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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

私ではなくキリスト―義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。

「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。」(マタイ5:6)

さて、大きな解放があると、必ず、暗闇の勢力からの妨害が起きて来ることは、いつものことなのなので、驚くには当たらない。

実は掲示板に関しては、もう少し権利侵害の明白な証拠が欲しいと内心で思っていたところであった。そんな頃合い、再び、材料が手に入り始めた。

だが、その材料をどのように利用するか、作戦はあえて明かさない方が良いだろう。今、事件は高裁に行っているので、私はブログで反論することはあまり考えていない。私の戦いの舞台は、もはやネットではなくなっているのだから、虚偽のプロパガンダについては、しかるべき人たちに耳を傾けてもらえるよう、きちんと反論を書面にして作成すれば良いことである。

ところで、最近、私と似たような目的を目指していると思われる、非常に優秀な女性に出会った。詳しく会話したわけではないため、心の内をことごとく確かめることができたわけではないが、短い間、心の喜びを共有することができ、勇気づけられた。私と同年代ではない。こんな風な大人になりたいと少しばかり思える例を見たように思う。

このところ、困難な暗いトンネルを通過して、非常に大きな戦いの成果があった。巨大な妨害が起き、打ちのめされそうになった時、主が私を勇気づけて下さったのである。

「どうやってこんな嵐に立ち向かえばいいというのです?」と尋ねる私に、主は「一番、困難な道を行きなさい」と教えてくれた。

誰も行かない一番困難な道を黙って行けば、人々はいつか納得してくれる時が来て、ついに最後は敵だった人まで、根負けする時が来る、というのである。もちろん、すべての人が生きているうちに理解を示してくれるわけでないにせよ、少なくとも、自分の心の中で、無理解な人々に煩わされ、受けるダメージが減る。

誰がどんな態度を取ろうとも、それに影響されず、自分の十字架を取って主に従うために全力を尽くす姿勢を示し続けなさい、と主は教えて下さり、それから、特別に激しい困難や迫害が起きるときは、特別に大きい勝利の前触れなのだと気づかせて下さった。

悪魔と暗闇の勢力の妨害が最も激しさを極めるときは、最も大きな勝利が目の前に迫っている時だ。だから、ひどい誤解や、中傷が起き、離反が起きるときには、特に大きな喜びと栄光が目の前に迫っていることを信じなさい、と主は示された。

そして、ヨルダン川の底に立って、誰よりも困難な戦いを静かに続行しなさい、あなたの覚悟のほどを皆に見せなさいと、神は私に示して下さった。その時、私の心は落ち着いた。

ようし、最後までやって見せよう。そうして力の限りを尽くそう。分かってもらえても、もらえなくとも、全力を尽くして向き合おう。そう覚悟を決めると、やはりそれなりの成果が物事に現れて来たのである。

こうして、主が戦い抜くための力を与えて下さったので、大丈夫だ、私一人に見えても、主の軍勢が着いている、どんな攻撃や非難が起きても、何度でも立ち上がって、目的を目指し続けることができる、と勇気が湧いて来た。

ここ数ヶ月の中で、初めて勝利の確信をはっきりと心に掴んだ瞬間だった。逆に言えば、ここ数ヶ月は、それほど激しい嵐の連続だったということである。

さて、著作権侵害の申立などもせねばならないため、その用意も兼ねて、忘れないうちに、ひとこと欄の文章を掲載しておきたい。
 
当ブログでは、基本的に、ひとこと欄の文章は、記事の題材となるものでしかないので、そのまま載せないことにしているが、権利侵害を主張する際には、役に立つものと思うので、ここに掲載しておく。

以下は、本日(6月21日)に投稿したものである。
 
私はこの国で、特に労働関係の役所が非常にひどい腐敗ぶりを示していることを、長年に渡り、自ら観察して来た。厚労省を始め、この国では、雇用情勢を含めたすべてが上向き、改善しているかのような「真理省のデータ改ざん」のようなことが行われて来たが、それは偽りである。

この国の雇用情勢は決して改善などしてはいない。だが、最近、そうして虚構の成功を演出し続ける大本営発表も終わりに近づいている、という予感を私は持った。以下はその予感を告げたもの、そして、嘘を駆逐するのは、私たち自身の努力にもよるのだ、という決意を述べたものである。

* * *

これだけ労働関係の行政が腐敗すれば、この国の労働市場が悪くなるのは仕方がないですね。厚労省でもデータの改ざんが問題となりましたが、その下の役所はもっと徹底的に腐敗しています。しかし、私はこうした事情から、特に絶望は感じません。むしろ、雇用情勢を色よく見せかけ、この国の様々なデータを改ざんして来た大本営発表がもうすぐ終わる気配を感じます。彼らは下々の者に責任を押しつけて、自分たちは悪事を隠して逃げる時を待っています。営利が目的の民間企業だけでなく、役所の腐敗が何よりも労働者を搾取し、日本の雇用情勢の悪化の原因を作って来たのです。なるほど国が外国人技能実習生を見殺しにするはずです。

しかし、恐ろしいほどの知性の崩壊を目の前に、この国の終わりが近いと感じます。日本がかつて敗戦した時、責任を取れるリーダーは一人もいなかった。破滅へ向かっていることをみな知りながら、それを止める力もなかった。権威が、権力が、正しく行使されなかったのです。今はその状況に似ている。お偉いさんたちが、私利私欲のことしか考えなくなり、弱い者たちを平気で見殺しにした結果、国ごと理性を失っているのです。私は一度労働関係の役所が企業と意を通じて徹底的に腐敗していることについて、記事をまとめてみたいですね。

ただし、こうした情勢を終わりに近付けるのも、私たち一人一人の努力で可能です。個人の力で様々な事柄を明るみに出せますし、それなりに是正することもできるのです。私が訴訟を提起したのは、まず法律の専門家としての肩書がなくとも、個人の力で物事をはっきりさせることに貢献できると示したかったから。法令順守の精神を、行政や役所が失った代わりに、個人が持ち続けることができると示したかったから。

私は弁護士でも法律家でもありませんが、法律に対する畏敬の念はあります。現行法が完全だとは言わない。しかし、今あるものを守ろうとしない人たちが、未来に向けて規則を制定してみたところで、これを守るはずがない。法律は義務も定めているが、私たちの自由の根源であり、存在を深い所で規定しているのです。

私は違反に対しては、裁判所の判決や行政による罰則の適用を求めると同時に、できるなら、もっと法律そのものに近づき、中へ入り込みたいという気持ちがあります。なぜなら、法それ自体が変わることによって、多くの人たちの生活が根本的に変わり、もっと解放される見込みがあるからです。法律家の観点とは異なる立場から、私は未来に向けての法整備に人生のどこかで関わりたい気持ちがあるのですね。そのための試行錯誤が現在であり、現行法の抜け穴や欠陥と言える部分についても学習を重ねているのです。

クリスチャンにとっての御言葉との一体化と、法との一体化はどこかしら似たものである気がします。法との一体化とは、つまり、 命令が私自身のうちですなわち実行となる時、約束された保障が値引きなしに実現される世界を私が求めているということです。

私たちは憲法で保障されている権利さえ、まだ値引きなしに自分の手にしたことがなく、多くの保障が絵に描いた餅で終わっているのです。その観点から見ますと、法体系からは、まだまだ汲み出せるものが無限にあると共に、法に保障された私たちの権利が実現しないように妨げている中間搾取者の排除も必要です。牧師階級からの信徒の自立が不可欠であるように、国民が肥大化した役所の助けを不可欠とする時代も終わりつつあるように思います。私たち自身が自立へ向かうことが肝要なのですね。

* * *

そして、以下は、6月20日に書いたもの。これは私が心から正しい、真実な裁きが欲しいと、そのために妥協なしに戦い抜くという決意を述べたものである。
 
私は当ブログを巡る第一審を担当してくれた裁判官にも、同じことを述べたのを覚えている。私は本当に正しい判決が欲しい、そのためなら、争いの決着までに、どんなに時間がかかっても構わないと述べたのだ。

聖書には、義に飢え渇いている者は幸いだ、その者は飽き足りるようになる、という一説がある。私はそれは私自身のことではないかと考えている。
 
私は真実な判決が下されることをどれほど待ち望んでいるだろう。そして、それが私一人だけでなく、多くの人を潤し、自由にするものとなることをどんなに心から願っているだろう。

地上の裁判官に判決を求めるというのは、確かにこの世の人々の判断を仰ぐことである。しかし、緻密な議論の積み上げがないのに、裁判官の人情や知性や人柄だけで、正しい判決を出せるわけではない。

一審では、担当裁判官から、書類が読み切れないとSOSが出されたことがあったのを思い出す。だが、私は、結果的に、書面を減らすどころか、もっと多くの書面を出さなければ、議論を尽くせなかったことを思う。

これは裁判官のせいではないし、実際には、私自身が、あの当時、それ以上の書面を出すことも、議論を尽くすこともできなかったのは確かであるから、当時は、それで良かったのである。
 
しかし、今になって思うと、私はその当時から、本気で戦っているつもりであったが、それでもまだ決意のほどが足りなかったことを思う。最後まで沈黙せず、裁判官を説得してしまうような主張を書き、足りない主張を補えば良かったのである。そのために、前進し続けなくてはいけなかった。

だが、その頃はまだ色々と見えていない事柄があり、争点も十分に理解し得ていない点があった。判決が下されて初めて新たな争点が浮上して来た。そういう意味で、まだまだ第一審は多くの改善点を残すものであったが、それがあればこそ、主張を補うのはやりがいがある。

これから先は、今まで以上に最後の一瞬まで真剣勝負をやめずに進んで行かねばならない。

* * *

どう言えばいいんでしょう、私は正しい裁きがほしい。死ぬほど正義の実現に飢えている。目先の利益じゃなく、私がいなくなった後も残る正しい裁きがこの地になされてほしいのです。私個人を越えた利益を得ること、多くの人たちがその恩恵にあずかることのてきるリーディングケースを打ち立てること、そのためにこそ身を呈して戦う価値があるのです。そのために一番、遠くて難しい道を行きたい。

アクロバティックな作業の前半が完遂しました。大量の書面を作成しました。それでブログが更新できなかったのですけど。これはまだ前半戦に過ぎません。でも、呪いが完全に吹っ切れたのが分かります。その呪いの半分は、つい最近、私を打ちのめそうと悪魔が考案した底意地の悪い決定と、どうしようもない役所への無意味な期待から来ていたように思います。

たとえば、当ブログを巡る一審は、警察の捜査がまだ何も進まないうちに終わらねばなりませんでした。その当時、警察には指一本期待できない状況で、捜査の進展に期待を寄せて、それが訴訟において強力な援護射撃になってくれることを期待していた私は、どれほど煮え湯を飲まされたか分かりません。それは本当につらい状況でしたが、でも、この時期、私は一人で戦い抜くことが必要だったんですね。

一審判決は、警察の手を借りて勝ち取ったものでは決していけなかったのです。私と主との二人三脚でなくてはならなかったのです。その段階が終わってからは、警察は心強い仲間のようになりました。今では、事件のために関わっているというより、人生相談みたいなこともやれるようになりました。以前には考えられないような展開です。たくさん有益なアドバイスももらっていますし、気づかされることもあります。かつての状態を考えると、ものすごい変わりようです。

今回、それと似たようなことが起きました。本当は役立ってもらわねばならなかったのに、どうしようもなく足手まといとなった役所が、さんざん私の書面の作成を邪魔し、私を滅多打ちにして苦しめましたが、結局、私はこの役所を振り切って、一人ですべての作業を完遂しました。最後の校正を終えた瞬間、「終わった!!」という解放感に包まれました。書面の効果のほどはまだ分かりませんが、主張というのは、霊的存在に対して宣言するものでもあるため、目に見える相手に届いておらずとも、内容が言い切られた時点で、すでに効力を発しているのです。

実は、反論の書面を書き続けることで、呪いを解除できるということを知っている人は少ないと思います。私は究極的に圧迫された状況でも、誰の手も借りず、自分の力だけで、最後まで自分の言うべき言葉を出し切らねばならないことを知らされています。どんなに大変でも、人の力を借りず、主と自分だけの努力によって勝利を掴まねばならないのです。

他人から受けた負の言葉、マイナスの宣告や、明白な呪いの言葉を跳ね返すのは、ものすごく困難かつ大変な作業ですが、そういう言葉を放置しておいてはなりません。やはり、納得のできない決定は、とことん追及して覆さねばなりません。それができるのは、しかし、主張対主張の対決をする時だけなのです。反論せねばならないのですよ。

悪魔は、キリスト者に大きな勝利がもたらされようとしている直前に、徹底的に打撃をもたらして来ることを、よく覚えて置かれると良いと思います。今回、私に痛烈な打撃を与えた悪だくみに満ちた決定がありますが、なぜこのようなものが、今の時期に出されたかと言うと、その先に大きな勝利が待っているからなのです。それを阻もうとして暗闇の勢力が仕組んだことです。諦めさせるために。主張を述べることを断念させるために。

私はそのことを予測していたからこそ、これに絶対に負けないで前進しようと決めて、自ら主張すべき事柄を一歩も退かずに書き続けました。ものすごく大変な作業でした。でも、一方的にやられっぱなしになっているのではなく、脱出のチャンスが近いからこそ、敵は意気阻喪させようとして来るのだということを知っていれば、困難だけに注目するのでなく、その向こうに、すぐ目の前に、目には見えないが、非常に大きな栄光と幸せに満ちたチャンスがぶら下がっていることが、予測できるはずです。真っ暗闇のトンネルを抜けるまで、あと一歩という地点が、一番攻撃が激しい地点なのです。

だから、呪いの預言なんか受けることがあったら、もしもあなたが敵から死にもの狂いの攻撃を受けることがあったなら、その一歩先に、大きな勝利があることを予測した方が良いと思いますよ。敵はあなたにそれを掴ませたくないから、祝福があることを決して信じさせないように仕向けているだけなのです。しかし、決めるのは、悪魔ではなく、あなた自身です。このように、「なぜ敵は今私を攻撃してきたのか」という問題を考えてみること、そして、「もうすぐ先に主が用意された出口があるのだ。勝利があるのだ」ということを予測し、彼らが妨害しようとしている祝福を、何としても諦めずに、絶対に邪魔されずにつかみ取ると決意することは有益です。

正直な話、私が通されている道の困難さ、苦しさについては、とても説明することはできません。これはあまりにも激しすぎる妨害で、私自身がこれほどまでに地獄の軍勢の徹底的な憎しみの前に立たされていることに、驚愕せざるを得ません。しかしながら、その中で、キリスト者は、すべてを主と自分との間で切り抜ける方法を学ばなければならないのです。誰の助けも借りることなく、誰をも当てにすることなく。主はそのすべてに対して勝利を与えうる方であることを信じ、何があっても、それを取り逃がすことなく、敵を上回る執念で勝利を追い続ける覚悟と姿勢が必要なのです。

徹底的な戦いを通され、勝利の秘訣を学ぶことが必要です。ある時期までは、なりふり構わぬ激しい戦いが続きます。何トンもの重荷に押しつぶされかかっているかのような状態で、自分の正常な意識さえ遠のき、すべての人に理解されないという感覚に陥ることもあるでしょう。しかし、敵を上回る執念で勝利を目指し続けねばなりません。そうしたら、必ず、戦いを抜ける時が来ます。呪いが解除されて、肩から荷が転げ落ち、解放されて、終わったと分かる時が来ます。それは平安が到来するから分かるのです。

圧迫は敵から来るものです。意気阻喪であれ、悲しみであれ、失意であれ、それは敵から来るものです。勝利を掴むためには、どれほど困難があっても、圧迫に立ち向かうことをやめてはなりません。全ての重荷を跳ね返さねばなりません。それには非常な困難が伴いますが、徹底して立ち向かう術を学ぶこと、それが訓練であり、学びなのです。

もしもあなたが嘘を言っているのでないならば、困難が伴っても、徹底的に真実を追及すれば、道は必ず開けます。ですから、語ることをやめてはなりません。真実な証言は、絶対にやめてはいけませんよ。絶対に人に遠慮して口をつぐんではいけません。相手がどれほど権威を持っていても、人間に過ぎない者は、恐れるに足りない。

私が目指しているのは、前にも書いた通り、私自身を超える利益なのです。私が自分を手放している以上、他の人々の利益にも、絶対にとらわれるわけにはいかない。とことん信じる道を突き進むしかないですね。 


* * * 

以上の文章に書いた通り、実は第一審が進行していた間、警察とは実に様々なやり取りがあり、手続きが遅々として進まないことに私は焦燥感を覚えていた。そのことは当時、書くわけにいかないと思い、こらえていたのだが、長大な時間を費やして、警察とは書類のやり取りをし、何とか早く事件を進めてもらいたいと幾度も懇願を重ねたものである。

ところが、判決が下り、しばらくしてから、警察との関係が以前と変わった。今は焦燥感もなければ、緊張関係もない。そして、この事件に限らず、様々な出来事について、私には見えていない多くの点について、たくさんの指摘をもらえるようにもなった。

警察官と接触していて思うことは、彼らはやはり数多くの悲惨な事件や事故の現場に立ち会ってきているためか、人の苦しみや悲しみを受け止める深い感受性がある、ということである。

それは、一概に同情や共感の能力が高いという意味ではなく、通常人が滅多に経験しないような出来事に遭遇して来ているので、普通の感覚では理解し得ないような様々な尋常ならぬ事件や、尋常ならぬ人々の性格を受け止める耐性があるということである。

だから、こういう人たちと話していると、普通の人たちからは得られない助言や、面白い気づきを得ることがある。とにかく事件を早く進めてもらいたいという焦燥感から解放された時に、私は彼らの言い分をとても面白く感じられるようになった。

私は伝えている、いつか、この事件に関わるすべてのことを、私自身が手放せるようになったとき、自然とあるべき結果が出されるだろうと。

何としても賠償金を回収したいとか、何としても犯人を有罪に追い込みたいといった気負いも、すべてが通り過ぎたその後で、何一つ自分の力で進めていないのに、自然と、あるべき結果が出る時が来るだろうと。そうなったときに、この事件は、自然と調和のとれた終わりが来るだろうと私は述べた。

私は正義の実現をあきらめるわけでは決してないし、約束された権利を手放すつもりもないし、罪に対してはふさわしい罰が伴うべきであるという考えを捨てるつもりもないが、ただそれを自分の力で実行しようとはせず、神に信頼して裁きを委ね、そして、必ずその裁きが実現することを信じるというスタンスを取るべきであると思い、これからもそうすることを決めたのである。

そういった結論は、警察官との会話の中で、得られたものであった。そこで、私は第一審の時に、警察が民事訴訟の助けにはあまりなってくれなかったことを、今は不満には思っていない。警察官を証人として呼ぼうとしたが、それも実現しなかったことにも、それなりの意味があると考えている。

ひとこと欄に書いた通り、私には誰の力も借りず、(主と)自分自身の力で敵の虚偽を跳ね返したと言える状況が必要だったのである。
 
さらに、以下は、その2日ほど前に掲載したもの。これはとても残酷な言葉を突きつけられ、まるでどん底に突き落とされたように困難を感じる状況の中で、立ち上がる決意を決めて書いたものである。

これまで、多くの人たちが、残忍な行為に加担するのを見て来た。私はその度毎にショックを受けて、人の心の頼りなさを思わされた。しかし、この先、周りにいる人たちが善良な人々であるか、それとも悪人であるか、ということに一切煩わされまい、と決意したのである。

言ってみれば、想像を絶するような悪人に遭遇することがあっても、人間とはもともとそういうものであって、神が介在されない限り、みなこの罪深い状態が出発点なのだというところに立ち、物事のひどい状況に目を留めず、あくまで主を見上げて進んで行きたいと願ったのである。

そして、たとえ今まで私をとりまいていた善良な人たちや、恵まれた環境条件などが、一切、なくなったように見える時でも、主が私の解決であることを見て、環境の変化に煩わされることなく、進んで行こうとの決意を述べたのである。

* * *

良い人たちと出会わせて下さるのも主。しかし、それだけに決して頼らないこと。 運の良さや、周りの人たちの善良さ誠実さに期待して、それによりすがって物事を進めようと思わないことが肝心。たとえ周りに誠実で良い人たちが絶え果てたとしても、それでも信念に基づいて物事を進めて行く努力をやめないことです。

私は真っ暗闇の中を通される時にも、主が私の足の灯であるということを考えさせられます。
これほど暗闇が深くなった時代もないと思いますが、それでも、神は必ずご自分を求める者に、
応えて下さる方であることを信じることに変わりはありません。

知っていますよ、良い人たちは存在していること。でも、私は人間に栄光を帰したくないのです。たまたま条件が揃っていたから物事がうまくいったと思われたくないのです。たとえ完全な
闇が周りを取り巻いている時でも、私は神以外の助けなしにその状況を打開できることをきちんと証明してみせたいのです。

だから、金輪際、周りの人たちの善良さを評価し、彼らに栄光を帰することはいたしますまい。
目に見える人間の歓心をどう買ったか、とか、どう上手く立ち回り、人の心を得、誤解されたり、 敵対されないように歩んだか、ではなく、主と私との二人三脚、誰にも知られないところでのひそやかな祈りと語らいがすべての物事を決定し、左右して行くことを私は確信している。
人の心も、状況も、何もかも主が掴んでおられること、神にあって、私はすべてを動かすことが
できることを決して忘れることはありません。暗闇は打破されるでしょう。 

女性の弱点は、自分が引き裂かれることに耐えられないことにあるんですよ。 男性は打たれても耐える力がある(例外もいますが)。基本的に美に執着しない。プライドを折られても、その痛み苦しみを自分で黙って負うことができる。しかし、女性の90%は、私が知っている限り、栄光と美を失うことに耐えられません。そして、苦しみを自分一人で負う力がない。女性が年がら年中、愚痴ばかり言っているというのは本当のこと。自分一人で苦しみを負えない生き物だからです。

しかし、私は女性もそういう弱さは脱却する必要があると思います。そのためには、ある意味、女性も墓の向こうまで行く必要がある。手放すものが何もないという境地まで。そして、そこまで行っても、まだ尊厳を保って生きられるところをきちんと証明する必要がある。

女性の中には、残念ですが、優秀な人はとても少ない。でも、いないわけじゃない。私自身、その少ない人たちに出会って来た経験はあります。そして私は女性の中に優秀な人が少ないのは、守られるのが当たり前の世界で生きているからだと、そして、自己の尊厳を失うことに男性よりもはるかに弱いからではないかという気がしてなりません。私はそれとは別の道を行きたいのです。本当に困難な道を、弱くとも、並大抵の強い人が通らないような道をあえて行きたいのですね・・・。

そして、そのためには、やっぱり、自己の美と栄光とを徹底的に死に渡すことがどうしても
必要ではないかという気がするのです。

男女を問わず、「私は正義のために命がけで戦っている」なんて軽はずみに言う人たちがいますが、 試金石は、自分を捨てられるかどうかでしょう。自己の栄光と美を、正義の実現と引き換えに、 一体、どれくらい犠牲にすることができるのか、そこだと思いますよ。1ミリたりとも自分を手放さないまま、正義など唱えても、むなしいだけなのです。しかしそれは結局、自分が踏みにじられたり、誤解されたり、讒言されたり、傷つけられたりすることを、どれくらい耐え忍ぶことができるかという問題に直結するわけです・・・。

だから、私は何度でも言います、神の正義と真実は、私のこの身とは引き換えにならない価値があると。それは私の価値を何倍も超える、比べられない価値であると。だから、私は自分をそのために投げ打つことを惜しいとは思わないし、自分自身の名誉、評判、権利、利益がそのために傷つけられることを全く惜しまないと。

どうぞ、傷つけたいなら、好きなだけ傷つけなさいな。でも、私が選ぶのは、常に「私ではなくキリスト」なのです。その選択がある時に、初めてキリストと共に私も死を経て、生かされるわけですね。私も守られるのです。その勝利を私は知っているし、信じているのです。 これは通常の女たちにはない絶大な防御ですよ。

でも、女性であっても、その価値が分かる人はいると思います。

*  * *

そして、以上に書いた通り、実際に、女性であっても、自分自身を超えた正義の実現のために、自分を捧げることの価値が分かる人は必ずいるのだ!ということが判明した。

やはり、思った通りになった。たとえ優秀な人が数少なくとも、女性の中にも、当然ながら、優れた資質を持つ人たちが存在するのである。
 
キリストの系譜には、貧しく弱く見捨てられた女性たちがたくさん登場している。そのような女性たちに、神は目を留めて下さり、彼女たちを重宝された。見た目の優秀さではなく、多くの苦難を経験し、心を打ち砕かれて、へりくだって、神の御言葉に真実に従った女性たちを、主は重んじられた。その原則は、多分、今日も変わらないと考える。

だから、私はやはり、「私ではなくキリスト」、十字架の死に自分を渡したいと願う。

以下は、さらに少し前に、神の御前で自立するという決意を述べたもの。自分よりも強い者たちに頼らず、誰の力によっても支えられず、自分で信じるところに従って、主と自分との力ですべての苦境をくりぬけようと決意したもの。

* * *

さて、これまでは私も未熟だったので、他人に守ってもらったり、かばってもらったりということも時折はあった。しかし、一人前になるためには、独り立ちせねばならない。真に自分の実力だけで歩いて行かねばならないと痛感。そして、誰もを納得させねばならない。しかし、それは可能であるということも、これまでの経験上、分かった。
そのためのポイントは最も難しい道を行くこと。敵は常に口を封じようとする。しかし、語りなさい。語りやめないで、 勇気を持って証しを続けなさい。重要なのは、サポートしてくれる人がいるかいないかではなく、主にあって、自分自身の中にある霊的中心性を手放さないこと・・・。

いいですか、考えられる限り、一番困難な道を行きなさい。人に誤解されることも、嘲られることも、 踏みにじられることも、見捨てられることも、讒言されることも、疑われることも、中傷されることも、 何もかも覚悟し、すべての重荷を負って、他の誰よりも著しく困難な道を行けば、必ず、見ている人は、 すべてそれが冗談でもなければ、私怨でもなく、信念から出た行動であることをやがて確信せざるを得なくなる。
しかし、その荷は私が自分で背負うのではなく、主が負って下さる荷。だから、人が負わせる荷に比べれば軽いのです。

私はこの先、他人の善良さにはもう期待しないでしょう。周りにいる人がたまたま良い人で、
理解と思いやりがあるから、その人にサポートしてもらえたおかげで、運よく何かが好転した
などと決して思われたくない。松葉杖を一切捨てて、自分自身で歩いて行かねばならないし、
そうする時に初めて、自己の尊厳が着いて来るわけです。私は本当にすべてのことの手柄を
自分だけのものにしておきたい。それは自分を誇るためではなく、もはや誰にも中間搾取を
されないためなのです。 
 
* * *

さらに、最後にレジ袋無償化について。実はこのひとこと欄をもとに記事を書きかけていたので、以下に掲載しておく。

* * *

レジ袋無償配布禁止が来年4月からまことしやかに実施されるかのように報道。法整備もなされていないうちから、まるで既定路線のごとく、反対を封じ込め、国民を諦めさせようとしている。ここまで全国津々浦々のスーパーに至るまでの民間企業のサービスに国が介入するなんて、もはや社会主義国ですね!! これ、どこから始まったか知ってます? 環境省のマイバッグ運動。

要するに、プラスチックごみを減らし海洋汚染を防ぐためにレジ袋を規制するという口実なわけ。しかし、プラごみ全体の中でレジ袋が占める割合など全く証明もされていないほど微々たるもの。レジ袋の中にもプラスチック原料でないものがある。天然素材のものまで禁止するのはおかしい。それなのに、一網打尽に無償配布を禁止しようとしていることの恐ろしさ。違うでしょ、プラスチック由来のゴミ袋だけを禁止しないと、環境汚染を止めるという口実さえ成り立たないのに。理屈がおかしい。こうして、産業ゴミには規制をかけず、国民の負担になることばかり実施。それを環境のためと偽る。

かつてのマイバッグ運動は国民に強制できないとして法制局で頓挫した。今回は前回の教訓もかえりみず、法制局まで巻き込んで、強引に無理やり押し通そうとしている。そういうことをすれば、大手スーパーは打撃を受けず、中小零細の店がつぶれ、ますますシャッター街が増えるだけ。

私から見れば、これ、国家総動員体制の復活の始まりね。そのうち、買い物袋持参の上、配給の列に並ばせ、鍋や釜も全部出せって話になっていくのでは。東京オリンピックを前に、心の国家総動員体制を敷きたいだけなんですよ。今考えるべきは、除染した土をどこに埋めるかという問題であって、レジ袋の有料化じゃない!!呪われたオリンピック・・・。

でも、まことしやかに報道している割には、実際には、プラごみ由来ではないレジ袋の無償配布まで禁止する法的根拠が本当にないんですよね。無償配布したから、汚染が拡大するという因果関係も立証されてない。こんな滅茶苦茶な法律は通せないし、通ったらもはや世も末と思います。だって、無償配布が害になるという因果関係の証明がない限り、禁止する根拠がないんですから。法制局がどう出るかですよね。

もしレジ袋の無償配布が禁止できるなら、この先、何だって禁止できますよ。ホームレスへの炊き出しだって無償配布ですし、駅前でのポケットティッシュの無償配布だって同じ、理屈さえあれば、何だって禁止できることになりますよ。小さく産んで大きく育てる式に、レジ袋はほんのとっかかりで、次々と無償配布が禁止に・・・。多分、そこが狙いなんだと。国民生活はますます不自由と窮乏へ向かう。まさに恐るべき時代が到来しつつある・・・。

「産めよ、増えよ、地に満ちよ」vs.「産むな、増やすな、地から絶え果てよ」

* * *


レジ袋無償配布禁止が来年4月から実施されるなどという報道がまことしやかに飛び交っている。法整備もなされていないうちから、まるで既定路線と言わんばかりだ。

こうして盛んに報道発表することで、反対を封じ込めようとしている気配がありありと感じられる。だが、国がここまで全国津々浦々のスーパーに至るまでの民間企業のサービスに介入するなど、もはや社会主義国ではないかという印象だ。
  
要するに、プラスチックごみを減らし、海洋汚染を防ぐためにレジ袋を規制するというのが口実なのだが、プラごみ全体の中で、レジ袋が占める割合など、全く証明もされていないほど微々たるもののはずだ。

しかも、レジ袋の中にもプラスチック原料でないものがある。



画像:海洋汚染をなげくサーファーが作った「飲めるプラスチック」とは?

プラスチック製のゴミ袋だけを禁止しないと、環境汚染を止めるという口実さえ成り立たないのに。天然素材のものまで含め、無償配布を禁止するというのは、理屈がおかしいではないか。

しかも、こうして、産業ゴミには規制をかけず、国民の負担になることばかり実施。それを環境のためと偽る。

これはかつてのマイバッグ運動の焼き増しのようなものらしいが、かつて環境省はマイバッグ運動を法制化して国民に義務づけようとしたが、そこまで国民の選択を強制できないとして、法制局で頓挫したそうだ。

ところが、今回は前回の教訓もかえりみず、来年4月から必ず実施してやると、大臣らが叫び、法制局まで巻き込んで、強引に無理やり押し通そうとしている気配が感じられる。だが、そういうことをすれば、大手スーパーは打撃を受けない代わりに、中小零細の店がつぶれ、ますますシャッター街が増えるだけではないか。

以下の記事を見ると、インドではスーパーのビニール袋を禁止したが、法律は死文化しているというから、日本でも、強引に押し通したとしても、この法律の先行きは暗そうだという気がしてならない。

インドのスタートアップ企業、100%生分解性の「食べられるビニール袋」を開発」

インドでは増え続けるゴミ対策の一環としてスーパーのビニール袋は所持、使用、補完しているだけで最大19万円の罰金となる違法な物質とされました。正直なところ多くの場所でほぼ死文化している法律とはいえ違法は違法であり、賄賂目当ての悪徳警官にとっても格好の口実となります。
EnviGreen創始者である25歳のAshwath Hedgeさんはこの法律によって悩まされている人に新たな選択肢をと考え、この製品を開発しました。Hedgeさんは4年の再悦を掛けて多くの材料を研究、実験してきました。」
 
無償配布を一網打尽にしようとしているのは、有償化することによって、電話のユニバーサルサービス料のように、環境税のようなものをもうけて、政府の新たな財源にすることが狙いだからなのか。

だが、筆者から見れば、そもそもこはれ、国家総動員体制の復活の始まりだ。この政府は、東京オリンピックを前に、国民生活を統制し、心の国家総動員体制を敷きたいだけなのだ。

そのうち、買い物袋持参の上、配給の列に並ばせ、鍋や釜も全部出せという世の中に逆戻りするのではという悪寒がしてならない。今考えるべきは、除染した土をどこに埋めるかという問題であって、レジ袋の有料化ではないだろうに。

プラスチック由来かどうかも確かめず、レジ袋の無償配布を禁止したからと言って、汚染が縮小するなどという因果関係を、誰も立証できるはずがない。なのに、こんな滅茶苦茶な法律が通るようであれば、世も末だ。

レジ袋の無償配布を禁止ししたからと言って、プラスチックごみが減らないとなると、第二、第三の規制が法制化される可能性がある。

また、レジ袋の無償配布を禁止にできるなら、それを皮切りにして、この先、何でも禁止できる。ホームレスへの路上の炊き出しも禁止、駅前でのポケットティッシュの配布も禁止。チラシの配布も禁止。理屈さえあれば、小さく産んで大きく育てる式に、次々と無償配布を禁止にできる・・・。

多分、そこが狙いなのではないのと筆者は考えている。国民生活をますます不自由と窮乏へ向かわせるための策が練られているに過ぎない。さに恐るべき時代が到来しつつある・・・。

「産めよ、増えよ、地に満ちよ」vs.「産むな、増やすな、地から絶え果てよ」

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以下は、誤解しないでもらいたいが、当ブログを巡る訴訟そのものを指すものではなく、その書面を置き去りにしてまで、当時、真剣に取り組んでいた別の問題のことである。

当時、裁判記録の捏造とか、証言の偽造といった問題を考慮していた。なりすましとは、裁判所で作られた不正な記録のことである。

裁判所で作られた判決は、基本的に、裁判所を出ないので(当事者がもらうものはコピー)、判決でさえ偽造されるという事件は過去にも起きている。

以前は、そんな問題については、考えてみることさえなかったが、そういう事件を防ぐためには、やはり、すべてを光のもとにさらすことが不可欠だと、私は考えるようになった。

訴訟とは、原則的に公開の手続きであるから、裁判官も、滅多なことでは、不正な判決など出せない。市民が見ているからだ。当事者も、裁判官も、自分たちは市民の目にさらされているという緊張に包まれている。だから、誰もが襟を正さねばならない。そこが、訴訟の強みでもある。

訴訟に限らず、隠れたところで物事を論じるのではなく、公の光のもとに出すことは有益だ。当ブログに過去に掲載したある人物の陳述書も、こうして公開の場に持ち出すことによって、本人の人柄、また、これを信じる人の人柄に光を当てることができたと私は考えている。

あの陳述書の内容を信じるとすれば、信じる人もそのレベルだということが証明されるだけである。

このように、怪しげな内容のものは、どんなものであれ、光の下に公然とさらすことで、その悪しき効果は半減する。そして、やはり記録が公開される訴訟というのは、ブログなどには比べものにもならない重さを持っているし、そうであればこそ、そこで話し合われる内容、下される決定には、相当な意味があるものと思う。

そういう意味で、私は仮に裁判所で不正が行われるようなことがあったとしても、それでも、裁判所が持つ権威を否定するつもりには全くならないし、訴訟や、法的手続きに対して持っている一種の畏敬の念を失うこともないだろうと思う。
  
偽造すなわちなりすましの問題については、虚偽は虚偽であることを、オリジナルとの対比によって、公然と示すことが、何より必要である。そういうわけで、「なりすまし」問題を訴えるに当たり、オリジナルを掲載しておくことが有益と考えればこそ、ひとこと欄をこの記事にまとめた。
 
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アクロバティックな方法ですが、主張書面を作り上げています。記事を止めているのは、他に書き上げねばならない書類があるためで、全部を仕上げるのに、そう時間はかからないでしょう。「語らせない」「沈黙させる」「口を封じる」この流れに、全力で対抗せねばなりません。さらに「なりすましによって他人の言葉を奪う」人たちにも、全力で抵抗せねばなりません。しかし、同時に、議論を終えなければならない時を、見間違えてもいけない。いつまでも果てしなく語れば良いというものでもないのです。

それにしても、物事を公開するインパクトは大きいですよ。嫌がらせはいつも隠れたところで行われますので、その事実をそっくりそのまま、公開してあげれば良いのです。保全事件はすべて非公開。だからこそ、暗闇の中で、彼らにはやりたい放題のことができる。むろん、すべての裁判所の保全係がヘンなわけではない。多分、横浜だけでしょう。ですから、電話の録音も、決定文書も、証拠も、全部、公開の場所に引き出して、裁きに委ねましょう。そうすれば、氷が解けるようにその効果も消えて行くと思います。本当に、嫌がらせって、本人にしか分からないようにやるからこそ、いつまでも続けられるんですよ。掲示板もそうだけど、社会からの非難が集中するところに持ち出せば、辞めざるを得なくなる。

ウソの情報を信じて広めると、広めた人が罪に問われるんですね。誰かさんの陳述書とかも同じで、他人の発言を根拠にして発言するときってよほど注意しなくてはいけない。

なりすましの法則。これを警戒せねばならない。少し前までは身近な人の裏切りや讒言が問題となっていましたが、今は何気なく近づく人たちのなりすましによる簒奪。次は思いがその人自身を奪取するという問題か。なりすましは主従関係の逆転です。この逆転した関係を覆して元に戻す必要があるわけです。

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まだまだ仕事が山積みのため、ブログ記事の更新はスローペースとなるが、それでも、やはり、主の恵みを語り続けることは有益であるがゆえ、口を閉ざすわけには行かない。

私たちの主は、最も困難な瞬間に、力強く共にいて下さる方である。そして、義に飢え渇き、神の正しい御言葉に合致する、正義の判決が欲しいと願い続けている私を、決して置きざりにしては行かれないだろうと信じている。

私は、私がこの地上から取り去られた後も、ずっと世に残り続け、多くの人たちを不自由や圧迫から解放することのできる裁きを求めている。そのためにならば、長い時間をかけて犠牲を耐える価値があると思っている。

だが、その原則は全てに共通する。朽ちる卑しいものから、朽ちない尊い永遠に残る収穫を生み出すためにこそ、我々は日夜、奮闘し続けている。そして、私たちを生かしていることば――正しい掟――の実現のためならば、目に見える地上の存在としての自分をなげうっても構わないと思うほど、私はこれを尊重している。

それは、聖書の御言葉への畏敬の念に基づくクリスチャンとしての当然の信念であると同時に、私自身の中では、この世の法に対しても、似たような畏敬の念となって表れている。私たちが求めているのは、この世の目に見える世界に、正しい掟が適用され、命令と実行が一つになる世界であり、私たち自身が、主なる神の御言葉と一つとなって、その約束の実現の中を生きる時である。それはまだ完全な実現を見てはいないが、私たちは飽くことなくその実現の日を待ち望んでいる。主の御言葉が、私たち自身をとらわれの状態から完全に解放してくれるその時を――。

だから、私たちは告白する、信じます、いつか必ず、そのようになることを。お言葉通り、僕の身になりますようにと。

「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。」

申命記30章1~20節から

わたしがあなたの前に置いた祝福と呪い、これらのことがすべてあなたに臨み、あなたが、あなたの神、主によって追いやられたすべての国々で、それを思い起こし、

あなたの神、主のもとに立ち帰り、わたしが今日命じるとおり、あなたの子らと共に、心を尽くし、魂を尽くして御声に聞き従うならば、

あなたの神、主はあなたの運命を回復し、あなたを憐れみ、あなたの神、主が追い散らされたすべての民の中から再び集めてくださる。

たとえ天の果てに追いやられたとしても、あなたの神、主はあなたを集め、そこから連れ戻される。

あなたの神、主は、かつてあなたの先祖のものであった土地にあなたを導き入れ、これを得させ、幸いにし、あなたの数を先祖よりも増やされる。

あなたの神、主はあなたとあなたの子孫の心に割礼を施し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主を愛して命を得ることができるようにしてくださる。

あなたの敵とあなたを憎み迫害する者にはあなたの神、主はこれらの呪いの誓いをことごとく降りかからせられる。

あなたは立ち帰って主の御声に聞き従い、わたしが今日命じる戒めをすべて行うようになる。

あなたの神、主は、あなたの手の業すべてに豊かな恵みを与え、あなたの身から生まれる子、家畜の産むもの、土地の実りを増し加えてくださる。主はあなたの先祖たちの繁栄を喜びとされたように、再びあなたの繁栄を喜びとされる。

あなたが、あなたの神、主の御声に従って、この律法の書に記されている戒めと掟を守り、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主に立ち帰るからである。

わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。

それは天にあるものではないから、「だれかが天に昇り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。

海のかなたにあるものでもないから、「だれかが海のかなたに渡り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。

御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。

見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く。

わたしが今日命じるとおり、あなたの神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟と法を守るならば、あなたは命を得、かつ増える。あなたの神、主は、あなたが入って行って得る土地で、あなたを祝福される。

もしあなたが心変わりして聞き従わず、惑わされて他の神々にひれ伏し仕えるならば、

わたしは今日、あなたたちに宣言する。あなたたちは必ず滅びる。ヨルダン川を渡り、入って行って得る土地で、長く生きることはない。

わたしは今日、天と地をあなたたちに対する証人として呼び出し、生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選び、あなたもあなたの子孫も命を得るようにし、

あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主につき従いなさい。それが、まさしくあなたの命であり、あなたは長く生きて、主があなたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた土地に住むことができる。
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村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第二審)への準備(2)ー「船の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」

「その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。

シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「私たちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、船に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。

イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。イエスは言われた。「船の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。

イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。

さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。シモン・ペトロが船に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。

イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。」(ヨハネ21:1-14)


さて、このくだりについては様々な解説がすでに存在しているので、注釈を述べるつもりはない。今回、述べたいのは、筆者は「船の右側に網を降ろした」ということである。

日常で頻繁に使用していたある品が壊れ、買い替えのために、店に行ったが、専門店に行っても、長蛇の列。二軒回ったが、どちらも混雑していて、店員から2時間以上の待ちを宣告された。しかも、2時間から3時間待っても、手続きが終わる保証はなく、品ぞろえも悪いため、望みのものが見つかるかも分からない、などと初めから追い返そうとするような予告を受けた。
 
それら二軒の店は、どちらもが、いつ行っても、人件費を節約するためか、慢性的な人手不足の状態にあり、客は2~3時間待たされるのが通常で、混雑状況が改善される見通しもなかった。

そこで、外は炎天下であったが、筆者はためらいなくその店を後にして次の店に向かった。

一体、なぜ市井の人々は、あのように未来の展望のない死の雰囲気の漂う場所で、怒ることも、愛想を尽かすこともなく、まるでそれが当然であると言わんばかりの調子で、何時間も、辛抱強く行列に並んで待ち続けることができるのか、筆者にはまるで理解ができない。

筆者は一分一秒もそこにとどまりたくなかったし、そこで待っていれば何かが進展するとも思わなかったので、車を発車させて、三軒目へ向かった。そこは家電量販店である。そこならば、専門店と違い、その日は人々の興味が向かず、行列がなく、高圧的で不親切な店員もおらず、目的を遂げられるのではないかという、ちょっとした読みがあった。

幸いなことに、読みは的中した。その日、その店に、客は筆者の他に誰一人いなかったのである。そういうわけで、2時間も待ちぼうけをさせられていれば、何一つ完了できなかったはずの手続きを、2つも3つも終えて、店を出ることできた。

神は不思議なお方だと思った。どこへ行っても、待つのが当然と宣告されたが、筆者はそれを信じなかった。たかが2~3時間も待てないのか、何と短気なことか、などと言う人もあるかも知れないが、その2~3時間を使って、どれほどのことができるか、筆者は知らないわけではない。
 
「求めなさい、そうすれば与えられます。」「捜しなさい、そうすれば見つかります。」とある通り、あきらめずに探せば、心にかなうものは必ず見つかる。同じ手続きをするにしても、くたびれるまで待たされた挙句、ぞんざいな対応に情けなく惨めな思いをさせられながらではなく、心行くまできちんと説明を受けて、納得した上で、充実した時間を過ごすことが可能なのだ。やはり、自分の心にかなうものを探し出すまで、決して妥協したり、あきらめてはいけないと思った。

閉ざされている扉ではなく、開いている扉へ向かって進まねばならない。

だが、開いている扉を見つけるためには、世間の人々と、少し違った角度からものを考えなくてはならない。大勢の人たちが向かう「広き門」へ向かって、皆と同じ行列に並んでいたのでは駄目なのである。

知名度や、看板などに欺かれるのでなく、人の知らない道、踏み固められていない道、しかし、真実であって、偽りのない、誠実さの伴う道を探さなくてはいけない。

多分、その法則はおそらくあらゆることに当てはまるだろうという気がした。筆者は、控訴理由書を書きながら、本当に、プロテスタントという宗教とは(カトリックもそうだが)もはや、永久にさよならだと思わずにいられない。

筆者はキリスト教徒であるのに、キリスト教徒から見れば、異端に当たる宗教の信者が、プロテスタントの牧師から、カルト被害者救済活動(強制脱会活動)の対象とされて、著しい人権蹂躙を受けたなどということを、訴訟で主張せざるを得なくなっていることを極めて皮肉に思う。

筆者は他宗教の信者を改宗させることを目的に、プロテスタントの牧師らが信者らを拉致監禁してまで説得を行った行為を決して擁護することができない。このようなことは、プロテスタントは、キリスト教全体の名折れでしかない、大変、恥ずべき事柄である。

さらに、そうした牧師たちが、他宗教の信者ではなく、同じキリスト教徒を名乗っていた筆者までも、支持者と一緒になって集団的に攻撃したことは、もはや致命的としか言いようのないミスであり(というよりそれも牧師制度の悪がもたらした必然的な結果なのだが)、彼らの活動が末期状態にあることの証左である。

おそらく、カルト被害者救済活動が筆者に対してなした事柄は、世間に対して、プロテスタントの終焉をはっきりと告げるものとなるだろうと思う。世間はおそらく、これまで他宗教の信者に争いをしかけるだけでなく、ついには同士討ちのような状態に陥り、信者が信者を攻撃し、牧師が信者を徹底攻撃するという結末に至ったこの宗教(プロテスタント)に対して、この先、信用を持たなくなるだろうという気がする。

牧師制度の悪が、カルト被害者救済活動という形になって結実したのである。牧師制度そのものを撤廃せず、自分は信徒に対する搾取をやめないのに、ある牧師が、自分だけは正義の味方のような仮面をつけて、同じ牧師の職にある者を悪としてやっつけて、自分の搾取は正当化しながら、他のカルト化した教会の搾取だけを一方的に非難するというこの運動の自己矛盾が、ついに結局、牧師が信者を、そして信者が信者を滅多打ちに攻撃して排斥するという同士討ちに結びついたのである。

これは宗教を隠れ蓑にした単なる弱い者イジメの構図に他ならない。見る人が見れば、すぐに分かることで、カルトも反カルトも、自分たちの権力を守りたい人々が、自分たちよりも弱く貧しい者たちからの批判を徹底的に踏みにじって潰しているだけのことで、カルト被害者救済活動には、正義など全く存在しない。

カルト被害者救済活動は、異端を取り締まるだとか、カルト化した教会の問題を是正すると言いながら、結局は、牧師制度そのものを温存するための隠れ蓑に過ぎず、カルト以上に恐るべき腐敗を内に秘めた、プロテスタントのすべての害悪を結晶化したような運動である。このような運動が登場してきたこと自体が、プロテスタントの終焉を告げるものである。
   
筆者はこのように混迷を極める有様となったプロテスタントを後にして、組織や指導者に帰属する外側だけのキリスト教を完全に捨て去り、新たな信仰回復運動の只中を生きるために、キリストご自身だけを見上げて、前へ向かって歩いている。
 
いつまでも遅々として進まない行列しか目の前に見えず、数多くの苦労だけがあって、目的地がどこにあるか分からないと感じられる時には、いつも「船の右に網を降ろしなさい」という声が聞こえて来るようだ。
 
「視点を変えなさい。発想を変えなさい。多くの人たちがまだ気づいていないやり方、考えていない新しいアイディアを思い巡らしなさい。踏み固められた道に別れを告げて、新しい方法を採択しなさい。私があなたにそのヒントを与えます・・・」

冒頭の聖書箇所を挙げた出来事が起きたその日、弟子たちは、イエスが十字架で死なれた後、復活されたことは知っていたが、以前のように常に弟子たちと共にいて下さらないので、自分たちにはもはや師がいなくなって、何をすれば良いかも分からなくなったという思いで、もとの職業に戻ろうとしていたのかも知れない。

彼らがどんな気持ちで、漁に出たのかは、書かれてはいないため分からないが、彼らは十字架の死と復活の中に込められたことの意味が分からず、イエスが十字架にかかられる前の生活がなくなってしまったことに困惑し、復活された主イエスが、前のように絶えずそばにおられないことに、言いようのない寂しさを感じていたのかもしれない。

彼らはまだ御霊を受ける前だったので、まだ人間的な観点からしか、十字架の死と復活という出来事をとらえることができなかった。それは彼らの理解を完全に超えており、彼らはこれをどう受け入れるべきかが分からなかった。イエスが彼らを最初に召し出された時に言われた、人間をとる漁師になるとは、どういうことなのか、自分に与えられた召しが何なのかも、未だ理解することができなかったのである。

彼らが漁に出ても、何も取れなかった。弟子たちはもうずっと前に、漁師であることを捨てて、イエスに従っていたのであり、本当は、二度と漁師に戻れるはずがなかったのだが、イエスはどこへ行かれたのか分からず、することもなく、さらに、食べるものもなかった。ペテロたちが、何も見つからないので疲れ果てていた頃、イエスが岸に現れて、舟の右に網を降ろしなさいと言われた。

だが、それは復活のイエスであったので、彼の姿を見ても、弟子たちには、それが誰であるのかがすぐには分からなかった。弟子たちが引き上げられないほどの魚を取って戻って来ると、イエスはすでに火を焚いて魚を焼いておられた。弟子たちのために食事を作っておられたのである。

これは何かしら、私たちの人間的なあがきや、心の紆余曲折が終わるときを、神が辛抱強く、憐れみを持って見守って下さっているような、そんな感じのするエピソードである。

ペテロやトマスらがどういう気持ちで、何を考えながら漁をしていたのかは分からないし、彼らはもしかすると、未だ主イエスの十字架の死という壮絶な出来事のショックから抜け出られず、また、イエスの復活という出来事そのものを、理性ではどうとらえれば良いのかも分からず、困惑していたのかも知れない。

主イエスと弟子たちとの関係は、十字架の死と復活を経て、全くそれまでとは異なるものに変わろうとしていた。だが、新しい関係において、自分たちは何を求められているのか、弟子たちには分からなかったのである。

弟子たちが何を思っていたにせよ、イエスは、彼らの人間的な思いが吹っ切れて、彼らが自分たちの方法を捨て去り、神のご計画に再び目を向けるようになるまで、そばにいて待っておられた。

弟子たちは、主が何を自分たちに願っておられるのか分からず、戻ろうと思えば、漁師に戻れると考えていたのかも知れない。しかし、結果として、漁師に戻ることは不可能になっていたことが分かった。それどころか、弟子たちは、人間的な経験、知識、思いを捨てて、新しい世界観、価値観を受け入れるよう求められていた。復活の命と、それに属する新たな領域、復活の命に伴う新しい秩序である。

彼らがどんなに過去の熟練した経験に従って、自分たちの計画、自分たちの思いに基づき、何かをしようとしても、イエスのまことの命が介在されなければ、すべてが空振りに終わることは避けられない状況となっていたのである。かつては慣れ親しんだ自分たちの職業においても、主がおられなければ、一匹の魚もとれない状況となっていた。

だが、主はどこへ行かれたのか、何を命じておられるのか? 弟子たちは、依然として、イエスが十字架にかかられる前と同じように、自分たちのそばに姿を現して、何かを言って下さらなければ、その御思いを理解することもできず、途方に暮れていた。

しかし、主は姿を現さないだけで、常に彼らのそばにおられたのである。弟子たちのむなしい漁には、主が現れられると、たちまち収穫が豊かに与えられた。それは、弟子たちが昔のように漁師に戻るために与えられた収穫ではなく、信仰によって、新たな収穫を勝ち取ることができるという証であったものと筆者は思う。つまり、イエスが命じられた通り、彼らが人間を採る漁師として、抱えきれないほどの天の収穫を得ることの予表だったのである。

復活後のイエスは、十字架にかかられる前のように、弟子たちと一緒におられ、食事も共にされたが、それでも、イエスと弟子たちの間には、以前にはなかった何かの違い―距離のようなもの―が出来ていた。イエスが持っておられたのは、よみがえりの体で、弟子たちの贖われない体とは異なっていた。弟子たちが、イエスをすぐにそれと見分けられなかったことを見ても、様変わりされていたことが分かる。肉体を持って弟子たちの前に現れられたにも関わらず、何かがはっきりと以前とは違い、復活のイエスは、弟子たちとは異なる法則の中で生きておられたのである。

復活されてから、イエスはそう長い間を弟子たちと共には過ごされず、短い間、よみがえりの姿を現されてから、天に昇られ、父の身元に戻られた。その代わりに、弟子たちに聖霊が与えられた。

弟子たちは復活のイエスを見、それが自分たちが贖われた後の栄光の体であることを見せられたのだが、依然、多くのことが理解できないままであった。それを理解するためには、御霊が必要だった。

おそらく、私たちの思い、感情、計画、生き様のすべてに、御霊による新しい証印が押されねばならない。筆者はその点で、未だ、目の前に、新しいものをはっきりと見てはいない。これは筆者の個人的な人生のことを言うのではない。

キリスト教そのものが、新しい御霊の息吹を与えられなければ、進んで行けないところへ来ているのである。そのことを多くの信者たちは全く考えることなく、古いものにしがみ着いているが、私たちの計画、思い、感情、知識、経験などは、すべて行き詰まりを迎えており、主がそこに新しいアイディアを与えて下さらなくてはいけない時が来ている。そうなって初めて、私たちの死んだ働きに、電源のスイッチが入る。

「船の右に網を降ろしなさい。」と、主イエスが言われた通り、私たちの生活には、全く新しいヒントが与えられなくてはいけないのである。
 
右とは、ただ文字通りに船の右というだけではなく、神の右に座しておられるイエスを見上げなさいという意味にも取れないことはない。

いずれにしても、主を見上げるとき、私たちに新鮮な命の息吹が注ぎ込まれる。そのことは確かである。 そこで、筆者はふと顔を上げる。作らなければならない書面は、あらかた主張を出し尽くしたので、まだ完成してはいないとはいえ、筆者自身にとって、一番、書いていて面白い時期は過ぎた。この作業はある意味、もう終わりを迎えた。

そうなると、次なる新しい話題(話題作りのための話題ではなく、主が導いて下さる新しいテーマ)を見つけねばならない。だが、その新しい話題とは、もはや訴訟という枠組みとは関係のない、別な何かである、という気がしてならない。どう言えばいいのか分からないが、第一審も、第二審も、筆者にとっては極めて重要な戦いではあったのだが、そこを抜け出て、もっと大胆で、もっと革新的で、もっと自由で、飛躍的なアイディアへ至り着かねばならない気がしている。1軒目、2軒目の店を過ぎ去ったならば、3軒目のことを考えてみるべきである。

3軒目は、1軒目、2軒目とは全く異なる新しい発想に立つ場所である。つまり、カルト被害者救済活動やらプロテスタントやら牧師やらとは全く関係のない新しい信仰生活が始まろうとしているのである。そのことが、紛争が決着するよりも前から、筆者の目の前に見えるような気がする。
 
そうして、遠く、遠くへ目をやる。実は、一審が終わった後から、筆者は何かしら今までとは違った出来事が始まるだろうという予感がしてならなかった。今はまだ相変わらずの繰り返しのように見える状況もあれば、閉塞しているように見える事柄もある。紛争は終わったわけではないので、自由はいつになれば訪れるのかと感じられるかも知れない。

だが、それにも関わらず、筆者は、イエスを待ちながら漁をしていた弟子たちと同じように、既知の世界にいるようでありながら、自分が主にあって、未知の展開を待っていることを知っている。
 
もう少しすれば、まるで長蛇の列に並びなさいと言われているような、この不自由な手続き三昧の状況から抜け出せるだろう。そして、法的措置による戦いも終わりを告げて、次なるステージの出来事が始まるだろう。

それは筆者が「プロテスタントに別れを告げた」ことと密接な関係がある。もはやそれは、筆者にとって古き世界となったのであり、そこへは二度と戻れまいし、何かが断ち切れたのである。プロテスタントのみならず、組織、教団、教派、教説、指導者、教えなどに信者が帰属するすべての形式的なキリスト教が、筆者に対して死んだものとなり、終わりを告げるときに来ているのが今なのである。

弟子たちはその日、漁に出ていたが、主イエスと共に信仰によって十字架の死と復活を経由していた。彼らは依然、それまでと同様の考えに基づき、行動しているように見えたものの、深い所では、古き職業に対して死に、古き生き方に対して死に、古き自己に対して死んでいた。そして、彼らはまだ新しい生き方を掴んでいなかったが、それは彼らの心の内側にすでに到来しかかっていたのである。
 
こうして、古きものが過ぎ去り、新しいものが到来しようとしていること分かるに伴い、掲示板も、まるで過ぎ去った過去のように、筆者に手を触れられなくなった。それは、法的措置を取られると分かった人たちが、怯えているというだけが理由ではなく、何か目に見えない隔てが、彼らと筆者を隔てたのだ。追っ手が到達できないところまで振り切ったのである。

次に、筆者をあからさまに攻撃していた牧師やら信者やらが、筆者に到達できない時が来る。そして、彼らと筆者を隔てている隔てとは、結局、エクソダスの壁なのである。プロテスタントと筆者との間に打ち立てられた隔てなのである。

不思議なことに、この壁が、今まだ紛争当事者となって向き合っている人々と筆者との間をさえ、確固として隔てた事実が感じられるのである。そのために、まだ続いている戦いさえ、霊的な次元において決着が着き、筆者はそこから解放されている事実があることをはっきりと知るのである。それはつまり、この紛争が本当に終わりかけていること、筆者の手から離されようとしていることを意味する。

新しい世界は、まだはっきりとは姿を現していないが、復活の命に基づく新しい秩序が到来しつつある。筆者はそこへ向けてドライブをしている。本当は2009年にすでにここへ向かっていたのであるが、随分、長い間、荒野にとどめられた。その頃、戦い方が分かっていなかったので、どのように進路を切り開くべきかを知らず、遅延や停滞のように感じられるものが生じた。だが、目指している約束の土地がある以上、筆者はそこへ向かい続けなくてはならない。

他に誰も客のいない三軒目の店で手続きをしている時、貴重なチャンスが与えられたのだから、ここにある品でぜひとも最後まで手続きを終えねばと思った。あらゆる説明を聞きたいだけ聞いて、順調に手続きが進み、最後に、会員登録をせねば、決済が終わらないと言われた。その時、以前にも会員登録をしたような気がした。様々なことがあったような気がした。だが、情報を検索してもらったが、何も出て来なかった。過去が帳消しにされるがごとく、古い情報がまるごと消え去り、跡形もなくなっていたのである。

その時「すべてが新しい」とい言葉が脳裏をよぎった。神は不思議な方だという気がした。

そういう日が、この先、来るだろう。つまり、我々が本当に復活の領域に達する日が。古いものがすべて過ぎ去り、すべてが新しくなる日が。
 
今、筆者は過去10年間くらいの出来事の記録をカバーした書面を書いているが、おそらくこれを書き上げて、手から離すと同時に、この厭わしい煩わしいすべての事件の記録(記憶)が、まるごと筆者の履歴から消え失せる日が、遠からず来るだろうという予感がする。

第一審の終わりが、そのことを筆者に告げていた。一審判決は、まだ実現を見ていないとはいえ、それは明らかに、筆者とこの紛争との関わりを、一定程度、断ち切ることを告げる宣告であり、霊的な領域においては、筆者に自由を与えるものであった。この先、言い渡される判決は、もっと完全に筆者の存在をこの紛争から断ち切ることであろうと思う。

そうなると、過去が抹消されたに近いことが起きる。そうなる少し前から、筆者の心はおそらく紛争に興味がなくなり、全く別の出来事に熱中し始めることであろう。今はまだ過去の記憶の最後の残りを生きているところであるが、次の瞬間、その最後の残る記憶さえも断ち切られ、「見よ、すべてが新しくなった」と言われる時が来るだろう。

エクソダスが完全に完了し、断ち切れるべきものが最後まで経ち切れる時が近づいている。
 
その時、復活のイエスが弟子たちに収穫を指示し、パンと魚を弟子たちに自ら分け与えられたように、主ご自身が、自ら給仕して、空腹で疲れ切っている弟子たち(筆者を含め)の労苦をねぎらい、新しい命で満たして下さるであろう。そして、私たちが元気を回復した後で、さらなるミッションを与えて下さるものと思う。
 
三軒目の店にたどり着きさえすれば、あとはすべて神の側からなして下さるだろうと思わずにいられない。その「三軒目の店」が最高裁であって、そこまで行かねばならないというならば、筆者はそれに反対するつもりはないのだが(それだけの準備はすでに成し遂げられている)、そうなるまでのどこかの時点で、この紛争は、筆者の手から取り上げられて、筆者の心からも切り離されて、カルバリで信者を不利に陥れるすべての告発が廃棄され、自由と解放が訪れるだろうと思う。

筆者は紛争が長引くだろうという予測を述べているわけではなく、むしろ、その逆に、それだけの期間が過ぎ去る前から、すでにこの問題に決着が着いていること、筆者はただ約束の地へ向かうだけで良いことが感じられると述べているのである。
 
筆者に不当に負わされて来た重荷は、別人に返され、債務は、負うべき人間に返され、主ご自身が、弟子たちをねぎらい、心行くまで給仕して下さることであろう。筆者は、主イエスがパンと魚を取って分かち与えて下さる時を楽しみにしている。そして、それは未来でありながら、同時に今日であることも知っている。

その日、主はただ私たちの労苦をねぎらって下さり、すべての過去を帳消しにして下さるだけでなく、私たちを満ち満ちた命の豊かさに招き入れて下さり、さらに、私たちの姿をも、栄光の主と同じに変えて下さる。

筆者はこの贖いの完成を心に思い、そこにある自由、栄光をもっとよく知りたいと願っている。向かっているのは、贖いの完成、私たちが主の栄光と安息の中に招き入れられ、よみがえりの命の領域を、主と共に生きる約束の地なのである。荒野にいる時に、はるか先に目を凝らして、約束の地を見る。私たちが目指しているものは、今現在、目に見ているものではなく、まだ見ないもの、これから来るべき秩序である。ところが、まだ目に見ていない来るべき秩序が、私たちの只中に、すでに到来していることを知っている。そこに信仰があり、私たちの望みがある。

村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第二審)への準備(1)ー 主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る。

「わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。」(2コリント10:4-6)

さて、控訴理由書ははかどっており、書けば書くほど、深い満足が生まれて来る。第一審の判決を心の内側に取り込み、これを咀嚼し、そして、新たな要素をつけ加えながら、第二審の判決を予想して書いて行く。

筆者は弁護士の書く錯綜した文書ではなく、裁判官の判決を受け取ったことを非常に喜んでいる。弁護士の文章は一方の当事者だけに肩入れしたものなので、参考にならないが、膨大な資料を整理して対立する陣営の双方の主張を比較衡量した裁判官の判決は、それとは比べものにもならない生きた教訓である。

判決が出るまで、予想できない点が多々あったが、今、こうしてみると、ただ法的観点からだけ事件に注目するのではなく、筋の通った矛盾のないストーリーを弁論の最中に打ち立てておくことがどれほど重要かを思わされる。
 
判決の変更を求めるためには、第一審以上にリアルで矛盾のない説得力のあるストーリーを証拠と共に提示することが必要となる。そのために、筆者は、第一審での自己の主張と共に、判決に記されたストーリーを内に取り込み、それを両方上書きしうるだけのさらなる説得力のあるストーリーを作り出しているのだが、それはあたかも一人の作業ではなく、共同作品を作っているような具合で非常に面白い。

第二審では、「カルト監視機構」が主要な争点になると書いた。すでに述べた通り、「カルト監視機構」と「宗教トラブル相談センター」が実質的に同一であるとの主張を展開するに加えて、村上密が関与して来た統一教会の信者の拉致・監禁を伴う強制脱会の違法性についても触れることになる。

その過程で、統一教会の信者らが強制脱会活動に抗議するために起こした裁判などについても、本訴訟とは直接関係していないにも関わらず、かなりのページ数を割いて説明することとなる。

ちなみに、統一教会の発表によると、2016年の時点で、強制脱会に反対するために起こされた裁判は20件を超え、強制脱会活動の対象とされた信者は4千人を超えていたという。また、数多くの強制脱会事件を主導した高澤守牧師は、刑事告訴された上、自殺していることや、また、強制脱会の対象となって精神病院に入院させられた信者が裁判所に人身保護を求める請求を手伝った高村弁護士が後の法務大臣になっていることなども分かった。

筆者は統一教会を擁護するつもりはないが、10年間以上監禁されても棄教しなかった彼らの信仰の強さは、敬服に値するものがあると考えている。前々から当ブログでは、殉教者の精神に学び、生きている限り、聖書の神への信仰を貫くことこそ、キリスト者の使命であるということを訴えて来たが、自分を絶対善・絶対的正義のようにみなすプロテスタントの牧師とその支持者から、統一教会の信者でなくキリスト教徒である筆者が、「カルト宗教の信者」や「異端者」の濡れ衣を着せられた挙句、今、こうして人権侵害のかどで牧師を訴える羽目になっているのは、運命の皮肉のようである。

だが、筆者は「自分は正しい」と叫んで他者を排斥する側に立たず、自己の無謬性を信じる牧師らから、かえって排斥される側に立たされたことを、むしろ、誇りに思う。

今、まだ二審が始まる前から、筆者があたかも敗訴に終わって悲嘆に暮れるのではないかなどと故意に悪意に満ちた未来を予想したい連中もいるようだが、そんな愚かな推測は、迷惑なのでやめてもらいたい。そういう予測は、すでに自殺した牧師を含め、強制脱会を主導した牧師たちの運命としてお返ししよう。

村上密が新たな権利侵害の証拠をあれほど大量に追加した以上、筆者の控訴は棄却されず、村上の権利侵害は必ず認定されて、彼は二審では敗訴するものと筆者は予想する。そういう意味で、二審は一か八かの賭けではなく、手堅い勝負になる。

また、杉本の控訴には、報復と賠償金支払いを延期したいという以外に動機がないと見られ、合理的な理由が何も見いだせないため、棄却される可能性が高いと筆者は見ている。控訴審は、杉本のリベンジの場ではないから、仮に当ブログの記事を大量に提出するなどしたとしても(一審も杉本は常にそうしていたが)、それは過去の権利侵害を正当化する理由としては受け入れられないだろう。

そういうことは反訴でなすべきことであるが、控訴審での反訴は、原則的に控訴人の同意なく受理されないため、杉本が筆者に反訴するのは、ほぼ不可能に近い。一審でも無意味な反訴を予告するなどして、被告らは裁判官からも反感を買っていたし、杉本はそれに加えて、裁判所の決定を「不法行為」だとまで言い立てていたが、控訴審では、賠償金も払わず、ブログ記事の完全削除もなく、一審判決に全く従う態度を見せないまま、杉本が何を求めて控訴するのかを問われ、ただ裁判所を自分の欲望に都合よく従わせたいという理由では、控訴を受理する根拠にならないとして、心証を極度に悪くするだけに終わるものと思う。

おそらく、二審判決の言い渡し後は、一審判決後よりも、さらに多くの人たちが、筆者や当ブログの主張に反対したことで、良心の呵責に苛まれることになるのではないかと筆者は予想している。

このように、筆者は、二審では勝訴は当然とみなしているどころか、訴訟とは関係ないところでも、可哀想な人として憐れまれる余地の全くない人生を歩むことが、目的の一つであると考えている。人権侵害は世に訴えねばならないが、筆者が最も訴えたいのは、私たちの信じている聖書の神の贖いの確かさであって、人権侵害の被害の甚大さではない。

神の御言葉に従う者が、あらゆる祝福にあずかること、私たち信じる者のためには、キリストを通して、天に無尽蔵の富が蓄積されていること、そして、神の御言葉に逆らう人々の運命は、非常に厳しいものとなることを、公然と世に示さなければならない。しかし、筆者はそのこととは別に、己が権利侵害がいかに深刻であるかを切々と訴えることによって、被害者と呼ばれたいとは思っていない。

筆者は第一審でも、善良な人々に出会い、信仰に基づき、また、法的根拠に基づき、丁寧かつ根気強く主張を提示し続けることによって、必ず、未来が開かれることを確信した。未熟な点があれば、学習して、それを補えば良いのであって、私たちは常に完成に向かって歩みを進めている。

そこで、筆者には何一つ絶望に至る理由などない。これからますます多くの人たちに出会い、ますます完成された主張を提示し、完成された判決へ向かい、信仰の完成を目指して歩み続けるだけのことである。

こうして、紛争が長引いても、筆者はそのことを良いことであると考えており、自分の召しが果たされるまで、忠実にその労苦を背負うつもりでいる。だが、それは決して労苦だけには終わらないだろう。キリストが私たちのために用意して下さっている命の豊かさ、栄光の前味に、生きているうちにたどり着くことも、信仰者に与えられた使命の一つであるから、この労苦には豊かな報いと慰めが伴うだろうと筆者は考えている。

そういう意味で、これほど価値ある戦いを与えて下さった神に、筆者は心から感謝せずにいられないのである。
 
* * *

さて、筆者は今、新たなる措置を準備中であるが、その過程で、杉本に関する新事実が分かった。これまで、杉本の経営する会社の住所には、アパート名や部屋番号の記載がないため、筆者はこれまでこの住所は一戸建ての持ち家だろうと思っていたところ、実はそうではなく、単なる賃借人であったことが判明したのである。

それは同番地の地番を調べている過程で分かった。同番地に3つくらいの地番があり、そのうちいずれも「杉本」の名では登録されていないことが判明、さらに詳しく調べてみると、杉本が表記している住所の後には、実際には建物名、部屋番号が省略されていることが分かった。

モバオクの表記
 


全国法人情報データベースの表記



企業がビルのテナントを借りるなどのことはよくあることだが、その際には、企業の所在地として、大抵、ビル名や階まで詳しく記載される。建物を借りていながら、まるで土地が自分の所有であるかのように思わせるような表記をすることは、そうそうあることではない。

ちなみに、この住所の真のオーナーは以下の青果店である(画像はgooタウンページより)。



杉本が経営する株式会社メディアテラスは、この青果店の所有する建物の一区画の賃借人に過ぎない。だが、杉本はまるでオーナーの店を押しのけてでも、自分がこの土地の主人だとアピールしたいかのように、オーナーと全く同じ住所表記で法人登録をし、自分が賃借人に過ぎないことがすぐには一般の人々に分からないようにしている。

正直な話、他人の所有する建物の正式な表記を省略して、まるで自分がオーナーであるかのように思わせる表記をするのはどうなのだろうかと筆者は思う。テナントならテナントらしく書けばどうなのだろうか。

特に、これまで、杉本が商工会議所の会員資格を詐称したり、東京銀杏会の資格を詐称したりしていたことを考えると、この住所表記も、偶然ではなく、何事についても自分を現実以上に誇大に見せかけようとする杉本の性格、そして、本来は自分の所有でないはずのものを自分の所有のように見せかけるパクリが大好きな性格がよく表れているような気がしてならないのだが・・・。

以下がGoogle mapで見た青果店の所有する建物の外観である。1階が店舗で3階もオーナーの所有であることが、問い合わせで分かった。貸間は2階のみだという。きっとこの青果店は、地域社会とも密着して経営されていることであろうが、商工会議所会員でないのに会員資格を名乗ったり、全国のキリスト教会をネットで叩き続け、見ず知らずの他者の個人情報を暴いたり、名誉毀損したりしている杉本のブログは、このオーナーの店にどういう影響を及ぼしているのだろうかと考えないわけには行かない。

何となく、過去にもそういう問い合わせがこの店に寄せられたことがあったのではないかという雰囲気が感じられたのである。杉本は早くブログを削除した方が大家への迷惑が減り、地域社会のためにもなると思わずにいられない。



ここには詳しく書かないが、調べたところ、他にも多くのことが分かった。たとえば、メディアテラスがヤフオクでもう数ヶ月近くも売りに出しているが、まだ売れていない以下の自転車(これがネットオークションでは同企業の現時点で最も高額の商品のように見えるが、価格を見ても、アピールポイントを見ても、なぜ今この商品なのかが全く分からない)は、さすがにこれは上記の会社住所には置けないものと見られるが、どこで撮影したのか、アパートではなく民家のような一軒家っぽい背景が移っている。



調べると、やはりこの自転車の保管場所は別にあるらしいことが分かった。たとえば、そう遠くない場所に実家があるとかいったことが考えられる。

オークションの他の出品を見てみたが、古物商でもなく、絵画などを専門に取り扱うでもなく、日用中古雑貨というだけで、独自のセールスポイントが分からない。商品の取り揃えも少なく、テーマも統一されていないため、これでは、ネットで十分な収益が上がるとも全く思えず、主な収入は、社会福祉士としての稼ぎだと想像される。
 
雑貨を売りたいならば、店舗を構えることもできるであろうがそれもなく、会社の所在地を構えながら、それとは違う場所を撮影や保管に利用していたり、間借り人としての住所で、完全に独立した生活を営んでいるようにも見受けられず、社会福祉士と、企業経営と、キリスト教会をバッシングするブログとが、一体どう結びつくのかも定かでない。

そもそも企業経営者であり社会福祉士でありながら、社会的弱者を愚弄して悦に入ったり、見ず知らずの他人の個人情報を暴いて名誉毀損して賠償金を踏み倒すなど、もはや何がしたいのかが全く分からない無定見な人生でしかない印象だ。

興味の赴くままに、あらゆることに手を広げはしたものの、明白な目的意識がなく、気が多すぎて一つの事に集中もできず、他者の手を借りずに自分だけで事を成し遂げられず、自分の欠点や不利な事実を指摘されても、これを真正面から受け入れる勇気や覚悟がないために、常に不都合な指摘は退け、易きに流れ、結局、何を手掛けても、一定の成果を出せないまま、すべてが空中に散じて終わるというパターンが感じられる。

前々から書いている通り、そういう傾向が改まらない限り、社会福祉士も長くは続かないだろう。こうして見ると、杉本の一つ一つの選択は、真に事業を成功させたいという願いに基づくものではなく、ただ「人に認められたい」とか、「人よりも上に立ちたい」といった動機(承認欲求)で飛びついた結果ではなかったのかと思わざるを得ない。

そういう性格は、村上密ともよく似ているように見受けられる。村上は今でも「宗教トラブル相談センターへの相談は尽きない」とか、「東奔西走」とかいった記事を掲載しては、自分がいかに全国から引っ張りだこになっているかを絶え間なく自慢せずにいられないという性格を披露しているが、イエスは言われた、「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、人に尊ばれるものは神には忌み嫌われるものだ。」(ルカ16:15)

杉本は第一審の終わり頃から、裁判所が杉本にとって不都合な決定を出したことを「不法行為だ」と非難していたが、今、判決の取消を求めて控訴している事実も興味深く、筆者は前々か杉本はいずれ裁判所に対しても、警察署に対しても、反抗的な態度を取るだろうと述べて来た。

それは筆者が、杉本の信仰こそ異端的見解であって、すべての異端は反社会的なものであるとみなしているためである。そこで、今、彼が判決の取消を求めている主張の根底にも、裁判所の決定を否定するのみならず、神に対する反逆の精神が流れていると見ている。

おそらく、村上もこの先、杉本と同じ行動に及ぶだろうという気がする。鳴尾教会相手の裁判の時も、彼は随分、あきらめが悪かったが、村上は、カルト牧師が心を頑なにして裁判所の判決を認めない姿勢を非難していたにも関わらず、当ブログを巡る訴訟の第二審で、自分に不利な判決が出た場合、杉本と同じように、判決を認めまいとする態度を取るのではないかと予想される。

こうして、次第に彼らの反社会的な本質が徐々に明らかになっているのが、現在である。つまり、杉本や村上のような人たちが敵対している相手は、もはや当ブログや筆者だけではなくなり、彼らを取り巻く社会全体(神と人)に広がりつつあることが徐々に明らかになっているのだ。

こうして、飽くことのない承認欲求に生きる人たちの空虚な内実は、遠からず万人の目に明らかになるだろうと筆者は思う。人に認められたいとか、必要とされたいとか、他人を押しのけてでも、自分が人の上に立ちたいとかいった願望だけが、すべての行動に先立ち、自分を誇大に見せかけることは得意でも、内実のない人々というのは、最後には風船みたいに弾け飛んで終わるものだ。

事業の失敗くらいで終わればまだ良いが、キリスト教会に立ち向かい、神に対してマウンティングをしてしまったのが、彼らの運の尽きであり、「わたしはある」という方に向かって舌を出して挑戦すれば、「おまえはない」という以外に下る結論はない。すべてにまさる真実なリアリティである方を否定すれば、虚無の深淵に落ち込んで行くだけである。

この先、彼らが言い逆らっているものが、あれやこれやの人物ではなく、社会そのものであり、聖書の神ご自身であるという事実がより公然と明らかになるに連れて、彼らにはこの世においても、自然と居場所がなくなって行くものと確信する。

そして、「交流の少ない所で生活」「情報はインターネットが頼り」だとか、「甘っちょろい空想」や、「藪の中から石を投げて顔を出さない無責任な生き方」といったレッテルも、ついにはこれを吐いた人間自身に返されて終わることとなるだろう。
 
* * * 
 
さて、少し前のことになるが、村上密は「反知性主義」と題する記事の中で、長年、自分の活動に反対して来たある人物に対して、その人物から被害を受けたとする人間の代理人となって、訴訟を提起することをほのめかしたところ、相手が折れて出て来たので、屈服させることができたと語っていた。

和解などという言葉を使ってはいるが、「相手は撤回と謝罪に応じてきた。それで双方は和解した。」と書いているので、結局は、訴訟をされたくないなら、自説を捨てて謝罪せよと圧力をかけて、相手を屈服させることに成功したということである。

この記事で村上は書いている。

「嫌いと言う感情は嫌いとされた相手の実像を捉えることができない。相手をネガティブにしかみれない感情は、反知性主義に陥っているからだ。以前、私に対して何でも反対の立場を表明した人がいた。彼は公私にわたって反対した。しかし、私の主張や働きが一時的に足止めを食ったりはしたが、挫折に追い込まれたことはない。」

まるで自分は無敵だと豪語するような文面である。だが、嫌悪感と反知性主義はそもそも関係ない事柄のはずであるから、村上がここで使っている「反知性主義」の定義とは、感情に流されて理性できちんと物事を考慮できないといった意味合いで、反知性主義の本来の定義からは離れている。

反知性主義という言葉の本来的な意味は、「日米で異なる2つの「反知性主義」とは?その意味と論点を正しく理解する為に 」という記事では、次のように紹介されている。

「反知性主義はもともとアメリカで生まれた概念で、「知性と権威が強く結びついている社会や、知識のあるものが権力を持つという風潮に対する反発」を表しています。「知性そのもの」を否定しているのではなく、「既存の知性主義や権威」を否定するものなのです。」

村上は、以上の記事で屈服させた人物が、牧師であるとは書いていない。だが、村上がキリスト教界の多くの牧師に対して、争いをしかけて来たこと、訴訟をほのめかすか、もしくは実際に訴訟をしかけるなどの方法で、牧師らを屈服させて来たことは事実である。

ちなみに、筆者は以下に再び引用する通り、かつてアッセンブリー教団、いや、ペンテコステ運動そのものが反知性主義に陥っていると書いたことがあった。

そして、筆者のこうした指摘は、iRONNAの記事「安倍晋三政権の「反知性主義」」(榊原英資著)の前半で、アメリカのキリスト教原理主義を分析した文章を読んでも、的を外れたものではないと考えざるを得ない。

「反知性主義」とはもともとアメリカのキリスト教原理主義者達が進化論等の科学的分析に対し反発した事等を指したものでした。かなりの社会的地位のある人達が平然と科学的分析を否定し、キリスト教の絶対性を説くといった現象は他の国にはあまり見られないものでした、アメリカ建国以来、何度かにわたって訪れたリバイバリズム(信仰復興運動)とも密接な関係があるとされています。

 アメリカという国自体、旧イングランドを脱したピューリタン達が神との新しい契約のもとで「新しいイングランド」を創設するという壮大な実験でした。そしてそのリーダーシップをとったのは高学歴の牧師達でした。彼等は入植後わずか一六年で牧師養成機関としての大学、ハーバード大学を作ったのでした。知性を重んじるこうした動きは、次第に権威と結びつき、アメリカのエスタブリッシュメントになっていったのです。

 こうした権威に対して民衆に信仰を取り戻すという運動として、新たな布教運動が拡がっていったのです。その主導者達は教会を持たず牧師の資格も持たず命がけで土地・土地を巡り布教活動をしていったのでした。大衆をターゲットにし、神の前の平等を説く彼等の辻説法は、人口が爆発的に増え、同時に生まれた字も読めず教養もない層に熱狂的に受け入れられたのでした。それが反知性主義の原点であり、極端に言えば、アメリカという国の原点だったのです。つまり、アメリカの反知性主義はアメリカ的宗教革命だったということもできるのでしょう。

 そして、反知性主義は大衆民主主義(マス・デモクラシー)が拡大する中で権力が大衆に媚(こ)びる手段にもなってきたのでした。知識人、あるいはインテレクチュアル、は社会のエリートであっても少数派です。知性主義を否定し、法の前の平等、実用主義等を説き、権力が直接大衆にアッピールするためには反知性主義は有力な手段の一つにもなりうるという訳なのです。」



だが、以上の文章には、筆者から見ると、多少の誤謬が混じっているので注意が必要である。たとえば、進化論に反対することを、この論者は「反知性主義」に分類しているが、このような考え方に立つと、およそすべての信仰はみな「反知性主義」に分類されることになる。

そうしたステレオタイプなものの見方は、ちょうど20世紀に「科学」に対する絶対的なまでの信頼が高まった時代に(科学万能主義が生まれた時代に)、「科学」対「信仰」という単純な二項対立の図式が作られ、あらゆる宗教への信仰は非科学的だという理由から、キリスト教の信仰に対しても批判が展開されたのと大して変わらない。

現代では、「科学」対「信仰」という対立の図式を「知性」対「信仰」といった図式に置き換え、「キリスト教原理主義者」や「聖書原理主義者」に「反知性主義」というレッテルを貼って、あたかもすべての信仰が、反知性主義的なものであるかのような先入観を作り出し、それがキリスト教信仰(聖書信仰)を攻撃するための材料として利用されている。

そのようなステレオタイプなものの見方に立って、聖書信仰をいわれもなく否定、非難したものが、杉本の記事だったと言えよう。

だが、実際には、以下で詳しく述べるように、信仰は決して知性と対立するものではなく、また、人間の知性の中には、誤った知性というものも存在することを考える必要がある。

当ブログで再三、警告して来たグノーシス主義などは、特に、「偽りの知性」「誤った知性」を「叡智」のようにみなす思想であるから、知性という名で呼ばれるものが、何もかも正しいとみなすと、こうした誤った知性を警戒して退ける試みさえも、「反知性主義」というレッテルを貼られて排斥されることになりかねない。
 
人間の生まれながらの知性は不完全なものであり、真理を啓示できるのは、聖霊だけであり、よって、聖書に基づく信仰を通してでなくては、人は正しい知性にたどり着くこともできない、というのが当ブログの見解である。

そうした考えに立って、筆者は、科学が必ずしも知性的であるとは限らないし、進化論が正しい知性の産物であるとも全く考えていない。だから、進化論を否定したからと言って、それが「反知性主義的」であることの証拠にも全くならないとみなしている。

このように、以上の論説には、科学万能主義が唱えられていた時代の再来のように、科学に反対するあらゆる信仰を「反知性主義」に分類してしまいかねない危険な二項対立の図式が含まれていることに注意せねばならないが、それ以外の点では、興味深い指摘も含まれている。

それは、この論説では、ペンテコステ運動という言葉は登場しないものの、アメリカでエスタブリッシュメント層に対する反発として生まれて来た新たな「宗教革命」すなわち、信仰復興運動が、反知性主義的な傾向を持っていると指摘されていることである。

もちろん、この信仰復興運動の中で、ペンテコステ運動がかなり大きなウェイトを占めていることは間違いないだろう。なぜなら、教養もなく、場合によっては字も読めない大衆をターゲットに、辻説法を繰り広げるだけでなく、異言や奇跡的な癒しなどの超自然的現象を強調しては、大衆の注意を惹きつけ、圧倒的な支持を受けて拡大して来たのが、ペンテコステ運動だからである。

聖霊派とも呼ばれるこうした運動には、従来の福音派の説教にはないダイナミズムが伴い、それゆえ、大衆の支持が得られた。マスメディアを通じて、ムードたっぷりの讃美歌や、心を打つ信仰の証などをふんだんにちりばめ、感動的な礼拝風景をテレビやネットを通じて配信するなどして大衆の支持と注目を集めたのもこの運動である。

そこで、以上の論説が、大衆の支持を背景に生まれて来たペンテコステ運動の流れを汲む米国の信仰復興運動が、反知性主義によって特徴づけられると記していることは、筆者の指摘とも共通する部分があって興味深い。

村上密が所属しているアッセンブリー教団も、言うまでもなくペンテコステ運動に属する。そして、村上が、記事において、牧師が聖書の解釈を独占していると非難していることを思い出すと、これこそ、牧師だけが聖書の解釈を独占することで、「知性と権威が強く結びつく」キリスト教界に対する「反知性主義的反発」として登場して来た説だと言えよう。
 
以上の記事で解説されていたように、反知性主義を、「知性と権威が強く結びついている社会や、知識のあるものが権力を持つという風潮に対する反発」とらえるならば、もともと反知性主義的な傾向を持ったペンテコステ運動の中から、牧師が御言葉の解釈を独占することで、「知性」を独占し、それゆえ牧師が「権威化」されるという風潮や制度そのものに対する反発として、カルト被害者救済活動、すなわち、村上密の反カルト運動が生まれて来たのだと言える。

ちなみに、当ブログでも、牧師制度は無用なものであるとみなし、信者が牧師から聖書の御言葉を咀嚼して「霊的な乳」を飲ませてもらわなければ、自分では聖書を理解もできない状態をあたかも正常な状態であるかのようにみなすプロテスタントの牧師制度は、信者の霊的前進を妨げる障害物にしかならないので、撤廃されねばならないという見解を幾度となく述べて来た。

今や聖書の理解が牧師によって独占されている状態に終止符を打ち、聖書がより一般に解放されて、信者一人一人が自ら聖書を理解する時代が来なければならず、プロテスタントからの新たな宗教改革が必要なのである。

この見解は、村上の指摘と一見、似ているように見えるかも知れない。村上だけでなく、杉本もプロテスタントの牧師らの権威主義を強く非難し、また、唐沢治もまたニッポンキリスト教界の牧師らを非難し続けて来たのであるから、当ブログと以上の人々の主張の間には、何かしらの共通点が見いだせるように思われるかも知れない。

だが、これらの人々の牧師批判と、当ブログの主張とでは、似ているようで、決して見逃すことのできない大きな相違点がある。

それは、当ブログは、知識が一部の人々によって独占された結果、権威もまたその人々によって独占されるという状態には反対するものの、以上の3名が行っているように、知識と権威の両方を否定して排斥しようとは全く試みていない点である。

当ブログでは、「知性」と「権威」とが結びつくこと自体を否定したことは一度もない。

むしろ、当ブログでは、聖書には「主を畏れることは知恵の始め。」(箴言1:7)と聖書にあるとおり、要するに、すべての「知性」の根源は、神を知る知識、すなわち、聖書の御言葉を御霊によって理解することにこそあり、聖書の御言葉に忠実に生きることこそ、その者が他の者に対して霊的優位性を勝ち取る秘訣であると述べて来た。

つまり、聖書の御言葉の理解に精通した者が、他の者に先駆けて知識と権威を得るのは当然のことであって、正しい法則であるということを、繰り返し述べて来たのである。

歴史を振り返っても、キリスト教国がそれ以外の諸国に比べて早期に経済発展を遂げた事実や、プロテスタントの精神が資本主義の発展を促した事実の中に、聖書の御言葉への理解がいかに経済的な利益とも見えない領域で結びついているかを確認することができよう。

筆者の見解では、経済発展の真の原動力になったのは、科学の発達ではなく、むしろ、聖書に立ち戻ろうとする信仰復興運動である。時代を超えて、聖書の御言葉に忠実に歩もうとするキリスト教の最先端の信仰復興運動こそ、あらゆる経済発展の真の原動力となって来たのである。

従って、プロテスタントの牧師が他の信者に比べて精神的・経済的に優位を誇っている根拠も、牧師が御言葉を取り継ぐ者として、聖書の理解を他の信者から奪って独占していることにこそある。

こうして、聖書の御言葉に精通した者が、他の者に先駆けて知識や権威を得るという原則は、非常に信仰的な意味合いが薄れているとはいえ、たとえば、我が国において、官僚や知識人の多くが法律の専門家から成るという風潮の中にも見て取れる。

法律の解釈と出世とは一概に結びつかないように見えるであろうが、こうした風潮の中には、ちょうど律法学者らがラビとして民に敬われていたのと同じような原則を見ることができる。法律は死んだ条文ではなく、生きた言葉であり、そこから命を汲み上げることのできる人たちは、それができない人たちに比べ、知的に優位に置かれるのである。それはその法が人間を各種の脅威から守り、救い出すことができる根拠だからである。

この世の法でさえそのような機能を果たすわけであるから、ましてや聖書の御言葉に精通した者がこの世のすべての人々に超越した霊的優位性を得て、知識と権威を得るのは当然である。

従って、こうした観点から、当ブログでは、知性と権威が結びつくことそれ自体は、誤ったことではないとみなしており、問題は、聖書の知識の理解が、これまでのすべての時代において、一部の聖職者階級によって独占されて来たこと、それゆえ、ほんの一部の人々が、他の信者よりも優位に立って、経済的にも、その他の面でも、特権を得ているという状態が、望ましくないと述べている。
 
当ブログでは、今日のプロテスタントの牧師たちは、かつてカトリックの聖職者たちがそうであったように、聖職者階級となって聖書の御言葉の理解を独占することで、一般の信者たちが自ら聖書の御言葉を理解するのを妨げており、それゆえ、こうした状態から信者が解放されて、聖書の御言葉が万人に解放されるという最後の信仰回復運動が到来せねばならないと述べているのである。

このように見ると、当ブログの主張は「反知性主義」に立つものではない、と言うことができる。むしろ、知性をより一般に普及させることで、知性と権威の底上げとでも言うべき状態を目指すべきというのが、当ブログの主張である。これは決して「知性」と「権威」とが結びつくことそれ自体を否定するものでもない。

反知性主義とは、当ブログの主張とは異なり、知性を持つ者が、それを持たない者に対する優位の証しとして、権威を獲得すること自体を否定する考えであるから、根本的に、唯物論から出て来た発想であると言える。

そして、ペンテコステ運動に見られるやたら奇跡を重んじる体験主義なども、反知性主義から出て来た傾向であることは、すでに幾度も解説して来たが、カルト被害者救済活動を率いる村上密や、ニッポンキリスト教界を非難し続ける唐沢治などは、当ブログとは違って、まさに反知性主義的観点から、牧師らを非難しているだけであることに注意しなければならない。

それが証拠に、村上も唐沢も(杉本も)、牧師らをただ非難し続けるだけで、決して聖書の御言葉への忠実な理解に立ち戻ろうとはしない。むしら、これらの人々は、プロテスタントの問題性、牧師らの腐敗を追及・非難すればするほど、ますます聖書の御言葉を知る知識から遠ざかり、異端的教説に接近して行くだけである。
 
要するに、この人たちは、反知性主義に基づき、牧師を非難することで、「知性」と「権威」の両方を同時に否定しているだけなのである。そのために、かつては大学講師をつとめ、知識人の一人のように見えた唐沢治でさえ、アカデミズムを去って、怪しげな新興宗教の指導者が宣伝するようなごちゃまぜの異端的教説を公然と宣べるようになったのである。

当ブログでは、随分前から、唐沢や村上のネット上の論説が、極端なまでの劣化の道を辿りつつあることを指摘して来た。数年前から、唐沢の文章も、匿名掲示板の投稿とほとんど変わらないようなレベルになっている事実は見逃せない。

こうした知的劣化(荒廃?)は、彼らの反知性主義的な理念のもたらした必然的な結果だと筆者は見ている。では、知性が欠如(劣化)すると、その次に何が起きるのであろうか。権威の崩壊である。

筆者は、グノーシス主義とは、悪魔が人類に吹き込んだ「偽りの知性」であって、それは根本的に「無知」であると述べて来た。

聖書が神の霊感によって書かれた書物である以上、聖書の御言葉を理解するためには、聖霊による導き(啓示)が必要となるが、今日、聖霊の名で呼ばれているあらゆる運動が、真に御霊によって生まれたものなのではない点に注意しなければならない。

キリスト者は、飽くことなく、聖霊の働きを追い求めるべきという点において、聖霊派は、確かにキリスト教の中でも、最も先駆的な信仰復興運動なのであるが、残念ながら、その中には数多くの偽りの霊による運動が入り込み、ペンテコステ運動にも、聖書の御言葉の深い理解を得ようとするのではなく、感覚的な享楽をもたらす体験を重んじることで、信者が知性によらずして、神を知ろうとする「さかさまの探求」が込められている。

ペンテコステ運動とは、そういう意味で、鈴木大拙の言う「二度目の林檎」と同じものなのである。つまり、これは信者を知性へと導くように見せかけて、無知へと導く偽りの知恵に支えられた運動である。

村上密も、唐沢治も、杉本徳久も、みなペンテコステ運動に多大なる影響を受けていることは幾度も指摘したが、その結果として、彼らは聖書の御言葉を知る知識と権威の両方を否定するようになり、自分自身がまさにその両方を失おうとする直前まで来ている。今日、すでに彼らからは知識が失われているが、次に失われるものは権威である。

当ブログが提起する訴訟は、彼らの知性が偽物であることを公にし、彼らの権威が完全な失墜に至るための導火線のようになるだろうと筆者は考えている。なぜなら、上記の通り、本来、知性と権威とは不可分の関係にあり、聖書の御言葉を知る正しい知識こそ、人に権威を与えるものであるから、神を知る知識すなわち聖書の御言葉への正しい理解を捨てた者は、もはや自己の尊厳を守れず、自分で自分の命を失う結果となるからだ。

不正や暴虐によって得た利益は、その人を滅ぼす。強制脱会活動などに関わって金銭を蓄えた者、罪もない者を陥れるために策略をしかけた者らの富は、恐怖と災いがつむじ風のように襲うとき、あっけなく奪われ、取り去られる。

しかし、主の御言葉に従う者は、地上においても確かな住まいを得て、災いを恐れることなく暮らす。神の御言葉を知る知識は、人の生活のすべての面における繁栄と平穏の根拠なのである。

最後に、箴言第1章を引用しておきたい。

「イスラエルの王、ダビデの子、ソロモンの箴言。

 
これは知恵と諭しをわきまえ
 分別ある言葉を理解するため

 未熟な者に熟慮を教え
 若者に知識と慎重さを与えるため。

 これに聞き従えば、賢人もなお説得力を加え
 聡明な人も指導力を増すであろう。

 また、格言、寓話
 賢人らの言葉と謎を理解するため。 

 
主を畏れることは知恵の初め。
 無知な者は知恵をも諭しをも侮る。

 わが子よ、父の諭しに聞き従え。
 母の教えをおろそかにするな。

 それらは頭に戴く優雅な冠
 首にかける飾りとなる。

 わが子よ
 ならず者があなたを誘惑しても
 くみしてはならない。

 彼らはこう言うだろう。

一緒に来い。待ち伏せして、血を流してやろう。
 罪もない者をだれかれかまわず隠れて待ち
 陰府のように、生きながらひと呑みにし
 丸呑みにして、墓穴に沈めてやろう。

 金目の物は何ひとつ見落とさず
 奪った物で家をいっぱいにしよう。

 我々と運命を共にせよ。
 財布もひとつにしようではないか。

 わが子よ
 彼らの道を共に歩いてはならない。
 その道に足を踏み入れるな。

 彼らの足は悪事に向かって走り
 流血をたくらんで急ぐ。

 翼あるものは見ている。
 網を仕掛けるのは徒労だ。

 待ち伏せて流すのは自分の血。
 隠れて待っても、落とすのは自分の命。

 これが不当な利益を求める者の末路。
 奪われるのは自分の命だ。

 
知恵は巷に呼ばわり
 広場に声をあげる。 

 
雑踏の街角で呼びかけ
 城門の脇の通路で語りかける。

 「いつまで
 浅はかな者は浅はかであることに愛着をもち
 不遜な者は不遜であることを好み
 愚か者は知ることをいとうのか。

 立ち帰って、わたしの懲らしめを受け入れるなら
 見よ、わたしの霊をあなたたちに注ぎ
 わたしの言葉を示そう。

 しかし、わたしが呼びかけても拒み
 手を伸べても意に介せず

 わたしの勧めをことごとくなおざりにし
 懲らしめを受け入れないなら

 あなたたちが災いに遭うとき、わたしは笑い
 恐怖に襲われるとき、嘲笑うであろう。

 恐怖が嵐のように襲い
 災いがつむじ風のように起こり
 苦難と苦悩があなたたちを襲うとき。

 そのときになって
 彼らがわたしを呼んでもわたしは答えず
 捜し求めても
 わたしを見いだすことはできない。

 彼らは知ることをいとい
 主を畏れることを選ばず

 わたしの勧めに従わず
 懲らしめをすべてないがしろにした。

 だから、自分たちの道が結んだ実を食べ
 自分たちの意見に飽き足りるがよい。

 浅はかな者は座して死に至り
 愚か者は無為の内に滅びる。

 わたしに聞き従う人は確かな住まいを得
 災難を恐れることなく平穏に暮らす。


村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(30)ーこの朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。

さて、このシリーズも30本に達した。次回からは、第二審に向けて標題を改めることにしよう。

先の記事で、本紛争は、行き着くところまで行き着き、中途半端な妥協点は退けられて、どちらかの陣営が社会的に抹殺されるなど、完全な勝敗が明らかになるまで、続くだろうと筆者は書いた。

筆者はこの紛争が始まる前から、論敵の口を完全に封じること、ハガルとイシマエルの子孫を神の家から駆逐することが紛争の目的であると何度か断って来た。だが、当初は筆者の目にも、それはあくまで霊的法則性を表すものであって、地上の人間に対しては各種の情けが必要であって、文字通りにその法則性を当てはめてはならないものと見えていたのである。

そこで、筆者は誰かを社会的に抹殺することなどを目的として本紛争を提起したわけではない。それにも関わらず、事態がどうやらそのような方向にしか進まないらしいことを、筆者はここ数日間で理解した。

筆者はこれまで、一審判決で下された命令を、被告に字義通り、忠実に実行させることが、自らの責務であると考えていた。「命令」と「実行」を一つにするとは、そういうことだと解釈していたのである。

ところが、被告は賠償金を支払わない。これを支払いさえすれば、新たなる差押がなされるなどの不利益を被ることはないと、どれほど伝えても、身を守るための措置も講じず、敗北を認めず、判決に従おうともしない。

こうして、賠償命令が未だに実現していない理由が、なぜなのかを考えるとき、それはこの戦いが、決して一審判決で命じられた事柄を字義通り実現しさえすればそれで良いという性質のものではないからだと、筆者は思わざるを得ない。

被告は、自分に不利な判決を取り消してもらいたいがゆえに、控訴したそうである。また、筆者との直接交渉の中で、筆者の意思と情けを踏みにじり続けることで、判決の解釈と実行をどこまでも自分に有利に曲げようとしている。

だが、もしも敵にそのような模索が可能ならば、こちら側にも当然、同じことができる。つまり、判決は変えられないが、その執行の形態はいくらでも変えられる。そのことは、判決の解釈を変更することに等しく、「命令」に対する相手方の反応を見て、その実行形態を様々に変化させて、段階的により容赦のない措置に及んで行くことを意味する。

これが、本紛争が究極的なところまで行き着かねばならないとする筆者の予想の根拠である。被告が命令に逆らえば逆らうほど、彼にはしたたかな破滅が避けられないものとなって行くのである。だが、それは筆者が選んでいるのではない。被告自身の選択なのである。
 
筆者は、供託係と話をした時に、この印象を伝えておいた。「第三債務者はよほど不運な人間だ。ここでお金をおさめておけば、これ以上、ひどい事態は起きようがなかったのに、支払わなくて良い口実をもうけるためだけに、係の者に接触し、自分に都合の良い解釈を引き出し、供託はできないと結論づけた。もう少し丁寧に物事を説明する係であったなら、彼にデメリットを教えてくれて、思いとどまるように示唆してくれたかも知れない。なのに、それもなく、彼は自分に都合の良い説明を聞いて、それに飛びついた。だが、このことは、彼にとってさらなる不利益にしかつながらない。こうして、彼は自分のために与えられた情けを自分で踏みにじり、自ら猶予を無駄にしたのだ。このようなことは、よほど不運な人間にしか起きない・・・。」

こうして、一審判決の解釈は幾通りにも変えられて、より情け容赦のない措置が取られることになるだけではない。一審判決そのものの不完全な部分も、控訴審で克服されて上書きされることになる。

筆者は、このような事態になっているのは、現在の成果で決して満足してはいけないという天の采配であるとみなしている。

幾度も言うが、筆者は本紛争を提起するに当たって、どちらかの陣営が社会的に抹殺されるまで争いたいとか、最高裁まで争いたいなどという願いは微塵も持っていなかった。むしろ、一審を担当してくれた裁判官が、とても善良で、優秀で頭脳明晰な人物と見え、かつ、それだけでなく、何より重要なこととして、本紛争の核心部分を、実に早い段階で深く理解してくれていることを知ったとき、これならば十分に一審で終われるだろうと考え、そうなることを望んでいたのである。

それにも関わらず、現在、その裁判官の判決を「上書き」することを求めて控訴する事態となっていることは、かえってとても良いことだと筆者は考えている。

筆者がこれまで常に学んで来た教訓は、キリスト者は、決して誰をも自分の心の偶像としてはならないし、自分の代理人としてもならない、ということであった。弁護士などという職業が、我々にとって不要なだけではない。どんなに優秀で、どんなに深い理解を持つ、どれほど親切で善良な人間であれ、神以外の何者も、私たちの代理人にはなれないのだ。

だから、決して地上のどんな人間に対しても、私たちは決して自分の願いをことごとく託すようなことはしてはならない。
 
むしろ、私たち自身が、キリストの代理人であり、そして、キリストが私たちの代理人となって下さる。私たち自身が、主の思いを実行する側に立っているのである。このことの絶大な意味を決して忘れてはいけない。

一体、キリスト以外の誰が、私たちの心を隅々まで理解し、私たちの権利をことごとく守るための力強い代理人となって下さるであろうか。誰が敵を粉砕し、足の下に踏みにじり、私たちのために大胆な勝利と解放の宣言を打ち立てて下さるであろうか。

私たちは、鏡に映すように、彼(イエス)の栄光を移す民である。この関係は実に言い尽くせないほどに価値ある、栄光に満ちたものだ。ところが、その神を捨てて、人間に過ぎない代理人を立てると、必ずや、私たちは、その人の意思や都合に束縛される結果となり、やがては二人三脚で破滅に落ち込んで行くことになる。
 
筆者は、牧師という存在は、人間(信者たち)の欲望の化身でしかないと述べて来た。人は自分の願いを手っ取り早くかなえてくれそうな誰かを常に代理人にしたがるものだ。そして、その者に自分の権利を託し、願いを託し、その者を自分の「偶像」に祀り上げる。だが、そのようにして、人が神を捨てて、人間に過ぎない誰かを自分の代理人に据えることの結果は非常に苦く厳しいものである。

神はそのようなことをキリスト者にお求めになっておられない。人間を偶像とすれば、解放されるどころか、束縛と隷従が待っているだけである。たとえそこまで深刻な事態に行き着かずとも、私たちが人情を優先して、そこで霊的前進を終わりにすることは、とても危険なことなのである。

そういう意味で、この紛争は、究極的結論に至るまでは、終わらないであろうことを筆者は予感した。そして、筆者自身が覚悟を決めて、そこまで歩んで行かねばならないことを悟った。誰かが筆者を優しくかばってくれて、筆者をこの労苦から早期に解放してくれることを第一に望むわけには決していかないのだと。最後まで大胆に立って、信仰の戦いを忍び通して、勝利を掴まなければならない。

そういう意味で、筆者はこの戦いが続行していることを、まさに主の御心に適うこととして、喜んで受け入れている。
 
* * *

聖書に書いてある、私たちは御使いをも裁く者、世を裁く者だと。従って、傲慢不遜と誤解されることをあえて承知で言うが、本紛争に関しても、真に裁きを下しているのは、実は目に見える地上の人間ではないのだ。

今、遅ればせながら、筆者は急ピッチで控訴理由書を書き上げているところだ。事件ファイルが高裁に届くのに随分時間がかかっていたようなので、おそらく誰も急いではいまい。新たに証拠となる記事も多数、追加されたことであるし、筆者が理由書の提出をするのは、ちょうど良い頃合いになるだろうと思う。

これまで駆け足で当ブログに発表して来た多くの記事は、理由書の土台とするために、過去記事を整理したものである。

そして、理由書を書き始めると、この作業は、非常に楽しいものであり、深い満足をもたらしてくれるものであることが分かった。

筆者は、第一審の時点から、村上が筆者に対して害意を持っていることを確信していたが、筆者が一審を提起した段階では、まだそれは行為としては成就していなかったし、証拠が明るみに出てもいなかった。そこで、このような状況では、裁判官とて如何ともしがたく、現在のような判決が生まれて来るのも、理由のないことではないと言える。

しかしながら、改めて控訴審への準備を進めているうちに、一審判決と戦うわけではないにせよ、一審判決の不完全な部分を、どのように覆い尽くすべきかが見えて来たのである。

ポイントは、第一に、これまでの記事にも書いた通り、カルト監視機構と宗教トラブル相談センターを結びつけて、同センターがカルト監視機構の延長上にあり、その構想の実現として設置されたものであり、根本的に同一であることを、目的と機能の面から論じ、カルト監視機構が設立されていないという判決の前提そのものを覆すことである。

第二に、村上が過去に統一教会信者の拉致監禁等を伴う説得に関わって来た行為なども指摘しつつ、反カルト運動による権利侵害の一助を村上の活動が担っていると見られることを指摘することだ。

そして第三に、村上が一審判決言い渡し直後から、筆者に対する人格権の侵害行為に及んだり、筆者を刑事告訴したと告げたり、筆者が犯してもいない犯罪行為を犯しているかのように示唆したり、裁判資料として提出した筆者のメールを無断で公開したりした行為は、すべて宗教トラブル相談センターの暴走を示すものであり、それが筆者に対する権利侵害に結びついているだけである。そのことは、筆者が2009年に、カルト監視機構が魔女狩り的な粛清を生むと予告して行った警告に、現実性・信憑性・相当性があることの証拠である。

こうしたロジックの組み立てによって、2009年に村上が著した筆者に関する二つの記事が、権利侵害に当たらないとする判決をも、覆せるだろうと筆者は考えている。

それと並行して、掲示板に対する訴訟を起こすことで、投稿者を特定し、共謀関係の有無を突き詰めることも重要な課題である。それにより、サイバーカルト監視機構の問題についても、新しい見方を与えることができる。しかし、これは時間のかかる作業のため、この問題が明らかにならないうちに二審が終われば、二審でもこの紛争は決着しない可能性がある。

当初は、個々具体的な権利侵害だけを論じる予定だったのだが、考えれば考えるほど、二審は「カルト監視機構」が争点となるという予感は否定できない。

筆者が一審の裁判官の仕事を高く評価していたのも、今でも移送の申立の却下通知をホームページに掲載している通り、この裁判官が「カルト監視機構」こそが、本紛争の最大の争点であることを、訴訟の開始当初から見抜いていたためであった。裁判官の文章は、あくまで筆者の主張を簡潔にまとめただけのように見えるかも知れないが、実はそうではないと、筆者は確信している。

筆者は、この文章を読んだとき、この裁判官が、本紛争は、カルト監視機構という悪魔的構想に対して、それぞれがどのような信仰的態度を取るかという、深い思想的(霊的)対立が引き金となって生まれたものであり、カルト監視機構の構想こそが、すべての問題の出発点であり、根源であるという深い理解と洞察を、そこで示していることを感じたのである。

その指摘の中には、筆者が気づいている以上の深い洞察が込められていたことに、筆者は驚きを覚えた。
 
だが、一審の最中には、カルト監視機構と宗教トラブル相談センターが実質的に同じ機能を持つものであることを、筆者は論証せず、統一教会の信者に対する拉致監禁など、カルト被害者救済活動の違法性を具体的に証拠立てる資料も提出せず、何よりも、村上と杉本やその他の人々との共謀関係を証拠立てる資料が出て来ず、また、村上も筆者に対するあからさまな権利侵害に及んでいなかったため、村上密という人物が、この悪魔的構想の生きた体現者であるということをはっきりと立証するための決定的な証拠が欠けていた。この状況では、裁判官とて何もできなかったであろう。

そこで、村上の本質が客観的に明らかになるためには、まず第一に杉本が口を封じられるという過程が必要だったのであり、そのためにこそ、一審判決は有益な役割を果たした。だが、紛争は決してそこで終わりになってはいけなかったのである。
 
それは、村上密という人間の本質を明らかにすることこそ、もともと本紛争の最も主要な課題だからであり、杉本の権利侵害行為とて、結局は「カルト監視機構」の発想が具現化して起きて来たものに過ぎないからだ。

筆者から見て、村上密という人物は、「カルト監視機構」という反聖書的発想の生きた体現者なのであって、その村上を手つかずで残したまま、杉本の不法行為だけを認定して終わりとすることは、本紛争の提起された意義を根本的に失わせ、かえって極めて不公平な判決を打ちたてるだけである。

しかし、筆者は一審が開かれていた最中は、そこまでの深い理解には到達していなかった。それどころか、判決が言い渡されても、杉本から賠償金が支払われさえすれば、そこで杉本との間では紛争を終わらせて構わないと考えていたくらいである。

ところが、決してそうなってはいけなかったのである。杉本が今に至るまで賠償金を払っていないことには、以上で述べた通り、深い意味がある。つまり、この問題は、額面通りの金銭によって解決されてはならないほど深いレベルに達しており、杉本は、村上が倒れない限り、決して筆者に敗訴した事実を認めるつもりはなく、神ご自身が、筆者がこの判決を元手に、可能な限りの打撃を敵にもたらし、杉本と村上の両名を打ち破って初めて、この紛争の目的が達成されるのであり、神がそのことを望んでおられるからこそ、杉本自身が、一向に敗訴の事実を受け入れず、未だ筆者の情けを踏みにじり続けているのだということにようやく気づいたのである。

この紛争は通常の紛争とは性質の異なる霊的戦いである。杉本は筆者が2009年に投稿した1件のコメントを利用して、筆者の人生に、最大限の打撃を与えるべく行動して来た。その目的は、筆者を社会的・精神的に抹殺することにあったと筆者は見ている。

そのように、筆者の死を願っていることを明らかにして行動しているような相手に、通常人と同じような情けをかけるべきではないのである。むしろ、その発想をまさに逆転して、彼ら(あえて彼らと呼ぶ)に返さなければならない。命じられた賠償を額面通りに実現させるだけでは解決にならず、それが神が願っておられる最も望ましい解決でもない――筆者はそう思い当たった。

これは正直に言って、大変、恐ろしい結論である。彼らの(霊的)債務が金銭ではかたをつけられないレベルにあることを意味するからだ。

だが、もしも神が本当にそのように考えておられるのであれば、そして、霊的戦いとしてのこの紛争の目的が、そこまで物事を徹底的に明らかにすることにあるならば、誰もそうなることを止めることはできないだろう。おそらく、この先も、杉本はすべての情けを踏みにじって、逃げられるだけ賠償から逃げることによって、最も厳しい断固たる措置が取られざるを得ない状況を自ら作って行くものと思う。

何度も言うが、通常の紛争では決してこのようなことは起きない。訴訟は、法的・社会的決着をつけることが目的であって、人間を破滅させることが目的ではないからだ。通常の紛争では、損害の大きさは、決まっており、賠償もその範囲にとどまり、債務が無限大に拡大して行くとか、どちらか一方が破滅するまで戦いが続行されるなどということはまずない。どれほど巨額の賠償が命じられても、人はそれを払えば、やり直しできる。もちろん、筆者もそう思って、紛争を提起していた。
 
ところが、霊的戦いは、人間の思惑の通りには進まない。そして人間的な観点から見て、明らかに妥当かつ合理的であると見られる解決を退けて、敗訴が究極的な破滅と同義になるほどまでの深刻な事態へ向かって進まないわけにいかない。それは、人々を導いている霊の本質が極みまで明らかになるために、どうしても避けては通れない過程なのである。

つまり、神を畏れることこそ、知識の初めであって、神を知る知識(聖書の御言葉)に逆らう者は、自分のすべてを失い、人生そのものが破滅するという霊的法則性が、動かしがたいものであることが、公然と世に証明されるためには、それ以外の道がないために、敵自らがそうなる道を選ぶのである。

あるキリスト者が、次のように言ったことを思い出す。「悪魔は本当に愚かですよ。なぜって、キリストを殺せば、復活が現れ、悪魔の最大の武器である死が打ち破られて無効になることを、悪魔自身が知っていた。それなのに、彼は抑え難い殺意によって、キリストを十字架にかけて殺さないわけにいかなかったのですよ・・・」

同じように、杉本は賠償金を踏み倒し続けることが、自分に何をもたらすか、知らないわけではない。なのに自らその道を選んでいるのだ。
 
そこで、この戦いには、究極的な結末が待ち受けているだけであって、やり直しのチャンスはない、ということに、筆者はようやく気づいた。被告らには、悔い改めもないし、再生もなく、忠告を聞き入れるチャンスも、情けを受ける余地もない。彼らの行く先は定まっており、それを来るべき世が訪れてからではなく、今この地上にあっても、客観的に人々に分かるように立証する使命が、筆者に託されているのである。

繰り返すが、これは極めて厳粛で恐ろしい事実である。

あらゆる訴訟には、個人の損なわれた利害の回復を目指すだけにとどまらない、個人を超えたレベルの社会的意義が込められているが、霊的紛争となると、その意味はもっともっと深いものとなる。

この紛争は、永遠にまで達する領域に関する物事を争うものなのであり、だからこそ、普通の人間の目に、ほどほどと思われる地点で終わりになることがないのである。

だから、予告しておきたい。筆者は一審判決を飲み込んで、これを上書きし、変更を勝ち取ることとなる。控訴状では、筆者は一審判決の取消ではなく、上書き(変更・追加)を求めている。これは判決の不完全な部分について、さらに主張を補い、完成に導くための措置である。

なぜ筆者が当ブログにおいて、訴訟に関する連続シリーズを書き続けているかという目的も、そこにある。これは歴史を塗り替えるため、存在の上書きをし、朽ちるものを朽ちないもので飲み込み、覆うための措置なのである。

杉本や村上は、人間の正義感に過ぎないものを振りかざし、神の御言葉によらず、教会を悪から浄化しようとしたが、そのような運動は、聖書の神に対する反逆であるから、決して成功に終わることはない、との指摘を筆者は続けて来た。

村上密は、2009年当初からカルト監視機構の構想を批判した筆者に「悪」のレッテルを貼っていたが、事実は全く逆なのであり、それゆえ、村上はいずれ筆者の批判に飲み込まれて終わるというのが、筆者の変わらない見立てである。

このようにして事実を上書きする(もしくは事の真相を明るみに出すことにより、偽りの情報を駆逐する)ために筆者はものを書いている。虚偽のプロパガンダに過ぎないものを、真実によって飲み尽くすために再評価を下し、名誉回復の作業にいそしんでいるのである。

また、この上書き作業は、「名を知る者がその者を支配する」原則に基づくものと言って良い。

杉本や村上は、自分たちが住所氏名電話番号まで自己の情報のすべてを開示して「逃げも隠れもせず」活動していることを盛んにアピールしていた。それを誠意の証しであるかのように宣伝していた。だが、筆者に言わせれば、そのように自己の情報を第三者に無防備に託すというのは、初めからその第三者(大衆)に自己存在を奪われ、第三者によって自己イメージを規定される道を選んでいるのと同じなのだ。

「わたしたちには、神が”霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。”霊”は一切のことを、神の深みさえ究めます。人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。<略>霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。
「だれが主の思いを知り、
 主を教えるというのか。」
 しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。」(1コリント2:10-16)

キリスト者は、自らすべての事柄を判断するが、自分自身は誰からも判断されることはない。

これまで杉本は盛んに筆者の個人情報を要求して来たが、それは善意によるものではなく、筆者に害を加えようとする意図に基づくものでしかなく、たとえば、氏名を知れば、誹謗中傷に利用する、住所を知れば、提訴するために利用するといった具合であるから、口座番号を伝えれば、強制執行を実行するために利用するだろう。

このように、反カルト陣営に関わる人々は、信者に関して入手したすべての情報を、信者に害をもたらすため、信者を不利な立場に立たせるため、本人の心を支配する脅しの手段として利用して来た。そのようにして、信者を不利な立場に陥れるきっかけをつかむために、彼らは裁判という場を利用して情報の開示を求めて来たのである。

だが、そのように信者に悪意を抱いている人々がいるならば、同じ原則を、そのまま逆に彼ら自身に当てはめることが可能である。自己の情報をみだりに第三者に開示し、「逃げも隠れもしない」などと豪語して、他者の名誉を貶める行為にいそしんでいる人々には、彼らが開示していた情報を利用して、責任追及を行い、開示されていない情報についても、司法を利用してさらに開示を求めるだけのことである。

もともと彼らがそのように世に対して自己の情報を開示していた行為は、それ自体が、他者(世)からの評価に自己存在を規定され、自己を左右され、評価され、簒奪され、上書きされるきっかけを自ら作っているのと同じであるから、彼らの存在は、さらに「聖域」を取り払われて、まるで裸にされるがごとく、徹底的にこの世に対する開示を求められることとなろう。

つまり、彼らが教会の「聖域」に畏れ知らずにもメスを入れ、神に代わって教会の恥を暴き、裁こうとした思い上がりに満ちた計画が、そのまま彼ら自身の上に適用され、成就するということである。それが、主が願っておられる計画であって、主の御名と教会を辱めようとした者に当然のごとく降りかかる報いであって、それ以前のところで決着をつけてはいけないということを、筆者は理解したのである。

筆者は当ブログにおいて自己存在をアピールするつもりは全くなく、キリストによって覆われた新しい人として、世に対して姿を現している。

村上密は、自分は被害者の代理人として行動して来たと言う。代理人とは、自分の名を名乗り、自分の権利のために行動するのではなく、自分が代理としている人物の名を用いて、その人物に代わって、その人物の利益のために行動する者である。
 
私たちは、地上において、誰の代理人なのか。むろん、私たちは、キリストの代理人であるから(牧師が神の代理権威なのではなく、信じる者一人一人が御名の権威を託されている)、私たちは、自己の利益を擁護するために立っているのではなく、キリストの利益を擁護するために生かされているのであり、従って、世の前に立つとき、私たちが自己の名を語るのではなく、キリストの名を用いるのは当然である。

そして、もしも私たちが代理人となって行動しているその方の御名が、私たちの名を圧倒的に超える絶大な権威を持つものであるなら、その方の代理人となることにより、私たち自身が、はかりしれない権限を持つこととなる。

従って、私たちクリスチャンが、幼い頃から「イエス・キリストの御名によってお祈りします。」と唱えることを教えられて来たのと同様、筆者は当ブログにおいても、自己の名ではなく、主の御名によって、すべての事柄を書き記している。

私たちの発する言葉は、一つ一つが不完全であり、私たちの存在も不完全で、影のようなものでしかない。だから、筆者は当ブログで用いている言葉が、隅から隅まで完全であると言っているわけではない。だが、それにも関わらず、私たちが「イエス・キリストの御名」の権威を帯びる時、私たちの不完全さは、主の完全さで覆われ、私たちの弱さは、主の強さに変わり、私たちの不真実は、神の真実によって取って代わられ、敗北は勝利に置き換えられ、悲しみは慰めに変わり、罪は赦しの恵みによって覆われ、朽ちる命が朽ちない命を上から着せられ、滅びゆく有限な者が、神の永遠の命を着せられて、キリストと共に栄光にあずかるのである。

そのようなわけで、私たち自身が、絶えずイエスの命によって、キリストの思いによって、存在を「上書き」されている。そうした現状があればこそ、筆者は、御名の権威を用いて、信仰のない人々の判断を上書きすることを辞さず、またその作業が可能であることを信じている。

筆者は、彼らの判断を飲み込んでしまい、それに上から新しい事実を「着せる」。筆者は「勝利者」として歴史を作り、書き換えているのだが、その「歴史」とは”His-story”であって、カルバリで取られたキリストの勝利に基づくものであって、筆者個人の勝利ではない。

つまり、筆者がすべての物事を「上書き」することによって、着せようとしているのは、キリストご自身なのである。そして、それに従わないものは、すべてのみ込まれて消えて行くか、罰せられるかに終わるであろう。

「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできません。わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。

この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。

「死は勝利にのみ込まれた。
 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
 死よ、お前のとげはどこにあるのか。」

死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。わたしたちの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に励みなさい。主に結ばれているならば自分の苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」(1コリント15:50-58)

こうして、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬべきものが命にのみ込まれるためにこそ、私たちは証の言葉を述べ続けている。
  
これは神の完全な贖いを巡る争いなのである。だからこそ、人間的な観点から見た合理的な解決に至り着いて終わりになることなく、完全な決着が着けられるまで、戦いが続行される。
 
神の贖いに反対する者には、この地上はおろか、永遠に至る領域においても、容赦のない裁きが下されることが確定している。その霊的法則性が明らかになる地点まで、本紛争は必ず進むだろう。筆者はこれを明らかにする責務を負わされているのであって、それを果たすまでは、この戦いは終わらない。そのことを、ここ数日間で筆者は心に確信させられたのであった。
 
わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打ち倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。」(2コリント10:4-6)

主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。
 わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。

 
すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当てを胸につけ、平和の福音の備えを足にはき、その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。」(エペソ6:10-18)

 
  <続く>


村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(29)―彼のものは一切、債権者に奪われ 働きの実りは他国人に略奪されるように。

本日、筆者の中で何かの一線を超える出来事があった。筆者の中でいよいよ堪忍袋の緒が切れたのである。

杉本が筆者の用意した供託書の内容では供託ができず、自分には債権債務はないと告げ、債務を支払うつもりもないのに、直接、口座間でやり取りをする必要性があるかのように告げて来てから、筆者は二度と杉本には返信しないことを決意していた。

支払いの意思を示さない人間に個人情報など伝える必要は全くない。そして、供託書は最後の温情であるから、これに従わないのであれば、筆者の側からは一切の救済措置はない。

筆者は今日になって、もうこれ以上、被告らにいかなる発言の機会をも与えてはいけないこと、彼らにお伺いなど絶対に立ててはならないことを理解した。

杉本はただ単に賠償金の支払いを拒んでいるだけではない。そもそも彼は負けを認めておらず、この紛争は、どちらか一方の陣営が、完全に社会的に抹殺されるまでずっと続くことであろう。

これは激しい霊的戦いであって、通常の紛争とはわけが違う。筆者が人間としての情けから、敵に猶予を与えれば、自分が死に直面することになるだけだと分かったのである。

裁判官の与えてくれた判決は、被告の意志次第で変更できるようなものではない。ところが、取立という名目で、筆者が被告に接触すれば、被告はその機を最大限に利用して、自分にとって都合の良い言い訳をひたすら並べ、筆者を自分の要求に従わせようとして来る。あわよくば、判決内容さえを自分に都合よく変えようとして来る。

そこで、これ以上、筆者は敵の意思を問うたり、敵に猶予を与えることをしてはならず、そのようなことは、筆者の尊厳をいたく傷つけ、筆者に死以外の何物ももたらさない行為だと理解した。

ところで、先の記事の中で、筆者は訴訟において提出する準備書面は、裁判官に宛てたラブレターのようなものだと書いた。だが、このことを、筆者は訴訟が始まった時からすぐに自覚していたわけではない。

そもそも紛争などというものには、当事者でさえ、積極的に関わりたいとは願っていないので、裁判が始まった頃の筆者には、裁判所の人々が最初から身近な人々に見えていたわけではない。むしろ、できるだけ早く決着をつけて、この事件の関係者とは関わらなくて済む日が来るのが、皆にとって最善だと考えていた。
 
また、被告らとはつきあいが長かったので、当初は、裁判所の人々よりも、被告の方がリアリティを持つ存在のように見えていたほどである。持ち前のお人好しさや人間的な甘さから、筆者はこの訴訟の途中で、被告らが何とかして自分の行動の誤りを悟り、良心の呵責を覚えて、少しでも生き方を改めてくれるのではないかといった楽観をも持っていた。
 
だから、筆者は書面を通して被告らに語り掛けようと試みた。被告らに対する厳しい叱責と非難と忠告の言葉を並べながらも、それが筆者から彼らに向けた真心のこもった「ラブレター」だと述べたことさえあった。

ところが、その関係が、裁判の途中で逆転して行った。筆者は書面を通して語りかけねばならない相手は、被告ではなく、裁判官であることに気づいた。口頭弁論の最中、ほとんど何も発言しない裁判官であったが、彼にははっきりと自らの判断があり、考えがあり、計画があり、筆者を守ろうという思いがあることが分かり、この人に判断を委ねなければならないということに気づき始めた。

そこで、書面を提出する目的も、被告の主張を論破することが第一義的課題であってはならないと途中で気づいたのである。

これは極めて、本当に極めて重要な気づきであった。だが、残念なことに、その気づきは長くは続かず、一審の最後の口頭弁論が終わり、裁判官に宛てて書面を書くこともなくなって以後、筆者はまたしても、被告との差し向かいの牢獄に閉じ込められ、その上、掲示板の嵐のような誹謗中傷が追い打ちをかけた。

筆者は、心を圧迫され、どこにも助けを求めようのない、出口のない状態に置かれ、頭を抱えて嵐が過ぎ去るのを待つ人のように、自力でそれに耐える以外には、何ら方法のない受け身の状態に置かれたかのようであった。

唯一できることは、ただひたすら彼らの嘘を論破することだけであった。

一審判決の言い渡しが、筆者にとって大きな緊張を伴うものであったのは、ただ単に、それが事件の真の終わりにならないという予感が伴ったためだけではない。ようやく築き上げられた裁判官との信頼関係が断ち切れれば、筆者はその後、誰に向かって、何を訴えれば良いのか分からなかったためでもある。

実際、一審判決言い渡し後、賠償金を取立てるためには、筆者は自ら被告に接触する以外に方法がないという状況に置かれた。

これはまさに地獄のような状態への逆戻りであったと言える。だが、その状態にも二審を前に、いよいよ新たな体制が組まれ、書面の送り先も決まり、手続きが開始してから、終止符が打たれた。

筆者には、自分の主張をこれから誰に向けて提示すべきかが見えて来たので、ようやく自分の陥れられていた恐るべき密室状態に、風穴を開けることができたのである。

そこから、脱出口が見えて来た。筆者は、もうこれ以上、取り合う価値のない被告らのごたく(控訴審では被控訴人だが、あえて被告としておく)に注意を向けたり、彼らにお伺いを立てたり、彼らに眼差しを注いだりしなくて良いことが分かった。

見るべき人を見、掴むべき目的を見失わないようにしなければならない。

筆者はまだ二審を担当する3名の裁判官に会ったこともないが、全身全霊のSOSと共に、この人々のもとに駆けこまねばならない。そして、わき目も降らず、彼らの与えてくれる判決をつかみ取り、それを抱えたまま、まっしぐらに前に走り、二度と絶対に被告らの方を振り返ってはいけないし、彼らに発言の機会を与えてもならないということを理解した。

まだ審理が始まってもいないうちから、それが分かった。被告らを振り切り、なおかつ、彼らを合法的に二度と追って来られない場所へ追いやらねばならないのだと。モーセの率いる民とエジプト軍が、紅海で隔てられたようなエクソダスである。

それが明白に分かった時、紛争はまだ続いているが、同時に終わっていること、これを終わらせるのは、筆者自身の意思と決断によることも分かった。

そういうわけで、本日、筆者の前には、二つの手続きが目の前に置かれていた。命につながる手続きと、死につながる手続きとである。死につながる手続きとは、筆者が被告の意思を問うもので、この手続きは、筆者を再び牢獄へ連れ戻そうと、残酷な本性を発揮して、筆者を思い切り打ちのめし、痛めつけた。だが、筆者は獄屋の刑吏の手から逃れるように、そこから逃げ出し、命につながる手続きを掴んだ。

死につながる手続きは、あらん限りの力で、筆者の前進を妨げようとしたが、命につながる手続きは、すべてぎりぎりのところで予定通り達成された。

夜になって、高裁に宛てて申請書を出すために、郵便局の夜間受付窓口へ走った。右折車線に並ぶために車線変更しようとしたが、入れてもらえなかったので、仕方がなく直進し、Uターンして左折すると、筆者を入れてくれなかった行列がまだ停車しているうちに、目的の道へ進むことができた。

こういうものなのだなと思った。これ以上、開かない扉を叩き続けてはならない。遅々として進まない行列に入れてもらおうとしてはいけない。むしろ、遠回りに見えても、青信号に向かってまっすぐ走りなさい。その方がはるかに早く目的地に着けるだろう。

そういうわけで、筆者は、一見、遠回りに見えても、被告の意思を問わず、各種の手続きを次々と実施することにしたのである。

これが命へつながる手続きである。その手続きには、誰一人、反対する者もなければ、滞らせる者もなかった。筆者は時刻ぎりぎりで駆け回っていたが、何もかもが予定通りに達成された。それを見たとき、改めて、これがゴーサインで――神の御思いは、きっとここにあるのだろうという気がした。

筆者の脳裏に、以下の詩編の御言葉が思い起こされる。

特定の人間に向けるには、あまりに残酷すぎるように思われるダビデの言葉である。多くの信者たちは、この御言葉を読んで、さすがのダビデも、私怨には打ち勝てなかったとか、悔しさがにじみ出ている――などと思うかも知れない。これはダビデの神へ向けた愚痴だと言う人もあるかも知れない。

だが、筆者はそうは思わない。これはダビデが聖徒らの代表として、霊的な敵に向けたふさわしい宣告なのである。

聖書には、サタンに対する厳しい裁きの宣告は、あちこちで語られているが、それはあくまで神のなさるわざであり、信仰者個人が、ここまで容赦のない宣告を敵に向けた箇所は、聖書の他の場所では、そうあまり多くは見られない。

だが、筆者は、これは比喩でなく、暗闇の勢力に真実、発せられねばならない当然の宣告であることを思う。

人々は以下の詩編を「呪いの言葉」と理解するかも知れないが、ダビデは、ここで、敵の発した呪いの言葉を、敵に向かって返しているだけである。

ここでダビデは、彼を絶え間なく悩ませ、神と聖徒らに敵対する者たちに、太刀打ちできない敵対者が起こされるように、彼らが裁きによって罪に定められ、祈りが聞かれないようにと願っている。

さらに、彼らの地位が取り上げられ、家が取り上げられて、彼らのすべての財産が債権者に取り上げられ、働いても、働いても、その実りはすべて他人のものとなり、家族が路頭に迷い、極貧の状態に落ち込み、子孫が絶え果て、ついには地上から彼らの名が消し去られるように、と願っている。

すさまじい宣告に聞こえるかも知れないが、筆者は、これは何ら行き過ぎた宣告でもなく、不適切な内容でもなく、ただ単に峻厳な霊的事実を告げたものに過ぎないと思う。

これは暗闇の勢力に対する極めて妥当な宣告なのだということが、今ならば、はっきりと分かる。

筆者が誰かの身の上にこのような事柄が成就することを望んだのではない。筆者は幾度も、幾度も、敵にチャンスを与えたにも関わらず、彼らが自ら悔い改めの機会を拒みながら、筆者の情けを嘲り、破滅へ向かって走っているのである。

そこで、筆者は彼らの発した呪いの言葉を、ダビデと同じように、彼ら自身に跳ね返すと同時に、慰め主なる方のもとへ向かって一目散に逃げ込む。

神よ、あなたはこの状況を御存じです。私たち聖徒らがどれほど侮られ、嘲られ、助けない状況に置かれて、踏みにじられて来たか、あなたはすべてご存じです。報復なさる方よ、公正で真実で人を偏りみない方よ、私はあなたに裁きを委ねます。どうか敵に対して、あなたの正しい宣告を、あなたの容赦のない裁きの宣告を発していただきたいのです。そして、あなたが私たちに与えて下さった救いの確かさと、あなたの愛の大きさを、今一度、私たちに見せていただきたいのです。

私たちは、あなたを信頼しています。どのような状況にあっても、あなたが正しい方であり、私たちを苦難の中に見捨てておかれない方であることを知っています。

* * *
 
「彼に対して逆らう者を置き
 彼の右には敵対者を断たせてください。
 裁かれて、神に逆らう者とされますように。
 祈っても、罪に定められますように。

 彼の生涯は短くされ
 地位は他人に取り上げられ
 子らはみなしごとなり
 妻はやもめとなるがよい。

 子らは放浪して物乞いをするがよい。
 廃墟となったその家を離れ
 助けを求め歩くがよい。

 彼のものは一切、債権者に奪われ
 働きの実りは他国人に略奪されるように。

 慈しみを示し続ける者もいなくなり
   みなしごとなった彼の子らを
 憐れむ者もなくなるように。

 子孫は断たれ
 次の代には彼らの名も消されるように。
 主が彼の父祖の悪をお忘れにならぬように。

 母の罪も消されることがないように。
 その悪と罪は常に主の御前にとどめられ
 その名は地上から断たれるように。

 彼は慈しみの業を行うことに心を留めず
 貧しく乏しい人々
 心の挫けた人々を死に追いやった。

 彼は呪うことを好んだのだから
 呪いは彼自身に返るように。

 祝福することを望まなかったのだから
 祝福は遠ざかるように。

 呪いを衣として身にまとうがよい。
 呪いが水のように彼のはらわたに
 油のように彼の骨に染み通るように。

 呪いが彼のまとう衣となり

 常に締める帯となるように。

 わたしに敵意を抱く者に対して
 わたしの魂をさいなもうと語る者に対して
 主はこのように報いられる。」(詩編109:6-20)