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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

カルト被害者救済活動の自滅――兄弟たちを訴える者の敗北と、プロテスタントの時代の終焉――

カルト被害者救済活動の自滅――兄弟たちを訴える者の敗北と、プロテスタントの時代の終焉――
 
「こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためなのです」(Ⅱコリント5:20-21)

最近、筆者はキリストの義、キリストの贖いの完全性、永遠性というテーマを追求している。

キリストの贖いを通して、クリスチャンが受けた神の義は、この地上の生涯だけでなく、永遠にまで及ぶ。

キリストが十字架で達成された贖いの御業を通して、神が信じる者にお与えになった義は、この世のどんな事物や、どんな人間の思惑によっても、左右されず、信者の年齢、性別、能力、知識、経験などにも全く左右されない。

信者自身がこの尊い救いを自分自身で否定して退けでもしない限り、神が信者にお与え下さった義は、永遠に至るまで信者に適用されて、悪魔の側からのどんな訴えをも大胆に退ける根拠となる。

だから、たとえば、仮に共謀罪に類する法律が、この国で、100、200と制定され、訴える者たちが何百人、何千人集まって、信者を罪に定めようと協議しても、無駄なことである。

パウロは、キリスト者が神から受けた絶大な特権についてこう言った。

神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」(ローマ8:31)

神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めて下さるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」(ローマ8:33-34)

「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。<…>

 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらのすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」(ローマ8:35-37)


「圧倒的な勝利者」。これは信者にとって、絵空事や空文句ではなく、揺るぎないリアリティなのである。

だが、信者は依然として、見かけは弱く、取るに足りない人間にしか見えないことであろう。しかし、信者を勝利させるのは、外見的な強さではなく、信仰にあって働く神の力である。

だから、神がキリストを通して信者にお与え下さった義が、永遠に変わらない完全なものであることがこの地上で証明されるためには、あえて戦いは難しい方が良い。ダビデがゴリアテの前に立った時のように、エリヤがバアルの預言者たちの前に立った時のように、信者には、敵の訴えの前に立つとき、信仰以外の肉の武器は、できるだけ少ない方が良い。

こうして、己の権勢にも、能力にも、知識にも頼らず、ただキリストの御霊だけに頼るいと小さき者が、御言葉への信仰だけによって、激しい戦いを勝ち抜いて、勝利をおさめるのを見る瞬間ほど、キリスト者にとって光栄かつ爽快な瞬間はない。

肉の腕により頼んで、己の勝利を確信してすっかり自己安堵していた人たちが敗北し、キリスト者の神が、永遠に生きておられ、正義を持って右の手を動かし、信者を力強くかばってすべての訴えを退け、あらゆる危難から救い出して下さる方であることを知って、茫然自失するのを見るのは、キリスト者としては言葉に尽くせない喜びであり、そういう瞬間には、ああ、やっぱり、私はキリスト者になって良かった、と思いながら、神の御言葉の確かさの前に、畏れかしこみ、心から神に感謝を捧げ、神に栄光を帰するのである。

そういう瞬間が、筆者の人生には増えつつあって、大きな楽しみとなっている。

我らの神は、その名を不思議と呼ばれる方、どんな時にも信者と共におられる力強い助け主。神には対処できない状況は何一つない。

だから、信者が自分をどんなに力不足のように感じたとしても、恐れることはないのである。キリストが、信者のために、神の知恵、義と、聖と、贖いになられるからである。

「なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

 兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。

 しかし、神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。

 また、この世の取るに足りない者や、見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。

 これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。

 しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。
 まさしく、「誇る者は主にあって誇れ。」と書かれているとおりになるためです。」(Ⅰコリント1:25-31)

さて、信者がいくつもの戦いを経験し、その中で、神への愛と信頼をより深め、キリストの義、キリストの聖、キリストの贖いを自分自身のものとして受け取れば受けとるほどに、信者の心からは、恐れから去って行く。

愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。」(Ⅰヨハネ4:18)

恐れは、罪の意識から生じるものであって、人が自分の罪や、未熟さ、不完全さのゆえに、報いとして刑罰を受けねばらないという予感がその根源なのである。

だが、神の愛の中に確信をもってとどまる信者は、罪意識とは無縁であり、恐れることなく、心を雄々しく、強く持っていられる。そのような信者は、もはや「兄弟たちを訴える者」である悪魔からの挑戦や脅しの前に、揺るがされることなく、大胆な確信を持って、御言葉を証言することができる。その確信は、やがて来るべき日に信者が神の御前で受けるさばきの時にも、大胆に立ちおおせる力を与える。

このように、キリストにあって神の目に義とされたという確信は、信者が信仰の道を進めば進むほど、より確かなものとなって行く。それにも関わらず、神が義として下さった信者を再び罪に定め、訴え、陥れ、滅ぼそうとするような者は、信者個人に挑戦しているのではなく、信者を贖われた神ご自身に挑戦し、神の国の秩序に挑戦しているのであるから、その者は、自分こそ罪に定められて滅びるであろう。

神が義とされたクリスチャンを再び罪に定めるという、悪魔的挑戦は、どんなにやっても無駄な骨折り損で終わる。それは神の定められた永遠に変わらない秩序を覆そうとする試みであるから、続ければ続けるほど、当人にとって不利益をもたらすだけである。

ところで、主の御業は、早い時にはとても早い。

先日、武蔵野警察から連絡があった。当ブログの読者であれば、これが何の件に関するものであるかは、説明するまでもないと思う。この地球上に、武蔵野警察経由で、筆者に連絡を試みて来るような人間は、たった一人しかいない。

それはかつて筆者を警察に訴えると言って息巻いていた杉本徳久氏である。同氏がどれほど筆者を提訴することを強く望んでいたかは、杉本自身の書いた文章からはっきり感じられる。

上記の文章も、ゴールデンウイーク中に送られて来たことを思い出すと、同氏はこの年末年始も、またしてもこの件に夢中になっていた可能性があるように想像される。

だが、武蔵野警察は筆者にはっきりと言った、杉本氏からの筆者に対する告訴は事件として成立しないと。

これは筆者の読み通りであった。筆者は、長年、このような事件に巻き込まれたせいで、それなりの下調べを行ったので、どうせこういう結末になるだろうと予想していた。それは上記の杉本氏の文章に対する返答の中でも書いた通りである。

しかしながら、筆者のその確信は、冒頭に書いた通り、何よりも信仰に基づく確信であり、神がキリストを通して筆者に付与して下さった神の義が、こんな程度の事柄で動かされるようなことは絶対にないという確信に基づいていた。

信者が、こんな程度の事実無根の脅しを真に受けて、信仰告白を自ら放棄しているようでは、キリスト者の名がすたる。

こうした事件は、信者の信仰を試すために、神があえて許されて起きているのである。神は、信者が脅しを真に受けて、自ら信仰告白を断念するかどうか、ご覧になる。

もしも筆者の信仰告白が、見ず知らずの、信仰さえあるかどうかわからない第三者の、根拠もない恫喝によって、簡単に左右されたり、放棄されるほどに軽いものであるなら、そんな程度の証は、初めからしない方が良いであろうし、神の名折れにしかならないその信者は、信仰者を名乗らない方が良い。

それほど不確かな救いの確信しか持っていないなら、そんな信仰は、生涯の終わりを迎えるまでに吹き消されるだろう。

そんな風に、自分を危険にさらしたくないばかりに、不利な状況になればさっさと信仰告白をやめて、神の栄光のために、自分を惜しんで働くことを厭う、無精で自己中心で臆病な信者は、来るべき裁きの日に、神に叱責を受け、そして、人前でイエスを拒んだ罪の報いとして、主イエスからも拒まれて、御国から除外されるであろう。

聖書によれば、おくびょう者を待ち受ける分は、「第二の死である火と硫黄との燃える池だけである。臆病者は神の国に入れない(黙示21:8)

臆病者は、神が自分に与えて下さった贖いの完全さを信じないので、悪魔に脅されれば、自分が贖われた者であることをあっけなく否定して、犯してもいない犯罪の数々を喜んで自白して、自ら世の罪人の軍門に下って行くであろう。そんな信者が、神の国に受け入れられることはまずありえない。自分で告白した通りに、罪人のまま死ぬであろう。

悪魔の嘘は、いつも最大限に膨らました風船ガムのようなもので、どんなに大きく見えても、細い針でわずかな穴をあけただけで、音を立てて弾け飛ぶほど、脆く、はかないものでしかない。あるいは、ナメクジのようなもので、塩をかけておけば、そのうち溶けて消え去る。もっと美しい表現が好みなら、シャボン玉と言っても良い。七色の光彩を放って、一時的には美しく輝くかも知れないが、次の瞬間にはもう跡形もなく消えている。掴むこともできず、痕跡すらも残らない。そういうものを真に受けて、これを揺るぎないリアリティだと思い込むのは、子供か、よほどの愚者だけである。

だから、武蔵野警察には、この機をとらえて、むしろ、筆者を口封じしたいと思っていた連中が、長年に渡り、どんなに卑劣で陰湿な方法を用いて筆者を追い詰め、断筆させようと数々の不法な嫌がらせを行って来たか、かなり時間をかけて仔細に説明しておいた。

警察も、根拠のない訴えを真面目に取り上げたりすれば、自分自身が逆に訴えられ、害をこうむる可能性があることは知っている。虚偽の事実に基づいて刑事告訴に及んだりすれば、訴えた人間だけでなく、その訴えを取り上げた警察も、一緒になって名誉棄損で訴えられる危険が伴うのだ。

昨今、スラップ訴訟という言葉が世間に普及するに連れて、カネや権力や地位や人数にものを言わせて、ただ恫喝によって自分に不都合な言論を口封じすることだけを目的に、何らの確たる証拠もなしに、自分よりもはるかに弱い市民を、法廷闘争に引きずり出しては、痛めつけようとするような人間は、相応の社会的制裁を受けてしかるべきだという考えが、世間に常識として広まり、定着しつつあるように見受けられる。

折しもちょうど良い頃合いで、DHCという巨大企業から、企業に不都合な言論弾圧を目的に、6000万円という高額なスラップ訴訟を起こされて、被告とされながらも、この闘いを耐え抜いて勝訴した弁護士のブログ「澤藤統一郎の憲法日記」のつい最近の記事「「ヘイト・デマ ニュース番組」の元凶・DHCとの闘いにさらなるご支援をー「DHCスラップ訴訟」を許さない・第99弾」(1月28日)にも、スラップ訴訟をしかけるような人間に対しては、その逆の損害賠償の訴訟を起こすことで決着をつけねばならないことが書かれている。

この記事を通しても分かるように、不当な訴訟に巻き込まれた人々は、ただその訴訟に勝つだけでは不十分なのである。スラップ訴訟にただ勝訴しただけでは、いわれなく被告とされた人々が受けたダメージを消すことはできない。彼らは、不当な訴訟をふっかけられて被告とされた年月の間に傷つけられた社会的名誉、受けた精神的苦痛、訴訟への準備によって奪われた時間、気力、体力などの全ての損失を、原告側から取り返すべきなのである。
 
そうしない限り、スラップ訴訟自体が、悪であり、しかけた人間にも、とてつもない損となって跳ね返ることを思い知らせる方法はない。こうしない限り、カネや権力にものを言わせて、言論弾圧のために、司法の場を悪用して、悪意ある訴訟を起こしたい人々の思いに歯止めをかけることもできない。

杉本徳久氏は、村上密牧師が鳴尾教会にしかけた、初めから勝ち目のなかった、ただ恫喝だけを目的とする訴訟にも、かなり深く関わって、村上サイドを支援して来た。その経過は杉本氏のブログに記されている。

だが、初めから敗訴覚悟で恫喝目的の訴訟をふっかけることは、非常に大きなリスクを伴うことであり、その訴訟を支援した者も、不利益を受ける可能性がある。つまり、村上密だけでなく、村上サイドを支援して、根拠なきデマを広めた人々も、一緒になって賠償請求の対象とされる危険があるのだ。

教会やクリスチャンは、この世の人々と違って、訴えると言われれば、すぐに怯えてひっこむか、あるいは、反駁して、不当な訴訟に勝っても、受けたダメージを取り返すこともなく、何の反撃もして来ない、羊のようにおとなしい人々だと、思われているのかも知れない。もしそうだとしたら、それは事実ではないので、考えを改めてもらわないと困る。

聖書は、悪魔を「兄弟たちを訴える者」と呼んでいる。それは、悪魔がいわれのない罪をおびただしく着せては、クリスチャンを告発することを稼業にしていることを物語っている。あらゆるスラップ訴訟は、まさに悪魔の精神から来るものである。

だが、同時に、聖書は、「訴える者」である悪魔を「ほえたけるしし」にたとえ、この「しし」の咆哮(根拠なき訴え)に、信者はきちんと立ち向かうよう警告している。

「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさいご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。」(Ⅰペテロ5:8-9)

ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります」(ヤコブ4:7)

「ほえたけるしし」のごとく、獲物を求めて教会をさまよい、咆哮によって聖徒らを脅かし、聖徒らを獲物のように捕まえては、泥沼の裁判に引きずり込んで見世物にし、虚偽の訴えによって傷つけ、苦しめるような不届き者は、獣のごとく捕獲されて、教会の外に追い払われるべきである。だが、それだけでなく、そのような者は、聖徒らに不当な打撃を与え、神の国を宣べ伝える教会の使命を不当に遅延させた罪の報いとして、相応の償いを要求されてしかるべきである。

だから、「ほえたけるしし」に脅かされた人々は、牧師であれ、信徒であれ、いわれなくこうむった損害に対して、黙っておらず、きちんと物申した方が良いであろう。そうしなければ、このような連中は、決してその咆哮をやめないからだ。

箴言には次のような御言葉もある。

罪人の財宝は正しい者のためにたくわえられる。」(箴言13:22)

クリスチャンの使命は、悪魔の不当な訴えを反駁して退けることだけにあるのではない。悪魔に「立ち向かう」姿勢が必要なのである。それは、聖徒が、神の義によって、自分自身の潔白を主張するだけでなく、神が贖われた聖徒を訴えた悪魔の有罪性を指摘し、悪魔の不当な打撃によってこうむった損失について、悪魔に補てんを要求し、ダメージを取り返すことを含んでいる。

悪魔から財産を没収して、悪事を働く機会を奪い、これを教会財産として、福音伝道という目的のために用いることは、神の利益にかなっており、罪ではない。

このように、敗訴覚悟でスラップ訴訟を起こすことは、今の時代、自滅行為でしかないのだが、さらに、訴訟さえ成立するかどうかも分からない段階で、気に入らない相手を恫喝して、黙らせるためだけに、「訴えてやる」などと脅しをかけるのは、それに輪をかけてたとえようもなく愚かな行為である。

だが、武蔵野警察は、杉本徳久氏が、相も変わらず、筆者を憎み抜いて、打撃を与えるために、警察にせっついているのではないらしいこと、明らかに、筆者を告訴するなどといった荒唐無稽な脅しは霧消し、むしろ、今は同氏が「早期解決を望んでいる」らしいことを伝えて来た。

特に、筆者に感じられたのは、杉本氏が、もうこれ以上、村上密や、他の牧師たちの仲間とみなされたくないと考え、村上の活動から手を引きたいと願っているらしい様子であった。おそらくは、杉本氏自身が、こんなむなしい反キリストの悪魔的精神に貫かれた聖徒らの迫害運動に関わることに嫌気がさして、それが自分にとってどんなに限りなく不名誉な損失であるかを理解したのであろう。そして、この活動に関わった記録を消し去りたいと望んでいるのであろう。

もしそうだとすれば、それは大変、歓迎すべき事実であって、筆者には反対する理由もないのだが、ただし、筆者としては、できもしない告訴その他その他の脅かしにより、8年にも渡って、脅され続けた年月に対しては、相応の責任は取ってもらうことが条件となる。

杉本氏とのトラブルは、そもそも、2009年の秋に、筆者がたった一件の自分の手で杉本氏のブログに投稿したコメントを削除してほしいと申し出たことをきっかけに始まった。この何でもない依頼をきっかけに、杉本氏は削除に応じるどころか、見ず知らずの筆者に向かって、削除を要求した理由が我慢ならないと、不当な因縁をつけ、それ以来、自分にとって不都合な言論を筆者が発表する度に、中傷や脅しや嫌がらせによって、次々削除を要求して来たのである。こうして、筆者が脅され続けた年月は、なんと今年で8年目を迎える。

約8年間という長きに渡って、できもしない告訴をちらつかされたり、個人情報をばらすと言っては脅されたり、誹謗中傷の弾劾記事を次々と書かれて冷やかされ、病気でもないのに人格障害だと言われ、重症のマインドコントロールを受けているとか、カウンセリングを受けているとか、人間関係についても虚偽の事実を流布され、社会活動をも、執筆活動をも、妨害されて来たのだから、このような他人を深く傷つける行為には、相応の対処を求められて当然である。もし杉本氏に市民としての自覚や礼節の感覚がわずかでも残っているなら、彼は自分の行為に対して責任を取るべきである。

だが、それに応じさえするならば、筆者の側でも、和解は可能である。我らの神は、悔い改めた人の罪は二度と思い返されないと言われる方なので、一旦、書いた記述は取り消せないとは、筆者は考えていない。悪魔にも悪霊にも悔い改めの余地はないが、人間はそうではないのだ。人間は生きている限り、変わり得る存在であり、願わくば、良い方へ変わって、神の和解を受けるチャンスを逃さないことである。

「今日、もし御声を聞くならば、
 荒野で試みの日に
 御怒りを引き起こしたときのように、
 心をかたくなにしてはならない。」(ヘブル3:7-8)

警察は、以上のような思惑を告げると、民事には不介入だが、かといって、筆者の意見に反対するでもなく言った、「あなたの納得のいくようにして下さい」と。

まるで、いたずらでボールを投げて学校の窓を割った悪餓鬼中学生を、反省させるために、学校へ同伴して来た親のようであった。

こうして、筆者に対しては、スラップ告訴も成立しないうちに、杉本氏が筆者について訴えていた「罪状」なるものは、シャボン玉のように消し飛んだわけだが、このことは、筆者に対する神の贖いが正真正銘、完全であることをはっきりと物語っている。

聖書によれば、クリスチャンは、世によって罪に定められるような存在ではなく、まさにその逆であって、クリスチャンこそ、世をさばく存在なのである。

キリストと共なる十字架により、律法によって律法に死んで、神の御前に義とされたクリスチャンは、もはや、この世のどんな法によっても、罪に定められることのない、むしろ、世のすべての法体系を超える、超法的な存在なのである。

だからこそ、パウロは次のように言ったのである、あなたがたは、聖徒が世界をさばくようになることを知らないのですか。世界があなたがたによってさばかれるはずなのに、あなたがたは、ごく小さな事件さえさばく力がないのですか。私たちは御使いをもさばくべき者だ、ということを知らないのですか。それならこの世のことは、言うまでもないではありませんか」(Ⅰコリント6:2-3)

もちろん、クリスチャンも、神の御前で申し開きを求められるので、自分の行動については、何が神が喜ばれることであるかをきちんとわきまえねばならないが、パウロは、クリスチャンは、世から罪に定められるどころか、世を超越し、世をさばく資格のある天的存在であり、さらに、御使いさえもさばく者であると言ったのである。

それほど絶大な権威をキリストにあって付与されて、天的な秩序の中に召されているクリスチャンを、村上密のような人々は、再び、世の支配下に置いて、世の法廷のさばきの下に引きずり出して、世人の目線によって罪定めしようと望んでいるわけだから、これは聖書の御言葉の完全な否定であり、まさに悪魔的発想から来るものとしか言えない。

筆者はこれまで、村上密の主張の根本的な異端性は、同氏の思考における、この世の秩序と、天的な秩序の逆転にあることを、再三に渡り、述べて来た。

つまり、この牧師が試みたように、神が罪赦されて義とされたクリスチャンを、世の法廷に引きずり出して、罪に定めようと試みることは、クリスチャンに適用された神の救いの御業を否定し、人類の罪を贖うために十字架で流されたキリストの血潮の価値を否定し、それによって我々信じる者に与えられたキリストの義を否定することであるから、それは到底、信仰のある者の取る行動でないが、そのような考えは、この世が教会の上に立ち、世が教会の裁き主となることを肯定するものであるから、天と地の秩序を逆転させて、教会におけるキリストの支配を否定して、教会を世の支配下(悪魔の支配下)に置き、悪魔を教会の主人に据えようとするのと同じであり、神に対する反逆の反キリスト的精神からでなければ、決して生まれ得ない発想であることを述べた。

そのようにして、神が贖われて世から召し出された者である教会に、恐れ知らずにも有罪判決を下そうと試み、教会を再び世の奴隷とし、世の支配下に置こうと企む者たちは、反キリストの精神に息吹かれたアイディアを提唱しているであり、しかも、このようなアイディアを、他ならぬキリスト教界の牧師が提唱し、その主張を他の牧師たちが、反対するどころか、黙認し、賛同さえしているのだから、その様子を見れば、キリスト教界というところが、どんなに聖書から遠い、悪魔的精神に毒された場所であるか、また、牧師という連中が、どういう異常な考えの持ち主であるか、おのずと知れようというものだ。

そもそも、この世の社会でも、自分に不都合な言論を繰り広げる人間に向かって、誰彼構わず告訴の脅しをかけまくるヤクザのような人間は、誰からも信用されないのが当たり前で、まして尊敬など受けるはずもない。そのような人間は、公衆の面前でナイフを振り回す幼児と同じく、気のふれた人間として、大人たちによって取り押さえられ、隔離されるだけである。

ところが一体、どうして、キリスト教界では、そんな人間が、いつまでも傍若無人に歩き回り、その乱暴狼藉を周りの人々が黙認し、あまつさえ、拍手を送っているのであろうか。

自分の教団や教会がありながら、教団や教会の規則を無視して、他教会の内政に首を突っ込み、他教会の信徒に密偵のごとく近づいて、他教会やその信徒を法廷闘争に引きり込んで教会を崩壊させるチャンスがないかどうか、弱点を探り出すために、密告を奨励し、チャンスがあれば、スラップ訴訟をしかけて教会に打撃を与え、リーダーを悪者扱いして追放し、信徒を分裂させて弱体化させ、こうして弱体化した教会を自分の教会に併合し、群れを乗っ取ることで、自分の教会を拡大して行く。これらすべてのことを「被害者救済」や「傷つけられたマイノリティへの支援」という正義の旗印のもとに行う。

こういう人間、こういう異常な牧師を、クリスチャンがどうして仲間とみなすことができるだろうか? こんな人間を、もしクリスチャンが「神の家族」の一員、「兄弟姉妹」として自分の教会に歓迎し、さらには、「牧師」として、リーダーとして敬意を払ったりすれば、その人たちの教会の行く末がどうなるか、分からないのであろうか?
 
以上のように教会を荒らし回る人間は、どこからどう見ても、牧者ではなく、ただ羊の群れに紛れ込み、羊を食い散らすためにやって来た凶暴な狼」(使徒20:29)でしかない。聖徒らを法廷闘争に引きずり込んで有罪を宣告することをライフワークとするような牧師は、牧師の名にすら値せず、私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者」(黙示12:10)、「荒らす憎むべき者」(マタイ24:15)、「ほえたけるしし」(Ⅰペテロ5:8)などの名で呼ばれることこそふさわしい。

ところが、こんな似非キリスト者、もっと言えば、悪魔に息吹かれた反キリストの精神の持ち主としか言えない人間が、公然と教職者を名乗り、講壇から信徒に向かって教師として説教し、信徒の献金を集め、それによって自らの生計を立て、あまつさえ、その献金をキリスト教界に内紛を起こして、信徒同士を争わせるために用いている。そして、他の牧師たちがその活動の罪深さを指摘するどころか、同業者だからと、その罪をかばいだてし、喜んでその悪しき教会破壊活動を黙認している。これが、今日のプロテスタントのキリスト教界のあまりにもお粗末かつ悲惨な現状である。

結論から言えば、こんなキリスト教界は、もはや霊的に機能しておらず、とうに終わっている組織だと言って良い。

そういうことになるのは、この教界に君臨・支配している牧師たちのほとんどが、本当の牧者ではなく、むしろ、キリストの栄光を盗んで、自分が神の代理人(いや、本心を言えば神そのもの!)として栄光を受けることを願う、信徒を踏み台にして、自分の名を上げたいだけの偽牧者ばかりだからである。

プロテスタントの牧師制度は、以下に記す通り、根本的に聖書に反する誤った制度であり、このような誤った制度のもとで、教職者となっているほとんどの牧師たちは、残念ながら、羊のために心を砕く牧者から、最もほど遠い人たちで、信徒から収奪した献金と奉仕によって己を養う特権階級としての偽牧者に過ぎず、彼らは「羊の所有者でない雇い人」(ヨハネ10:12)である。彼らは、己の名誉、地位、俸給を目当てとして教会にやって来た、雇われサラリーマン牧者だから、もともと羊を守る気などさらさらなく、村上密のような牧師が現れて、他教会を泥沼の訴訟に引きずり込み始め、羊を中傷し、食い散らすのを見ても、「ほえたけるしし」の脅威から信徒を守るどころか、むしろ、獣の咆哮に喜んで同調し、獣の怒りをなだめるために、気に入らない信徒をいけにえに差し出し、信徒が食いちぎられる瞬間を見世物として楽しみ、獣による蛮行に自ら加わることで、自分も「兄弟たちを訴える者」となり、自ら獣と化すのである。

こうして、多くの牧師たちが、「ほえたけるしし」の咆哮に自ら同調したのは、彼らが村上密と同じように、自分自身を神に等しい存在であるとみなし、聖書の御言葉に逆らうことを罪とせず、教職者である牧師の意向に信徒が逆らうことを罪とみなし、自分に歯向かって来る信徒は、徹底攻撃して引き裂いても構わないという、村上密と全く同じ、恐るべき悪魔的思想の持ち主だったからである。
 
教会内で事実上の現人神と化した高慢な牧師たちにとって、村上密の繰り広げるカルト被害者救済活動は、何ら反対すべき性質のものでなく、むしろ、自分たちの特権的地位を脅かしうる、不都合な信徒を、自ら直接手を下さずに「始末」するのに非常に役立つ、手堅い運動であって、手放せない道具であった。
 
何しろ、この運動は、放っておいても、選ばれた特権階級としての牧師たちの地位を脅かすような告発をする「不心得な信徒」を、次々と泥沼の訴訟や、誹謗合戦に引き入れて、都合よく「始末」してくれるのである。しかも、牧師たちが争いの矢面に立って、自らの手を汚すことなく、信徒同士の争いという形で、この「始末」を成し遂げてくれるのである。

キリスト教界の不祥事が次々と暴かれ、被害者運動のようなものが拡大して行くことは、牧師たちにとっては、常に脅威であった。なぜなら、それはやがてキリスト教界全体への批判の高まりを招き、牧師全体に対する批判となって、キリスト教界全体が揺るがされる事態へと発展しかねない危険を秘めているからである。

そこで、牧師たちは、そのようなことが決して起きないように、一計を案じる必要があった。すなわち、キリスト教界への批判を骨抜きにして、キリスト教界(=牧師たちの特権的地位を守るための砦)を揺るがしうるような、本質を突く批判が、決して信徒の中から出て来ないように、まずはキリスト教界への批判者たちを、「カルト被害者救済活動」という、出来レースのような嘘っぱちの似非改革運動の旗のもとに集めて、牧師たちの監視下に置いておき、他方では、この活動に賛意を示さない信徒、あるいは、この運動から離脱する信徒には、暴徒のような被害者運動の支持者をけしかけて、誹謗中傷を浴びせ、信徒同士の同士討ちに陥れることで、口を封じようとしたのである。

こうして、牧師たちが被害者運動を自らの管理下に置いて、動向をつぶさに監視し、信徒同士を互いに争わせている限り、どこの教会でどんな牧師がどんな不祥事を起こうそうとも、キリスト教界全体が揺るがされることはない。出来レースに過ぎない被害者運動に、キリスト教界への批判を独占させている限り、牧師階級全体に非難の矛先が向くことは決してなく、牧師たちの地位は安泰である。キリスト教界の異端性を真に告発する信徒は、みなこの運動が「始末」してくれる。

こうして、自分たちの特権的地位を守るためにこそ、キリスト教界の牧師たちは、暗黙のうちに、村上密の運動と手を結んだのである。牧師たちは、「神に等しい」キリスト教界の聖職者たちの悪事を率先して暴いたり、牧師制度を否定したり、キリスト教界の欠点を指摘し、その教義に紛れ込んだ異端の要素を暴き出すような、分をわきまえない、小賢しく、不届きな信徒を、全員、抑圧・排除して、言論弾圧するための装置として、「カルト被害者救済運動」を大いに利用し、これを用いて、いついつまでも気に入らない信徒を辱め、脅すことを願ったのである。

こうして、信徒を食い物にして自分自身を養うだけの雇われ羊飼いたちの身の上には、「狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。」(ヨハネ10:12-13)という主イエスの御言葉が、文字通り、成就したのであった。

こうした牧師たちにとって大切なのは、羊(信徒)ではなく、教団や教会で得られる自分の地位、名誉、俸給だけである。それだからこそ、彼らは狼の脅威の前に羊をさっさと見捨て、狼の支配に喜んで屈し、羊を恐怖と暴力で支配し、教会の上に世(悪魔)を主人に据えることに同意したのである。こういう牧者たちの姿は、エゼキエル書で、神が糾弾された「羊を犠牲にして自分自身を養う牧者」たちの姿にそっくりである。

「神である主はこう仰せられる。ああ。自分を肥やしているイスラエルの牧者たち。牧者は羊を養わなければならないのではないか。あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊をほふるが、羊を養わない。

弱った羊を強めず、病気のものをいやさず、傷ついたものを包まず、迷い出たものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力づくと暴力で彼らを支配した。

彼らは牧者がいないので、散らされ、あらゆる野の獣のえじきとなり、散らされてしまった。<…>

それなのに、わたしの牧者たちは、わたしの羊を捜し求めず、かえって、牧者たちは自分自身を養い、わたしの羊を養わない。それゆえ、牧者たちよ、のことばを聞け。神である主はこう仰せられる。わたしは牧者たちに立ち向かい、彼らの手からわたしの羊を取り返し、彼らに羊を飼うのをやめさせる。牧者たちは二度と自分自身を養えなくなる。わたしは彼らの口からわたしの羊を救い出し、彼らのえじきにさせない。」(エゼキエル34:2-10)
 
今日のキリスト教界にはびこる以上のように歪んだ偽牧者たちの姿は、主イエスが地上におられた時に、御子を最も激しく迫害した、律法学者やパリサイ人たちといった宗教的エリートの姿にぴったり重なる。

今日の多くの牧師たちは、自らが、律法学者、パリサイ人と変わらない、歪んだ宗教的エリートとなっていればこそ、自分たちの罪や、キリスト教界の闇が真に暴かれて、牧師階級全体が糾弾されて揺るがされることのないように、策謀を巡らせ、表向きには「キリスト教界で被害を受けた者たちの優しい支援者」を演じながら、その実、キリスト教界への不満分子をことごとく監視対象とし、弾圧することで、批判を骨抜きにし、批判者を駆逐して行ったのである。その際にも、この牧師たちは自分自身が訴えられないために、杉本徳久氏のような人物を、まことに都合の良い捨て駒のような存在として、自分の身代わりに全てのリスクを負わせて争いの矢面に立たせ、存分に利用するほどまでに卑怯・卑劣であった。

とはいえ、その杉本氏も、村上密の繰り広げるカルト被害者運動をすでに見放しているようだから、一時は疫病のように猛威を振るった村上の運動も、もはや事実上は、壊滅し、無と化していると言って良い。

こうして、己を神とみなすキリスト教界の教職者たちが、どんなに寄り集まって、陰謀を巡らして、気に入らない信徒を誹謗中傷し、引きずりおろして罪に定めようと試みても、その計画は成らなかった。今や、信徒はみな次々とこの悪魔的活動から手を引き、神が贖われた信者を再び罪に定めるような不届きな願いを抱いているのは、もはやキリスト教界の牧師たち以外にはいない。

筆者は、キリスト教界はそれ自体がフェイクであって、偽物の教会であることを、これまでずっと書いて来た。プロテスタントの牧師制度は、「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」(Ⅰテモテ2:5) 「しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。」(マタイ23:8)という聖書の真理に真っ向から逆らい、神と信徒との間に、キリストの他に、神の御言葉を取り継ぐための教師としての宗教指導者を、不可欠な存在として置くものであるから、聖書に根本的に反している。

牧師制度は万民祭司という新約の真理を否定する制度であり、制度自体が反キリストの精神の上に成立している以上、こういう制度によって生まれた牧師たちが、神が贖われた信徒を中傷したり、罪に定めようと策謀を巡らし、見世物にして食いちぎったとしても、全く不思議ではない。

牧師制度の忌まわしさは、この制度が搾取にまみれているという点からも、明らかである。プロテスタントでは、聖書の真理を否定して生まれた牧師という忌むべき聖職者階級全体を維持するために、信徒が献金と無償奉仕を続けて、牧師一家を養っている。牧師だけでなく、牧師の妻や子供までも養っている。退職金や、老後の世話までもする。中には、一週間、労働もせずにブラブラしている若い牧師を支えるために、信徒が夜の仕事をする例もある。信徒の奉仕はどれほど長い年月に渡って続けても無報酬だが、牧師だけは一年生でも報酬をもらう。こうした事実に照らし合わせても分かるように、牧師制度とは、結局、教会内の信徒間にもうけられた不当な差別であり、キリスト教の装いをしたカーストであって、牧師は事実上、信徒に君臨する特権階級、宗教貴族なのである。

結局、牧師制度とは、宗教に名を借りただけの、信徒からの搾取と差別の体系なのであり、カトリックの聖職者のヒエラルキーとはまた違った形で、信徒間に差別をもうける、神の御心にかなわない反聖書的な制度である。
 
さらに、プロテスタントの牧師職には、一体、どうして上記したように、神に逆らい、聖書の御言葉を否定して、信徒を食い物にし、恐怖と暴力によって羊を支配する、見栄と出世欲と自己保身の塊のような、人格的に未熟で、どうしようもない考えの持ち主がやって来るのかと言えば、それはただ牧師制度が間違っているだけでなく、牧師になるためのハードルも、あまりに低すぎるからである。

プロテスタントの牧師職に就くためには、一般的に、カトリックのような長い教育訓練は必要とはされない。人手不足や、大した俸給をもらえない事情も手伝って、候補者が少なく、誰でも志願すれば、簡単に牧師になれる。

特に、ペンテコステ運動に属する組織では、状況は他の教団教派と比べても呆れるほどひどく、すでに述べた通り、牧師になるための条件は、本人の熱意以外には、無きに等しいと言って良い。信仰歴も要求されず、場合によっては、神学校での教育さえ受けずに、名乗り出れば、明日からでも、誰でも「パスタ―」になれるというお手軽さである。

そのようなハードルの低い牧師職には、当然ながら、集まる人々の人格的・教養レベルも低くなりがちで、果ては神に出会ったこともなく、救いの確信もなく、神から召しを受けていないことが明々白々な、信仰さえあるか不明の人間が、ただ自分勝手な情熱だけで、献身して牧師になったりもする。あるいは、社会ではどこへ行っても通用しない、到底、教師やリーダーにふさわしくない未熟な人間が、手っ取り早く地位と名誉を求めて献身する。あるいは、カルト団体から強制脱会させられた人間が、マインドコントロールさえ解けていないのに、ただカルトの教義とキリスト教の教義を取り替えて献身する。家庭的に大きな不幸を抱える人間が、自らの抱える精神的問題が全く解決していないのに、問題解決を求める過程で献身したり、あるいは、プロテスタントの多くの教会が繰り広げるお涙頂戴の社会的弱者への支援の対象となったホームレスや、元ヤクザのような人々が、受けた恩義を返したい気持ちから人情によって献身する。あるいは、世襲制の寺のように、たまたま親や親族が牧師だったからと、その息子や娘が二世三世として献身して牧師になる。

神学校は、牧師の卵たちが、自分の将来に有力なコネとなってくれそうな牧師家庭の子女を物色するための結婚相談所も同然の存在に成り果てている。つまり、キリスト教界は、水と霊によって新しく生まれた信者が集まる場所どころか、この世の肉の絆や、血統がものを言う、完全に地上的で世俗的な宗教に成り果てているのである。

こういう得体の知れない不届きな動機で聖職に志願した人々が、社会で切磋琢磨して人格を練られることもなく、ほんのわずかな学びの年月を経ただけで、もうひとかどの教師となって、「先生」と呼ばれ、信徒にお説教を垂れ、信徒が汗水流して働いて得た献金で自分自身を養い、寄り集まって、自分の教会を互いに自慢し合い、ライバル牧師を凌ぐために、教会をどうやってもっと大きくして、献金額を増やすか、日々、思いを巡らせているのである。

一般に、プロテスタントでは、牧師同士の争いは相当にひどいと言われている。牧師たちは、自分の教会の礼拝堂の規模や、信徒や献身者の人数を巡って、絶えず競い合い、教団が事実上の献身者のノルマを課したりして、争いを煽っている。そこで、牧師たちは、互いの成功を妬み合い、陰で中傷し合って、足を引っ張り合うなどは日常茶飯事で、こんな場所で、エキュメニズム運動など、どんなに唱えてみたところで、互いに競い合う牧師たちの間に信頼関係や、協力関係が生まれることはない。

プロテスタントの「多重分裂病」(=牧師たちの争い、教会同士の争い)のひどさは、牧師たち自身も認めており、これこそプロテスタントの致命的な弱点であって、牧師たちの目指す「リバイバル」を不可能にしている最も深刻な原因であるということは、牧師たち自身が、認め、度々、説教などで反省材料として語るほどである。(人間的な確執に加えて、宗派や教義の違いから生じる絶えざる争いもある。)

このように、プロテスタントには、牧師たち自身が、教職者たちの間で争いがやまないことを憂慮している現状があり、インターネットで起きていることは、その反映に過ぎない。要するに、牧師たちの分裂闘争や、妬み合い、足の引っ張り合いが、信徒に飛び火しているだけなのである。インターネット上で、信徒をさらし者にし、中傷することで、誰よりも喜び、鬱憤を晴らしているのは、牧師たち自身なのである(村上密はその代表格に過ぎない)。

筆者は物心ついた時から、プロテスタントを観察して来たので、決して誇張した事実をここに書いているわけではないが、このような状況なので、人格的に高潔で、真実、信仰深い信徒は、どんなに主イエスに従う決意をしても、あくまで信徒のままにとどまり、決して牧師にはならない。謙虚な人間ほど、決して自分から名誉や高い地位を求めないものだが、さらに、聖書が「多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。」(ヤコブ3:1)と述べている以上、多くの信者は、この警告に真摯に耳を貸して、自ら「先生」と呼ばれる立場に立って、格別きびしいさばきに自分をさらそうとは思わない。また、プロテスタントの多くの牧師たちがやっているように、自分の名を大々的に掲げて、正義の旗の下に、お涙頂戴の偽善的な弱者救済活動を繰り広げたり、福音伝道を口実に、奇抜な格好をして世界各国を練り歩き、神の恵みと言っては高価な車を乗り回したりはしない。カルト問題の専門家として、世間で有名になったりすることを目指したりもせず、こうしたすべてのことを売名行為として嫌悪し、忌避する。(筆者がこのブログをペンネームにしているのも、関係者を守るためと、自ら栄光を受けないためである。)

だが、牧師職は、神の目にのみ覚えられるように、隠れたところで奉仕を行う生き方とは正反対の生き方をする人たちが、積極的に手を挙げる職業であり、なおかつ、上記した通り、この職業は、それ自体が、信徒への搾取の上に成り立ち、見えない神ではなく、牧師という目に見える人間に栄光を帰するシステムであるから、この職に志願するために集まって来る人々が、お世辞にも謙虚とは言えない、信徒を踏み台にして出世することを願う名誉欲・出世欲・自己保身の塊のような卑しい人間であっても、何の不思議もないのである。

つまり、牧師制度という聖書に反する制度自体が、教会を腐敗させる根源となっているのである。

だから、村上密の訴えているような「教会のカルト化」は、一部の腐敗した牧師だけの専売特許ではなく、牧師制度そのものが結ぶ悪しき実なのだと、いい加減に、理解すべきなのである。牧師制度という、聖書に逆らい、キリストの栄光を奪って成り立つ、人間崇拝の罪にまみれた制度ある限り、カルト化はやまず、牧師制度そのものの持つ根本的な悪を見ずして、ただカルト化という現象だけをどんなに叩いても、トカゲのしっぽ切にしかならず、一切は無駄なのである。

しかも、牧師が牧師を取り締まることで、カルト化を抑えようという発想なのだから、呆れるようなマッチポンプ、プロレスごっこでしかなく、それは結局、教会のカルト化を取り締まることを口実に、村上密のような野心的な牧師が、他の牧師たちを抑えてキリスト教界の覇権を握りたいがために行われているだけの運動であって、そんな方法では、カルト化は防げないばかりか、教界は前よりもより一層悪くなり、もっと恐ろしいカルト的腐敗に落ち込んで行くだけである。
 
だから、こういう人々の行うカルト取締運動は、上記した通り、本当は牧師制度そのものを温存するために作り出された目くらましの運動であって、牧師階級に属する者たちの利益を守り抜くために作られた出来レースに過ぎないのである。
 
筆者の目から見れば、カルト被害者救済活動などというものが登場して来て、諸教会の腐敗が次々と明るみに出された時点で、これはプロテスタントが役目を終えて、霊的に終焉を迎えていることが、公然と世に示されたという事実を意味する。

かつてマルチン・ルターの登場と共に、ヨーロッパで隆盛を極めたカトリックの組織的腐敗が暴かれ、宗派としてのカトリックの信用が徐々に権威失墜して行き、これに代わって、プロテスタントに信仰復興運動のバトンが預けられたのと同じように、今また、プロテスタントの牧師制度の闇が暴かれ、教会成長論や、ペンテコステ・カリスマ運動のような、教界に蔓延する異端思想が明らかになったことにより、プロテスタントも存在意義を失って、霊的に終焉を迎えつつあるのである。

だから、今後、信徒が真剣に心を砕くべき課題は、プロテスタントの腐敗したキリスト教界をどう立ち直らせるかという問題ではなく、むしろ、このようにまで腐敗したキリスト教界を離れて、牧師制度のないところで、どのように神が贖われたエクレシアとして、神の国の権益に仕え、天的リアリティをこの地においても実際とし、キリストと共にこの地を治め、キリストにある成人になるまで、信仰を成長させるのかを模索することにある。

重ねて言うが、牧師制度という人間崇拝の罪と手を切らない限り、信者が見えないキリストだけに頼り、聖書に基づく信仰の本質に立ち返ることはできないであろう。この教界に身を置いていたのでは、信者は信仰の何たるかも分からないまま、ただ聖職者階級を養うための道具として生涯を終えるだけである。

牧師制度という、人間崇拝・指導者崇拝の罪なる制度を敷くキリスト教界の組織の中で、信者はまことの神に出会うことはできず、真にキリストに従うこともできない。だから、真実、主イエスに従いたいならば、信者は人間の指導者に従うことをやめて、キリスト教界を出て、御霊によって直接、御言葉を教わりながら、見えない神にだけ頼り、キリストだけに栄光を帰する生活に転換するしかないのである。

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統一教会に後押しされる安倍首相が推進する共謀罪が日本経済にもたらす破滅的な委縮効果

統一教会に後押しされる安倍首相が推進する共謀罪の成立が、日本経済にもたらすであろう壊滅的な委縮効果

さて、新年になって、これまで統一教会の機関紙「世界日報」の表紙を何度も飾り、統一教会と密接な関わりがあることがインターネットではもはや周知の事実となっている安倍首相が、またもや国民を恐怖に陥れ、新たに重荷を課すための、悪巧みに満ちた法案を国会へ提出することに意欲を示した。

今月20日から始まる通常国会に、与党自民党はこれまで3回、国会に提出されて廃案となった悪名高い「共謀罪」を法案として提出するという。この法案の成立にとりわけ執心しているのが、他ならぬ安倍首相であることが、ニュースを通しても明らかにされている。将軍様が独裁を完成するためには、必要不可欠な法であるわけだ。

(「<安倍首相>「共謀罪」に意欲 通常国会で提出か」(Yahooニュース掲載 毎日新聞 1/5(木) 20:58配信などを参照。)

だが、共謀罪は、何よりも、統一教会が以前から熱心に成立を推進していることが知られている。統一教会の機関紙「世界日報」においては、2006年の時点で「共謀罪/与党再修正案で成立させよ」(「世界日報」2006年5月14日付社説)との社説が掲載されるなど、それ以来、以下に見るように、今日に至るまで、一貫して、共謀罪の成立に俄然、意欲を示す一連の社説が掲載されている。

統一教会は、ごく最近の社説「共謀罪創設、テロ対策強化に不可欠だ」(「世界日報」編集局 2017年1月07日付社説」においても、「2020年東京五輪・パラリンピックを控え、テロ対策強化は喫緊の課題だ。共謀罪創設法案は過去3度にわたって国会に提出されたが、野党の反対で廃案となった。今度こそ成立させなければならない。」などと、3回の廃案にも全く動じる気配なく、オリンピックにかこつけて、法案成立への強い意気込みを示している。

これを見れば、安倍の共謀罪へのこだわりが、まぎれもなく、長年、この法案成立に執拗にこだわり続けて来た統一教会の野望と一致すること、共謀罪の成立を推し進めているのは、何よりも、政界と結びつき、政治家を陰で操るカルト宗教勢力であることが誰しもよく分かるだろう。

共謀罪という呼び名は、過去3回、廃案となった際に、すっかり世間に拒否反応を呼び起こすマイナスイメージとして定着してしまったので、今回は、東京五輪にかこつけたテロ対策を前面に押し出した、「テロ等組織犯罪準備罪」という名に変更する予定のようだ。

さて、当ブログの以前からの読者には、筆者の立場は、あえて説明せずとも、了解済みの事項であるものと思うが、それでも改めてもう一度、触れておきたい。

当ブログでは、統一教会出身で、現在、プロテスタントのキリスト教界のアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団に属する牧師である村上密が、「キリスト教界のカルト化を取り締まる」という名目で提唱した「カルト監視機構」の危険性を、早い段階から訴えて来た。この監視機構は公には設立されなかったが、村上密はその思想を捨てることなく実行に移し、そして、筆者の危惧した通り、村上密の活動は暴走し、最後にはほとんど無差別的なキリスト教徒の迫害を引き起こしたのである。

最初は「カルト化した一部の教会だけを監視と取締の対象とする」と言っていた牧師が、疑心暗鬼に陥り、途中からは自分の活動に理解を示さない者をすべて「カルトの疑いがある、敵」のようにみなして、インターネット上で支持者などを利用して人格攻撃し、ついには、敗訴も覚悟で、ただ教会に打撃を与えるためだけのスラップ訴訟に及び、自分の活動に賛意を示さないすべてのクリスチャンへの無差別的な迫害に及んだ様子は知られている。同氏の疑心暗鬼の対象は、ついには同じ教団に属して同労していた牧師や、自身が所属しているアッセンブリーズ教団にまで及んだ。

こうして、最初は「カルト(だけ)を取り締まる」と言っていたカルト監視機構の提唱者は、最後には、「自分に反対する者はみなカルト」と考えて、無差別攻撃に及んだ。「カルトを取り締まる」という一見、正しそうに聞こえる牧師の使命感は、最後には信徒の自主的な信仰生活と、福音伝道という教会の本来的使命を著しく害して終わったのである。

安倍の提唱する「共謀罪」は、かつて村上密が提唱した宗教版「カルト監視機構」を、そのまま土台として政治版に書き変えただけのものと見て良い。なぜなら、両者に流れる思想的基盤は、全く同じだからである。

しかも、上記の村上密牧師は、若い時分に統一教会に入信していた経緯があることが知られており、その意味でも、安倍と思想的な基盤が非常によく似ていると言える。そもそも「カルト監視機構」という同牧師の発想は、まさに統一教会流の思考からこそ生まれた発想であり、統一教会で受けたマインドコントロールの影響や、統一教会流の二元論的思考の教え込みが、形を取って表面化したものと考えられる。そして、この発想は、後述するように、もとを辿れば共産主義思想に遡るのである。

だから、共謀罪が成立すると、カルト監視機構を巡ってキリスト教界で起きたような事件が、今度は政治の世界で繰り広げられることになるのは自明の理である。安倍の提唱する共謀罪は、成立すれば、必ずや、村上密の唱えたカルト監視機構の発想と同じように、暴走するであろう。この法案はすでに多数の場所で、数えきれない人々によって、治安維持法の再来だとの懸念が表明されているが、まさにその懸念の通りに、当初は「テロを防止する」(≒「カルトを取り締まる」)という名目を掲げていたものが、必ずや、最後には「全国民」(≒「全クリスチャン」)を無差別的な嫌疑の対象とするであろうことを予測しないわけにはいかない。

共謀罪は、「カルト監視機構」の場合と全く同じように、それを提唱した人間の思考が、完全に悪魔的発想に毒され、狂わされていることをよく物語っている。共謀罪の法案を推進する勢力に、統一教会があるのだから、カルト思考に毒されるのは当然である。

だが、ここから先、今までとちょっと違う論調で記事を書いていきたい。

この場所において、共謀罪の成立に声を大にして反対するのは簡単なことである。「共謀罪は一部のテロリストだけを取り締まる」と言いながら、結局、最後には、全国民を無差別的に迫害する巨大な暴力・抑圧装置となるだろうことは明白だから、絶対に阻止しなければならない」と訴えることはたやすい。

筆者の目から見れば、安倍晋三はすでに村上密とほとんど変わらないパラノイド的思考に陥っており、この法案を利用して、自らの独裁を完成するつもりなのであるから、なおさら、危険である。

だが、この記事は、何よりも、聖書の信仰に基づく分析記事であるから、ここから先、筆者は、共謀罪を成立させてはならないということだけに力点を置くのではなく、共謀罪が成立すると具体的にどういう現象が起きるかについて、共謀罪や、カルト監視機構という発想の生まれる本家本元となったソ連の歴史をも振り返りつつ、それを日本に当てはめて考えていきたいと思っている。

統一教会は、共謀罪(≒カルト監視機構)の土台となる発想を、ソ連の共産主義思想から学んだのである。前にも書いた通り、統一教会の政治組織である勝共連合は、「共産主義の脅威に立ち向かう」ことを旗印に掲げながらも、共産主義国に対抗するために、核武装を含めた、自国の防衛と軍備の強化に関するほとんどの手段を共産主義国から学び、内に取り入れたのであった。

統一教会がこうして共産主義国から学んだ発想の一つが、国家(≒教会組織)を世界革命(≒統一教会の人類一家族理想)の中心となる神聖な母体とみなし、国(≒教会)の転覆を企てた罪(≒教祖や宗教団体に逆らう罪)に対しては、死刑に相当する罰を持って報いる(≒悪魔扱いして教会から追放し、一生呪い、迫害する)という、ソ連が取った反革命分子の取り締まりのために秘密警察を設立するという手法であった。

ちなみに、このようにして、国家や、企業や、あるいは、教団や、教会などの宗教組織、またそれを統治する指導者を含め、人間自身、または人間の作った組織や団体を、何らかのユートピア的理想的共同体社会を到来させるための「神聖な母体」とみなし、組織そのものを絶対化することにより、それを批判したり、逆らうことを「罪」とみなし、反対者を実力行使によって強制的に排除・処罰するという思想は、すべて元を辿れば、グノーシス主義に由来する悪魔的発想である。いう間でもなく、ペンテコステ運動のリバイバルなども同じである。

ちなみに、プロレタリア国家としてのソ連を神聖視するがゆえに、世界革命をもたらす母体となる社会主義国家を転覆させる思想をテロリズムと位置づけ、危険思想を未然に取り締まるための法整備と、反対者を実力行使によって排除するための秘密警察組織を設立するという発想は、ソ連の成立以前から、社会主義思想から受け継がれたものであった。

ソ連における秘密警察は、最初の名称はヴェーチェーカー(反革命・サボタージュ取締非常委員会)であり、革命直後に設立され、それが後に巨大な秘密警察組織へと発展するのだが、この組織は、レーニンが革命のわずか前に著した『国家と革命』の中で、反革命分子としてのブルジョアジーの抑圧のための機関として、青写真が提示されていた。さらに、レーニンの唱えたこの発想も、それ以前の社会主義者の思想にも見られたものであった。そもそも、社会主義革命それ自体が、暴力によって既存の国家秩序の転覆をはかるものである以上、革命を維持し続けるためには、旧体制の支持者を抑圧するための暴力装置が必要になるのは、自明の理である。

だから、筆者が「カルト監視機構はキリスト教界に恐怖政治をもたらす秘密警察である」と述べたのは、まさに統一教会が借用した、こうした社会主義思想のルーツと歴史を踏まえた上での発言であり、村上密が考えたような、夢想のとごとき戯言ではないのである。そして、カルト監視機構についても、筆者の懸念が裏付けられたが、共謀罪にも全く同じ危険が当てはまると言える。

村上密は、カルト監視機構を設立できなかったにも関わらず、その発想を独断で実行に移し、教会内規則や、法を無視して、自らの反対者に対する実力行使としての迫害に及んだのであるから、共謀罪の場合も、成立の可否に関わらず、これを唱えた人間が、自らを神として、自分への反対者をことごとく迫害するために悪用する可能性が十分にあると言えるだろう。

共謀罪は、現存の政府を率いる一人の為政者が、日本版NSCや、秘密保護法などと連動して、自らに反対する者たちをことごとく弾圧・排除するための巨大な秘密警察組織を作り出し、独裁を完成するために打ち出されたという線が濃厚である。オリンピックなどはほんの口実に過ぎない。

プーチンも、ブッシュも、これまでテロとの闘いを口実に、反対者を駆逐し、政治権力を強化して来た。安倍も、いよいよ「テロとの闘い」を口実にして、自らに逆らう人間をすべて「テロリスト」の汚名を着せて、実力行使によって排除できる権限を手に入れる手前まで来ているのであり、これに自衛隊の軍隊への昇格を加えれば、核のボタンを独断で押すことのできる無制限にも近い権限を手に入れて、歴代首相を超える権力を手にすることができる。そして、その背後では政治指導者を操り、これに寄生したカルト団体が己が権勢を拡大するのである。 

実際、ソ連ではスターリンという一人の為政者が、法制度と秘密警察を手足のように駆使して国民への無差別的な抑圧を行ったのであり、共謀罪も同じように一人の為政者によって存分に政治利用されるであろうという懸念が生じるのは当然である。
 
しかしながら、結論から言えば、筆者は、この日本で、仮に共謀罪を成立させてみたとことろで、恐るべき独裁体制を確立し、維持することのできるような体力は、おそらくもう残されていないのではないかという気がしてならない。太平洋戦争の際にも、日本軍が最も計算を誤ったのは、兵士の兵糧だったという。常に国民の体力を無視して無謀な計画に走って自滅するとところが、この国の政府の変わらない欠点である。

安倍はこの国の経済の状態を偽っているため、国の恐るべき貧困化という現状が見えておらず、独裁や、核武装など、みな現実を無視した夢想に過ぎないことが分かっていないのである。今の日本国の経済状態では、これ以上のどんな圧迫にも耐えうる力はないと筆者は見ている。この先、雇用情勢の悪化による国全体の急速な貧窮化と、急速な高齢化、それに加えて原発事故の悪影響による多死社会という要因が、国の体力をあっという間に削ぎ落とすと考えられるからだ。

ソ連も、国内戦の疲弊と一国社会主義の孤立によって貧困化に追い込まれたが、それでも革命を維持することができたのは、徹底的な恐怖政治を強いたことと、反革命・テロリストの汚名を着せて大量に強制収容所に送り込んだ囚人を奴隷的無賃労働に従事させることを経済効果に見込んだからである。我が国に、そこまでのことができるか。無理であろう。高齢化した社会では、囚人の奴隷労働も笑い話である。

さらに、安倍政権には国民全体に貧苦を耐え忍ばせてでもけん引することのできる理想が決定的に欠けている。ロシア革命の際には、社会主義イデオロギーの正しさを本気で確信する人々が相当数存在しており、思想教育によって人々はそれが正しい国家的イデオロギーだと信じていたので、欺かれているとは知らず、心から国家政策に身を捧げる一定数の人々が存在したが、我が国に、あるのは安倍率いる腐敗した政治家たちの卑しい金儲けの願望だけであることが見え透いているので、オリンピックもそうだが、国民感情が着いて来ないし、人々に大志を抱かせるイデオロギーが何ら存在しないのである。

今、我が国政府の要職に就いているのは、クーデター後のウクライナと同じような、犯罪者、ギャング集団ばかりであり、彼らには国を率いて行くだけの知性が存在しない。ロシア革命にはレーニンという指導者があったが、今の日本には唾棄すべき悪魔的思想を率いるのにさえ、ふさわしい指導者がない。クーデターによって犯罪者が政権の座に就いたウクライナは、今やもはや国の形を成しておらず、再生の見込みもなくなっている。

このようなことを踏まえると、共謀罪を仮に与党が成立させたとしても、それを機に自らの権力を絶対化したい人々の思惑とは裏腹に、日本をソ連のような国に変えてしまう効果を及ぼすとは考えにくい。むしろ、共謀罪は、東京オリンピックの高揚感に著しく水を差し、日本経済にも絶大なマイナス効果を及ぼし、日本経済を死滅させる決定打となるだろう。

昨年末に、以下のようなニュースが発表されたことは、まだ我々の記憶に新しいが、国土交通省の調査結果では、日本国民全体の外出率が低下していること、特に、若者の外出率の低下が著しく、過去最低を記録したことが発表された。20代では就業者の外出率(移動回数)が60歳以上の世代を下回っており、20代では、就業者も、非就業者と同様の貧困に見舞われている可能性が高いことを予想させる。

筆者は、若者の外出率の低下が、ネットやゲームの普及によって外出の魅力が失われたせいだとは考えていない。若者の結婚離れなどの現象にも共通して見られるのは、その背景にある、若者世代の貧窮化である。つまり、若い世代ほど、仕事に就いても、低賃金で過酷な労働に従事させられる割合が高く、外出に伴う出費と疲労に耐えられないので、休日にも出かけない、という選択肢を選びがちなのである。
 

約4割が「休日出かけない」 1日の移動回数も過去最低に 国の交通特性調査
gooニュース 2016年12月27日 06:30 から一部抜粋

若者の「移動回数」、高齢者を下回る

 国土交通省は2016年12月26日(月)、2015年度の「全国都市交通特性調査」(速報版)を公表しました。

人がどのような目的で、どのような交通手段を利用して移動しているかなど、人の動きをおおむね5年おきに調査するものです。今回は、調査日に外出した人の割合が平日で80.9%、休日で59.9%、ひとりが1日に移動する平均回数(移動回数)が平日で2.17回、休日で1.68回と、いずれも1987(昭和62)年の調査開始以来、最低の値でした。

 若者の移動回数が減少し、高齢者の移動回数が増加しています。休日における20代の移動回数1.43回に対し、70代の移動回数はそれを上回る1.60回でした。特に20代の非就業者における外出率が大きく低下している一方で、人口が増加している60歳以上では就業者、非就業者ともに移動回数が増加していることがわかりました。(以下略) 

 

この調査結果は、共謀罪などが成立して委縮効果が及ぶよりもはるか前から、我が国の国民の自主的な活動が、すでに死に絶えつつあり、この国に巨大な世代間格差が生じていることを想像させるものである。日本経済は特に何事も起きずとも、すでに今の時点で瀕死の状態にあり、その上、共謀罪が成立すれば、老いも若きも、共に外出を控え、人の多い場所や、人との交流を避けるようになるだろう。

何しろ、スタジアムでうっかり隣の席に座って、気さくに話しかけて来た人間が、実は政府が前々から目をつけていたテロの容疑者だった…、などと後になって判明すれば、自分だけでなく自分の周囲の人々にも迷惑が及ぶ。気晴らしに街を歩いていて偶然、昔の知り合いに会って談義していたら、「あいつはどこそこの喫茶店で疑わしい人物と親しく話し合い、交流していた」などと、自分の全く知らないところで、誰かから密告されたりしても困るからである。

東京五輪などは、エンブレム問題や、競技場問題、招致の腐敗した過程、予算の膨張などのスキャンダルが絶えず、政府や五輪組織委員会や、利権団体による自己満足と非難されて久しく、国民の間では、盛り上がりも人気もない。その上、五輪を名目とする共謀罪が成立すれば、五輪は完全にお上によって強制された「官製行事」になってしまい、国民的人気は死に絶えるだろう。

国民の間では、「五輪を批判しただけでも、お上が思想犯の疑いをかけてくる危険があるから、五輪については沈黙するに限る」という暗黙のお約束事が出来上がり、東京オリンピックは腫物扱いされ、話も絶えて聞かれなくなるであろう。オリンピック景気や、盛り上がりどころの話ではない。国民が無差別的にテロリストの疑いをかけられるかもしれない法が成立しようとしている時に、わざわざ自ら出費して、オリンピック観戦に出向く酔狂な者がどれくらいいるのだろうか。

そもそも、共謀罪が成立すれば、日本国民は、人の集まる公共の場へ出かけて行くことを自ら避けるようになる可能性がある。これは人々の草の根ネットワークを一網打尽にすることで、経済を委縮させる危険がある。こうして、貧困に加えて、思想犯との疑いをかけられたくないがために、人々の交流、会話、出会いが途絶えて、少子高齢化にさらに拍車がかかり、すでにあった自主的なサークルや団体も解散することで、無縁社会が加速化し、日本経済に著しいマイナス効果が及ぶであろうと筆者は思う。

それでも成立にこだわりたい勢力は、強行採決に及ぶ所存なのであろうが、カジノ法の強引な成立と同じく、そんなことをしたからと言って、人気が戻ることはなく、彼らに何一つリターンはない。

さらに、次に、共謀罪の真の目的とは一体、何なのか、ということについて考えてみたい。

一つには、共謀罪は、政府に対する草の根反対運動を委縮させて潰すことが狙いである、ということが考えられる。つまり、この悪法の成立を機に、安倍政権への批判が委縮すること自体が、法案成立を目論む勢力の狙いの一つであるかも知れない。

だが、その他にも、筆者は、共謀罪の真の目的として、「テロリストの嫌疑」を名目とする➀国民財産の不当な没収と、②奴隷労働の強制という事実がある可能性を指摘しておきたい。なぜなら、これは、ソ連では実際に行われた事実だからである。

ソ連においては、革命後のアバンギャルドの高揚などは、ネップの終了と共に、1920年代に終わり、1930年代を迎える頃には、すでにスターリンが権力を完全に掌握して、官僚制に基づく巨大な中央集権的な国家を作り上げていたため、ソビエト国民の間では、政権を批判できない空気が出来上がっていた。国民の間での格差は、開く一方で、20年代の終わりに、強制集団化が行われて農民を含む一般国民は、徹底的な窮乏に陥れられる一方で、官僚が貴族のような存在となって特権的な生活を謳歌し、国民に君臨していた。革命の息吹を直に知っている当時の生き証人は官僚機構から次々と粛清されていた。1934年に祖国への裏切りに関する法が成立し、ソビエト国民は政権を批判しただけでも「国家転覆罪」の容疑をかけられて死刑に処される可能性が生じ、実際に、それに基づき、スターリンの政敵が粛清されて行っただけでなく、その弾圧は一般国民にも及び、36-38年の大粛清の時期には、スターリンの指示により数えきれない国民が「人民の敵」のレッテルを貼られ、無実の罪で大量に逮捕され、死刑や強制収容所送りとされた。その後もソ連が崩壊するまで、国家権力にとって好ましくない人物への弾圧は続くことになる。

ソビエト政権がこのように国民に無差別的に「反革命分子」の汚名を着せて大量逮捕に及んだ背景には、疑心暗鬼による恐怖政治の強化、残酷な見せしめ効果、実際に反対者を抑圧したいとなどの思惑があっただけでなく、もう一つの隠れた目的に、収容所群島と呼ばれる大量の強制収容所網を国内に作り上げて、故意にでっちあげの罪により逮捕して囚人とした人々を収容所に送り込んで、強制労働に従事させることによって、囚人労働によって、国内経済の回復をはかろうとする意図があった。だが、むろん、囚人労働を財源とするという意図は隠され、それは表向きには「労働による再教育」と謳われて、美化された。

ソビエト政権は、たとえ宗教のように「神聖」という概念を用いなかったにしても、事実上、プロレタリアートを神聖視し、労働を神聖視する疑似宗教国家であったので、この国家の疑似宗教理念にそぐわない人間を、当局は、「思想的に再教育」して「矯正する」必要があると考えており、再教育の手段として、強制収容所(矯正収容所)に送り、そこで「奴隷的無賃労働」という懲罰に従事させたのである。

だが、実際のところ、その再教育なるものの本当の目的は、国内戦と計画経済で疲弊したソビエト政権が、国力を回復して世界に向けて体面を保つために、国民をタダ働きさせたい、そのために、どうしても一定数の人々を収容所に送り込んで、懲罰的な囚人労働に強制的に従事させる必要がある、ということに尽きた。

むろん、その当時は、ソビエト政権下で、数えきれない人々がいわれなき罪により銃殺されていたわけだけだから、そんな野蛮な環境で、囚人労働がどれくらい国力の回復に役立ったかは分からず、ただ人類に対する無意味な苦痛と抑圧を増し加えただけと言えるわけだが、このようにして、「労働による再教育」という美名を囚人を意図的に作り出してタダ働きさせる口実として用いた詭弁に、労働というものが本質的に持っている忌まわしさが究極の形で現れているように筆者は思う。

実は、筆者が、現在の日本は、事実上の社会主義国であると考える所以もここにあるのだ。話が脱線するようだが、ここで労働の本質とは一体何なのか、考えてみたい。

当ブログではこれまでにも幾度か、触れたように、筆者は、聖書においては、人間の労働は、もともとは罪の結果としてもたらされたものであり、苦役にも等しい呪われた労役であるとみなされていると考える。だが、罪に堕落したアダム来の人間が、実り少ない労働に従事して、自分で自分を支えねば生きられないという恐怖に絶えず脅かされているのに対して、キリストへの信仰を持つ信仰者は、自分の努力によって自分を生かすのではなく、神が養って下さるという信仰に生きる安全と自由がある。

だが、社会主義者は、労働をどうとらえていたのかと言うと、1917年のロシア革命においても、それ以前の社会主義思想においても、彼らは出発点においては、労働について、以上のような聖書的概念から、それほどまでにはかけ離れた考えを持っていたわけではなかった。つまり、社会主義者の目から見ても、常に解雇の危険に脅かされながら、身を粉にして実りの少ない労役に従事せねばならない労働者は、非常に不憫で気の毒な立場に置かれている可哀想な人々であって、プロレタリアート全体が「虐げられている人々」であるから、それゆえに、救済されなければならない対象だとされていたのである。

それにも関わらず、社会主義国は、気の毒な状態にある可哀想なプロレタリアートを解放するどころか、彼らを救済の対象とすると言いながら、その哀れな状態をより一層強固に固定化し、プロレタリアートを賛美することで、抑圧された人々の抑圧された状態を美化し、ついには神聖視までし、永久不変の人間のあるべき姿にまで高め、そこから自由になろうとする人々に「再教育」を無理強いしてまで、抑圧状態から決して逃がすまいと連れ戻したのである。ここに、我々が目を背けるべきではない、非常に深刻かつ危険なパラドックスがある。

ここには、筆者が当ブログで常に訴えてきたマイノリティの美化に潜む危険があると言えよう。カルト被害者にせよ、障害者にせよ、病者にせよ、同性愛者にせよ、ハンセン病者にせよ、元ヤクザ、元カルト信者にせよ、対象が誰であっても同じなのだが、「虐げられている弱者」を、その弱者性のゆえに美化し、同情し、彼らを賛美する思想というものは、およそすべて、結果的に、以上に述べた通り、人間の罪なる状態と、抑圧そのものを神聖視し、人間を抑圧から解放するどころか、ますます抑圧の枷の中に強固に閉じ込めて行く枷になるというパラドックスが存在するのである。

そうなるのは、こういう思想にとりつかれた人々がみな、人間のあるべきでない「可哀想な状態」そのものを美化し、人間の弱みを神聖視しているからである。実際は、罪のゆえに起きただけの不自然で抑圧された状態を、「罪がないのに犠牲者とされた悲劇の人々」のように美化し、弱者の悲劇に酔いしれ、これに涙を流し、人間を美化しているために、そういう現象が起きるのである。

このようなパラドックスが働くために、本来は、低賃金で重い労役からいつまでも逃れられないプロレタリアートを解放するために起きたはずの社会主義革命が、人間をより強固に奴隷的労働の枷の中に閉じ込めて行く檻となったのである。同じ逆説が、カルト化した教会から信徒を救うと言って始まったはずの牧師による救済活動が、信徒をよりひどいカルトの危険にさらしつつ、無差別攻撃し、教会から抜け出せないようにがんじがらめにして行くというものになるのである。

彼らは「可哀想な人々」に同情の涙を流し、人の弱みに上から助けの手を差し伸べることにより、実際には、抑圧された状態を神聖視し、人の罪や、弱みを美化して、そこから人々が抜け出すことが決してできないように仕向けているのである。この偽りの思想に欺かれた人々は、弱者のユートピアという、決してやって来ることのない嘘の理想郷の夢と引き換えに、自主的にあらゆる権利を放棄して、自己犠牲を耐え、宗教団体に献金をし、無償で奉仕をしたり、果ては奴隷的囚人労働にさえ喜んで赴いて行くのである。

だから、こういう偽りの弱者救済の思想が引き起こす矛盾に満ちた現象は、宗教団体であっても、政治的組織であっても、国家であっても、基本的には変わらない。筆者はクリスチャンであるにも関わらず、地上の組織としての教会は、キリスト不在の、牧師という人間の指導者の統治する悪魔的な場所となっているという見解を幾度も述べて来たが、地上の組織としての教会が教えているのは、「人が救われて神に到達するために精進する方法」である。霊的ヒエラルキーの階段を上り、いつかは神に到達するためにこそ、献金や奉仕や学びが奨励されるのである。だが、それは結局、プロレタリアートの国を作り、労働に励むことで、いつかは共産主義ユートピアが到来すると信じた人々の自己救済の努力と何ら変わらない、人間が自力で救済にあやかろうとする終わりなき努力なのであり、聖書の神の提供する救いに本質的に敵対する悪魔的思想なのである。

だからこそ、人が救われて神を信じるために足を向けたはずの教会が、信徒から法外な献金を巻き上げたり、気に入らない信徒を呪ったり、悪魔扱いして追放したり、障害者や、病者や、元ヤクザや、元カルト信者を看板のように売り物にして、伝道を繰り広げたりするといった、歪んだ組織に成り果てたりするのである。それは、そこで提供されているものが、もともと、自分一人では神を求めることができないと考える弱者の弱みにつけこみ、弱者の心を甘言でくすぐり、彼らを美化し、助け手やるように見せかけながら、彼らをダシに己の権勢と利得を追求したいだけの人々が、神を口実にして、永久に彼らを食い物にするために作り出した偽の救済システムだからである。

だから、そういう組織は、自分一人では、決して救済を求めることができず、一人では生きられず、常に誰かの助けや慰めを必要とする人間が、寄り集まって、互いの弱さをかばい合い、弱さを美化して自己肯定感を得るための場所となっており、そのために、そこに集まった人々は、自らの抑圧された状態を美化し、神聖視して、己が不幸に酔いしれて涙を流し続けるのである。

そのようなことをしている限り、彼らの目指す解放は、絶対にやって来ることのない嘘の約束で終わる。そういう場所で、「神聖視」されているものは、人間の抱える弱さであり、罪であり、被害者意識であり、抑圧された状態であって、自由でも、解放でもない。解放は、未来にやって来るかのように各種の謳い文句として掲げられてはいるが、虐げられた哀れな状態を美化する人々がそれに到達することは絶対にない。

結局、教会にある「教え」とは、ソビエト政権が行った「労働による再教育」とカラクリは同じで、生涯、雇用主との関係から逃れられないプロレタリアートを養成するのと同じように、生涯、宗教指導者から離れられない信徒を養成するための再教育の仕組みである。救いに到達したい(≒自分はまだ救われていない)という弱みを持つ人々に、偽りの救済を提供することによって、いつまでも解決を与えないで、弱みを持つ人々から利益だけを搾り取る仕組みである。だからこそ、そこでは牧師(≒官僚)が特権階級として各種の利益を享受している一方で、平信徒(≒一般国民)は彼らに献金と無償奉仕を貢ぐ存在として、終わりなき精進を求められているのである。

むろん、本来、信徒は信仰を持った時点で、すでに救われているのだから、それ以上、救いを求めて精進する必要などないのだが、「教会を離れれば救いを失う」と脅されているために、奉仕や献金をやめれば信仰を維持できないように思わされ、恐怖のために、そこを出られなくなっているのである。

そして、そんな臆病な信徒たちを騙すがごとくに自らの生活の糧を得る手段として利用している牧師たちは、そんなにも立派な教師や人格者なのかというと、それはない。そのほ多くは、村上密自身が、自らの反対者について書いた批判内容のあまりの一方的な決めつけと根拠の薄さ、感情論を読めば分かるように、自分が批判されることにも全く耐えられないほどの未熟者である。

かつてある人が、プロテスタントの牧師には、人格的に未熟で幼稚な者があまりに多いと語ったが、筆者にも同感できる部分が多々ある。若くして、大した人生経験もないまま、自分の教会を任され、一国一城の主のようになって、自分よりもはるかに年上の信徒から敬われ、誉めそやされながら、人生の早い時期に「先生」として持ち上げられることに慣れてしまえば、高慢になるのは無理もない。牧師家庭に婿養子に入って牧師になった者や、二世三世の牧師が、親の七光りと親族のコネを利用して神学校に入り、二、三年、勉強したというだけで、信徒とは別格の存在となり、自分は神の御言葉を取り継ぐ偉大な聖職者だという自負に落ち込むのだから、自惚れにつける薬がなくなるのも当然である。

そのように幼稚で未熟な人間が、事実上の現人神のようになって、信徒に君臨し、栄光を受けている呪われたシステムの中で、信徒がどんなに奉仕と献金に励んだとしても、そこで神を見いだすことは決してなく、高慢になって罪に罪を増し加えるだけで、救いから遠のいて行く一方であろう。

だから、プロテスタントに少数の潔癖で良心的な牧師が仮に存在したとしても、教職者と平信徒の差別的な階級制度を固定化している以上、教界組織には未来がないと筆者は判断するのである。

さて、労働に話を戻せば、我が国における労働にも、教会と似たような効果があると思われるのだ。筆者は、人が働くことに伴う楽しさもないわけではないと思うが、それにしても、我が国における労働の賛美は異常である。日本にはソビエト社会と同じほど、勤労を美徳として、働くことこそ、まっとうな社会人の証であり、働かない人間は、人間でさえないとみなすような風土がある。ひとつ間違えば、それは自主的な囚人を作り出すための思想教育と同じであり、人間の自由よりも、隷従や、抑圧や、束縛を重んじる本末転倒な思想となる。

そして、見渡せば、我が国の労働市場の現状は、ソビエト政権(あるいは教会)と同じように、人間を組織の存続のために容赦なく選別し、踏み台とし、排除する場となっている。社会主義国が、事実上、プロレタリアートを神聖視していたのと同じように、我が国も、労働者を美化することで、これを永久不変の人間のあるべき姿のように目指していると感じられてならない。

だが、こうして人が自由を奪われて抑圧された状態を、望ましい理想のように掲げている限り、我が国における労働は、年々、ますます苦役としての様相を増し加え、勤労者が不憫で気の毒な状態から抜け出せる日も来ない、と思わざるを得ない。

ソビエト政権は、囚人労働まで使って国力を維持しようとしたが、それで国が豊かになることはなかった。ソ連の貧しさ、発想の貧困は、今でも当時を知る人々の記憶にとどめられている。そういう体質、風潮は、今日のロシアにも残っている。なるほど見かけは街や商品が美しくなったように見えるかも知れないが、ソ連時代に教育されて人々に植えつけられた気質は、そう簡単になくなるものではない。特に、抑圧を美化し、不幸を耐え忍び、自由や解放を自ら拒む精神性は、今でも根強く残っていると感じざるを得ない。

だから、結論を述べると、今回の記事では、共謀罪というものは、筆者の目から見れば、すでにずっと前から社会主義国である我が国が、およそ全ての社会主義国が辿った必然的な過程を進む中で登場して来たものに過ぎない。つまり、共謀罪という法案は、国民の自主的な囚人奴隷労働のシステムの完成のために現れて来たのである。

共謀罪の根底には、国家の威信強化のため、官僚制の維持と、大企業の利益と存続のために、我が身を資材として積極的に投げ出す覚悟のない、プロレタリアートの自覚がない人間は、この国の国民としてはふさわしくないので、財産を没収し、強制労働に従事させたい、という意図があったとしてもおかしくない。歴史上、似たようなイデオロギーを持った別な国ではすでに大規模に行われたことであるから、これを妄想として片付けるのは早すぎるであろう。


・人間の定める恣意的な「罪」の概念に振り回されることなく、キリスト者が小羊の贖いの完全性に確固として立ち続ける必要性

さて、ここから先は、信仰の話に戻りたいが、ネット上で起きる出来事は、現実生活において起きる事柄について、筆者に多くの示唆を与えてくれた。そこから学んだ大きな教訓の一つが、人間の考える罪の概念と、神の定める罪の概念の大きなズレであった。

特に、もし共謀罪などというものが成立すれば、そこで定められる「テロ」やら「罪」の定義は、人間が恣意的に解釈するものとなるため、その結果、この法に基づいて、罪人が罪人を罪に定め、万人の万人に対する告発と闘争のような、醜い泥仕合が持ち上がる可能性がある。

だが、たとえそのようにして、人間が人間を訴え、互いに告発し合う、修羅のような社会が広がったとしても、信仰者に必要なのは、ただキリストの義認の永遠性に立脚して、悪魔のいわれない脅しに毅然と立ち向かう姿勢であると筆者は確信している。

人間による罪の定義は、偏っており、不公平で、不完全である。社会は、人間の心身を傷つけ、人間の気分や名誉を害することだけを罪と呼んで、社会的立場が低い者が傷つけられても声をあげない一方で、社会的立場が高く、人々の尊敬や注目を集め、大勢の味方がいる者が傷つけられる時には、我が事のように立腹し、声を上げる。

人はただ自分の心境がいたく傷つけられ、自分の名誉や利益が少しばかり損なわれたというだけの理由でも、他人を罪人呼ばわりし、存在しない嫌疑をかけて誹謗したり、過剰な報復行為に及んで、集団的に痛めつけたりもする凶暴な生き物であるが、ただ人間が傷つけられたというだけの理由では、本当の意味で「罪」と呼べないことは、聖書の御言葉に立脚して主張して行けば分かることである。

人間は、罪について、どこまで行っても、不公平な定義と判断しかできない。だが、神はそのような見方を全くなさらず、人を偏り見ず、しかも、人間の心証を害することを罪とせず、ご自分の御言葉を曲げることを罪とみなされる。

だから、我々は、真に「罪」と呼ばれるにふさわしいものは、一体何なのか、ということを常日頃からよくわきまえておく必要がある。そのことによって、自分自身の身を守ることができるのである。

特に、聖書によれば、悪魔は「日夜、兄弟たちを告発する者」であるから、信者をあることないこと、日々、訴えることをその仕事とし、よすがとしている。これに対して、信者がただ手をこまねいておとなしくその言い分に耳を傾けているようでは、信者には義認の感覚もなくなり、生きる道すらも残らないであろう。

悪魔に立ち向かいなさい、そうすれば、彼はあなたから逃げ去るだろう、という聖書の御言葉が言うのは、この訴える者のいわれなき嫌疑には、毅然と「立ち向かう」ことが必要だという意味であるが、それは「反駁しなさい」という意味を持つと同時に、「悪魔の有罪性を指摘して追い払いなさい」という意味をも含んでいるものと筆者は解釈する。

人があらぬ告発に対して自分を弁護し、自分の正当性と相手の不当性を訴えようとする時には、一定の技術力が必要である。論戦は、格闘技と同じであり、自分が向き合っている相手の特徴と弱点をきちんと見抜いて、取り組み方を考えることが必要である。

あらゆる戦いには防衛と攻撃とがあり、キリスト者の自己防御のためには、小羊の血潮によって保証された自分の潔白と神の守りを微塵も疑わないでいられる揺るぎない信仰が必要となる。信者の攻撃のためには、信者は、真に神の御前で罪とみなされるものは何か、という事実をきちんと踏まえ、悪魔の有罪性を確信し、これを容赦なく追及して訴え、退かない姿勢が必要となる。この防御と攻撃の両者が上手くかみ合えば、どんな者を相手にしたとしても、信者は揺るがされることはない。

キリストが地上におられた時、立派な宗教家である律法学者やパリサイ人たちは、常に御子を罪に定めようとして論戦を挑んだが、キリストはかえって彼らの有罪性をはっきりと指摘された。

筆者がこれまでの経験から分かるのは、人をいわれなく脅し、中傷し、罪に定めようとするような人間は、多くの場合、彼らこそ良心が汚されており、自分は有罪であるという事実を、心の深いところで知っているので、自らの悪事が見抜かれ、暴かれる前に、自分を訴えることのできる潔白な人間をいわれなく罪に定めることで、自分を守ろうとしているだけである。

だから、彼らの良心がすでに汚されているという事実をこちら側が理解し、彼らの弱点に対して彼ら自身が使っているのと同じ方法を適用して、彼らの有罪性を指摘すれば、ほとんどが退散するしかなくなる。

なぜなら、人の自己弁護は、その人の良心が本当に曇りなく明らかでないと、できないからである。罪人も自己弁護するし、悪事を言いぬけようとする。だが、彼らは良心が潔白でないため、自分に対する全ての有罪宣告をことごとく覆すことができるような信念の持ち合わせはないのである。

罪にとらわれている人間は、罪の奴隷であり、打撃が加えられ続ければ、必ずどこかの時点で妥協する。それが罪ある人間の生まれ持った弱点である。

ソビエト政権下では、スターリンによる大粛清の期間には、秘密警察のそれぞれの地域の組織に、逮捕者数のノルマ、銃殺者数のノルマ、強制収容所送りの囚人数がノルマとして極秘に割り当てられた。各地域の秘密警察は、国民の一定数に不当にテロリストの容疑をかけて、逮捕し、拷問により自白を引き出し、あるいは銃殺するか、あるいは強制収容所送りにするか、これを職務上のノルマとして遂行することを求められたのである。

この大量逮捕を実現するために、国家規模で、国家転覆を目的とした大規模なテロ犯罪の容疑がでっち上げられた。スターリンに好ましくない政界の大物を中心として、大規模な秘密のテロ計画があったことにされ、その末端に位置するとの容疑で、一般国民が大量に巻き込まれて逮捕されたのである。

逮捕された中には学生もいれば、アルバイト中の労働者もいれば、主婦もいれば、教師もいた。全くごく普通の生活を送る人々が、突如、職場で、あるいは自宅で、あらぬ容疑をかけられ、あるいは就寝中の真夜中に秘密警察に踏み込まれ、家族の前で連れ去られたのである。だが、そんな不当逮捕にも関わらず、多くの人々は、身内がテロリストの嫌疑をかけられて、警察に連れ去られたことを社会にひた隠しにした。抗議すれば、自分自身も同じ道を辿るだけであると分かっていたからである。隣人や職場の同僚であっても、苦難を分かち合うのは無理であった。そこで、夫を秘密警察に連れ去られた妻が、勤め先では、夫は愛人のもとへ走って自分を捨てたのだと触れ回った例もある。夫が収容所から戻って来た初めて人々は事実が何だったのか理解した。

逮捕された人々の多くは、過酷な拷問や、心理作戦に耐えられず、取調べの途中で司法取引に応じ、当局に指示された通りの嘘の供述、嘘の自白をして、供述書にサインして、自ら犯してもいない犯罪を認めた。その中には、家族や知人に迷惑をかけたくないので取引に応じたとか、親しい誰かに裏切られたショックに耐えられなかったとか、様々な理由があり、人々の心理を熟知した上で、取調官は、できるだけ早く自白を引き出すために、彼らの尋問に当たったのである。

筆者が不思議に思うのは、もしソビエト当局が、警察に逮捕者、銃殺者、強制収容所送りのノルマを課すなら、初めから有無を言わせず有罪という結果を人々に押しつけることもできたはずであり、なぜわざわざ人を痛めつけ、恐怖を抱かせるという手の込んだ手法を使ってまで、時間のかかる嘘の自白を強要したのだろうか、という点である。そこでは、あらゆる証拠よりも、自白こそ最も有力な手がかりとされたわけだが、容疑のみならず、供述書も、果ては自白すらもでっちあげられる状況で、なぜ彼らは嘘の自白の有無にそれほどこだわったのだろうか。

ここに、明らかに国家権力の側からの一方的な暴力だけでなく、人々がそれにどう応じるかという自主性を確かめる余地がある様子を見る。不思議なことに、人間の人生には、特に残酷な時代には、多くのことが、抵抗できない不可抗力のように降りかかるように見えても、実は、その中にも、一抹の自己決定の余地が残されている場合がある。そして、この一抹の関与の余地にどう応答するかが、人にとって極めて重要な問題なのである。信仰者にとっては、これこそ、悪魔の嘘に対して、どう応答するのかを示すとても良い機会なのだ。

以上のような、ソ連で行われたでっちあげの大規模テロ犯罪の容疑と、それに伴う国民の大量逮捕などという恐るべき出来事は、今日の日本には起きない、と人々は言うかも知れない。だが、共謀罪は、そのような国家規模の捏造された事件を生まない保証はなく、さらに、類似した事件は、はるかに小さい規模で、信者の人生には毎日のように起きている。

信者は、毎日、毎瞬、訴える者の告発や脅かしに対してどう向き合うかという選択を迫られているのである。そして、筆者がここで言えるのは次の通りである。

信者は、本来、自分に効力を持つはずのない、魔法のようにいい加減な他人の言葉を信じず、人間が恣意的に定めただけの不安定な罪の概念をも信じず、永遠に変わらない聖書の御言葉が何を言っているかだけに立脚して物事を考える必要がある。

人間は過ちの多い存在であるが、それにも関わらず、キリストの贖いの血潮の効力が永遠である以上、血潮により頼んでいるキリスト者を罪に定めることのできる者は、地上に誰一人としていないのである。その事実は、信者がそこに立ち続けるなら、信仰を通じて現実世界にまで波及する。これが分かると、キリスト者の生き方は変わるであろう。

筆者は上記で、社会主義国が賛美していたプロレタリアートとは、人間の抑圧された状態であって、労働を賛美する人々は、己の罪なる呪われた状態を賛美しているのにも等しいということを述べた。別の言い方をすれば、己の罪を己の努力によって贖う終わりなき苦役を、彼らは賛美しているのであって、労働とは、人類による決して叶うことのない自己救済の方法なのである。

今日、事実上の社会主義国である我が国においても、同様の思想が奨励され、教会に所属している信者が、所属していない信者を見下して、自分は救われており安全だと誇るのと同じように、正社員になったとか、役員になったとか、理事になったとか、どこの団体に所属しているとか、どんな立派な企業や組織に身を置いて、どんな立場や肩書を持って、どれほどの俸給をもらっているかに立脚して、己の完全性を誇ろうとする者は多い。

だが、そんな彼らの義認は、彼らの所属先が奪われた瞬間に、はかなく消え去るであろう。もともと、人間に過ぎない者が、己の罪を自分の努力によって贖うことはできず、所属団体に尽くしたことによって免罪してもらうのは無理なのである。

だから、生まれながらの罪人は、どのように自己救済の努力としての労働を褒めたたえ、自分を選民だと豪語し、己の権力によって他者を脅かし、踏みつけにしようとしても、もしその人間が、救いを知らない単なる罪人であるなら、あるいは、神の御言葉を知りながら、それに従わない罪人であるなら、彼らは結局、自分の罪の奴隷でしかないのである。

そうである限り、罪の奴隷である人間は、一歩たりともその終わりなき贖いという苦役の外に出られない。たとえ無限大の権力を誇っているかのように振る舞い、どんなに支持者が数多くいても、その強大な権力は単なる見せかけであって、彼は自分自身の罪に束縛されて、そこから自由になれず、罪の中に生き、死んで行くしかないのである。その本質を見抜けば、彼らの限界がはっきりと理解でき、その人々が振り回す恣意的な「罪」の概念による脅しは、嘘のように消えて行くだろう。

だから、当記事では、共謀罪の成立を全力で阻止せよという政治的な主張を述べるよりも前に、悪魔的思想に息吹かれた人々が、どんなに無実のクリスチャンを訴え、迫害しようと願ったとしても、クリスチャンには、これを超越するだけのキリストの義認がある、という事実を語ったのである。共謀罪などというものが成立しようとすまいと、小羊の血潮の過越の中にある信者には、悪魔は手を触れることができないのであり、かえって、聖徒を罪に定めようとする人間の方が、それによって罪に定められることであろう。共謀罪が想定する罪状が千になろうと、一万になろうと、それは変わらない。

もともとあらゆる法体系は、人間の良心から出て来たものであり、書かれた文字が全てなのではない。法には、それを超える人間の見えない良心の体系が存在する。最近、イタリアの最高裁では、飢えた者が少量のパンを盗んでも罪には当たらないという判決が出されたそうだ(「「飢えた時、食べ物を少し盗むのは罪ではない」イタリア最高裁の判決とは」 ハフィントンポスト 更新: 2016年05月12日 12時35分 JST )が、それもまた、法の適用にはどんなものであれ、例外が確実に存在することと、法とは本来的に、人間の良心に照らし合わせて解釈すべきものだということを表しているに過ぎない。

そして、人間がどんな悪法を定め、どんなに厳格にそれを人々に適用しようとしても、それは決して律法以上の効力とはならない。この律法による罪定めをキリストは廃棄して、ご自分の霊を通して、律法を信じる者の心に焼きつけたのであるから、この律法によって裁かれ、律法に対して死んだキリスト者は、もはや律法によって罪定めされない自由を持っているのである。だから、キリスト者こそ、本当の意味で、この世の法体系を超える超法的な存在なのだと言って良い。地上にどんな法があっても、キリストに連なる信者を罪に定められる法は事実上、存在しない。小羊の贖いの義認は、この世の全ての体系を超えるのである。

逆に、懸念されるのは、カルト監視機構に賛成していたような教会の行く末である。もしもこの先、キリスト教が「政府に逆らう危険な宗教」と認定されて、信者が教会に集うこともできなくなれば、「教会を離れれば救いを失う」などと言っていた信徒たちは、どこへ行くのであろうか。何しろ、エキュメニズムなどというものが存在する教界であるから、その日には、彼らは「神はキリスト者だけの神ではなく、統一教会の信者の神でもある」などと言って、統一教会にも喜んで合流して行くかも知れない。


人間の指導者崇拝という偶像崇拝の罪と手を切ることこそ我が国の主権回復の道――安倍による宮中クーデターとトランプ・プーチン賛美者を待つ暗い未来――

・安倍政権が宮中で繰り広げるクーデターと、2017年も終わらないであろう米ロの対立
 
2017年が始まった。今年に予想されるいくつかの問題について述べておきたい。

まず、安倍政権による天皇の政治利用の問題と、米国におけるオバマからトランプへの政権の引継ぎが本当に順調に行われるのか、それによって米ロ関係に緊張緩和が訪れる可能性があるかどうかという疑問から入ろう。

筆者はオバマ氏がこのまま政界から引退することがあるのかどうかに疑問を持っている。すでに他所でも指摘されているように、大統領選前、ヒラリー・クリントン、トランプの両氏が候補者として様々なスキャンダルの疑惑と非難にさらされる中、オバマには不思議なほどスキャンダルがなく、安倍に真珠湾詣でをさせたことなどにも見るように、最後の最後まで、政治家として一定の功績を挙げた。

むろん、筆者はオバマの政治手法を評価しているわけではない。広島訪問の際のオバマ氏の空虚な演説内容によく表れているように、それは単に政治家としての表面的なパフォーマンスに過ぎず、同氏の人間的な資質や誠意や良心などといった事柄とは全くかけ離れた次元の話である。

それでも、国内で大きな反乱を経験せず、最後まで比較的クリーンに見える功績を積み上げたことは一つの成功と言えるであろう。それが、ただ任期が終わったというだけで、政治の舞台から退場して消え去るとは、筆者には思いがたいものがある。

他方、トランプは選挙中から人種差別的・性差別的な偏見に満ちた様々な発言が取りざたされて、相当に偏った狭量な思想を持つ人間であることが明らかになっており、最近も、ツイッターで新年のあいさつと称して爆弾発言をして非難を浴びていることなどにも見るように、その思想的狭量さは本人の人格の深い所に根差すものであって、単なる選挙中の受け狙いのパフォーマンスではないと考えられる。

このような人間が大統領に就くことは、米国国民にとって決してプラスとはならないと筆者は確信するが、とりわけ、この人間に黙って道を譲ることは、オバマにとって、自分の在任中の功績を全て無にするにも等しいだろうと思われる。

オバマ自身が、もし自分が今回の大統領選に出馬していれば、ヒラリー・クリントンとトランプの両候補を凌ぐ功績を残せただろうと語った事実にも見るように(「オバマ氏「私なら勝てた」 クリントン氏批判」毎日新聞2016年12月27日 10時50分(最終更新 12月27日 12時55分)参照)、ひょっとすると同氏にはこの先も何か仕事してやろうという思いがある可能性が否定できない。そういう意味においても、米国の今後は予想不可能な要素に満ちている。

さて、安倍はプーチン訪日の際に、経済協力と称してロシアに無償で国富を提供する約束をしたことにより、領土問題の解決をさらに遠のかせただけでなく、真珠湾訪問では、日本やアジア諸国の戦死者をよそにして、米国の戦没者だけを讃え、慰霊することによって、太平洋戦争を正当化したいという自分の思想を脇に置いても、オバマの引退のための花道を整えるという属国首相ぶりを発揮した。

安倍はその際、パールハーバーで犯した罪の前に頭を垂れるという「屈辱感」から目を背けるためであろう、自分の卑屈さを、天皇に転嫁して話をすりかえたのであった。すなわち、安倍は、今上天皇が、被災者を含め、日本人の苦しみの前に膝をついて耳を傾ける姿を「卑屈」なものとして揶揄することによって、自分は、天皇のように日本人のために跪いたりせず、むしろ、米国人の前に膝をつくのだから、天皇以上の存在である、と、暗黙のうちに、安倍以外の人間には誰も納得できないような、ねじ曲がった理屈によって、パールハーバーを訪れねばならない内心の屈辱感から目を背けようとした。天皇に対して上から目線で接することにより、自分は天皇に「模範を示した」と考えていたものと思われる。

(「生前退位で天皇の意向無視した安倍首相が親しい政治家の前で天皇を茶化す発言! 天皇は誕生日会見で何を語るか」LITERA 2016.12.18.参照)

実際に、安倍は自分をすでに天皇を超える存在とみなしているものと思われる。それが証拠に、自分の息のかかった人物ばかりを集めた有識者会議で、今上天皇が表明した生前退位に関する希望を、一代限りに限定し、皇室典範の改正を拒むことで、事実上、退けてしまった。それも憲法改正という自身の野望の実現に向けてスケジュールを乱されないための策であり、同時に、国家神道の復活にとって障害となりうるような皇室典範の改正を拒むためであったと見られる。

それに加えて、今年は、天皇の新年のあいさつもとりやめになった(「天皇陛下、新年の感想取りやめ=年末年始の負担軽減で-宮内庁」JIJI.COM 2016/12/26-15:32等参照)。

巷では、これについて「天皇の負担軽減のため」という公式説明をほぼ誰も信じていない。今上天皇の新年のあいさつとりやめの事実は、生前退位に関する天皇の意向をNHKが突如スクープした時と同じように、国民の間では、内閣による陰謀として受け止められている。そこでは、➀安倍が自らの政治思想とははるかに隔たりのある今上天皇から発言の機会を奪うために口を封じ、この先も、天皇からは徹底的に出番を奪う気だ、という説と、②天皇自らが安倍に対する無言の抵抗として、自らあいさつを控えたのだ、という二つの観点が論じられている。

だが、今回は、ネットを見る限りでは、➀の観点を支持する人々が圧倒的に多いように見受けられる。LITERAの以下の記事などは明らかにその立場に立っていると言えよう。(「天皇が「主権回復の日」に「沖縄の主権は回復されてない」と異議を唱えていた! 安倍政権に奪われる天皇の発言機会」LITERA 2017.01.01.)

いずれにしても、安倍と天皇との間でバトルが繰り広げられていることは今やほとんど誰も否定しない周知の事実となっている。そして、安倍が着々と今上天皇の意向を退けながら、自分自身が天皇以上の存在であるかのように傲慢に振る舞い、宮中をも自らの勢力下に置きつつあることは、あらゆる事実から察することができる。

当ブログでは前々から予測して来たことであるが、安倍政権の目論見は、巧妙に今上天皇と現皇太子(徳仁)から力を奪って、いずれ秋篠宮家を担ぎ上げて将来的には悠仁を天皇の座につけることにあるだろうと予測する。なぜなら、それによって、安倍政権は今上天皇にしたたかに報復できる共に、最も操りやすい天皇を手に入れることができるからである。仮に現在の皇太子徳仁が天皇に即位したとしても、安倍政権は、その在位を短期間に終わらせるか、実質的な権力を初めから秋篠宮に与えようとしていることが予想される。そのための「皇太子待遇」である。

秋篠宮さまを「皇太子」待遇…「退位」特例法案」(YOMIURI ONLINE 2017年01月01日 12時02分)

上記記事は、タイトルを見ただけでも、安倍政権が今上天皇の「生前退位」の意向を利用して、「退位」と「皇太子待遇」を引き換え条件のようにして、自らに有利な形で皇室に介入を試みている様子が理解できる。

筆者は以前から、佳子様ブームなるものも、秋篠宮家に注目を集めるために意図的に作り出された現象であって、安倍政権の目論見は、今はほんの子供に過ぎない人間(悠仁)を将来的に天皇の座につけることで、天皇を完全に内閣の奴隷、政権の操り人形とすることにあるものと語って来た。
 
そうした懸念は、現在、至るところで表明されており、何ら珍しいものではない。たとえば以下の記事の中には、読売の記事で発表された特例法案に対する分析と批判が詳しく書かれており、今回、内閣が行おうとしていることの恐ろしさが見て取れる。詳細は記事を読んでいただきたいが、要点は、今回の変更は天皇家の三代にまで及ぶものであるにも関わらず、これを憲法と皇室典範の改正という正式な手続きを経ずに、政府が「一括」の特例法案で済まそうとする目論見の恐ろしさ、そこに隠されたやましさである。
  

生前退位特例法案(「一括」という罠)自民党憲法改正草案を読む/番外62(情報の読み方)」詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)2017-01-01 10:42:19 から抜粋
   
 安倍は「ていねい」に審議することを嫌い、すべて「一括」ですまそうとする。そこに多くの「隠し事」がある。
 秋篠宮の経済負担を軽くする(皇族費を値上げする)といえば「聞こえ」はいいが、その背後にどんな思惑が動いているか、見過ごしてはいけない。
 さらに「18年中の退位を視野」というのは、天皇を18年中に退位させ(邪魔を取り除き)、19年には憲法改正を推し進めるというスケジュールを安倍が組んでいることを語っている。安倍の暴走はますます加速している。


安倍の押し通した解釈改憲の時もそうであったが、このように、常に規則破りな形で、自分が超法的な存在ででもあるかのように、法を骨抜きにして、あるいはないがしろにして、己が意向を無理やり押し通そうとするのは、異端・グノーシス主義者の常なる行動である。グノーシス主義は「秩序転覆の霊」だから、そのような思想を持つ人間は、必ず、何事においても、秩序を破壊して行動する。まだ現在の皇太子が即位もしていない今から、秋篠宮をあたかも皇太子と対等であるかのように扱うニュースを発表させるなどのことも、まさに秩序転覆の思想がなければ出て来ない発想である。

しかしながら、ロシアのSputnikなどは、安倍政権のこの卑しい目論見に便乗し、勝ち馬に乗ろうとして、今上天皇の新年のあいさつがとりやめになっただけでなく、来年からは一般参賀もなくなるであろうと、すでに今上天皇を完全に過去の人のように扱う記事を出している。「今日、天皇陛下の最後の新年一般参賀であろう?」(Sputnik 2017年01月02日 07:59)一応、疑問符はついているものの、実際には、もはや今上天皇は安倍の言いなりになるしか道はないと見透かして、今から今上天皇にさよならを告げているのである。常に強い方へばかり簡単に寝返るロシア人の精神性が見事に表れている記事と言える。

しかしながら、こうしたことがあっても、筆者は長期的な展望に立てば、このようにまで安倍政権が暴走して、天皇を再び、内閣の奴隷として政治利用しようとしていることは、将来的には、マイナスにならないと考えている。なぜなら、このようなことをすれば、安倍政権の倒壊と共に、必ずや、天皇制自体の廃止が訪れるからである。ここまで極端な天皇の政治利用が行われなければ、天皇制は今後も平和裡に我が国に存続した可能性が高いが、安倍政権の暴走が決定的な負の事件として歴史に刻まれることにより、やがては天皇制にも終止符が打たれるのである。

本当は、今上天皇により「生前退位」の意向が表明された時点で、この国の天皇崇拝者にとっては「太陽がお隠れになった」のであり、天皇制についてはすでにパンドラの箱が開かれたのである。国民は天皇の苦悩を理解しており、天皇制は国民の前に意義を失っている。この国の「神」(むろん、天皇崇拝者にとっての神)は、この国を精神的な象徴として統治する仕事を自ら放棄したいと望んだのであるから、この国は偶像にさえ見捨てられ、末法のような闇の世界となったのである。

従って、天皇自身がこうして「お隠れになった」以上、今上天皇の退いた後の空席を誰に譲り渡し、誰を後の天皇や摂政に据えてみたところで、この見捨てられた国には日は再び昇らず、この国を統治することは、その人間にとって栄光となるどころか、むしろ、とてつもない重荷となるであろう。末法と化した世を収束させるためには、天皇制を廃止し、安倍政権を終わらせるしかないが、多少、先走って言えば、安倍は必ず最後には、祖父の負うべきであった罪を自ら負って果てるであろうと筆者は予測している。ちょうどヒトラーの最後のようなものだ。全ての事柄について常に規則違反を繰り返すヤクザ・博打・軍国主義政権の指導者には決してまともな最期は来ない。
 
さて、安倍の真珠湾訪問に話を戻せば、オバマに花を持たせることで、属国の卑屈さをこれでもかと見せて、安倍が拙速なトランプ詣でのお詫びをしたにも関わらず、真珠湾での安倍の表情は写真で見ると、どれもこれもプーチンと共にいた時とは比べものにならないほど暗くさえない。顔は悲愴感に歪み、やつれている。それはただ単に慰霊のための演技とは思えず、この真珠湾への訪問が、安倍にとっておよそ報いのないものであったことをよく物語っていただろう。
 
安倍が真珠湾で見せたこのやつれ具合は、何よりも、オバマから受けた精神的苦痛のためと思われる。おそらく、オバマには安倍のお追従が全く通用せず、憎悪にも近い嫌悪感をあからさまに向けられていたのであろうと推測せざるを得ない。そう思っても不思議ではないほど苦り切って困り果てた表情である。
 
死を前にした病人のようなこのひどい表情は、安倍が一方では米国との同盟関係を強調しながら、他方では、トランプとプーチンに拙速に媚を売ったという、理念と礼節の欠如した安倍の八方美人外交に対して、オバマから非常に手厳しい「お仕置き」をされたことの証明であるように思われてならない。

オバマは、安倍が拙速なトランプ詣でをしただけでなく、米国に先んじて、プーチンとの「仲良しごっこ」を世界に見せつけて自慢し、制裁を受けている最中のロシアの大統領に手柄を与えたことを、決して内心では許さなかったものと思われる。そこには、もしかすると、初の黒人大統領としてのプライドもあったかも知れない。
 
ABE OBAMA

写真は以下から転載。「安倍首相の前に現職首相3人が真珠湾を訪問していた、外務省が確認
 The Huffington Post    |  執筆者: ハフィントンポスト編
投稿日: 2016年12月26日 18時51分 JST   更新: 2016年12月26日 18時51分 JST

「真珠湾、安倍」の画像検索結果

写真は以下から転載。「安倍首相を敬語で讃えるワイドショーキャスター、真珠湾訪問報道の違和感-「ポスト真実」支えるメディア」志葉玲  | フリージャーナリスト(環境、人権、戦争と平和) YAHOO!JAPANニュース 2016/12/28(水) 20:49 
 
何しろ、口にするにも値しないほど愚劣極まる発言のため、我が国でさえ、すでに人々には忘れられている可能性が高いが、自民党のさる議員が、昨年に次のような発言をしたことも、当然ながら、オバマの耳に入っていたに違いないと思われる。安倍の軽はずみな行動は、まさに以下のような人種差別的な思想が、安倍の心の中にも存在している可能性を、改めてオバマに想起させた可能性があるだろう。
 

丸山和也議員、オバマ大統領についての「黒人奴隷」発言を謝罪

CNN.co.jp 2016.02.19 Fri posted at 13:52 JST から抜粋

丸山議員は17日の参院憲法審査会で、「いまアメリカは黒人が大統領になっているんですよ。黒人の血を引くね。これは奴隷ですよ」と発言した。

この発言は日本の憲法改正を巡る論議の中で飛び出した。丸山議員は米国の「ダイナミックな変革」を引き合いに出し、「アメリカの建国、あるいは当初の時代に、黒人、奴隷がアメリカの大統領になるなんてことは考えもしない」と力説していた。

<中略>

オバマ氏は初のアフリカ系米国人の大統領だが、奴隷の子孫ではない。父はケニア人、母はカンザス州出身の白人だ。

丸山議員の発言は人種差別的と見なされ、審査会後の記者会見で同議員は「誤解を与えるようなところがあった」として謝罪した。<後略>


オバマはトランプのように表立って相手を罵り、踏みつけにして勝ち誇ったりはしないが、自分が「歴史の舞台から消えゆく人間」として存在を軽んじられたことに黙ってはおらず、静かに怒りを表明し、大統領として残された時間を使って、対ロ制裁強化という「最後っ屁」を放ち、自分をないがしろにした安倍やプーチンやトランプへの置き土産とした。(「オバマ政権、対ロシア制裁発表へ 米大統領選への介入めぐり」CNN.co.jp 2016.12.29 Thu posted at 12:46 JST等参照)。

そこで、2017年の米ロ関係は緊張関係で幕を開けることになるが、それでも、世には未だトランプ大統領の出現によって米ロ関係は緊張が緩和されるという楽観的なムードが漂っている。だが、筆者にはそのように単純に物事が運ぶとはどうしても思えないのである。
 
米ロの二国は、この先、どんなに歴史が進んだとしても、仮想敵国同士の立場から解放される道はないであろう。その点で、天木氏の以下の見解に、筆者はかなり同感する。それはロシアという国が持つイデオロギー本質がもたらす当然の結果である。

そして、その対立は必ず、日本にも波及する。つまり、ロシアが日本にとって真に友好国となることは、多分、この先も決してないと筆者は見ている。だから、安倍が勇み足でトランプとプーチンの二人に媚を売ったことは、全く愚かしい徒労にしかならず、この先も頭痛の種をさらに増やすだけに終わるのではないかと思う。
 

最後に凄みを見せたオバマとひとたまりもないプーチン
2016年12月31日 (天木直人氏のブログから抜粋。)

(前略)
 そして、米国にとって、ロシアは今も昔も、価値観が最も異なる潜在敵国なのである。

 今度の対ロ報復制裁措置は、弱腰大統領と言われ続けてきたオバマ大統領が最後の最後に見せた、プーチン大統領に対する必殺のカウンターパンチだ。

 そして、それはまた同時に、オバマ大統領のレーガシィを全否定しようとするトランプ氏に対する、これ以上ない重い置き土産だ。

 トランプ大統領は、みずから繰り返す米国の国益ファーストと、プーチン大統領のロシアとの関係構築の間で、また裂き状態で出発することになる。

 そして、わが日本の安倍首相は、トランプの米国とプーチンのロシアの間で、また裂き状態となる。

 最後まで、オバマ大統領は安倍首相にとって相性の悪い米国大統領だったということである。


ロシアはしたたかで、プーチンはこの程度のことでは動じない。だが、筆者は、もしかすると、オバマと安倍との因縁は、今回限りで終わらないという気がしている。この先、安倍政権の暴走にどのような形で終止符が打たれるかは分からず、誰にも未来のことは断言できないが、安倍に引導を渡す役割が、政界に返り咲いたオバマになる可能性も、完全には捨てきれないような気がするのだ。いずれにしても、ロシアとの融和を唱えてトランプとプーチンを浅はかに支持した者たちは、間もなく馬鹿を見させられることになるであろう。

さて、ロシアという国のイデオロギー的本質の問題に関してであるが、筆者は以下の一連の記事において、ロシアは共産党政権が崩壊しても、未だ共産主義思想のままなのであり、それはこの先も決して変わらないという見解を述べて来た。そうである限り、ロシアはいつまで経っても、思想的に危険をはらむ国のままであり続けるのであって、我が国がそのような国を信頼することは不可能である。
 
これとほぼ同じ見解を、筑波大学名誉教授の中川八洋氏がブログに記している。同氏のブログはつい最近拝見したばかりだが、その論調は檄文かと思うほどの激しい非難に貫かれていたため、筆者はこれを最初に読んだ際には、学者の見解だとは思わなかったほどである。

しかしながら、よく読んでみると、その内容は、国際政治学、政治哲学の観点から書かれたものであり、相当にロシアという国の歴史や文化に迫って、この国の本質を解明しようとしていることが見えて来る。ロシア人とロシアという国を実際に知っている人間には、痒い所に手が届くように、うなずけるロシア批判なのである。

中川八洋氏は上記のブログで、この度の安倍・プーチン会談の合意を、日本の国益を著しく損なう売国行為として厳しく非難しているが、筆者にとって、何より興味深いのは、同氏がそこで、ロシアという国において、共産主義思想は、ただソ連時代だけに限定して一時的に国家イデオロギーとされただけのものではなく、この国と本質的に一体不可分の精神的基盤をなすとみなし、それゆえ、ソ連崩壊後の新生ロシアも、事実上の共産主義ソ連の延長であるとみなしている点である。こうして、ロシアは今でも思想的に共産主義のままであるゆえに、ロシアと日本との間には、いかなる友好・信頼関係も、決して発生し得ないと結論づける点には、筆者は同感する。

このような説を学者が唱えているとは予想しておらず、それゆえこれが学説としては批判を受けるであろうことも理解できるが、このような見解は、以前に筆者が当ブログで他所の引用をしながら述べたのとかなりの部分で一致しており、国際政治学者でさえ、現在のロシアを共産主義時代の延長とみなしているというのは、大変興味深い。

筆者の見解では、すでに述べたように、ロシアにおける共産主義思想は、1917年革命によって初めてロシアに公に取り入れられたものでは全くなく、それはナロードニチェストヴォなどにも見るような、ロシアの初期の社会主義思想から受け継がれて、その思想が変化したものに過ぎず、そうした思想の起源はさらに古くは、正教の宗教的メシアニズム、より古くはキリスト教導入以前の異教信仰(グノーシス主義)に求められる。要するに、社会主義思想もまた、ロシアにもとからあった異教的精神を土台として移植されたものなのである。

筆者は、「母なるロシア」を神格化する母性崇拝の思想こそ、ロシアの精神性の核となる土着の異教的信仰であり、これが歴史を通じて、ロシアの真の宗教、真の政治思想を形成していたものと見ている。キリスト教や、共産主義といったものは、みなロシアのこの土着の異教的信仰の上にコーティングされた表層に過ぎない。この国の根底に流れるものは、昔も今も変わらず「母なるロシア」への信仰なのである。これは、本質的にはグノーシス主義の変種であり、母性崇拝(=人類の自己崇拝)の思想なのであるが、ロシアのこの異教的本質は、強制的なキリスト教の移植によっては変わらなかった。革命と同時に、表層に過ぎなかったキリスト教の仮面はあっさり脱ぎ捨てられ、代わりに共産主義が表層に移植されたが、それもまた表層だけのことであり、ロシアの本質はずっと異教的精神性のままであったが、ソ連崩壊後に、共産主義の表層が取り去られた時に、内側にあるこの異教的本質が「強いロシアの復活」というスローガンになって表に出て来たのである。

だから、筆者が、ロシアは今でも共産主義国だと言うのは、何もマルクス主義に限定した話ではなく、もっと深い意味で、ロシアの本質が、国家(及び指導者たる人間)を賛美・神聖視する母性崇拝の思想にあり、この国が国家を神聖な世界救済の母体とするメシアニズムの思想に貫かれていることを広義で言い表したものに過ぎない。ロシアのマルクス主義においては、世界初の社会主義国家であるソビエトが、全世界に共産主義ユートピアをもたらす母体として事実上神聖視されたのであるが(しかし、その母体は、望まれた子を生むことなく、むしろ子を食い殺して自分が永遠に存続しようとした)、「母なるロシア」の思想に流れるのも、ロシアが世界を破滅から救う神聖な母体だという思想である。そうした思想は、決して宗教や政治思想の形をとってはいないが、これまでのロシアの国家イデオロギーは全てこの「母なるロシア」を神聖視する異教的信仰が、キリスト教や共産主義を含む多くの異なる思想と合体•混合して生まれたものである。現在のプーチンの「強いロシア」に源流として流れるのも、ロシアそのものを神聖視する異教的信仰なのである。こうした思想があるゆえに、ロシアでは国家指導者が、事実上「母なるロシア」と神聖な結婚の関係にあるものとみなされ、その人物の意向が、国家の意向と同一視され、神格化されるのである。
 
そして、このロシア賛美という母性崇拝の思想の本質は当然ながら、人間を神とするグノーシス主義である。もともとグノーシス主義は、様々な宗教や哲学の中にもぐりこみ、そこに寄生することで知られている。ロシアでは、それがキリスト教や共産主義の中にもぐりこみ、息づいて来たと共に、ソ連崩壊後にもこの国の精神的基盤をなし続けているのである。

だから、ロシアという国が、思想的に大いなる脅威だと筆者が言うのは、この国が本質的にずっと「母なるロシア」こそが世界を救うというメシアニズム信仰に立ち続けているためである。これは統一教会や国家神道やペンテコステ運動と同じく、世界救済の思想であり、言い換えれば、世界征服の野望を示すものでしかない。

ところが、我が国の世論の一部も、このようなロシア美化、ロシア賛美を疑うこともなく取り込んで、すでにかなりの割合、ロシアのメシアニズムに毒されている。たとえば、ネット上では、プーチンを「米国という巨悪と対立して、NWOと勇敢に戦う善人」のように描こうとする意見があるかと思えば、プーチンが日本の国家主権を危ういものとして、「あなた方はどの程度自分で物事を決められるのですか」と問うた台詞を、我が国が対米隷属から脱し得ていないことを見ぬいてこれを鋭く糾弾する慧眼だともてはやし、ロシアこそ、我が国を自立に導く助け手だとする説まである。

こうしたロシア賛美者は、全く愚かなことに、我が国がただロシアに欠点をあげつらわれて、足元を見られ、余計なお節介を受けているだけだという事実がまるで見えていないのである。そもそも、自国の外交の欠点や弱みについて、他国の指導者からお説教され、それを疑問にも思わず、善意と受け止めて喜んでいる時点で、そのような人々はとてつもなくおめでたい愚者としか言えないだろう。
 
実のところ、プーチンは日本人の心に揺さぶりをかけ、分裂を促すために以上のように言ったのであるが、こうしたやり方で、接近した相手の尊厳を貶め、現在、その相手が享受している大いなる特権を自ら捨てさせ、何らかの短絡的なアクションを取るよう促す方法は、まるで聖書の創世記において、悪魔が人類をそそのかすために吐いた言葉にそっくりである。

「それを食べると、あなた方の目が開け、あなた方が神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」(創世記3:5)

プーチンの言説のポイントは次の通りである。「米国は本当にあなた方にとって『友』なのでしょうか? もしそうなのだとしたら、どうして米国の許可なしに、あなた方は自分では何も決められない惨めな状態に留め置かれているのですか。あなた方が誰の許可もなしに自分で物事を決められるだけの知恵と力を得ることこそ、あなた方の自立であり、完全な主権ではありませんか。その自立を奪うことによって、米国はあなた方の主権を侵害しており、そうすればあなた方を無力化できると知っていて、わざとそうしているのです。あなた方にそのような状態を強いて、あなた方の主権を侵害している存在が、果たしてあなた方の『友』なのでしょうか。それは友というよりも、敵と言った方がふさわしいのではないでしょうか…」。

これは米国に対する暗黙の反乱の勧めである。国家主権や対米隷属からの脱却や「自立」という甘い言葉を餌にして、同盟国でもないロシアが、我が国に向かって同盟国への裏切りを勧めているのである。それは、ただ我が国を貶める発言であるばかりか、我が国をいずれ米国と分裂させて弱体化させる目的あってこその発言であり、その先には、我が国を侵略し、米国の代わりに属国化したい目的あってのことである。それをなぜ見抜けない人々が多いのであろうか。

筆者は、日本は確かに米国に対して多くのことを物申さなければならず、日米の関係性は変化し、属国状態は解消されなければならないものと思う。沖縄にも、自由が与えられるべきであって、我が国の現在の自立の程度が完全でないことは認めるべきであるものと思う。だが、その自立や、米国からの分離は、これから先、日本人が文化的・精神的成熟によって自ら勝ち取って行くべきものであり、ロシアには関係ない事柄である。我が国の自立の問題は、我が国固有の問題であって、ロシアに指図されるべきものでなく、また、ロシアに接近することによって解決が与えられるような種類の問題でもない。

それにも関わらず、プーチンの言説は、話が途中ですり替えられている。日本が主権を完全に取り戻すという問題が、我が国がロシアへ接近することによって、ロシアから承認されるべきだという内容に話がすり替えられているのである。
 
こうした論理のすり替え、ごまかし、トリックはソ連時代からのロシア人の常套手段であり、プーチンは、同じような論理のすりかえにより、四島返還はナンセンスであるという話題を持ち出し、二島返還の可能性をもはぐらかし、帳消しにした。

「ロシアとは決して交渉してはならない」という中川八洋氏の主張がまことに正しいと言えるのは、こうした事情があるためである。上記で、聖書の創世記で悪魔が人類をそそのかした誘惑の言葉を筆者が引用したのは故なきことではない。こうして、相手の弱点を巧みに突いて、その弱みを最大限に利用して、不当な交渉を行って自分にとってのみ有利な解決を引き出し、相手の弱みを利用して相手の心の内側に侵入し、精神的に揺さぶりをかけ、分裂させて、支配するというやり方は、一連の記事で述べて来たグノーシス主義者のマインドコントロールの手法に共通する。こうした人々が、弱みを抱えた人たちの前にぶらさげる餌も、約束も、決して果たされることのない嘘の「夢」である。

ロシアは、我が国の弱みを盾に取って、我が国を脅し、ゆすっているだけである。つまり、日本が「完全なる主権」を回復し、「自立した外交」を打ち立てるためには、米国から距離を置くだけでなく、むしろ、ロシアに接近し、ロシアとの「友好関係」をロシアに承認してもらえるよう努力すべきだと言っているのである。米国に従っている限り、日本には、ロシアとの友好はなく、領土問題の解決もないのだとささやくことで、「主権」や「自立」や「平和条約の締結」や「領土問題の解決」などを餌に、ロシアに接近すれば、米国との関係からは生まれ得ない利益が我が国に飛躍的に生じるかのように思わせて、その絶対に実現しない期待を担保に、我が国から融資を無限にむしりとり、領土返還についての話もはぐらかして帳消しとし、さらには、あわよくば日米同盟にもヒビを入れて、日本を孤立化させて、ロシアが日本を思い通りに操ることがより容易になるように仕向けようとしているのである。

このように、ロシアと交渉することの危険性は、ロシアが相手の弱みや、利益となりそうな餌をちらつかせることによって、征服したい相手の心に揺さぶりをかけて、思う存分気を持たせて利用し、あわよくば分裂を引き起こし、弱体化したところで、支配して来る点にある。

筆者は、以前に、キリスト教が社会的弱者に対して冷たい宗教であると断罪することによって、クリスチャンに罪悪感を持たせ、キリスト教徒を思い通りに変革しようという悪しき試みがあることに言及したが、ロシアがやっていることはそれに非常に似ており、「日本には完全な主権がない」と暗に示唆することにより、プーチンは日本人に自らの状態が不完全であるかのような自覚を与え、その問題の解消のために、ロシアの指南に従うよう仕向けようとしているのである。
 
プーチンは、安倍や、日本人の心に眠る米国への心理的恨み、対米隷属から脱していないという屈辱感やコンプレックスを存分に利用しながら、以上のようなトリックを用いたのであり、それによって、ロシアこそ、日本のパートナーにふさわしく、世界の未来の覇者にふさわしいかのように見せかけて、日本を自分にひきつけようとしたのである。だが、ロシアが我が国にそのように思わせる目的は、決して我が国の誠意あるパートナーになるためではなく、日本の完全な主権の回復のためでもなく、ただ日本の弱みを盾に取って、脅し、ゆすり、騙すためである。もし、我が国がそれを理解せずに、ロシアに弱点を逆手に取られ、ロシアから承認されたいばかりに、ロシアへの接近を続ければ、どこまでもロシアに思い通りにゆすられる運命が待っているだけである。
 
我が国は、どの国の指導者にも、国家としての主権の不完全性などを指摘されてはならないのであり、まして弱みを利用して足元を見られ、嘘に満ちた不誠実な誘惑の台詞を語らせるような隙を与えてはならない。我が国が完全な主権を回復し、これを発展させ、真の自立と尊厳をぜひとも身につけたいと願うなら、米国に支配の口実を与えてはいけないのと同様、ロシアにも、内政干渉される隙を決して作ってはならないのである。そのような初歩的な事柄も理解できないで、他国から完全な主権がないと言われてそれに反駁するどころか、その説教に喜んで耳を傾けているような愚かさでは、外交などおよそ無理であって、どの国に接近しても、属国化される以外の運命はないであろう。

ロシアが善意から我が国の「主権」や「自立」の問題に言及するなどあり得ないことを理解すべきである。それはただ「分割して統治せよ」の法則に乗っ取り、相手をより操りやすくするために、疑いを吹き込んで分裂を促しているだけである。こうして近づいた相手をまず分裂させて弱体化させることこそ、侵略しようとの意図を隠し持つ国の使う古典的な外交手段なのだと、いい加減に早く理解した方が良い。

すでに述べた通り、ロシアという国の国家イデオロギーは、いつの時代も、ロシアが世界の覇者となることにこそあり、そのためにこの国は膨張・拡大を続けて来た。ロシアはその精神性において、今でも世界征服を国家の最終目的とみなしているのである。そうである以上、必ず、同じように世界の覇者を目指す米国とも対立関係になる運命にあり、米国だけでなく、ロシアに接近する全ての国は、この国に飲み込まれないために対策を講じなければならないのである。

オバマにはおそらくプーチン率いるロシアの戦略がよく理解できており、安倍が心理的な弱みを握られてすっかりプーチンの手玉に取られていることも分かっていたであろうし、それが分かっていればこそ、対ロ制裁の強化という形で抗議を残して行ったのであろうが、残念ながら、安倍の方では、自分がプーチンに何をされているのかさえ、見抜く力はなかったと思われる。

安倍のみならず、我が国の世論の一部は、あまりにも未熟で、お人好しすぎるために、ロシアという国が持つ潜在的な悪意を見抜くことができないで、70年間、関係が膠着状態にあった国と、望みさえすれば、速やかに友好や信頼が成立するように思い込んでいる。プーチンに「私を信頼してほしい」と言われれば、疑うこともなく「はい」と頷いて着いて行くのでは、まるでショッピングモールで迷子になった子供が、知らない大人に声をかけられて、そのまま疑うこともなく誘拐されるのと同じような愚かさである。

インターネット上では、プーチンとトランプがタグを組むことで、この二人があたかも現在の悲壮感溢れる諸問題から世界を救ってくれる救済者になるかのような楽観的な期待さえ漂っているが、こういう安易な期待に身を任せる人々は、何度、騙されれば、自ら愚かな為政者(しかも他国の!)の野望の道具とされる馬鹿さ加減から、目覚める時が来るのであろうか。
 
このような人々の心理は、いかがわしい宗教指導者の言い分を真に受けてカルト団体に入信する信者たちによく似ており、自分を誰かから完全な存在と認めてもらいたい、自分を承認し、受け入れてもらい、自分が今抱えている問題に一足飛びに解決を与えて欲しいという願いがあだとなり、自分に都合の良いことを言ってくれる宗教指導者に群がり、子供のようにその後を追って誘拐されて行くのである。彼らは連れ去られ、戻って来ないであろう。

そのように、自分の抱える問題を、自分の手で解決しようとする忍耐強い努力を常に怠って、誰か強そうな他者にすり寄り、手っ取り早い助言や解決を求めて彼らにすがり続ける幼児的な欲求があだとなって、彼らは自分に優しくしてくれる者を簡単に善人だと思い込み、他人の悪意や、下心を見抜けず、その不誠実な発言に何度でも騙され、振り回され、人生の宝を奪われるのである。
 
そして、そのように自ら騙されて行く愚かな人々は脇に置いたとしても、詐欺師と詐欺師との間にも、友情と信頼が成立するはずがないのは言うまでもなく、この先、トランプとプーチンとの間に、決して信頼関係が生まれることはないと筆者は確信している。そこにあるのはただ、どちらが先に食われるかという問題だけである。

イスラエルが孤立化へ向かっているのと同じように、どの時点で、どこの国が、ロシアに対して実力行使に立ち上がるのか、ということが問題なのである。そうなるまで、ロシアは自分には敵を作ったり、世界と戦ったり、世界を征服する野望など全くなく、目指しているのはあくまで友好と信頼関係だと言い続けるであろうが、いつまでそのように気を持たせて時間を稼ぐことができるだろうか。
 
プーチン訪日前には、ソフトバンクの孫正義氏が、海底パイプラインを使ったロシアの電力会社との取引に乗り気だというニュースが流れたりもした。(「プーチン氏とも会談 北方領土の鍵握る「孫正義ペーパー」」(NEWS ポストセブン 2016.11.21 07:00)参照。)だが、もしも我が国がこの先、ロシアのエネルギーに依存して、ライフラインをロシアにあずけたりすれば、有事の際には、早速、我が国も現在のウクライナのような運命を辿るだけである。IT事業や人工知能の分野でロシアと協力すれば、すべての情報がロシアに渡り、もはや国防どころではなかろう。

トランプ、プーチン、安倍、孫正義などの面々に共通するのは、彼らが本質的に理念の欠如した商売人だということである。彼らは常に儲け話を追い、自らの権勢の拡大と栄光を飽くことなく追い求め、常に勝ち馬に乗って、自分を素晴らしく偉大に見せかけてくれる環境を求め、そのためには、人を欺いたり、約束を翻すなどの不誠実な行動も平気で取り、自分が騙して凋落させた敗残者を容赦なく踏みしだいて勝ち誇ることを、己の人生のよすがとしている。このような商売人が政治の世界に足を踏み入れ、為政者になると、国民はひどく不幸になる。

孫正義氏は、以下の記事等にも見るように、以前には60歳を迎えれば引退するかのように表明していたが、これを撤回することにより、グーグルから自らの後継者と目して引き抜いたニケシュ・アローラ氏をわずかな期間で退任させた。「アローラ退任、孫社長「変心」までの22カ月 「欲が出てきてわがままで続投」は本当か?」(東洋経済ONLINE 2016年06月27日)

複数の情報によると、関係者は、孫氏がアローラ氏に事業を譲るなどの計画は初めから信じていなかったように見受けられる。だが、もし後継者として道を譲るという期待を持たせておかなければ、アローラ氏は孫氏のもとへやって来たであろうか。

ビジネスの世界では、他人を騙すがごとくに出世を約束し、存在しない偽りの期待を持たせることで、その人の人生を自分に都合よく利用して、短期間で使い捨てるなどのことは、ありふれた現象に過ぎず、ブラック企業では毎日のように起きている。まさに生き馬の目を抜く世界である。

上記のような出来事を通して、孫氏が個人的にどういう人柄であるか、我々は伺い知ることが出来る。勝つためには、手段を選ばず、他人を踏み台にしてでも、勝ち残るというタイプである。こういう人間であれば、トランプやプーチンとはウマが合うであろう。

だが、孫氏がアローラ氏に対して行ったことは、違法ではなくとも、必ず何かの報いを伴うであろう。なぜなら、人にいたずらな期待をもたせて失望に追い込む人間は、自分が他人にしたことの報いとして、もっと大きな罠にかけられる危険があるからだ。おそらく、このような理念の欠如した商売人のタイプの人々は、何人集まっても、意気投合するのは一瞬だけで、互いに利用し合い、最後には裏切り合って終わり、彼らの間に真の友情や連帯が生まれることは決してないであろうと予測する。誰が最初に食われるのか、問題はそれだけなのである。

さらに、日本国では急速に国民の貧困化が進んでいるため、高額な携帯料金を払えないで解約する人々も続出している。ただでさえスマートフォンが盗聴や監視の手段として利用されている事実が世間に広まっているため、人工知能も警戒されており人気がない。携帯業界はこの先、急速に斜陽になる可能性があるものと筆者は思う。

さて、ロシアに話を戻そう。以上に挙げた国際政治学者の中川氏は、Wikipediaには、「政治哲学に関しては、1980年代はマルクス・レーニン主義に対する批判的研究をしていたが、1992年から英米系政治哲学に研究の軸足を移した。2000年に入り、フランクフルト学派社会学を含め、ポスト・モダン思想、フェミニズム、ポストコロニアリズムにまで研究対象を広げ、これらの思想の危険性を訴えている。」とあり、詳しい研究内容はまだ知らないのだが、おそらく共産主義思想とフェミニズムなどの思想に、共通の土台がある事実を見ていたであろうと思われることが極めて興味深い。

こうして、学者の世界においても、共産主義や、フェミニズムの思想に、本質的な共通性があって、それは古くはグノーシス主義にまでさかのぼることを、「正統と異端」という概念に照らし合わせて研究していた人々の存在があることは興味深く、このような視点は、『解放神学 虚と実』(荒竹出版)を著した勝田吉太郎氏らと重なる部分を感じさせる。

筆者の考えでは、現代政治のあらゆる問題は、その本質を辿って行くと、最終的にはみな「正統と異端」という対立構図に行き着く。世界のおよそ全ての政治的・思想的対立の背後には、未だに「キリスト教対グノーシス主義」という構造が潜んでいると言っても過言ではない。

むろん、ここで筆者の言う「キリスト教」とは決して、決してプロテスタントやカトリックや正教といった今日的なキリスト教界の宗教組織を指すのではなく、聖書の記述が現す見えない思想的(霊的)本質を指す。

そして、グノーシス主義の危険とは、今までずっと当ブログで述べて来たように、ロシアの国家イデオロギーだけにつきものなのではなく、欧州・米国・我が国などのキリスト教界にも公然と入り込んでおり、統一教会と深い関わりのある安倍政権や、日本会議に支配された日本政府を通して、我が国の政界に深く浸透している。政府与党が暗黙のうちに目指している国家神道に基づく戦前回帰のイデオロギーなども、まさにグノーシス主義を起源としている。その意味で、現在の日本の政府と政治は全体がグノーシス主義に汚染されてしまっている。

だが、だからと言って、もともとすでにある危険の上に、さらなる危険として、ロシアにおける共産主義までも取り込んで、国を消滅の危険にさらす必要はないであろう。


・人間に過ぎない宗教・政治指導者を美化・神格化して崇拝する偶像崇拝の罪と訣別しなければ、沖縄を含め、我が国には自由も解放もない

信仰者の目から見れば、この世の事象と霊的世界は合わせ鏡であり、この世の問題の根底には「正統と異端」の対立があることが見て取れる。

2009年、自民党から民主党への政権交代が起きたのは、日本のクリスチャンの間で、グノーシス主義に汚染されたキリスト教界への批判がかつてなく高まっていた時期であった。ペンテコステ運動のような米国発の非聖書的な偽りのキリスト教への疑念と批判が信者の間で噴出し、さらに、人間に過ぎない宗教指導者を絶対的な存在として崇め、奉る牧師制度がキリストへの信仰に反する人間崇拝の罪であるとの批判が噴出し、この罪と手を切って、キリスト教界からエクソダスしようとする信者が続出していた。

これは、キリスト者が人間を美化・賛美する偶像崇拝から脱し、聖書に基づく正しい信仰に立ち戻ろうとする正しい運動であったと筆者は見ている。

しかし、この運動がその後、辿った経緯は非常に教訓に満ちたものであった。この時に生まれたキリスト教界への批判者たちが、その後、どうなったかというと、彼らは自分が批判していた教会からエクソダスして、聖書に基づくまことの信仰に立ち戻るどころか、再びどこかの宗教指導者や、組織や団体に帰依して、前よりも深く巧妙な偶像崇拝に落ちて行き、その結果、キリスト教界における偶像崇拝の罪を批判する者たちや、教界をエクソダスした者を同士討ちに陥れて口を封じ、自ら改革を潰すという愚行に及んだのである。

当初、見えない神にのみ従うことを誓って、人間に過ぎない指導者への隷従からの自由と解放を目指して、組織や団体を出ようとしていたはずのクリスチャンたちの、この180度の転向と愚かしい同士討ちという、腐敗と堕落の過程は、民主党の瓦解の経過にも似ており、筆者がそれらの出来事の分析から得た教訓は計り知れないほど大きい。

この草の根的な運動を堕落させて潰すために、とりわけ信者たちに巧妙な分裂の罠をしかけたのが、キリスト教界の宗教指導者であり、その中に、信者を泥沼の裁判に引きずり込んで疲弊させる村上密やDr.Lukeのような人々がいた。

この人々は、キリスト教界に対する信者たちの怨念を巧みに吸い上げる形で、人々の弱みを利用して自らの運動を作り上げた。彼らは、不誠実で信頼ならない指導者であったが、彼らを非難したり、告発する人間たちが、彼らよりもずっと不器用でみっともなく見えたため、人々は立ち回りが上手く声の大きいこの指導者の方を支持し、すすんでその手先となって利用されて行ったのである。

人前で救済者を演じる詐欺師のような宗教指導者たちは、人々の心の中にある勝ち馬に乗りたい願望、人前で見栄を張り、自分が攻撃されて恥をかきたくない願望などを大いに利用して、反対者を徹底的に嘲笑して、見世物にすることで、自分を勝者に見せかけて、支持を拡大したのである。

しかし、彼らの虚勢は見せかけに過ぎなかったので、以上のような宗教指導者に信頼を託した人々の希望は、すぐに風船のように弾け飛び、解放や自由の代わりに、隷属と恐怖だけが残った。

トランプとプーチンの手法は、以上のような宗教指導者らの手法に非常によく似ている。彼らは反対者を貶めることと、自分が勝利者であるかのような「ムード」を醸し出すのは得意だ。だが、彼らの主張には内実がないため、「まことしやかな雰囲気」に欺かれて、彼らを支持した人々は、悲惨な結果に至るだろうと筆者は見ている。この人々の連帯は、気の持たせ合い、騙し合いの連帯なので、長く続くことはないからだ。

筆者が、沖縄は米軍基地問題を巡る政府との闘いで敗北するであろうと言っているのにも、以上と同様の理由がある。沖縄の解放という問題の根っこには、偶像崇拝が深く絡んでおり、筆者は、沖縄クリスチャンがカルト被害者運動と公然と訣別しない限り、彼らには政治的にも勝利はないと考えている。

なぜなら、人間の利益は神の利益に勝らないからだ。自分の生活の安寧や自分の名誉を、信仰よりも優先して、人間に過ぎない指導者につき従っている限り、その信者にはいかなる自由も解放もない。まことの神は全てをお造りになった方であり、この方のみを崇め、従うことは、辺野古の海を守るよりもはるかに重要事項である。そのことをクリスチャンが理解して、自分を解放してくれそうな人間への浅はかで愚かな期待を捨てない限り、沖縄が騙され続けることは変わらないであろう。しかし、それは沖縄だけでなく、日本全体に共通する問題なのである。

改革者や解放者を名乗って現れる人間の指導者に安易な期待を託して欺かれる人々の心の根底には、いつも自己美化の願望がある。自分を美化しているから、宗教・政治指導者などを美化して、期待を寄せるのである。しかし、聖書は人間の本質について何と言っているか。クリスチャンが聖書の事実に立ち戻り、真に頼るべき存在は誰かという問いに正しく答えを出さない限り、我が国にはただ人の奴隷となる道だけが延々と続くのである。だが、かつて起きた出来事は、信者が人間崇拝という罪と完全に手を切って、まことの神への貞潔を回復するならば、速やかな解決があることを示している。


欧米諸国を裏切ってまでロシアにすり寄る安倍政権を待ち受ける国際的孤立と、極東シベリア共同開発に名を借りた日本政府の大陸侵略の野望

・米国とEU諸国との協調を裏切って、ロシアと「同衾」した日本政府の二股外交が必然的に招く国際的な孤立

カジノ法案の衆院での強行採決以来、我が国の多少なりとも見識ある全ての人間の目には、安倍政権が詐欺の温床であり、危険極まりない地獄への暴走列車であることがはっきりと見えてしまった。

安倍政権には、もはやインテリ知識人層からも、カルト内閣、広域暴力団安倍組、博打政権の博打外交など、歯に衣着せない容赦のない呼び名が向けられ、人々が侮蔑と憎しみを隠さないようになっている。

反原発、反TPP、北方領土返還、アベノミクス…、これまでに安倍政権が打ち出したすべての施策が、国民を欺くための詐欺の仕かけでしかなく、それは国民に嘘をついて存在しない偽りの甘い夢を見させておいて騙し、その間に、可能な限り、国富を収奪して、外国に貢ぎ、我が国を破滅へ導くために打ち出される詐欺と売国のスローガンであることが未だかつてないほどに明白になったのである。

そもそも「この道しかない」などと言い始めた時点で、すでにそれはカルトなのである。「この道」という言葉は、宗教の信者がよく使うものであるが、クリスチャンにとっての道とは元来、一つしかなく、どこかの目に見える人間が、「私が道だ、私が唯一の道を指し示す」などと言い始めた時点で、その人間は反キリストの霊の持ち主であることが確定していると言って良い。

キリスト教徒でなくとも、おそらく、宗教家はいち早く安倍政権の恐ろしさ、特に、安倍が現人神となって国民に強要しようとしている自分への崇拝が極めて危険な似非宗教であることにすぐに気づくはずだ。このような政権を支持する者には、どんな宗教を信じていようと、信仰者としての矜持はない。都議会における自民党と公明党との分裂が取沙汰されているが、いずれ国会でも両者は分裂し、現役官僚からも離反者が出ることであろう。この先、みなが安倍に騙されていただけであることが、もっとあからさまに分かって来る。どんなに控えめに言っても、安倍はもはや正気ではないのだと、誰もが思うようになろう。

だが、目下、正気を失った博打政権が、自分が倒される前に、もっと壊せるだけ徹底的に日本を壊そうと、ロシアからマフィアの親分を連れて来て、二人で一晩以上をかけて懇ろに仲むつまじく語り合ったというのだから、このニュースには背筋がぞっとするとしか言えない。

領土問題に何の進展もないことが前もって分かっていたので、筆者はプーチン訪日という出来事には何の期待も寄せず、冷ややかに見つめるのみであったが、プーチン氏の到着から一夜明けて、当初感じていた不快感は、安倍の犯した売国の罪によって、取り返しのつかない事態が起きたのだという、さらに不気味な予感へと変わった。

領土が返還されないのに、安倍がロシアに3000億円もの経済支援を申し出たという狂気じみた外交的敗北から始まり、タイ人のウォン・ウティナン君には強制国外退去処分を言い渡しておきながら、ロシア人の入国のためにはビザ要件を緩和するという。平和条約も締結されていないうちから、北方領土やシベリアの共同開発という無謀な計画に前のめりになり、さらに平和条約をダシにして、「信頼関係の構築のために、双方の国民感情を傷つけないよう配慮する」などといった無茶な約束まで口にする。

やはり、安倍は空恐ろしいことをやってしまったという印象である。天木直人氏が12月16日の記事「歴史に残る安倍首相の対プーチン屈辱外交」に書いているように、この「屈辱外交」が我が国にもたらす弊害ははかりしれない大きさになると思われる。最悪の影響は、今後、日米同盟関係が急速に悪化しかねないことだ。

筆者は、日本は対米隷属から脱しなければならないと考えるため、日米同盟は必ず見直され、最終的には、日本は米国の傘下を出なければならないと思う。だが、その方法が、日本政府が米国の意向を無視してロシアに寝返ることによって、日米関係を急速に悪化させるというあまりにも拙速かつ愚かな方法であるべきでないのは明白である。

しかしながら、この度の安倍・プーチン会談は、EU諸国、そして米国との関係においても、日本の外交の決定的かつ明白な分岐点となるであろうと筆者は予測する。70年間続いて来た戦後体制は、プーチン訪日という日に終わったのである。だが、それは実際、安倍の望むような美しい形ではなく、また、我が国の自立という形でもなく、ただ米露への二股外交というあまりにも恐るべき裏切りに満ちた不誠実なドロドロの関係で終わった。

これまでの事実から、筆者には、日本政府は、国民をイジメ抜くための悪意を込めた政策を、大抵、週末に向けて発表することが分かっている。

いかがわしいカルト宗教は、信者を徹底的に疲労困憊状態に追い込むことで、信者が片時も落ち着いて物事を考えることができず、カルトの偽りに気づくチャンスがないようにすることが知られているが、カルト化した安倍政権が国民に対して絶え間なく行っていることも、それと同様の精神的な攻撃である。

つまり、勤労者の国民の大半は、月曜から金曜までの平日は、サービス残業や、過重労働でへとへとにさせられた上、週末に向かっても、心を締めつけられる不穏なニュースばかりを聞かされて、休日にも精神的な苦痛の中に置かれることになるが、これは、国民を決して精神的にリラックスさせないために、政府が故意に行っていることである。
 
これまでのあらゆる出来事から判断して、この国の政府高官及び官僚たちは、休日を迎える前に、特に念入りに、自分たちの権力が永久に安泰だと信じて高枕で眠れるように、国民に向かって精神的な圧迫と恐怖を増し加えるような残酷な政策を発表することを悦楽にしているものと見られる。
 
だから今回、安倍が国民を愚弄するがごとく、北方領土返還という存在しない偽りの夢をちらつかせながら、あろうことか、その存在しない夢と引き換えに、日本の国富を早々とロシアに売り渡すと決めたことを、週末に向けて発表したのは何ら不思議ではない。
 
もしも今回、そんなことよりももっと驚くべき事実があったとすれば、それはちょうどプーチンが日本に来たのと同じタイミングで、EU首脳会議で対ロ制裁の延長が決定されたというニュースが流れたことである。

以下に引用したニュースでは、NHKが懸命に、EU諸国のロシアへの強硬路線と、米国および日本のロシアへの立場は違うのだと強調しようとしているが、今のタイミングで、EU諸国がこれほど強烈にロシアへの対決姿勢を明白に示したのには、明らかに、ロシアに対する恫喝と警告だけでなく、ロシアに協力関係を申し出る日本政府に対する牽制と恫喝の狙いが暗黙のうちに含まれているように感じられてならない。

今回のEU首脳会談と、プーチン訪日という出来事が、どこまで互いに影響を与え合っているのかは分からないが、EU首脳は一致して、彼らの敵意をよそに二国首脳だけで懇ろな関係を強調するプーチンと安倍の両者に対して、厳しい警告と弾劾と受け取れるメッセージを発したのである。

そこで、今回のEU諸国の対ロ制裁の延長の発表のタイミングは、今回の日ロ首脳会談が、これからの日本の外交にはかりしれないほどに暗い影を落とすことを暗示するものであると筆者は見ている。つまり、今回、日本は欧米の対ロ制裁の足並みから完全に外れたのであり、そうなった時点で、ロシアと共に国際的に孤立の悪影響に巻き込まれる道はすでに定まったのである。
 

EU首脳会議 ロシアへの経済制裁延長で一致NHK 12月16日 10時21分

EU=ヨーロッパ連合は首脳会議を開き、ウクライナ情勢を受けて続けてきたロシアへの経済制裁を、来年7月末まで延長することで一致し、日本やアメリカがロシアとの関係強化に向けて動き出す中、ヨーロッパは引き続き、厳しい姿勢で臨む方針を打ち出しました。

EU各国は15日、ベルギーのブリュッセルで、ことし最後の首脳会議を開き、対外政策を中心に話し合いました。

この中で、おととし、ウクライナ東部で、政府軍と親ロシア派の戦闘が起きて以降、EUが親ロシア派の後ろ盾となっているロシアに対して続けている経済制裁について、来年7月末まで延長することで各国が一致しました。

この制裁は、ロシアの政府系の金融機関や、エネルギー関連企業がEU域内で資金調達を行うことや、ロシアとの武器の取り引きを禁止するものです。

EUは制裁を延長する理由として、去年、ウクライナ政府と親ロシア派が合意した停戦が、完全には履行されておらず、ロシアが役割を果たしていないことを挙げています。

ロシアに対しては、日本がプーチン大統領の訪日をきっかけに関係強化に乗り出しているほか、アメリカのトランプ次期大統領もオバマ政権とは一転して関係改善に意欲を示しています。

しかし、EUでは、ロシアがウクライナの主権を侵害しているとの非難が根強く、ロシアと国境を接し、警戒を強めている国も多いことから、引き続き厳しい姿勢で臨む方針を打ち出したかたちです。


果たして、この先、米ロの関係が本当に改善されて、日米ロ間に緊張緩和の蜜月が訪れるなどといった保証はない。トランプはまだ大統領になっておらず、米国がロシアへの態度を軟化させるだろうという予測は、トランプの意向だけに基づく期待値込みの楽観に過ぎない。

いずれにしても、米ロの関係改善がまだ実現していないにも関わらず、安倍が米国に先んじてロシアを味方につけて関係改善を誇ろうとしたことは、米国に対する挑発行為のように受け止められて仕方がなく、安倍が各国首脳に先駆けて、一人トランプ詣でをして得意になった時と同じように、そこからは、米国を出し抜いて世界をリードする立場に立ちたいという野望を誇示する浅はかな狙いが透けて見えるだけである。このような行為に厳しい報いが伴わないとは、到底、考えられない。
 
それにしても、ヨーロッパ諸国は、地理的にロシアとの距離が近いことから、ロシアに占領される恐怖がよほど根強いものと思われる。我々はEU諸国の「ロシアに占領される」という恐怖に鈍感であるべきではないと思う。

むろん、ウクライナのユーロマイダンの政変は、親EUを旗印に掲げる人々を使った陰謀によるところが大きく、この政変によって引き起こされた同国の混乱を一方的にロシアの非とするのは適当でないと筆者は考える。クリミアも自らロシアへの帰属を望んだのであり、これをロシアが軍事力で侵略したと述べるには無理がある。

だが、そういう事情をさて置いても、ウクライナにおける親EU派と新ロ派の対立は政変が起きるずっと以前から続いて来たものであり、両者の間には水面下での激しい駆け引きがあった。
 
これまで幾度となく繰り返して来たことだが、米国も深い闇であるが、ロシアも米国と同じほど(あるいはもっと)深い闇である。

プーチン政権は、ブッシュ政権がそうであったように、偽のテロ事件を引き起こすことによって、国家権力を強化し続けて来たと言われる。いわば、敵を自ら生産することによって、国内の団結を作り上げるという、米国と同じ手法を取ってこの政権は成長して来たのである。

チェチェン戦争が、米国にとっての9.11と同じような、ロシア政府による偽旗事件であったことや、プーチンが権力を握り続けた代償が、ロシアの議会制民主主義の死であったことなどは、アンナ・ポリトコフスカヤのようなジャーナリストによってすでに幾度も指摘されている。

そのポリトコフスカヤを含む、プーチン政権に手厳しい批判を向けたジャーナリストの数多くが暗殺と思われる不審死を遂げている事実や、そもそも、これほど長い間、ロシアでプーチン氏の政権が続いているという事実だけを見ても、それ自体がおよそ民主主義からはほど遠い尋常でない状況と言わざるを得ない。そして、ロシアという国は、体制がどれほど変わっても、歴史的にはずっと絶え間ない国家権力の増強、領土拡張政策を取って来たのであり、現在、起きている出来事も、その延長上にあるとみなされる。

特に、ソ連時代のロシアは実際に軍事力による侵略・制圧を繰り返して来ており、ヨーロッパではそのことはまだ記憶に新しい。だから、武力による制圧であれ、どんな方法であれ、ロシアが領土を拡張して影響力を増し加えようとすること自体が、EU諸国からは「脅威」とみなされるのは不思議ではない。

そのような事情を加味すると、EU諸国の「ロシア恐怖症」は、ただ単に米国に一方的に肩入れしているがために生まれたというよりも、もっと深い意味を持つものであり、何よりも、それは自国がロシアに占領され、侵略されることへの本能的な恐怖から来るのだと言えよう。

もしそうだとすれば、我が国は、こうしたロシアの隣国による直観を決して軽視すべきではない。人間であっても、国家であっても、原則は同じであるが、遠くにいる他人だけから好意的な評価を受けていても、近くの隣人との間で絶えまなくトラブルを起こし続けて、隣人からの評価がことごとくマイナスだという人物は、要注意である。そうなるには、必ずそれだけの理由が存在する。ロシアには、いつも次々に敵が現れ、しかもロシアがその敵を利用して、自分が不当に攻撃されている被害者であるかのように装いつつ、着々と力を蓄え、味方を増やして来たこと自体が、政治的に巧妙な作戦であると見なければならない。

米国が世界各地で絶えず戦争やクーデターを人工的に引き起こしては金儲けの手段として来た事実が全くいただけないものであると同様に、ロシアという国に、次から次へと敵対する国々が登場して、戦いが起きているのも、決して良い特長とは言えない。ある意味では、その敵意と反目自体が、ロシアが自ら引き起こしている現象だという可能性がある。

だから、あえてそのようなトラブルの渦中にある国に、同盟国の出方もまだ決まっていないうちに、日本がわざわざ自分から先んじて接近して行くメリットなどどこにもないのは明白である。特に、日本のこれまでの米国追従に貫かれた戦後史全体を振り返っても、日本の首相が米国大統領に先んじて、そのような行動を取ることは異例であり、それ自体が、同盟国へのとてつもない裏切り行為、挑発行為と受け止められて、したたかに報いられる危険は否めない。

折しもちょうど沖縄でオスプレイが落ちて、日本国内で反米感情が高まっている時である。それを好機とばかりに、巧妙に米国に悪役を押しつけて、日本の首相が他国に媚を売ったのだから、そうした事実は、米国から見れば、「同盟の意味が全く分かっておらず、守ってやる価値もない国」と見られ、蔑まれるだけに終わりかねない。

もっとはっきり言えば、米国のポチに過ぎないはずの属国が、恐れ知らずにも、親分を悪者に見せかけながら、親分を裏切って、他国と密通し、不義を重ねたという話なのだ。

安倍がどうしてもロシアに接近したいのであれば、米国との関係を清算して、我が国が自立した外交を打ち立て、対ロ制裁の行方に対しても、国際社会において態度を明白にしてから、そうすべきであった。一方では米国の庇護を求め、対ロ制裁に加わっておきながら、もう一方では、制裁中の国に自らすり寄り、信頼関係を強調し、経済支援を申し出るなどの無節操な二股外交は、全く筋が通らず、国際的に何の信頼にも結びつかないのは当然である。

むろん、今のところは、オバマも含めて、公然と安倍の恥ずべき振る舞いを非難する者は各国首脳の中にはないであろうと思う。なぜなら、安倍の振る舞いは、あまりにも幼稚すぎて、知識人が言葉に出して取り沙汰する価値すらもないからだ。だが、彼らが名指しで非難しないことと、報復して来ないこととは訳が違う。愚か者には、愚か者にふさわしい返答の仕方がある。安倍の卑しい野望は、すでにトランプからTPP離脱で梯子を外されたことにも見る通り、諸国に見透かされており、この先、国際社会から黙ってのけ者とされ、一斉に梯子を外されることで、報復を受ける可能性がある。そういうしっぺ返しがなくとも、このまま安倍の二股外交が続くと、その結果として、日米同盟は揺るがされ、米国の代わりに日本がロシアへ追随するという事態さえ考えられないことではない。

そうなった場合に最も恐ろしいのは、日本がロシアに代わって世界的な孤立をその身に背負わされることである。

今までにも述べたように、日本が今ロシアに接近しても、損害以外に受けるものは何もない。ロシアは、日本が対ロ制裁に加わっている間に、中国をアジアの経済的なパートナーとして選んだため、日本が今から極東開発にどれだけ協力してみたところで、しょせん、ロシアから中国以上の経済的なパートナーとみなされることはない。

中国とロシアは安倍の望んでいる「中国包囲網」を知った上で、決してこれに手を貸すことはなく、むしろ、この二国は、安倍の心の内を完全に見透かした上で、いずれそれを裏返しにする形で、逆に日本を包囲して孤立化させて来る可能性が高いと思う。仮にもしそういうことが行われるとすれば、それは、ロシアがさらに親密さをアピールして、何かの餌をぶら下げて、より懐深く日本を自らに引きつけることにより、また、その誘いに乗って、安倍政権が一見、自立を装った米国との訣別を持ち出すことにより、日米関係に本格的にヒビが入り、日本が最も無防備になった瞬間に行われるであろう。

筆者の考えでは、ロシアは必ず、したたかに日本の期待を裏切って、いつかこの国に攻め入って来るはずだ。その裏切りは、すでに領土返還なしにロシアが経済協力だけを日本からむしり取った時点で始まっていると言える。ロシアとはいかなる信頼関係の構築も土台、無理であり、この国は他国を利用することしかできない。思想的にも、KGB出身のプーチン氏を頂点に頂いている事実にはっきりと見ることができるように、この国ではソ連時代の歴史と教育の影響は未だ根強く、ロシアは今でも共産主義のままなのである。

だから、ロシアと共産党政権下の中国との間には、もともと安倍の思想など全く及ばないほどに、より強力な結びつきと、親和性があると考えられ、仮に対ロ制裁に日本が全く加わらなかったとしても、日本が両者の間に割って入ることはもともとできない相談であったと思う。

そして、そのことは日本にとって幸運だったのである。共産主義という思想は、我が国が決して内に取り入れるべきではない危険な思想であり、また、「強いロシアの復活」を目指すプーチン型の国家主義的な統治も、非常に危険な性質を持つものである。ロシアには歴史上、強大な国家権力が圧倒的大多数の民衆を抑圧し、虐げるという以外の国家形態が存在したことがない。だから、これまで日本が米国に阻まれ、中国に出遅れてロシアへの接近の機会を失って来たことは、何ら問題ではなく、ロシアとは距離を保っておくに越したことはないのだが、安倍は自ら米国をよそにしてロシアにすり寄り、他国がロシアに厳しい態度で接し、距離を置いている時に、抜け駆けしてロシアと懇ろに「同衾」したことによって、ロシアという国家に歴史を貫いて流れて来た負の思想を、完全に内に取り込み、輸入してしまった。山口でのプーチンへのもてなしという安倍の行動は、プーチンこそ安倍の本命であったことをよく物語っている。なぜなら、安倍は日本を裁いて軍国主義政権を終わらせ、祖父をA級戦犯とし、日本を属国化した米国を憎んでいるからである。プーチンへの思慕は米国への当てつけであり、まさに、裏切りであると言える。だが、当てつけであり、裏切りであればこそ、プーチンへの接近は決してどの国にも何の信頼関係ももたらさず、ただ裏切りによって終止符が打たれのである。

米国は、そんな愚かで節操のない安倍の振る舞いに内心で呆れ果てながらも、ロシアと同じように、何らかの形で手ひどく報復することで利益を奪い返すチャンスを伺って、あえてこの問題に言及することなく、安倍政権を泳がせる可能性がある。何しろ、米国は、かつて日本軍による真珠湾攻撃を知っていながら、あえてこれを阻止せず、日本軍の愚かな暴走を許して意図的に泥沼の戦争に引きずり込み、広島と長崎に原爆を二つも実験的に投下し、日本が一億玉砕の手前になってやっと敗戦を受け入れるまで導き、今もこの国を事実上の占領状態に置いている国であるから、精神的に未熟でお子様のままのこの国と、決して国民を大切にしようとしない日本政府の精神的弱点をどのように利用し尽くして利益を得るかなど十分に研究済みのはずである。

だから、筆者の見立てによる最悪のシナリオは、日本という国が、今後、安倍の野望を見透かされた上で、米ロの両国から可能な限りゆすられ、たかられるだけでなく、やがては米ロが犯した似たような悪事の尻拭い役として、それ以上の悪事を犯すようにそそのかされて、国際的に悪魔役を演じさせられ、その結果として再び権威失墜して、かつての敗戦のごとき破滅に至り、自国をまともに統治する能力のない国として、第二の占領状態に置かれ、様々な国に領土を分割されて他国に統治されて終わるという悲劇である。

今のままでは、そうした結末も、あながち幻想だとは言い切れない。安倍はまさに外患誘致に等しい形で、最も危険な国と自ら懇ろに通じ、国のトップとして公に国を売り、危険を誘致しているのである。そのようなことの結果としてやがて起きるのは侵略である。我が国が侵略するのでなく、侵略されるのである。これを止める方法は、安倍政権を退陣に追い込み、安倍の唱える地獄へ直通する「この道」を封鎖し、なおかつ、米国ともロシアとも距離を置いて、平和的な方法で自存する道を探すことだけしかない。

 
・かつての満蒙開拓団とシベリア抑留の悪夢をよみがえらせる北方領土やシベリアにおける日ロ経済協力と共同開発

国家の病とは厄介なもので、国家権力による民衆弾圧の歴史がずっと繰り返されているロシアの例を見ても分かるように、この亡霊のような歴史的負の遺産を払いのけ、これと訣別するのはそう簡単でないと思われる。そこで、仮に安倍政権が早期に打倒されなかった場合、今後、善良な国民は、日本政府の唱える欺瞞に満ちた抑圧政策からどのようにして身を守るかということだけが、焦眉の課題となるだろうと思う。

日ロの首脳会談に合わせるように、EU首脳陣が対ロ制裁の延長を表明したことには、上記した以上の意味があって、筆者は、今回のプーチン訪日は、安倍の本心を試すために、日本に対してあえて仕掛けられた一種の罠なのだという気がしてならない。

なぜなら、この度、安倍首相がロシアにすり寄った背景には、日本政府も、あわよくば大陸へ進出して、ロシアと同じように領土を拡張するという利益にあやかりたいという野望が透けて見えてならないからだ。

つまり、安倍が北方領土を取り返すという「夢」を国民の前にぶら下げて、シベリアや北方領土の共同開発に積極的に乗り出そうとしているのは、その実、日本政府の領土拡張政策という悲願の一端を示しているに過ぎず、この政府が真に目指しているのは、かつてと同じように、大陸にまで国土を広げること(要するに侵略)なのだと筆者は考えざるを得ない。

安倍の目が今見ているのは、現実の日本ではなく、かつての「大日本帝国」の抱いていた幻想なのであり、同氏にとっては、現実の北方領土が今どこの国の帰属であるかなど、全く大した問題でなく、大陸へ進出する機会を掴むことによって、かつての軍国主義政権の偽りの夢であった「大東亜共栄圏」の再生へとつながるきっかけをつかむことこそ重要のだと思われてならない。

だから、実のところ、安倍がロシアに肩入れすることによって、擁護しようとしているのは、自分自身の侵略の野望であり、ロシアへの制裁を緩和することによって、解き放ちたいと思っているのは、かつての軍国主義時代の侵略と世界征服の夢なのである。安倍はできれば、ロシアからも北方領土を奪い返したいと思っているが、それがならずとも、まずは北方領土やシベリア共同開発という名目で、大陸進出のきかっけを与えてくれそうなプーチン政権に、味方のようにすり寄り、跪いてでもその機会を頼み込みたいわけである。足がかりさえ作ってしまえば、あとはどうにでもなる、活動しているうちに、いつかその地を我が物として奪い取ってしまえば良いという算段なのであろう。

むろん、ロシアはロシアで、安倍の魂胆は十分すぎるほどに見抜いた上で、したたかに日本を利用するためにやって来たに過ぎない。当然ながら、ロシアは日本に1ミリたりとも領土を割譲してやる気などなく、ただ安倍政権の野望を思う存分に利用して、日本企業を自国の領土開発の都合の良い使い捨て材料として徹底的に利用し尽くすことを考えているだけである。

この両国首脳は腹黒さという点では同じであり、お互いに「友好」、「信頼」、「協力」などの甘い言葉をちらつかせながら、自らの本心を隠して、相手をどうやって騙そうかと虎視眈々と互いに目配せし合っているだけである。

安倍が今回、プーチンを山口に招いてもてなし、経済協力を約束したことを通して、言わんとしているのは、「どのような方法であれ、己が領土を先に拡大した者が勝ちなのですよ、ねえ、ウラジーミル(ちなみに、ウラジーミルという名前は、「世界征服」を意味する象徴的な名である)。ロシアはウクライナとクリミアでは実によくやりましたね。我々はあなたの手腕を高く評価していますよ。だって、あなたのなさったことは、全ての国が自分もやりたいと望んでいることじゃありませんか。それにも関わらず、制裁でそれに答えるというのは、我々も本心では納得できないところです。しかし、これまでにはアメリカの力が強すぎて、我々としても、勇気を持って物申せない部分があったのですが、これからは少しずつこの煩わしい関係を見直して行くことにしますので、もう少しだけ待っていていただけませんか。ここは一つ、提案ですが、本格的に我が国が米国から自立し、貴国と平和条約を結べるまでに成熟する前に、まずはあなた方に支援を約束しますので、その見返りに、我が国にもぜひ新たな出番を与えていただけないでしょうか。あなたの国の豊富な天然資源、広大なシベリアの領土の開発などは、我が国にとっては前々から実に魅力的な投資材料と映っているのです…」

いつまで経っても、歴史に学ぶことなく、自ら墓穴を掘り続ける愚かな政府である。

かつて日本が大陸に侵略を企てたときにも、今と同じように「経済」が謳い文句であった。それは領土の拡張という国家的な野望のためだけでなく、まずは財閥をぼろ儲けさせることをこそ主たる目的に行われたのである。大陸での「開拓」は、要するに、大企業にとっての新たなフロンティアであり、カジノと同じような一獲千金の夢であった。

従って、筆者の目には、現在の安倍政権にとって、北方領土とシベリアに眠る利権を狙ってロシアと経済協力を行うことは、かつてこの国が目指した「大東亜共栄圏」という悪夢を再びよみがえらせるための侵略戦争に向けての初めの第一歩なのだと感じられてならない。

つまり、安倍のプーチン政権への憧れにも似た思慕には、国家主義の復活という夢だけでなく、何よりも領土拡張の夢が込められているものと考えられる。北方領土問題を持ち出したのは、そのきっかけに過ぎないのである。

だから、これから先、日本政府が打ち出すであろうシベリアの共同開発や、日ロ経済協力などといった美辞麗句は、そういう文脈でこそ、とらえなければならない。要するに、それは開発(開拓)に名を借りた侵略の野望の言い換えに過ぎないのであり、日本政府は、ロシアと同じように、無限な膨張拡大を夢見ているのであり、北方領土についても、本心ではロシアの主権を全く認めておらず、今後も認めるつもりがなく、ロシアもこれと同様に、4島を日本に返還する気などさらさらなく、日本の活動拠点とするつもりもないにも関わらず、二つの政府が互いに本心を隠しながら、互いを欺き合って、どうやって利権を餌にちらつかせることで、相手を最大限に利用し、巻き上げられるかを考えながら、「互いの主権を尊重する」といったむなしい絵空事のような空文句を弄して騙しあっているという恐ろしい現実があるに過ぎない。

そこには「友好」もなければ、「信頼」もなく、ただ互いに相手を騙し、食い尽くそうという悪意が存在するだけである。他国の領土に意欲的に開発に出かけて行くことは、いつの時代であれ、侵略の野望を隠し持ってこそ行なわれる行為であり、警戒される。かつての日本軍による「満州開拓」がそうであったように、そういう政策にすすんで巻き込まれた人間を待つものは、破滅以外にはない。

そもそも国家としてこれまで長期に渡る交流の積み重ねも実績もなかったロシアと日本の二国の首脳が、突然、まるで夏休みのキャンプ中に仲良くなった中学生のように、首脳同士の相性だけで、「友情」や「信頼」を言い始めるのは、とてつもなく不気味で、信用ならない事態であり、こういう形での親密さのアピールは、すべて国民を欺くための偽りの舞台演出であって、詐欺のしかけでしかない。このような信頼だの友情だのに見せかけた目くらましの魔法は、必ず、裏切り、騙し討ちの侵略となって本質を現わすだろう。

安倍晋三のような人間は、これまでどの場面においても、誰との関係においても、嘘ばかりを並べて、不誠実な言動を繰り返して来た。ついに米国にさえ不忠実な行動を取り始めたのである。このような人間が、親しさを演出して誰かに近づくのは、ただその相手を食い物にする目的のためだけでしかない。ロシアはそんな安倍には似合いの相手で、安倍がロシアに近づいたのは、ロシアから奪い取りたいという目的あってのことで、プーチンもそれはよく分かっていながら、自分の方が上手であると自負していればこそ、あえてその誘いに応じたのである。こうして、二国の首脳が互いを騙し合い、互いから奪い取るためにこそ、「友情」を演出して、互いを懐に引きつけあっているのである。こういう恐ろしい関係には、決して関わらず、巻き込まれないのが一番である。

これから先、どういう形で日本政府が日ロの経済協力や、極東や北方領土の共同開発を宣伝するのかは分からないが、「行きは良い良い、帰りは怖い」で、政府の打ち出す一獲千金の夢にたぶらかされて、目をくらまされ、その政策に浅はかに踊らされれば、その人間には、以下のごとき愚かしい悲劇が繰り返されるだけだと筆者は予想する。

画像は「満蒙開拓団の集団自決」(季節の変化、2015-08-30)から引用。



右は長野県が作成した「満蒙開拓青少年義勇軍募集」のポスターだが、見るからに知性の感じられない若者の姿を故意に描いたとしか思えない悪趣味な絵である。(シベリアと北方領土の開発利権に内心で涎を垂らす今の安倍の心境はまさにこのようなものではないかと推測される。)

満蒙開拓団とは、かつて日本政府が行った大々的な開拓キャンペーンにより、大陸に移住すれば豊かになれると言われ、一獲千金の夢で心を釣り上げられた日本の農村の貧しい人々が、騙されるも同然に、日本政府が作った傀儡国家としての満州へ国策として移住させられた挙句、第二次世界大戦中、ソ連軍の参戦により同地が戦禍に見舞われると、日本軍によってたちまち容赦なく見捨てられ、地獄の逃避行へ追い込まれ、集団自決などの悲劇へ追いやられたものである。

戦禍の中、かろうじて生き残った人々も、ソ連軍によって強制収容所へ送られたり、家族と生き別れになって、中国人の間で売られたり、働かされたり、現地人と結婚させられたりして、つらい生活を余儀なくされた。山崎豊子が『大地の子』で描いたような中国残留邦人も、そのような中を生きた人々である。

大陸に置き去りにされて、帰国がかなわなくなった中国残留邦人や、ソ連の強制収容所に送られた抑留者の存在があることは、戦後すぐに分かっていたが、中国残留邦人については、1972年9月の日中共同声明による日中国交正常化が起きるまで、中国領内で起きていることの事情は我が国では容易に知り得ず、調査もかなわなかった。日中国交正常化後も、日本政府は、かつて自らが積極的に推進した開拓キャンペーンの悲惨な結果と責任を直視したがらず、政府が中国残留邦人の肉親調査に乗り出したのは、ようやく80年代になってからのことであった。

さらに日本政府に残留邦人と認められて帰国や帰国後の支援を受けるには条件があり、必要な証言がそろわず、残留邦人と認定されず帰国もかなわなかった人々もおり、認定を巡って長期に渡り、日本政府と訴訟となり、裁判によってようやく認められたケースもある。日本政府から残留邦人と認められて日本に帰国しても、あまりにも長い年月、大陸で暮らしていた人々には、日本人としての記憶は薄く、言葉の壁や就労の壁が立ちはだかり、日本人としての暮らしは困難であった。また、中国残留邦人に比べれば数は少ないとはいえ、ロシア領内に取り残され、ロシア人と同化して暮らした人々も存在し、中には、本当にロシア人となって日本人のアイデンティティを捨てて生きた人もいた。

ソ連兵から帰国させると言われて騙されてソ連の強制収容所に送られた日本人は、そこで想像を絶する悲惨な生活を強いられ、実に数多くが飢えと過酷な労働で死に絶え、ようやく帰国しても、世間からアカになったなどと言われて後ろ指を指され、過酷な差別を受けた。

中国残留邦人の存在が80年代には日本の世間の注目を浴びてメディアに盛んに取り上げられたこととは対照的に、シベリア抑留者に対する戦後の補償は、あまりにも長い間、日本政府からも、ロシア政府からも見向きもされず、シベリア抑留者への補償という問題自体が、戦前戦中に「非国民」扱いされて特高警察によって拷問されて死に至らしめられた国民への補償と同様に、長年、差別感情などの中で、タブー視され、深く覆いがかけられ、隠されて来た。

仮に過酷な収容所生活のせいで発生した深刻なPTSDの影響などがあったとしても、彼らが肉体的にも精神的にも受けた苦痛に対する公のケアは全く行われず、抑留生活のために生じた苦しみは、長年、個人が心の内に抱えて耐え続けるしかなかった。そのようなことになった背景には、かつて敵軍の捕虜とされるくらいならば、自ら命を絶つべしと教えて一億玉砕を唱えた日本政府の洗脳の結果、他国の捕虜となって抑留されたこと自体を、国への一種の裏切り行為のようにみなして暗黙のうちに個人の責めに帰そうとする政府の暗黙の考えと、そういう考えに迎合して抑留者の存在をタブー視し、抹殺し、擁護しようとしなかった世間の風潮の影響が根強くあったのではないかと考えられる。

戦後強制抑留者法に基づき、シベリア戦後強制抑留者に対する政府の特別給付金の請求受付が始まったのは、ようやく2010年(平成22年)、民主党政権下のことである。しかも、すでにあまりにも多くの抑留者が亡くなった後のことで、政府の施策としては遅すぎるものであった。おそらく、民主党への政権交代が起きていなければ、未だに抑留者への補償は皆無だった可能性があると思われてならない。

だが、それよりもっと恐ろしいのは、こうして他国の領土で起きた外国絡みの事件で、対外的にも存在が否定できない人々については、まだしも真相解明の努力が行われ、補償の話が持ち上がったものの、たとえば、日本国内で特高警察によって「非国民」の罪を着せられ、拷問を受けて獄死した人々や、隣組の密告に基づき、そのような嫌疑をかけられて殺された人々の遺族などには、今ももって政府からの謝罪や名誉回復はおろか、何らの補償も行なわれておらず、真相究明の努力が一切なされていない事実である。これは非常に恐るべきことであり、日本史の深い闇であるとしか言いようがない。

話を戻せば、侵略戦争はまさに博打のような賭けであり、政府の美辞麗句と甘い儲け話に踊らされて、実現できもしない夢を思い描いて、大陸に赴いた人々は、日ソ中立条約を破ったソ連の侵攻と、都合が悪くなると国民を置き去りにさっさと逃亡した日本軍によって、騙し討ちにされるようにして二重に裏切られ、生き地獄のような環境をさまよわねばならなかった。以下は、Wikipediaの「中国残留邦人」から抜粋しただけの短い文章だが、ここに日本政府の無謀な大陸進出という無責任な夢に巻き込まれた人々が、どんな悲劇に見舞われたのか、その一端を伺い知ることができる。
 

1931年9月18日以降の満州事変後、直ちに日本は清の最後の皇帝である溥儀を担ぎ出し、旧満州(現中国東北部)で満州国をつくった。建国と同時に満州事変以前より提唱されていた日本の内地から満州への移住(満蒙開拓移民)が実行され、日本は1936年の廣田内閣の計画では500万人、実数では32万人以上の開拓民を送り込んだ。

移民が大規模になった背景には、アメリカ合衆国発の世界恐慌の影響を受けて発生した昭和恐慌によって、当時の日本の地方の農村地域は疲弊と困窮をきわめていた事にある。娘を身売りさせる家が続出し、窮乏生活を送らざるを得ない農業従事者は強い移民志向を持っていた。

第二次世界大戦末期の1945年8月に日本と中立条約を結んでいたソ連が同条約の一方的破棄を宣言し、8月9日、ただちに中国東北部(満州国)への侵攻を開始した。これを既に予測していた関東軍は民間人よりトラックや車の徴用を済ませ、列車も確保した。軍人家族らはその夜のうちに列車で満州東部へ避難できたが、翌日以降に侵攻の事実を知った多くの一般人や、遅れをとった民間人らは移動手段もなく徒歩で避難するしかなかった。国境付近の在留邦人のうち、成人男性は関東軍の命令により「国境警備軍」を結成しソ連軍に対峙した。避難民はおのずと老人や婦人、子供が多数となった。

ソ連侵攻と関東軍の撤退によって満州における日本の支配権と、それに基づく社会秩序は崩壊した。内陸部へ入植した開拓民らの帰国は困難を極め、避難の混乱の中で家族と離れ離れになったり、命を落とした開拓民も少なくなかった。遼東半島にソ連軍が到達するまでに大連港からの出国に間に合わなかった多くの人々は日本人収容所で数年間にわたり収容、帰国が足止めされた。収容所での越冬中に寒波や栄養失調や病気で命を落とす者が続出した。1946年(昭和21年)春までその帰国をソ連が許さなかった為、家族離散や死別の悲劇がここにも生まれた。この避難のさなかで身寄りのなくなった日本人の幼児は縁故または人身売買により現地の中国人の養子(残留孤児)に、日本人女性は同様に中国人の妻となって生き延びることになった(残留婦人)。


かつて日本政府が抱いた侵略の野望は、大陸諸国の人々に深い苦痛と悲劇をもたらしたのみならず、日本人にも、数えきれない悲劇をもたらした。だが、安倍晋三の主張を通して、まるでその悲劇が、何の反省もないまま、現代によみがえろうとしているかのようである。かつての歴史の反省も不十分なままに、今度は「行け、北方領土!! 目指せ、シベリア開発、日ロ経済交流の発展の夢!!」といった軽はずみなスローガンを唱えて、またもや政府が企業の尻を叩いて金儲けを目的にシベリア開発に参入させるつもりなのであろうか。

これまで政府が後押しするまでもなく、日ロ経済交流を目指した企業はいくつもあったが、結局、そういう業界が栄え、ロシア企業との密接な信頼関係を構築することはほとんどと言って良いほどなかった。それは、ロシア独特の様々な制度的弊害がビジネスの障害となって立ちはだかって来たことの結果でもある。さらに、ロシア人には歴史的に約束を守らない国民性があり、これまでプーチン大統領が会談の約束を守らなかったことも、一度や二度ではないと言われる。このような国民性は、日本人の常識から見ると、全く考えられないものであり、ロシア人の常態化したルール違反と、法外に煩雑化された法律上の手続きは、日本人の想像を超えており、日ロのビジネスの発展にとって極めて有害な阻害要因となって来た。

そうしたことに加えて、ロシアが以上に述べた通り、ソ連崩壊後も、日本人のシベリア抑留者に対して何の補償も行なっておらず、中立条約を破っての参戦という歴史の総括も行なわず、ソ連時代に抑圧した自国民や他国民への補償問題を棚上げしたまま今日に至っていることが、日本人のロシアという国に対する負の感情を醸造する大いなる原因となり、信頼関係の構築を妨げて来た。自国にとって都合の悪いことは歴史的過去であっても認めようとはせず、決してこれを謝罪することも責任を負うことも補償することもしない、このような体質の国と友情や信頼は育めないと考えるのは、日本人の自然な国民感情である。

だから、このような政治状況では、今後も、日ロ関係が活発化するとは思えず、大企業であっても、中小零細企業がこれまで幾度となく阻まれて来た壁を超えるのは困難であろうと筆者は予想する。たとえこの先、北方領土で、あるいはシベリアで、日本人とロシア人の自由な行き来が出来るようになり、共同経済開発が行われたとしても、それだけでは、ロシア人を日本人が信頼するには早すぎるのであって、それだけでこれまで培われなかった信頼関係が突如として生まれるようなことは、決して今後も起きないであろうと言える。

今回、ロシアとの信頼関係が長い時間をかけて構築されるよりも前に、北方領土や極東シベリアにおける経済協力を日本政府が自らロシアに申し出たことは、北方領土に対してロシアの統治権を認めることに等しい敗北であるばかりか、それはさらに日本人をロシアの国益のために、自国の法の及ばない領土に向けて差し出すことを認めたも同然である。自国の法の保護外に出た人間は、単なる外国人であり、いざ政変が起きれば即、難民にしかならない。

そういうあいまいなゾーンで、これら二つの国がこれからやろうとしていることは、どこからどう見ても、シベリア抑留の時代とさほど変わらない日本人に対する無責任な騙しと搾取でしかないように筆者には見受けられる。

とにかく、国際社会におけるロシアへの扱いが今後どのようなものになるのかさえ、まだ分かっておらず、ロシアへの不安材料が山積みになっている今のような時に、やれロシアとの信頼関係の構築だの、経済協力を申し出るだの、安倍の主張していることはまるで正気の沙汰ではない、と言わざるを得ない。経済協力は、領土問題に決着がつき、平和条約が締結されてから、その後、考えてみても良いことであって、それが領土返還や、平和条約締結のための前提条件のように差し出されるのは異常である。

そのようなことをやっていれば、平和条約の締結という言葉で、今後も無限にゆすられ、たかられることになるだけである。そもそも、平和条約の締結の対象外である国と、どんな協力関係があり得るのか、それ自体が笑止千万であり、平和条約の締結がなされて来なかったのには、それだけの理由があることを考慮せねばならない。にも関わらず、平和条約締結がないことを「異常」とみなして、これを日本側からの積極的な歩み寄りの努力によってのみ解決しようと主張すること自体が、すでに常軌を逸した発想であり、狂気の沙汰としか言いようがない。

そういう転倒した理屈になるのは、結局、安倍政権の本当の狙いが、ロシアとの信頼関係の構築などにはなく、要するに、カネと利権に目がくらまされて、大陸進出という悪夢に再びうなされて飛びつこうとしているだけだからである。開発、協力といった美名の裏で、領土拡張の野心を燃やし、再び、一獲千金の夢で人の心を釣り上げて、安全の保障のない危険な地域に国民を送り出し、一山築こうと考えているから、そうなるのであって、他国との友情や信頼などは騙しの口実に過ぎない。政府のそうした騙しの手口は、戦前から今に至るまで何ら変わっていないと言えよう。

繰り返すが、本当は北方領土も奪い取ってでも取り戻したいという本心を隠したままで、口先だけ友好や協力を申し出ることで、他国に味方のように近づいて行く、そんな不誠実で下心の見え透いた政策が功を奏することは絶対にない。そんな提案を受け入れる方も、提案した側にまさる悪魔なのである。はっきり警告しておくが、このような政策はしたたかに裏切られて終わるだけで、善良な国民はこの手の未来も希望もない儲け話に決して巻き込まれるべきではない。

実のところ、ロシアとの経済協力もまた、アベノミクスの失敗を糊塗するためににわかに作り出された新たな幻想に過ぎない。失敗の上塗りに過ぎないので、すぐに成果なしに行きづまるであろう。我々は、満蒙開拓団が集団自決させられた事実や、ソ連軍が日本人を強制収容所に送ってただ働きさせたという恐るべき歴史的事実に学ぶべきである。そういう過去から目を背け、新たに領土を開発するなどといった夢のような儲け話に乗った人々は、命を脅かされ、殺されて死ぬだけである。

だから、今、北方領土を材料にして、目の前に新たなフロンティアという餌をぶら下げられて、国民が見せられているのは、かつて大日本帝国の抱いた野望と同じ、大陸侵略の悪夢であることに気づくべきである。友情だとか、協力だとか言ったきれい事の甘言はみなその野望を隠すためのカモフラージュである。

シベリア抑留という歴史の清算さえできない国と、共同経済開発など絶対にあり得ないことであるが、そのあり得ない事柄を日本政府がやるというのだから、それは第二の抑留にしかつながらないのは明白である。日本政府とロシア政府の両者によって、日本国民が再び騙され、見捨てられ、シベリアで命を落とし、あるいは戦禍に巻き込まれ、命を脅かされる悪夢が再び近づいているのである。

安倍は南スーダンだけでなく、世界各国で自国民を紛争に巻き込み、殺したいのであろう。だからこそ、わざと危険な国にばかり国民を差し向けて、自ら人の命を売ろうとするのである。数えきれない人々が、このような政府の唱える偽りの夢に欺かれて命を落としたという過去の歴史の苦い教訓を、善良な国民は決して忘れるべきではない。歴史を直視せず、都合の悪い過去には蓋をして、全て無かったことにする現在の日ロ両政府が唱えていることは、共に甚だしい虚偽でしかない。彼らの語る夢は、どれもこれもむなしい偽りの幻ばかりでしかなく、彼らの行く道は、詐欺師や盗人や殺人者と同じ道であり、彼らが口先で弄する美辞麗句に欺かれて、その背中につき従った人々を待ち受けるのは破滅だけである。

悪人と詐欺師とは人を惑わし人に惑わされて、悪から悪へと落ちていく。
しかし、あなたは、自分が学んで確信しているところに、いつもとどまっていなさい。
(Ⅱテモテ3:13~14)


わが子よ、悪者があなたを誘っても、それに従ってはならない。
 彼らがあなたに向かって、
 「一緒に来なさい。われわれは待ち伏せして、人の血を流し、
 罪のない者を、ゆえなく伏してねらい、

 陰府のように、彼らを生きたままで、のみ尽し、健やかな者を、墓に下る者のようにしよう。
 われわれは、さまざまの尊い貨財を得、奪い取った物で、われわれの家を満たそう。
 あなたもわれわれの仲間に加わりなさい、われわれは共に一つの金袋を持とう」
 と言っても、
わが子よ、彼らの仲間になってはならない、
 あなたの足をとどめて、彼らの道に行ってはならない。

 彼らの足は悪に走り、血を流すことに速いからだ。
 すべて鳥の目の前で
 網を張るのは、むだである。

 彼らは自分の血を待ち伏せし、自分の命を伏してねらうのだ。
 すべて利をむさぼる者の道はこのようなものである。
 これはその持ち主の命を取り去るのだ。
」(箴言1:10~19)


カルト化する安倍政権――霊媒師・安倍晋三率いるオカルト政府による、国民への「呪い」と目くらましの「魔法」としての「まつりごと(祭祀)」と、偽りの人工芝・反対運動――

・ソ連の末期状態との類似性――いよいよカルト化・反社会化して、凶悪さをむき出しにする安倍政権――

安倍政権はいよいよ断末魔の状態にさしかかっているように見受けられる。この政権のやることなすことすべてが支離滅裂・あからさまな反社会的・国民蔑視・愚弄の抑圧政策になっている。

憲法改正や、緊急事態宣言など、この政権が実行を目論む凶悪な政策は、これからが本番とはいえ、あまりにも政治の劣化が激しいので、いよいよ体制の崩壊が近いのかも知れないと感じられる。まさに国家のメルトダウンが起きている。

戦後、本来ならば、もっと早くに倒されていなければならなかった体制が、そのまま温存された弊害がいよいよ誰にも無視できないほどに明らかになって、真の意味での体制転換の日が迫っていると見られる。

ソ連はチェルノブイリ原発事故後、そう長くは持ちこたえられなかった。ゴルバチョフが推し進めたペレストロイカ、グラースノスチによって世に出たスターリン時代を含むソビエト体制の暗黒時代の政府の機密資料の存在が、ソ連の体制の信頼失墜の決定打となり、崩壊を導いたことは疑いがないが、それに加えて、チェルノブイリ原発事故の悪影響をソ連政府が隠蔽し続けた悪影響も、相当に大きかったことであろう。

ソ連に限らず、理念を失った国家は滅亡する以外に道はない。戦前の財閥と天皇家の血縁と肥大化した官僚機構に支えられる現在の日本の国家体制が辿りつつある道は、古代ローマ帝国の崩壊や、ソ連崩壊を彷彿とさせる、内側からの道徳的腐敗・腐食による国家のメルトダウンである。

この政府の終わりは存外に早く来るかも知れない。今、国会を蹂躙している政権与党は、力が尽きるまでやりたい放題のことをするであろうが、彼らの拙速すぎる愚かな行動が、報われる日は来ないと思う。

景気が回復しないのに、国家公務員の給与やボーナスだけを政府がずっと引き上げ続けて、官僚のご機嫌を取っている近視眼的な策も、政府の寿命をさらに縮めるだけであろう。

福島原発事故にかかるコスト、さらにオリンピックによって生じる多額のコストも、急速な人口減少とあいまって、国家財政の赤字化に急速に拍車をかけるであろう。

ここに一つの予測を述べておくと、2020年を境に、この国の人口バランスと財政状態は目に見えて急速に悪化するものと思う。従って、公務員の給与引き上げなどは、あと二、三年もしないうちに、タブーとなるものと思う。そして、この国の行政府は、全体が、間もなく夕張市のような縮小の末路を辿ることになる。

だから、国民は、劣化する政府のまやかしの言辞に全く希望を託すことなく、今から自存できる方法を探しておくに越したことはない。遠からず、今のような政府の形態は終焉を迎えることになるだろう。そうなれば、組織や団体にすがってしか生きられない人々が、真っ先に難民化することになる。

国内の足元の土台が崩れ始めている時に、防衛費を拡大し、戦争に前のめりになっても、労働力と食糧さえまともに自給できないこの国に戦争の遂行が無理であるのは、すでに70年以上前に立証済みである。我が国には戦争に長期に渡り持ちこたえられるだけの体力も知恵もない。経済活動においても原則は同じであり、国内で需要を満たせない分、野心を抱いて海外に進出すれば、情勢の悪化に伴い、撤退を迫られたり、社員が現地に取り残されて帰国できなくなるだけである。


・リゾート法の二の舞となるであろうカジノ法案――20年と経たずに次々と破綻したテーマパークの前例――
 
さて、カジノ法(案)については、政府与党は、参議院での採決を延期するか、省略するかして、国民の目を欺き、国民感情が冷めてから実行に移せば何とかなると考えていると思われるが、現実はそれほど甘くない。

国会で拙速に法案を通したとしても、その後、カジノ法には、予想もしなかった様々な障害が持ち上がり、結果として、近道をしたはずが、最も遠回りになるだけであろう。

そもそもカジノなど、原発と同じで、いざ立地となれば、強硬な住民反対運動が起きることは目に見えている。
 
自分の住む街を、一攫千金の夢に騙されて賭けに負けた、人生のうらぶれた敗残者たちが、夜な夜な当てもなくうろつくような、恐ろしい界隈にしたいと願う住人は一人もいない。

どんなにIRに建設されるのはカジノだけではないと役人が念を押しても、住民は「今のままで十分」、「怪しげな大人たちにウロウロされたんじゃ、子供を連れて散歩もできなくなる」、「治安が悪くなり、地価が下がる」などと言って反対することだろう。

カジノ建設を巡っても、原発建設の場合と同じような、建設反対派と賛成派とによる住民同士の分断や、長期に渡る反目が助長されかねないことだけでも、すでに今から大いなる負の懸念材料である。

さて、「「巨大カジノ」で日本経済は本当に良くなるのか?」(静岡大学人文社会科学部教授 鳥畑与一 YOMIURI ONLINE 2016年11月07日 11時43分)などの論稿を参照しても、改めて、カジノを誘致して栄えた都市は基本的に世界にはないのだ、と思わざるを得ない。

カジノ大国の米国でさえ、
  


カジノによる繁栄の象徴であったアトランティックシティ(ニュージャージー州)が、カジノ収益の半減により、12あったカジノのうち、5つが閉鎖し、市経済が破綻に瀕している。ミシシッピ州の貧しい街がカジノで再生し、「チュニカの奇跡」と称賛されたカジノ街・チュニカも同様である


という状況であり、世界では希少なカジノ誘致の成功例のように言われるシンガポールでも、国内客のカジノ利用は厳しく規制されている。つまり、シンガポールのカジノは主として外国客向けで、国内客が集まらないおかげで、ようやく治安と依存症対策が保たれている様子である。

だから、もともと観光を主産業としているわけでない日本にカジノを建設してみたところで、外国客だけを最初からターゲットに絞るのは極めて困難と思われる。複合型施設というのであれば、なおさらのことである。従って、日本にIRを建設し、これを日本人客向けに経営すれば、結局、日本人の利用客を対象として見込むことになるが、この娯楽は日本人の従来の生活観・道徳観になじまないので、客足が遠のいて米国の二の舞となり、カジノは早期に破綻し、街の活性化にはつながらず、ただ治安が悪くなるだけに終わることは目に見えている。

カジノ法案は、かつてのリゾート法を彷彿とさせるが、カジノも、経営戦略においては、他の娯楽施設とそう大きな違いはないはずである。

かつてバブル期の87年に「総合保養地域整備法(通称リゾート法」が成立した。これに基づき、全国に無数のテーマパークの建設ラッシュが相次いだが、そのほとんどが、わずか20年も経たずに経営破綻したという事実に、大型娯楽施設の経営の難しさがよく証明されている。

次のサイトに掲載されているだけでも、リゾート法成立後に建設され、破綻(閉園)となった有名どころのテーマパークはこれほど数多く存在する。(紫字はすでに閉園済)。

倉敷チボリ公園の閉園や、ハウステンボスの経営破綻などは有名な例だが、リゾート法に後押しされて、国内客を当て込んで建設されたテーマパークは、その9割近くがすでに閉園となり、しかも、カジノの場合は、対象客が絞り込まれておらず、需要が明白でない上に、他の娯楽施設にはない弊害が「負のおまけ」として着いて来る。
 

長崎オランダ村(開園1983年、閉園2001年)
ハウステンポス(開園1992年、2003年破綻)
グリュック王国(帯広市 開園1989年、閉園2003年)
カナディアンワールド公園(芦別市 開園1990年、閉園97年)
志摩スペイン村(三重 開園1994年、2006年経営再建)
レオマワールド(丸亀市 開園1991年、2000年閉園)
呉ポートピアランド(呉市 92年開園、98年閉園)
柏崎トルコ文化村(柏崎市 96年開園、2001年閉園)
ナムコ・ワンダー・エッグ(1992年開園、2000年閉園)
シーガイア(宮崎 開園1994年、2001年破綻)
ワイルド・ブルー・ヨコハマ(開園1992年、2001年廃園)
鎌倉シネマワールド(95年開園、98年閉園)
富士ガリバー王国(上九一色村 97年開園、2001年閉園)
アジアパーク(熊本県荒尾市  93年開園、2000年閉園) 
チボリ公園(倉敷市 97年開園、2001年経営建直し、2008年閉園)
スペースワールド(北九州市 90年開園、2005年破綻)
新潟ロシア村(1993年開園、2003年閉園)
フェスティバル・ゲート(97年開業、2004年閉業)
ネイブルランド(大牟田市 95年開園、98年閉園)
伊豆長岡スポーツWワ-ルド(伊豆の国市、88年開園、96年倒産 )


かつてのリゾート法の反省もないままに、またぞろ過去と同じような政策を打ち出して来るのだから、よくよく過去の総括ができない愚かな政府である。

リゾート法とカジノ法案の抱える問題の類似性は、どちらもが、地元の歴史や伝統に根差した独自性のある産業の育成に力を入れず、外国からの借り物に過ぎないノウハウを使った娯楽施設を一朝一夕で建設し、短期間で一獲千金を狙うという安易な発想と、地域産業の活性化を国が主導・管理しようとする越権行為である。

早い話が、地域の活性化に名を借りて、国が大規模な建設需要を作り出して、手っ取り早く土建業者に利益を渡すための癒着の仕組みである。地元を犠牲にした利権にまみれた儲け話だから暴走しているのである。

安倍首相はカジノで雇用が創出できるなどと吹聴しているようだが、カジノを使わなければ創出できない雇用など、なくて結構である。売春宿に雇用されていることが、人にとって何の誇りともならないのと同じように、人様の不幸を踏み台にしてまで、自分だけが雇用にありつくことを、人に平気で願わせるような仕組みはこの国に必要ない。そんな「就職」がカタギの人間の人生にとって誇りとなり幸いをもたらすと思っている人間はすでに気が狂っている。

それにしても、市場原理主義もここまで行き着くいたのかと思う末期状態である。もともと金儲けが全てという価値観を教育現場にまで持ち込み、学校時代から、級友を出し抜いて、自分だけがテストで良い点数を取り、受験競争を勝ち抜いて、良い学校へ進学し、エリート官僚になり、エリート企業に就職して、上級国民の仲間入りすることだけを隠れた「国是」とするような、歪んだ教育システムを普及させ、国民の間に無駄に競争を煽った結果がこれである。

国民同士が互いを騙し合い、踏みつけ合い、食い合ってでも、人の弱みを利用して、他者を最大限不幸に追いやりながら、自分一人だけ、利益を得て甘い汁を吸い、勝ち残りさえすれば、人生の「勝者」だというわけであろう。

こんな悪魔的な競争からは、早期にリタイアするに限る。

カジノ法のようなものを放置していれば、次なる儲け話として、今度は国際的な大規模売春施設のビジネス展開やら、福島原発における廃炉作業や、自衛隊のかけつけ警護などを含めた、「現代の特攻・人材派遣ビジネス(実質的な人身売買)」などといった話も出て来よう。

戦前・戦中もそうであったが、人々の経済難・就職難という不幸を悪用して、人間を死出の旅路に赴かせる「人材派遣業(人身売買)」が隆盛を極めるのであろう。

我が国政府は、戦前・戦中も、国民の犠牲の山を作り出し、これを踏み台として、蓄財の根拠とすることにしか関心がなかったのである。その体質は今日に至るまで変わらない。

地方は、これ以上、地元の活性化という自分たちの大切な仕事を、この悪魔的な日本政府に奪われるべきではないだろう。地方の成長には、中央集権化された政府のマニュアルは必要ない。何百年間とそこに暮らす人々の間に受け継がれて来た地の利に関する知識や、伝統産業の技法や、地元の人々の自主的な暮らしの中で得られた知恵と工夫によって、生き延びる策は見つかるはずだ。それは外国から輸入することによって補いうるような紛い物のにわか知識ではないはずである。

大体、人間が自分の頭を使ってきちんと物事を考えなくなり、安易なマニュアルに頼って一獲千金の夢を目指し、それによって経済成長を成し遂げることができると考えるようになれば、そんな人間はもうおしまいであり、そういう考えの地域は真っ先に衰退して滅びるだけであろう。ギャンブルに手を出す人間も、そんな「ビジネス」に頼って産業を活性化できると考える面々も、どうかしており、共に気が狂っている。結局は両者共に同じ穴の狢で、悪魔的破滅へ落ちて行くだけである。関わらないのが一番である。


・各種の目くらましの反政府運動――SEALDsの人工芝・ネームロンダリング・政治資金規正法違反疑惑――

さて、少し遅くなったが、色んな場所で以下のビデオが拡散されていたので、ここにも貼り付けておきたい。

御用メディアと新聞がもはや人々に飽きられて見向きもされなくなってしまった中、アーティストによるこのような「抵抗運動」は、今後ももっと増えて来るものと思われる。もともと芸術には真の犠牲に裏打ちされた迫真性がなければ、決して人々に支持されることはない。

長渕剛について筆者は今は何とも言えないが、各人の抵抗がどれだけ本気であるかは、その生き様によって裏付けられるだろう。中島みゆきのように、ある程度までは、はみだし者・反骨精神のアーティストとしてかなり良い線を行きながらも、団塊の世代の代弁者として高度経済成長などの国策に沿った歌を作り、最終的には国策及びメディアと合体してしまうのか、それとも最後まで反骨精神のアーティストとして残るのか、興味深いところである。


【長渕剛】FNS歌謡祭 初出演!『魂の叫び〜乾杯』(2016/12/07... 投稿者 happy274

ただし、LITERAの解説「長渕剛がFNS歌謡祭でワイドショーや歌番組を真っ向批判! 凍りつくフジ、『とくダネ!』は長渕映像を封印」(2016.12.08.)を読むと、長渕剛は反安倍政権デモの学生団体SEALDsを支持していたようであり、この点はいただけない。

SEALDsについては、すでに色々なところで疑惑が表明されており、その中でも最も有力な説はこれが草の根反対運動に見せかけだけの「人工芝運動」であるということである。以前から当ブログでも、この学生運動は、体制側によって巧妙に仕組まれた偽りの運動に過ぎないという見解を示して来た。

特に、信仰者の立場からあえて言わねばならないことは、聖書に基づくキリスト教信仰と、組織としてのキリスト教界は全く別物であり、キリスト教界(関係者含む)は偽善にまみれて腐敗した組織となっているため、キリスト教界とその関係者から出て来る「善良そうに見える弱者救済運動」は、特に内容を疑ってみる必要があるということだ。

SEALDs代表者の奥田愛基氏の父奥田知志氏は、すでに述べた通り、ホームレス伝道という弱者救済事業に従事する牧師であるが、奥田牧師の弱者救済思想の理念をつぶさに見て行けば、それが極めて聖書から離れた、牧師にふさわしくない異端的な思想であることは、すでに記事の中で明らかにした。

そもそもキリスト教は、聖書の神の御言葉に基づく信仰による救いという、目に見えないパンを人々に紹介することを第一義的課題としており、これは経済困窮者に地上のパンを与えることを主たる目的とする弱者救済の思想や社会活動ではない。にも関わらず、目に見えないパンと、目に見える地上のパンの優先順位を逆にしたとき、それはたとえどんなに人間の目や耳に優しく心地よく響いても、もはやキリスト教ではない悪魔的な思想へと変わって行くのである。

こうした見地に立てば、奥田牧師は真の信仰者でなく、キリスト教徒に見せかけた非キリスト教思想の持主であり、愛基氏は幼い頃からホームレス伝道にのめりこむ父親の悪影響を受けて、自身が深い孤独や絶望を経験したにも関わらず、父親の活動の欺瞞を批判することなく、むしろ、これを継承し、同じ手法によって、弱者の弱みにつけ込み、救済者のような役を演じることによって、世間の注目を浴びて有名人となった。愛基氏の活動は、キリスト教のホームレス(路上生活者)伝道の手法から宗教色を除き去り、対象者を路上デモ者に置き変えただけのものである。

SEALDsはこれまで幾度も名前をころころと変えては活動を行い、現在は、Re:DEMOSと改称している。奥田氏が2011年の震災後に主宰した政治団体だけでも、TAZ、SASPL、SEALDsといくつも名称が変わっている。

これほど短期間で頻繁に名称を変えねばならない理由は不明であり、特に、SEALDsが何の目的達成もされていないのに、昨年8月15日という時期に解散した意味も全く不明であり、その解散前に、この団体に対する政治資金規正法違反の疑惑が浮上していた事実は見逃せない。

SEALDs、政治資金規正法違反の疑惑浮上…違法な手段で寄付募集や政治活動か」(BUSINESS JOURNAL 2016.06.27)などを参照。

結局、SEALDsの解散は、政治資金規正法違反の疑惑から世間の目をそらすための目くらましであった可能性があり、その意味で奥田氏の度重なる政治団体の改称は「ネームロンダリング」とも揶揄される。

筆者は当ブログにおいて、ペンテコステ運動に属する似非キリスト教の教団である日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の(牧師でもない)信者の鵜川貴範氏が、幾度も幾度も名前を変えて、経歴を詐称しながら、自分のミニストリーを開いて来た過去があることを指摘した。

鵜川貴範氏に限らず、そのような方法は、ペンテコステ運動の偽指導者の使う常套手段である。この似非キリスト教運動は、短期間で、次々と新たな「自称預言者」を生産しては、社会的弱者などを旗印に使って、お涙頂戴の物語を提示し、指導者に派手なパフォーマンスを伴う新種のミニストリーを打ち出させることで、信者から金を巻き上げるプロの宗教詐欺である。

ペンテコステ運動の指導者らは突然、どこからともなく現れて、人目を引く派手なパフォーマンスを行い、弱者救済の理念を打ち出して、人々の同情や共感を巧みに引き出しながら、その間に集金活動にいそしみ、短期間で大量の献金を募って姿をくらますのである。しかも、鵜川氏に見るように、指導者としての訓練さえ受けていないたった一人の信徒が、生涯に渡り手を変え品を変え、このような詐欺的な活動を繰り返す例もある。

奥田愛基氏の行動は、こういう偽りのキリスト教徒の用いる方法を彷彿とさせるものである。

しかも、ペンテコステ運動の詐欺師と呼ばれて差し支えない宗教指導者の多くは、社会的マイノリティの出身であったり、元ヤクザや、病者や、自殺志願者であったり、過去に何かしら不幸な体験や生い立ちを抱える「いわくつきの人間」であることが多い。

そうした人々が自分の負の体験や生い立ちを売り物にして、自らを「社会的弱者の代表者」のように見せかけ、人々の被害者意識と一体化し、同情票を得ながら、集金活動を行う。奥田氏の活動はその点もよく似ている。

多くの日本人は、弱者救済に見せかけた偽りのお涙頂戴物語を疑うことができないので、これが詐欺の仕掛けであることをも見抜けず、自分の代わりに抗議の声を上げてくれそうな誰かに安易に期待しては、資金を託そうとする。

だが、こうして自分自身は声を上げずに、今まで通りの生活を送りながら、自分の代わりに疑問を代弁してくれそうな誰かに期待を託した時点で、裏切られることはすでに決定済だと言えよう。

そのことは、川内原発の再稼働反対を訴えて当選したはずの鹿児島県知事三田園氏の「変節ぶり」からも見えて来る。同氏の変節は選挙当選直後から始まっていたようである。

【三反園ショック(上)】「原発ばっかり、答えようがない」 当選後、報道陣振り切る三反園氏…九電「元の木阿弥」募る懸念」(産経WEST 2016.7.12 07:36更新)

三反園鹿児島県知事の正体(上) 」(ニュースサイト ハンター 2016年10月11日 11:10 この他にも一連の記事あり)などを参照されたい。

同じことが、翁長知事にも当てはまる。翁長知事は「辺野古に基地を作らせない」ことを公約に掲げながらも、その行動を見れば、結局、基地建設を容認する側に回るであろうという予測を、植草一秀氏が何度も訴えている。

筆者は、これまで幾度か、沖縄の基地問題について、記事を書こうとしたが、その度ごとに思い起こされるのが、沖縄のキリスト教界におけるカルト被害者問題であった。

筆者にはどうしても沖縄の人々を一方的な被害者として描くことはできない。筆者は当ブログにおいて、上記した通り、似非キリスト教であるアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団において、キリスト教界において被害を受けたとする「カルト被害者らの救済活動」を主導する村上密牧師が、どれほど危険で信用ならない人物であるか、再三に渡り、書いて来た。

だが、沖縄のカルト被害者の一部は、同牧師の信用できない人柄を筆者以上によく知っていながら、それでも公然と反対の声を上げないのである。沖縄には村上氏の統制が本土以上に行き届いており、反対者は即座に報復を受けるというのが理由であった。

これを知った時、筆者は何と臆病なことかと思うと同時に、直観的に翁長知事のことが頭をよぎった。沖縄の人々は、自分たちの問題を手っ取り早く解決してくれそうな政治的リーダーに安直な期待を寄せるという受け身の生き方を未だやめられないのかと思ったのである。

リーダーに欠点があることを知っていても、それでもまだ自分ではない誰かに自分たちの「被害」を代弁してもらおうというナイーブで依存的なものの考え方をしている限り、きっとこれからも騙され続けるだろうという気がしたのである。

 これはあながち厳しすぎる書き方とは言えない。それは筆者自身が、キリスト教界において「神の代弁者」をきどる牧師やパスタ―などといった人種がどれほど不誠実で信頼ならない私利私欲にまみれた偽善者であるかを軒並み見続けて来たことから来る直観的な確信である。

政治家も宗教家も、騙しのテクニックはみな同じで、人が自分に関する極めて深刻重要な問題の解決を、自分ではない誰かに全権委任し、その人間が善意によって自分の要望に都合良く応えてくれるだろうと期待し始めた時点で、敗北はすでに始まっているのだと言えよう。

沖縄の独立という問題は、日本全体の独立とも深くつながる精神的には一つづきの問題だと筆者は考えるが、この問題が長引いている背景には、人々の弱みを利用し、依存心につけこむ悪なる権力者たちの存在があるだけでなく、そうした欲深い権力者の正体を見抜けず、彼らに自ら期待を託そうとする人々の愚かさという問題がある。

人間の真の自立は、目に見える人間のリーダーへの安易な依存や期待を捨てて、まず、自分の抱える問題を、誰にも明け渡さず、ただ自らの力だけで解決してみせるという意気込みを持たない限り、決してやって来ることはない。自分の抱える問題を他者に解決してもらおうとしている限り、その人間は自立のスタートラインにさえ立てないと思われてならない。

SEALDsにも全く同じことが言える。人々がこの団体に希望を託そうとするのは、自分にはできないことを彼らが自分に代わって成し遂げてくれるという期待からである。この団体を支援する人々の心理は、慈善事業への支持とほぼ同じで、要は特権階級による一種の罪滅ぼしである。
 
若者だから、話が巧みだから、勢いがあって、純粋で善良そうだから・・・、そんなうわべは、彼らが信用できる人間だという何の根拠ともならない。いつの時代も詐欺師ほどパフォーマンスは巧みなのである。

奥田愛基氏のように、2015年以前にはほとんど注目されていなかった若者が、何のバックアップなしに独力でメディアで注目される活動を行うことは、まず無理なのだという事実に気づかなければならない。メディアに好意的に取り上げられていること自体が、すでに十分な疑いの根拠になりうる。以下の画像は、「元SEALDS政治資金規正法違反、カンパの使途不明、収支報告非公開、資金源についての調査1」M.x.file (2016/9/21(水) )から転載したものだが、このような広告を朝日新聞の前5段に載せるには、定価ベースで1500万円の資金が必要となるという。

この不況下で、求人広告さえ有償で出せない中小企業も多い中、学生団体に過ぎないものが、このような高額な広告を出し、それが社会に容認されていること自体、随分、おかしな話であると、多くの人々はなぜ疑わないのか。こんな広告が出せるなら、SEALDsがカンパを募らなければならない必然性はもとよりないと言えよう。にも関わらず、「学生の善意と借金で運営されている」などとアピールして、しきりにカンパを募り、しかも、そのカンパさえ、政治資金規正法違反の疑いが濃厚というのだから、こんな団体のどこに透明性・信頼性があるだろうか。

よくよくダブルメッセージが大好きな連中であると思う。美しい謳い文句だけを掲げて、この国が民主主義国家であるかのように見せかけて、人々を酔わせておいて、本質的に重要なアクションが何であるかを人々に見失わせ、人の目を欺いて、正反対の結果を導くのである。

「断固、ブレない、TPP反対」などと言っていた連中と全く同じ手法である。目下、我が国の民主主義は立ち止まり、機能停止の上、死に瀕している。SEALDsが民主主義の前進の何の役に立ったというのか。言っておくが、歴代首相のすべてが天皇家の血縁だという事実だけを見ても、我が国はもとより民主主義国家ではないことは誰の目にも明白である


イメージ 1
 (この新聞広告が出せる団体は大企業に匹敵する。カンパの必要はない。)



・死者が大好きなオカルト政府とオカルト信者の安倍晋三による
真珠湾の死霊詣で

さて、この度、突然に発表された安倍晋三の真珠湾訪問について、これをサプライズ外交だなどともてはやすメディアはともかく、なぜ、今、真珠湾なのか。日本人の多くは突如、発表されたこの訪問について非常に不気味な印象を覚えている。

安倍のパールハーバー訪問は、まずは拙速なトランプ詣でに対して抗議を申し入れたというオバマ政権からのお仕置きのためのお詫び行脚の要求であった可能性が高いが、そうでなくとも、政治的に過去の出来事が引き合いに出される時には、いつでも現在の出来事と同時進行するものとして、二重のコンテクストを持つ。

安倍の他ならぬこの時期のパールハーバーへの訪問は、南スーダンへ自衛隊の派遣が行われたことなどともおそらく無関係ではあるまい。

つまり、この訪問は、これから先、自衛隊を軍隊に昇格させて「お国のために」命を捧げる人間たちを英雄化したいという安倍の野望に、米国の側からしっかり釘を刺す機会として利用されるものと思われる。もしも日本がこの先、軍国主義の復活を目指して、米国の指示に一歩でも先んじて暴走しようとするならば、何度でも同じことが起きるぞ、という警告である。

だから、安倍の今回の真珠湾訪問は、自衛隊の任務が着々と拡張されつつあることに対する米国からの牽制の意図があると受け止められる。70年以上前の日本軍の”罪過”を今再び蒸し返すことで、安倍の国家主義の暴走に釘を刺しているのである。

だが、それだけではない。兵頭正俊氏は、この訪問は、オバマの広島訪問と対を成すものであり、原爆投下に対する国際的な非難や、米国内での罪意識が高まる中で、要するに、原爆投下は日本軍の暴走を止めるためにやむを得ない措置だったというストーリーを強化し、今日の日米軍事同盟が、日米両国の双方からの合意に基づく欠かせないものであるものと見せかけるための儀礼的なパフォーマンスであるとみなす。
 

ポピュリズムとファシズム」(2016年12月8日)から引用 

「太平洋戦争における、軍事的には不必要だった広島・長崎への原爆投下は、インディアンや黒人への原罪意識と同様に、時間とともに米国の贖罪意識に深化しつつある。また、米国の若い世代では、原爆投下は不必要だったという認識が増えてきている。それを解消するために、米国の1%はオバマを広島に遣わしたのである。

その意味は、太平洋戦争は、日本の宣戦布告なしのパールハーバー急襲から始まり、広島・長崎への原爆投下によって終わった。原爆投下は、戦争を終わらせるためにやむを得ないものであった。オバマの広島見物はこのストーリー強化の第一幕なのである。

(中略)

このストーリーを完成させるためには、第二幕として日本の首相にパールハーバーを訪問させ、謝罪させなければならない。そこで初めて米国は太平洋戦争の贖罪意識を払拭できるのだ。

米国にとってはパールハーバーがあくまでも中心であり、パールハーバーによって広島・長崎を相対化したいのである。

(中略)

広島とパールハーバーを両国の首脳が相互訪問する戦略は、

1 米国の広島・長崎への贖罪意識の払拭

2 米日軍事同盟の強化

の2点から成っている。

(中略)

行き着く果ては米日軍事同盟の強化なのだ。

第一幕はすでに上がった。オバマの広島見物で日本が失ったものは大きい。いずれオバマによって拡大強化された小型核兵器を、米軍支配下の自衛隊が使う時代がくるかもしれない


こうして、「真珠湾攻撃があったから、原爆投下もやむを得なかったのだ」というストーリーが強化され、到底、つり合わない二つの出来事を「相殺」することによって、原爆投下の罪悪が「帳消し」にされるだけでなく、結局、米国の助けなしには、日本は永久に自立などできない半人前の国家なのだというストーリー立てが日米の両政治家によって流布されるのである。

つまり、日本という国は、今も昔も、己自身の力だけによって自分を正しく治めることのできない半人前の未熟な国家であり、米国の庇護なしには一瞬たりとも自存できず、それは日本政府自らが認めている事実なのだから、日本の自衛隊も、日本国民も、米国の絶えざる監視と制約の下で行動するのは当然であるという見解を、日米両国の合意事項として既成事実化し、事実上の占領状態を半永久的に長引かせる狙いがあると考えられる。

安倍自身の思想に照らし合わせても、今回の真珠湾への慰霊訪問は、おそらく本意ではなかったに違いないと思われるが、そのようなストーリー立てにチャンスを与える隙を、拙速なトランプ詣でにより、安倍が自ら作ったのである。

日本という国は、70年以上も前の「罪過」をもとに未だに精神的に脅され、ゆすられ、半人前扱いされているのであるが、ある意味では、そのためにこそ、日本の政府高官や国会が、日本会議メンバーで占められているという事実や、安倍が首相であるという事実があるのではないだろうか。

岸信介がCIAに身売りしたことと引き換えに、A級戦犯としての処刑を免れ、首相の座にまで上り詰められたのだという話はよく広まっているが、米国は安倍晋三の危険な政治思想をよく知っているはずである。

こうした事実は、日本という国をあえて「自立できない危険な国」に見せかけ、思い通りに操り、弱体化しようと考える国が絶えず行っている見えないクーデターであると考えられないだろうか。

だが、安倍晋三は、我が国政治家が、単に政治的に米国に身売りしているだけでなく、霊的・魂的なレベルでも、悪魔に身売りしているのだという事実をよく示しているものと思う。

これまで当ブログでは、米国から持ち込まれたキリスト教の異端としてのペンテコステ運動が、いかに日本のキリスト教界を堕落させたかという危険な特徴について分析して来たが、安倍晋三は、この運動の危険な霊媒師と非常に共通する特徴を持っている。

ペンテコステ運動は一応表向きにはキリスト教を装っているが、実質的には、統一教会と変わらないただの異端であり、彼らを動かしているのは悪魔に由来する偽りの霊であって、彼らはその偽りの霊を受けて語る霊媒師なのである。

聖書のたとえでは、悪霊は、人間の中に大量に住むことができることが示されている。以下に挙げる安倍首相夫人の言を通しても、安倍が関わって来た「宗教」は統一教会だけではないこと、従って、安倍晋三はもはや一つや二つだけでないあらゆる正体不明の汚れた霊どもの住処になっている可能性が高いように思われてならない。

以下の記事がどこかの新興宗教のパンフレットであれば、誰も相手にせず笑って通り過ぎるだけであろうが、首相夫人の発言だというから呆れる。
 

 「「日本の精神性が世界をリードしていかないと地球が終わる」 安倍昭恵氏インタビュー BLOGOS 2016年11月09日 11:14 以下、昭恵夫人の発言

深く考えないで」というか。何をするか考える時にも、「じゃぁ、これ!」みたいな感じで生きているので。

「そうですね。でも今はごちゃごちゃで、自分でも何してるのか、よくわかっていなくて。でも「神様に動かされてる」と思っているので(以下略)」 

「キリスト教の学校で育ったんですけど、今は別にキリスト教というわけじゃなくて、どちらかというと神道です。」   

私は、大きな自然の一部であって、“動かされてる感”がすごくあるんですよね。主人もよく言うのですが、総理大臣は努力でなれるものではなくて。」  

「そこで総理大臣になるっていうのは、“何か持ってる”“何か別の力”だと思うんですよ。「神」という言い方をしなくてもいいんだけど、なんかこう、“大いなる力”が働いていると私は思っていて。その力にある意味流されてるというか、乗っかっているのかなと、私は感じます。  」 

主人自身も特別な宗教があるわけじゃないんですけど、毎晩声を上げて、祈る言葉を唱えているような人なんですね。 」


こういう人々が「神」と呼んでいるものは、間違いなく、悪魔に由来する霊であって、この夫婦は正体不明のオカルトの「霊」に操られていればこそ、自分では主体的・能動的に物事を考えられなくなって、印象と感覚が命じるままに、受け身に流されて生きているのである。

ペンテコステ運動のようなキリスト教の異端の最たる特徴は、人間が知的・論理的に深く物事を考察することをやめて、ただ印象と直感を重視して、考えもなしに愚直な体験主義に走るようになる反知性主義にあって、その危険は、人間に理性を失わせる麻薬と同じである。だが、そのようにして理性を失っているにも関わらず、この運動の信者たちは、愚直な自分たちこそ最も賢く正しいと思い込むのであって、こうした頑なさ、高慢さは、悪魔に由来する「偽りの知恵」から来るものであることを再三に渡り、述べて来た。

その意味で、安倍首相夫妻の思想的高慢さは、まさにペンテコステ運動の信者たちと全く同じ病理的様相を呈している。物事をきちんと吟味・考察する力を失い、フワフワとした印象と感覚だけに流されて直情的・衝動的・受動的に、愚直な思いつきで生きているにも関わらず、そんな自分たちが世界で最も賢い知恵ある人間であるかのように思い込み、自分たちの指南がなければ「地球が終わる」とまで思い込んでいるのである。ほとほと呆れるとしか言いようがない。

どんな宗教を信じていようとも、こういう高慢さが、日本人の精神性のうちには含まれていないということだけははっきり言える。日本人はもともと謙遜を重んじ、決して自分自身を人前で高く評価したり、自ら勝ち誇ることを美徳としない国民性の持ち主である。

だから、上記の安倍首相夫人が述べているような思想は、明らかに、日本人の伝統的な精神性から出て来るものではなく、何か「外来の異質な思想」がそこに加わった結果である。

そして、こうした根拠のない思い上がりは、元を辿れば、大抵、悪魔が人間に吹き込んで生まれる異端思想へと行き着く。人間が自分自身できちんと物事を考えず、オカルト的な霊の言いなりになって受動的に動いていればこそ、「何か大きな力に突き動かされている」という自覚が生まれるのであり、悪魔に操られているにも関わらず、自分たちは「神に従っている」と思い込んでいるのである。

上記のインタビューの中で、首相夫人が、安倍総理が、総理にふさわしい実力もないのに、何か得体の知れない力が働いた結果、首相の座に返り咲いたと語っていることは重要である。

これは、安倍が首相の座に再び返り咲いたのが、(米国からの政治的なバックアップのみならず、)まぎれもなく悪魔的な力、オカルト的な力との闇取引の結果であることを物語っている。おそらくは、安倍はその正体不明の”霊力”を受けるためにこそ、毎晩、得体の知れない相手に向かって祈祷を続けているのであろう。そして、安倍の政治は、このオカルト的な呪いに満ちた霊力を我が国のみならず、全世界に波及させるための「祭祀」であり「儀式」なのである。

宗教に全く理解のない人々は、こうした話を笑って受け流すかも知れないが、悪魔と契約を結んだ結果、人が地上で偽りの栄光を受けることは、ハリウッドスターなどの芸能人や芸術家やマジシャンなどには極めてありがちな話である。

すでに述べた通り、悪魔に魅入られる人間には、幼少期からの暗い特殊な生い立ちがあることが多いが、安倍晋三にはその意味でも絶好の材料を持っている。これに加えて、人生のどこかの時点で、安倍自身がオカルト的な力に自分の魂を完全に売り渡し、それと引き換えに現在の立場を得ているのであろう。

悪霊から来る力を受けていればこそ、同氏の思想は反知性主義、人権抑圧の悪魔的思想に貫かれているのであって、同氏の用いる論法は、ことごとく嘘、詭弁、ごまかし、論理のすり替え、脅しなどの暗闇の手法に満ちているのである。

首相夫人の言葉によると、彼ら夫妻は、日本のみならず、全世界をも自らの悪魔的思想によって統治することを目指しているオカルト政治家ということになる。要するに、世界征服の野望に憑りつかれているのであって、彼らの言う「地球儀俯瞰外交」なるものはその野望の言い換えなのであろう。

そして、以前から書いている通り、悪魔的な思想は、常に死者の世界に非常な関心を抱いており、多くの霊媒師たちは、死者の霊と好んで交流する。

だから、安倍晋三が真珠湾に赴くのは、同氏による死者の霊への追っかけとみなせる。”英霊”に対する愛着もそうなのだが、そこには基本的に死者の霊への愛着が表れているだけでなく、もっと言えば、「自ら殺害した犠牲者の霊への尽きせぬ思慕」という、まさに犯罪者の精神性としか言いようのない異常嗜好が込められている。

以前、筆者は、安倍晋三の内心は、いや、安倍晋三だけでなく、日本政府の異常な精神性は、童話の『青ひげ』とまるで同じだと述べたことがある。『青ひげ』の童話においては、青ひげの家の秘密の部屋には、青ひげが自ら殺した数多くの妻の亡骸がうずたかく積まれていることになっている。だが、現実に、これを地で行っているのが我が国政府であり、我が国の厚労省の建物内部には、未だ70年近く前の戦没者の白骨がうずたかく積まれている。これはオカルトや創作ではなく、現実の話であり、どこにも引き取り手がなく、他に行き場がない戦没者たちの遺骨が当局に何十年間とため込まれているのである。

政府当局が、70年近く前に死んだ国民の身元も知れない白骨化した遺骸を、何十年間も公の官舎に大量にため込んでいるなどという話が、世界のどこか別の国で聞かれるであろうか?

この政府は、そういう異常なことをしておきながら、もう一方では、戦没者たちの亡骸の前に立って、さめざめと頭を垂れて空涙を流し、「二度と過ちは繰り返しませんから」などと述べて、反省したふりをしながら、犠牲者を上から見下し、人々の犠牲を利用して偽善者ぶりを最大限に発揮して、脚光を浴び、自己満足しているのである。

このようなものが真の反省とどうして言えるであろうか。我が国では、かつての軍国主義政府に逆らって特高警察に殺された人々の名誉回復さえまともになされていない。約70年前に政府が自ら殺したも同然の国民の亡骸さえも十分に弔っておらず、遺族のもとに返されてもいない。にもかかわらず、この国の政治家は、もう国内の犠牲者や、自国の戦没者はさて置いて、他国の戦没者を「追悼」するという華々しい役割を引き受けて、全国民に頭を下げさせ、自らを栄光化しようと言うのであろうか。どこまで浅ましい人たちなのか。

こうして、このオカルト政府は、自分たちが踏みにじり、愚弄し、犠牲とした人々を、死後までも半永久的に愚弄し、己が栄光の手段に変えることに、手放せない快楽を見いだし、そのためにこそ、彼らは好んでもの言えない死者を訪問するのである。生者からも生き血を吸うが、死者の栄光までも盗むのである。

こうして、一方では、口先だけで過去の「戦争の罪過」を反省したかのように装いながら、もう一方では、着々と防衛費を拡大し、自衛隊の任務を押し広げ、近々新たな戦争を起こして、どうやって自国民を犠牲にするか、機会を伺って話し合い、戦争が起こらないまでも、国民を紛争地へ送り込んで、どうやって国民の白骨をまた増やそうかという考えに胸躍らせているのである。

一体、これが青髭の異常な精神性とどう違うというのか。我が国はまさにかつてのソ連やナチスや北朝鮮とそっくりになって来ているとしか言えない。


・「風が吹けば桶屋が儲かる」――他者の弱みを食い物にして利益に変えるカルト宗教と偽善者政府とのマッチポンプ――

さて、このカルト化した政府は、死者から栄光を盗むだけでは飽き足らず、自らが国にもたらした恐るべき人心荒廃、国土の荒廃、国民に強いた犠牲に対する「処方箋」として、自分たちの偽りの「宗教」をマッチポンプとして提示する。

医者が人の病気なしには儲からないのと同様、詐欺師の政治家にとって最も困るのは、人々が自立して、彼らの助けを必要としなくなることである。だから、詐欺師の政治家にとっては、雇用情勢の悪化や、経済の貧困化など、国民の問題は山積しておいた方が良い。

だから、彼らは必ず人の弱みや、他者の犠牲を自分たちのパフォーマンスの材料として利用する。人の弱みにつけこんで、救済者のように登場し、脚光を浴び、栄光を受けようとする。彼らの政策はもともとすべてマッチポンプである。

もし他者に弱みがなければ、あえて問題を作り出してでも、彼らはターゲットとなる人間を弱体化させる。弱体化させた上で、自分たちの助けなしには生きられないと言って人を自分に依存させ、栄光を盗むのである。

安倍晋三の政治家としての手法は、人々の弱みを利用することで成り立って来た。だが、北朝鮮拉致被害者の問題もそうであるように、安倍晋三が着手して成果らしきものがわずかでも出た問題が一つでもあったか。

彼らにあずけた問題には解決がないのは当然で、こうした連中にとっては、いつまでも人を脅しつける材料として、人の弱みは永久になくならない方が有利なのだ。

こうして国民の弱みに寄生し、それを食い物とする政治家たちのマッチポンプが最後に行き着くのが宗教である。

この度、衆院でのカジノ法案の審議中、国会で般若心経を読み上げて批判を浴びたという自民党の谷川弥一衆院議員が、無駄な長広舌の中で語ったのが、カジノ法案がもたらす「負の部分」としての人心の荒廃に対する「処方箋」として宗教の必要性であった。

(「カジノ法案質問で般若心経 「採決前」6時間審議の中身」(J-Castニュース 2016/12/ 5 21:00等を参照。)
 
つまり、カジノ法などを通して徹底的に国民生活を荒廃させれば、人心荒廃現象に対する「救い」として、自ら宗教に走る人々が増えるから、宗教が儲かる、そこで政府は宗教の必要をぜひとも見直して、宗教ともっと緊密に連携していただきたい、というのが、この議員の主張であった。

自ら人心を荒廃させるような政策を推進しておきながら、「(野党のように対案もなくただ一方的に)批判するだけでは芸がない」、「我々には宗教というれっきとした『対案』がある」と言うわけである。

何ともおぞましいまでの偽善者ぶり、典型的なマッチポンプ型思考ではないか。

こういう偽善者の宗教家らにとっては、原発事故の被害を含め、国土の荒廃、人心の荒廃、国民の不幸、犠牲、弱みこそ、まさにビジネスチャンスなのである。徹底的に人を苦しめ、不幸に追いやり、犠牲にしておいて、自分たちは混乱の最中に、犠牲になった人々に優しく「救いの手」を差し伸べるヒーローを演じ、それをきっかけに人々をまた新たな抑圧の中へと閉じ込めて行くのである。

こうして、前回の"On your mark"に関する記事でも述べたように、放射能汚染などの恐怖によって人々を脅すことで、国民を自由なき牢獄に閉じ込めて支配するカルト宗教と、この宗教と一体化した政府が出来上がる。

谷川弥一衆院議員の主張の趣旨は、「カジノ法案その他その他で、この国が暗黒国家へと転落し、人心が荒廃した分は、我々宗教が受け皿になりますよ。こんな美味しい話はないじゃないですか。ですから、政府もぜひともここは一つ宗教と手を組んでですね、利益を山分けしましょう」ということに尽きる。

こんな話が国会で聞かれるということは、悪魔的宗教と政府が公然と手を結んで、祭政一致に至ろうとしている事実を示すものでしかない。我が国は、まるでヨーロッパ中世を彷彿とさせるような、暗黒国家への転落にさしかかっているのである。

この国の国民はそろそろ、この国のトップや要職の座についているのは、シャーマンと同様のいかがわしい霊媒師・詐欺師であって、彼らは次から次へと国民に目くらましの魔法(呪い)をかけては国民を抑圧し、国民が弱体化したところに偽りの助けの手を差し伸べることによって、救済者を演じながら、自らの魔術師としての仕事の需要を作り出しているだけだということに、いい加減、気づく必要がある。

彼らは、ペンテコステ運動の指導者と同じく、詐欺師であり、霊媒師なのである。彼らにとっての政治とは、自分たちのオカルト的な霊力を全国に押し広げ、波及させるための魔法としての「まつりごと(祭祀)」である。

彼らが次々と打ち出す政策は、霊媒師のお告げと同じく、決して的中することのない嘘の予言であり、彼らの繰り広げるパフォーマンスは、国民を欺くための「魔法」であると同時に、「呪い」である。これ以上、彼らに嘘と呪いの言葉を言わせないためには、彼らに口を開く機会を与えるべきではない。

安倍政権はそもそもが違憲内閣であり、この政権が実行することは、ことごとく規則破りであり、彼らの権威は、現実に立脚しない幻の上に築き上げられたものに過ぎない。安倍政権とそれに追従する人々は、害ばかりもたらす凶悪な政策を次々実行し、国を徹底的に破壊し尽くす前に、憲法違反の罪に問われ、公職から追放されなければならない。

だが、偽りの指導者とそれにつき従う従者たちは、自分たちが詐欺師であることをよくよく分かっていればこそ、その正体が告発される前に、先手を打って、憲法を改正し、人権を抑圧し、自分たちを告発する可能性を持つ人間(国民)を根こそぎ抑圧し、滅ぼそうとしているのである。

王妃エステルが大臣ハマンに立ち向かったように、自分の全ての利益と引き換えにしてでも、これらの連中を弾劾する人々が出て来なければならない。