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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし、その心が主を離れ去っている人は。

「待ち続けるだけでは心が病む。

かなえられた望みは命の木。」(箴言13:12)


少し前の記事で、筆者は二着の「アカンの外套」を心から捨て去ったと書いた。このアカンの外套とは、人の心の偶像となりうるものの比喩である。神は、信じる者が、ただご自分だけに頼ることをお求めになる。人間への愛情と、神への愛情はほとんどの場合、両立しない。このことを私たちはよく覚えておく必要がある。主を経由しない魂の愛情はことごとく腐敗したものとして取り除かれる。


「主はこう言われる。

 呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし

 その心が主を離れ去っている人は。

 彼は荒れ地の裸の木。

 恵みの雨を見ることなく

 人の住めない不毛の地

 炎暑の荒野を住まいとする。

 祝福されよ、主に信頼する人は。

 主がその人のよりどころとなられる。

 彼は水のほとりに植えられた木。

 水路のほとりに根を張り、

 厚さが襲うのを見ることなく

 その葉は青々としている。

 干ばつの年にも憂いがなく

 実を結ぶことをやめない。」(エレミヤ17:5-8) 


この原則は厳しいものがある。真に実を結ぶ生き方をしたいなら、目に見える一切のものに心を留めず、ただ真直ぐに主を見なければならない。上にあるものを求めなさい、と聖書は言う。地上のものに心を惹かれると、それが私たちに絡みつき、足手まといとなる。人間に頼る者は滅びる。

だから、主の御前に静まって、いつもただ主にのみ己の心を注ぎだすことを忘れてはならない。異教徒の娘デリラを愛しすぎたサムソンは、聖なるものと、汚れたものとの区別を見失ってしまった。デリラの愛は不実であって、デリラに心を秘密を打ち明けたことがあだとなり、眠っている間に、サムソンは髪の毛を切られ、力を失ってしまう。

目覚めたとき、サムソンの怪力は失せており、彼は奴隷として捕えられ、引いて行かれることとなった。何度も書いたことであるが、その後の彼の運命は悲惨であった。両眼をえぐり出され、奴隷として重い引き臼を引きずり、ついに生涯の終わりにはペリシテ人の宴会の余興として引き出される。そのとき、サムソンは、最後の力を振り絞ってペリシテ人の神殿を崩壊させるが、自分もその下敷きになって死んだ。

もちろん、サムソンの運命は、人の堕落した肉の性質がどれほど深いかを表しているのであって、それは主イエス・キリストが十字架で担われた刑罰の予表でもある。サムソンは、信仰を失うことはなく、生涯の終わりには、自分自身のすべてをかけてまことの神を証した。しかし、できるならば、キリスト者はそんな運命を辿ってはならない。

サムソンの勇者としての力は、ただまことの神のみを信頼するところにあった。そこで、私たちが鷲のように翼をかって、天高く舞い上がるためには、同じように、主のみを信頼して、足手まといとなる地上のものへの信頼をすべてを心から振り捨て、ただ上にあるものを真直ぐに求めねばらならない。

そのために、人の目に慕わしいもの、心に好ましいもの、地上的なものへ心惹かれ、それを信頼しようとする傾向を警戒しなくてはいけない。真に重要な事柄を、神ではなく人間に打ち明け、人を信頼して歩いて行くことをやめなければならない。

神の御言葉を流暢に語っているからと言って、誰もがキリストの僕であるわけではない。霊を試さなければならない、と聖書は言う。さらに、仮に忠実なキリストの僕であっても、主ご自身以上に、目に見える人間に頼ることも非常な危険である。

そういうわけで、この道の原則は厳しい。どんな人であれ、肉なる人間には誰も信頼してはならず、すべてのことを主にのみ相談せねばならないからだ。それができなくなると、多くの誘惑に直面することになり、天の高度から引きずりおろされ、その高さを歩めなくなってしまう。

だが、偶像を心の中から捨て去り、天にのみ目を注ぐなら、主はその人を喜んで迎えて下さり、恵みを与えて下さる。これは霊的に動かせない法則性であるものと筆者は感じている。鷲も足に錘をつけながら、軽々と飛び立つことはできない。人間も、どんなに心の望みによって羽ばたこうとしても、その心に、地上のものに対する未練が含まれていれば、飛び立つことさえ叶わないのだ。

神を愛すると言いながら、この世を愛し、この世における人々の寵愛、賞賛、慰めを愛すれば、結局、その人はいずれ神を捨てることになる。


「命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。」(黙示21:14)


アダムとエバがエデンの園を追放されたのは、神の御言葉に背いたためであり、背いた者が、命の木の実を取って食べることによって、永遠に生き、聖なる者とされた者たちと同じ命にあずかることがないためであった。

命の木とは、キリストご自身のことでもある。彼が人となられ、十字架にかかられ、復活された後は、死を経て復活された彼のまことの命のことである。その命は、すべてを超越して支配する命であり、私たちの望みをかなえる力も持っている。だが、その木の実を取って食べることは、神の御言葉を守って生き、これに背かないという、御言葉への従順と一つである。

御言葉を守らない者が、命にあずかることはない。黙示録の上記のくだりの直後にはどうあるか、「犬のような者、魔術を使う者、みだらなことをする者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は都の外にいる。」(黙示21:15)


犬のような者とは、偽善者たちのことを指すと見て良いだろう。当ブログでは、ずっと牧師という存在は、神と人との唯一の仲保者であるキリストの代用であり、聖書に反した制度であると言い続けて来た。だから、牧師たちも「犬」の中に当てはまる。キリストに頼らず、牧師に頼って生きるなら、その人は偶像崇拝者である。さらに、牧師を名乗らずとも、牧師と同じことをしている者たちも同じように偽善者に含まれる。

キリストの御名を使いながら、命を失った偽りの一大宗教体系というものがあり、それはこの世そのものである。この世を愛しながら、神に従うことはできない。偽りを好む者も、命の木から取って食べることはできない。こういう人たちはみな門を通っていないので、命の木へ近づくどころか、都の中に入ることもできない。

黙示録をどんなに読みふけったところで、御言葉を守らなければ、その人たちは滅びの中に投げ入れられることとなるだけなのだ。

* * *

「あの犬どもを警戒しなさい」

聖書にはそういうフレーズが幾度も出て来る。主イエスは、偽預言者たちを警戒せねばならないことを、繰り返し、繰り返し、弟子たちに教えられた。

当ブログ始まって以来、ずっと述べ続けていることは、「人間に優しい生き方」と「まことの神に従う生き方」は決して両立しないということである。一方は、世を愛し、世人と協調して歩む道であり、もう一方は、世に対して死んで、まことの神だけを主として生きる生き方だからである。聖書にこう書かれてある通りである。


「あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光とやみとに何のつながりがありますか。キリストとベリアルにどんな調和がありますか。信仰と不信仰とに何の関係がありますか。神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。

「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。

 そして、彼らの神となり、

 彼らは私の民となる。

 だから、あの者どもの中から出て行き、

 遠ざかるように』と主は仰せになる。

 『そして、汚れたものに触れるのをやめよ。

 そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、

 父となり、

 あなたがたはわたしの息子、娘となる。』

 全能の主はこう仰せられる。」(2コリント6:14-18)


信仰のない人たちと手を携えて生きようとすれば、彼らが抱えている、負い切れない軛を私たちも負わされることになる。

だが、ここで言う「信仰のない人たち」が、キリスト教を全く知らない世の人たちだけを指すと考えてはいけない。それは何よりもこの世と迎合した偽りの宗教体系としてのキリスト教も含んでいるからだ。

つまり、訣別せねばならない「あの者ども」の中には、非常に敬虔そうに見えるが、人工的に作り上げられた、命を失ったキリスト教という一大宗教体系が含まれているのである。

だからこそ、「キリスト教界からエクソダスせよ」というスローガンは、偽りではないと、筆者は言う。この偽りの一大宗教体系に属しながら、同時に、まことの神に従って生きる、ということはできない相談なのだ。死んだ組織としての「宗教体系」に触れるとき、私たちはデリラの誘惑に、死の力に触れることになる。

だが、非常に根深い誘惑は、エクソダスせよ――と言いながらも、その圧倒的大半の人々は、この世を愛しすぎたために、自ら組織に戻って行くか、組織と混合するかし、結局、自分たちが訣別せよと叫んでいるものと、むしろ逆に一体化してしまったことである。

筆者は2009年から現在に至るまで、同じことを主張し続けているが、その中で、かつてはエクソダスに共感していたほとんどの人々が、上記のような過程を辿り、組織へ舞い戻り、おのおの好き勝手な指導者の教えに帰依し、清さを失った様子を見て来た。

だが、そうして交わってはならないものと交わると、私たちからは神の清さ、聖別が失われ、かえって敵の重荷が押しつけられることとなる。

私たちに与えられているのは、主イエスの軛であり、その軛は軽く、負いやすいと言われた、日々の十字架である。しかし、信仰のない(もしくはキリストの十字架に逆らう)人々には、その負いやすいと言われた十字架がない代わりに、彼らは自分たちでは決して返済することのできない、自己の罪という無限大の負債を背負っている。

偽りの宗教体系とは、一言で言えば、人類が己が返しきれない罪を、自力で返済しようと、終わりのない精進を続けるための体系なのである。従って、そこには様々な儀式は存在するものの、そのどれ一つとして人の罪を贖う効果はない。

もしも私たちがそのように信仰のない人々を信頼し、彼らを友のように考え、彼らと交わり、その宗教儀式に参加し、彼らと手を携えて生き始めれば、彼らが負っている無限大の負債が、私たちのものとして押しつけられることになる。

それが、サムソンがデリラに心を打ち明けたことによって、デリラから押しつけられた「負債」だったのである。本来、その苦しみは、デリラが担うべきであったが、サムソンがデリラに心を打ち明け、彼女と交わった結果、その負債がデリラからサムソンに転嫁された。

有史以来、サタンが人間に対して試みて来たのは、そういうこと(=罪の責任転嫁)であり、偽りを好む人たちが、聖徒らに自分たちの重荷を転嫁しようとしていることを、私たちは忘れてはならない。サタンは自らに対して地獄で定められている永遠の刑罰を、何とかして人(信仰者)に転嫁しようと考え、さらに転嫁できなくても、できる限り多くの人間を同じ滅びの運命に引きずり込みたく、それゆえ、自前の偽りの福音の「布教」を試みているのだと言えよう。

だから、私たちはそのような思想を受けた人々との交わりを続けてはならない。エクソダスを遂げた――と言いながら、依然、組織の中を歩き回り、宗教儀式に参加し、また、人前でメッセージを語っている人は、エクソダスを完了しておらず、それどころか、彼はまさに牧師でしかないのである。

神と人との仲保者は、キリスト・イエスだけであるにも関わらず、その間に無資格の「代理人」として立ちはだかって、神の御言葉を独占して、信者に自分自身で聖書を理解させようとしない牧師という教職者は、信仰の妨げになるから、必要のないものである。必要ないだけでなく、キリストになり代わって、信徒の心を支配するものであるから、悪しき職であり、神の栄光を盗むものであると言って良い。だが、そのことを理解して、あえて信仰の道を行くために牧師は必要ない、と言いながら、自分で牧師と同じことをしている人は、単なる牧師よりもさらに罪が深いと言えよう。

筆者が過去に遭遇した事例の中には、「私は何も分からず組織にとどまっている人々に、本当の福音を教えてあげて、彼らを助けたいんですよ」などと言いながら、訣別したはずの組織の中を歩き回っている人がいた。だが、そのような二重性を帯びた生き方を続ける人も、当然ながら、偽り者である。

私たちはソドムを脱出したならば、後ろを振り返らず、前に向かって歩かねばならないのであって、ソドムに残っている他の人々を助けてあげようなどという理由で、ソドムの町の中を歩き回っていれば、自分も彼らと一緒に火と硫黄によって滅ぼされてしまうだけだ。それはミイラ取りがミイラになるだけの道である。しかも、ソドムに残っている人々に「布教」するということは、ソドムの土着の宗教と交わり、その影響を受けた新たな混合キリスト教を形成することしか意味しない。そのようなことをすれば、神に最も忌み嫌われる偽りの福音が出来上がるだけである。

生まれながらの人間の魂には、神の救いを知らない人々に対して、神が定められた滅びの刑罰を、受け入れられない残酷なものとみなして、これに反発する性質がある。ソドムが滅びに定められたことに反発し、ソドムの人々が「可哀想」だから、助けてあげなければ・・・、などとみなして、ソドムに残って布教し続ける人たちは、実のところ、神が下された滅びの宣告そのものに逆らい、それと同時に、神がもうけられた救いにも逆らっているのだと言えよう。

神は、救われる人と、そうでない人たちの間に峻厳な区別をもうけられた。それがキリストの十字架であって、この贖いを受け入れない人々は助からない、そのことが、聖書がはっきり示している結論である。だが、信仰のない人々は、それを指して、キリスト教の神は残酷であると非難し、キリスト教徒を名乗っている人でさえ、その線引きは残酷すぎるとして、それを巧妙にずらそうとする。キリストを信じている、と言いながら、主にのみ従うのでは、やっていけないとして、そこに人間の指導者をつけ加え、人間を神として拝むがごとく、人間に栄光を帰そうとする。そういう人々も、偶像崇拝者なので、命の木の対象外である。

カトリックの法王への崇拝はもちろんのこと、プロテスタントにおける牧師崇拝という偶像崇拝の罪からも、信者は離れなければならない。人間に栄光を帰するすべての宗教組織を離れなければならない、ということを当ブログではずっと主張して来た。世の一部と化した偽りの宗教体系に未練を持ちながら、同時にまことの神だけを愛することはできないのである。

偽りの宗教体系とは、この世そのものであるから、そこには大勢の人々がおり、富があり、平穏があり、敬虔そうに見える様々な儀式と、人間の栄光を誉め讃えるチャンスがある。だが、それが偽りである以上、真理とは相容れず、それに接触するならば、私たちは清さを失って、返しきれない負債を押しつけられてしまうだけなのだ。そこにいる人たちが「可哀想」だから、救い出してあげなくてはならない、などと言って、その宗教体系が偽りなることを知りながら、そこに舞い戻って行く人たちも、滅びからは免れられない。

だから、世とは、聖書を知らず、神を知らない人たちだけのことを指し、そこに信者を名乗る人々は含まれていない、などと決して思っていていはいけない。主イエスが言われた最も警戒せねばならない相手とは、そういう人々ではなく、信者を名乗りながら、この世を愛し、この世に生きる偽預言者、偽教師たちのことなのである。

そういう人々の言い分に欺かれないためにも、有効かつ必要な自己防衛策は、私たちが心を向けねばならない相手は、あくまで「人」ではなく「神」であるという点を見誤らないことである。自分の心のすべてを尽くして、ただ神を愛せよ。隣人に対しては善良であり、親切である必要はあろうが、それは決して、彼らが抱えている罪の負債を、押しつけられて共に連帯責任として背負わされるためではないのである。

* * *

そういうわけで、筆者のそばに、知らないうちに、「犬」と呼ばれて差し支えない人々が接近して来たこともあった。彼らは筆者の心を逸らして、何とかして人との交流に第一に心を向けさせようと、大変、熱心であったが、ある瞬間が来たときに、はっきりと自己の偽りの福音を語ったため、筆者には彼らが偽り者であることが分かった。

それはいわば、「交わり教」とでも呼んだ方が良いもので、彼らはあまりにも人との交わりを熱心に追い求め、人を愛するあまり、(というよりも、彼らが交わりを愛するのは、自分たちが指導者となって、集めた人々の心を支配し、栄光を受けるためなのだが)、彼らは自分たちが忌み嫌っているこの世と妥協した既存のキリスト教体系の中にも、積極的に出入りしては、人々をスカウトし、そこで自己流のネットワークを作り上げ、これを繁栄させ、自分たちがその恩恵を受けることを、第一に念頭に置いていた。

前にも言った通り、それはマルチ商法にもどこか似ており、彼らは自前の組織を持たないまま、様々な出来合いの組織の中に入り込んでは、心の定まらない人たちをスカウトし、自分たちの組織を作り上げて行くのである。「宗教組織からエクソダスせよ」などというスローガンを片手に、宗教組織の中に入り込んで行くこともある。

だが、はっきり言えば、それは他に指導者がいる組織から人員を盗んで、彼らの心を自分に向けさせることであるから、信者の心を盗むことである。もちろん、彼らが人々をスカウトして来る先の組織も偽りなのだが、この人たちは、他の牧師たちから信徒を奪って、自分が牧師になろうとしているだけなので、単なる牧師よりも、さらに質が悪い。

反カルト運動も、原則はそれと同じである。それはすべて既存の組織の中にいる人、もしくはそこにいた人たちを引き抜いて、自分たちが新たな指導者となり、さらに彼らを出て来た既存の組織と敵対させて、かつての指導者に戦いをしかけ、人間同士を争わせるために行われているに過ぎない。それをやっている限り、彼らは出て来た組織と訣別することができない。

いずれにせよ、この人たちが一番大切にしているものは、敵対運動を組織する時でさえ、人との交流、人の集まりと、そこに生まれる熱狂、そして人間の栄光なのであって、彼らは目に見えるもの――人間の数や栄光しか見ておらず、彼らが愛しているのは、真理でもなければ、神との交わりでもない。彼らがそうまでして熱心に作り上げている人との交流は、ソドムの滅びゆく人々が、一刻でも滅びのときを先送りしながら、互いに慰め合うための協同組合のようなものでしかなく、彼らが積み上げているすべての所業は、彼らの罪を贖う効果を持たないものであり、時が来れば、火と硫黄で滅ぼされてしまうものでしかない。

さて、こうした人々には、どういうわけか知らないが、共通して、このブログを憎み、忌み嫌うという特徴があるようだ。そこで、ある時までは、筆者に対しても、仲間のように振る舞いながらも、突如として、筆者がブログを書くことには反対だ、ブログをやめない限り、交わりを断つ、などと言ってくるケースもある。

彼らは、人との交流を失いたくないがゆえに、筆者がそう言われれば、彼らにすがりつき、どうか私を一人にしないで下さい、と追いすがって懇願すると考えているのかも知れないが、筆者はその逆に、「どうぞお考えの通りになさって下さい」と言うだけだ。

非常に可笑しいのは、「あなたのブログには、私の出る幕は微塵もない」という理由で、筆者にブログを書きやめるよう要求する者もあったことだ。だが、「私の出る幕がない」とは、どういうことであろうか?

当ブログは、神の栄光を証するために作られたものであって、もともと人間に「出る幕」を与えることを目的としていない。人を批判することが目的もでなく、人はみな不真実な存在であって、真実な方は、ただ神お一人しかいないことを証し、まことの神に栄光を帰することを目的としている。だから、人間に「出る幕」がないのは、大いに結構なことである。人間がここで栄光を受けたり、注目と賞賛を浴びるようなことがあってはならない。それは筆者自身も同じである。筆者自身も、生まれながらには不真実な人間の一人であって、キリストと共に死の刑罰を受け、復活の命にあずかることによって、初めて神に対して生かされたのであり、今もこれからも、証するのはキリストの栄光だけだ。

それだからこそ、このブログで、筆者は自己を証しないと決めている。筆者が個人情報を公開しないことを責め立て、これを暴き立てようとした愚かしい者たちもあったが、そもそもなぜ彼らはそうまでして神ではなく人間のことにばかりこだわるのだろうか。神の御前で死の刑罰を受け、死んだ人間の名や功績など記すことによって、何が得られると思うのであろうか。

自分の名を知らしめ、自己を偶像化して人々の心を引くチャンスが欲しくて執筆を続けている人々であれば、自分の情報を大いに利用するであろうが、そんなことが当ブログの目的では初めからないので、筆者はそうしないだけである。

筆者は、このブログを通して組織を作ることなど考えたこともなく、そのような組織が作られた過去もなく、神の御前の単独者として歩むことを決めているので、人の歓心を失うことを恐れない。

そういうわけで、アカンの外套がそばに置かれていた間に、この重い外套が足手まといとなって、様々な遅延が生じてしまったが、これから先は、その遅れを取り戻して、さらに前進を続けて行かねばならない。今、詳しくことのことについて説明できないが、いずれ、はっきりと遅れを取り戻すとは何か、進んで行った先に何があるのか、結論を示すことができる日が来よう。

今日、デリラは大きな都にまで発展している。それはバビロンという名の巨大な都であり、神ではなく人間の栄誉を称え、人間を拝ませるために作られた偽りの宗教体系である。そして、偽りの宗教をエクソダスしなければならならないと叫びながらも、デリラの魅力が忘れられない大勢の人たちが、この堕落した都に吸収されて行った。その際、彼らは、自分たちは世故に長けており、如才なく器用に立ち回れるタイプなので、今までにも決して一人になったことはないし、孤独を味わったこともなく、これからもそのようなことは決してない、などと豪語しながら、貧しい者たちを踏みつけにし、嘲笑うことも忘れなかった。

そして、彼らは、自分の好みに従って、好き勝手な教師たちを集め、彼らに自己の心を慰めるための作り事の福音を語らせ、真理から逸れて行ってしまったのである。

哀れなことである。筆者は彼らから見れば、あまりにも不器用過ぎたために、様々な苦難に遭ったこととされているようであるが、この人たちには、あまりにも誇るべき様々な長所がありすぎ、あまりにも多くの世の富を持ちすぎていたので、それが妨げとなり、主の御前で、それを捨てるに忍びなかったのだ。

こうしてデリラはバビロンと化し、女王のように栄耀栄華を極めている一方で、今日のサムソンは、怪力を奪われ、奴隷のごとく両手を縛られ、視力を失い、惨めな状態で、ペリシテ人に対する復讐を神に叫び求めつつ、苦役に従事させられている。これが、今日のまことのキリスト者の全体的に置かれている有様である。偽りの宗教体系は、巨大な都となって繁栄している一方、正しい人が、悪者たちに踏みつけにされ、神の御言葉が冒涜されても、立ち上がる者もない。

だが、なぜそんな状態に陥ったのか、考えてみるが良いのだ。キリスト者にも反省すべき部分が大いにあり、その弱体化は、神の聖を知っているはずの民が、この世との接触を断たなかったからではないのか?

戦いに勝つためには、二心のない清さが必要である。私たちが目指している見えない天の都と、地上に築かれたこの偽りの都(この世と合体した偽りの一大宗教体系)とは、正反対の方向にある、完全に相容れないものである。一つは上にあり、もう一つは地上に、私たちの足の下にある。もしも私たちが足の下にしているはずのもの――デリラに少しでも未練を持ち、これを聖なるもののように見上げて――この世の都を振り返るなら、私たちの霊的優越性は失われる。その先には、サムソンの最期が待ち構えているだけなのである。

そこで、何度も繰り返すが、主に信頼して、この方にのみ頼って生きることが、私たちの驚くべき力の源であり、秘訣なのである。望みがかなうことは、命の木である。その命の木にあずかり、天の高度を羽ばたいて生きるためにも、地上のものに決して心を惹かれてはならないし、肉なる人間を信頼してもならない。

この秘密を敵に明け渡し、後ろを振り向きながら、同時に前に進んでいくことは誰にもできない相談であり、キリスト者が、敵に定められた運命を、自分の運命と交換するようなことは、絶対にあってはいけない。

だが、神は真実な方であるから、私たちがどんなに不真実であっても、意図的に神に反逆することなく、御言葉に従って生きようと心から決意し、神の忌み嫌われるものと分離し、この世を愛さず、デリラへの信頼を心から完全に断つならば、ご自分の栄光のために、御言葉の約束を成し遂げて下さり、そうしてペリシテ人の神殿が崩壊する時が実際に来るのを、私たちは見るであろう。

筆者はそのことをよく知っている。そして、筆者が必ずそのように成るから、この先に起きることをよく見ていて欲しいと語っただけで、以上に書いたようなことが起き、偽預言者は、そんな証は決して聞きたくないと、筆者の証にも、このブログの内容にも耐えられないと、耳を塞いで自分から去って行ったのであった。それは、万民祭司の原則が忠実に履行され、一人一人の信徒が自立して自ら御言葉を咀嚼するようになり、自分たちの証を語り出し、神の命の豊かさにあずかり、牧師も教師も必要なくなり、彼らが偶像として拝まれ、栄光が帰されることがなくなって、バビロンが崩壊して焼失すれば、偽預言者たちはみな失業し、一切の「出る幕」がなくなると悟ったからであろう。

そういうわけで、罪人は正しい者の集いに耐え得ないという御言葉が成就して、何の論争もなく、信仰の証は、敵の思想を受けた人々をふるい分け、分離すべきものと分離するための良い試金石となってくれたのであった。

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あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。

「ヤコブよ、なぜ言うのか
 イスラエルよ、なぜ断言するのか
 わたしの道は主に隠されている、と
 わたしの裁きは神に忘れられた、と。

 あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。
 主は、とこしえにいます神
 地の果てに及ぶすべてのものの造り主。
 倦むことなく、疲れることなく
 その英知は究めがたい。

 疲れた者に力を与え
 勢いを失っている者に大きな力を与えられる。
 若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが
 主に望みをおく人は新たな力を得
 鷲のように翼を張って上る。
 走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(イザヤ40:27-31)

なぜ鷲は天高く翼をかって飛んでも疲れないのか、その理由として、上昇気流に乗って飛ぶからだということが解説されていた。

上昇気流に乗って飛ぶ・・・、このことは我々キリスト者にとっても非常に重要であると筆者は考える。

キリスト者が翼をかって天高く舞い上がる秘訣となる上昇気流とは何か?と問うならば、その答えは、「望み」であると筆者は考える。

私たちを高く舞い上がらせる原動力となるものは、私たち自身が心に抱く望みであり、その望みの高さが、私たちを舞い上がらせる高度を決める。
 
フィリピの信徒への手紙にはこうある、「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」(フィリピ2:13)

また、エフェソの信徒への手紙にはこうある、「わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。」(エフェソ3:20-21)
 
私たちは自分が思いのままに何かを願い、志を立てているように思うかもしれないが、神が私たちの心に願いを起こさせて下さることがここに記されている。

しかし、しばしば私たちは、もはや二度と翼をかって天高く舞い上がることもできないほど、どん底に突き落とされたように感じることがある。望む気力さえもはや残っていないほど、疲れ果ててしまうこともある。

だが、それでも、時と共に、主は私たちの内なる人を強めて下さり、その苦難の只中からさえ、新たな望みを引き出して下さる。

そして、その新たな望みが、私たちを再び、天の高度へ引き上げ、主に似た者へと変えて行く原動力になる。

「しかし、主の方へ向き直れば、覆いは取り去られます。ここでいう主とは”霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(2コリント3:17-18)

ここで言う主の似姿に変えられること、栄光から栄光への変遷、それはまさに一つの望みから新たな望みへと、上昇気流を掴みながら天の高度を飛んで行くようなものである。

とはいえ、もちろんのこと、その望みとは、人がてんでんばらばらに自分で思い描く望みではなく、主が与えて下さり、主の御心を満足させる望みでなければならない。
 
人にはあたかもすべての望みが潰えてしまったように思える時があるだろう。しかし、主は、地中に深く埋もれた種のごとく、私たちの望みを保って下さる。その望みが、時が来て発芽する。そして、私たちの目の前に天からの贈り物のごとく現れる。

キリストの復活の命は、支配する命であると書いた。その支配は、私たちが心に抱く望みと連動して働く。それはこの世の物流も、経済も、何もかも超越して支配する命である。

「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。」(一ヨハネ5:14-15)

もしも御心にかなう望みを抱くならば、それは神に聞き入れられていること、すでに望みはかなえられていることを信じなさい、とある。

筆者は望みが潰えてしまったように感じられるときに、多くの望みの芽が発芽するところを見させられて来た。たとえば、神は正義を実行されることを決してためらわれる方ではない。

だから、筆者が正義や真実をこの地に引き下ろすための戦いをあきらめようとしても、それで戦いが終わることはない。神は何がご自分の真実であるかをはっきりと全世界に示される。そのために、道端の石からでも、ご自分のための証人を起こすことがおできになる。

そこで、私たちがもう疲れた、戦いは終わった、全世界は悪しき者に牛耳られ、キリスト者には一縷の望みもない・・・、などと思っているところから、神はご自分の力を発揮される。それが死を打ち破る復活の力なのである。

キリスト者には失敗というものはなく、人の目にどんな失敗と見える事柄であっても、神はそれを修正してもとの軌道に戻すことがおできになる。だから、何事も悔やむ必要もなければ、思い悩む必要もないのである。
 
また、私たち自身が、自分でも心に願っていることを気づいていないような、かすかな願いであっても、神はキリストの復活の命を通して、これをただちに実現に至らせる力を持っておられる。私たちは何かを願ってから、それがかなうまでには、大変な時間がかかると考えているかも知れないが、必ずしもそうではない。

キリスト者の願いは、この世のすべてのものが、その支配に服する高き御名をつけられた方の命と連動して働いている。だから、願ったとき、もうすでにそれは私たちの手に、まるで目に見えるもののように約束として与えられていることを信ずるべきなのである。

神は何より正義と真実を愛される。公義を行なわれる方である。だから、正しい者が悪者にとらえられて裁かれ、罪に定められることを決してお許しにならない。主に逆らう者が滅ぼされるときを、正しい者はその目に見ることができる。それが聖書のあらゆる箇所で約束されている事柄であり、また、筆者が心から望んでいる結末でもある。

それが御言葉の約束である以上、それは必ず成就するから、現状がどのように見えても、人々には落胆しないでもらいたい。筆者があきらめたとか、退却したとは思ってもらいたくない。神は今日も生きて働いておられ、御言葉の約束も確かなものとして生きて効力を及ぼしている以上、主に信頼を置く者が見捨てられたり、恥をこうむることは決してないのである。

そういうわけで、私たちは御言葉の約束を手に心の限りを尽くして主に呼ばわり、その約束の実現を権利のごとく求め、固く信仰に立って歩みを進め、未来に何が起きるのか、神がどれほどはかりしれない恵みを私たちの信仰の報いとして与えて下さるのか、大きな期待感を持って主を見上げるべきである。
   
「主に従う人は、口に知恵の言葉があり
 その舌は正義を語る。
 神の教えを心に抱き
 よろめくことなく歩む。
 主に逆らう者は待ち構えて
 主に従う人を殺そうとする。

 主は御自分に従う人がその手中に陥って裁かれ
 罪に定められることをお許しにならない。
 主に望みをおき、主の道を守れ。
 主はあなたを高く上げて
 地を継がせてくださる。
 あなたは逆らう者が断たれるのを見るであろう。」(詩編37:30-34)

わたしの恵みは,あなたに十分である。というのは,わたしの力は,弱さのうちに完全に現われるからである。

ヨシュア記7章20節~26節
「アカンはヨシュアに答えた。
「わたしは、確かにイスラエルの神、主に罪を犯しました。わたしがしたことはこうです。

分捕り物の中に一枚の美しいシンアルの上着、銀二百シェケル、重さ五十シェケルの金の延べ板があるのを見て、欲しくなって取りました。今それらは、わたしの天幕の地下に銀を下に敷いて埋めてあります。」
ヨシュアの出した使いたちがアカンの天幕に走って行って見ると、果たして彼の天幕の中に、銀を下に敷いて地下に埋めてあった。
彼らはそれを天幕から取り出して、ヨシュアとイスラエルのすべての人々のもとに運び、主の前にひろげた。
ヨシュアはゼラの子アカンはもとより、銀、上着、金の延べ板、更に息子、娘、牛、ろば、羊、天幕、彼の全財産を取り押さえ、全イスラエルを率いてアコルの谷にそれらを運び、
こう宣言した。
  「お前は何という災いを我々にもたらしたことか。今日は、主がお前に災いをもたらされる(アカル)。」全イスラエルはアカンに石を激しく投げつけ、彼のものを火に焼き、家族を石で打ち殺した。

彼らは、アカンの上に大きな石塚を積み上げたが、それは今日まで残っている。主の激しい怒りはこうしてやんだ。このようなわけで、その場所の名はアコルの谷と呼ばれ、今日に至っている。 」

* * *

最近、主は筆者にこう問われたように思われた。
「ヴィオロンさん、あなたは本当に自分のことを不器用だと思っているのですか?」

筆者はその問いを受けて考え込んだ。

「ヴィオロンさん、もう一度聞きます、あなたは私が着いているのに、自分は不器用だ、と人前で吹聴し、それをあたかも謙虚さであるかのように言うつもりですか?」

筆者ははっとして黙り込んだ。

「ヴィオロンさん、もう一度聞きます。私があなたの中で、あなたの弱さを覆い、あなたのための強さとなっているのに、それでも、あなたは自分は不器用だ、他人に比べて何もできない、自分は大した人間ではない、などと吹聴して回る気ですか?

 そのあなたの言葉は、あなた自身に対する侮辱であるだけでなく、私に対する侮辱でもあり、不信仰であることが分かりませんか?

「しかし,主は,『わたしの恵みは,あなたに十分である。というのは,わたしの力は,弱さのうちに完全に現われるからである。』と言われたのです。」(2コリント12:9)

この御言葉はあなたの中でどこへ消えたのです? なぜあなたは自分は弱い、などと得意げに吹聴して回るんですか? なぜそうした言葉を聞かされて、それに無条件に頷くのです・・・?」

このような気づきがあってから、筆者は人々との関係性を根本的に見直さねばならないことに気づいた。いつからか分からないが、振り返ってみると、筆者のものの考え方が、巧妙に主ではなくこの世を中心とするものへ、次第にシフトしていたことに気づかされたからだ。

「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは 、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えること はできない。」(マタイ6:24)

この御言葉は、どういうわけか、筆者の記憶では、いつも「神と人とに兼ね仕えることはできない」という風に思い出される。ここで言う「人」とは「この世」のことだ。つまり、この御言葉を、筆者は、神と世の両方に兼ね仕えることはできない、という風に理解して来た。富とは、この世の権勢のことでもある。だから、この御言葉が「神と世に兼ね仕えることはできない」という意味を兼ねていると筆者が考えたとしても、その理解は、この御言葉の本質からそうかけ離れていないだろう。

筆者は、これまで自分を取り巻いている状況があまりに苦しくなったり、極度に自由が圧迫され、天の高みから地に投げ落とされたように感じられ、さらに退路が封じ込められたように思われるときには、自分をつぶさに振り返ってみると、大抵、巧妙に、「この世」が生活の中に入り込んでいることを発見したことを思い出す。

しかも、そうしてキリスト者を堕落させたり、自由を奪う「この世」とは、ほとんどの場合、人を通してやって来る。誰かが神の御前を孤独に静かに歩くことをやめ、「自分は一人ではない!」などと豪語し始めれば、その人は、大変な危険に直面していると思った方が良い。人々から誹謗中傷され、のけ者にされ、蔑まれることがやんで、笑顔で迎えられるようになり、どこへ行っても、もてなされ、必要とされ、歓迎されるようになり、本人までが、その状態を喜んで、自分は二度と孤独になることはないなどと、人前に吹聴するようになれば、もはやその人は、まことの信仰の道から逸れて、偽預言者の道を歩いていると考えた方が良いのだ。

そういう意味で、筆者は、この年始に、主によって、危ない道から危険に遭遇する前に引きずり出された。筆者は年明けに、真に気高い目的のために、人々に本当に奉仕する道を選ぼうと決意したが、それは直接的に、人間の喜ぶ奉仕をして、人々を喜ばせようという計画ではあり得ず、そこで、筆者は、直接的に人の心を喜ばせ、満足させる生き方からは、引きはがされねばならなかった。

モーセがシナイ山に登って、十戒を授かったとき、民は山のふもとで金の子牛像を作って、これを拝み、歌い踊り、戯れていた。てんでんばらばらな欲望を心に抱き、それを互いに自慢し、承認し合って、祝杯をあげていたのである。モーセは民のその姿を見て、憤りに燃え、十戒の刻まれた石板を地にたたきつけて粉砕した。

キリスト者の道は、山のふもとで生きる道ではない。むしろ、ふもとにいる民を置いて、高い山を登り、望みうる限りの最高の目的を神に向かって申し上げ、その高みへ到達できることを信じ、孤独な戦いを一人で戦い抜くことが必要な道である。そうして信仰の戦いを戦い抜いて帰って来ても、民は理解もせず、歓迎もせず、むしろ、そのキリスト者はとうに死んだと思って、怪訝そうな顔をし、疎んじるだけかも知れない。

それほどまでに、誰も理解も賞賛も感謝もしないかも知れない道であり、それはとてもとても婉曲で、困難で損な道に見えるかも知れないが、結果的には、それこそが、民全体のために奉仕するエクソダスの道なのであり、天の無尽蔵の栄光で報いられる十字架の道なのである。

私たちは自己満足のために高い山に登ろうとしているわけではない。それは自己の栄光のためではなく、まさに山のふもとにいる民に本当の利益をもたらすための試みでもあるのだ。
 
そういうわけで、筆者は年始になると、心から狭い道を行こうと決意させられると同時に、それから瞬く間に、心にある「アカンの外套」を手放すよう求められた。それが、神を喜ばせない「この世」の奉納物であるとは、筆者は知らなかったのだが、主は「自分は一人ではない!」と豪語する道を行ってはいけないと、早速、筆者を引き戻された。

主は、それがイミテーションの心の慰めであり、この先の道で、筆者はそれらのものを携えて行くことはできないし、それを持ち続ける限り、それは筆者の心の偶像となり、筆者の生活を堕落させて敗北に導き、地に投げ落とす原因になると告げられた。

筆者はその時が来るまで、その外套が、これまでの間にも、筆者を天的な生活から地に投げ落とすきっかけとなっていたことを知らなかった。筆者の気高さ、尊厳を失わせている源は、筆者がまさに仕えていると考えていた民だったのであり、もっと言えば、彼らの心を支配する欲望であった。主は、金の子牛を拝んでいる民のために給仕することは、決して神の御心ではなく、筆者の尊厳を失わせるだけだと示された。
 
それらの被造物が、あたかも筆者の主人のごとく、ぴったりと筆者に身を寄せて、味方のように振る舞い、なおかつ、真実な信仰者の姿に非常によく似ていたので、筆者にはそのことが分からなかったのである。

だが、筆者が霊的な山に登り、真に困難な挑戦に挑もうとした時、それはふもとの民となって、筆者を引き留めようとし、訣別の時が来た。彼らは彼らなりの金の子牛像を取り出して、筆者にそれを拝むよう求め、筆者がそうしないならば、筆者とはもはや一緒に行けないと告げて来た。その瞬間が来てから、ようやくそれらは世から来たものであり、偶像であることに気づかされたのである。

筆者は主以外に筆者の心を占めるものを完全に取り除き、筆者の隣の席を、主のためだけに空席として、進んで行くことに決めた。

この世でも、人は誰しも、誰かの愛人になりながら、自己の尊厳を主張することなどできはしない。まして大勢の愛人の一人の立場に自ら甘んじながら、尊厳などという言葉を口にすること自体が、僭越であり、滑稽であろう。それと同じように、欲望の奴隷となった人には、尊厳も自由もなく、この世(地上的な人間関係、この世の富、権勢、栄誉など)は、すべて堕落した人間の欲望から成り、世に支配される者は、欲望の奴隷であり、罪と死の奴隷である。そこにあるのは、いわば、一夫一婦制ではなく、人を奴隷にする愛人関係のようなものだけである。それに仕えている限り、その人は卑しめられた状態から抜け出せない。

堕落した欲望に縛られ、その奴隷となりながら、自分は高貴で自由な人間であると、どんなに叫んでも無駄なことである。

だからこそ、御言葉は、私たちが主と共なる十字架を経由することにより、「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、 十字架につけてしまったのです。」(ガラテヤ5:24)と言うのであって、私たちはこの十字架を離れてはならないのである。

だが、この世には偽りの信仰の一大体系や、偽りの信仰者たちがいて、その教えは結局は、グノーシス主義に他ならないのだが、それは人が自己修練することで、信仰の高みを目指せると教える。

確かに、信仰の高みというものは存在するものと筆者は思う。だが、その高みは、あくまで人の個人的な望みによるものであり、その道も、個人的に様々に異なっているのに対し、グノーシス主義の教える信仰の高みとは、いわば、偏差値みたいなもので、何かしらの共通のヒエラルキーの階段を通して、人々が自分の信仰の度合いを比べ合い、裁き合って、品定めし合いながら、自分はどこまでその階段を登ったのかを競い合うことを言う。

そういう考えを持つ人々は、一見、この世の信仰を持たない人々のように、あからさまに己が肉欲の奴隷となったりはしないため、あたかも敬虔な信仰を求める人々のように見えるかも知れないが、よくよく話を聞いてみれば、その内容は、ヒエラルキーの階段を上に上に登ることで、あなたも自己の栄誉欲を満しなさい、という内容となっている。彼らは弟子をたくさん作って互いに競争させながら、彼らの言う「高み」を目指すよう、過酷な鍛錬を敷いて、成果を競い合っている。

そうして自己修練に励むことで、神に近付けると考える人々は、肉体を鍛えたり、修道僧のように禁欲的な生活を送り、自分よりもはるかに弱い人たちに仕え、謙虚で、誠実そうにも見えるため、一見すると、この世の人々の及ばない人格者のようにも見える。また、弟子を作ることに熱心なので、人々をスカウトする術にも長けているし、人の心に寄り添う術を心得ている。

だが、それでも神は、筆者がそうした仕掛けにひっかからないよう、それが偽りであることが分かる瞬間を用意される。

筆者はこうした人々が築いた偽りの一大宗教体系の真っただ中を何度も通過して来たのだが、いつも、彼らと筆者とは異質であることが、途中で判明するのだった。それはこんな具合である。筆者が一歩でも彼らの言うヒエラルキーの階段を上に上ろうとすると、その階段が、まっさかさまになって筆者の上に落ちかかってくる。階段が、ものすごい重さになって筆者にのしかかり、筆者の人生を押し潰そうとしてくる。そこで、筆者は、ああ、これは何かしら栄光に満ちた達成のように思われたが、やはりそうではなく、決して聖書に基づく信仰の道ではなく、むしろ、破滅への道だったんだな・・・と分かり、一歩も登らないうちに、その階段にさよならを告げることとなる。

そうして筆者は、これら清楚で謙虚で誠実そうに見える人々を離れて、彼らの賞賛や関心を得ようとすることもやめて、一人、神の御前に、静まって自分の道を申し上げ、極めて個人的な、誰にも知られない、主と二人だけの道を歩き始める。人の考えなどどうでも良いから、何事も主に相談の上、真実、神に喜ばれ、真実な栄誉を得るための道を、歩いて行きたいと、主に率直に申し上げる。

そういうわけで、新年早々、筆者のトランクからは、二つのアカンの外套が見つかった。それは色違いのおそろいの外套であり、一つはこの世の生地で出来ており、もう一つは、信仰に似た生地で編まれていた。どちらも人からプレゼントされたものであり、これを着れば、高みへ舞い上がれると勧められたが、着ようとして手に取っただけで、外套は鉛のように重く、一歩たりとも進んで行けそうになかった。外套についていた札を見てみると、素材は小羊の毛に似せて造られた合成繊維のイミテーションであることが分かった。

しかも、もっと悪いことに、その外套は、プレゼントされたものにも関わらず、支払いが完了していないというのである。つまり、贈り物と言いながら、手渡されたのは負債であった。それに気づいて、筆者はこの呪われた二着の外套を焼き捨てる(もしくは贈り主に返す)ことに決めて、初めから筆者にプレゼントされていた真っ白な外套を手に取った。それは小羊の毛で編まれ、小羊の血で洗われて、雪のように白く、また、軽い外套であった。それはもちろん、ただで贈られたものであるばかりか、すべての負債を帳消しにする力まで持っていた。

その小羊の毛で出来た真っ白な外套を着ると、改めて次の御言葉が思い出された。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28-30)

そうだ、何だか随分疲れた気がしていたのは、あの偽物の外套のせいだったのだ。あれを着ると、自分はあれもできない、これもできない、この世に自分ほど不器用で、何もできない人間はいない、自分にできることは、せいぜい人々の後から着いて行って、彼らに奉仕するために、地に頭を擦りつけて、身を投げ出すことだけだ・・・などと思わされ、人々を喜ばせるために、絶えず奔走させられることになり、疲れ切ってしまうだけだ。日々、歓迎され、引っ張りだこにされ、感謝されて、喜ばしいイベントが連続しているようでありながら、その裏では、陰口が絶えず、絶えず不満を述べて来る人たちのご機嫌をなだめるために、果てしなく新たなノルマが課され、てんでんばらばらな人々の心の欲望を満たすために、奴隷のごとく奔走せねばならなくなる・・・。

しかも、その外套は何日着ても、体になじむことなく、ますます重くなり、ますます歩きづらくなり、ますます足手まといになって行くばかりなのだ。

その一方で、小羊の外套は、着るや否や、心の内が軽くなり、内なる人の力と尊厳が回復されて、主が着いておられるから、どんなことでもできる、と、御言葉が自然と口から湧き出て来る。この外套には、多分、翼がついているのだろう。歩いてもたゆまず、走っても疲れない。そして、疲れたときには、隠れ家なる主の砦の高い塔に筆者を連れて行って休ませてくれる。
 
休日に電話が鳴って、潰えたはずの希望が再びよみがえり、御国への奉仕に呼び出された。主よ、私をお見捨てにならなかったのですね、と思わず、感謝が心に溢れた。だが、この世は、筆者がしようとしていることが、御国への奉仕だとは、理解することはないし、認めることもない。あの外套を着た、敬虔そうな恰好の信者たちは、こんな仕事が神の栄光になどなるものかと反対して、それに唾棄して、踏みつけにして去って行った。彼らは世を捨てられなかったのである。

そうやって、宝石をちりばめた僧服のように重すぎる外套を着た人たちが、筆者のしようとしていることをかえって罪のように考えて、自分から去って行ってくれたのは、まことに好都合なことであった。

筆者は、別離の時も、出会いの時と同様、すべて主が定めておられると確信している。だから、来る者も拒まず、去る者も追わない。主が与え、主がとりたもう。

キリスト者の道は、神の御前でつつましやかな、やもめの道であって、時期尚早に現れた愛人たちをぞろぞろと引き連れては、豪奢な服を着て、自分は孤独ではないから悲しみを知らないと豪語する女王の道とは異なる。
 
だから、心して、自分は一人になることはないとか、孤独とは無縁だなどと言う台詞を、どんなことがあっても、二度と口にすることがないよう気をつけねばならない。そういう台詞は、まさに地獄から出て来るのではないだろうか。キリストは人に蔑まれ、忌み嫌われ、人に尊ばれず、顔を背けられるほど、疎んじられた。彼は歓迎されず、良いことをしてもなじられ、絶えず誤解され、罵られた。それなのに、なぜ、私たちが彼に先だってこの世で栄誉など受けて良いものだろうか。

筆者は、孤独でつつましやかなやもめの道を、シナイ山へ一人で登って行ったモーセの道を、ゴルゴタへ向かった主の道を、人知れず歩き続けようと思った。勝利は、この細い道の向こうにあり、復活は、いつも我々の死の先にある。

ところで、グノーシス主義者は、自力で神が「光あれ」と言われる前の状態、すなわち、神と人とが分離される前の状態に逆戻ることによって、自己を神と同一にすることを願っている。だが、筆者は、彼らとは異なり、神から切り離されて堕落した人間が、キリストの十字架の贖いを通して神に立ち戻り、その後、主と同労して、共に「光あれ」と力強い命令を発する時を待ち望んでいる。

命令は、実行されなければ意味がない。筆者は命令(御言葉)と実行(その成就)が一体化する時を待ち望んでいるのであって、そのために、何とかして命令そのものに近づき、これがまさに発せられんとする瞬間に立ち会い、さらに、それが発せられた後に、実際となって成就する有様を、主と共に見たいと願っているのだ。

そのことを、信仰においてだけでなく、この世の働きを通しても、経験できないものかと願っている。今年はそのための挑戦となるし、筆者が真にその道を行かない限り、おそらく筆者が本当の意味で、人々に仕え、益をもたらすこともできないものと確信している。もしかすると、モーセがシナイ山で十戒を受けたように、筆者も筆者なりのやり方で、神から御言葉を授かろうとしているのかも知れない・・・。
  
山に登る時は、すべてのからみつく罪を捨て、心の偶像になりそうな一切を振り切り、主の前に心を孤独にして、一人で進み出なければならない。その意味で、この道は決して人に優しい道とは言えないし、楽な道であるとも言えない。だが、その代わり、真に筆者を支えてくれる真実な主人があり、筆者を迎えてくれる天の栄光がある。

日に日に罪の負債の重さだけが増し加わる、色違いの美しい外套の贈り物を捨てたとき(もちろん、これは比喩であるが)、それが足手まといとなって、これまで天の高度に飛び立てなくなっていたことが、はっきりと筆者には分かった。

次の御言葉は極めて象徴的である。大勢の信者たちが、この聖句をお気に入りの歌にして口ずさんでいるが、この御言葉は、信仰によって実際となるばかりか、主の民のために下される神の正しい裁きと密接につながっている。
 
「ヤコブよ、なぜ言うのか
 イスラエルよ、なぜ断言するのか
 わたしの道は主に隠されている、と
 わたしの裁きは神に忘れられた、と。

 あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。
 主は、とこしえにいます神
 地の果てに及ぶすべてのものの造り主。
 倦むことなく、疲れることなく
 その英知は究めがたい。

 疲れた者に力を与え
 勢いを失っている者に大きな力を与えられる。
 若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが
 主に望みをおく人は新たな力を得
 鷲のように翼を張って上る。
 走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(イザヤ40:27-31)


神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる良い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。

「イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。

イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の負っている者をすべて、生活費を全部入れたからである。」(マルコ12:41-44)

* * *

「わたしは、他人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。ご存じのとおり、わたしはこの手で、わたし自身の生活のためにも、共にいた人々のためにも働いたのです。

あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主エス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。」(使徒20:33-34)

* * *

惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承でなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。

神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる良い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。

「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。
 彼の慈しみは永遠に続く」
と書いてあるとおりです。

種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、わたしたちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。なぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです。

この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます。更に、彼らはあなたがたに与えられた神のこの上なくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです。言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します。」(Ⅱコリント9:6-14)

* * *

主の御座の高さと静謐さの中を歩む。私たちのこの手に、種以外に何もないように見えるとき、豊かな実りを約束して下さっている主の御言葉を思う。

毎年、筆者の年末年始や、特に新年の過ごし方は、とても深い意味を持つ予表的・象徴的なものであった。人々が自分の家庭に引きこもり、御馳走を食べて過ごすその瞬間、もしくは、神社や教会その他の宗教施設に通い詰め、行事や、あるいは買い物に明け暮れる中、大抵、筆者は、この世のすべての喧騒から引き離されて、ほんのわずかなキリスト者と共に、神との静かな歩みの中に引き入れられていた。
 
そこには、人の知れない、ひっそりとした喜ばしい交わりと、ほとんど単独者と言って良い、神の御前での歩みがあった。

今年は、そうした静けさの中で、自分自身を、本当に自分のためではなく、主の御心にかなう目的のために、なげうとうと決意させられた。

今でも忘れられないのは、ある新年のこと、ちょうど仕事の切れ目で、新しい職を探していた筆者を、ある姉妹が自分の別荘に呼び、心からもてなしてくれた時のことである。姉妹はその別荘で、誰にも言えない筆者の悩みをじっくり聞いて、筆者には広い自分のベッドを提供し、自分は寝袋を敷いて床に寝た。

階下にある温泉に筆者が浸かりながら、将来のことを思い巡らして悩んでいた時、彼女は台所でかいがいしく料理を作り、いかにして筆者をもてなそうかと心を尽くしていた。自分は温泉に行っても、あっという間に戻って来て、筆者の話に耳を傾けた。

だが、姉妹はそれらのことを本当に心から喜んでしており、筆者が悩みの渦中に沈んでいたにも関わらず、筆者といるのが、楽しくてたまらないという風であった。そして、その姉妹と一緒にいるときに、新しい職場からの連絡がかかって来て、筆者が進むべき道も定められたのだが、そうなるまでにも、彼女は、筆者の仕事のためにも、どんなに祈ってくれたか分からない・・・。

その姉妹は、あまりにも心清く、純粋な信仰を持ち、天に近いところにいたためであろうか、その後、数ヶ月で、実際に、天に召された。もう何年も前のことである。だが、その時にも、彼女が召されたことと引き換えのように、大きな慰めが天からもたらされ、信仰者ではなかったが、またもや新たな複数の友が、不思議な形で筆者の人生に与えられたのであった。

このように、なんの尊敬すべき取り得もなく、何一つ返せるものさえ筆者になかった時に、筆者の苦しみを少しも見下したり、蔑んだりすることなく、まるで筆者が神から遣わされた御使いででもあるかのごとく、心からの尊敬と愛情を持って、心を尽くして仕えてくれた姉妹がいたことは、筆者の心に深く刻み込まれた。

ああ、これが、キリスト者の奉仕なんだな、これが、互いに愛し合い、仕え合いなさいという御言葉の意味なんだな・・・と示され、それと同時に、彼女を通して、筆者がどんな境遇にあっても、キリスト者としての愛らしい魅力を失っていないこと、それが、仲間の兄弟姉妹にはちゃんと分かること、落胆すべきことなど何もなく、どんな瞬間にも、神の恵みに満ちた御業が確かに存在すること、それを分かち合って喜ぶことが、私たちキリスト者の使命であることを知らされたのである。

筆者自身は、その後も、しばらくの間は、自分が生きることに精いっぱいで、人々を助けるところまで、手が回らなかったが、ようやく昨年は、司法制度を通じて筆者が受けた恵みを、他の人々にも届けようと考え、そのために、自分の専門を捨てて、新しいことを始めた。

そうして、自己実現のための生き方を捨て、自分の専門を手放した報いとして、筆者は失ったものを余りある豊かな祝福を受けたのである。

神はやはり、私たちの生きる動機そのものをよくご覧になっておられ、正しい動機のために、私たちが捨てたものを、決して見過ごしにしてはおかれないのだと痛感させられた。

そこで、この新たな年には、筆者はよりまさった天の収穫を受けるために、自分をさらに捨て、神と人とのために、自分をなげうとうと決めた。と言っても、その方法は、あくまで秘密であって、それは人に知られない十字架の道である。

幼い頃に、兄弟たちに裏切られて、エジプトに売られたヨセフが、エジプトで宰相になるまでの間には、長い長い月日が経過した。エジプトはヨセフの故郷ではなかったし、ヨセフはそこでも、何度も、あらぬ罪を着せられたりして、苦難の月日を過ごさねばならなかったが、それでも、彼に与えられた神の力が発揮され、異郷の地でついに最後はファラオからも篤い信任を得て、重責を担う立場に立たされた。

だが、そうなった目的は、決して、ヨセフ自身が、偉い人となって、人々に君臨することにはなかった。むしろ、彼を通じて、彼の親兄弟たち、イスラエルの民が飢饉から救われ、生き延びることにこそあった。つまり、ヨセフは、エクソダスの象徴であり、ヨセフを通して、民が死から生へと贖い出され、命へと導き入れられるためにこそ、彼が兄弟よりも先にエジプトに遣わされたのである。

エクソダスとは、十字架である。つまり、ヨセフが辿った苦難と栄光もまた、主イエスの十字架の死と復活の象徴だったのである。

そういうわけで、一粒の麦が地に落ちて死なない限り、多くの実が結ばれることはない。キリスト者が学ばねばならないのは、自己の望みの最後の最後のなけなしのものに至るまでも、神と人とのために手放し、それによって、自分の思いをはるかに越えたところにある神の恵みに満ちた正しいわざを掴み、これを地上に引き下ろし、それによって生きることである。

筆者には、エジプト(この世)で果たさなければならない使命があり、非常に困難な召しが心にある。神を愛し、人を愛して生きるために、筆者は、この国の人々のために、役立つことをせねばならないと思っている。残りの人生は、もはや筆者自身の個人的な満足と栄光のために存在しているわけではない。

とはいえ、この国の人々のために・・・などと仰々しい言葉を使っても、それは決して、筆者が有名指導者になって、自分の名を冠した多くの組織や団体を作り、その先頭に立って人々を指揮し、皆から篤い信頼と尊敬を受けながら、輝かしい事業を率いて行くというものではない・・・。

そういう道を、筆者はこれからも選ばないだろう。筆者はこれから先も、ずっと神の御前の単独者として、何の栄光も受けない名もない人間として、ひっそりと人に知られない道を歩み続けながら、それでも、そこで自分の召された目的を従順に果たし続けるだろうと思う。

筆者の歩いている道は、誰からも理解もされず、評価も受けないように見えるかも知れないが、それでも、その時々で、神はその道が、確かに神の召しによって与えられたものであり、筆者を待ち受けている将来的な栄光が確かに存在することを、筆者のみならず、他の人々にも分かるように、不思議な形で示して下さり、その約束の確かさを、筆者に思い起こさせて下さるだろうと思う。

そうして自己を否み、日々の十字架を担って、主に従って、歩み続けることこそ、神が筆者に与えられた筆者の見えない「事業」であり、ミッションなのである。だが、その十字架は、私たちが負い切れないほどの苦難を負って、絶望や孤独や悲しみにひしがれながら歩むというものではない。

主は言われた、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28-30)

自分を捨てて、日々の十字架を負うとは、主の謙虚さにならって、負いやすい軛、軽い荷を担う道である。ちょうど主イエスがゴルゴタに向かわれたとき、主が十字架を負い切れなくなった瞬間、ほんのわずかな間だけ、人がそれを負うのを手助けしたことがあった。私たちが担う日々の十字架とは、そういうものであって、十字架の大部分は、すでに主が担って下さっている。

だから、主のへりくだりにあずかりさえすれば、私たちに与えられた軛は負いやすく、その荷は軽い。そして、主のへりくだりにあずかるとは、私たちがいついかなる瞬間も、自己の限界を迎えると思うときでさえ、主が豊かに与えられたように、惜しみなく与える人となることを意味する。それによって、私たち自身が、私たちの仕えている方の限りない豊かな性質を生きて体現することである。
 
こうして、 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:33-34)と書いてある通り、その道にさえ、忠実に歩んでいれば、筆者の個人的幸福や生活の必要性などは、すべてその後から「みな加えて与えられる」だろう。すべての必要が、自然と、不思議に満たされ、地上的な必要性のことで心をいっぱいに煩わせた挙句、明日のことまで思い煩う必要などどこにもなくなるのである。

すべてのものの供給者は神である。だから、私たちは、自分が不器用で、何も持たず、貧しいように思えるときにも、人に頼るどころか、むしろ、主にあって、豊かな者として、惜しみなく豊かに与えることが実際にできるのだ。

だから、筆者はエクレシアから一方的に命の供給を受けることなく、あくまで豊かに流し出す者としてそこに連なっているものと確信している。エクレシアとは、そもそも、命なるキリストが、神の多種多様な知恵が、天の無尽蔵の富が満ち溢れているところである。そのエクレシアに連なっている者が、日々、自分の必要性で窮々とし、絶えず人の助けを乞うしかないなどあるはずがなく、どんな状況にあっても、信仰によって豊かに命を流し出すときに、そこに主の栄光が現れるのであり、それこそが、私たちが絶え間のない命の交換に生きるための秘訣なのである。

キリスト者はこうして、まさに生涯の終わりの瞬間が来るまで、絶え間なく、与える人になることが実際にできる。そして、それだけが、私たちが、この地上的制約を解かれ、天の栄光と祝福の満ちたりた豊かさの中を、身を軽くして歩む秘訣なのである。しかし、この原則を知っている人は、とても少ないのではないかと思う。

何度も言うが、それは、与えるものが豊かに手元に備わっているから、与えるというもののではなく、むしろ、手元に何も残っていないように見えるとき、私たちの力が尽きて、できることがもう何もないように見えるときに、なけなしのものを、神の愛のゆえに、主のため、人々のために捧げることを意味する。

そうするときに、私たちがなげうったものは、何倍にも祝福されて、天から返される。

それは、最後のレプタ二枚を献金したあの女と同じであって、主イエスは、その女が命がけで神に自分を捧げたことを知っておられ、その女の信仰を誉められたが、その女は、その後、どうなったのだろう? 生活費全部を愚かにも賽銭箱に投げ入れたために、信仰と引き換えに、飢え死にしたのであろうか? そんな馬鹿なことは決してあるまい。

主イエスは別なたとえでこう語られた。

良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」(マタイ13:23)

最後のレプタ二枚を神に捧げた女は、きっととても不思議な方法で、天から百倍、六十倍、いや、どんなに少なくとも三十倍は、その報いを得て、必要を余りあるほど補われたであろうことを疑わない。

なぜなら、そういうことは、筆者の人生でも何度も起きて来たからである。

神が見ておられるのは、私たちが、神と人とに仕える動機であって、どこで、誰にどんな奉仕をするかというその内容や、規模ではない。たとえ自分の持てるすべての財産をなげうったとしても、その動機が、神への愛から出たものでなければ、報いはない。

しかし、神は、私たちが、主に従い、神の愛の中にとどまるがゆえに、自分の持てる最後のなけなしのものを捧げて神に仕え、人々にも与える立場に立とうとすることを、とても喜んで、評価して下さる。

そんなわけで、自己の力が尽き果てようとするとき、自分には何ももう誇るべきものがなく、誰にも分け与えるものも、評価や尊敬を受ける根拠もなく、与えて欲しいと願われるようなものさえ、手元にはもう何もないという境地になったときこそ、最も豊かに与えることができる瞬間なのである。

この原則を知っている人は実に少ない。(ただし、これは筆者が追い詰められているということの告白ではないから、そのように誤解することがないように言っておきたい。)

そういうわけで、自分の財布の中身が限られていると言って、そのことを嘆く人は、その後も、自分の財布を拡張することはできないだろう。財布とその中身を広げたいなら、そのためにも、まずはその限られた中身を、ことごとく神に捧げ、人に分かち与えることから始めるべきである。

この最後のレプタを投げ打つことができるかどうかで、その後の私たちの人生は決まる。もちろん、ここで言うレプタとは、様々なものの象徴であって、必ずしも、金銭のことばかりを指すのではない。それは、人の持っている自己の限界そのもののことを指す。

自分は苦しい、これ以上何もできない、捧げよと言われても、何も捧げるものはない、くれと言われても、与えるべき愛などない、これ以上、要求ばかりを押しつけられては困る・・・などと自己弁明したくなるその瞬間、自分には最も何もないと思われるときにこそ、信仰によって、豊かに与えられることを信じ、一歩を踏み出し、自己のレプタを手放し、主により頼むからこそ、それが考えられない規模で祝福されて、豊かに返されるのであり、手放さなければ、それはただのレプタ一枚のままである。

こういうことを言い始めると、早速、「カルトだ!」などと言い出す人があるかも知れないから、筆者は決してどこかの宗教団体に献金せよという話をしているのではないことを幾度も強調しておく。

筆者は誰にも以上のような生き方を強要するつもりもないし、レプタをあくまで手放したくないという人は、手放さないでいれば良いものと思う。

だが、何度も言うように、一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままなのである。天の祝福にあずかるためには、どうしても、それをなげうつ過程が必要となる。だから、筆者はこの新年に、すでに捨てて来たものに加え、さらに昨年手に入れたなけなしのものも、真心から主にお返しし、捧げようと決めた。手放すと言っても、それは心の中で、決してそれらのものにとらわれず、執着しないという意味であり、また、自己の満足のためにそれらのものを使用しないという意味である。そうすることと引き換えに、さらにまさった天の豊かな恵みを得ることができると信じている。

栄光は、ただそのようにしてのみ、やって来る。すなわち、信仰によって、絶え間なく、自己を手放すことにより。十字架の死を経由することにより。復活の力が何であるかを知りたいと思えば、まずは死を経由する以外に道はない。そして、死を経由するとは、主と共に十字架において自己の死を味わうということなのである。それが必ずしも快い体験のはずがないことは、誰しも想像できることである。

だが、主はその軛は負いやすく、荷は軽いと言って下さる。
 
わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。

人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。


神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」(マルコ8:34-38)

だから、筆者は、主イエスに従って生きたいと願う。地上のどんな尊敬できる人々の存在にもまさって、主イエスにのみ従いたいと願う。いつの瞬間も、以上の御言葉を実践して、自己の限界にとらわれず、主の命の豊かさを流し出して、福音を恥じることなく、生きられるようになりたいと願っている。

受けた恵みを、自分のもとにとどめることなく、自分で限界をもうけず、それを流し続けることをやめたくはない。そうこうしているうちに、そこにある命の流れが、必ず多くの人々を潤すようになり、パイプラインが、もっともっと巨大なものとなって、聖徒らの全ての必要を満たし、エクレシアを潤すようになり、私たちには主が確かに着いておられること、私たちの主が無尽蔵に富んでおられる方であること、それゆえ、その庇護を受けている私たちは、どんなことにおいても、不足がなく、心配する必要もないことを、やがてもっと多くの人たちに公然と証し、それによって主の栄光が誉め讃えられる日も来よう。そうなるまで、筆者のパイプライン建設はずっと続くのである。

主に従う人は主を避けどころとし、喜び祝い、心のまっすぐな人は皆、主によって誇ります。

大晦日である。晴れた空に,夕日がいつになく美しく輝いていた。

その日は、筆者の関わるキリスト者の交わりが、文字でなく、音声でもなく、顔と顔を合わせた生きた交わりとなり、筆者の中で、エクレシアが完全に復興を遂げた日であった。

特段、何かがあったわけでないのに、信仰による交わりがあったというだけで、ここ数ヶ月の間、一度も味わったことがないほどの平安が心に訪れた。果たすべき課題はまだたくさん残っているが、それらをすべて脇に置いて、休むことができた。

これまでにも、様々な交わりに出席してきたが、その頃と今とでは、何かが違う。

こんなことを言われた。

「あなたにはねー、こんなこと言っていいかどうか迷ったんだけど、今朝、ヴィオロンさんと『不器用』という言葉が一つにつながったんだよ」

筆者はそれを聞いて「それはひどいですねー」とうわべは抵抗を見せつつも、頷いて笑う。

筆者は確かに不器用な人間であり、人のために何かしてあげようと思っても、そのタイミングを逸することが多い。筆者が動こうとする前に、気の利いた誰かが、もうすでに人々の世話に着手しているからだ。

ところが、キリスト者の交わりとなると、そんな不器用な筆者からも、世話を受ける人が出て来る。互いに仕え合い、満たし合う関係が不思議に成立する。

その日の話題は、主にあって、いかに自分の生来の力に対して弱められ、それに死に、主の力によって強められて生きるか、というところを巡っていた。筆者が不器用であっても、私たちは存在そのものが神の教会であり、己の力で何かを努力して果たすことによってではなく、ただ存在しているだけでも、世に影響を与え、信仰によって、キリストを人々にもたらす役目を果たせる。それができると信じて良い。

「もっと教会(エクレシア)に頼ったらいいんですよ」

とも言われた。以前には、なかなか人に頼るということができず、頼ることを恐れていた筆者であったが、ここ数年で、考えを変えさせられた。

近頃、筆者の周りには、どこからともなく、善良な人たちが集まって来るようになり、困難な日に、どれほど貴重な助言を受け、励ましを受け、支えられたか分からない。そうして助けを受けたからといって、決して、依存関係や、主従関係が生まれるわけでなく、それぞれが自分の信念を持ち、自立していながら、互いに支え合い、仕え合い、助け合う関係が成立するのである。

そのようなわけで、今年は、人から助けを受けることへの抵抗感がなくなり、特に、神の家族からの助けは、大いに受けて良いものであると分かった。肉の家族ではなく、天の家族が、はっきりと姿を現し、信仰の有無に関わらず、肉の家族以上に筆者を支えてくれるようになったのである。

筆者は、初めは恐る恐る、その人たちとの関わりに足を踏み入れ、恐る恐る、助けを受けた。かつて、あまりにも多くの交わりが、サタンの試みによって引き裂かれ、疑心暗鬼によってバラバラに分解されたので、またも同じことが起きないか、非常に心配であったが、何度、試しても、その交わりは分解することなく、筆者を取りこぼすこともなく、より安定して、強固なものになり、発展した。

以前にも、筆者はキリスト者の交わりを求めて、はるばる長い距離を移動した。その頃も、純粋にエクレシアを求めていたつもりであったが、その時と今とでは、何かが違う。エクレシアを求める熱心さにさえ、死んだのかも知れない。今、与えられているものは、恵みであって、筆者が探し求めた努力の結果とは言えない。

すべての希望が潰え、もう何も戻っては来ないだろうと思った頃に、望みをはるかに超えた恵みが、向こうから自然と姿を現したのである。

それは、天によって支えられている不思議な関係である。鳥が空中に巣をかけるように、地に属さず、地上のすべての関係を超越したところに、不思議な形で、交わりが保たれている。その交わりを何と名づけるべきか、分からない。だが、そこに筆者の居場所があり、平安がある。

その居場所は、信仰のない様々な人たちの間でも、不思議に成立している。たとえば、最近は、警察官から、「クリスマスケーキは食べたの?」と聞かれたり、この世の人から、「無事に年を越せるの?」などと言われ、御馳走を振る舞われたりもした。そんなに心配されるほど、筆者の境遇は危なっかしくはないのだと、とうわべは弁明するのだが、それでも、虚勢を張らず、ありがたく人の親切を受けるようにもなった。
 
これまでは、筆者を苦しめるためだけに、ひたすら筆者の嫌がることばかりをやり続ける人たちがいたが、今年は、そういう人たちと入れ違いのように、筆者が頼んでもいないのに、筆者が何を願っているのか、言葉も発していないうちから、筆者の願うことだけを、ひたすらやり続けてくれる人が現れるようになった。

しかも、それはただ単純に、望みをかなえてくれるという低い次元の関わりではなく、時宜にかなった助言があり、将来に渡ってまで、役立つ助けが与えられ、困難の中でも、率直に心の内を語り合い、互いに支え合い、励まし合う関係が成立している。そんな関わりが成立しうるとは、想像したことさえなかったが、筆者の未熟さによって揺るがされることのない、真実で誠実な信頼関係が成り立つことを知ったのである。

そういうわけで、「人が一人でいるのはよくない。彼のために助け手を作ろう」とおっしゃられた神の御言葉が、筆者の人生にも成就し、筆者自身も、人の助け手となったり、人々も、筆者の助け手となってくれたりして、これまでのように一人で時間を過ごすことがだんだん難しくなってきた。

かつてのように、開かずの間に向かって、扉を叩き続けるような、むなしい関わりが減って行き、そういうものが残っていても、ある時、バッサリと枝葉が切り捨てられるようにしてなくなる。そして、いつの間にか、筆者自身からも、命の水が細い川のように流れ出し、その流れを人々と分かち合うことができるようになった。

どういうわけか知らないが、長年、筆者を縛っていた敵の呪いが解け、筆者自身の中に残っている古き人の残滓が、どんどん筆者から切り離されて行くのである。恐れ、疑い、不信、肉なる情・・・、そういった古き人の思いが、御言葉による「手術」により、筆者から切断されて、取り払われて行く。これは人知を超えた不思議な逆説的なみわざである。

「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろともに十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。」(ガラテヤ5:24-26)

筆者を憎む者が、筆者を踏みつけ、勝利の快哉を叫んでいる最中に、筆者は、キリスト者の交わりの中に入れられ、愛によって取り囲まれ、信仰者からも、信仰を持たない者からも、心を尽くした助けと慰めと励ましを受け、魂を生き返らされている。

追い詰められ、殺されかかっているように見える時に、かいがいしく世話を受け、「生きよ」と命じられ、「私はあなたの敵を滅ぼす」、「すべての重荷を私に委ねなさい。」、「私はあなたを見捨てない」、「私を信頼してすべてを任せなさい」と、主から励ましを受ける。

一体、この恵みは何なのだろうか。多くの苦難と、それを圧倒的に上回る慰めに満ちた励ましとのコントラストである。

主は、信じる者をお見捨てにならず、恥の中に捨て置かれることもない。同時に、神の家族も同じように、愛する人々を苦難の中に置いて去って行くようなことをしない。

まるで多くの人たちからこう言われているようである、「疑わなくていいんですよ、ヴィオロンさん、私たちは目に見えない家族として結ばれているのですから、引き離されることはありません、互いに助け合うのは当然です」

神は報復なさる方であり、無垢な者を破滅させようと企む者には、したたかに報いられる。だが、主の勝利は、私たちが肉の腕で勝ち取るものではなく、信仰を通して、神がなさるみわざである。そうであるがゆえに、それがどのように現れるのか、私たちは事前に知らないし、己の力を誇ることで、敵に対する勝利を勝ち取るわけでもない。

キリスト者の原則はいつも、「私は衰え、彼(キリスト)は栄える」、というものだ。だから、来るべき年は、ますます肉の力によらず、信仰による神の御業を待ち望み、主の御言葉の正しさを地上で証明することに専念し、自分自身を誇るのではなく、ただお一人の神を誇りたいと願う。
 
二つの詩編を引用しておこう。

詩編第1編

いかに幸いなことか
神に逆らう者の計らいに従って歩まず
罪ある者の道にとどまらず
傲慢な者と共に座らず

主の教えを愛し
その教えを昼も夜も口ずさむ人。
その人は流れのほとりに植えられた木。

ときが巡り来れば実を結び
葉もしおれることがない。
その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。

神に逆らう者はそうではない。
彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。
神に逆らう者は裁きに堪えず
罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。

神に従う人の道を主は知っていてくださる。
神に逆らう者の道は滅びに至る。

詩編第64編

神よ、悩み訴えるわたしの声をお聞きください。
敵の脅威からわたしの命をお守りください。
わたしを隠してください
さいなむ者の集いから、悪を行う者の騒ぎから。

彼らは舌を鋭い剣とし
毒を含む言葉を矢としてつがえ
隠れた所から無垢な人を射ようと構え
突然射かけて、恐れもしません。

彼らは悪事にたけ、共謀して罠を仕掛け
「見抜かれることはない」と言います。
巧妙に悪を謀り
「我らの謀は巧妙で完全だ。
 人は胸に深慮を隠す」と言います。

神は彼らに矢を射かけ
突然、彼らは討たれるでしょう。
自分の舌がつまずきのもとになり
見る人は皆、頭を振って侮るでしょう。

人は皆、恐れて神の働きを認め
御業に目覚めるでしょう。
主に従う人は主を避けどころとし、喜び祝い
心のまっすぐな人は皆、主によって誇ります。