインドコントロールの手段である。

こうした指導者たちが、本当は、自分自身がまるで牢獄のような環境に閉じ込められて、自由を失っているにも関わらず、牢獄の外にはもっとひどい世界が広がっていると思わせることで、また、自分たちの活動に与しない反対者を徹底的に吊し上げ、公衆の面前で侮辱・嘲笑することによって、彼らの「マトリックス」の異常性に人々が気づいて脱走するのを阻止するという手法は、かつてソ連が取っていた政策にそっくりである。ソビエト・ロシアは、一国社会主義路線を取っていた間、世界から孤立していたが、戦争や計画経済の失敗によって国が荒廃し飢餓状態に陥ってもなお、自分たちの政策が世界に先駆けて優れたものであるという思い込みを捨てることなく、「西側の資本主義国では地獄絵図のような風景が広がっているが、それに比べれば、我が国はまるでユートピアだ」などと偽りの宣伝を行うことによって、国民の逃亡を阻止し、国外への亡命者に対しては「人民の敵」として大々的なバッシングを行うことで見せしめとし、国外逃亡に対してはこれを「罪」として死刑に相当する厳罰を科していた。共産主義という絶対にやって来ない幻を「餌」としてぶら下げることで、無いものを担保に、徹底的に国民を騙し、搾取し、支配していたのである。
 
なぜ以上に挙げたようなペンテコステ運動の指導者たちは、自己の教会を「マトリックス」化して、自由なき牢獄に自ら閉じ込められた上、他の者たちをも同じ牢獄に閉じ込めようとするのだろうか。そこにどんな目的があるのだろうか。

第一には、指導者が信者たちを食い物にして栄光を受け、金もうけをしたいという欲望があるだろう。イゼベルの霊は名誉欲の塊である。だが、彼女の内心は非常に空虚なので、自分一人だけでは何事も果たせず、常に手下となってくれる信奉者を必要とする。支持者や信奉者たちを搾取し、彼らから盗むことによってのみ、彼女は栄光を受けるのである。

この霊は偽りの希望を信者たちに持たせて彼らを欺いている間、信者たちから栄光を盗むだけでなく、金銭(献金)や労働(奉仕)をも搾取する。すでに述べた通り、ペンテコステ運動の指導者たちは、その出身を調べて行くと、その大半が、単なる「自称牧師」や「自称カウンセラー」などの、まともな教育訓練をほとんど受けていない、ただ勝手に指導者として名乗り出ただけの、ほとんど成り上がり者と言っても良いようなにわか牧者たちである。中には、明らかに問題のある環境に育ち、非行(場合によっては殺人さえ)などの眉をひそめる行為を繰り返していたり、回心してクリスチャンになった後でも、成熟した社会生活を送った経験がないに等しいような場合も珍しくない。このように、詐欺師と言っても過言ではないような不誠実かつ不適格な人間が、「聖霊のバプテスマ」を口実にして、何かの超自然的な霊力を誇たというだけで、無から一足飛びに宗教指導者として栄光の座に就き、短期間で、自分のミニストリーを開き、信者たちを集めて大金を巻き上げるのである。

こうした指導者は、(詐欺師はみなそうであるが)大胆で厚かましくパフォーマンスが巧みで、人の心の弱点を見抜いてそれを利用する技に長けているので、最初のうちは、弱者救済などを口実にして、既存のキリスト教界を勇敢に非難してその問題点をあぶり出し、悪代官をやっつける正義の味方のように振る舞い、人々の抱える問題に寄り添うことで、救済者のように振る舞い、注目を集め、感謝され、信頼され、期待されるかも知れない。

詐欺師は、無いところから幻に過ぎない栄光を引き出すために、他人の持っている栄光を盗むしかなく、その第一歩は、既存の秩序を引きずりおろして転覆させて、権力の空白地帯を作り出すことから始まる。彼らは従来の体制の不備を突き、それを転覆させる改革者のように装って現れ、その斬新で奇抜で挑戦的なパフォーマンスに圧倒された愚かな人々が、歓呼して彼らを支持し、そうした信者たちからさらに搾取して、自分の勝手気ままに支配できる団体(ミニストリー)を作り上げるのである。

だが、以上のようなペンテコステ運動の指導者たちは、突如としてどこからから現れ来て、一瞬、人々の注目をさらうものの、人間関係の結び方、行動があまりにも未熟で幼稚であり、不誠実かつ挑戦的なために、そのうち多くの人たちから相手にされなくなり、仲間内でも分裂し、孤立化して行くことになる。そうなると、何かしら一国社会主義路線のようなものが出来て、反対者も増えて来るので、信者の離散を食い止めるために、ますます彼らは疑心暗鬼に陥り、他の団体に対する敵意をむき出しにしながら、より厳しく情報を統制して引き締めをはかり、自己の優位性をしきりに強調して、信者を引き留めるしかなくなる。最後の一人が離脱するまで、自分の縄張りの外にいる信者たちを敵視・非難・断罪しながら、「自分たち(だけ)が正しい信仰の持ち主である」と言い張り続けるのであろう。指導者の不誠実な正体が早々に見抜かれてメンバー全員が離脱すればまだ良いが、そうならないうちに、指導者がいよいよ自分の正体が気づかれそうな段階になると、自らが責任追及されることを恐れて、人民寺院事件や、戦中の日本がまさにそうであったように、信者たちを道連れに集団的な心中ような悲劇的最期に向かうこともあり得る。そうなると、まさに「盗み・殺し・滅ぼす」という悪魔の意図が達成されることになる。
 
 
男性の「非男性化」と女性の「男性化」――イゼベルの霊が生み出す卑怯で軟弱化した男たちと尊大で厚かましい女性たち

さて、話を戻せば、筆者自身の目から見ても、ペンテコステ運動に関わる信者たちには、「女性の男性化」、「男性の女性化」という現象が顕著に見られた。
 
もっと卑近な言葉で説明するならば、この運動を特徴づけるのは、「男性の上に立ち、男性を思うがままに操ろうとする傲岸で不遜な女性たち」と、「そうした女性たちの尻に喜んで敷かれ、彼女たちの助けなくては何もできないほどまでに軟弱化した女々しい男性たち」であった。
 
ペンテコステ運動に関わる女性信者たちは、外見的には、非常に女性らしく、たおやかに、敬虔そうに、純粋そうに見えるかも知れない。以前、筆者は学生時代に遭遇した(後には著しいトラブルメーカーとなった)ペンテコステ信者について記事に記したことがあるが、彼女の場合も、その外見には、いずれそういう厄介な事態が持ち上がると予想させるものはなく、かえってある種の純粋な美しさのようなものさえ見て取れたものだ。その後、ペンテコステ信者たちとの関わりにおいて、筆者はこうした純粋そうに見える外見的な美が、この運動に関わる信者たちの多くに共通する特徴の一つであると分かった。

ペンテコステ運動に関わる女性信者たちは、一見、率直で、信仰熱心で、全てのことをあけっぴろげに語り、人の弱さに対しても敏感で、困っている他人にはかいがいしく寄り添う術を心得ており、その同情心溢れる行動や、親切心は、女性らしさや、内心の謙虚さの証のように見えるかも知れない。信仰生活においても、彼女たちは人助けに熱心で、自分が直面している問題や、様々な事柄についての印象を隠し立てなく語るので、それを信頼の証であるように誤解してしまう人もあるかも知れない。

だが、もう少し深く関わりを続けて行くと、そのぱっと見のたおやかさ、愛らしさ、優しさ、柔軟さとは裏腹に、彼女たちは内心では非常に頑固で、融通が利かず、しかも、一度、何かを思い込んだらどんなに周囲が止めても自制がきかないほどまでに猪突猛進で、その判断は、非常に偏っており、直情的で、非論理的で、一言で言えば、暗愚であり、何事も深く考察せず思いつきや印象だけで判断し、周囲の理解やサポートを度外視して、自分勝手に進んでいき、それにも関わらず、自分の判断に絶対的なまでの信頼を置いていることが分かるだろう。

彼女たちに何かを思いとどまるように説得するのは非常に困難である。なぜなら、彼女たちは、自分は他者よりも物事がよく分かっており、霊的に目が見えているのに、他者には自分ほど霊的視力がないから、自分の考えていることを理解できないのであって、そんな可哀想な彼らには、自分が逆に物事を教えてあげなければいけない、と考えているからだ。こうして彼女たちは、他者からの忠告を軽んじ、思い込んだ方向へまっしぐらに突き進んで行く。その勢いは止めようもないほど強引で、呆れながら見守っているしかない。すると、最後になって、やはり、彼女たちの確信は誤りだったのだということが事実として判明する。だが、それに巻き込まれた人たちは大変な迷惑をこうむるのである。

一言で言えば、ペンテコステ運動の支持者たちは、男女を問わず、大変なトラブルメーカーである。しかし、彼・彼女たちは、霊的な慢心に陥っているため、内心では自分を他者よりも賢いと思っており、自分がトラブルを引き起こしているとの自覚はない。彼らの自分は霊的に目が見えているという思い込みは、内心のコンプレックスの裏返しとして生まれる反知性主義から来る。

すでに述べたように、ペンテコステ運動の信者たちの中には、高学歴の信者は少なく、どちらかと言えば、マイノリティや、社会的に冷遇されて来た立場の信者が多く、女性信者たちの多くも、ごくごく平凡な主婦であったり、普通の人々であり、立派な学歴や、専門知識や、エリート的な職業を誇示して、自分は賢いとか、一般大衆に抜きんでた存在であるなどと言えるような人々はこの運動にはあまりいない。

だから、彼らは一見、自分たちは平凡な人間で、とりたてて賢いわけでもなく、特技があるわけでもないと振る舞っているが、その謙虚さも、真の謙遜ではなく、謙遜に見せかけた傲慢であり、彼らは謙虚そうな外見とは裏腹に、内心では、ひそかにあらゆる「知」を嫌悪し、憎みながら、無知である自分が最も賢いと考えているのである。

そのような考えが生まれる理由は、この運動の支持者らが、偽りの「霊」を受けていることにある。すでに述べた通り、ペンテコステ運動を率いる霊は、グノーシス主義的な秩序転覆の霊、人類の自己崇拝・自己栄化・ナルシシズムの霊である。この霊の特色は、まず反知性主義である。なぜなら、この霊の起源は、サタンが人類に吹き込んだ偽りの知恵に由来するからである。ペンテコステ運動が反知性主義的(別の言葉で言えば、体験主義)である理由は、まさにここにある。

なぜペンテコステ運動が体験重視なのかと言えば、それはこの運動が、もともとあらゆる知性(による考察と検証)を憎んでいるからである。この運動においては、何の論理的な裏付けも検証もなしに、信者たちが見せかけ倒しの奇跡や、安易な受け狙いのパフォーマンスに欺かれているが、そうなるのは、この運動に関わる信者たちがもともと深く物事を自らの頭で考察し、自分自身の知性によって検証することを馬鹿にし、嫌悪しているからである。こうした現象はペンテコステ運動を率いる反知性主義的な霊が引き起こしている霊的盲目である。

ペンテコステ運動の体験主義は、悪魔から来る偽りの知恵
であって、その起源は創世記において、エバが悪魔にそそのかされて、何が正しく、何が間違っているのかを自らの頭で考察・検証することをやめて、ただ感覚と印象だけに身を任せて、自分にとって美しく、好ましいと感じられる禁断の実を手に取って罪に堕落した時に、彼女に吹き込まれた偽りと同じトリックである。

悪魔は、決して信者たちに何事もきちんと考察・検証させず、ただ感覚と印象だけに従って、自分にとって好ましいものを選び取るようそそのかす。その上、そうした愚かで自己中心な行動によって、「神のようになれる」と吹き込むのである。今日も、ペンテコステ運動の信者たちは、何も考えずに自分にとって好ましいと思われる体験に安易に身を任せることで、自分が「神のように賢くなった」と偽りの高慢を吹き込まれているのだが、そんな思い上がりが、キリストの御霊から生まれて来ることは決してあり得ない。


ペンテコステ運動の信者たちは、内心では反知性主義的で、知性そのものを憎んでいる。彼らは、知性があるから、自分は賢いと考えているのではなく、「霊」を受け、何かの神秘体験を味わったから、自分には霊的視力が与えられたと思い込んでいるのである。彼らが「知性」だと考えているものは、その実、自らの欲にそそのかされる「愚かさ」であって、「霊的盲目」に他ならない。だが、その霊は、反知性主義的な高ぶりの霊であるがゆえに、それが愚かさに過ぎないことを気づかせず、むしろ、一番愚かな者に、「自分は一番賢く偉い」などと思い込ませるのである。


この反知性主義は、コンプレックスの裏返しでもある。もう一度、創世記で、悪魔がアダムとエバを堕落させるために欺いた時に用いた心理的トリックを振り返ると、悪魔は人類に向かって、「神は不当にあなた方(人類)の目から知性を隠して、知性を自分だけの専売特許として独占することによって、偉く賢い存在となっているのだ」などと思わせたことが分かる。悪魔は人類に対して、「あなた方は不当に教育(知)を受けられなかったがゆえに、未だ愚かさの中にとどめおかれているのであって、神のあなた方に対する扱いは不当である」という(神に対する)コンプレックスを植えつけたのである。

ペンテコステ運動の信者たちは、低い社会層の出身であることが多いと書いたが、彼らの中には、幼少期から満足な家庭環境がなかったために、心傷つき、あるいは低い社会層の出身であるがゆえに冷遇され、差別されたり、回心前には、少年時代からの不良であっていたり、非行に走っていたり、果てはヤクザになったりした者もある。こうした社会層の出身者には、たとえ無意識であっても、自分の生い立ちへの引け目があり、特に、「自分たちは貧しかったがゆえに不利な立場に置かれ、無学な状態に留め置かれ、十分な教育を受けられなかったために、こんなに愚かになってしまったのだ」というコンプレックスと恨みが心に存在していることが多い。そういう恨みは、特に、高い教育を独占することによって、有利な就職をし、高給にあずかり、「貴族」のごとく支配層となっている知的エリートに対する恨みとして心に潜んでいる。

その無意識の恨みと、被差別感情があるゆえに、彼らは常に自分よりも弱く、問題を抱えた人たちを周りに集めて、人々の救済者のように振る舞いたがるのであり、男性信者、男性指導者であれば、自分よりも知的な女性が目の前に現れた時に、コンプレックスゆえに彼女らを自分に対する大いなる脅威と感じ、敵愾心をむき出しにしたりするのである。

ペンテコステ運動の信者たちは、たとえ無意識であったとしても、いつまでも社会の底辺の敗残者とみなされたままでいることには我慢がならないという怒りと復讐心と、それでも、社会的弱者が知性において勝負しても知的エリートに決して勝つことはできないという確信から、自分たちを見下し、踏みつけにして来た知的エリートを出し抜くために、知性によらず、神秘体験を高く掲げることによって、エリートを凌駕し、復讐を果たそうと試みているのである。それは、彼らを導く霊がさせていることである。このようなことを全て認識した上で、この運動に入信する信者はいないであろうが、たとえ信者たちが認識していなくとも、この運動の根底に流れるものは、反知性主義を掲げることによる知的エリート(最終的には人類、神)に対する復讐である。

だから、こうした運動に関わる信者たちが、愚かな者こそ一番賢いと思って、一切の知的考察を退け、ただ感情と印象だけですべての物事をおしはかるような暗愚な行動を、「知」として誇っている背景には、自分は十分な教育の機会を不当に奪われて社会において冷遇されて来たがために、愚かさの中に閉じ込められて生きるしかなかったのだという恨みの念と、その劣等感ゆえに知性を軽んじ、嫌悪することで、あらゆる知的なものに対して優位に立ち、勝ち誇りたいという復讐心が潜んでいるのである。

筆者はむろん、この国の(あるいは世界の)知的エリートと呼ばれる人々の誇る知性が、必ずしも正しいものだとは思っていないし、彼らが高い教育を財力によって独占している状況もあるべきとは考えない。多くの国々では教育は無償化の方向へ進んでおり、それが世界的な流れであって、我が国もそうならなければならないと考えている。だが、たとえ、すべての人々が高い教育を受け、今とは比較にならないほどの知性を手に入れたとしても、まことの知恵はただ神にのみあり、人類にはどちらを向いても、正しい知恵はないのである。人間の知性にはいたずらに人を高ぶらせる効果がある。今日の知的エリートもまた歪み、病んでいる。だが、それでも、ペンテコステ運動の信者たちの知的エリート主義に対する反発から生まれる反知性主義がいただけないのは、たとえそれがどんなに表面的には、社会構造の歪みから生まれるやむを得ない反発であるように見受けられたとしても、その根底には、神に対する恨みに起因する、人類と神への挑戦という恐るべき性質が隠されているからである。特に、ペンテコステ運動の信者たちは、自らの無知や愚かさを「知」として誇ることで、内心では、悪魔の知恵を振りかざして神の知恵に挑戦しているのである。

こうした特徴のために、ペンテコステ運動に関わる信者たちは、うわべは柔軟で謙虚そうに振る舞っていても、内心では頑固で融通が利かず、一旦何かを思い込むと、周囲のどんな説得にも耳を貸さず、誰に対しても、自分の方が物事がよく見えていると思い込み、その思い込みに基づいて、他者を思い通りにコントロールしようとするのである。

だから、この運動に関わる女性信者たちは、外見がどんなに女性らしく見えたとしても、男性的なまでに猛烈なパワーを発揮してリーダーシップを握り、旋風のごとく周りを巻き込みながら、あらゆる物事を自分の思い通りに進めようとする。

そして、これと引き換えに、この運動に関わる男性信者たちは、軟弱で、意志薄弱で、女性たちからの助けがなければ何もできないほどまでに臆病で無責任な卑怯者となって、上記のような信者たちの言いなりになって、その掌で転がされ、彼女たちの命令に引きずられて行くのである。

このように「男性化した女性」と「非男性化された男性」との転倒した秩序は、たとえば、KFCで隠れてメッセージを語っていたBr.Takaこと鵜川貴範氏とその妻直子氏の関係性にも顕著に見られた。二人の内で主導権を握っていたのは、明らかに妻の方であった。直子氏の高圧的で恫喝的な物言いの前には、Br.Takaのみならず、Dr.Lukeもまるで忠犬のごとく従っていたのであった。

ペンテコステ運動に関わる男性たちが、このように大胆不敵な女性たちに屈従するのは、彼らの内面が空虚で、劣等感に苛まれ、自己が傷ついているためであって、彼らには真のリーダーシップを取れるだけの自信と力がないのである。こうした男性たちには、支持者に誉めそやされ、他者を押しのけて優越感に浸る以外には、自信の源となるものがない。そして、他者から何かを盗むことだけを生き甲斐としている。

筆者は、ペンテコステ運動(だけに限らないが)の信者たちが、勝手に人のメールを転送したり、他人のブログ記事を自分が思いついたもののようにメッセージで利用したり、聖書や先人たちの著書を無断印刷して大量に配布したり、これを自分の作品のように自分のブログで著作権表示もなしに縦横無尽に引用したり、改造する場面を幾度となく見て来た。その結果、こうした剽窃は、盗みなのだという結論に筆者は至っている。

彼らは、自分に近づいて来る信者から栄光を盗むだけでなく、手柄を盗み、思想を盗み、夢を盗む。特に、人の望みを奪って、他者を失望させ、隅に追いやっておきながら、自分だけが脚光を浴びて、すべての栄光を独占することで、気に入らない他者に対する圧倒的な優位性を誇示することが、彼らの最大の生き甲斐であり、よすがである。

この人々は内心が空虚なので、人から盗む以外には、自己の自信と力の源となるものが存在しない。彼らが力強く、大胆に、目を輝かせて、立派そうな態度を取り、雄弁なメッセージを語るのは、イエスマンの支持者に囲まれて誉めそやされ、持ち上げられている時か、教師然と人を上から教えている時か、他者を批判して引きずりおろしている時か、自分よりも弱そうな誰かに支援者のように寄り添い、人の弱みを巧みに聞き出しては内心で自分の優位性を確認して満足している時か、あるいは、自分の偉大な超自然的な力を誇っているような時だけである。

彼らは、人に正体を見破られ、おべっかを受けられなくなり、捧げてもらうものもなくなり、盗むものがなくなり、自己の優越性が失われると、完全に心弱くなって力を失ってしまう。彼らは自分が栄光を受けることのできる舞台には、好んで出かけて行くが、いざ自分が不利な立場に置かれ、人に非難されたりすると、途端に臆病になり、まともな反論一つもできずに、仲間を見捨ててさっさと逃亡し、自己弁護や反論の仕事を支持者たちに任せきりにしながら、自分は影に隠れて陰湿な復讐計画にいそしむことも珍しくない。

多くの場合、ペンテコステ運動のリーダーたちは、あまりにも自尊心が傷つきやすく、臆病で、ナイーブなので、普通の人々であれば、公然と反論できるような些細な疑問や批判にさえ、まともに立ち向かう力がない。それはただ自尊心が傷つきやすすぎるためではなく、内心では、自分が詐欺師だという自覚があるので、反論できないということもあるだろう。

こんなリーダーだから、男性であっても、自分や、配下にある人間を、各種の脅威から力強く守ることもできず、仲間が傷つけられても、我が身可愛さに、自分だけ難を逃れることを最優先して逃亡することしかできない。要するに、彼らは聖書のたとえにある通り、群れを守らない雇われ羊飼いなのであり、羊を食い物にして栄光を受けることだけが目的で、敵の襲来を受ければ、真っ先に羊を見捨てて逃亡するような、勇気と潔さのかけらもない、男らしさを失った、見栄と自己保身だけが全ての、卑怯で臆病な牧者なのである。

だから、そういう臆病で見栄っ張りで自己中心なリーダーの周りには、自然と、同じような取り巻きだけが残ることになる。そのように臆病でずるくて身勝手な人々が、自分たちの弱さ、欠点、醜さには目をつぶって、互いを誉めそやし、自分たちを高く掲げて、神に等しい存在とみなして自画自賛し、自分たちに逆らう者は「悪魔の手下」とみなして中傷し、追い払い、気に入らない他者を呪い、裁きや、破滅の宣告を下すのであるから、目も当てられない有様となる。もうこうなっては、男性らしさ、女性らしさ云々というレベルの話ではなく、人格が荒廃して狂犬のようになって人間らしささえ失っていると言った方が良いだろう。

ペンテコステ運動とは、現実の人生において、社会的に低い立場に置かれ、冷遇され、様々な弱さや屈辱感や劣等感を抱える人々が、地道な努力によって自己の弱さを克服することなく、また、真に神により頼み、信仰によって強められることによってその弱さを克服しながら歩んで行くのでもなく、自分自身の弱さからは目を背け、手っ取り早く、悪魔的な力を手にすることによって、栄光の高みに上り、自分を踏みつけにした人々を見返すための、霊的ドーピングのようなものである。

この運動に関わる信者たちは、自己の真の状態から目を背けて、偽りの神秘体験によって自分が飛躍的に偉大になったかのように錯覚している。そして、リバイバルなどと言った偽りの夢と、自分は神に油注がれた偉大な預言者であって他の信者たちとは別格の存在であるという思い込みに基づいて虚栄に生きているので、そのような目くらましの現実逃避に生きている期間が長くなればなるほど、人格が弱まり、現実の様々な問題に勇気を持って自ら直面しながら生きる力がなくなって行く。

彼らは常日頃から、宗教の世界に逃げ込み、誰もが立ち向かわなければならないような現実の諸問題との接触を避け、自分がいつでも人から賞賛を受け、決して憎まれ役や悪役になって名誉を傷つけられたり、対立に巻き込まれることもなく、ヒーローとなって活躍できるような、安全で夢のような幻想の舞台を、弱すぎる自己のための延命集中治療室として用意している。彼らはその「マトリックス」にあまりにも長期間引きこもっているため、精神的には手足をもがれたも同然の状態であり、その救命室から一歩でも外に出ると、もう自分では生きられないほどに弱くなっている。

現実世界においては、そんな彼らの弱さのために、多くの場合、こうした指導者らの家庭は深刻な危機にさらされている。夫婦仲が悪かったり、配偶者をよそにして信者との霊的姦淫にふけっていたり、子供たちが病に倒れ、自殺に追い込まれていたりするが、それにも関わらず、こうした指導者たちは、自らの崩壊しかかった家庭や、孤独に悩み苦しんでいる(あるいは死にかかっている)家族をかえりみようともせず、自分一人だけ脚光を浴びる舞台に立って、立派な教師然とメッセージを語り、人々の注目と拍手喝采を浴びて満足していたりする。最悪のケースでは、子供たちが自殺に至っても、その事件を「神が信者としての私に与えたもうた信仰の試練」などと言って美化・正当化し、自分の宗教活動の異常さに気づくこともなくさらに突き進んで行く有様である。

筆者は、異端の宗教はみな弱肉強食であり最終的には子殺しへと結びつくと述べて来たが、このような域まで達すると、信者が支払った代償も大きすぎるので、偽りに気づいて後戻りすることもほぼ不可能であろうと思う。ペンテコステ運動が信者に与える影響とは、このようなものなのである。どうしてそんなものが正常な信仰と呼べようか。

ところで、筆者の考えでは、真の男性らしさというものは、自分を傷つけられたり、脅かされたりする時にも、忍耐強く耐えしのびつつ、苦難に力強く抵抗し、言うべきことはしっかり言って反論もしながら、自分を守り、同時に仲間を励まし、希望を持ち続ける力にこそある。

真の男性らしさとは、人からいわれなく誤解されたり、非難されたり、評判を傷つけられたり、反抗されたり、あるいは突如、襲来する敵と戦いになって傷を受けても、自分と自分の配下にあるものを最後まで力強く勇敢に守り抜くことができる強さにこそある。この強さは、ただ単に肉体的な強さを意味するのではなく、何よりも精神的な強さを意味する。だが、その強さは、己のためにあるのではなく、自分よりも弱いものをかばい、声なき者の声を代弁するための強さである。だから、真に男らしい人間は、自分が憎まれ役になって泥をかぶることを厭わず、誤解されること厭わず、自分の栄光を愛さず、傷つけられても力づくで報復しない。このような強さと忍耐こそ、真の男気につながる賞賛に値する美徳ではないかと筆者は考えている。

真に完成された「男らしさ」は、人間にはなく、人類の救いのために、あらぬ嫌疑をかけられ、いわれなく誤解され、憎まれて、十字架において死に渡されることによって、人類の反抗を耐え忍ばれたキリストにこそ、最もよく表れているのではないかと思う。キリストにこそ、神は男性に本来的に与えられた理想的な忍耐力を余すところなく表されたのではないかと筆者は考えている。その忍耐力とは、自己の名誉や、自己の評判や、自己の安全を守るために、自己の圧倒的な強さを他者に見せつけ、他者を力づくで排除してでも、自分の正当性を主張するというものではなかった。むしろ、自分を理解しない者、自分を誤解する者、自分を非難し、自分に石を投げ、嘲笑する者のために忍耐し、また、自分の愛する者、自分の信じる者のために、自分自身を完全に投げ出して犠牲にし、愛する者が真に自分を理解して振り返ってくれる時まで、誰にも何事も押しつけることなく待つことのできる力であった。

むろん、このような完全な忍耐と自己犠牲は、キリストにしか提供することのできないものであり、神がついておられればこそ、御子の正しさが証明されるのであって、人間が神に代わって自己犠牲することで他者を救うことはできないし、それによって自分の正しさを証明することもできないであろう。だが、我々は、キリストを模範として、そこから学ぶことはできる。キリストは聖霊を受け、神の力を持っておられたにも関わらず、それを自己の強さや優位性を他者に見せつけて、他者を圧倒して排除する目的では用いられなかった。キリストの力は、自己の正当性を主張するためではなく、神の栄光を証するために、他者を生かすために用いられ、ご自身はその力によって武装することなく、自分自身を誇示することもなく、むしろ、徹底的な弱さの中を通らされることによって、ご自身ではなく、神に栄光を帰されたのである。

その行動を見れば、ペンテコステ運動の信者たちの目指している目的が、どれほどキリストの示された模範からほど遠いものであるかが分かるであろう。この運動は、神に栄光を帰さず、キリストを証しない。むしろ、神を口実として、人類が己を神以上に高く掲げ、自己を栄光化し、自分自身を「神」として崇拝することを正当化する。この運動は、キリスト教に名を借りていても、その本質は全くキリスト教ではない異質な思想であり、そこでは、劣等感や心の傷や怨念によって癒着した人々が、キリスト教界を仮想敵として団結しながら、聖書の御言葉に基づく真の知恵ではない、体験主義という偽りの知恵を掲げて、キリスト教に戦いをしかけ、怨念と反知性主義によって、クリスチャンを引きずりおろして、その代わりに自分自身を高く掲げるのである。

彼らは常に仮想敵を作っては、自分たちは敵に囲まれ、不当に攻撃されていると言って騒いでいる。その仮想敵は、主にキリスト教界を指しているのだが、一体、それほどまでにキリスト教界を非難し、攻撃し、侮蔑せずにいられない彼らの恐怖と疑心暗鬼はどこから来るのであろうか。それは、彼らの内心の拭い難い恐怖と劣等感――根源的には悪魔の恐怖と屈辱感――に由来する。自分たちの卑怯さを重々内心では分かっており、自分たちはいつか罪のゆえに必ず裁かれ、その裁きはすでに決定済であるという確信あればこそ、彼らは絶えず恐怖に怯え、自己正当化のために、キリスト教とクリスチャンに有罪宣告せずにいられないのである。彼らに裁きを宣告するのが、聖書の神であり、キリストの十字架であり、クリスチャンの証であればこそ、彼らは自分たちを訴える者を早々に取り除き、消し去ろうと、今日もキリスト教界を敵とし、キリストの十字架を敵とし、クリスチャンを敵として非難しながら、「バラバを赦せ!キリストを殺せ!」と叫んでいるのである。どうしてこんな運動がキリスト教の一派のわけがあろうか。


クリスチャンに社会的弱者に対する負い目の意識を植えつけることで、神ではなく世に奉仕させる偽りのキリスト教としてのペンテコステ運動

・クリスチャンに社会的弱者への負い目の意識を植えつけることで、キリスト教を世人の利益に都合よく改造し、神ではなく人類に仕えさせようとする偽りのキリスト教としてのペンテコステ運動の危険
 
さて、これまでの記事において、イゼベルの霊というテーマを用いて、クリスチャンが怨念と被害者意識に支配されて、すべての物事を「加害者・被害者」の対立というフィルターを通して見るようになり、自分自身を被害者とみなすか、もしくは自分を加害者の立場に置いて、罪の意識から絶えざる懺悔と自己批判を繰り広げ、他者への償いを使命として生きるようになることの危険性を見て来た。

すでに見た通り、こうしたトリックは、異端の宗教では普通に用いられており、統一教会においては、信者に罪の意識を植えつけることで、償いとして奉仕活動や献金を促そうとする手法が使われている。しかし、今日、統一教会の脱会者である村上密牧師の主導で、ペンテコステ運動において繰り広げられている、キリスト教会で傷つけられた被害者を「救済する」ためのカルト被害者救済活動も、以上に書いたのと同じ心理的カラクリに基づくものであり、これはキリスト教の中にいながら、キリスト教への加害者意識を捨てられない者が、自らの拭い去れない罪の意識から繰り広げるキリスト教への自己批判であると同時に、罪の償いとしての社会的弱者への懺悔の活動であることを書いた。

だが、これに類似する現象は、ペンテコステ運動の枠組みを超えて、キリスト教界に広く普及しており、ホームレス伝道などの中にも同じ性質を見て取れる。ホームレス伝道に関しては別途、稿を改めて書きたいと考えているが、すでに過去の記事でも触れた通り、解散した学生団体SEALDsの代表者であった奥田愛基氏の父である奥田知志牧師や、マザー・テレサのケースに見るように、生涯を弱者救済活動に捧げる人間には、幼少期もしくは青春時代に何かの事件を通して決定的な罪の意識が心に植えつけられている場合が多く、(奥田牧師は釜ヶ崎で、マザー・テレサはインドのコルカタで、そのような体験をしたものと思われる)、こうした人々はその時に植えつけられた自らの罪の意識を払拭せんがために、残りの生涯を弱者救済事業に捧げざるを得なくなるのである。

このような文脈における弱者救済活動は、弱者救済という美しい響きとは裏腹に、実際には、たとえクリスチャンを名乗っていても、心傷つき、罪悪感に苛まれ、神の救いを見いだせない信者が、自らの心の傷を慰め、自分自身を罪から贖うために行う偽りの自己救済の試みであって、そのようなものは、真の意味での他者への愛や支援にはならない、ということをこれまで書いて来た。奥田牧師の場合にも、同牧師が自分の家庭を半ば置き去りにするような形で、ホームレス伝道にのめりこんでいた影響なども手伝って、息子の愛基氏が幼少期に絶望に至り、学校でのいじめなどを苦にして自殺未遂にまで至っていることが、息子の手記から明らかになっているという。このように、まるでかつての学生運動時代の共産主義の革命家を、キリスト教の社会活動家に置き変えただけのような、家庭をも自分をもかえりみない、痛ましいまでに自己犠牲的で熱血で悲壮な救済事業への取り組みは、決して健全な心理から生まれるものではなく、隣人愛に基づくものでもなく、ただ人間の罪の意識から出て来るものであって、決して誰に対しても正常な結果をももたらさないであろうと言える。

奥田家の場合は、同牧師は家庭に異変が起きても、ホームレス伝道への自らの熱意の裏にある動機の根本的な危険性に気づくことなく、同氏のホームレス救済事業は成功談のように美化され、息子もまた父の事業の根本的な歪みを疑うことなく、父の持っていた罪意識から来る使命感を受け継ぎ、路上デモ支援に身を捧げるなど、親子二代に渡って、類似する道を歩むことになっている。

本当は、このように人の家庭を歪め、子供たちを犠牲にしてまで行われる弱者救済事業は根本的に何かがおかしいのだと気づいて、これを美談として扱うことなく、息子は、この事業に働く怨念と罪の意識の呪縛を見抜いた上で、これと訣別し、いつまでも罪の償いのために生き続ける人生を拒否すべきであったろう。しかし、現実はそうはならず、親子二代に渡って、罪の意識による弱者への自己懺悔の活動が継承された。路上デモ者の苦難に寄り添い、彼らの苦難に自分の苦難を重ね、彼らに手を差し伸べることで自らに手を差し伸べ、路上に人生の活動の場を積極的に見いだす愛基氏の行動は、もともとキリスト教会の信者が繰り広げるホームレス伝道や路傍伝道から福音伝道の要素を抜き去っただけのものであり、そのスタイルはもともとキリスト教会の社会事業、もっと言えば同氏の父の活動に由来する。

本来、牧師という職業は、イエス・キリストが十字架において信じる者の一切の罪を贖われたので、これを信じるなら、もはやその信者が罪の意識に苦しめられて、自分で己が罪の償いを続ける必要はないという聖書の普遍的事実に立って、世の罪を指摘し、世に悔い改めを迫り、世に救いの道を指し示すべき立場にあるはずなのだが、今日のキリスト教は、神の福音だけではどうしても飽き足らなくなって、キリスト教は独善的で冷たいという世からの批判をかわすために、世に譲歩し、世からの承認と賛同を求めずにはいられなくなっている様子である。その歩み寄りが、社会的弱者の救済事業となって表れるのである。

近年、キリスト教においては、『キリスト教の自己批判:明日の福音のために』(上村静著、新教出版社、2013年)などといった著書にも見られるように、社会的弱者への憐れみの欠如した伝統的なキリスト教のあり方を厳しく批判し、これをキリスト教の「独善性」や「排他性」とみなして断罪(クリスチャンの側から自己批判)しながら、キリスト教徒はこれまで自ら無関心に見捨てて来た社会的弱者に対して罪の償いを果たすために行動すべきであると唱える理論がしきりに登場している。社会的弱者のために、という美化された口実があるために、こうした理論の本質的な危険性に気づいて声を上げる人間はほとんど皆無と言って良い状況にある。だが、「明日の福音のために」という、以上に挙げた著書のタイトルにもよく表れているように、こうした理論は、社会的弱者の利益に仕えようとしない排他的で独善的な宗教に未来はないとして、信者自身の告白という形を取りながらも、暗にキリスト教そのものを仮想敵のごとく非難し、変革を迫っているのである。

これまでにも幾度も述べて来たことであるが、このように、キリスト教の内側から出て来る自己批判を装いながら提示される偽りの弱者救済の理論には非常な注意と警戒が必要である。当ブログでは解放神学の危険性を考察することで、こうした偽りの弱者救済理論の持つ危険性を指摘して来たが、このような理論には、「キリスト教は社会的弱者の利益に奉仕するものでなければならない」という大義名分を振りかざして、従来のキリスト教を社会的弱者を排除する「残酷で独善的で排他的な宗教」であったと糾弾し、キリスト教に有罪を宣告し、キリスト教はもっと社会に貢献する寛容で慈愛に満ちた宗教に変革されねばならないと唱え、キリスト教の福音の本質を、巧妙に何か別のもの(すなわち、神の利益に奉仕するものから、人間の利益に奉仕するものへと)すり替えようとする意図がその根底に隠されている。

以上に挙げた『キリスト教の自己批判』においても、解放神学とほぼ同じように、キリスト教の使命を、人間の魂を救うことではなく、信仰を持たない社会的弱者の利益を確保するための社会奉仕活動へとすり替えてしまうよう効果が見て取れる。

こうした理論は、社会的弱者の存在を口実にしつつ、信者が目に見えないパンよりも、目に見える地上のパンを優先して生きるよう促し、キリスト教が人間の魂の救いよりもこの世の物質的な利益を優先して、神ではなく人類の利益に奉仕するものとなるよう、「救済」の概念を巧妙にすり替え、キリスト教の福音を人間の地上的な利益にかなうものへと変質させる効果を持っている。

このように神とこの世の地位を逆転させ、目に見えない霊的な糧とこの世の物質的な糧との優先順位を置き換える転倒した思想を普及させるために、偽りの弱者救済の理論は、「キリスト教はこれまで社会的弱者を十分にかえりみて来なかった」と言ってはクリスチャンを責め、クリスチャンに罪悪感を植えつけることで、世から贖い出された信者たちを、再び、この世の奴隷とし、人類の利益に奉仕する存在へと変えようとするのである。

一旦、このトリックにはまって、罪の意識を持ってしまえば、その信者は良心を汚されてしまい、もはや神の目に清められた者として自信を持って立つことはできなくなる。たとえかつてはキリストの十字架の贖いを信じて罪赦されたという自覚を持っていたとしても、再び、罪の意識の奴隷となれば、その負い目ある限り、その信者はずっと罪の奴隷、この世の奴隷として束縛された状態に置かれ、自ら「被害者」を名乗る人間(世)の意のままに動かされることになる。

聖書には、人間の罪を表すものとして「いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書」(コロサイ2:14)という言葉が用いられているが、罪悪感とは、霊的な文脈における貸し借りの関係であり、もしもある人が罪のために負い目の意識を持つならば、その人は霊的な負債を負っているのであり、たとえその負い目を発生させる源となった出来事がどんなに遠い過去であって、仮に当事者がすでに亡くなっているなどして、誰一人それを記憶している者がなかったとしても、本人さえもその出来事を忘れていたとしても、その霊的な負債が完済されて、貸し借りの関係が一切解消されていない限り、その人はいつまでも罪による束縛の下に置かれ続けることになる。

罪意識は、それがキリストの贖いによって解消されない限り、人が悪魔に脅され、この世の支配下に屈する最大の根拠とされるものである。これは悪魔が人を脅し、ゆすり、支配するための格好の材料である。統一教会を含む、いかがわしい各種の宗教では、不幸な事件に遭遇した人に対して、「あなたは十分に先祖供養しなかったために、先祖の祟りとしてこのような災いがふりかかったのだ」などと言って、人を脅し、その「罪」を解消するために高価な壺などを買わせようとする手法が知られているが、そこでは、人に罪悪感を植えつけることで、これを植えつけた人間がその相手を思い通りに支配するという心理的トリックが利用されているのである。

そこで、「キリスト教は社会的弱者を容赦なく見捨てて、自分たちだけで神の救いを独占して来た排他的で独善的な宗教であるから、キリスト教は自らの排他性を罪として悔いて、もっと世に役立つ寛容で慈愛に満ちた福音となって、社会的弱者の利益にも積極的に貢献するようつとめるべきだ」などといった主張も、実のところ、上記の「先祖の祟り」による脅しとさほど変わらない心理的トリックに貫かれていることを見抜かなければならない。

そこではただ「被害者」の仮面をつけて登場しているのが「先祖」なのか、それとも「社会的弱者」なのか、という違いがあるだけで、その他の事項はほとんど基本的に変わらない。結局、そこでは、クリスチャンに対して、何かの行動が不足していたと言っては、真の被害者とは到底言いがたい第三者が巧妙に「被害者」の仮面をつけて登場し、クリスチャンを罪に定め、罪悪感を持たせることで、信者が己が罪を償うためには、「自称被害者」の希望に従って、彼らの注文通りに行動することで、自らの行動を改めるしかないのだと思い込ませるのである。

こうした考えの偽りを見抜けず、そこでしかけられた心理的な罠にはまってしまうと、クリスチャンはとがめのない良心を失って、自分を「加害者」とみなすようになり、「キリスト教や教会やクリスチャンに見捨てられた被害者」を名乗り出る人々に全く頭が上がらなくなり、彼らに対して終わりなき罪の償いを果たさなくてはならなくなる。実際には、ただあらぬ罪の意識を植えつけられ、世から言いがかりをつけられ、その因縁のために脅され、ゆすられ、たかられ、自分の人生を自由に生きられなくなっているだけにも関わらず、「弱者救済」の美名がついているがために、懺悔活動にいそしんでいる人々は、自分は社会に役立つとても良い事業を行っているのであって、まさか信仰を持たない人の背後に働く悪霊に都合よく脅されて彼らの利益の操り人形になっているのではないと思い込んでいるのである。

だが、本来ならば、世から罪定めを受けるどころか、世に罪を告げ知らせ、世に悔い改めを迫り、世の利益のためでなく、神と御国の利益のために働くべき牧師や信者たちが、このようなトリックにまんまとはまって、神を知らない不信者に自分の罪意識を解消してもらおうと、彼らのもとを訪れてはその注文を聞き、こうして世人への罪の償いに努力している様子は、まさに皮肉としか言いようがない。

筆者は、ホームレス伝道にいそしむ奥田牧師や、カルト被害者救済活動に携わる村上密牧師は、以上のように、隣人愛ではなく、罪悪感から弱者救済に突き動かされている人々であると考えている。こうした人々は、自分自身の抱える心の闇(罪の意識や、絶望や、空虚感)を埋めるために、自分と同じような、あるいは自分よりももっと「可哀想な人々」を見つけて来ては、彼らを支援することで、自己の空虚な心を慰め、かつ、自分自身の心の抱える怒りのはけ口を、何らかの救済事業(という名目での抵抗運動)に求めずにいられないのである。

筆者は、クリスチャンが社会的弱者に対して憐れみのない行動を取るべきだと言いたいわけではなく、また、真に困っている人に対して物質的支援が一切、無駄だと言うわけでもない。だが、ここで提起しているのはそれよりももっと深い問題なのである。 

ここで問題となっているのは、「加害者・被害者」という対立構造を持ち出して、クリスチャンであるにも関わらず、罪悪感から、見捨てられた弱者・被害者の救済にいそしむ人々は、人間の罪を指摘し、また人間の罪を赦すことができる存在とは誰かという問いへの答えを、巧妙に捻じ曲げ、はき違えており、そうした人々の思考においては、信仰を持たない者が、社会的弱者という立場に名を借りて(もしくは社会的弱者の存在を巧妙に口実として利用して)、キリスト教とクリスチャンに対して「神」のごとく君臨してこの宗教全体を罪に定め、信者であるはずの人々が、それに反論するどころか、信仰を持たない彼らの言い分を全面的に認めて、自ら言いなりになってその要求に従うことを肯定している異常さである。

そのようにして、信仰を持たないこの世の不信者が、自らの利害に基づいてキリスト教を断罪し、この宗教の足りないところを数え上げて、罪に定めるなど全く恐ろしいことであり、さらに、そのような理不尽な言い分を大真面目に聞いて心に罪悪感を植えつけられた一部のクリスチャン(?)たちが、自分は神に贖われたという清い良心と御子の贖いの完全性を信じる信仰を失って、世人の言いなりとなって、自ら加害者の立場に立って、世の不信者に懺悔し、彼らの利益に仕える道具となって、キリスト教の第一義的使命が、神に仕えることでなく、世に対する奉仕活動にあるかのようにみなしていることは、大変、恐ろしい事実である。

もしもこのような転倒した理屈が成立するならば、クリスチャンは、キリスト教に何らかの被害者意識を持つ者たちが現れれば、簡単にその言いなりになって、彼らの気のすむまで脅され、ゆすられ、たかられ、賠償を要求されるであろう。こうして、キリスト教全体が不信者の利益のために都合よく書き変えられ、全く別の宗教に変質することであろう。このような理屈は、「見捨てられた社会的弱者」を口実にして、キリスト教を脅して思うがままに従わせたい人々の欲望を正当化しているだけである。こうした理論は、キリスト教に恨みを持つ者たちにとってはまさに好都合であり、そこから皇帝ネロの犯したキリスト教徒への迫害と殺戮の罪までの距離はわずかに数歩程度でしかない。

世人はいつの時代も、ネロのような大規模迫害を用いなくとも、常に自ら神となってキリスト教に君臨したいと願っており、そのためにキリスト教の福音を骨抜きにして、この宗教全体を世の利益に仕える道具へ変えて行こうと狙っている。このような不信者の思惑にクリスチャンが自ら迎合し、この世の人間の非難に屈して、地上的・物質的支援(目に見えるパン)を神の福音(見えないパン)と対等かそれ以上の位置に掲げる時、キリスト教の福音は完全に骨抜きにされ、存在意義を失うのである。そうなると、これはもはや塩気を失った塩として捨てられ、踏みつけられるだけである。

さて、ペンテコステ運動に話を戻せば、自ら抱える拭い難い罪の意識の償いとして弱者救済事業にいそしむ牧師たちの活動の一環として、アーサー・ホーランドや元ヤクザの牧師(ミッション・バラバ)による世界各国での十字架行進なども挙げられるだろう。この十字架行進は、公式ページの記載によると、1992年に始まり、ごく最近まで、長年に渡り、世界各国で続けられて来たようであるが、イエス・キリストがすでに負われたはずの十字架を、人間に過ぎない者が再び背負って歩こうとするこの活動は、福音伝道の観点からは全く意味をなさない二番煎じであるばかりか、霊的には有害でさえあると筆者はみなしている。

確かに、奇抜な格好をした牧師が、十字架を背負って各国を巡り歩く姿は、人目を引くであろうし、そのパフォーマンスを見て、これをクリスチャンの巡礼の一種ととらえ、信者の謙遜さや世に対する愛の表れであるかのように誤解して、感動し、涙を流すような人間も、ひょっとすると、いるにはいるのかも知れない。しかし、たとえそうであったとしても、人が十字架を背負って歩くという行為は、クリスチャンならば誰もが知っているように、霊的には罪を負った人間が世のさらし者となりながら己が罪を悔いつつ死へ向かって行進することを意味するだけであるから、信者にふさわしい行動とは言えない。それは罪人が自ら犯した罪のゆえに、恥辱を負って、衆目に晒され、罵倒されながら、自らの罪にふさわしい罰を受けるために刑場へ引かれて行く惨めな姿そのものである。

一体、なぜキリストの贖いを信じて受け入れ、罪赦されたはずの人間が、このような行為をせねばならないのか? それが意味するところは何なのであろうか? 十字架が価値ある貴いものとなるのは、罪を犯したことのない聖なる神の御子キリストが、人類の身代わりに罪無くして十字架において罰せられることによって人類のために贖いとなられたという霊的な文脈においてのみであり、それ以外のケースで、罪ある人間が自ら十字架を背負って歩くことには、ただ単に人類の自業自得の罪を表す以外の意味はない。もっと言うならば、キリストの十字架の贖いを受け入れたはずのクリスチャンが、キリストがされたのと同じように、自ら十字架を背負って歩くことは、その信者がキリストの贖いを内心では否定しており、これを退けて、再び、自分で自分の罪を贖うために終わりなき苦行に励んでいるのと同じ無益で無謀な行為を象徴的に意味する。信者にそのような行動をさせるのは、キリストの御霊ではなく、反キリストの霊だと言われてもおかしくない。

聖書には、「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。」(マタイ10:38)という主イエスの御言葉があるが、これは信者が信仰ゆえに自らの生活において負わなければならない目に見えない様々な代償(自己の死、霊的な試練等々)を意味するのであって、信者が文字通り、目に見える十字架を肩に担いで世界各国を巡礼せよという命令を意味するのではない。さらに、信者が十字架を負って従うべき対象も、目に見えない主イエス・キリストのみであって、世人の目に認められるためのパフォーマンスとして十字架を負えという意味ではない。

アーサー・ホーランドの十字架行進は、この牧師自身がキリストの贖いを自ら退けていることを物語っているにも等しい。こうした活動は、世に対するパフォーマンス以上の効果はなく、その必然性がどこにあるのかも不明であるが、これをクリスチャンになっても罪の意識を捨てられない牧師や信者たちが、自らの負い目の意識から繰り広げる世に対する自主的な罪の告白と償いという文脈でとらえるならば、初めてその意味が明白になる。

アーサー・ホーランドが、牧師になった後でも、根本的に罪赦されたという実感を持てないでいるであろうことは、同氏が創設した元ヤクザの牧師の伝道団体である「ミッション・バラバ」の命名にもよく表れている。

一般に、クリスチャンが、聖書において自分自身をどの人物に同形化するのかは、極めて重要な問題であるが、ミッション・バラバのメンバーの牧師たちは、ゴルゴタに立てられた三本の十字架のどれにも自分を同形化せず、むしろ、キリストの代わりに無罪放免されて十字架刑を完全に免れた殺人者バラバに自分を同形化したのである。

筆者が覚えている限り、ミッション・バラバの命名の根拠については「十字架を免れたバラバも結局は、その後、自分の代わりに十字架に処せられたキリストの死に衝撃を受け、自らの罪を悔い改めてクリスチャンになったのではないか」などという楽観的な推測が用いられていたような気がするが、いずれにしても、そんな話は聖書にはない。

だから、バラバは決して悔い改めた罪人の代名詞ではないのである。この命名には、ひょっとすると「バラバが赦されたことは、キリストに対して申し訳ないことであった」という思いが込められていたのかも知れない。バラバに代表されるような、「恥辱と死の苦痛を免れたいばかりに、罪なきキリストを身がわりに十字架につけてまで、自分自身を無罪放免した卑怯で身勝手で頑なな加害者」としての人類の側から、「人類の横暴のために罪なくして殺された被害者であるキリストへの懺悔」としての意味合いが込められていたのかも知れない。

だが、もしそのような考えが根本にあるとすれば、それは一見、神に対する罪の悔い改めのように見えるかも知れないが、実際には、そこにあるのは、甚だ不遜な考えである。なぜなら、人類が神を人類の「被害者」であるかのように考えて、神に対して同情するほどまでに不遜な考えはないからである。人間に過ぎない者が、神を自分たちの悪行の「犠牲者」とみなして、自ら神に同情することによって、神の霊をなだめ、慰めようとするのは、傲慢以外の何物でもない。聖書をきちんと読めば、キリストは人類の罪の「被害者」として十字架にかかられたわけでなく、人類の凶暴さという意味では、そのような側面が確かに一面では見受けられはするものの、同時に、この十字架にはそれよりも深遠な神のご計画があり、キリストの十字架は、人類の贖いのために神の側から愛によって自主的に差し出された犠牲であり、人類はそれを自分自身の罪の贖いとして感謝して受けとるべきであって、自分とは無関係のものとして涙を流して同情すべき対象ではないことが分かる。

にも関わらず、もし誰かがキリストに「同情する」ならば、その人は、御子の十字架を自分のものとして受け取っていないのである。なぜなら、自分は運よく罰を免れたが、他人は不器用のせいかあるいは不運のせいでそれを免れられなかったと考えている人だけが、自分と違っていわれなく重い刑罰に処せられた誰かに同情することができるからである。もし信者が本当に自分自身の罪を認め、キリストの十字架を自分の罪に対する身代わりの刑罰として受け取っているならば、キリストの受けられた刑罰は、信者が当然受けるべき罰であるから、信者はこれを「不当なもの」として受け止めることはできない。彼はキリストを通して贖いが達成されたことを喜び、感謝し、御子の犠牲を賛美しこそすれ、キリストを人類の罪の被害者のようにみなして「同情」することは決してないであろう。たとえ約二千年前にゴルゴタの丘で死んだのが信者の肉体でなく、信者自身はキリストと同じ苦痛を寸分たりとも味わっていないとしても、信仰を通じて、霊的にその信者は確かにキリストと一体となって、永遠に十字架において罰せられたのである。キリストの受けた刑罰は、信者自身に下された刑罰であり、そこでは信者の信仰を通して、キリストが信者と一つになっていればこそ、キリストの贖いがその信者に対して生きて効力を発し、キリストと共に霊的に死んだ信者は、キリストと共に復活し、贖われた者として新しく生きるのである。

だが、ミッション・バラバという名を見る限り、アーサー・ホーランドを始めとして、そのメンバーは、キリストの十字架の贖いを自分自身の罪に対する贖いとして受け取っていなかった可能性が極めて高いように見受けられる。彼らは、ゴルゴタに立てられた三本の十字架のうち、ただキリストの十字架に自分を同形化しなかったのみならず、死の直前でキリストに向かって罪を悔い改めて、彼をメシアと認め、救われて御国に受け入れられた罪人にも自分をなぞらえなかった。むしろ、十字架刑を完全に免れて、ゴルゴタに立つこともなかったバラバに自分をなぞらえることで、キリストの十字架と自分自身を無縁としたのである。これは極めて暗示的である。

どんなに表向きクリスチャンを名乗っていても、内心ではキリストの十字架の贖いの霊的意義を自分自身に適用していないからこそ、彼らはバラバと同じ立場に立って、不当に十字架を免れた罪により、未だに神(と人類)に赦免を求めて懺悔と償いを続けねばならなくなっているのではあるまいか。そのようにして、自分自身を神の贖いと無縁の者として切り離しているからこそ、彼らは元ヤクザとか、元不良といった過去の負のレッテルを捨てることもできず、この恥ずべきレッテルを貴重なものであるかのように、社会的弱者の証としてかえって売り文句にしながら、神の贖いを退けた人間が、自分自身で背負わねばならない負いきれない刑罰の象徴としての十字架行進などといった活動にいそしんでいるのではないか。それは牧師でありながら、彼らの内心では罪の意識が全く内側で払拭されていないことの証拠である。

アーサー・ホーランドは十字架行進の開始以前から、元不良や元ヤクザの信者仲間と共に、路傍伝道にも精力的に乗り出していたが、このように、世人に対して、特に、世人の中でもとりわけ社会的弱者を対象に、神の愛と憐れみを積極的に説きながらも、同時に、自分自身には罪赦された自覚がなく、内心で深い絶望感を抱えながら、弱者救済という名目で、自らの罪の償いに従事する様子は、奥田牧師や、マザー・テレサ等と共通しているように見受けられる。

マザー・テレサの場合もそうであるが、信仰を持たない世の方を向いて、打ち捨てられた不信者に寄り添い、愛を示すことで、世に愛想を示そうとする活動から見えて来るのは、彼らがその不信者に自分自身を同形化し、彼らの苦しみの中に、自分自身の内心の苦悩を重ね、彼らの中に、自分自身の絶望感を投影することで、自分自身を救おうとし、彼らを「神」とすることで、自分自身を「神」として拝んでいるという事実である。

結局、そこでは、信者の信仰生活を評価するのが、見えない神ではなく、世の人々であるかのように置き換えられ、「社会的弱者」や「被害者」などといった世の人々が、クリスチャンに対して「神」になってしまっており、牧師や信者が、聖書の御言葉に基づき、世を罪に定め、悔い改めを迫るどころか、世に向かって「あなたは神に愛されている」などと語って世の罪を積極的に覆い隠し、世に媚びて、世の利益の代弁者となり、そうしてキリスト教の使命を、人間に奉仕し、人間の欲望をかなえるための社会活動へとすり変えているのである。

このように世に迎合した行動を取るのは、決まって、何かの罪悪感を心に抱え、自分の魂を世に質に取られ、神の救いを拒んでいる人間だけである。「犯罪者は(繰り返し)現場に戻る」という言い回しに表れているように、彼らは自らの心に負い目があり、罪によって自分の魂を世につながれ、担保に取られていればこそ、世という現場に縛りつけられ、繰り返し、そこへ戻らざるを得ないのである。彼らは神を見失っていればこそ、信仰を持たない世人を肯定することで、自分自身を肯定し、世の不信者を美化することで、自分自身を美化し、不信者を「神」のごとく高く掲げることによって、自分自身を崇拝しているのである。

しかし、クリスチャンとは、世から贖い出された者であり、信者はもはや自分自身や、世の栄光のために生きているのではなく、神の栄光のために生きている人々である。信者は罪のゆえに悪魔の奴隷として死の恐怖に脅かされながら、この世の支配下に置かれている者ではないので、世人の利益に媚びて、彼らの言いなりになる必要もない。クリスチャンを無罪放免するのは、世人ではなく、世の社会的弱者でもなく、神お一人だけである。

「義人は信仰によって生きる」と聖書にある通り、信者がどんなに立派な人間性を誇り、熱心な社会奉仕活動を誇ってみたところで、それはマルチン・ルターが登るのをあきらめたピラトの階段を信者が自らの膝で這い上ることと同じであり、それらの行為によって、信者が己が罪を自ら贖い、神の目に義とされることは永久にない。そうした行為によって、人が自らを義としようとすることは、みな人類による自己懺悔、終わりなきむなしい自己救済の試みでしかなく、どんなに社会的弱者に罪の償いを続けても、彼らは罪を告白すべき相手を完全に間違えている以上、人がその行為によって罪赦される日は永久に来ないのである。

聖書の神が、昨日も今日も、永遠に変わらないお方であるように、聖書の福音は時代を通じて一つであり、福音の本質は、過去も未来も永遠に変わらない。キリスト教の福音の本質は、時代のニーズの変化や、人間の思惑によって左右されるものではない。だから、欺かれてはならない、昨日や今日とは全く異なる「明日の福音」なるものは決して存在しない。もしそのようなものがあるとすれば、それは偽りの福音だけである。

福音が一つである以上、人間が罪から解放されて、自由になりたければ、そのために通るべき道もただ一つしかない。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)「あなたがたは、代価をもって買われたのです。人間の奴隷となってはいけません」(Ⅰコリント7:23)聖書にこのようにある通り、キリストの贖いを通して、世から贖い出された信者が、その自由を失わないでいるためには、信者がただ神にのみ従い、再び世の(人の)思惑に屈して、世の(人の)奴隷とならないことが必要である。

世に真理はなく、正義も、真実もない。加害者であろうと、被害者であろうと、弱者であろうと、マイノリティであろうと、御子の贖いの下にいない者は、全て罪人でしかなく、人間の罪を赦す権限は世にはなく、神にしかない。それにも関わらず、信者が、世のために、弱者のためにという美名に欺かれて、世の顔色を伺い、世の軍門に下るならば、世は自らの前に跪き、その支配に下る人間を徹底的に騙し、盗み、滅ぼすだけであろう。「貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。」(ヤコブ4:3)

このように、
信仰を持たず、神を敬わず、神に従うこともない世に媚びて、世の悔い改めない不信者に対して「あなたは神に愛されている」などと言っては世の罪を無罪放免し、すすんで世の利益の代弁者になろうとする人々は、今日も自分自身を神の敵として、「この人を除け。バラバを釈放しろ。」(ルカ23:18)と叫んでいるのである。だからこそ、そのような人々は決して世を罪に定めようとはしない代わりに、キリスト教を「独善的で排他的な宗教」だと言って罪に定め、クリスチャンに有罪を宣告し、罪の償いを求める。それは結局、彼らが神を罪に定め、敵に回しているのと同じことである。そういうことをしておきながら、同時に「キリストが無罪であるにも関わらず十字架にかけられたのは申し訳ないことであった」などと言って、神のために同情の涙を流し、神を犠牲者に見立てて見当外れな懺悔の活動にいそしむのである。

バラバとは、「都に起こった暴動と人殺しのかどで牢にはいっていた者」(ルカ23:19)であり、一説によれば、革命家だったとも言われる。虐げられた民衆の不満を手っ取り早く解消するために、都の秩序転覆を企てて暴動を起こし、悪代官のように見える役人を何人も殺害したりしていたのかも知れない。そんな荒くれ者の男の方が、キリストに比べ、民衆には親しみやすく、身近に思えたのである。それは、バラバが民衆の利益、つまり、弱者の救済を口実にこれらの犯罪を行ったからであろう。バラバの名前の由来も、息子を意味する「バル」と父を意味する「アバス」から成っているというが、それも偶然ではなかろう。問題は、彼の父は誰なのかということである。ピラトの前には二人の男が立っている。一人は聖なる神の独り子なるキリストであり、もう一人は罪深い人類から生まれたバラバである。当然ながら、キリストを罪に定めることによって無罪とされたバラバは人類を代表しているのであり、その父については、次の御言葉が当てはまる。

「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときには、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。」(ヨハネ8:44)


韓国キリスト教(ペンテコステ運動)のシャーマニズム化の危険―霊媒師と相違ない偽りの牧者と信徒たち

・韓国キリスト教(ペンテコステ運動)のシャーマニズム化の危険

ところで、以前に天声教会のことに触れたので、ここで少しばかり、韓国のキリスト教、中でも韓国キリスト教の中で特に勢力を伸ばしている韓国のペンテコステ運動の独特の特徴について補足しておきたい。韓国のペンテコステ運動には、日本とは異なる独特の歴史と形態がある。それは韓国という国が辿って来た歴史とも無関係ではないと思うが、韓国キリスト教(以下、主として全てペンテコステ運動を指す)には、必ずしも日本のクリスチャンにとって(世界のクリスチャンにとって)決して好ましいものではない異教からの影響が強く見られると筆者はみなしている。

ペンテコステ運動については、日本、韓国を問わず、異端であると筆者はみなしていることはすでに述べたが、中でもとりわけ、韓国におけるペンテコステ運動には、シャーマニズムの強い影響を受けていることが様々な指摘から読み取れる。

掲載元のPDFを見つけることができなかったので、別サイトに転載された内容を引用するが、たとえば、渕上恭子著「韓国のペンテコスタリズムにおける『祈禱院運動』の展開―キリスト教土着化論の考察―」(南山大学南山宗教文化研究所懇話会、2010年10月)という興味深い考察においては、韓国のキリスト教におけるリバイバルの発生時期と異端の発生との関連性、また、韓国キリスト教の興味深い成り立ちが説明されている。
 

韓国・朝鮮のキリスト教史において、1907 年の大復興會運動に始まって、国家が危機に瀕し大きな社会変動に直面する時、熱烈なリバイバルが沸き起こってきたが、これらのリバイバル運動と連動しながら、キリスト教史の節目節目で種々の「祈禱院運動」が現出してきた。民族の危機にあって、宣教奇蹟と謳われる韓国キリスト教の急成長を牽引してきた大復興會運動と、「祈禱院運動」を担った異端キリスト教や新興宗教、さらにはシャーマニズム化したキリスト教が、各々の信仰形態を流入させ合って、今日の韓国キリスト教の基本的性格を形作ってきたと考えられる。


引用は最小限にとどめるので、詳しくはご自分で本文を読んでいただきたいのだが、この考察から分かるのは、韓国キリスト教界においては複数回の「リバイバル」が起きた時期があること、そのリバイバル発生時期は、大体、国家が存亡の危機に脅かされた時期に重なっていたこと、また、そうした「リバイバル」の発生の陰には、初期の異端である「祈祷院運動」などのような疑似キリスト教的な神秘主義的な異端の発生が常につきまとっていたという事実である。

何より興味深いのは、「国が存亡の危機にある」という危機感が、韓国の「リバイバル」の発生の土台となったという指摘である。なぜなら、「自己が脅かされている」という危機感は、これまで当ブログで述べて来たように、グノーシス主義の発生にはうってつけの土壌だからである。

おそらくは全世界で「リバイバル」の発生時期と神秘主義的な異端の発生は常に並行しており、両者の境界は極めて見分けがたいのではないかと思う。上記の考察からも分かるのは、韓国でも、リバイバルが起きると同時に、神秘主義異端の様々な潮流も隆盛を極めたという事実であり、さらに、韓国におけるペンテコステ運動は、初めから正統な教義と異端の二つが見分けがたく混合し、さらにそこにシャーマニズムなどの土着の民間信仰の影響も合わさって、キリスト教と非キリスト教的な要素が混合して生まれたものであり、韓国キリスト教はこの独特の成立過程のために混合の性質を否定することができないものとなっているということである。

なお、上記の考察以外にも、今日の韓国キリスト教の基本的性格が、シャーマニズムに大きく影響を受けており、非キリスト教的民間信仰と切り離せない関係にあることは、他の場所でも指摘されている。

韓国キリスト教には、早天祈祷などの「祈祷」を特別に重んじる習慣がある。彼らの「祈祷」への熱中は、日本人の常識を超えるものであり、特に、韓国人のペンテコステ運動の信者は、祈りを通して聖霊と交わることにより、自分に超自然的な能力が付与されるとみなし、熱心さの表れとして、文字通り、朝から晩まで祈祷に没頭し、現実生活が送れなくなっているほどである。

しかしながら、こうした異常とも見える熱烈すぎる「祈祷」の習慣も、もとを辿れば、特に早天祈祷などは、非キリスト教的な他宗教の習慣に由来するものであるという。

以上の考察によると、韓国キリスト教の早天祈祷の習慣は、韓国最初のリバイバルの立役者である吉善宙牧師(Kil,Sun-Ju:1869~1935)が、キリスト教徒になる前に入信していた朝鮮民族伝来の神仙思想である仙教の習慣を取り入れて始まったものだという。
 

その際、吉善宙が仙教に帰依していた時分に、仙門では降神の時間とされている夜明けに祈禱をしていた習慣が、キリスト教徒となった後までも引き継がれたことにより、朝鮮のキリスト教で早天祈禱が行われるようになったのである。このようにして、古代朝鮮の仙教で降神の方法として行われていた早天祈禱が、吉善宙牧師の宗教遍歴を介して、韓国キリスト教に入り込んでくることとなった。


このように、今日の韓国キリスト教のあり方には、儀式的な側面においても、他宗教の影響が見られ、さらに、韓国キリスト教の根本には、シャーマニズムが欠かせない要素として存在することが様々な場所で指摘されている。たとえば、<随筆>◇韓国文化のシャーマニズムパワー◇ 広島大学 崔 吉城 名誉教授(東洋経済日報 2009/11/13)から抜粋する。
 

私は学校で教育を受けるにつれてシャーマニズムを遠く避けるようになり、批判的になった。そしてクリスチャンになった。多くのキリスト教会はシャーマニズムを迷信として扱った。しかし、シャーマニズムは消滅するものではなく、キリスト教会の核心部分において信仰として生き残っていることが分かった。多くのキリスト教会が土着化する中でシャーマニズム化する現象が起きているのである。教会の中で病気治療のための祈りなどはシャーマニズムと変わりがない。


この著者は幼い頃からシャーマニズムに接し、その後、シャーマニズムを離れてクリスチャンになったが、韓国のキリスト教を振り返ると、まさに韓国キリスト教のシャーマニズム化が起きているとしか言えないと結論づけるのである。

さらに、「キリスト教受容における韓日の比較 (A comparative Viewon the Reception of Christianity in Japan and Korea)」(朴 正義(Park Jung-Wei) 圓光大学校 師範大学 日本教育学科副教授 日本語教育学科長)では、韓国の土着の信仰であるシャーマニズムの世界観が、韓国人のキリスト教の受容と理解にある程度、役立ったことを肯定的に評価しつつも、シャーマニズムは韓国キリスト教の信仰生活のあり方に必ずしも良いとは言えない大きな影響を及ぼしている事実を指摘する。
 

四、韓国におけるキリスト教とシャーマニズム

 キリスト教、特に改新教の韓国伝来期において、衰退した仏教・儒教はキリスト教に対抗する力はなく、唯一対抗する力をもっていたのは巫俗信仰シャーマニズムだけです。すでにお話いたしましたように、巫俗信仰は、韓国民衆の中に深く根を下ろした民衆の現世利益をかなえる唯一の宗教といえます。しかし、この巫俗信仰が意外にも、韓国民衆のキリスト教理解に大きな役割を果たしたのです。<中略>

 シャーマニズムは本来汎神論ではありますが、しかし全体の霊界を支配する最高神が存在するという観念をもっています。韓国において古くから〔ハン〕という語がありますが、これは天を意味する語で、また唯一とか偉大という意味も含んでいます。このハンに韓国語の人格的な尊称であるニム(様)を付け、つまりハンニムとなりますが、これは天の神様とか唯一神または偉大な神の意味です。さらに、このハンニムの音を分けハヌニム・ハナニムと呼んでいます。いずれにせよ宇宙を支配する最高神で、この神が雨を降らし収穫を左右する神と信じられており。祈雨祭を捧げる対象の神となっています。韓国において、儒教と仏教がともにこの神の存在を認めております。

  そして、これは全知全能でこの宇宙の支配者であるキリスト教の唯一神を容易に理解させる助けとなっており、さらに、キリスト教は天主の意味としてこの名称(ハナニム)を使用することによって、キリスト教の神に対する民衆の違和感を取り除いています。最近ではハナニムがハヌニムと区別され、キリスト教の独占物のように使われていますが、元来は韓国シャーマニズムの最高神の名称です。また、シャーマニズムがもっていた雑霊邪鬼とこれとは区別されるハナニムの存在は、キリスト教の神と天使・サタンの世界の理解を早めるのにも役立っています。


このように、シャーマニズムの世界観が土台となって、韓国民衆のキリスト教への理解と受容が促進されて来たのは事実であろう。だが、以下の引用にあるように、韓国教会とシャーマニズムとの接近はそれだけにとどまらず、教会は自ら積極的にシャーマニズムを取り入れることによって韓国人の共感を呼びおこし発展してきた事実があるという。著者はシャーマニズムとの接近の結果として、「韓国キリスト教のシャーマニズム化」が起きたこと、つまり、現在の韓国のキリスト教自体がシャーマニズムに大きな影響を受けて成立していることを認めている。

見ようによっては、こうした事実はクリスチャンにとって極めて危険なものである。なぜなら、たとえ世界観が似ていたとしても、シャーマニズムを導く「霊」は、聖書における神の聖霊とは全く別の霊に由来することが明らかだからである。そこで、キリスト教とシャーマニズムの混合が、キリスト教に良い影響を及ぼすことはまずありえない。韓国キリスト教には何かの異変が起きていると考えるのが妥当であろう。

しかしながら、以下に見るように、ここで「シャーマニズム化」と呼ばれている現象は、具体的には、信者が自己の魂の平静さを失って、一種の「神がかり状態」のような熱狂と狂乱に陥った状態で祈祷を捧げるなど、今日の世界各国におけるペンテコステ運動が異常だと非難されている点とさほど変わらない。特に、そのような祈祷を現世利益を求めて行うことが、韓国シャーマニズムの特徴であるのだと著者は言う。
 

 また、韓国教会の祈祷会に、特に世界で初めて韓国で聞かれたとされている早朝祈祷会に参加すれば、信者たちが一種の陶酔状態の中で個人個人が大声で自己の救いを求めている光景にでくわします。そして、祈りの言葉のほとんどが、現世利益を追求するものです。これは、日本の教会で見られるような静かな祈りの光景とは全く異質のもので、同じ宗教とは思いがたいものがあります。韓国キリスト教は、自らのシャーマニズム性を否定しますが、「韓国のキリスト教は、厳密な意味においてシャーマニズムと対決し精算しなければならない問題点が多い」と、キリスト教者自らが言わざるを得ないように、韓国キリスト教のシャーマニズム化は否定できないでしょう。
  以上のように、韓国人の原宗教的要素であるシャーマニズムは、韓国人がキリスト教を受け入れるにおいて、障害とならずむしろキリスト教理解の助けとなっており、そして、キリスト教はシャーマニズムを取り入れることによって韓国人の共感を呼びおこし発展してきたと言えます。

今日、日本に存在する韓国系の教会でも、このような「信者たちが一種の陶酔状態の中で個人個人が大声で自己の救いを求めている光景」は見られる。むろん、それは必ずしも韓国キリスト教だけの特徴とは言えず、ペンテコステ運動自体に共通する特徴だと言えるのだが、それでも、韓国のペンテコステ運動には、世界のペンテコステ運動と比べても、とりわけ現実逃避的な性格が強い様子が見受けられると筆者は考えている。

なぜなら、キリスト教における常識的な見解においては、信者はすでに聖書の信仰に立って自己の救いを得ているわけだから、改めて自分の救いのために祈る必要はない。信者が様々な困難に直面する時などを含め、日々、信者は神に具体的な助けを求め、信仰生活において祈りることが必要であるとはいえ、その祈りは、必ずしも、教会の礼拝堂や、祈祷院にこもってしかなされ得ないものではなく、日常生活の様々な場面で、信者は様々な用事をこなしながら、心の内で自ら神に祈ることはできる。さらに、祈りと同じほど重要なのは、信者が家庭や、社会において、信仰を態度で表しながら具代的に行動して生きることである。

ところが、信者が自分がすでに得た信仰的事実に基づいて実際に行動することよりも、「大声で自己の救いを求めて」教会や祈祷院にこもって祈り続けることを優先する韓国クリスチャンの姿には、信仰に基づいた現実的な行動よりも、ただ祈りを通して、すべてを神に解決してもらいたいという受け身の姿勢、あるいは、祈っているうちに何か超自然的な現象が起きて、自分が直面していた問題が劇的に消失してほしいとでも言うかのような、他力本願で現実逃避的な願望が非常に強く表れているように筆者には見受けられる。

このような韓国ペンテコステ・キリスト教徒のあまりにも熱心かつ長時間に渡る祈祷への没頭には、韓国人信者たちを現実生活から引き離そうとする何かしらの良くない願望が表れているように筆者には思われてならない。このような祈祷に没頭し続けている限り、信者は家庭や社会から引き離され、クリスチャン以外の人々の間で信仰を表明する機会を失い、現実の諸問題に自ら向き合いながら、現実を力強く生きて行くことはできなくなるであろう。しかも、その祈りの内容が、現世利益を求めるものであれば、なおさらのこと、自己中心な内容のために、祈祷は社会との広い接点を失い、ますます内向きになる結果になりかねない。

日本における韓国系のキリスト教会では、実際に、早天祈祷会から、夜の断食祈祷会などまで、朝から晩まで祈祷が行われているわけであるが、そのように信者が家庭や社会で現実生活を送ることを妨げるほどまでに祈祷に熱中することは、果たして正常と言えるのであろうか、現実逃避でないと言えるのかどうか、筆者は深く疑問に思う。さらに、その祈祷が、「キリスト教のシャーマニズム化」と評されるのであれば、そもそも何の霊と交信しているのか分からない祈祷の効果は薄いというよりも危険ではないかと思われる。
 
このように、韓国キリスト教は、その成立過程で、シャーマニズムや他宗教や異端思想の影響を強く受けているという複雑な事情を持ち、そうした歴史ゆえに韓国キリスト教と異教との境界線は極めて分かりにくいものとなっている。

だから、このような韓国ペンテコステ運動を導く霊が何であるのか、それについては警戒が十分に必要であると思う。これまで筆者は、ペンテコステ運動がグノーシス主義的・東洋思想における母性崇拝の霊を基調とする疑似キリスト教であることを指摘して来たが、この異教的な基礎は、原始宗教であるシャーマニズムにも通じるところがあるかも知れない。

特に、シャーマニズムには、巫女(女性だけでなく男性も)のように、霊媒のような存在が必要とされる。人々は特別な力を持つシャーマンを通してお告げを聞いたり、厄除けをしてもらう。そのような「霊を受ける器」としての霊媒の存在は、ペンテコステ運動におけるカリスマ指導者の役割にも非常によく似ていることを思わせる。

「牧師」という名で呼ばれるために疑いが生じにくくなっているだけで、特別に神の霊を受けたとして超自然的な力を誇示したり、神がかり状態となって理解できない言語を話し続けたり、預言と称して正体不明の霊のお告げを語るペンテコステ運動の指導者は、本質的にはシャーマニズムと同じ霊媒師なのだと考えるのが適切ではないかと筆者は考える。
 
韓国キリスト教に限らず、ペンテコステ運動の基礎は、原始宗教を含めた異教的な信仰にあり、ペンテコステ運動そのものがキリスト教に仮装したシャーマニズムだとさえ言えるかも知れない。

少なくとも、韓国キリスト教が明らかにシャーマニズム化しているという危険な特徴や指摘を見落として、信徒が教会行事を全て正しいものと考えて没頭していれば、おそらく、その信者は現実における家庭や社会での生活からますます遠く引き離され、ありもしない夢のようなお告げや祈祷に熱中し、現実感覚を見失って行くだけであろう。

ペンテコステ運動は、それ自体が、悪い意味での宗教的「阿片」であり、目くらましのための、まやかしの信仰である、と筆者は考えている。この運動に接触した信者は、現実生活に起きる諸問題に勇気を持って直面しながら、これを解決して行く力を失い、むしろ、自分を哀れんで現実のあらゆる問題から逃げ出し、神に他力本願でな期待を託すという受け身の生き方に転じる。このような現実逃避運動にどれほど没入してみたところで、その信者は、人生の貴重な時間を失って、ますます人格が弱くなるだけで、現実の諸問題に立ち上かう知恵と勇気を得ることはないであろう。
 

・女性を男性の「被害者」とみなすことで、男女の秩序を覆そうとするペンテコステ運動の異常性――天声教会のメッセージから

さて、このような韓国キリスト教の独特の成り立ちと性質を踏まえれば、こうした教会のどこに警戒すべき危険があるのかも理解できるだろう。筆者がKFCの姉妹教会である天声教会のあり方について深刻な危惧を覚え、いくつかの記事を記したのも、こうした事情があるためである。

天声教会においては、教育訓練の欠如したパスタ―が講壇に立って信徒を教え、教会を拠点に信徒の結婚生活を侵害するようなあるまじき生活を送っているという問題があることを指摘したが、それに加えて、同教会には、祈祷への現実逃避的な熱中を含め、韓国ペンテコステ運動につきものの、およそ正常とは考えられない様々な危険な特徴が見受けられる。

天声教会のメッセージの主題を見ただけでも、同教会のメッセージ内容はペンテコステ運動のすべての危険な特徴を踏襲していることがよく分かる、すなわち、➀地上的な豊かさを求めるご利益信仰に信者の関心を引きつける手法、②悪霊との目に見えない戦いを極度に強調することで、信徒の心に恐怖と疑心暗鬼を植えつけ、教会指導者への忠誠を要求する手法、さらに、KFCにも共通して見られたように③荒廃と破滅の預言によって、教会の外の世界は荒廃と衰退の一途を辿り、教会しか安全地帯はないと信徒に思わせることで、教会に囲い込んで行く手法、④信徒の心に罪悪感と被害者意識を植えつけることで支配の手がかりとする手法、などがある。いくつか目についたタイトルを挙げておく。

大地が喜んで実りを結ばせるために(創世記1:24-31) 主日礼拝2部 2016年11月20日(Sun)
ダビデに仕えた勇士たち - 登録された三十勇士と除外されたヨアブ(2サムエル記23:18-39) 2サムエル記講解説教 2015年11月19日
悪しき者に占拠された都の中で働く御国のスパイ達(2サムエル記15:24-37) 2015年9月21日
「サタン 偽りの言葉巧みな二等兵(ルカ10章17-20節)」 主日礼拝2部 2015年10月18日
イゼベルを為すがままにするなかれ(黙示録2:18-29) 金曜徹夜祈祷会 2016年9月2日(Fri)
世界の荒廃の預言 - 全ての人は等しくなり格差は破壊される(イザヤ24:1-13) 이사야 강 해설교 イザヤ書講解説教 2015年11月18日

➀は繰り返される年中行事のようであるが、「大地が実りを結ばせる」という用語そのものに、キリスト教ではない異教的な要素を強く感じざるを得ない。なぜなら、キリスト教においては、実りをもたらす方は神しかおられないが、世界各国の様々な国では、大地を「母なるもの」として賛美し、大地そのものが豊穣をもたらす源であるという異教的な考えが強く残っており、豊穣を祈願して「母なる神」に様々な供物が捧げられるためである。

②では、神と悪魔との戦い、悪霊との戦いなどが強調されているが、ペンテコステ運動が常にそうであるように、こうした「霊の戦い」は終始、拡大解釈がいくらでも可能なほのめかしによって語られ、具体的に説明されない。指導者が「悪霊」や「サタン」という言葉を用いて一体、何を糾弾しようとしているのか、現実的にどのような危険を指して信徒に警告しているのか、聖書の例話が比喩として語られるだけで、具体的に説明がされない。そこで、こうした漠然とした形で霊の戦いについて聞かされた信徒の間では、恐怖が募り、疑心暗鬼が蔓延し、結果として、教会指導者に従わない信徒を互いに悪霊扱いし始めたり、自分自身が「悪霊」として非難されないために、より一層、教会指導者に尽くそうなどと考えるのである。

このように、すでに救われて教会を訪れたはずの信徒を改めて「敵・味方」に分類し、仲間を疑わせ、神への愛からではなく、敵とみなされて排斥されたくない恐怖心から、信徒がより一層指導部への忠誠を誓うよう仕向ける方法は、カルトの常套手段である。かつては我が国で「非国民」という言葉を使うことによって、国民を「敵・味方」に二分し、国の指導に従わない国民を事実上、悪魔扱いして排除していたのである。

彼らがこうしてしきりに「スパイ」や「悪霊」などを引き合いに出し、敵に脅かされているかのような印象や、疑心暗鬼を信徒に植えつけるのは、指導者自身を疑わせないためである。実際には、このように、人々の心に恐怖を煽る二項対立を持ち出して、信徒を敵味方に分類し、信徒を見えない神ではなく、目に見える人間の指導者の判断に従わせて行こうとする方法こそ、悪霊に由来するものである。すでに述べた通り、天声教会が追放しなければならない「イゼベルの霊」も、既婚者でありながら教会指導者と教会を拠点に共同生活を送り、教会全体を思うがままに操るような信徒を指すのであって、そのような信徒に牛耳られている教会のあり方に危機感を覚え、外から異議を唱える信徒たちを指すのではない。

にも関わらず、こうしたメッセージでは、すべてがさかさまにされ、自分たち教会は「聖なる者」とされて絶対化される一方、自分たちの信仰生活のあり方を疑ったり、批判する者はみな「悪魔」扱いされる。このような極度に単純化された図式に逃げ込むことで、自分たちへのいかなる批判にも耳を塞いで、ただ教会だけを安全地帯としてそこへ引きこもることで現実逃避をはかるという完全な錯誤が成立しているのである。

さらに注目すべきことは、天声教会が、聞く者(特に男性)の心に罪悪感や、自己嫌悪感を呼び起こすようなメッセージを語り、聖書において神に従った人物のイメージを極度に歪め、女性の被害者意識を煽るようなセンセーショナルなタイトルをメッセージに使っている点である。

一度に強姦加害者の親、強姦被害者の親となってしまったダビデ(2サムエル記13:7-19) 2サムエル記講解説教  2015年9月3日

通常のキリスト教会では、どんな牧師も自分のメッセージにこんな題名をつけることはしない。そんなことをすれば良識を疑われるだけである。通常の教会においては、ダビデの罪が語られる時には、必ず、それと並行して神の赦しが語られる。ダビデは大きな罪を犯したが、その罪は、神の御前にはすでに赦されている。ダビデはこの失敗のために、人生において厳しい刈り取りをし、苦しみを受け、神はそのことをご存知で、もはやダビデを責めてはおられない。

だから、ダビデの失敗を通して、今日、クリスチャンの目に明らかになっているのは、人間の罪の深さと、それに対する神の憐れみの深さであり、人はたとえ思わぬ罪を犯しても、ダビデのように悔いることさえできれば、神に立ち返る道は常に開かれているという事実である。

イエス・キリストが、ダビデとバテシェバの子孫から生まれたという系図を見るだけでも、二人の関係が、最終的には、神に受け入れられたことが分かる。ダビデはバテシェバを愛し、二人の子孫の系譜はキリストの誕生へと続く。それを考えると、バテシェバの人生は単なる不幸な被害者や、悲劇の主人公として終わらなかったことが分かる。人間が罪を犯すことは、あるべきでないとはいえ、この出来事にも神の深い配材があり、ダビデの過ちも、最終的には神のご計画を妨げるものとはならなかったのである。

しかしながら、上記のメッセージはあまりにも歪曲に満ちており、こうした深い文脈で物事をとらえようとせず、父なる神がすでに赦された罪に対して、ダビデの失敗をとげとげしく非難し、彼の落ち度を針小棒大にあげつらい、ダビデの犯した悪事を標本のように見立ててさらし者とし、他方で、バテシェバは「強姦被害者」であるとして二人を貶める。こんな天声教会のメッセージの何といやらしく意地悪く、高慢なことであろうか。

だが、このような物の見方は決して偶然に生まれて来るものではない。彼らがバテシェバを一方的な被害者と見なしているところにも、ペンテコステ運動に流れるグノーシス主義的な特徴が見ごとに表れている。結局、このメッセージが言わんとしているのは、「女性は男性の被害者だ」ということに尽きるのである。

天声教会の指導者は、バテシェバをダビデの被害者と見ることを通して、男性とは欲望に満ちて、暴力的で、わがままで、女性を常に虐げ、踏みにじる悪しき存在であるかのように描いている。なおかつ、こうした歪んだ物の見方に基づいて、男女の関わりそのものまでも否定的に、汚れた、悲劇的で、歪んだ、嫌悪すべきもののように描き出すことで、神が定められた男女の本来的にあるべき健全な秩序や関わりそのものまでも歪めてしまっている。

こうしたメッセージの根底に隠れているのは、女性の心に男性への対する嫌悪を植えつけ、被害者意識を煽ろうとするフェミニズムの思想であり、このメッセージは、ただ歪んだ男女の関係を極度に誇張し、男性を断罪するだけで、人間の罪の悔い改めに与えられる神の赦しの完全性や、キリストがご自分の花嫁なる教会を愛されたような夫婦の健全なあり方への視点が欠落している。また、ダビデの生涯に渡るバテシェバへの愛情も全く否定されている。ここに見られるのは、ただ男女の関わりそのものに対する徹底的な嫌悪感、拒否感だけである。

すでに説明したように、女性を男性の「被害者」とみなし、男性への憎悪を煽るフェミニズムの思想は、もとを辿ればグノーシス主義から出たものであり、ペンテコステ運動も、グノーシス主義に起源があると筆者は考えている。

グノーシス主義に起源があればこそ、ペンテコステ運動はマイノリティを美化し、女性を美化し、女性を男性の「被害者」であるかのように描き、男性には罪悪感や自己嫌悪を植えつけ、女性には被害者意識と男性への憎しみを植えつけることで、女性と男性を闘争関係に起き、男女の秩序を転覆しようと狙うのである。フェミニズムとは、結局、神と人類との秩序を覆そうとする試みであるから、この運動は人類の側から神に対して挑まれた闘争なのである。

グノーシス主義は、被害者意識を軸として、力の弱い者が、力の強い者との支配関係を覆そうとする秩序転覆の思想であり、フェミニズムの思想が男性を女性への加害者として描く目的は、男性に罪悪感を持たせることによって、男性の力を封じ込め、女性を男性よりも上位に置いて、男女の秩序を覆し、女性が男性を支配することで、男性に対して復讐を果たすことにある。

この手法はペンテコステ運動においては、人類を神の被害者とすることによって、人類が神を訴え、神を乗り越え、自ら神となるという構図となる。だが、一応、ペンテコステ運動はキリスト教に偽装しているので、あからさまに神を加害者とすることはせず、隠れたプロットの中でそれを持ち出すのである。

天声教会の上記のメッセージは、ダビデを罪深い加害者、バテシェバを罪なき被害者として描くことで、男性を罪深い加害者とみなして、女性をその被害者とみなすフェミニズム的思考パターンをよく表している。

だが、このメッセージは、より深い意味では、グノーシス主義的な秩序転覆の構図を示すものであることは、ダビデとバテシェバの関係を、神と人類との関係に置き換えると理解できる。

彼らが「加害者」として糾弾しているのは、ダビデだけではなく、その背後に存在し、ダビデを義と認められた父なる神である。そして、彼らが「被害者」としてかばっているのは、バテシェバとその死んだ子だけでなく、堕落した人類という「母子」なのである。

このメッセージの本質がグノーシス主義にあることは、グノーシス主義神話を通して理解できる。すでに述べた通り、グノーシス主義神話においては、幾通りかのパターンで筋書きに多少の差異はあるものの、その中には、自ら神のようになろうとして、単独で子を生むという過失によって天界から転落しかかったソフィアが、自分の過失によって生まれた醜い悪神にさらに凌辱されて、その子孫として人類が誕生するという筋書きもある。

このようなグノーシス主義神話では、人類の直接の父は、この世を支配している暗愚で暴力的な悪神だということになり、この悪なる父を否定的に乗り越え、その上に自らの本当の父があるという事実を見いだすことによって、人は神に回帰するというのがこうした思想の基本的な考え方である。

そこで、このような神話に照らし合わせれば、人類とはまさに「父による母への凌辱」の結果として生まれた悲劇の子供ということになるため、「父」は悪者である。天声教会のメッセージには、このような意味で、グノーシス主義神話の構図を、ただ聖書におけるダビデとバテシェバの関係に置き換えただけとしか言いようのない隠れたプロットが存在することが分かる。彼らがダビデの行為を「強姦」として糾弾しているのは、実は、グノーシス主義的な文脈における人類の誕生のことで神を非難しているのである。

むろん、このような思想を人間に語らせるのは霊である。(その意味でも、ペンテコステ運動の指導者は霊媒師であると筆者は言うのである。)彼らの語るメッセージは、彼ら自身が自分の知性で思いついたものではなく、彼らを支配する霊が、自らの思想として語るものである。それが聖書に由来するものでなく、悪霊の思想に他ならないことは、聖書の御言葉との対比と、いつの時代も変わらない悪霊の思想共通の特徴がある事実によって見分けられる。

このことが分かれば、以上の天声教会のメッセージが、隠れた霊的暗示の効果を持っており、そこにおいては、ダビデが象徴的に「悪神」になぞらえられていること、その「悪神」による暴力の結果、侮辱され、愚弄された「母」(バテシェバ)と、さらに「父」の暴力の結果生まれて来た悲劇の「子」が、被害者として美化されていることが分かる。

このように「父」の横暴の犠牲となった「悲劇の母子」にスポットライトを当てて、これに同情し、彼らを無罪放免し、このような「神の不当な暴力の被害者」を救済しようとするのが、グノーシス主義の目的であり、このメッセージは、そうした意味で、グノーシス主義の基本理念にまさに合致している様子が見えて来る。

結局、このメッセージが暗に言わんとしているところは、「人類は(神の)被害者である」ということに尽きる。ダビデを「加害者」の立場に置くことによって、このメッセージは暗黙のうちに、男性全体だけでなく、聖徒らをも罪に定め、ひいては神までも「加害者」の立場に起きつつ、他方、自分たちは、その被害者だということにしてしまうのである。

こうした考えは、聖書の象徴的な意味を無視している。ダビデの罪の結果として生まれて間もなく死んでしまった子供は、最初の人間アダムをも暗示していると見ることができる。そして、ダビデとバテシェバから生まれ、父の王国を受け継ぐ子供となったソロモンは、第二のアダムであるキリストを暗示する。第一のアダムは、罪に堕落したゆえ命へ至る道を見つけられずに死んだが、第二のアダムは、神への従順ゆえに義とされて命と安息に至る。こうして「後の者が先になる」――というのは、聖書の至るところに共通する型である。

しかしながら、以上の天声教会のメッセージは、死んでしまった子供のために同情し、これを父の罪の結果であるとして糾弾する。そこから見えて来るのは、バテシェバと死んだ子供という「母子」を「弱者」としてかばうことで、神に創造されながらも、罪に堕落したために神から切り離された人類をかばい、人類を父なる神よりも高く掲げ、無罪放免しようというグノーシス主義的な思惑である。

彼らの考え方には大きな錯誤がある。それは、バテシェバも、その子も、ダビデと同じような罪を犯さなかったかもしれないが、罪人の一人に過ぎず、決して罪なき聖なる存在ではないということである。人間を義とすることができるのは、神であって、人ではない。ダビデを義とされたのは神であって、バテシェバが彼を赦したから彼の罪が消えたわけではないのである。

だが、ペンテコステ運動の支持者たちは、すべての人間関係をただ「加害者・被害者」という二項対立のフィルターを通してしか見ようとせず、「被害者」を神聖なまでに美化し、祀り上げる一方で、「加害者」を罪人として断罪する。そして、ただ被害者によって無罪放免されることだけが、人間の罪が赦される唯一の道であるかのように主張して、ひたすら、人を罪意識や被害者意識に閉じ込め、人間の罪を赦す権威は、神にこそあって、人間にはないという聖書の事実を忘れさせるのである。そして、被害者を名乗る人たちが、気のすむまで「加害者」を断罪し続け、償いを要求することを「救済」に置き換えて行くのである。

ペンテコステ運動を導くイゼベルの霊は、被害者意識の霊であると筆者は述べて来たが、この霊の手口は、他人に不当な因縁をつけて恐喝するヤクザの手法と同じである。ヤクザに脅され、ゆすられ、たかられている人は、恐怖のあまり、ヤクザから解放されるためには、ヤクザに赦しを乞うしかないと思い込む。だが、どんなにヤクザに赦しを乞うても、赦されるどころか、ますます弱みを握られ、責められ、思うがままに操られるだけである。人が悪魔に罪の赦しを乞うても無駄なのである。

しかし、ペンテコステ運動を含め、グノーシス主義は、人間の罪というものを、神に対して犯されたものではなく、人に対して犯されたものとしてのみ理解することによって、罪を指摘したり、罪を赦す権威が、あたかも被害者である人間にあって、被害者意識を持つ人間は、自分の被害者意識を盾に取って、他者を永久に脅し、断罪し続けることが正当化されるかのように考えている。

天声教会のメッセージ内容には、男性にしきりに罪悪感や嫌悪感をもたせることで、思うがままに支配しようとする「イゼベルの霊」の精神構造がよく表れていると言えよう。

すでに述べたように、統一教会における「エバ国家」の概念に見るように、他者の心に罪悪感を植えつけることで、その人間を脅し、思い通りに支配して行こうとするのは、悪霊の常套手段である。村上密牧師が、統一教会を脱会して後も、自らの心に植えつけられた加害者意識を捨てられず、キリスト教に入信後も、自分自身を依然、「加害者」の立場に置いて、キリスト教会で傷つけられたカルト被害者の救済活動にいそしんでいることについて書いたが、天声教会の指導者も、これと同様に、自ら男性でありながら、自分自身をダビデに重ねて「加害者」の立場に起き、「被害女性」の心境に寄り添うかのようなメッセージを語ることで、「被害者」の心を慰撫し、彼女たちに暗黙の懺悔を果たそうとしているのである。

だが、このようなフェミニズム的な思考の影響を受け、自己嫌悪、負い目の意識を背負わされた男性たちは、自分への健全な自信を失って行くことになる。ダビデの罪を責めている彼らは、彼を責めることによって、自分自身を罪に定めているのだとは気づかないのである。

しかし、自分自身をこのようにしか見られなくなった人間は、どんなに自己批判を続けても、その負い目の意識は払拭できないであろう。こんなメッセージは、語っている本人ばかりか、聞いている人の心にも、男性への嫌悪と、男女の関わりへの嫌悪を植えつける。

人間の罪に対する神の憐れみの深さと、人間の罪を超えて働く神の計画よりも、ただ人間の罪に対する負い目と、嫌悪感だけが募って行くことになる。早い話が、男性であれ、女性であれ、そのようにまで自分の性についてこれほど悲観的な考えを持つに至った人々が、健全で幸福な結婚生活を送り、伴侶を愛して、共に手を携えて生きることは、まず無理な相談ではないかと考えられる。

以上に挙げたような天声教会の極端に誇張された男性嫌悪のメッセージは、KFCがそうであったように、自分を夫の被害者であると考える女性信徒たちの思いが強く投影・代弁され出来上がっているものだと言えよう。日ごろから、家庭において、社会において、何かの被害者意識を持つ女性たちが、自分たちの被害者意識を、真の加害者に向けられないので、他の誰かに吹き込み、代弁させるのである。心傷ついた、子供のような誰かをターゲットとして捕まえて来て、自分好みのメッセ―ジを語らせ、自分を虐げる男性たちの代わりにその人間を懺悔させることで、自己を慰めるのである。ターゲットとされる人々にも、母親に愛されないで育ったなどの何らかの弱みがあって、その弱点と、自分を認めて欲しいという願望を担保に取られ、彼女たちに利用される結果となるのである。

こういう関係こそ、その本質は、霊的姦淫に他ならず、糾弾されてしかるべきものである。真に問題なのは、姦淫の罪を犯したが、それを神と人の前で真摯に悔いることができたために罪赦されたダビデではなく、自ら霊的姦淫の罪を犯していながら、その罪を隠し、認めようともせず、誰の前にも悔いようともしない教会指導者と信徒たちの方にこそある。

神が罪とみなしておられるのは、男女関係そのものではなく、結婚の枠組みを侵害するような男女の関わりであり、姦淫の罪とは、何も肉体的な関わりだけを指すのではなく、霊的姦淫という罪もある。ある信徒が、他の信徒を家庭から引き離し、日常生活から引き離し、配偶者から引き離し、教会生活や宗教行事に過度に没頭させ、その心を神や配偶者や家族から奪って自分に向けさせるなどのことも、霊的姦淫の罪である。

教会指導者自身が、誰よりも誤解を呼ぶような、他者の結婚生活をないがしろにする生活を教会を拠点に送り、他の信徒の心を盗んでいる状態で、他の信徒に向かって、姦淫の罪について警告するのは、まさに笑止としか言えない。この指導者は、姦淫の罪の本質を、男女の肉体的な関係だけに限定することによって、霊的姦淫という、それよりもさらに恐ろしい罪の本質から目を背けているのである。

他のメッセージのタイトルや内容からも判断できるように、この教会で語られているメッセージは、KFCと同じように、常に自分たちを他の信者たちと引き比べて、他の信者の失敗や欠点をあげつらいながら、自分たちだけは、彼らの誤りを踏襲せずに、神に受け入れられる優秀な信徒であり続けられるかのような内容となっている。こうして他者の誤りを引き合いに出すことで、自分自身を高く掲げるのである。先人たちの失敗を意地悪くあげつらい、彼らの信仰の薄さと罪深さを心の内で断罪しながら、自分たちだけは決してそんな愚かな誤りは犯さず、神に見捨てられることのない、正しい道を進んでいけると豪語しているのである。

そういう目線に立っていればこそ、この教会の指導者は、自分たちはまるで被害者であるかのような立場に立って、自分自身が現実に犯している罪には一言たりとも言及しないまま、自分たちは心美しい、罪なき人間であり、残酷で暴力的で自己中心な連中や、堕落した「スパイ」どもとはわけが違うと主張するのである。

こうした人々の思考においては、すべてがさかさまに見えている。彼らは悔い改めて罪赦されたクリスチャンを断罪し、加害者呼ばわりする一方で、自分たちは悔い改めることもなく罪赦されるはずもないのに、「被害者」であると主張することによって、自分自身を一方的にて無罪放免しながら、改めて、聖徒らを訴えようとしているのである。

だが、このようにひたすら他者の罪をあげつらいながら、自分自身を義とする高慢な人間にこそ、「私たちは見える」と言い張った罪が残り続けることであろう。

最後に、ダビデの失敗は、ただ単に姦淫の罪の恐ろしさと共に、人間のナルシシズムの罪を示しているように思われてならない。ダビデは、若い時分には、大変美しく、活発であり、バテシェバに出会うまでは、自らの美しさ、若さ、力といった、天然の生命の力や美を疑うことはなかったに違いない。バテシェバも大変美しく、ダビデは彼女を見たとき、自分にふさわしい人間を見つけたと思ったに違いない。そして、おそらくは、バテシェバの方でも、ダビデがあまりにも魅力に溢れていたので、その行動を疑うことができない心境にあったのではないかと考える。平凡な人間であったウリヤに比べ、ダビデは彼女の心を圧倒する様々な術を持っていたのではないだろうか。ダビデはそれまで、望むものを何でも手にすることができた。女性の心も思いのままであり、何を望んでも罪になることがなかった。だが、彼が自分の力に慢心し、自己の美や力を当然のものと考えた時、失敗が訪れたのである。この出来事があって初めて、ダビデは自己の存在の根本に潜む罪なる性質に気づいたのではないかと思われる。

人間の判断は極めて身勝手で、人間は自分の感覚にとって心地よく、美しいものだけを好む。自分にとって美しく映るものを義ととらえ、醜く映るものを悪ととらえ、新鮮で、若々しく、命の力に溢れた、自分の目を楽しませてくれる美に価値を見いだす。しかし、人間の目にどう映るかとは別に、美というものの中には、根本的に悪に傾きやすい危険が潜んでいること、その危険性が自分自身のうちに潜んでいることに、ダビデは気づいたのではないだろうか。サタンは、自己の美しさに慢心して神への反逆に至った。もしもサタンが美と無縁であったなら、高慢に陥ることは決してなかったであろう。

ダビデの息子の一人であるアブシャロムは、父よりも美しかったと思われる。その美しさのゆえにも、ダビデは彼を愛したのであろう。だが、この息子が自らの美しさに慢心し、ダビデへの反逆を企てることになる。その姿を見て、ダビデは、自分の外見の美の力を疑うこともなかった若い当時の自分自身を思わなかったであろうか。人間の美というものがいかに人々を眩惑して物事の本質を簡単に見失わせる欺きに満ちたものであり、その美の持ち主自身をも狂わせるものであるかを考えなかっただろうか。

このようなことから見ても、人間の罪というものは非常に巧妙で見えにくく、ダビデは罪を犯したがバテシェバは一方的な被害者であって罪がないなどと簡単に言えるような図式は存在しないことが分かる。ダビデの犯した罪は、女性も含め、人間そのものに根本的に流れる罪なのである。

なのに、こうした事実を見ずして、人が自分の目と耳を喜ばせてくれるうわべだけの綺麗事に熱中し、この綺麗事を握りしめて、それによって自分自身の存在を美化し、正当化し始める時、その人間は真実から逸れて、罪なる本質の中に陥って行くのではないだろうか。

ダビデがバテシェバを何が何でも手に入れようとしたように、今日、多くの宗教指導者は、エクレシアの強奪に余念がない。キリストの花嫁たるエクレシアは、神にとっての宝である。だが、この花嫁たる教会をめぐって、人はどれほどの争いと罪を繰り広げて来ただろうか。

ペンテコステ運動の指導者たちは、ダビデがウリヤを殺してでもその妻を奪ったように、心ある信者たちを追放してでも、教会を私物化し、残る信者たちの心を神や配偶者から盗んで自分に向けさせている。こうして教会を自分の栄光、手柄の手段へと変えている。

ダビデと違って、彼らはこれを恥ずかしいと思わず、霊的姦淫の罪とも考えない。彼らはあまりにも自己の力に慢心しているので、教会が自分の前に跪くのは当然だとさえ思っている。ペンテコステ運動が支持者にもたらすのは、このような不遜なまでの、あるいは痛ましいまでの、自己の力へ慢心、自己の美への賛美である。こうした指導者たちはあまりにも己惚れすぎているために、誰から指摘されても、その状態が罪であるということに気づけない。本当は、こういう指導者こそ、霊的姦淫の罪により糾弾されるべきである。

こうした指導者は、片方では、信徒の耳に都合の良いことを約束しながら、もう一方では、公然と「世界の荒廃」などを予告して、破滅や呪いの予言を語り、信者を恐怖と疑心暗鬼に陥れることで、自分の教会に束縛し、思惑通りに行動させようと促す。(その点でも、KFCと天声教会は似ている。)そういうことになるのは、この人々が神から遣わされた預言者ではなく、ただ自分自身の心の欲望と荒廃を信徒に向かって語っているだけだからである。こうした指導者に着いて行けば、羊には正常な未来はまず望めないであろう。

「イゼベルの霊」が生み出すマザコンと、父なる神に反逆する母子が神の家の後継者を詐称して、家の乗っ取りをたくらむペンテコステ運動の危険

・安倍晋三に見る「イゼベルの霊」による支配の危険――母が子に怨念と被害者意識を吹き込むことで生まれる歪んだマザー・コンプレックス
 
さて、ペンテコステ運動の弊害については、以下でも話をつづけるが、この項目では、「抑圧的に支配する異常な母の霊」であるイゼベルの霊が、人の人格をどれほど異常に歪め、人生を狂わせるものであるか、その破壊的影響について、安倍晋三という人物を例に取って考えてみたい。

我が国の現在の首相である安倍晋三が、統一教会と密接な関係にあることは、インターネットでは常識である。さらに、それだけでなく、同氏が相当に深刻な「マザー・コンプレックス」であることも、一般によく知られている。

ちなみに、マザー・コンプレックスという言葉は、心理学用語ではなく、学術的に病理現象として定義されているわけではないようだが、それでも、この語が一般に広く使用されて定着している様子にも見るように、これは日本社会にあまりにも広く蔓延している心の病の一種であると筆者は考えている。

マザー・コンプレックスとは、母親の抱える不安や、孤独、心の傷、被害者意識などが、子に強く投影された結果、それが子供の心の傷となって引き起こされる現象であると筆者はみなしている。

欧米社会では、比較的裕福な家庭の子供などは特に、早くから学校の寄宿舎へ入れられるなどして、親元を離れ、親とは別個の自立した人格としての自覚と責任感を持つよう促される。いつまでも親にべったりな状態が良いものとはみなされておらず、親に依存的な子供は、一人前でないとみなされ、他の子供たちからも嘲笑や侮蔑の対象になることもある。

こうして早くから子供の親離れと自立を促す習慣は、個人を重視するキリスト教的世界観とも無縁ではないであろう。なぜなら、聖書に「その父母を離れ」(創世記2:24)とあるように、キリスト教的世界観においては、人の人生の歩みは、生まれ落ちた家庭から自立して、親の意志とは独立した一個の人格として、自主的に自己決定を下せる状態になることを一人前とみなしているからである。

しかし、東洋諸国においては、集団と個人との概念の切り分けがなく、子をいつまでも親の付属物のように考えたり、社員を企業の所有物のようにみなし、個人をその帰属する団体の所有のごとく考える風潮が根強い。我が国では、家庭においても、子供を健全に成長させるためには、親からの適度な分離が必要であり、子は親だけでなく社会全体で育てるものだという意識が普及していない。

このような社会では、子供は親とは別個の自立した人格であるという意識が非常に薄く、子供を健全に成長させる全責任が、ひたすら親にあるかのようにみなされ、子が成人後に犯罪を犯しても、その責任が親にあるかのようにみなされ、親がバッシングされたりすることも珍しくない。あるいは、親の方でも、子が成人してもなお、子供を自分の付属物のようにみなし、子供の人生を思い通りに支配しようとすることもある。

こうしたことは、まさに東洋的世界観が反映して起きて来る現象であると考えられる。なぜなら、東洋的世界観にはそもそも神と人との断絶という概念がなく、目に見える宇宙と個人とは一体で切り離せないものとみなされ、それが転じて、組織や集団と個人との切り分けも否定され、全世界が一体であるかのようにみなされているためである。

さて、子供への過剰で歪んだ支配は、父親も、母親同様に行う可能性があるが、母から子への抑圧的な支配は、父親の場合と比べて、非常に巧妙で分かりにくい性質を持っている。

父親の子供へのコントロールは、一方的な命令という形で表れることが多い。そこで、もし父親が子供の意志を無視して、一方的な命令を下せば、それは子供の側からの大きな反発を呼び起こし、家庭において、激しい衝突や軋轢を生む可能性がある。それに引き換え、母から子への過剰なコントロールは、父のように強権的で抑圧的な命令という形を取らず、むしろ、一見、子供への「同情」や「愛情」、「思いやり」、「優しさ」といった形をを装って行われることが多い。そこで、それが過剰な支配であり、抑圧であることが、はた目には分かりにくく、当の子供自身にとっても、それが母による自分の人格への侵入であり、人生への不当な介入であることが分かりづらい。

しかも、子供を自分の欲望の道具として支配する母親は、子供が母の本当の動機を決して疑うことができないように、それを子供への同情や愛情という形でカモフラージュするだけでなく、しばしば、自分を夫の被害者と見せかけることで、子供の心に父に対する嫌悪感を植えつけ、自分への同情を呼び起こし、母子の距離を縮めて行くことが多い。

こうした異常な母親は、家庭において自分が抱える孤独や、不安、被害者意識を巧みに子供に吹き込み、父を巧妙に悪者にすることによって、自分には悪意がないかのように装い、子供が自分だけの味方となって、自分に同情するよう仕向ける。「まず母に元気になってもらわないことには、自分の幸せもないのだ」と子供に思わせることで、子供を母親である自分と運命共同体にしてしまい、同じ被害者意識によって結ばれるよう仕向けるのである。

早い話が、それは母親による子供へのマインドコントロールなのであるが、「自分たちは脅かされている被害者だ」という同じ意識を共有することで、母子の境界線が失われる。子は、母の不安を自分自身の思いのように継承しながら、母の利益の代弁者となって、母の観点に立ってのみ全ての物事を見、母の不安を解消することだけを人生の第一義的な使命として生きるようになる。
 
こうして、母と子が被害者意識によって精神的に癒着し、一体となって離れられなくなり、子が母の重荷を自分の重荷として背負い、成人してもなお、母から承認を受け、母を守る盾となって、母を喜ばせ、母の抱える不安や孤独や被害者意識を解消するために生き、独立した一人の人格としてのプライドと境界線を失った状態が、いわゆるマザー・コンプレックスである。このような異常な母親による支配は、被害者意識による連帯があるだけに、子供にとって見抜き難く、抵抗しがたい性質を持つ。

さて、安倍晋三に話題を戻せば、安倍氏の母親(洋子)は、「昭和の妖怪」と呼ばれた岸信介の長女として生まれた。現在ではゴッド・マザーなどとも呼ばれる彼女は、未だに息子である安倍氏の精神に絶大な影響を及ぼしており、内閣改造にまで介入しているとも言われる。安倍氏が官邸になかなか住もうとしないのも、母親から離れられないためなのだと世間では囁かれていた。

この洋子という女性は、あらゆる事実に鑑みて、父親である岸信介の思いを誰よりも強く受け継いで育ったものと思われる。父がA級戦犯としての「汚名」を着せられ、死刑に処されるかという瀬戸際まで追い込まれ、そのために家名が汚されたことへの「無念」や「屈辱感」や「被害者意識」を、この女性は強く我が事として感じ、それゆえ、岸信介に下された歴史の「不当な」審判を覆して、父を「名誉回復」することで、家の名誉を回復し、一家を復興したいという願いを誰よりも強く持って生きて来たものと考えられる。つまり、彼女は「家が脅かされている」という被害者意識を人一倍持って成長して来たのである。

LITERA掲載の記事「母親に弟より愛されたい! 安倍首相の岸信介、改憲への拘りは「マザコン」の現れ!?」(2015.04.01.)によると、洋子氏は「岸家の復興」という悲願を、まず最初に、岸家に養子に出した自分の三男に託そうとしたようである。だが、すでに岸家の人間ではなくなっていた彼女が、家を飛び越えて子供の将来を操るという計画は周囲からも不評を買い、結局、彼女はその悲願を、晋三に託さざるを得なくなった。

こうしたことから、この洋子という女性は、自分の父がこうむった恥から来る怨念と被害者意識を、息子を通して解消しようと考えていたことが分かる。彼女はすでに岸家を出ていたにも関わらず、岸家の人間としての意識を捨てられず、息子が彼女に代わって、先祖の無念を晴らし、家の潔白を主張して、彼女の生家の名誉を回復する道具となってくれることを望み、そのようにして息子を自分の欲望をかなえる道具としようとしたのである。

上記の記事などから判断するに、安倍晋三は、母のマインド・コントロールをまともに受けて成長し、母に認められたいという願望のゆえに、母の怨念と被害者意識と一体化し、それゆえ、A級戦犯とされた岸信介を誰よりも尊敬し、亡き祖父と母の思いを代弁して、先祖の「名誉回復」をはかることを悲願として生き、そのために、祖父が持っていたイデオロギーに自分も身を投じた。

こうして、安倍晋三は首相の座にあるうちに、何とかして「自虐史観」を廃して、自分たちにとって不名誉な歴史はすべて修正し、憲法を改正し、かつての「皇国」として大日本帝国が持っていた「栄光」(むろん、そんなものは存在しないのだが)を「復活」させることにより、自分たちのルーツを正当化し、栄光の高みに押し上げることを、生涯の目的のようにみなすようになったものと見られる(それが「日本を取り戻す」という同氏のスローガンの意味である)。

こうして、安倍氏は、怨念と被害者意識というへその緒で母と強固に結ばれたまま、成人してもなお、母とは別の人間である自分自身の人生を生きることができず、先祖と母の思いを代弁して無念を晴らすことだけが全生涯の目的となってしまったのである。

本来ならば、安倍氏は岸家の人間ではないので、岸信介の「無念」を継承しなければならない理由もないはずであるが、母の存在を通して、彼の負い目の意識、被害者意識を強烈に心に植えつけられ、その呪縛から抜け出ることができなくなってしまったのである。

祖先が下された審判のゆえに、負い目が心に深く刻まれていればこそ、その怨念と屈辱を跳ね返すために、自分たちは無実であると主張しないわけにいかないのである。つまり、自分たちの家に下された歴史の審判は、ただ戦勝国という強者によって押しつけられただけの不当判決であると主張して、これを覆すことによって、先祖の無念を晴らし、負のくびきを払い落として、栄光を取り戻したいと願わずにいられないのである。それはすべて罪の意識を払拭したいという願望から来ていることである。

そのように、安倍氏が母から受け継いで個人的に抱える怨念、被害者意識、復讐心が、我が国において、敗戦を未だに受け入れられない歴史修正主義者やナショナリストやネトウヨのような人々の負の感情と響き合って、我が国に集団的な被害者意識に基づくナショナリズムを生んでいるのである。

このように、安倍晋三という人間は、母(先祖)の被害者意識に人生を乗っ取られ、これを払いのけることだけを目的に生きているも同然であり、その姿はまさに、当ブログで述べて来たグノーシス主義・東洋思想における「脅かされている母を守る子」の姿に重なる。

そこには、ただ「脅かされている母を守る」という姿勢があるだけでなく、「聖書の神が人類に下した罪と死の(不当)判決から逃れたい」という願望が透けて見える。

幾度も述べたように、悪魔は、神によって自分に下された罪定めと永遠の滅びの判決から何とかして逃れて自分を無罪放免したいと願っており、そこで、自分を「神の被害者」であると考え、自分ではなく神を「有罪」として告発することで、神の判決に逆らい続けて生きている。そして、神を知らず、悪魔の支配下にある生まれながらの人類(罪人)を手下とし、自分と同様の負い目の意識を負わせ、自分への有罪宣告から逃れるために神に敵対するよう仕向けているのである。

岸信介を「名誉回復」して、「大日本帝国の栄光」を取り戻すことで、歴史を修正し、自分たちにかけられた汚名を返上して、再び、栄光の高みに上ろうという、以上のような安倍家の人々の考え方は、その魂の深い次元では、まさに悪魔の抱える神に対する怨念と被害者意識と、秩序転覆の願望へと重なって行く。

だから、以上に挙げた例は、決して、先祖がA級戦犯にされたという特殊な事情を抱える一家に限定された話ではなく、その背後には、聖書の父なる神に反逆するグノーシス主義的な母性による「神を押しのけて自分を神としたい」という普遍的な対立が見えるのである。

この母子が逆らっているのは、東京裁判を含めたあれやこれやの不都合な歴史的事実ではない。彼らは歴史的判決を受け入れないことによって、より深い次元では、結局、神がキリストの十字架において人類に下された有罪宣告そのものに逆らって、人間の生まれながらの自己を無罪放免し、自らを神としようと狙っているのである。


・「父」に歯向かう「母」と、「母」の過失をかばう「父なし子」が、勝手に神の家の後継者を詐称して、神の家を乗っ取ろうとする詐欺としてのグノーシス主義

グノーシス主義とは「家が脅かされている」という「母」の被害者意識を土台に成立する「母子家庭の母と父なし子の悲劇の物語」である。なぜ悲劇なのかと言えば、彼らの「脅かされている」という被害者意識は、彼ら自身が犯した罪から来るものであって、ゆえなきことではなく、にも関わらず、己が罪を認めようとしないこの「母子」が「父の家」へ平和に復帰することは絶対にあり得ないからである。

ここで「父なし子」と筆者は述べたが、それが何を意味するのかを、グノーシス主義の構造に照らし合わせて、もう一度振り返っておきたい。

グノーシス主義神話においては、自ら神の創造の秘訣を盗み、神のようになりたいと願った最下位の女性人格(ソフィア)が、どのような方法でかは分からないが、神に反逆して単独で子を生むに至った。そして、この「母」が、自分が生んだ子や子孫(人類)と一緒になって、自分たちこそ神の正統な後継者であると主張し、そうして「子」が「母」の犯した過ちを修正することが、この思想においては、人類の生きる最高の目的とされている。

ここで、単独で子を生むに至った女性人格が、「ソフィア(知恵)」という名で呼ばれているのも偶然ではない。聖書的観点から見れば、この「知恵」は、神に逆らう偽りの知恵を指す。その「知恵」とは、聖書の創世記において、堕落した悪魔が、自分と同じように神に反逆するよう人類をそそのかす際に使った「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」(創世記3:5)という端的に言葉に表れている。つまり、「知恵を受ければ、誰もが神のようになれる。それによって神を乗り越え、神以上の存在となりなさい」という悪魔の誘惑を指す。

グノーシス主義においては、「神のようになるために知恵を手にしたい」と願ったソフィアの欲望が罰せられることなく、それどころか、この「母」の欲望を正当化し、「母の過ちを修正する」ことこそが、「子」たる人類の使命とされる。

母の過ちを修正するとは、子が母の過ちをかばい、その過ちによって生まれた自分自身のルーツをも正当化し、自分たちは神の後継者として、神の家に正式に迎え入れる資格があると名乗り出て、神の家の一員となり、自ら神となることを意味し、そうして自力で神に回帰することが、人類の最終的なゴールだというわけである。

だが、ここに極めて大きな問題が横たわっている。それは、人類は神の側からの承認を抜きに、一方的に名乗り出ただけで、自力で神に回帰する道があるのか、という問題である。

むろん、そんな道が存在しないことは、聖書によれば明らかだが、グノーシス主義神話を見ても、この点については、神話自体に大きな欠陥があると言えよう。グノーシス主義は、ソフィアの生んだ子の子孫である人類は、「神聖な霊の欠片」を受け継ぐ神の子孫であると主張する。だが、そのことを裏づける客観的な証拠は、この神話の中には存在しない。なぜなら、どうやってソフィアが単独で子を生むに至ったのか、その経緯が明らかにならない以上、彼女の「過ち」の結果として生まれた人類が、神の子孫であると証明する手立ては何もないからである。

ソフィアの違反がどのように成し遂げられたのか、グノーシス主義神話においては詳細が何も語られていないことから、自らの欲望を叶えるために、ソフィアが記述することもはばかられるような、何かしらの禁じ手を使ったのであろうことは明白である。

こうして、彼女は違反に違反を重ね、その結果として生まれた「子」が、本当に「神聖な霊の欠片」を持つ神の正統な後継者であると言える証拠は、グノーシス主義神話の中にはどこにも見つからない。普通に考えても、そのような類の話は、全く胡散臭く疑わしいものとしか言えない。

グノーシス主義が、人類が神のものである「神聖な霊の欠片」を持ち、本来的に神と同一であると主張しているのは、単に人類の側からの「自称」に過ぎない。つまり、ある日、自分は神と同一であるという「知識」に「覚醒」しさえすれば、その日から、人類は神の子孫として、神への回帰の道が開かれるというのである。

このような「神話」の中には、「父からの認可」という発想そのものがない。「父の意向」は、この思想においては、徹頭徹尾、無視されている。ただ「母子」が勝手に自称しさえすれば、彼らは「父の認可」を抜きに、勝手に神の家の子孫・後継者となり、神そのものにもなれるというのである。

正直に言って、こんなにも一方的で虫のよさすぎる話に、誰も信憑性を見いだすことはできないであろう。何よりも、ここまで徹底的に存在を無視され、その意向を踏みにじられ、愚弄されている「父」が、このような「母子」の主張に耳を傾け、これを正しいと認めて、彼らを自分の家族として、自らの後継者として家に迎え入れるようなことは全く考えられない。

もしそんなことが起きれば、もはやそれは「家」ではなくなる。一家の大黒柱、最高の権威である「父」が認めないのに、何者とも知れない者たちがその家の主となることが許されるなら、それは家の乗っ取り事件であり、家の破壊である。そして、ここにこそ、グノーシス主義の狙いが存在する。

グノーシス主義とは、結局、「神の家の乗っ取り」の思想である。だからこそ、最初から最後まですべてが「自称」なのである。人類がただ知識に覚醒して自分から名乗り出さえすれば、神にまでなれるという考えは、神を愚弄している。もともと神を愚弄していればこそ、神の承認など抜きにして、勝手に物事を進めようとするのである。

このようなグノーシス主義の特徴は、誰でも手を挙げれば明日からでも牧師やメッセンジャーになって人を教えられるという、ペンテコステ運動の安っぽくお手軽な特徴にもぴったり重なる。

聖書のテモテ書には、教会の監督や執事の選出の際の審査基準についてこうある。

「「ひとが もし監督の職につきたいと思うなら、それはすばらしい仕事を求めることである。」ということばは真実です。

ですから、監督はこういう人でなければなりません。すなわち、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、品位があり、よくもてなし、教える能力があり、酒飲みでなく、暴力をふるわず、温和で、争わず、金銭に無欲で、自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人です。

――自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう。


また、信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないためです。また、教会外の人々にも評判の良い人でなければいけません。そしりを受け、悪魔のわなに陥らないためです。

執事もまたこういう人でなければなりません。謹厳で、二枚舌を使わず、大酒飲みでなく、不正な利をむさぼらず、きよい良心をもって信仰の奥義を保っている人です。まず審査を受けさせなさい。そして、非難される点がなければ、執事の職につかせなさい。」(Ⅰテモテ3:1-10)

監督や執事になるための条件は、ここに挙げた記述にとどまらず、さらに続くのだが、いずれにしても、そこでは、教会の要職に信徒が何の審査もなしに就くべきでないことがはっきりと示されている。

以上のような条件は、監督や執事のみならず、当然、牧師やメッセンジャーの選出の際にも当てはまるであろう。牧師やメッセンジャーには、もっと厳しい審査基準が要求されて当然である。

以上に挙げられている条件は、かなり厳しいものであり、それに照らし合わせれば、自分や他人の結婚生活をないがしろにして、他の信者との霊的姦淫にふけっているような信徒は、初めから教会の要職には不適格者として問題外にされているのは言うまでもない。

このような記述が聖書にあるにも関わらず、それを無視して、誰でも神秘体験を受けて「神の霊の器」となったと自称しさえすれば、監督や執事どころか、牧師やメッセンジャーにまでなれるペンテコステ運動が、どれほどいかがわしい信用ならないものであるかは、改めて強調するまでもない。

なぜこの運動においては、牧師やメッセンジャーになるための審査基準がないに等しいほどまでに甘いのか? なぜ客観的な証拠が何もないまま、「自称預言者」が横行するのをいつまでも許しているのか?

それはこの運動が、もともと詐欺師に活躍の場を与えることを目的としているために他ならない。詐欺師のために用意された舞台だからこそ、そこでは詐欺師にとって不利な審査基準が撤廃されているのである。つまり、ペンテコステ運動の指導者は、キリストの名を使ってキリスト教徒を名乗ってはいても、それは完全な偽りであって、彼らは本当はクリスチャンではないということである。

同じことが、統一教会にも当てはまる。「再臨のキリストである」と勝手に自称しさえすれば、その人間がその日から偉大な宗教指導者とみなされ、神にまでなれるというわけだから、何とお手軽な宗教であろうか。ペンテコステ運動との違いは、ただ「神に油注がれた預言者」を名乗るか、「再臨のキリスト」を名乗るかという違いだけである。どちらもキリスト教に名を借りただけの絶望的なまでに信用ならない偽りの宗教である。

キリスト教は、父なる神への従順を信仰生活の基礎としている。人が神に受け入れられるためのすべての条件は、父の御旨に従うことにあり、父の御旨に従うとは、父が遣わされた御子を受け入れ、その御言葉に従うことにある。

それにも関わらず、グノーシス主義は、父の戒めを無視し、父の遣わされた御子を無視し、父の意向を徹底的にないがしろにして、「母の御旨」を全てとしている。

「母の御旨」とは、人類の身勝手な欲望のことである。

統一教会もペンテコステ運動も、共にキリスト教の異端であり、こういう思想の持ち主にとって、大切なのはただ自分の欲望だけである。彼らの「信仰」は、自分自身への信仰、つまり、自己崇拝である。彼らにとって、他人はみな彼らの欲望を満たす手段でしかない。
 
安倍家の例では、母洋子は、自分がすでに岸家の人間ではなくなっているにも関わらず、家を飛び越えて他家の事情に介入し、自分が嫁いだ夫の家を尊重せずに、夫の意向を無視して、自分の生家にこだわり、自分は生家の人間であるかのように振る舞い、自己のルーツの正当化に固執する。そして、彼女は、自分では叶えることのできない夢を、岸家の人間ではない息子に託す。

こうしたことはすべてルール違反であり、彼女は、社会常識を破り、夫の意志を飛び越え、家の枠組みをも飛び越えて、ただひたすら自分の欲望だけを叶えようとしている。歴史的事実もないがしろにし、自分の主人をもないがしろにし、自分の属する家もないがしろにし、他人の家もないがしろにしながら、ただただ自分の祖先の罪をかばって自己正当化をはかることだけを目的に生きているのである。

このような非常識で規則破りの常習犯としての自己中心で厚かましい行動は、ペンテコステ運動の信者たちにも共通して見られることである。何度も繰り返して来たことであるが、ペンテコステ運動に関わる多くの信者たちは、信者が妻である場合には、自分自身を夫の被害者と考えて、夫を心の中で侮蔑しているケースも珍しくない。彼女たちは、自分の主人である夫の意志を決して尊重しようとはせず、家庭を無視して宗教行事に入れ込むなどのことは日常茶飯事で、夫の被害者であることを至る所で触れ回り、夫の面子を潰している例もある。さらには、この運動の信者たちは、自分の所属している教会があっても、牧師や指導者の意志に従わず、彼らに隠れて、平気で他教会に出かけて行き、母教会をよそにして他教会の信徒や指導者と親しく交わるなどのことも日常茶飯事である。こうして、信仰生活においても、平気で二重生活を送り、家族のしがらみや、組織の枠組みなどないがごとくに、どこにでも入り込み、規則を無視して他教会の事情に首を突っ込み、そこにもとからいる信者を追い払ってでも、自分の縄張りを広げて行く。このように、規則も常識もないがしろにし、他人の意志も無視し、自分の意志を妨げるものなど何もないかのように、アメーバのように形を変えてどこにでも浸透し、無限に膨張・拡大しながら、関わるすべての者たちを自分の色に染め上げて行こうとするのが、ペンテコステ運動の信者の特徴である。彼らにはその厚かましく自己中心で非常識な行動に対する罪や恥の意識は全くと言って良いほどない。

ペンテコステ運動の信者たちをそこまで尊大かつ非常識にさせている原因は、彼らの心の被害者意識にある。彼らは、自分たちは家庭においても、教会においても、社会においても、一方的な被害者であると考えることで、自分の行動を正当化していることが多い。もし自分たちの行動に疑いを投げかけられるようなことがあれば、彼らは弱々しい外見や、社会的弱者としての立場などを存分に用いて、情に訴え、自分たちは哀れな被害者であって、多くの過失を情状酌量されるべき存在であるから、自分たちを責めるのは無情で残酷な行為だと主張する。そのような泣き落としも功を奏さなければ、自分と同じように被害者意識を抱える厚かましく自己中心な人間を仲間として呼び寄せ、被害者意識によって結託することで、自分たちに耳の痛い言葉を投げかける人間を「悪魔」扱いし、恫喝し、嘲笑し、呪いの言葉を浴びせることによって、集団的に排斥するのである。

敬虔なクリスチャンの仮面を被りながら、そのようなネットワークを、自分の教会の枠組みを超えて、既存のキリスト教界の中にどこまでも張り巡らそうとする。そのようにして、結果として自分たちの所属していない教会にまでも勢力を広げ、これを乗っ取ることが、彼らの隠れた目的なのである。断じて、教会にこのような破壊的影響を及ぼす運動が、聖書に基づくものであることはあり得ない。

グノーシス主義は、反逆と秩序転覆の思想である。そこでは、神に反逆した「母」と、反逆によって生まれた「子」が一体となって、自らの罪をかばい、「父」に無理やり自分たちを認知させることによって、自己のルーツを自力で浄化し、神の家に回帰して「母子家庭」の汚名を返上しようとたくらんでいる。

このように、グノーシス主義が、聖書の神に敵対する徹底した反逆の思想であるからこそ、初代教会の時代に登場したグノーシス主義の様々な流派の中には、アダム、カイン、ニムロデ、ソドムとゴモラの住人、エサウ、イシマエル、イスカリオテのユダのような、神に反逆した聖書の登場人物たちをまるで聖人のように誉めたたえ、彼らこそキリストの真の弟子であったとして、堕落した罪人らを「名誉回復」しようとする思想も生まれたのである。

このようなグノーシス主義の支離滅裂な反逆の精神は今も健在であり、今日のキリスト教の数多くの異端のみならず、ペンテコステ運動にも脈々と受け継がれている。だから、もしこの運動の支持者をキリスト教徒だと信じて疑わずに関わると、大変な目に遭わされることになろう。

鈴木大拙が、「東洋民族の意識・心理・思想・文化の根源には、この母を守るということがある。母である。父ではない、これを忘れてはならぬ。」と述べているのは、まさにグノーシス主義的世界観に基づいた考えなのである。「母を守る」という言葉は、「母の過ちを修復する」ということと同義である。過ちを犯した母だからこそ、存在を脅かされているのだが、その母をかばうことによって、子までも母と同じ過ちを身に背負おうとする思想である。

そして、このような東洋的・グノーシス主義的世界観における「母を守る」という概念を、キリスト教に公然と持ち込むことによって、キリスト教を骨抜きにしようとしているのがペンテコステ運動である。
 
カリスマ運動の指導者である手束正昭氏は、キリスト教における「母性の欠如」を非難する。同氏は、鈴木大拙と同じように、カトリックがマリア崇拝によって母性原理を補われたのは良いことであるとしながらも、他方、「プロテスタント教会は“聖書のみ”の立場から、聖書からは導き出し得ない『マリヤ崇拝』を廃棄せざるを得」なくなり、その結果、父性原理と母性原理のバランスを失い、「極めて父性的で、厳粛な宗教に陥ってしまった」と嘆く。そして、このようなプロテスタントに、「人間性の安定や健全さを求めることは難しく、従って、プロテスタント国においては精神的な病を患う人々がより多く排出されることになったのである。父性というのは、上と下、善と悪を峻別して、秩序立てていこうとするので、どうしても心理的葛藤が起こりやすいからである」と言って、まるでキリスト教の父性原理こそが諸悪の根源であるかのように非難する。
 
クリスチャンがこんな主張に簡単に欺かれているようでは話にならないであろう。ここに、グノーシス主義的な「母性」による神の家の乗っ取りの精神があることを見抜かなくてはならない。

こうした主張の本質は、決して「母性原理を補うことによってキリスト教にバランスを回復する」などという美化されたところにあるのではない。そこにあるのは、「父」と「母」を同等に並べ、次に「母」が「父」を凌駕することによって、「父なる神」から主導権を奪おうという試みなのである。そして、「母」とは人類を指す。

だから、そこにあるのは、神の家の主人は誰なのかという問題なのである。

心理的葛藤が起こらないため」などと称して、そこには、同情や愛情や優しさや善意に見せかけて、巧妙に「父」を悪者とし、御父への従順から信者を引き離そうとする思惑が働いていることにクリスチャンは気づかなければならない。

その「母」は優しげに言う、「キリスト教の父なる神様は、全くひどい横暴な独裁者で、考えることもなすことも、みな一方的で偏っているから、そんな残酷で独りよがりな神様の言うことは、あなたは聞かなくても良いわ」。こうして、父の決定をことごとく骨抜きにし、ないがしろにし、その権威を否定し、その戒めを無にして行こうというのが、この「母」の目的なのである。

 「父」の役目とは、まさに手束氏が述べているように、「上と下、善と悪を峻別して、秩序立てて行く」ことにこそある。もしそれが否定されるならば、そんな家庭に「父」はいないも同然である。上下もなければ、善悪もなく、秩序もない。そんなものは家と呼ぶことさえできない。単なる混沌(カオス)である。

グノーシス主義的な「母」が、父性原理の二分性を嫌い、これを残酷なものとして非難するのは、彼女が「父」の意向に服していないからである。自分の罪が暴かれないためにこそ、自分を罪に問うことのできる権威を持つ存在を否定し、告発し、消し去りたいのである。

だから、こんな「母」が「父」と並んで上手くやって行くことは絶対に無理である。彼女は偽り者であって、「父」のふさわしい助け手ではない。この「母」の優しさや寛容さは、偽りであって、真の愛情から来るものではない。彼女は自分の過ちを隠ぺいしているからこそ、他人の過ちにも寛容なのである。

だから、このような罪深い「母」と一体化させられると、「子」は神への従順、貞潔さ、清い良心を失って、魂を汚され、自己を喪失する。母の罪意識を一体となって抱えさせられ、一生、負い目の意識から抜け出られなくなり、父なる神に純粋に向かうことはできなくなる。

そして、その「子」は「母」と一体となって自分の抱える罪の意識を正当化するために、絶えず「父」を否定し憎みながら生きることになる。それは「子」の自尊心をむしばみ、屈辱感、劣等感、被害者意識と、憎しみでいっぱいにしてしまう。「母をかばう」ことによって、「子」は真実を直視できなくなっているので、己が罪をも認められず、悔い改めて、罪赦される機会も失われる。こうして、「子」には「父」に回帰する道が永遠に閉ざされることになる。

挙句の果ては、そのように残酷に支配されている「子」の心では、やがて「母」への憎しみが高じて、それが神と全人類への憎しみになり、特に、エクレシア(教会)への憎しみへと発展するであろう。

人が神の家に正式に迎えられるための手段は、このように怨念と被害者意識の塊である「異常な母」としての「イゼベルの霊」と手を切ることにしかない。人類が無意識に追い求めているのは「父からの承認」であるが、罪深く異常な「母」に結ばれている限り、人は決して「父の本当の子供」にはなれない。

人が神の家に迎え入れられるための条件は、父なる神に対する従順であり、その従順は、御子が十字架において死に至るまでの従順として達成された。この御子の十字架の贖いの御業を通してしか、人間が神に迎え入れられる手段はない。

「イゼベルの霊」と訣別するとは、人間が自己崇拝・自己栄化の偽りの霊と手を切り、神がキリストの十字架において人類の生まれながらの自己に対して下された罪と死の判決を余すところなく自分のものとして受け入れ、神の御手の下に己を低くすることを意味する。それは、キリストが十字架で耐え忍ばれたすべての恥辱と苦痛を、人が自分自身のものとして受け入れ、神が御子に下された裁きを自分自身に対する裁きとして受け入れ、彼の死を自分の死として認めることである。

ところが、ペンテコステ運動は、羊のための唯一の門であるキリストを介さず、人類が一方的に神秘体験によって神と結ばれ、神の子供とされたと主張する。キリストの十字架を抜きにして、神秘体験を誇ることで、信者が自分は「神属人類」となったと主張して、自分を神に等しい存在として高く掲げるのである。

彼らは、神だけを聖なる方とせず、被造物に過ぎない自分を神として誇り、神から神の地位を奪って自分に栄光を帰し、信者の心をも神から奪って、自分自身を崇めさせている。

このように、御父の戒めに従順でなく、キリストの十字架の贖いも否定して、自己の死を経ておらず、本当は、神の家の後継者を名乗る資格を何一つ持っていないのに、ただその身分を詐称しているからこそ、ペンテコステ運動の支持者らが自分を「神の器」だとするその主張には、それを裏づける客観的な証拠が何一つ見つからないのである。

神の家の後継者を詐称しているだけだから、彼らの主張には、主観的な体験以外に何も根拠が存在しないのである。

「イゼベルの霊」とそれに操られる「子」という、詐欺師のような「母子」のペアは、厚かましくしたたかに振る舞うので、しばらくの間は、人を惑わすことはできるかも知れないが、最終的には、必ず、御国の後継者を詐称した罪と、神の家の不法な乗っ取りの罪によって裁かれ、神の家から永久追放される。この「母子」に対する判決はすでに下されている。

「しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」」(ガラテヤ4:30)

父に従わず、父をないがしろにする母と、その母が生んだ誰の子とも分からない子が神の家に家族として迎え入れられることは決してない。この母子による神の家の乗っ取り計画は成功しない。彼らに待ち受けているのは滅びだけである。だからこそ、グノーシス主義とは「母子家庭と父なし子の悲劇の物語」であると筆者は言うのである。