一週間ほど前に、近所の田んぼには水が引かれ、小さな苗が植えられた。今、我が家の前に広がっている田んぼは湖面のようで、風が吹くごとにさざなみが立って美しい。
今日は井倉洞に行く予定を立てていた。子供の頃、祖父に連れられて行った記憶がおぼろげにある鍾乳洞だ。近々、友人がひょっとすると家に遊びに来てくれるかも知れないので、下見をしておこうと思ったのだが、ホームページを見ると、豪雨のため落石が起こり、入洞禁止とのこと。残念…。
さて、今日は地元で撮影され、私が興味を持っている映画を一本紹介したい。私はまだ観ていないが、全国ではすでに上映が始まっている地域があるそうなので、関心がある方はぜひご覧下さい。
映画「精神」は、「こらーる岡山」という、岡山市にある外来の精神科診療所で、実際の患者を対象として撮影された。
「映画が撮られ始めたのは小泉政権のもと、『障害者自立支援法案』が可決された2005年秋。
『自己責任』や『受益者負担』のかけ声のもと、福祉政策や社会構造が激動期に突入し、患者たちの生活や将来の展望に不安が増していた。『精神』は、社会の転換期を如実に切り取る作品にもなったのだ。
監督は、ニューヨーク在住の映画作家・想田和弘。前作『選挙』に続き、ナレーション・説明・音楽一切なしで、観客が自由に考え、解釈できる作品を完成。『被写体にモザイクをかけると、偏見やタブーをかえって助長する』と考えた監督は、素顔で映画に出てくれる患者のみにカメラを向け、人間として鮮烈に描き出すことに成功した。
本作は、08年の釜山国際映画祭とドバイ国際映画祭で最優秀 ドキュメンタリー賞を、マイアミ国際映画祭で審査員特別賞を、そして香港国際映画祭で優秀ドキュメンタリー賞を受賞し、 既に4冠 を達成。ベルリン国際映画祭(09年)にも『選挙』に続き正式出品され、世界中で絶賛されている。」
小泉政権以来、日本社会には、合理化の強い圧力が上からかけられている。終身雇用制を含む、伝統的な制度と価値観が崩壊し、それに代わって、至るところで、厳しい競争原理が導入され、日雇い派遣、派遣切りなどの問題が続出している。だが、そのような非人間的なまでの合理化の圧力に対して、元来、不合理な部分を含む人間性は、必ず反乱を起こすものだ。それは不適応や、病や、脆さ、弱さとなって現れる。今や年間の自殺者が三万人にも達している日本社会で、鬱病など心の病は誰にとっても、他人事ではなくなっており、人間の変えられない弱さ、非合理性を体現している一つの集団が、精神障害者たちであると言えよう。
映画「精神」は、精神障害者に直接、スポットライトを当てることによって、極端な合理化の波に見舞われた現代日本社会の中で、圧迫され、行き場を失い、叫び声をあげている人間性そのものを象徴的に描き出していると言えるだろう。上映されれば必ず観に行こうと私は考えている。
* * *
さて、今、日本社会だけでなく、ニッポンキリスト教界も、刻一刻と殺伐とした場所に変わりつつあるように感じられる。営利を優先した過酷な競争社会となり果てたキリスト教界は、カルト被害者を含む、数え切れない脱落者の信者を今も生んでいる。だが、人間を大切にしない、利益優先の競争原理は改められているようには見えない。
その上、カルト対策、異端の排除等の美名に名を借りた、別種の圧力がキリスト教界に介入している。こうして、信者同士が互いに断罪し合い、互いに罪をなすりつけあい、互いの正当性を誇って、互いを滅ぼし合う殺伐とした場所がキリスト教界となりつつある。
キリスト教界全体が、まさに血塗られた戦場のような場所へと変わりつつあるように私には感じられてならない。いくつもの対立する集団が、互いに異端のレッテルを貼り合って、互いに根絶し合うような時が間もなく来るかも知れない。すでにその兆しのように、浅はかな勧善懲悪の構図に基づいた異端バッシングと、一触即発のような緊張した空気が、各種キリスト教系のメディアに漂っているように感じられる。
異端という言葉が独り歩きすることを私たちは十分に警戒しなければならない。異端を異端であると告発するためには、分厚い調査報告書のような、十分な論拠が必要となるだろう。異端に関する判断は決して、軽率に行われてはならず、極めて慎重に行われなければならない(だからこそ、それは本来、専門家が行うべき仕事であると私は考えるのだ)。
だが、今日、異端を告発しているメディアのうちどれほどが、信頼するに足る十分な根拠を提出した上で、異端の教えを糾弾しているだろうか。たった2行や3行程度の短い文章で、満足な証拠の提出もないままに、長年、存続してきたどこかの教会に、あるいは誰か特定の信者に対して、異端のレッテルを貼りつけられると考えている人がもしあるとすれば、それはあまりにも軽率な考えであるだけでなく、はかりしれないほど危険な行為であると言えよう。
私はこれまで、キリスト教界の未来が大変、危険なものになるだろうという予測を様々な形で述べて来たが、そこには教界のカルト化の危険性だけではなく、カルト対策に名を借りた異端への抑圧行為が暴走することの危険性も含まれている。すでにキリスト教メディアにおいて、カルトや異端について警告するという名目でのバッシングが暴走するきざしが見えていることを私は感じているが、この先、教界内に何らかの公式の抑圧機関、異端審問機関が生まれる可能性も、まだ完全に消えたわけではないと思っている。恐らく、このような計画は、一旦、提出された以上、たとえ考案者とは別人の手によってであっても、何度でも再燃し、いつかは実現するものだと感じざるを得ない。
歴史を振り返っても分かることだが、社会を一元的な価値観の下に統制しようとする様々な計画は、熱狂的に統一的な秩序を夢見る者たちの粘り強い努力によって、長い時を越えて、実現されて来た。だから、キリスト教界において、やがていつか一元的な秩序と、公式の異端抑圧機関が生まれることは、不可避の結果であるように私には思われてならない。だが、そのようなものによって人間を解放することは決してできない相談であるから、もしもそのような統一的な秩序が教界内に出来上がれば、それは反人間的な制度となり、教界に属しているあらゆる信者にとっての抑圧となるだけでなく、教界に属していない、私のような、はみ出し者の信者にとっても、大きな脅威となって迫り来るだろう。
神は人間一人ひとりに自由意志を与えられた。人間の自由は侵しがたいものであり、人間の尊厳の根底に横たわる、どんな暴力によっても取り除かれてはならないものである。人には、多様な価値観の中から自分が好むものを取って生きる自由が与えられており、たとえある信者が異端の教義を選んだとしても、神がその人から力づくで選択の自由を奪われることはない。それは神が人を創造した初めの時点から、人に内心の自由を与えておられるからである。
従って、キリスト者がキリストに服するのは、あくまで本人の自主性によるものでなければならない。神は自主的な礼拝を喜ばれるのであって、強制された回心や、強制された礼拝は、神を喜ばせる聖なる捧げ物にはならない。キリストは十字架上の死を通して、人間を律法による罪の奴隷状態から解放した。福音の本質は自由であり、律法主義からの解放であり、強制ではなく、自主的な献身と服従である。
神が与えられた自由を、人間に奪う資格がないことは明白である。
ところが、昨今、この神の与えたもうた自由を人間から取り上げて、外的影響力を通して、人間の悪なる部分を矯正するために、極端な律法主義をあてはめようと叫ぶ声がキリスト教界に顕著に現れて来ているように私は思う。それは日曜礼拝の厳守というような、我々が諸教会でよく耳にしてきた比較的緩やかな教えから、モーセ律法に基づく石打刑の復活という極端に残酷な教えまで、内容は様々であるが、実に危険な傾向として観察される。
さらに、現在のカルト対策のあり方も、これと同一線上にあると見てよいだろう。
今、キリスト教界には目を覆いたくなるような不祥事が広がっているが、このような無秩序な混乱に飽き飽きした信者たちは、自分たちが何を望んでいるのか全く分からないままで、統一的な秩序を打ち立ててくれる強力なリーダーの登場を待ち望み、その登場を歓呼して迎えたい心境になっているのではないだろうか。教会の不祥事が一つまた一つと暴露される度に、自分の代わりに手っ取り早く悪を成敗してくれる誰かを求め、その人間に一票を投じたいとするクリスチャン大衆の欲求が、日に日に強まっているように私には思われてならない。
大衆は「カルト対策をやってくれる誰か」を求めている。無秩序状態に終止符を打ってくれ、自分が望んでいる正義を手っ取り早く体現してくれ、散らかった机の上を自分の代わりに片付けてくれそうな誰か、面倒かつ複雑な問題に、自分に代わって着手してくれる聡明な誰か、望んでいる理想的な秩序を、早急に打ち立ててくれそうな誰かを求めているだけなのである。
大衆は、自分自身がその問題に着手しないでいられる怠慢を確保するために、自分の代わりに働いてくれるリーダーを常に待ち望む傾向を持っている。そういう他人任せな、身勝手な期待が、これまでにもさんざん、キリスト教界において、自称預言者、自称牧師、自称カルト専門家などが活躍する土壌を作ってきたし、それこそが、いかがわしい偽牧師や偽教師の活躍を支える培養土となってきたのである。従って、カルト対策に関しても、もしもクリスチャンがそのような無責任かつ身勝手な心理だけに基づいて、リーダーを求めるならば、ろくな結果を生まないだろうことは誰しも予想できる。
異端の教えは確かに警戒しなければならないが、異端を排除するという名目で、人の自由までが圧迫されるようなことはあってはならない。その意味で、異端の取り締まりを唱えて登場してくる「正義の味方」をも、私たちは十分に警戒し、吟味しなければならないのである。
聖書は、クリスチャンが異端に対して力づくの闘いを挑むことで、信者を無理やり解放するようにとは教えていない。異端団体から力づくで信者を奪回したり、異端団体に対して訴訟を起こしたり、異端の教会を取り潰して、土地と財産を没収したり、異端者を火刑に処したり、異端文書を徹底的に焚書にすることによって、異端団体を地上から根絶し、ただキリスト教的な秩序に基づいた一元的な世界を残すようにとは、聖書は教えていない。
聖書が教えているのはあくまで、異端を警戒し、異端から離れ去りなさい、ということと、罪のない者がまず先に石を投げなさい、ということである。異端に対して、私たちクリスチャンは、十分な証拠を集めた上で、平和的に警戒を呼びかけることは許されるが、それ以上に、石を投げること(つまり、裁判を起こしたり、暴力を用いたりして、異端者の生活の糧を奪ったり、異端団体を根絶したり、異端者を死に追いやるなどのこと)はクリスチャンに許されている行いではない。
異端の教えに陥った信者は、正しい教えを信じるクリスチャンから絶縁されてしかるべきだと思うが、それ以上に迫害されるべきではない。異端者がもしも新しい宗教を開いて、そこに活動の場を見いだそうとするならば、それは止めてはならないことだと私は思う。
だが、今日、キリスト教徒を名乗るある種の人たちには、異端者への処遇について、一線を踏み越えて、サディズムに落ちようとしている危うさが感じられるように思う。異端を静かに批判し、排除することではなく、異端を絶滅することを目的に活動している人たちがいるのではないだろうか。さらに不十分な証拠に基づいて異端のレッテル貼りが行われていることについて、私は憂慮している。
クリスチャンの目的は異端への警戒と異端からの分離であって、異端の根絶ではない。聖書に基づいて、十分な議論を重ねた上で、異端団体と分離することが必要なのであって、十分な証拠の提出もないままで、一方的に誰かに異端のレッテルを貼って、異端者とされた人に危害を加えたり、異端団体と取っ組み合って、どちらかが勝つまで、徹底的に闘争を続けることが必要なのではない。
そのことをよくわきまえておかなければ、クリスチャンは自分も罪人の一人に過ぎないのに、罪を犯した人間を石で撃ち殺すということを、今でも、平気でやってしまいかねないのである。しかもそれが集団的なサディズムに発展していく危険性を否定できないのである。
あらゆるカルト団体の教えには、極端な律法主義の再来、つまり、十字架を通さない、外側からの人間の改造と浄化の試みが含まれている。だが、今日の著名なカルト対策のあり方にも、それと全く同様の危険が含まれていることに私は恐怖を覚えずにはいられないのである。
たとえ異端の取り締まりという名目であっても、外側からの圧力によって人間を変えようとする試みは、十字架を通しての生まれ変わりという、キリスト教の教義とは相容れないものであり、キリストの与えたもうた自由を、再び律法の奴隷というくびきに取り替えることを意味する。裁きや、処罰といった強制力によって、人間性を変えようとする試みは、実際に罪を処理し、人間を変える力を持たないだけでなく、人間に与えられた自由の領域に侵入し、自由を奪い取る行為である。
その意味で、この世の力学を用いて、カルトを抑圧・根絶しようとしているカルト対策のあり方は、まさに人間性そのものに対する脅威だと私は感じざるを得ない。
この問題は極めて深刻であると思うので、今後も続行して訴えていかねばならないと思うが、今は、このことについて、これ以上、声を大にして訴えるのはやめて置こう。
不思議なことに、心に平安が満ちるに連れて、キリスト教界において繰り広げられる殺伐とした事件に、私は興味を持てなくなってきた。カルト化教会の悪事を見逃すべきでないと主張する人たちは多く、私もそう考えていた一人であったが、かといって、律法主義を律法主義によって斬る試みに一体、どんな将来の希望があるというのだろうか。
大切なのは、キリストの下さる愛と平安を私たちが十分に享受し、キリストの与えたもうた自由をしっかりと受け取り、放さず手中につかんで生きることだ。つい最近まで、私は臆病者、卑怯者になるくらいならば、勇敢に悪事を告発し、そのために命をいくつ投げ出しても惜しくないと思っていたが、クリスチャンの第一義的使命は、悪との闘いにあるのではなく、神と隣人を愛して、助け合って生きていくことにある。
こんなことを言うと、誰かさんに早速、食ってかかられそうな気がする。
「あなたは本当に不真面目で意見がころころ変わる移り気な人なんですね、一体、あなたは誰の味方なんですか、本当に正義を望んでいるんですか、カルト被害者の心情に配慮する気持ちがあるんですか!?」
その質問にはこう答えよう、
「ご指摘の通り、私は今、被害者の感情を全く考えていないと思います。私はこれまで自分がカルト被害者のつもりでいましたし、確かに相当の被害を受けたので、そう言うだけの根拠はあったでしょう。自分と同じ苦しみを味わった人のために、できる限りのことをしたいと願って来たことは確かです。
けれども、私はもうこれ以上、自分を被害者とは呼べないだろうことを感じます。失望させていたらごめんなさい。冷たい人間と思われても構いません。でも、私にとって今、一番重要なのは、弱者の正義ではなく、主ご自身が何を正義とされ、何を喜ばれるかという点なのです。
どういうわけか、私は主にあって、急に被害者ではなくなってしまったことを感じます、私は完全に贖い出され、完全に買い戻されたのです。私は完全にされ、訴えるべき被害がもうなくなったのです、ですから被害者と同じ感情を共有することができなくなってしまったのです。奪われたもののために涙し、奪われたもののために立ち上がるということができなくなったのです。虐げられた弱者の正義を訴えることに、関心がなくなったのです。なぜならば、私に与えられた恵みは完全だということを全く否定できないからなのです…」
私の過去は変わらないが、私には嘆かなければならない被害と損失がもうなくなってしまった。嘆きも、恐れも、義憤もなく、今は、キリストの与えて下さった命の豊かさが私の心をとらえて離さない。だから、カルト、アンチカルトのどちらの陣営の訴えにもほとんど関心はないし、それを告発する作業も、しばらく脇に置いておきたい。
こんな風にして、カルト被害者の戦線から離脱しようとしている私を、愚か者、臆病者、変節者、裏切り者、冷血漢、等々の名前で呼ぶ人があるかも知れないが、そうなっても構わない。魂に暗闇をもたらす諸々の闘争から抜け出し、命ある喜びに引き入れられたクリスチャンは幸いだと思う。
ヨブの例を思い出してみればよい。カルト被害者の被害を何倍にもして償うことができるのは、神ご自身である。まことの裁き主、癒し主であるイエス・キリストに立ち戻る時、被害者はもはや被害者でなく、受けた被害を補って余りある祝福を受け取ることができると私は確信している。
先週末、居ても立っても居られないような気持ちになって、ほとんど衝動的に夜行バスを予約し、Dr.Lukeのいる横浜のKFC(Kingdom Fellowship Church)へと飛んで戻って来た。
日曜の朝はあいにくの大雨で、歩いているうちに、持っていた荷物までずぶ濡れとなったが、午後、煙るような霧雨に包まれた港町には風情があった。
私はキリスト教界において幾度も悲しい事件に遭遇させられ、教会に対する大きな不信感を心に抱え込んだ。教会に期待を抱いて、関わろうとしたその度毎に、私が教会から受けた被害は、より深刻かつ甚大なものへと変わっていった。受けた被害を解決するために向かった京都A教会でも、解決を得られず、ただ希望を失って教会を離れなければならなかった。そんないきさつがあったので、最後に教会を訪れてから、今までに至る約一年近くの月日の間、私はどんな信仰者の群れにも関わることなく、ただ一人で聖書を読み、祈り、考え続けた。ブログを除いては、信仰者と関わる手段は全くなかった。
KFCの存在は二年前ほどからネットで知っていたが、訪れようという気持ちにならなかった。安全な教会を見つけ出したい、真のキリスト者と出会いたいという願いが心になかったわけではないが、同時に、教会と名のつくもの全てに対する不信感と、クリスチャンを名乗る人間に接触することへの恐れが、行動を起こすことを妨げていた。それに、群れに所属することによって、信仰が保証されるわけではないことも分かっていたので、同胞のあるなしに関わらず、とにかくまことの神への信仰に立ちたいと願ってきた。
だが、最近、それだけでは気が済まなくなった。KFCとはどのような場所なのか、そこに主から与えられた私の兄弟姉妹がいるのかどうか、どうしても自分の目で確かめたいという思いが無視できないほどに高まった。とにかく、会わないことには、居ても立っても居られない気持ちになったのである。
それに、少し前から、主は私のためにクリスチャンの同胞を備えて下さるという確信を祈りの中で得ていた。だから今回、実際にそのことを自分の目で確認せずにはおれなかったし、確認できたのは良いことだった。
ネット上で聞いているだけでは、KFCの礼拝は聖霊派のスタイルにかなり近いもののように感じられる。そこで、私のように、聖霊派の礼拝につまずいた経験のある人は、それを聞いて、抵抗を覚えることがあるかも知れない。私はこれまで数々の教会をめぐり、そこで様々な賛美のスタイルを聞いてきた。それぞれの教会ごとに、賛美歌、聖歌、新聖歌、ミクタム、リビングプレイズ、等々、使われる曲に違いがあり、楽器も様々であった。だが、中でも、KFCの賛美は私が今まで聞いたことのないものだった上に、歌詞の大半が英語であり、奏楽者もいないようであったので、私には馴染みがなかったし、正直な話、奇をてらっているだけではないのかという疑いが、なかったわけではない。
だが、重要なのはどんなスタイルが採用されているかということではなく、礼拝を捧げる人々の心である。実際に現地に身を置いてみることで、そこには心を預けても良いと思うに十分な礼拝があることを確認できた。私の教会恐怖症はほぼ完全に払拭された。
KFCで主の恵みとして私に与えられた貴重な時間について、あまり細かく書くのはやめておこう。ただ、私のために憐れみを示して下さった全ての兄弟姉妹たちに、主からの豊かな報いがありますようにと願う。
それに、百聞は一見にしかず。関心のある方は、それぞれ自分の目で確かめられるのが一番良いだろう。
その日、私はDr.Lukeを教会から奪い去り、随分、長いこと、拘束してしまった。彼に横浜観光案内までさせた人は私の他にいたのだろうか。霧雨の振る中、懐かしい神戸の街を思い出させるような港街を車で通り過ぎ、私が一人では決して行くことができないだろうホームレスの町、寿町の界隈も見せてもらった。
私はDr.Lukeに向かって、私がこれまで経験してきた、暗い、お先真っ暗な話題について沢山、語った。その上、これまで私が彼に対して持っていた疑問をも何の遠慮もなくぶつけた。それは聞かされる側からすれば、随分と荷厄介な話だったかも知れない。だが、そうして取ってもらった時間のおかげで、私の心に残っていた疑いは最後まで払拭されたし、世にはカルト化教会で起こっているような奇妙な事件をも、受け止められるクリスチャンが確かにいるのだと知った…。
Dr.Lukeは、私の受けた印象では、キリスト教の牧者というよりも、禅寺の住職のようであった(だがそれでも真にクリスチャンである)。九州人と関西人を足して2で割った上に、ほんの少しだけ東京人のエキスを加えたような人物であり、長く関西に暮らした私にとって、抵抗感なく、話ができる人だった。(関西人は個性的な人物を愛するものだ。この表現が理解できない方は実際に自分で確かめて下さい。)
ところで、夜行バスに関して、私には悲しい思い出が一つあった。カルト化教会で、私はそれまで7年間も親しくつきあってきた親友を失った。その友人は同じ大学出身の研究者であり、互いに海外にいた期間も含めて、数え切れない文通を交わし、生活の隅々までよく知っていた幼馴染のような間柄だった。彼はよく「大阪は我が庭」と豪語していたほどに、大阪の地理に精通しており、バイクの運転も含めて、私はこの人から色々なことを教わった。彼が学振の研究員に選ばれて、関西から東京に向かう時、私は大阪駅前の夜行バスのロータリーまでよく出発を見送りに行ったものだ。
カルト化教会でその人と縁を切るように求められ、私は別れの挨拶も告げず、友人をいきなり捨てた。後日、それが誤りであったと分かり、さらにその友人にも、かなり以前から信頼を裏切られていたことが判明した時、二度と取り返せなくなってしまった人間の絆のために、私は泣きに泣いた…。
最後にその親友と会ったのは、偽教会との縁を切った後、東大のキャンパスでのことだった。むっとするほど蒸し暑い空気の夏の日、会うなり、彼に向かって、私は教会での事件をとうとうとしゃべった。学生たちがカフェテリアにやって来ては、潮が引くように去って行った後、夕方になっても、私はまだ教会の事件についてしゃべり続けていた。一体、あれは何だったのか、どうして私があんな目に遭わなければならなかったのか…、当時、何も理解できておらず、ただどうどうめぐりの疑問の中をさまよっていただけだった。友人はいつものように穏やかに、ほとんど黙って私の話を聞いていた。
夜になって、私はその友人と新宿のバス停で別れた。それまでは私が彼の出発を見送ってきたが、その時は、私が見送られる番だった。いつものようにつまらない冗談を言い合いながら、バスの到着を待った。それが親友との最後の邂逅になるとは、当時、考えてもいなかったが、帰りのバスの中で、なぜか心が痛んで、涙が溢れて止まらなかった。多分、心の奥底では、壊れた人間関係が永久に戻らないこと、私の青春時代が空宙で砕け散ったまま、完全に終わってしまったことを感じ取っていたのだろう。
この親友とは幾度か海外にも共に行ったし、何度も神戸の港を訪れたものだ。私が関西で培った思い出そのもののような人物であった。
親友はその後、私の論文執筆のために助力してくれたが、論文が審査に通ったことを報告して以後、連絡は途絶えた。幾度、電話をかけても、彼が受話器を取ることはもうなかった。それは昨年春のことである。今、彼がどこでどのように暮らしているのか、私は知らない。
こうして、カルト化教会で受けた体験はあまりにも悲しいものであり、私の人生そのもの、思い出そのものをズタズタに引きちぎって行ったが、今回の横浜行きでは、そんな悲しい記憶を思い出させるようなものは何もなかった。
横浜は美しい街だが、私の今住んでいる中国地方からはあまりに遠いので、この先、そう何度も訪れることはできないだろう。だが、それでも、今回、KFCを訪れたことで、私の信仰生活に、今までとは全く違う第二幕が開けたことを確かに感じることができた。主はやもめや、産まず女の涙を拭って下さるように、私の涙を拭って下さった。だから、もう二度と、かつてのような悲しい体験をさせられることはないだろう。今回の旅は、終わりではなく、始まりなのだ、そう感じることができた。
今、キリスト教界の教えに疑問を感じながらも、一人ぼっちになることを恐れて、そこから抜けられないでいるクリスチャンがきっと多いだろうと思う。身体に馴染んだ礼拝や賛美のスタイルや、教会に連なる友人たちを捨て去るに忍びないと感じて、そこにとどまることを選ぶ人たちがこの先、大勢いることだろう。しかし、偶像礼拝ときっぱり縁を切り、御言葉に純粋に立ち戻り、たとえどんな孤独を味わおうとも、ただ主ご自身だけをひたすら求めて行く時に、必要の全てが兼ね備えられることを私は身を持って知った。
一人の幼馴染を失ったが、代わりに、数え切れない魅力的な兄弟姉妹が与えられたことが分かった。この悪しき、暗い世の中にあって、星のように輝いている兄弟姉妹たちだ。父なる神から「これは私の愛する子、私はこれを喜ぶ」と呼ばれるにふさわしいクリスチャンたちだ…。
絶望に泣き明かした日々も含めて、主は私が今まで辿ってきた全ての苦しみを、きっと益へと変えて下さるだろう。この信仰に立ち戻るために、一旦、余計なもの全てを焼き尽くされ、孤独の中を通され、死ぬような思いを味わう必要性があったのであれば、それで良かったのだと今は思う。
主が今後、私の人生にどんなことを成して下さるのか、楽しみである。
皆さんお元気でしょうか。
この頃、パソコンを置いている部屋の気温が高すぎるためか、思考能力が低下し、いつものような長文の記事が書けなくなりました。最近、記事がどんどん短くなっているのはそのせいです(これでやっと読みやすくなったと喜んでいる方もいらっしゃるかも知れません)。
書かねばならない問題は山積しているのですが、今はそれについて考える余裕がなく、さらに、今週末は諸用のため郷里を離れるため、来週明けまでは、ブログを更新できなくなります。コメント等、書いていただいてもいいのですが、戻って来るまでお返事できませんのでご了承ください。
さて、とても嬉しい報告が一つ。カルト化教会で深刻な被害を受けられたある方が、書いておられた。どんなに教会で意地悪をされたり、ひどい目に遭ったとしても、一度、心に灯った信仰の明かりは、そんなに簡単なことでは消えないと。たとえ消えたとしても、その人がキリストのもとへ立ち戻ることを望めば、必ずその火は再び灯るのだと。
この言葉を聞いて、私は、万歳、ハレルヤ!と叫びたくなった。心配は要らない、カルト被害者が何度、痛めつけられることがあっても、死の影の谷を歩まされることがあっても、主ご自身が必ず、その人を助けられるだろう。神の愛は考えうる限り全ての障害を越えて、さまよう羊たちの心にまで届くだろう。
そして一度打たれた人たちは、打たれなかった人たちよりはるかに強く賢くなって、鍛えられて、戻って来るに違いない。私はその雄姿を見て、驚かされることになるかも知れない…。
神の愛は、人間によるすべての救済活動の枠組みを高く超えて、川のように流れ行くだろう。街も、家も、丘も、人の築いたもの全てがその流れの下に隠れて見えなくなるだろう。しかし、緩やかで力強いその愛の流れは、小さく弱い人間を決して無造作に押し流したり、傷つけることなく、そっと温かく包み込み、川のほとりまで優しく運んでくれる。そこに着けば、どんなに傷ついた人も、心の重荷を降ろし、安らぐことができる…。
幾度も書いてきたように、カルト被害者に何よりも必要なのは、まことの癒し主であるイエス・キリストである。極限まで傷つけられた被害者の心をカウンセリングで癒すことはできない。真の悲しみ、苦しみの前では、人は無力だからだ。不注意かつ不完全な私のどんな努力も、善意も、圧倒的な悲しみの前では、全てわざとらしいものにしか映らない。人を癒す力を持っているのは人ではなく、ただキリスト、御言葉だけである。
しかし、それを分かった上で、クリスチャンは、カルト被害者のために熱心に祈り続け、彼らに寄り添うことを心がけて欲しい。多分、初めは拒絶されたり、不信感だけが返って来て、上手く行かず、当惑を覚えることもあるだろうと思うが、それでも、寄り添うことを続けて欲しい。そして、傷つけられて教会の外に打ち捨てられた羊たちが、一人でも多く、信仰に立ち戻るように、絶望の淵に立たされている人々の心に、少しでも早く、御言葉の光が届くように、祈って、呼びかけて欲しい。なぜなら、それが遅れると、死を選んでしまう人たちもいるからだ…。教会の中に戻ることが必要なのではない、キリストの十字架の救いに連なる者となることが何より必要なのだ。
もしも善良で心あるクリスチャンがいるならば、どうか私のためにも祈って欲しい。先にお祈りをお願いした被害者と全く同様かそれ以上に、私自身もいまだ被害から抜け切れていないためだ。張り詰めた生活のために生じた極度の疲労は今も抜けないし、将来の不安、失業問題もついて回っている、その上、家庭的な問題と信仰の迫害があり、幾度も人に利用され、捨てられてきたゆえの孤立無援感、そういうものに苛まれないで暮らせる日は一日もない。これは今、私の力では解決することができない諸問題である。もしも主のためにそれを耐え抜くのが私の仕事なのであれば、そこから逃げようとは思わないが、けれども、もしこれらの重荷が軽減される恵みをいただくことができるなら、幸いに思う。
すでに私のために祈って下さっている方がいらっしゃることは分かっています。けれども、さらに協力をお願いしたいのです。私の弱さのために、また、私と同様の苦痛を耐え忍んでいる被害者たちの環境改善のためにどうかお祈りください…。
さて、今日は懐かしい賛美歌を一曲紹介する。
キリスト教界でつまずかされた信徒たちが、一人でも多く、十字架に戻れるようにとの願いをこめて。また、同胞クリスチャンには、共に御国に入る時まで、十字架をしっかりと離さず、心の中で握り締めて、人生を最後まで歩み抜きましょうとの願いをこめて。
「十字架のかげに」聖歌 396番
十字架のかげに いずみわきて
いかなる罪も きよめつくす
おらせたまえ この身を主よ
十字架のかげに とこしえまで
十字架のかげに ゆきしときに
み神の愛を さとりえたり
おらせたまえ この身を主よ
十字架のかげに とこしえまで
十字架のかげを 求めつづけん
けわしきさかを のぼるときも
おらせたまえ この身を主よ
十字架のかげに とこしえまで
十字架のかげを いかではなれん
みくにのかどに いる日までは
おらせたまえ この身を主よ
十字架のかげに とこしえまで
何度つまずき、何度神を裏切り、何度信仰を離れたとしても、人には生きている限り、十字架のみもとに立ち戻るチャンスが与えられている。希望を失って悲しんでいる人たちには、今日、あなたのために死んで下さった主イエス・キリストの十字架の救いを信じて魂の安らぎを得て欲しい。
「そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。
このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。
ところが、主は言われた、『わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる』。
それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱いときにこそ、わたしは強いからである」(コリントⅡ12:7-10)
人は誰でも弱さを持っている。人前では一生懸命、強いふりをしていても、弱点を持たない人は一人もいない。私は二人の信徒から全く同じような苦労話を聞いた。それは、彼らが人前で話すことを苦手としていたにも関わらず、牧師になるように教職者に願われ、説教を担当させられ、それが本当に嫌で嫌で仕方がなく、ついに逃げ出すようにしてその奉仕をやめたという話であった。
私にはその人たちの気持ちが痛いほど分かるような気がする。なぜなら、私も口下手であって、人見知りであり、社交家でないからである。10代の頃、日曜学校の引率を任せられたことがあったが、子供が相手であってさえも、私はどう振舞うべきか分からず、内心、当惑していた。ただ人懐こい子供たちの方で、私の至らなさをカヴァーしてくれたので大事に至らず乗り切れたのだと言って良い。
私の非社交性、人見知りが極端に現れた時があった。サマルカンドを旅行していた際、地元の人々から全く予想もしていなかった大歓迎を受けたのである。数え切れないほどの人々が一部屋に集い、一族郎党から注目の的にされてしまった。何とか、その場の雰囲気を明るいものに保って、話題を保って、やり過ごさねばならないと知ってはいたが、旅行の疲れ、気疲れ、人見知りがそのまま表に出てしまった。その大宴会の最後、私は、明るく陽気にふるまう友人の横で、まさに逃げ出したい一心ですべてを耐え忍んでいた。もう一言も発する気力がなかった。その時も、私を救ってくれたのは子供たちであった。疲れ切って、涙ぐんで帰途についた私の横を、犬を連れて、心配そうに子供たちが着いて来てくれた。気遣いばかりを要求し、体面を傷つけることを許さない大人たちに比べて、子供達の心の何と純真だったことか! 子供たちは一切の気遣い抜きで、ただ私の身だけを案じてくれていた…。
どうして私がそんなに口下手になってしまったのかと言えば、これには生い立ちが大きく関係しているだろう。私の子供時代の家庭の食卓を思い返しても、そこはまるで葬式か墓場のような場所であった。誰もしゃべってはならない、一触即発のような緊張した空気が漂っている、そういう場所が家族の食卓だったのである。こんな風にして教育されたものだから、食卓でののびのびした会話など、学びようがなかったのである。こうして文章を書くことはできても、私には日常会話の能力が圧倒的に欠落しているのだということは、子供時代には全く分からず、大人になってからやっと気づいた次第である…。
さらに、弱さを述べるなら、私は生まれつき斜視であり、距離感というものを全く知らない。3Dなどを見ても、私には分からないのである。そこで球技などは一切苦手としている。だが、幼い頃は、そんな言い訳も通用せず、軍隊式の無情な学校によって、他の生徒と同じように球技に参加させられた。その時に味わわされた屈辱感やむなしさの記憶は、生涯、消えることはないだろう。
外と関わることに対しての大きな恐怖感ゆえ、私の感性は早くから内に向けられたのだと思う。ものを書くこと、話を作ること、絵を描くこと、音楽に携わること…、物心ついてから私が熱中してきたのは、そんな一人遊びのようなことばかりだった。だからすでに10になるかならないかで着手していたそんな方面だけが、とりわけ発達して、後のものの発達は極端に遅れたのである。
こんな風にして、自分の弱さを数え上げていけばきりがないほどにある。もし私の能力を円グラフのようにして示すならば、まことにいびつな図が出来上がることだろう。ある面では、人並み以上の力を発揮できても、他の面では、人の半分以下の能力しか持っていない。それが私なのである。
自分の弱さのためにこうむった数々の嫌な場面の記憶は、今になってもなくならないが、それでも、近頃は、キリストの力が私の弱さに染み渡り、そこにこそ働いてくれるということが分かって来たので、以前ほど、弱点を気にせずに済むようになった。まだまだ気楽に構えるというところまでは行っていないが、ケ・セラ・セラ(露語ではАвось!)くらいの気構えにはなっている。
キリストを知って心から良かったと思うことは、もうこれ以上、頑張らなくて良いということが分かったことだった。弱さを見せても良い。いや、弱さは弱さのまま置いていいのである。それで人が私を受け入れてくれず、軽蔑を示したり、嫌悪を催して去っていくこともあるかも知れないが、少なくとも、人が私の弱さに対してどのような感情や反応を示すかということに、私は責任を持たなくて良くなった。キリストが私を無条件に愛して下さったので、私は人から愛されるために、自分を強くみせかける演技を絶え間なく続ける必要性から解放されたのである。そしてむしろ、自分の弱さを自覚するときに、「ここにキリストが働いて下さるんだな」と気楽に思えるようになった。人がどんな反応をしようと、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」という御言葉に安らぐことができるようになってきた。
思い出すだけで、泣きたいくらいに惨めな場面が、私の人生にいくつかある。思い出したくないほど嫌な場面がいくつもある。だが、主イエスが与えて下さった福音を思う時、あのようにすべてを自分の努力によって乗り切らなければならなかった失敗続きの、苦労だらけの生き方から、主がすべてをなしてくださるという生き方に変わることができた幸いを思う。
聖書を開き、その一ページを読むだけで、主がどれほど私を愛して下さったかという証拠がいくつも目に飛び込んで来る。まるで芳しい香水を吸い込むように、私はその言葉を飲み干す。他に何も要らない。どんな人の賞賛の言葉も、どんな人の愛の言葉も、御言葉が与えてくれる約束の力にはかなわない。たとえ全世界から存在を否定されたとしても、無一文となったとしても、それが何だろうと思うほどの圧倒的な御言葉の威力。
「わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱いときにこそ、わたしは強いからである」
パウロがそう言ったのは、「私はキリストのためにこれほどのものを捨てたのだ」と人前で誇るためではなかった。ただ、主への愛からそうしたのだった。私も同じようにしたい。キリストのために華々しく殉教し、聖徒の模範のように生きることを目指すのでなく、ただ主への愛から、すべてを捧げたいのだ。
私に残されている人生の時間はあまり多くないかも知れない(そんな予感がしてならないのだ)。能力も、レプタ一枚程度のものでしかないかも知れない。私の人生の最も良い時代の最も良いものはすべて過ぎ去ったのかも知れない。だが、残るもの全てをただ愛によって捧げるならば、主は喜んで私の差し出したものを受け取って下さるだろう。主が喜んでくださるなら、私は自分の命そのものを捧げて構わない。私の命も、身体も、すべてはもとより主からの借り物なのだ。だから、どうせいつかお返ししなければならない時が来る。もしもそれを自主的に今、主にお返しすることで、主が少しでも喜んでくださるなら、私はぜひそうしたいと思う。
「キリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう」
以前はただ自分の弱さのために苦しんでいただけであったが、今はその弱さをキリストのために役立てることができるようになった。その恵みをどんなに感謝しても足りない。
皆さん、ご存知でしょうか。これまでにカルト化教会で受けた深刻な被害から勇敢に立ち上がり、偽教会からの報復をものともせず、偽教会の悪事を公然と訴えて来られたカルト被害者たちが、今、生きることさえ困難なほどの深刻な精神的・経済的苦難に見舞われているという情報が、次々と寄せられます。
今、二人のカルト被害者のために、どうぞ熱心なお祈りをお願いいたします。
①一人は、カルト化教会で長年に渡り、過酷な奉仕を強いられ、貴重な人生を奪われながらも、脱会後、勇敢に立ち上がられて事実を訴えて来られた若い女性です。薄給で重労働を強いられる派遣地獄のような環境で働きながら、信仰を維持して穏やかな教会生活を送り、主に仕える抱負を持って歩んで来られました。実家はキリスト教とは異なるカルト宗教の影響を受けているため、信仰を迫害され、経済的支援を全く受けられない状態にあります(私自身がまさに同じ生活をして来たので、これがどれほど想像を絶する苦労であるか理解できます)。
職場でのパワハラに耐えながらも、懸命に働いて来られたのですが、歪んだ環境が苦痛が限界に達し、心身ともに限界に近く、いつ不注意ゆえの交通事故などが起こってもおかしくないほどの極限的な疲労状態に追い込まれています。今の職場にとどまることが御心ではないと判断して、転職を模索されていますが、どうかこの方の健康が主によって守られて、新しい安全な仕事が見つかるよう、お祈りください。
②もう一人は、カルト化教会でボロボロになるまで搾取され、利用されて、心に大きなダメージを負わされた若い男性です。この方も、カルト化教会の悪事について、勇敢に訴えて来られましたが、心身の疲労がついに限界に達して休んでおられます。しかしこの方もまた、ご家庭で信仰を迫害されており、しかも家庭で暴力が頻発し、生活の安全さえも脅かされる状態に暮らしておられます。今、教会で受けた様々な痛みと向き合う苦痛の上に、家庭の事情から来る困難が追い討ちをかけているような状態で、疲労困憊しておられます。
今まで、記事の中で訴えてきたように、ニッポンキリスト教界の歪みに気づいて、そこから抜け出し、声をあげることができた信者は幸いなのです。しかしこれらの、真実に気づいて、主の御元に立ち戻った信仰者たちが、今、考えられる限りの方法で追い詰められ、迫害されている現状があります。
クリスチャンは世の光です。この真実の灯火が世から消えてしまってはなりません。もしそうなれば、残るクリスチャンも、真っ暗闇の中に投げ出されることになるでしょう。クリスチャンはどこにいても共にキリストの御身体の一部なのです。どうぞこのお二人の兄弟姉妹方の心身の健康が主によって守られ、主の特別な慰めと守りの御手が置かれるよう熱心にお祈りください。
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