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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

主よ、御名を知る人はあなたに依り頼む。あなたを尋ね求める人は見捨てられることがない。

あなたは誰との一致、一体化を目指すのか。目に見える人間、事物、制度、組織との一体化か、それとも、見えないキリストとの一致か・・・。

私たちは誰を自分の「代表」として生きるのか。それは非常に深刻かつ重要な問題である。

ある時、地上の権威者が、筆者はその権威者の代理人であって、筆者に話しかける人々はみな筆者を通して、その権威者自身に話しかけているのと同じだと述べたことがあった。

その時、筆者はそうした信頼が寄せられたことが嬉しく、それによって自分が高められ、かつ、その関わりの中に、キリストと信者との一致のひな型を見いだしたような気がした。

しかしながら、それは本物と似ているようでありながら、本物ではなく、厳密に言えば、大きな誤謬と言っても差し支えない考えであった。

なぜなら、私たちの代表は、ただ見えない主だけであって、目に見えるどんな人間も、私たちの代表や代理人とはなれないためである。

私たちは、目に見える人間との間で、どんなに一致や一体性を確保しようとしても、それをほんのわずかの間も、保つことができない。

目に見える人間は、他者を力づくで支配したり、あるいは指図したり、説得したりして感化を及ぼし、あるいは他者の関心を自分に向けさせたりすることはできるかも知れない。

しかし、どんなに強い心の結びつきが出来たとしても、それは決して他人を内側から変える力とはならないし、内側からの一致ともならない。

目に見える人間同士は、どんなに互いを愛し、信頼しているつもりであっても、決して真に互いを理解し合うことはなく、互いを満たすこともできず、やがて来る別離を避けることもできない。

人間同士の結びつきは、非常に脆弱で、不完全で、一時的なものに過ぎず、どこまで行っても、真の一致には至ることがない。

だからこそ、私たちには、私たちの真の助け手として、また代表として、信仰により、内側にキリストを持つことが必要なのである。キリストの中にこそ、私たちに必要な一切のものが満ちているからである。

A.B.シンプソンは「キリスト生活 第3章 キリストにある」の中でこう述べている。
 

聖書に示されている私たちとキリストとの結合には二つの面があります。それらはギリシャ語の前置詞「~にある(in)」によって最もよく表されています。それは、私たちに祝福の半球を二つ与えます。第一は「キリストにある(in Christ)」であり、第二は「あなたがたの内にあるキリスト(Christ in you)」です。

これらは異なる思想ですが、互いに相補的であり、組合わさって私たちがこれまで語ってきたキリスト生活を構成します。

まず第一に、私たちはキリストにあります。「キリストにある」とはどういうことでしょう?それは、キリストが代表となって、私たちのために立ち、私たちがそのすべての恵みと特権にあずかることです。

アダムを盟主としていただく限り、私たちはアダムにあります。同様の意味で、私たちの政治的代表者は私たちのために立ち、私たちを代表するので、私たちは彼の中にあります。そのように、キリスト・イエスは私たちのためであり、私たちの代表者です。そして彼の行為はある程度私たちのものとなります。彼はご自身のためよりも、私たちのために行動されます。


 もしもアダムに属する古き人を自分の代表とみなすなら、私たちの行動様式の一切は、古き人を導く罪と死の法則に支配され、そこから寸分たりとも抜け出ることができない。どんなに優れた偉人であろうと、どんな権威者であろうと、肉なる人間を頼るなら、私たちはそこから何一つ得るものはない。

私たちはその人間の外見や行動様式を模倣することはできるかも知れないが、模倣によって同じ性質が得られるわけではない。滅びゆく人間から受け継ぐことができるものは、しょせん、滅び以外にはないのである。
  
だから、私たちは、私たちのために死んでよみがえって下さった、神の目にただ一人完全な人であるキリストに、私たちの代表者となっていただく必要がある。

その時、その代表者の人格、思い、知恵、力、行動様式が、私たちのものとされるのである。

その法則を説明したという一点においては、地上の権威者が筆者に告げたことは、幾分か真実を含んでいたと言えるが、私たちは、キリストによって救われていない者でなく、キリストご自身を代表として生きなければならない。いや、その方が私たちの内側から生きて下さるようにしなければならない。

私たちが心の内側で、確固としてこの方の命、人格と結びつくことにより、キリストの知恵、力、すべての優れた性質が、私たち自身のものであるかのように、内側から生きて外に流れ出すようになる必要がある。

とはいえ、それが起きたからと言って、私たちは何ら超人のようにはならず、実に素朴な生活が待っているだけであろうが、それでも、私たちには、主が共にいて共に生きて下さっていることが、確実に分かるはずである。

一体、そのようなことが机上の空論としてでなく、可能なのかと、首をかしげたくなるかも知れない。

だが、先人たちの証を通しても、それは可能であることは明白である。聖書がそう告げている以上、私たちは「わたしにとって、生きるとはキリスト」である(フィリピ12:21)と言えることを信じるべきである。学習は少しずつであるが、進んでいる・・・。

* * *

もしもあなたが今、心に平安がない・・・と思っているならば、または、生きることに不自然なほどの疲れを感じる時があるなら、まずは心の扉をきっちり閉めて、主イエス以外に頼るものがない心の状態を作り出すことをお勧めする。

あなたの心は、家のようなものである。家の外では嵐が吹き荒れている。その上、強盗やごろつきどもが外をうろついている。獣だっているかも知れない。

心の平安を取り戻すためには、まずは家の鎧戸をぴったりと閉めて、隙間風が入らないようにし、外にたむろしている怪しい連中や獣たちの怒号が、家の中に届かないようにしてから、静かに神に向かって語りかけることだ。

あなたに信仰があるなら、キリストはあなたの内に確かに生きて共におられ、あなたの呼び声に応えて下さる。だから、その方に静かに呼びかけてみると良い。怖いなら、助けを求めると良い。

ならず者たちを心の中から追い出しただけでも、驚くほど心の平安が回復したことにあなたは気づくだろう。

あなたは外にいる者たちが、ならず者だということに、気づいていなかった。あなたは友を求め、助言者を求め、慰め主を求め、あらゆる場所を奔走し、目に見える人間に声をかけ、すがりついたが、誰もあなたを助けてくれる者はなかった。

彼らは、自分たちに得になる時にしか、あなたに関わらず、あなたが助けを必要としている時には、甚だ冷淡であった。彼らは、あなたをへとへとになるまで利用し、これ以上、取るものがないと分かると、あなたをぼろ切れのように投げ捨て、踏みつけて去って行った。

目に見える存在は、どんなに優れた者のように見えても、あなたを寸分たりとも、救う力を持たない。そういうむなしいものにすがり続ける限り、あなたは力を失って行くだけである。

だから、それらすべての偶像を、心の外に毅然と締め出しなさい! そして、主と二人きりになって、見えない主ご自身から、すべての必要な力を引き出しなさい。そうするだけでも、あなたは、内なる力がどれほど回復し、心に平安が戻るかを知ることができるだろう。

どんなにあなたが失敗を重ね、疲れ切っていたとしても、関係ない。主はへりくだって、心優しい方であるから、あなたが主以外のものに頼ることが誤りであると認めさえするならば、あなたの罪を赦し、責めずに受け入れ、恥じることなく、あなたの弱さを力で覆って下さる。

だから、ダビデが詩編第18編で述べた通り、あなたは大胆に宣言することができる。

「主よ、わたしの力よ、わたしはあなたを慕う。
 主はわたしの岩、砦、逃れ場
 わたしの神、大岩、避けどころ
 わたしの盾、救いの角、砦の塔。
 ほむべき方、主をわたしは呼び求め
 敵から救われる。」

「主は高い天から御手を遣わしてわたしをとらえ
 大水の中から引き上げてくださる。
 敵は力があり
 わたしを憎む者は勝ち誇っているが
 なお、主はわたしを救い出される。

 彼らが攻め寄せる災いの日
 主はわたしの支えとなり
 わたしを広い所に導き出し、助けとなり
 喜び迎えてくださる。」
 
 「わたしは主の道を守り
  わたしの神に背かない。
  わたしは主の裁きをすべて前に置き
  主の掟を遠ざけない。
  わたしは主に対して無垢であろうとし
  罪から身を守る。
  主はわたしの正しさに応じて返してくださる。
  御目に対してわたしの手は清い。」(詩編18:2-4,17-20,22-25)

あなたがどんな状況にあり、どれほど万策尽きていようとも、神には行き詰まりはない。

運転手が何度道を間違えようとも、ナビが狂うことはないように、主は、あなたが頼り続ける限り、あなたを嘲笑することも、見捨てることもなく、あなたを正しい道へと導いて下さり、すべての悪から遠ざけられ、目的地を指示して下さる。

だから、あなたは以前は幾度も道を間違えて迷っていただけであったが、ついには勝利の歌を歌うことができるようになる。

 「わたしは心を尽くして主に感謝をささげ
  驚くべき御業をすべて語り伝えよう。
  いと高き神よ、わたしは喜び、誇り
  御名をほめ歌おう。
  御顔を向けられて敵は退き
  倒れて、滅び去った。

  あなたは御座に就き、正しく裁き
  わたしの訴えを取り上げて裁いてくださる。
  異邦の民を叱咤し、逆らう者を滅ぼし
  その名を世々限りなく消し去られる。

  敵はすべて滅び、永遠の廃墟が残り
  あなたに滅ぼされた町々の記憶も消え去った。

  主は裁きのために御座を固く末
  とこしえに御座に着いておられる。
  御自ら世界を正しく治め
  国々の民を公平に裁かれる。

  虐げられている人に
  主が砦の塔となってくださるように
  苦難の時の砦の塔となってくださるように。
  主よ、御名を知る人はあなたに依り頼む。
  あなたを尋ね求める人は見捨てられることがない。」(詩編9:2-11)

さて、A.B.シンプソンの「キリスト生活 第3章 キリストにある」の中から、キリストのご性質がどのように私たちのものとされるのか、その描写に注目してみたい。

罪の赦し、義認というテーマが重要でないと言うわけではない。しかし、ただ罪が赦され、義とされ、無力な者が神の強さによって覆われ、無知な者が知恵を得て、キリストの人格、性質が私たちのものとされる、という以上に、代表者であるキリストを通して、私たちにいかにとてつもない特権が付与されているか、そのことについて考えてみたい。

* * *

神の子供たち

もし人がキリストにあるなら、その人は彼との交わりに入り、神にとってキリストと同じ者になります。イエスは「私の父またあなたがたの父、私の神またあなたがたの神」1と言われました。

「彼を受け入れた者、すなわち、彼の御名を信じた人々に、彼は神の子どもとなる力をお与えになりました」(ヨハネによる福音書一章一二節)。「あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子どもなのです」。2

1 ヨハネによる福音書二十章十七節(訳注)
2 ガラテヤ人への手紙三章二十六節(訳注)

子たる身分を表すのに、新約聖書では二つの言葉が使われています。一つは「生まれた息子」を意味しますが、もう一つにはそれ以上の意味があります。子たる身分を表す二つ目の言葉は、ほとんどの場合キリストの子たる身分にあてられており、イエス以外の他の誰にもめったに使われていません。

しかし、その言葉はキリストと結合された人たちを指すのにも使われています。彼らは新しく生まれて神の子供になっただけでなく、キリストが受け入れられたのと同じ意味で受け入れられます。すなわち、彼らは新生によって子たる身分を持つだけでなく、キリストご自身の立場をも持ちます。彼らは神の子供であるだけでなく、「長子」でもあります。

東洋人の考えでは、息子と長子には大きな違いがあります。長子は世継ぎです。他の者は何らかの分け前にあずかることができますが、年長者が跡継ぎです。それで「御子は多くの兄弟たちの中で長子であり」1と述べられており、信者たちは「長子たち」と呼ばれています。

ですから愛する人々よ、あなたがたは天使がなることのできない「子供」なのです。私たちはイエスのように子です。私たちは「天に登録されている長子たちの教会」2に近づいています。私たちは「神の相続人、イエス・キリストと共同の相続人」3です。

1 ローマ人への手紙八章二十九節(訳注)
2 ヘブル人への手紙十二章二十三節(訳注)
3 ローマ人への手紙八章十七節(訳注)

聞き届けられる祈り

私たちはキリストにあります。そして、偉大な大祭司であるキリストが、御座の前で私たちを代表しておられます。ですから、私たちの祈りや礼拝は、彼ご自身が受け入れられるのと同じように、彼のゆえに受け入れられます。

彼はあなたの名によって嘆願を手渡して、その裏に彼の御名を記されます。そして、まるで彼が願っておられるかのように、あなたの祈りは御父のみもとに届きます。

キリストはご自身の人格と性格において、あなたを代表しておられます。彼は個人としてそこにおられるのではありません。私たちは個人と見なされているのではなく、キリストと一つである者と見なされています。

私たちがこのようにキリストと一つである者として来る時、私たちは自分の欲するものを願い、それを受けます。これが次の約束の意味です、「もしあなたがたが私の内に住み、私のことばがあなたがたの内に住んでいるなら、何でも望むものを願いなさい。そうすれば、それはあなたがたにかなえられます」(ヨハネによる福音書十五章七節)。

共同の相続人

私たちはキリストにあって万物を受け継ぎます。私たちは彼と共に御座に座します。彼のすべての豊富、すなわち後の時代に来ようとしているものはみな、私たちのものになります。彼はご自身の未来と私たちとをつないで下さいました。

キリストは私たちと一緒でなければ、決してなにものも所有されません。愛する人よ、もしあなたが「私はキリストにあります」と言えるなら、続けて「私は彼にあってすべてのものを持っています」と言うことができます。

それで、パウロはエペソ人のために、「キリストがどのような方であるのか、彼らが見ることができますように」と祈りました。「神はキリストを、すべての支配、権威、力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く上げられました。また神は、彼をかしらとして教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであって、すべての中ですべてを満たしている方の豊満です」(エペソ人への手紙一章二十一~二十三節)

彼は「私のものはすべてあなたのものです」と仰せられます。永遠の時代をもってしても、その測り知れない富を使い尽くすことはできません。

彼の所有は私のものとなり、
 彼のように私はなります。
 彼の神聖な栄光を着せられて、
 私は彼のようになります。 

* * *

私たちは、キリストと共に、死んで復活させられただけでなく、御座にまで引き上げられ、天の無尽蔵の富の共同相続人とされている。

文字通り読めば、恐ろしいと思うほどに、とてつもない特権が約束されていることが分かる。

とはいえ、これほど絶大な特権が与えられているにも関わらず、私たちの歩みは、あくまでいつも恐る恐る、新たな一歩を定めるようなものであって、決して超人的なものとはならない。それは、キリストは果てしない大海のようであっても、私たちはその海に浮かぶ小瓶のようなもので、私たちは自分というちっぽけな器を、絶えず彼のはかりしれない命によって満たしてもらうために、御前に進み出る必要があるためである。

そのはかりしれない権威、力、知恵、富、栄光は、あくまでキリストのものであって、私たち自身から出て来るものではない。しかし、私たちが彼の中にとどまるときに、それはあたかも私たち自身のもののように、私たちの内側から生きて働き、私たちは神の御前に、彼と全く同じ者のとして受け入れられるのである。

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キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。

この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」(ガラテヤ5:1)

主のための霊的戦いを本当に最後まで貫徹し、勝利をおさめたいならば、私たちは徹底して、神の御前に孤独な単独者として歩まねばならない。

このことを筆者は幾度、痛感させられ、そして幾度、失敗を経験してきたか分からない。だが、神は根気強く筆者に教えて下さる。目に見えるものに頼ってはならないと。もしそれができなければ、私たちは戦いの途中で敗北者になるしかないと。

多くの人々が、主の御前で孤独や、貧しさを味わうことを忌み嫌い、信仰のゆえの苦難を蔑み、嘲笑って、去って行った。そして、筆者自身も、幾度、人々の誇らしげな自慢話を聞いては、打ちのめされ、そうした苦難を負うことをやめたいと思ったか分からない。

だが、その度毎に神が筆者に教えられるのは、もしも私たち信仰者が、神の御前で、孤独でつつましいやもめのように歩むことを忌み嫌い、人前に虚勢を張り、手っ取り早く栄光を受けようと、見えない神御自身だけに頼ることをやめて、孤独を埋め、己の欲を満たしてくれそうな様々な目に見えるアイテムーー目に見える人、事物、組織、制度――に助けを求めるならば、私たちの信仰は、必ず、弱められるということだ。

いや、弱められるだけではない。私たちは破滅に向かって行くことになる。ちょうど髪の毛を切られたサムソンと同じように、デリラの策略にまんまと翻弄されて、やがて奴隷のように引いて行かれ、苦役に従事させられることになる。

デリラとは、人間の古き人の中に働く様々な堕落した欲望そのもののことである。

だから、「女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである」(ガラテヤ4:30)との御言葉は、私たち自身が、自分の古き人とそれに属する諸々の堕落した情欲を主と共なる十字架の死に渡し、それによって断ち切らるべきことを示している。

私たちが神の霊によって新しく生まれ、御霊によって生かされる「自由な身の女から生まれた子」として歩むためには、「女奴隷とその子」の生き方と訣別し、神に属する新しい人類として歩まねばならないのである。

グノーシス主義の言う「母の過ちを修正する」とは、人類が目に見えるものに心惹かれる古き人の欲望に従って、神に到達し、新しい人類になろうとする不毛でむなしい試みを指している。それは、決して古き人が十字架によって断ち切られることのない、堕落した人類の偶像崇拝の道である。なぜ偶像崇拝なのかと言えば、人は目に見えるものにしがみつくことで、自らの欲望を投影した対象を拝んでいるだけだからである。

宗教指導者に頼ろうと、この世の権威者、偉人に頼ろうと、この世の目に見えるどんな事物を愛そうとも、その時、私たちは自分の心の欲望を目に見えるものに投影し、その対象を誉め讃え、それに頼ることによって、己が欲望を拝んでいるのである。

だから、私たちはそうして目に見える人、制度、事物、教えに己が欲望を投影しては、これに頼る生き方から、離れなければならない。
 
そうした目に見える事物は、私たち自身の古き人の象徴であり、集大成である。だから、それに目に見えるものにとらわれている限り、私たちは己が欲望の奴隷でしかないのである。だが、古き人が断ち切られるためには、カルバリの死が必要なのであって、キリストと共なる霊的死が、私たちに絶えず適用されることが必要である。

私たち自身が、女奴隷とその子の生き方を否み、古き人を自ら否んで、キリストと共に死んで復活させられ、新しい命を生きることを選択しなければならないのである。

偽物をどんなに糾弾しても、そこから本物が生まれるわけでないのと同じように、古き人に属する世界全体は、死んだものであって、その死の中をどんなに探し回っても、命あるものは見いだせない。

だから、まことの命を見いだし、「奴隷の女から生まれた子」ではなく、「自由な身の女から生まれた子」として生きるためには、私たちは上にあるものを見上げ、見えない主だけを見上げ、神だけを頼りとして歩まなければならない。

それは生まれながらの自分自身からも目を離す生き方である。主は私たちにアドバイスされるだろう、あなた自身の古き人も含め、目に見える世界から、滅びゆくこの世から、視線を離しなさい! そして、上にあるものを見上げなさい!と。

その時、初めて自由がやって来る。

キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。」(ガラテヤ5:24)

「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。」(ガラテヤ6:14-15)

「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。」(2コリント5:17-19)

キリストはすべての支配や権威の頭です。あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。肉に割礼を受けず、罪の中に死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。

神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。」(コロサイ2:10-15)


「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。」(コロサイ3:1-3)
 
私たちはただキリストと共に自分の古き人が十字架で死んだ、という事実だけを握りしめているわけにはいかない。彼と共に死んだ以上、彼と共に復活させられたのであり、さらに、私たちの中にキリストが生きて下さるという事実を掴まなければならない。
 
私たちの内にキリストが生きて下さるとは、一体、どういうことを指すのか、それを知るために、以下に、オリーブ園に掲載されているA.B.シンプソンの「主ご自身」を引用しておきたい。

信じない人は、これを読んでも、全く信じず、理解もしないことと思う。だが、筆者は、これが確かに現実であって、私たち信じる者は、みなキリストご自身の命を自分の内側に掴むことができ、その命にあずかることによって、あらゆる不足を解消できることを知っている。

筆者はそのことをまだほんのわずかしか知らないとはいえ、それでも、彼が、私たちのために知恵となり、力となり、豊かさとなって下さることを知らないわけではない。また、キリストは私たちの体のための命でもあるため、私たちの体の弱さのためにも内側から命を供給して下さる。

だから、私たちは自分たちの不足を解消するために、目に見える事物を追い求めて走り回ることをやめて、キリストご自身から、自分に必要な一切のものを引き出すことを学ばなければならない。自分の弱さを感じるとき、不足を感じるとき、追い詰められて、万策尽きたように思うとき、心の内側で、静まって主に助けを乞い求めて語らい、答えを得る秘訣を学ぶ必要がある。

己が欲望を追って走っても、私たちは決して満たされることはなく、何かを掴んだと思っても、すぐにまた飢え渇きに支配されるだけである。だが、キリストは私たちを置いて去って行かれることはなく、どんな時にも、私たちが必要としているすべてとなって下さる。この方は、私たちのための知恵であり、力であり、体の命でもある。そこで、この方が内におられる限り、私たちには不足は決して生じないことを、生きて具体的に学ぶことが必要なのである。

以下のパラドックスに満ちた御言葉は、人が己が情欲を追って生きる生き方は、風をはらむようなむなしいものに過ぎないが、見えない神により頼み、キリストをまことの伴侶のごとく頼みとし、彼を知ることを追い求めて生きるならば、人が生来の力を振り絞って全力で生きても、全く到達することのできない永遠に至る実が豊かに結ばれることをよく表している。

「アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から生まれ、もう一人は自由な身の女から生まれたと聖書に書いてあります。ところで、女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由な女から生まれた子は約束によって生まれたのでした。

これには、別の意味が隠されています。すなわち、この二人の女とは二つの契約を表しています。子を奴隷の身分に産む方は、シナイ山に由来する契約を表していて、これがハガルです。このハガルはアラビアではシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、今のエルサレムは、その子供たちと共に奴隷となっているからです。

他方、天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これはわたしたちの母です。なぜなら、次のように書いてあるからです。

「喜べ、子を生まない不妊の女よ。
 喜びの声をあげて叫べ。
 産みの苦しみを知らない女よ。
 一人取り残された女が夫ある女よりも、
 多くの子を産むから。」」(ガラテヤ4:22-27)

グノーシス主義すなわち偽りの教えは、人が堕落した肉の欲望の奴隷となって生きながら、同時に神の聖にまで至り着き、自由になれるかのように嘘を教える。そうした虚偽に従って、人は労働したり、あるいは奉仕したりして、自己の力を振り絞って、神の聖に到達できるかのように錯覚し、そのために一大宗教体系まで築き上げている。だが、その中でどんなに精進し、勤行を重ねても、人が自力で神に到達することはできない。欲望の奴隷は欲望の奴隷のままであり、どんなにその生き方を重ねても、自由にはなれないからである。

人が自由になるために必要なのは、己が力で精進したり勤行に励むことではなく、信仰によって、キリストと共なる十字架の死と復活にあずかり、古き人に死んで、新しい人として生かされることである。主と共に、主の命の中を生きて行く秘訣を知ることである。その時に、本当に実を結ぶとはどういうことなのかを人は知ることができよう。

さて、主と共に、まことの命である復活の主ご自身を得て生きるとは、どういうことなのか? 新しい人とはどういう人間のことなのか? かなり長いが、筆者が書き続けるよりも、説得力があるように感じられるため、A.B.シンプソンの証を引用しておきたい。

* * *

私はあなたにイエスについて、ただイエスについて話したいと思います。私はしばしば、「神の癒しが得られたらと願うのですが、得られません」と人々が言うのを聞きます。またある時、「わたしは得ました」と人々は言います。「何を得たのですか?」と尋ねると、「祝福を得ました」、「教理を得ました」、「癒しを得ました」、「聖潔を得ました」といった返事が戻ってきます。

しかし、神に感謝します。大事なのは祝福や癒しや聖潔やあなたの欲するものではなく、さらにまさったものであることを私たちは教わっています。大事なのは「キリスト」、主ご自身です。

主の御言葉の中に、主ご自身という言葉が何度も出てきます。主ご自身、私たちの弱さを負い、私たちの病を担われた」主ご自身「木の上で私たちの罪をご自身の体に負われた」のです!

私たちが欲しているのは、イエス・キリストその方です。多くの人はこの思想を得ますが、それから何も得ません。彼らは頭の中に、意識の中に、意志の中に、この思想を得ますが、どういうわけかいのちと霊の中にを受け入れません。なぜなら彼らは、霊的実際の外面的表現やしるししか持っていないからです。

私はかつて、銅板の上に巧みに彫られた合衆国憲法の絵を見たことがあります。その絵は、近くから見ると文字の羅列にすぎませんが、遠くから見るとジョージ・ワシントンの顔になるのでした。その顔は、文字の間隔の僅かな違いから浮かび上がったのです。その時私は、「これこそ、聖書を読んで神の御思いを理解する方法である。これこそ、全巻を通して輝き渡っている愛の御顔を聖書の中に見る方法である。思想や教理ではなく、いのちであり、源であり、臨在して私たちの全生涯を支えて下さる方であるイエスご自身である」と思いました。

長い間、私は潔められるために祈りました。そして、潔められたと思ったこともしばしばありました。ある時、私は何かを感じ、それを失うのを恐れて必死に握りしめ、それが去ってしまうのが怖くて一晩中起きていたことがあります。もちろんそれは、感情や気分の変化と共になくなりました。当然のことながら、私はそれを失いました。なぜなら、私はを握っていなかったからです。開かれた水路を通してからいつでも豊かに受けることができたのに、私は水ためから僅かな水を汲み取っていたのです。

私は集会に出かけて、人々が喜びについて語るのを聞きました。「自分には喜びがある」と考えましたが、私は喜びを保てませんでした。なぜなら、主ご自身を私の喜びとして持っていなかったからです。

ついに、主はとても優しく私に語りかけて下さいました。「私の子よ、私を受けなさい。私を、これらすべてのものを絶えずあなたの内で供給する者とならせなさい」。そしてついに、聖潔や自分の経験から目を離し、それらのものをわたしの内におられるキリストの上に置いた時、経験の代わりに一時の必要以上のキリスト、私が必要としているものをすべて持っておられるキリスト、一度限り永遠に私に与えられたキリストを、私は見いだしたのです。

このように主を見た時、それは大いなる安息でした。それはまったく申し分ないものであり、永遠でした。なぜなら私は、その短い時間に持てるものを持っただけでなく、将来必要になるものをも主の内に持ったからです。そしてついには、私たちが「御父の王国の中で太陽のように輝き」(マタイ一三・四三)「神のあらゆる豊かさ」を持つことになる、百万年後の光景を時折かいま見るようになったからです。

私はまた、癒しも一つのものだろうと思っていました。「主は私を使い古された時計のように扱って、ねじを巻き直し、機械のように動かして下さるだろう」と思っていたのです。しかし、事実はまったくそうではありませんでした。そうではなく、癒しとは私の内側に入ってきて、その都度必要なものを私に与えて下さる主ご自身であることを私は見いだしました。

私は、裕福さを感じられるよう莫大な資産を持つことを欲し、次の日主に頼らなくてもすむように、何年分もの大きなたくわえを持つことを欲しました。しかし、主は決してそのようなたくわえを私に与えて下さいませんでした。その都度必要とする以上の聖潔や癒しを、私は決して持ちませんでした。

主は言われました、「私の子よ、あなたは次の一息のために私のもとに来なければなりません。私はあなたをとても愛しているので、常にわたしのもとに来てもらいたいのです。もし私があなたに多く与えるなら、あなたは私なしで物事を行ない、あまり私のもとに来なくなるでしょう。あなたは毎秒私のもとに来て、毎瞬私の胸によりかからなければなりません」

主は私に莫大な財産を与え、それを私の預金に繰り入れて下さいました。しかし主は、「あなたはその都度必要とする以上の額を引き出すことはできません」という一つの条件付きで、小切手帳を渡されました。しかし小切手が必要な時はいつでも、その小切手の上にはイエスの御名が記されていたので、ますます主に栄光が帰され、主の御名が天界で覚えられ、神が御子によって栄光をお受けになったのでした。

私は毎秒主から私の霊のいのちを受けること、呼吸する毎に主ご自身を吸い込み私自身を吐き出すことを学ばなければなりませんでした。ですから、毎瞬毎瞬霊のために、そして毎瞬毎瞬体のために、私たちは受けなければなりません。

「そんなことはひどい束縛であり、常に張りつめていることではないでしょうか?」とあなたは言うかもしれません。あなたの愛する方、あなたの最愛の友と一緒にいて、どうして張りつめていることがあるでしょう?ああ、そんなことはありません!それはとても自然で自動的であり、泉のように自覚も努力も伴いません。なぜなら、真のいのちは常にのびのびとしていて、溢れ流れるからです。

そして今、神に感謝します。私はを持っています。私の容量内で持っているだけでなく、私の容量以上に持っています。私の前に広がる永遠の中へと進み行くにつれて、私の容量はますます大きくなって行くでしょう。私は海の中の小さな瓶のようです。容量いっぱいに満たされています。瓶は海の中にあり、海は瓶の中にあります。

同じように、私はキリストの中にあり、キリストは私の中におられます。しかし、瓶を満たしている海水の他に、彼方には大海が広がっています。違いは、瓶の方は何度も、日々、永遠に、満たされなければならないことです。

今、私たち各自に対する問いは、「ベトシャンをどう思うか?神の癒しをどう思うか?」ではなく、「キリストをどう思うか?」です。

かつて、私とキリストとの間に小さな邪魔物が入り込んだことがありました。その邪魔物は、「あなたは信仰によって癒されたのですね」と言ったある友人とのささやかな会話の中に見られます。それに対して私は、「いいえ、私はキリストによって癒されたのです」と答えました。

違いは何でしょう?そこには大きな違いがあるのです。ある時、信仰さえも私とイエスとの間に割り込むかのように思われたことがありました。私は「信仰を働かせなければならない」と考え、信仰を得るために労苦しました。ついに私は「自分は信仰を得た」、「自分の全体重を信仰の上にかけても、信仰が支えてくれるだろう」と思いました。信仰を得たと思った時、私は「癒して下さい」と言いました。私は私自身に、私自身の心に、私自身の信仰に頼っていたのです。

私は、の中にあるもののゆえにではなく、の中にあるもののゆえに、私のために事を成して下さいと主に求めていました。そこで、主は悪魔に私の信仰を試すことを許されたのです。悪魔は吠え猛るライオンのように私の信仰を食い尽くしました。私は徹底的に打ち破られたため、自分に信仰があるとは思えませんでした。「自分には信仰がない」と私が思うようになるまで、信仰が取り去られることを神は許されました。

その時神は、私に次のように優しく語っておられるようでした、「心配することはありません、私の子よ、あなたには何もありません。しかし、私は完全な力であり、完全な愛であり、信仰であり、あなたのいのちです。私は祝福の備えであり、そして祝福でもあります。私は内なるすべてであり、外なるすべてであり、永遠にわたってすべてなのです」

大事なのはただ、「神の信仰」(マルコ一一・二二欄外)を持つことです。「そして今、私が肉体の中で生きているそのいのちを」、神の御子についての信仰によってではなく、「神の御子信仰によって生きます」(ガラテヤ二・二〇)

まさにその通りです。この信仰はあなたの信仰ではありません。あなたの中には命も何もありません。それと同じように、あなたの中には何の信仰もありません。あなたには空虚さと空しさしかありません。主にすべてを行ってもらうために、あなたは自分を開いて用意しなければなりません。あなたは、主のいのちや癒しを取らなければならないのと同じように、主の信仰をも取らなければなりません。そして単純に、「私は神の御子の信仰によって生きます」と言わなければなりません。

私の信仰には何の価値もありません。もし誰かのために祈らなければならないなら、私はこう祈るでしょう、「主よ、ここに私がおります。私がこの人に対する祝福の水路になることをお望みでしたら、どうかに必要なものをすべて私の中に息吹き込んで下さい」。必要なのはただキリストであり、キリストだけなのです。

さて、あなたの体は、キリストがあなたの内に住んで働くために、キリストにささげられているでしょうか?主イエス・キリストはあなたと同じように体を持っておられますが、その体だけが唯一完全です。それは人の体ではなく、人の子の体です。なぜ彼が人の子と呼ばれているか、あなたは考えたことがあるでしょうか?

人の子とは、イエス・キリストは唯一の典型的、包括的、普遍的、総括的な人であることを意味します。イエスは、人としてあるべきもの、また人が持つべきものを、すべてご自身の中に持っている唯一の人です。すべてはキリストの中にあります。神のあらゆる豊かさと完全な人の豊かさは、キリストの中に具現化されています。そして彼は今、人が必要とするいっさいのものの総計として立っておられます。

彼の霊はあなたの霊が必要とする一切のものであり、彼は私たちに彼ご自身を与えて下さいます。彼の体はあなたの体が必要とする一切のものを持っています。彼の心臓の鼓動は、あなたの心臓が必要とする力強さを持っています。彼は、彼自身のためではなく人類のために、いのちに満ち溢れた器官と機能を持っておられます。

彼はご自身のために力を必要とされません。自然界のいっさいの力を超越して復活し、墓から立ち上がることを可能にした力は、彼自身のためではありません。あの素晴らしい体は、あなたの体のものです。あなたは彼のからだの一肢体です。

あなたの心臓は、必要なものをすべて彼の心臓から引き出す権利を持っています。あなたの肉体のいのちは、その支えや力を彼の肉体のいのちから引き出す権利を持っています。ですから、それはあなたではなく、神の御子の尊いいのちです。

今日、あなたがこのように彼を受け入れるなら、あなたは癒されるだけでなく、あなたの一切の必要を満たす新しいいのちを持ち、いのちの洪水を持つでしょう。このいのちの洪水の後には、病を一掃し、将来の必要をすべて満たすいのちの泉が残るでしょう。おお、豊かな彼を受け入れなさい。

私は今日、小さなお守りをあなたに持ってきたかのようです。また、ここにいるすべての人のために、神が私にささやかな秘訣を与えて、こう言われたかのようです。「行って彼らに語りなさい。もし彼らが受け入れるなら、それは彼らの行く先々で力のお守りとなり、彼らを担って困難、危険、恐れ、いのち、死を永遠に切り抜けさせるでしょう」。

もし私がこの小さな講壇に立って、「私は富と成功を手に入れる秘訣を天から授かりました。神は私の手を通して、受け入れるすべての人に、その秘訣をただで与えて下さいます」と言えたなら、私は確信していますが、来る人を収容するためにもっと広い会場が必要になるでしょう。

しかし親愛なる友よ、私は主の御言葉の中からもっと尊い真理を示しましょう。使徒パウロが言うには、代々にわたって隠されてきた秘訣、大いなる秘訣があります(コロサイ一・二六)。その秘訣は、世が空しく求めてきたものであり、東方の賢者たちが見つけることを願ったものです。

その秘訣は「今や神の聖徒たちに明らかにされています」と神は言われます。パウロは、それを受け入れられる人々にその秘訣を告げるため、世界を巡りました。その単純な秘訣とは、「あなたたちの内におられるキリスト、栄光の望み」です。

「神秘」という言葉は秘訣を意味します。これは大いなる秘訣です。今日、私はあなたに言いましょう。いいえ、私はあなたに与えることができます。あなたがそれを私からではなく主から受けるなら、私はあなたに秘訣を与えることができます。ああ、その秘訣はわたしにとってなんと素晴らしいものだったことでしょう!

数年前、私は咎と恐れの重荷を負って、主のもとに来ました。私がその単純な秘訣を試してみたところ、それは私の恐れや罪をすべて取り去りました。数年たって、罪が私を征服し、誘惑が私にとってあまりにも手強いのを、私は見いだしました。私はふたたび主のもとに来ました。すると主は私に、「あなたたちの内におられるキリスト」とささやいて下さり、私は勝利、安息、祝福を得たのです。

次に、私の体がボロボロになりました。私はいつも激しく働き、十四歳の時から学び、労苦し、力を惜しみませんでした。二十一歳の時、私は大きな会衆に対する責任を負いました。私は何度も完全に消耗し、ついに最後の力をも失いました。講壇で倒れて死ぬのではないかと何度も恐れました。私は息切れを感じずに上にあがれませんでした。なぜなら心臓は衰弱し、神経はすり減っていたからです。私は主の癒しについて聞きましたが、それに反対しました。私はそれを恐れました。

私は「奇跡の時代は過ぎ去った」と神学校で教わってきました。それで、若い頃に受けた教育から抜け出せなかったのです。私の頭は自説を譲りませんでした。しかしついに私は、シュレンク氏の言う「自分の教理の葬式」とやらに参列するよう導かれました。主は私に、「あなたたちの内におられるキリスト」というささやかな秘訣をささやいて下さいました。その時から私は、自分の魂のために主を受け入れてきたように、自分の体のためにもを受け入れたのです。

私は強められ、健康にされたので、仕事が完全な喜びになりました。数年間、私は暑いニューヨーク市で夏休みを過ごしました。そこでは家庭や大学の仕事、膨大な執筆の仕事などの他に、それまでしたことのなかった群衆の間での説教や働きがありました。

しかし、主は私の苦しみを取り去られただけではありませんでした。それは単なる癒し以上のものでした。主は私に主ご自身を与えて下さったので、私は肉体の諸器官に痛みを感じなくなりました。これは主が与えて下さる最上の健康です。主に感謝すべきことに、主は私から病の感覚をすべて取り除き、心配の種である体を守り、喜びと主への奉仕、安息と喜びの単純な生活を与えて下さいます。

次にまた、私の頭は鈍くて回転の遅い貧弱なものでした。私はキリストのために書いたり話したりすることを願い、自分が得たささやかな知識を使いこなすためにしっかりした記憶力を持つことを願いました。私はこのことでキリストのもとに行き、彼がこの方面で私のために何か持っておられるか尋ねました。彼は、「そうです、私の子よ、私はあなたの知恵です」と答えて下さいました。

私は間違いを犯してばかりいました。そしてその都度、間違いを悔い、二度と間違いを繰り返すまいと思いました。しかし、主が私の知恵になって下さること、私たちはキリストの思いを持てること、主は幻想を打ち破ってあらゆる思いを虜にしてキリストに従わせることができること、主は頭脳と頭を正せることを主が語られた時、私はこれらすべてのことのために主を受け入れました。それ以来、私はこの知的不能から解放され、働きは安息になりました。

私は一週間に二つの説教を書くことを常とし、しかも一つ仕上げるのに三日かかっていました。しかし今、私は一週間の間に非常に多くの集会を導く他に、執筆業では無数のページにわたって書くべきことが常にあるのですが、嬉しいことに、それらはみな私にとって容易なのです。主は知性の面で私を助けて下さいます。主は私たちの霊の救い主であるように、私たちの心の救い主でもあることを私は知っています。

さてそれから、私には優柔不断な意志がありました。「私に対して意志となって下さらないでしょうか?」と私は尋ねました。主は言われました、「よろしい、私の子よ、あなたたちの内に働いて志を立てさせ、事を行わせるのは、神です」

それから主は、いつどのように堅固であるべきか、いつどのように譲るべきかを、私に学ばせて下さいました。多くの人は堅い意志を持っていますが、それを行使するべき時だけそれを用いるすべを知りません。それからまた、主の働きのために必要な力と、主の奉仕のために必要ないっさいの能力を求めて、私は主のもとに行きました。主は私の期待を裏切ることはありませんでした。

ですから私は言いましょう。「あなたたちの内におられるキリスト」というこのささやかな秘訣がもしあなたの助けになるなら、あなたはこの秘訣を得ることができます。どうかあなたが、この秘訣を私よりも使いこなして下さいますように!

私の感覚では、私はこの秘訣がどれほど効果的かを学び始めたにすぎません。この秘訣を受け入れ、今から永遠に至るまでそれを働かせなさい。キリストはすべてであり、今から永遠に至るまで、恵みから恵みへ、力から力へ、栄光から栄光へ至ります。


女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれ た子と一緒に相続人になってはならないからである。

久々にこれぞグノーシス主義という作品を読んだ。そこで改めてこの思想の反聖書的構造について述べておきたい。

池田理代子という作家がいる。有名な『ベルサイユのばら』を書いた劇画家であり、声楽家としても活躍している。最近まで、筆者はこの作家の作品の中で、『妖子』と『ラムダのとき』という2作品を読んだことがなかったが、これを読んで初めて、この作家は、グノーシス主義の精神を受け継いでいるのだということに納得がいった。

なぜ池田氏の作品の多くは、相当な人気を集めながらも、非常に救いのないプロットになっているのか、考えたことはあるだろうか。宮廷の華やかな生活と革命の混乱を描いた『ベルサイユのばら』にしても、最後には次々と登場人物が死に追いやられ、悲劇で幕を閉じる。明るい未来が提示されているわけでなく、何かの道徳的教訓が投げかけられているわけでもない。革命賛美の物語とも言えない。刹那に消えて行く愛憎劇の模様以外に、作者が一体、この作品を通して訴えようとしたものは何であったのか、読者には今一つ分からない。

しかも、最も大きな疑問は、なぜ主人公は性別を偽って育てられなければならなかったのだろうか、という問題にあろう。それは自分のあり方を根本的に偽る生き方だからである。『ベルばら』の次に描かれた『オルフェウスの窓』ではその問題はさらに深化している。主人公は妾の子として生まれたが家の跡取りになるために性別を偽って育てられたことされている。

さらに、『妖子』と『ラムダのとき』の2作品を読むと、主人公の抱える出生の秘密という池田氏の作品に繰り返し現れるテーマの謎に幾分か答えが見えて来る。それは、この2作の中にこそ、作家の非常に深いところに流れている思想が表れているからだ。この2作品は、そのどちらもが、聖書の神に対する反逆の精神に貫かれた家の乗っ取り物語である。主人公はおよそ正統な後継者と名乗るにはふさわしくない存在にも関わらず、秘密を抱えたまま、家の主人となり、家を支配しようとする・・・。

『ラムダのとき』には、存在しているかも分からない聖書外伝が登場しており、そこでは、聖書の神が人間を理不尽に追い詰める「悪神」として描かれ、それを読んで主人公が自分の出生の秘密に開眼するところも興味深い。この作品では聖書の神とそれに属するものが、誤ったものとして嘲りの対象としてしか描かれていない様子がよく分かるだろう。

もちろん、以上に挙げた2作品は、単なる創作であり、脚本を書いたのは別人であることなどを考えても、そのプロットを作者の思想と安易に同一視することはできないと言われるだろう。それでも、このような悪魔的思想を題材とする作品を、敬虔なキリスト教徒であれば、いかに創作といえども、決して世に送り出そうとは思わないであろうし、また、池田氏のその他の作品群の筋書きの中にも、共通するテーマが扱われているところを見ても、やはりこれらの作品には、作者の思想的な立場がよく表れていると言えるものと思う。つまり、池田氏は、筆者の考えによれば決してキリスト教徒ではありえず、むしろ、グノーシス主義の側に立っていると見てよい。

当ブログでは、グノーシス主義思想とは、聖書の神に対する反逆を正当化するための終わりのない詐術の物語であると述べて来た。それは善と悪、光と闇、天と地、聖と俗、神と悪魔といった、すべてのものの境界線を曖昧化することで、本来、一つに統合することのできない対極にある概念を統合できるかのように見せかけ、そのことによって、罪あるものを聖なるものに見せかけようとする嘘の教えなのであると。

グノーシス主義の神話的なプロットは、「母の過ち」によって生まれた誰を父としているかも分からない子供が、まことの父の後継者の資格を持たないにも関わらず、家の正統な後継者を詐称して、正統な資格保持者を追い出して、家を乗っ取ることを正当化するというものである。

グノーシス主義の物語には、「ソフィアの過失」と呼ばれている事件があり、それは最下位のアイオーンである女性人格ソフィアが、単独で至高神を知ろうとして、誰の子か分からない子を生むという出来事である。ここでは、ソフィアという名そのものが、聖書の創世記において、人類(最初にエバ、次にアダム)が、神によって取って食べてはならないと命じられたはずの善悪知識の木の実を取って食べることによって、神の戒めに背いて、神のようになりたいと願った誤った知識欲を正当化するためにつけられたと見ることもできよう。

「主なる神が作られたの野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。

「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」

 女は蛇に答えた。

「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、そのの中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」

蛇は女に言った。

「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」

 女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。」(創世記3:1-7)


人類が神の戒めの中を歩いていた間、人類にはいかなる不足もなかった。自分を見て、裸だ、弱い、身を覆うものが必要だ、などと考えることもなく、自らを恥じる必要を感じることもなかった。しかし、神の戒めを破ったとき、彼らは自分たちが非常に弱く、無力で、恥ずべき存在であることが分かり、その無力さと恥を覆うために、自分を変えるための工夫が必要であることが分かった。

エバが取って食べた善悪知識の木の実が、どういうものであったのかは分からない。だが、その描写から分かることは、アダムとエバは、己が肉欲を通して、神を知る知識を得られるという誤った考えにそそのかされ、欲望のままに行動したということである。その木の実は、人の目に美しく、好ましく、美味しそうに、魅力的に見えた。そして、いかにも賢くなるにふさわしいもののように映った。

しかし、その実を取って食べて、人類に分かったことといえば、自分が堕落して、恥ずべき、無力、無価値な存在であるということだけである。

人類はその事実を自分の目から隠した。自分が罪を犯したこと、堕落したこと、それゆえ、聖なる地位を失って、無価値な者となったことを認めたくはなかった。だから、人類は自分を変えようと工夫した。しかし、自分を変えると言っても、ただ表面的に装うことができるだけである。こうして、神の御前における人類の取り繕いが始まった。彼らはまず自分たちの手で、いちじくの葉を綴り合せて服を作ったが、それはその後、武装手段としての鎧や兜に発展し、各種の武具や装備、また、それらを作り出す知恵となり、神に逆らう人類の知恵の集大成を生み出して行く。

歴史の最後には、その偽りの知恵に基づく人類の活動は、大淫婦バビロンと呼ばれる世界的都市にまで発展している。バビロンは一大商業都市であり、自分の恥を覆うために豪奢な着物を着ているが、それはすべてうわべの取り繕いに過ぎず、内側には不法、搾取、虐げ、詐欺などあらゆる悪が満ちている。

さて、グノーシス主義の言う「母の過ち」とは、聖書的に見るならば、こうして人類が神の戒めを破って、己が力で神を知って、自ら神のようになりたいと願い、反逆によって堕落したことを意味すると言えよう。

ところが、グノーシス主義思想は、そもそも罪という概念を認めず、かえって人類の使命とは、堕落した母の過ちを自力で修正することにあるとみなす。こうして、罪を罪とみなさず、それを取り繕うことを目的とするため、終わりなき自己弁護のための詐術が生まれる。本来ならば、罪に堕落して神から切り離されたため、もはや神の子孫だなどと名乗れる資格もないはずのない人類が、神の許しを受けないままに、自分たちは神の子孫であると名乗り、母がそうしたように、自分も再び己が知識によって神を知って、自力で神に回帰しようと、延々と己がルーツの浄化を試みる詐術の物語を編み出すことになる。

もちろんのこと、人類が自力で神に回帰しようとする偽りの教えの根底に流れるのは、神に反逆して永遠の滅びに定められた悪魔が、自分を罪に定めた神を排斥して、神と入れ替わろうとする願望である。

正統な後継者の資格を持たない者が、正統な後継者を追い出して家を乗っ取る、悪魔が神を追い出して神を詐称する、その願望を受け継いだものがグノーシス主義思想である。

* * *

さて、話は変わるようだが、牧師崇拝とは、神と人との唯一の仲保者であるはずのイエス・キリストを退けて、これを人間に置き換えようとする偶像崇拝の教えである、ということを、当ブログ始まって以来、ずっと述べ続けて来た。牧師とは、神が贖って下さった子供たちの心を、肉なる人間に過ぎない者が、自分に向けさせ、自分を崇めさせるために、神から盗むための存在、と言っても良いだろう。

かつてプロテスタントは、カトリックが法王を中心とした聖職者階級を築き、法王が神の代理人となっている事実を批判し、聖書に忠実な信仰を取り戻すための抵抗運動として生まれて来た。しかし、そのプロテスタントも、結局、牧師と信徒という二つの階級を信徒の中に作り出すことで、事実上、牧師を神の代理人にするという反聖書的な制度をそのまま温存した。

それゆえ、万民祭司の原則を忠実に再現するためには、牧師というプロテスタント固有の現人神制度とも訣別しなければならないのである。プロテスタントの教会の内装は、カトリック教会のような装飾をは省いたものとなっており、信者らの目を、目に見える装飾に引き付けることでこれを信仰に置き換えようとする弊害から抜け出そうとした工夫は見られるが、それでもまだ、特定の時空間に集まるという制約から抜け出ていない。

「あの山でもエルサレムでもない」場所で、真理と霊によって父なる神を礼拝するという本来の礼拝が行われるためには、固定的なリーダーの繰り広げるショーのような催しを見るために、限定された時空間に信者を閉じ込める装飾を省いた礼拝堂からもさよならする必要がある。神への礼拝を、目に見える人、組織、制度、教えといったものの中に閉じ込めようとする試み一切と訣別する必要がある。そのために、既存の教会組織からエクソダスが必要なのである。

ところが、エクソダス、と唱えていた多くの人々も、結局は、牧師か、それに等しいリーダーたちを崇め奉る道へと逆戻って行き、今や牧師制度と訣別して信仰を守る群れは、ほとんど見当たらない。牧師を持たない、と言いながらも、実質的なリーダーを作り、その人の教えに従っている群れ以外に見いだせるものがない。

こうして信者たちの心を神から盗んで自分たちに向けさせる牧師たちの群れの中に、さらにその牧師たちの獲得した信者を盗む新手の盗人たちが忍び込んだ。反カルト運動である。牧師たちの過ちを修正すると言いながら、その牧師たちに対する信徒の反感を煽り、その機に乗じて牧師たちから羊を奪って拡大して行く新手の荒々しい残酷な運動である。

そのようにして既存の組織に侵入して行っては、内側から組織を乗っ取ったり、食い破って破壊したりするのは、ペンテコステ・カリスマ運動の常套手段であるということも、これまで繰り返し述べて来た。だから、反カルト運動が、他ならぬペンテコステ運動の只中から生まれて来たことは偶然ではない。

聖書は、すべての霊が神から来たものではないから、霊を試しなさいと命じている。そこで、ペンテコステ・カリスマ運動のやたらと強調する「霊」とは何なのかをじっくり調べてみる必要がある。当ブログでは、彼らの強調する「異言」や「聖霊のバプテスマ」の光景が、ヒンドゥー教のクンダリーニ覚醒の様子にそっくりであることも、過去の記事で解説した。クンダリーニ覚醒とは、尾てい骨の下から人の内側に侵入した蛇が、頭部に達し、両目の間にある第三の目を開眼させて、覚醒に至らせる過程なのだという。筆者の考えでは、大仏の額にある白毫は、世界に向かって悟りの光を放つ長く白い毛であるとされているものの、きっとその正体は第三の目に到達した白蛇に違いないということも述べた。

いずれにせよ、蛇によって覚醒するなどのことは、聖書的な概念に照らし合わせて有り得ないことであって、それは人がまさに悪魔的な知恵によって、偽りの教えに開眼し、神への反逆の道を歩むことに他ならない。どんなに形を変えていても、それは人間が堕落した肉の情欲に従って生きることにより、知識を得て神のようになれるという、太古から受け継がれた蛇の教えの繰り返しでしかないことが分かる。

だからこそ、ペンテコステ・カリスマ運動の強調する各種の恍惚体験からは、無秩序や混乱以外のものは何も生まれて来ないのである。このように様々な恍惚体験、神秘体験を通して、信仰を得られるかのような考えは、錯覚に過ぎず、それは教会の中に各種の装飾を施し、聖画などと呼ばれるものを飾り、感覚的な体験を、信仰に置き換えようとすることが偽りであるのと同様、深い欺きなのである。

* * *

当ブログでは、そこからさらに大胆に進んで、資本主義の精神はプロテスタントから生まれて来たものであって、プロテスタントが聖書に完全に忠実な制度ではなく、過渡的な段階でしかない以上、資本主義にも同じ弊害が受け継がれていることを述べた。

プロテスタントの信者たちが、自分が神に救われているかどうかがはっきりしない不安から、毎週日曜日に牧師たちの説教を聞きに教会に集まるのと同じように、資本主義社会におけるサラリーマンは、この世に身の置き所のない不安から逃れるために、会社によって社員証という目に見えない救いを貸与してもらい、労働の対価として免罪符をもらうために出社する。

こうして、人々は月曜日から金曜日までの間には、企業にお参りして奉仕することで、代表に不安を慰めてもらい、日曜日には教会で牧師から慰めてもらう。労働(奉仕)はその不安心理を埋め合わせるための代償として、現人神に捧げられているものである。

どちらの場合も、その人生には、不安に駆られる人々が、誰か象徴的な人間から、おまえは正しい生き方をしている、と承認を受けることにより、自分が果たして救われているかどうかも分からず、この世に身の置き所がないという不安をなだめようとする現実逃避あるのみであって、根本的な救いが欠けている。

企業の社員証などはいつなくなるか分からないのであって、教会の会員証を維持するためにも、生きている限り、献金と奉仕が必要である。そして、彼らの不安をなだめる牧師や教師たち、もしくは、企業の代表者たちも、本当は、自分も救われているかどうか全く定かではない人々であるから、彼らに真の慰めなど与えられるはずもない。だから、彼らは口先だけの詐術によって、ないものをあるかのごとく見せかけて束の間、時間を稼ぐことができるだけであり、彼らはむしろ確信犯的に免罪符を売り歩き、それによってもうけを得ているだけであるから、非常に性質が悪い。それでも、不安に駆られた人々は、あるかないか分からない救いのために、教会員やサラリーマンの身分証に飛びつき、自腹を切ってでも、喜んで奉仕までしてくれるのだから万々歳である。

さて、では働いていない主婦はどうするのか。夫に仕えることで、夫から不安を慰めてもらうだけである。ヒンドゥー教の既婚女性が額にビンディーをつけるように、妻となった女性たちは、額に見えない刻印をつけて夫に奉仕することにより、間接的に現人神に仕える。

これらの人々は、みな人間の作った集団に帰属して、そこで互いに果てしない重荷を負い合い、リーダーに仕え、承認を得ることによって、それを救いという内心の問題と置きかえようとしている。つまり、救われているかどうか分からない不安から手っ取り早く逃れるために、神に向かわず、目に見えるものに向かい、本物の救いではない、偽物のかりそめの救いを貸与され、その印を身に着けることによって、自分の心を慰めているだけなのである。

だが、偽物の救いを貸し出してもらうための代価は非常に高く、一生、自分のものにはならない救いのために、馬車馬のごとく立ち止まることなく働き続けなくてはならない。

このような文脈における労働は、根本的に呪われており、不毛であると言って差し支えない。それは人間にはもともと地上に住みかはないという自明の理を証明するためだけの生き方である。その生き方は、人は地上に現れては消えるうたかたのようなものに過ぎず、しょせん、この世で確かにつかめる価値などないのだと告げているに過ぎない。それを超えるものは何もそこには見いだせない。

そこには、人が獲得していないものを、いかにも得たかのように見せかけ、自分のものにならないものを、あたかも築き上げたかのごとく見せかけようとするために、各種のカラクリが存在しているだけであり、そのカラクリは、嘘をまことに見せかけるのみならず、嘘が重ねられる度に、さまざまなピンハネがそこで正当化される。他者に仕えるための労働は、社会全体を罪から救済するという見せかけの目的を得るためのごまかしの手段の一つのようなものであり、だからこそ、どれほど重ねても、自己を真に富ませることがないのである。圧倒的大半の人々は、労働によって富むことはない。そして、飛んでいる人々は労働をしない。このことをよく考えてみた方が良い。

そういうわけで、プロテスタントにおける「救われているかどうか分からない」という不安心理から生み出されるとされている労働は、人類の自己救済という根本的に誤った試みであるから、それとは異なる、自己救済でない働きがなくてはならず、プロテスタントでも資本主義でもない新しい生き様、つまり、万民祭司の原則が忠実に実行された新しいライフスタイルが現れて来なくてはいけない、と筆者は考えている。筆者は少しずつそこへ向かっているところである。

* * *

パウロは人が結婚することを決して禁じはしなかったし、夫には、キリストがご自分の命を教会に捧げられたように、妻を愛しなさいと命じ、キリストと教会との間には、花婿と花嫁のような愛が成立していることを示したが、同時に、人は結婚しないでいられるならそれが最も良いとも勧めていた。

そうした勧めの根本には、人の情欲というものが、しょせん、罪に堕落した自己中心なものでしかなく、愛情とは必ずしも一致しないことが、初めから明々白々だという事情もあろう。つまり、人間の男女の間に成立し得る結びつきは、堕落した欲望を排除することができないという点で、来るべき完全なものの絵図に過ぎないためである。その完全は、キリストと教会との結びつきにある。

人間の欲望というものは、すべて自己の欠乏を満たすために存在しており、喉が渇いているときに、目の前に何かの飲料水があれば、それが炭酸水であろうと、リンゴジュースであろうと、人は大した違いはないものと考えて手を伸ばし、どれでも美味だと感じることであろう。つまり、人は己が欲望が満たされさえすれば、それを満たしてくれた対象のことなどどうでも良く、瞬時に忘れるし、そこに唯一無二の関係は存在しないのである。

人の欲望とは、そういう風に、他者を常に己を満たすための手段として扱う残酷で身勝手な性質を持っており、さらにもっと言えば、欲望の持ち主自身をも奴隷と変えてしまう。それは人間の尊厳をいたく貶めるものであって、人はどんなに相手を愛しているつもりになっていても、己が欲を通して相手に関わっている限り、そこに自己中心性が入り込むことを阻止することはできない。

唯一、そうした堕落した欲望を介さずに関わることのできる関係が、神と人との信仰による関係であり、花婿なるキリストが花嫁なる教会を愛された愛なのであるが、人がそこに到達するためには、キリストと共なる十字架の霊的死を通らなければならない。しかし、人間にとっては、己が肉の欲情を滅ぼすこの十字架の死が非常に恐るべき脅威と映る。人間には、目に見えるものによって自分を満たし、集団に帰属することによって、目に見える安心を得たいとする根強い願望があって、どうしても、目に見えない救いだけでは不十分であるかのごとく、目に見えるものに頼ろうとし、それによって自分を慰めようとすることをやめられない性質がある。

そこで、多くの信者は十字架の死にとどまることができず、見えないキリストだけを一心に見つめて歩むことができない。そこに各種の欲望を誘う人間のリーダーが現れ、牧師やその他の教師たちが群がり、信者たちの心は彼らにそそのかされ、奪われ、偽りの教えに誘い出されて行くことになる。

「だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。」(2テモテ4:3)


ここで教師たちが惑わす者として登場している。信者たちが目に見える人間を権威者として崇め、奉り、偶像視しつつ、その人間に自分の欲望を重ね、それを肯定してもらうために群がる。すでにそういう時代が来ている。だが、聖書ははっきりとそのような教師たちの存在は必要ないと教えている。

「以上、あなたがたを惑わせようとしている者たちについて書いてきました。しかし、いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。」(1ヨハネ2:26)


このことは、人間の方を向くことをやめて、キリストの方に向き直るならば、人の心の覆いは取り除かれること、真理の御霊に頼り、教えられて生きることだけが、すべての目に見えるものを超越して歩み、何が真実であるかを知り、この世を超越して支配する秘訣であることを示している。なぜなら、キリストは世に勝って、すべての権威の上に高く上げられ、すべてを超越して支配される方だからである。この方の御霊と共に歩むとは、キリストと共にすべてを超越して支配することを意味する。とはいえ、その支配は、主と共に霊的死にとどまることによって、神の命の中に隠されて生きることであるから、決して人を脅かしたり、虐げたりすることによって他者に君臨するというものではない。

この最もへりくだった方の御霊を受けていながら、なぜ心に割礼を受けていない目に見える人間―偶像に頼る必要があるのか。もし心に平安がないというなら、牧師や教師たちや教師になりたがる信徒たちといった、キリスト以外の肉なるものに頼っていないかどうか、自分の心を点検し、心の偶像をすべて捨て去り、見えない神以外の一切の肉なるものに頼むことをやめるべきである。そうして侵入口を断てば、心に安息が戻り、偽りに翻弄されることも終わり、真実に立ち帰ることができる。様々な権威を振りかざしてやって来る中間搾取者を離れ、神にのみより頼む人生を送ることである。

<続く>


今や、恵みの時、今こそ、救いの日。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。

今もなお忍者ツールズにはログインもできない状態が続いている。このブログを除き、ホームページやブログの更新ができなくなっているが、物事は困難な方が面白い。大々的に自己宣伝して更新を触れ回るようなことは、もともと筆者の好みではない。いつまでこうした状況が続くか知らないが、表向きは、更新もされていないように見えながら、知る人のみ知るよう、記事がこっそり書き足されている状況は、なかなか乙だと思う。

昔々、大震災が起きたとき、亀裂が入り、液状化現象が起きているアスファルトの道路の上を、自転車をこいで願書を出しに行ったときのことを思い出す。大事な時期に、まあ、世界の終わりのような、えらいことが起きてしまった、と感じたが、筆者はただ自分のなすべきことを淡々と果たすだけであった。

当ブログに対しては、何とかして当ブログの正しい訴えを妨害しようと、ひどい中傷の嵐が掲示板で吹き荒れたことは記憶に新しい。その後も、ひどい妨害が起き続けた。まことに異常な事件が起き続け、今になっても、何とかしてこのブログを地上から消し去ろうと願い続けている存在があるらしい。だが、目的は初めからそこにある。この信仰の証しのブログを地上から殲滅することが、敵の目的なのである。

要するに、それほどまでに、牧師制度を糾弾することが許せない、と考えている人たちがいるということだ。

いや、牧師制度を糾弾するというより、地上にはまるで本物のように広がっているキリスト教界の偽りなることを語る者が出て来ては困るということなのだ。牧師や教師などとに頼らず、万民祭司の原則を、この地上で忠実に実現し、神にのみ頼って生きようとする者が現れると、困る人々が大勢いるのだ。

何しろ、霊的中間搾取が成り立たなくなってしまうからだ。中間搾取だけで成り立っている商売が、あがったりになってしまうからだ。だから、妨害はいつまで経ってもやまないのである。

とはいえ、掲示板での中傷などは、それが止まった時期を考えてみれば、どの筋から来た妨害工作であったのか、読者にはすぐ分かるはずだ。

筆者は諦めたり、退却するつもりもない。今はまだ語れない多くのことがあるが、時が来れば、明らかにできるだろう。

筆者が目指しているのは、あらゆる意味で、この悪しき中間搾取から抜け出て、主イエスの名を通して、父なる神に直結し、誰からも霊的搾取を受けないで、神から恵みをじかに受け、神との直接的な交わりを失わないでいられる、そういう生活を送ることなのである。

そして、栄光から栄光へ、鏡のように主に栄光を反映させながら、本当に主に似た者とされるとは、どういうことなのか、知りたいと思っている。

霊的中間搾取というのは、モーセの書を朗読するときに、顔にかかる覆いのようなものである。そして、霊的中間搾取を受けるか受けないか、という問題と、地上で中間搾取を受けるか受けないか、という問題は、どこかしら密接につながっているように思われてならない。

本当はキリスト者一人一人が、父なる神に直接つながり、御言葉を自分で解釈し、恵みを受けられるはずなのに、これをピンハネする存在がある。キリスト者の目をくらまして、何とかして霊的中間搾取に気づかせまい、そこから逃がすまいとする勢力は確かに存在する。

聖書は、全世界は悪しき者の支配下にあると言う。しかし、同時に、我々、贖い出された者たちは、サタンの支配下から連れ出され、愛する御子の支配下に入れられている。主に向くときに、私たちの心の覆いは取り除かれる。私たちの命は、キリストと共に、神の命の中に隠されている。このことをはっきりと心に覚えよう。

私たちはこの土の器の中に神のはかりしれない力をいただいているのであり、神は教会を通じてすべての存在に対して、ご自分の多種多様な知恵を現されることを願っておられる。私たちは弱くとも、主は強く、カルバリでキリストは勝利を取られ、世に打ち勝ったのだから、彼を信じる者も、必ず勝利する。このことを覚えよう。

それゆえ、何も絶望することはなく、我々は勝利を求め、根気強く、敵に渡った陣地を取り返し、そこに復活の旗を立てて行かねばならない。

「でも、ヴィオロンさん、あなたは少しも勝ってなんかいないじゃないですか。いつも追い詰められて、中傷されて、恥をかかされ、窮地に立たされているのではありませんか? それでどうしてキリストの勝利の証なんかできるというんです? どこに勝利があるんです?」

人々はそう尋ねて来るかも知れない。ヨブに対して神を呪って死になさいと言った彼の妻のように。しかし、筆者は言う、いや、今日が恵みの日、救いの日だと。パウロの言葉を思い出そう。


「わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。なぜなら、「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしたちはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。


今や、恵みの時、今こそ、救いの日。わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。


大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、純真、知識、観桜、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の力によってそうしています。


左右の手に義の武器を持ち、栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。


わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、貧しいようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてを所有しています。」(2コリント:1-10)


聖書の原則は、私たちがキリストを知ることにより、「選びから除外された者が選ばれた民になる」、「愛されなかった者が愛される者となる」、「罪を宣告された者が赦しを得る」、「死に定められたはずの者が生きる」というものだ。

世には自分の手練手管により栄達を得る者がいる。もしくは、生まれた家柄によりかかって繁栄を手にする者もいる。その他、運の良さ、巡り合わせ、コネ、年齢の力などによって、色々なチャンスを掴む者がいる。もちろん、生まれ持った能力、知恵、経験も大いにものを言う。

ところが、私たちの主は言われる。「権勢によらず、能力よらず、我が霊によって」(ゼカリヤ4:6)


筆者はこの言葉を噛みしめ、前に向かって進んでいる。確かに、若い時分には、何も持っていない人でさえ、色々と自分により頼むものがあると考えているものだ。だが、そんな自信は時と共に消えうせていく。そして、主だけを頼りに進むとなると、他人を当てにすることはできない。時には、自分の無力さに、もうこれ以上、自分では対処できないと、叫びたくなることがあるだろう。

だが、筆者の場合、神は、そういう時の信じる者の叫びを、とても好意的に受けとめて下さる。

人間的な観点から見れば、「もう駄目だ!」と叫ぶことは、不信仰か、みっともないことに思われるだろう。

しかし、神は、人間が「もう駄目だ」という限界を迎えるときにこそ、速やかに助けの手を差し伸べて下さり、私たちが助けを求めることを、決して恥ずべきことや、みっともないことだとはお考えにならない。

むしろ、いついつまでも自分にはできると思って自己過信しているからこそ、神の助けを受けられないのであり、自己の力で生きる限界に早く達した方が、早く神の助けを受けられるから、早く平安に到達できる。そして、その平安、安息は、決してまやかしでも、偽りでもない。

ただし、そのようにして神の助けを受けるためには、しばしば真の窮地を通らされ、全身全霊で神を求めるという過程が必要になる。ただ単に困った時の神頼みなどという程度の求めではない、心の底からの願い求めが生まれる必要がある。人間的な観点から見れば、まさにすべてが絶望という状況から、ただ信仰によって、新たな望みが起こされ、キリスト者の勝利が始まるのである。

ローマの信徒による手紙9:13-33にはこうある。


「ところで、あなたは言うでしょう。「ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか」と。人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、「どうしてわたしをこのように造ったのか」と言えるでしょうか。


焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか。神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、それも、憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、御自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう。


神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。ホセアの書にも、次のように述べられています。「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。『あなたたちは、わたしの民ではない』と言われたその場所で、彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」


また、イザヤはイスラエルについて、叫んでいます。「たとえイスラエルの子らの数が海辺の砂のようであっても、残りの者が救われる。主は地上において完全に、しかも速やかに、言われたことを行われる。」


それはまた、イザヤがあらかじめこう告げていたとおりです。「万軍の主がわたしたちに子孫を残されなかったら、わたしたちはソドムのようになり、ゴモラのようにされたであろう。」


では、どういうことになるのか。義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。彼らはつまずきの石につまずいたのです。


「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者は、失望することがない」と書いてあるとおりです。」


あなたはどちらの組に入りたいだろうか? 義を追い求めながらそれに達し得なかった人々と、義を追い求めなかったのに、信仰による義を得た人々と?

努力して熱心に働き、熱心に財を築こうとして、ビジネスに成功した人でも、天災が来れば、一瞬でその富を失ってしまうことがあるように、自己の力で築き上げたもの、信仰によらないものは、神の目に永遠性を持たない。

霊的高みに達しようと、あらゆる勤行や精進を重ね、牧師や教師たちからお誉めの言葉を得て、日々、熱心に学びを積み重ねた人が、神から、義に達し得ないものとして疎外され、罪に定められる。義に到達しないどころか、罰せられて終わる。

キリスト教を、霊的高みに到達するための壮大な偏差値教育のようにしてしまった人たちがいる。そして、その無限のヒエラルキーの階段を日々上に上ろうと学びを重ねている人たちがいる。

だが、筆者はその階段をいつも中途で回れ右して降りて行く。真の高みに達するための方法は、その階段を自力でよじのぼろうとすることにはない。その階段には終わりがない。それは欺きであるから、高みもなければ、頂上というものも存在しない。あなたがどんなに努力しても、決して頂上を見ることはない。それは霊的搾取のために作られた階段であるから、どの段に立っていようと、恵みをかすめ取られ、栄光を曇らされ、他人に欺かれ、犠牲者になる道でしかないのである。

私たちのために、すでにすべてを達成された方がおられる。その方は、ご自分のもとにやって来る人に、ひざで階段をのぼれとはおっしゃらない。その方が私たちのために、すべての恥を負い、労苦を担って下さった。真の高みは、その方が就いておられる天の御座にこそあり、私たちは信仰によって、この方と共に死に、よみがえられ、共に御座に引き上げられている。だから、ひざで階段をよじのぼろうとしなくとも、すでにすべてを足の下にしているのである。

だが、それがあまりにも想像を超えた恵みであるがゆえに、そのことを素直に信じ、受け入れることは、人知では難しいであろう。だが、このパラドックは、考えれば考えるほど面白い。主イエス御自身が、「つまずきの石、妨げの岩」と呼ばれた。人には捨てられたが、神に選ばれた生ける石。人の目に尊ばれるものと、神の目に尊ばれるものは、正反対なのである。

とはいえ、神は信じる者を恥や失望の中に打ち捨ててはおかれない。だから、私たちをいつまでも弱さの中に打ち捨てて置かれることもなく、私たちの弱さの中に働いて、力となり、知恵となり、勝利となって下さる。すべての争いや、悪しき者のしかけた罠の中から、鳥のように救い出し、静けさと平安の中にかくまって下さる。そして義人の正しさはあけぼのの光のように輝き、明るさを増してやがて真昼のようになる。

だから、筆者は言う、今日が恵みの日、救いの日。望みを絶やすことなく、これを正直に主に申し上げながら、主と同労し、前進して行きたい。どんな状況にあっても、また、私たち自身がどうあろうとも、神の愛と憐れみに満ちた眼差しが、今日もふんだんに私たちに降り注いでいることを忘れたくはない。状況が私たちを支配するのではなく、主こそがすべての状況に対するまことの支配権を持っておられる方であり、私たちにとっての正解であり、栄誉であり、勝利なのである。

真実は、人間にもなければ、状況にもなく、ただ一人の真実なるお方がおられるだけである。この点を見失わなければ、私たちを取り巻く悪しき状況は、いずれ朝日を浴びた露のように消え去る。

「子たちよ、だれにも惑わされないようにしなさい。」(1ヨハネ3:7)

「わたしは、すぐに来る。あなたの栄冠をだれにも奪われないように、持っているものを固く守りなさい。」(黙示3:11)


命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。

「だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。しかしあなたは、どんな場合にも、身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。」(2テモテ4:3-5)


このところ、忍者ブログのサーバーが全体的にダウンしており、接続することさえできない日が続いている。当ブログに対しては、これまで絶え間のない迫害が起きて来て、多くの人が、このブログを閉鎖するよう執拗に要求し続けて来たのだが(こんな個人のブログに対してそんな反発が起きること自体が普通ではない)、こうした現象もその一環なのであろうか?

いずれにしても、終わりの時代が迫っていること、心を引き締め、より一層、清さにあずかるために、訣別せねばならないものと訣別し、まどろんでいてはならないことを感じさせられる毎日である。

ちなみに、当ブログがこれまで絶えず迫害を受けて来た最大の理由の一つは、牧師制度の誤りを指摘しているためで、牧師制度とは、神と人との唯一の仲保者であるキリストを退けて、牧師という人間に過ぎない者が、神と人を仲介しようとする偶像崇拝の制度である、と主張して来たためである。

牧師をを介さなければ、信者が自分では御言葉を理解することもできないとし、毎週日曜日に牧師の説教を聞くために、信徒が牧師に献金を払い、牧師一家を養うことを当然視しているプロテスタントの教職者制度は、根本的に誤っている偶像崇拝の制度であり、このような制度に属している限り、信者は真実な福音にたどり着くことはなく、真実な信仰を求めるならば、信者はこれを離れてまことの福音を追い求めねばならない、と強調して来たためである。

また、同時に、当ブログでは、牧師制度の腐敗により堕落した教会に対して批判の声をあげている反カルト運動も、同時に牧師たちに導かれる運動であるから、両者は根本的に同一であって、どちらにも救いはないと主張しているためである。

牧師制度を早急に離れることこそ、必要なのであり、それをしないまま、カルト化した教会だけを非難していたのでは、全く話にならない。プロテスタントの教会で起きる不祥事は、かつてカトリックが宗教的腐敗に陥って、そこから改革を唱えてプロテスタントが出現したように、プロテスタントもまた腐敗に陥って、終焉に至りつつあり、万民祭司の時代が始まるべき時がすでに来ていることをよく表しているだけなのである。

その中で、私たちがせねばならないことは、聖書に忠実な信仰に立ち戻ることだけであって、何が本当に神の喜ばれることであって、何がそうでないかを見極め、目に見える人間にではなく、ただ神だけを信頼して、ただ神だけに栄光を帰するために、御言葉に従順に歩むことだけである。だから、このブログに反対している人がいるとすれば、その人たちは、自身が教職者であるか、教職者同然に振る舞っている人たち、また、その制度を擁護している人たちだけと見て良い。

2009年には当ブログで述べているのとほぼ同じ考えを持っている人々は相当数、存在していた。キリスト教界からエクソダスせねば、真実な福音にたどり着けないという危機感は、多くの信者らによって共有されていたため、このテーマを語ることは何ら困難ではなかったし、もっと言えば、珍しい意見でもなかった。そのテーマを語ったからと言って、カルト信者扱いされることもなければ、インターネットでバッシングを受けるというわけでもなかった。

しかし、その後、非常に激しい迫害が起きるようになり、エクソダスを主張している多くの人々が、神の御前で一人で信仰を守り抜くことに挫折し、人の歓心、人の理解や慰めを求めて、自分たちのめいめい好き勝手な指導者を選んで立てては、組織に戻って行った。それは彼らが、当ブログに対してしかけられた戦いのあまりの激しさを見て、自分たちはそういう目に遭わされないで生きたいと願ったためでもあろう。一言で言えば、彼らには、御名のために受ける苦難よりも、自己の安寧の方が大切だったのである。

そのようなわけで、今や真にエクソダスを主張している人は、探しても、ほとんど見受けられない状態となった。見当たるのは、エクソダスと言いながら、キリスト教界と妥協し、牧師を批判しながら、自分自身が牧師となって、信者の心を支配し、メッセージを語り、自分たちは組織を作らないと言いながら、自前の組織を作るような偽り者ばかりである。(というよりも、そういう人たちは注目されるところで語るのが好きなので、人目につくところに彼らの発言が掲げられているというだけであるが。)

だが、筆者は、どれだけ大勢の人々が、自ら表明したエクソダスを撤回し、偽りと分かっている組織に舞い戻って行こうとも、人間を崇め、奉る生き方からは離れ、神の御言葉を守り抜いて生きることこそ、誰よりも自由で、豊かで、高貴な人生を送る秘訣であると確信しており、それだけが、勝利の秘訣であることが、身に染みて理解できる。

だから、この先、筆者のこれからの人生を通して、御言葉の正しさが証明されなければならないと考えている。そうなったときに初めて、神の恵みは、権勢によらず、能力によらず、ただ主の御霊によって、御言葉に忠実に生きる人々に恵みとして与えられるものであることが、万人に知れるようになるだろう。

多くの人たちは、自分たちが目で見て確認したものしか信じない。そこで、そのような人々の目には、彼ら自身があり得ないと思うことが成就する他、筆者の信じる神が、まことの神であって、今日も生きて働いておられ、信じる者を全ての苦難と悪から完全に救い出す力があり、聖書の御言葉が真実であることを、思い知ることもないであろうと思う。

そのために、筆者は残りの生涯、主の栄光のために、正しいことを行なわねばならないと決意しており、そうして行くときに初めて、筆者自身に尊厳が与えられ、人々のための利益も、満たされると考えている。

そのようなわけで、詳細はまだ語ることはできないが、筆者の心の中には、今まで考えもしなかったような、遠くまでの道筋、計画が思い描かれている。

だが、先の記事にも書いたように、そういう話を全く受けつけられない人たち、そんなことは絶対にあってはならないと猛反発を示す人もいなかったわけではない。「あなたを助けたいんです、ヴィオロンさん。」などと言いながら、接近して来る人たちは、大概、筆者が真に御言葉に従って生きるなら、悪者に対しては勝利をおさめられるという話を始めると、激しい反発を示して去っていくのであった。

助けたい、と言いながら、自分たちが助けようとしている相手が、真に自由になることを、誰よりも必死で阻止する。こんな人々は助け手の名には値しない。彼らの本質は、私たちが自分を縛っている偽りの体系からエクソダスを試みようとしない限り、現れることはない。だが、私たちが本気で主にあって、自由を目指そうとする時、こうした人々が、足もとに絡みついて来ては、脱出を阻止しようと、あれやこれやの言い分をぶつけ、その時、彼らの偽り者であることが私たちに分かるのである。

たとえば、悪魔に立ち向かいなさい、などという御言葉を好んで引用して語る人たちが、どういうわけか、筆者の周りで実際に起きている様々な霊的戦いについては、筆者に勝利が与えられることを喜ばない。実際に勝利をおさめることが、筆者にはどうしても必要であり、そのための方法を見いだした、と筆者が喜んで証を始めても、「そんなことが神の御心のはずがない!」と猛反発して去っていく。

さらに、筆者が自分の人生において、神の命の豊かさを体現して生きるために、制約だらけの状態から抜け出て、もっと自由にならなければならないし、そのための模索を行っているところだ、という話をすると、それにも耳を塞いで去っていく。

それはちょうど、筆者がとても窮屈で貧しくて不自由な世界から、自由を求めてエクソダスを決意すると、寄ってたかって、「おまえには幸福になる資格などない! おまえが自由になることが、神の御心のはずがない!」と叫んで、不自由な世界から筆者を決して逃がすまいと、必死で束縛して来るような具合である。

そのようなことを、普段から敬虔そうに御言葉を語り、自分は真実な信仰を知っていると豪語する人たちが、まさに行うのである。ただし、そのような人たちは、あなたが主によって真に恵まれたという話をしても、普段から決して喜んでその話を聞かないので、その態度かを通しても、大体、彼らが信奉している教えが何であるかは想像がつくのだが、あなたが真に不自由な状況からエクソダスを遂げて、主にあって、自由と勝利を掴もうとする時には、さらに強烈な反対を示して、それが成就しないように妨害して来るので、よく分かる。その時、彼らの信じている教えが、人を自由に導くように見せかけながら、実際には、貧しさと不幸と滅びの中に連れ込むことしかできない、偽りの宗教体系であることが、私たちによく分かるのである。

だから、そういう人たちに向かっては、筆者は「どうぞあなたの信じるところを行って下さいな。私は一人にされることを一切、恐れませんから」と通告するのみである。こういう人たちと手を携えて前に進んで行くことは絶対にできない相談である。

たとえば、こういう状況を考えてみて欲しい。

あなたが若者であって、軍隊に入隊したとしよう。あなたの祖国は、今や戦争を始めようとしており、士気が高まっているところだ。

ところが、あなたは、その戦争の動機が根本的に間違っており、あなたの国には正しい理念がなく、敵国はあなたの祖国よりも圧倒的に強く、打ち負かせる望みがなく、しかも、あなたの軍隊の上官たちは大変な愚か者で、間違った戦略を立てているため、それに従って戦地に送り出されれば、あなたは戦場で死ぬだけで、どんなに戦っても、生きて帰れる見込みは1%もない、という情報を、仲間よりもいち早く先に掴んだとしよう。

戦場に行けば、十分な兵糧もなく、武器も与えられないのに、飢えと、寒さと、疲労の極致の中でゲリラ戦を続けるという極限状態が待ち受けているだけであり、そこには、仲間同士の間でも、助け合いの精神はなく、あるのは、自分が生き延びるためには互いに殺し合い、互いに食い合うことで、命をつなぐ運命だけである。つまり、仲間を殺して食うという鬼畜の所業にでも手を染めない限り、生きて帰れる見込みもないというのだ。

また、その他にも、特攻作戦が実行され、敵に打撃を与えることもできないのに多くの命が無駄に費やされるという情報もあなたは掴んだ。

このような情報を得て、あなたは何をしようとするだろうか。まずは同僚たちに、この戦争は無謀である、戦っても勝ち目がない、無駄な犠牲が生まれるだけだ、ということを説いて聞かせ、反対者を募ろうとするかも知れないが、同僚たちは誰も耳を傾けてくれず、その話を聞きつけてやって来た上官が、かえってあなたを叱りつけ、これ以上、軍隊の士気を低めるような根拠のない話をすれば、祖国に対する中傷、軍隊への裏切り行為として、軍法会議にかけるぞ、などと言う。

あなたは仕方がなく、この話を誰かに理解してもらうことを断念せざるを得なくなる。だが、何も知らなかったふりをして軍隊の中にとどまっていれば、いずれ戦いにもならない戦いの中で、犬死する他ない。せめて自分の命だけは、この愚かしい戦争によって失うことのないように対策を講じる以外に、なすべきことはないと思うだろう。そこで、あなたは何とかしてこの軍隊から早く脱出するか、死ななくて良い任務に就くかして、呪われた運命を避ける方法を模索しなければならないと決意する。あるいは、そのような状況から脱するためには、亡命ということも考えてみなくてはならないだろう…。

人に先んじて情報を掴むというのは、そういうことなのである。知恵はそのためにあり、いち早く正しい情報を得た人だけが、我が身を救うための方法を、人よりも先んじて講ずることができる。もしかしたら、自分の家族をも救える方法が見つかるかも知れない。だが、残念ながら、多くの人たちは、正しい話を聞かされても、信じない。特に、自分たちが誇りとする軍隊が、愚か者の指導者に導かれているとか、自分の祖国が負けるかも知れないなどという話は、人の心を喜ばせないので、誰も耳を傾けようとしない。

戦って敵国を打ち負かし、自分たちの力と知恵で勝利を打ち立てるという話は人の歓心を買うが、戦争そのものが無謀であって、祖国には正しい理念と知恵がないから勝ち目がないという情報には、人々は耳を傾けたがらない。その話は彼らの無力さと限界を思い知らせるので、彼らにとってはあまりに悲観的過ぎるだけでなく、恥と屈辱をもたらすように思われるからだ。

だが、彼らと同じ価値観の中を生きていれば、あなたは前線で死ぬしかないことが分かっているのに、どうして彼らと一緒の道を行けようか。このように、多くの人々が考える勝利をもたらす方法と、実際に勝利を掴んで生き延びる方法は、いわば、正反対なのである。

同じように、人間が自己の力で罪を贖うために作り上げられた一大宗教体系というものがあり、そこで人々は知恵と力の限りを尽くして、天にまで至り着く高い塔を建設しようとしている。荘厳を極めた儀式、感動的な説教、多くの涙ぐましい奉仕、人々の熱狂がそこにある。

人々は筆者に対しても、その塔の建設に加わるように言う。そして、筆者のような者が、かえって彼らの建設しようとしている塔は、偽りであって、天に到達することなく、神の聖に至り着くこともなく、何らの勝利ももたらさないまま、ひどい倒壊をもたらすだけだと主張すると、彼らは自分たちのしようとしていることに、いたく水を差されたと感じ、侮辱を覚え、敵意を表すだけである。

ノアが洪水を避けて箱舟を建設していた時も、ロトとその家族がソドムを脱出しようとした時も、全く同様であっただろう。ごくわずかな義人たちだけが、堕落したこの世に定められた滅びのことを知っており、何とかしてそこから逃れ出なければならないことを知っていたが、その時、人々は、飲み、食い、売り、買い、建て、めいめいしたいと思うことをして、その日常がこれからも決して妨げられることはなく、自分たちは望みのままに生き、それによって神の聖にまで到達することができると信じて、義人たちの警告には全く耳を貸さなかった。

それだけでなく、彼らに対して耳の痛い忠告をして来た神の僕たちを排斥し、踏みつけにし、あるいは殺した。そうした警告は、人々にとっては、彼らが喜んで謳歌している人生、彼らの生きる目的そのものを、恥や、誤った考えのように思わせるものだったので、彼らはそれを聞きたくなかったし、自分たちに侮辱を感じさせる者を憎んだのである。

もちろん、筆者はこの世界が明日滅びるとか、私たちの町が滅ぼされるなどと言っているのではない。主に従うためには、自分を捨て、自分の十字架を負って、日々主に従うしかないにも関わらず、自分たちに好ましい言葉を述べてもらい、平和だ、無事だ、安全だと耳障りの良い福音を聞き、自分たちの欲望を肯定してもらいたいがために、人間に過ぎない宗教指導者をあちこちから招聘し、彼らを神のごとく崇め、奉り、つき従っている、御言葉に従わない者の末路は滅びでしかない、ということを述べているに過ぎない。

そして、ある人々が、どんなに筆者の口を塞ぎ、当ブログを踏みつけにすることによって、筆者の主張をないものにしようと考えたとしても、そのことによって、間違っているものが間違っているという事実にまで変化が起きるわけではないため、人々が自己の力で罪を贖おうとして必死の思いで積み上げている努力が、その人たち自身に呪いしかもたらさず、寸分たりとも報われないという事実に、変わりはないのである。神の僕を踏みつけにすることはできるかも知れないが、そのことによって、踏みつけた人の罪に罪が増し加わるだけであって、神の御言葉の正しさがいささかも消えるわけではなく、その決定が寸分も変更されることはないのである。

御言葉は言う。


「兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要がありません。盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。人々が「無事だ、安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。


しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。」(1テサロニケ5:1-6)


今年に入ってから、筆者には、心の偶像がどのようにキリスト者を弱体化させるかが分かり、また、それを投げ捨てることによって、霊的視力が回復されることも分かった。筆者が、これまで見たことのないほど遠くまで、これから起きることを予想できるようになったと述べているのも、そのためでもある。

敵に対する勝利がどのようにしてもたらされるのか、霊的軍事作戦が見えて来たのである。偽りの宗教体系であるバビロンは、自分は勝利した、無敵である、自分に敵対した者は、一人ぼっちの孤独の中で、恥と敗北を噛みしめているだけだ、二度と立ち向かって来ることはない、と豪語している。しかし、バビロンには、その罪のための裁きが下る時が必ず来て、しかも、その倒壊は非常に激しく、人々の驚きと恐怖の的になる。

これは一種の比喩であって、最終的なバビロンの崩壊は、この世の終わりを待たなければならないが、その前に起きる地上的な様々な出来事の中にも、バビロンの倒壊現象は、確固として現れるのである。だから、筆者は、その時がどうやって来るのか、少しずつ、予想しているのだが、サムソンがそうであったように、真実なキリスト者までが、バビロンの倒壊に巻き込まれるようなことがあってはいけない。

そこで、あなたがバビロンを去ろうとしているその時に、その都に駆け戻って行く人たちとすれ違うかも知れないし、その都にいる人たちを助け出さなければならないと言う人があるかも知れないが、その都に一切の未練を持ってはいけない。決して後ろを振り返らず、前へ進まなければならない。あなたが見つめなければならないものは、不完全さではなく、完全さなのである。

「より完全なものを目指す」――という言葉で検索してみると、大体、企業がより良い商品を開発しようとするときの文章が見つかる。

私たちは自分の商品を開発しているわけではないが、キリスト者として、日々、自分自身が、より完全な、完成された状態になることを目指して歩んでいることを忘れてはならない。私たちは神の作品であって、キリストの手紙のようなものである。神が完全な者であられるように、私たちもそうなることを目指すべきである。

黙示録にはこう書かれている、「この書物の預言の言葉を、秘密にしておいてはいけない。時が迫っているからである。不正を行う者には、なお不正を行わせ、汚れた者は、なお汚れるままにしておけ。正しい者には、なお正しいことを行なわせ、聖なる者は、なお聖なる者とならせよ。見よ。わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。


命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。犬のような者、魔術を使う者、みだらなことをする者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は門の外にいる。」(黙示録22:10-15)


このように、終わりの時代、不正な者はますます不正になるが、正しい者はますます正しくなり、聖なる者は、なお聖なる者となると記されている。時を無駄にしてはいけない。神に従う者は、他の人々がどのような人生を歩もうと、それに関係なく、ますます正しく、ますます聖なる者となり、ますます完全とされることを目指すべきである。

だから、たとえ多くの人たちが、脱出の道を貫徹できず、荒野で誘惑に負け、倒れ、あるいはもとの故郷に駆け戻って行ったとしても、他の人たちがどうなったのかに心を留めてはいけない。後ろを振り向いてもいけないし、滅びに定められている一切のものに未練を感じてもならない。見つめなければならないのは、私たちの前に置かれた褒賞であり、信仰の創始者であり完成者であるイエスご自身であり、高き御座に座しておられる方である。

私たちの衣を洗い清めるのは、ただ小羊の血潮だけであり、ただ主イエスだけが、私たちの救いであり、栄光を受け、誉め讃えられるべき方なのである。

このことが分からず、人間同士が互いに賞賛し合い、慰め合うことに活路を見いだし、人の温もりに心惹かれた大勢の人たちは、エクソダスと言いながらも、出て来た元の故郷へ戻って行って、そこで神ではない別なものに栄光を帰するはめになった。彼らに待ち受けているのは、やがてその都が倒壊したとき、その下敷きになる運命だけである。それにならってはいけない。