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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

神に疎外された者たちによる神への復讐の哲学としてのグノーシス主義ー映画"MISHIMA"から③

・あらゆる制約からの解放を目指すグノーシス主義は、肉体を制約から解放しようとして肉体からの解放を目指すというパラドックス

さて、三島は自分の美意識が己が肉体を疎外しているという事実を解消するために、肉体を鍛えることで、自分の肉体を、美意識が求める水準まで引き上げ、それによって、自己嫌悪、自己疎外から解放されて、「言葉」と「体」の両方を永遠の完成の域にまで高めることができるかのように考えた。

ところが、結局、その方法では、決して彼は自分自身を統合することはできないどころか、望んでいるのとは正反対の結論だけが出ることになる。

『金閣寺』において、すでにその予表が表れていることを私たちは見て来た。主人公が破壊した金閣寺は、「永遠の女性美」の象徴であると同時に、三島の美意識のシンボルでもある。いわば、それは三島にとっての「神」である。

主人公にこの「永遠の女性美」を破壊させることによって、三島は、自分を無意識に縛って来た祖母の言葉を否定し、「母なるもの」の呪縛から自分を解放しようとしたのだとも言える。

だが、三島が自らの美意識を否定することは、自分自身を否定することを意味するがゆえに、その試みは決して成功に終わらず、「母殺し(=神殺し)」は、結局、「自分殺し」を暗示するだけである。

三島は、美意識によって悪とみなされていた自分の体を救い出すために、美意識の中から、究極の美を奪い取って、それを自分の体に分与し、それによって、自分の中で美意識(言葉)と肉体を対等な地位につけようとしたのである。

「言葉と肉体を融合させる」と言えば聞こえは良いが、その本質は、「簒奪」である。それは、堕落した「肉体」が、「言葉」からその美しい本質を奪い取り、あたかも「言葉」と対等な存在であるかのようになりすまし、己が堕落した本質を、聖なるものであるかのように見せかけ、有限なものを、無限なものであるかのように見せかけようとするトリックなのである。

三島は言う、「私は美しい作品を作ることも、自分が美しいものになることも、その道理は同じなのだと見つけた。

だが、彼が主張していることは、不可能事であって、このようなグノーシス主義的錬金術によって、人が自らの肉体を永遠の存在に高めたり、自己を神と並ぶ存在としようとすることはできない。

そこで、そのような試みは、かえって目指していた目的と全く逆の悲劇を招くだけであり、その原則が、『鏡子の家』で、よりはっきりした形で表れる。

『金閣寺』では宮という形を取っていた「永遠の女性美」は、『鏡子の家』では、「鏡」という、まさにグノーシス主義の象徴となって登場する。しかも、その「鏡」は、幾人もの女性たちの姿に擬人化されて、主人公に群がり、彼の像を簒奪する。

『鏡子の家』の主人公の一人である俳優は、顔には自信があっても、体には自信のない男である。そこで、彼は役欲しさに、他者の目に映る自分の姿をもっと立派にしようと、ボディビルを通して体を鍛えて自信を取り戻そうとする。
 


男:「ちくしょう。顔だけじゃダメなんだよ。体なんだ。もっと筋肉がついてればな。闘牛士みたいに。そしたら、体中、顔にしちまえるのにな。」
女:「何馬鹿なこと言ってんのよ(笑う)。」
男:「俺、ボディビル始めるんだ。」
女:「あはは」
男:「ほんとだよ(手鏡を開いて自分の顔を見つめる)」
女:「ダメよ、ダメダメ。これ以上モテたら許さない。昨日の夜だって何よ。ケイコなの?マサコ?白状しなさいよ。また新しい子でしょ?ほら、弱虫、男が泣くわよ。」
男:「いい加減にしろよ。(女に手鏡を奪われる)何?」
女:「いいの。あたしが見てあげる。(手鏡を逆向きにして自分を映しながら)これがあなたの髪。これがあなたの顔。これがあなたの胸。ね、鏡見るよりずっとよく見えたでしょう?

 

ここでも「鏡」が、主人公を客体化して、その弱さを残酷に映し出すことで、主人公を世界から疎外する役割を担っている。主人公は「鏡」を見つめ、そこに映し出された自分の弱々しい肉体を見てため息をつく。

そうして主人公は、「鏡」に映し出された自己の弱点を、現実であると認めて受け入れたことをきっかけに、その後、「鏡」を見る度に、さらに次々と自分の弱さを見せつけられ、弱さを質に取られ、「鏡」の奴隷とされて支配されて行くのである。

しかも、彼がまだ「鏡」に映る自分の弱さを克服することが可能だと思っていた頃から、彼の気づかぬところで、「鏡」を通して、彼の存在の乗っ取りが起きていた。

主人公は、「鏡」に映る自分の弱さを見つめながらも、この先、ボディビルを通して理想的な自己を手に入れるのだから、この弱点を克服した後で、もっと良い自分の像が手に入ると考えて喜んでいる。

ところが、主人公のそばにいる女は、彼が手鏡を持ち出したのを幸いに、その手鏡をくるりと反転し、そこに彼の見たかった理想的な自己像ではなく、彼女自身の像を映し出す。

それは彼より美しいかも知れないが、彼よりも弱く、抑圧されており、行き場を失った怨念を抱える彼女の像である。女は男の自由を妬み、男を独り占めしたいと思いながらも、それができないゆえに、嫉妬と怨念を抱え、男を束縛するために、彼が持っている「鏡」を反転して、そこに自分の姿を映し出し、「それがあなただ」と言う。

ここに、霊的な文脈で、グノーシス主義的な「存在の簒奪と転換」が起きており、彼と彼女が入れ替わっている。より強くなってより自由になり、自己の尊厳を取り戻そうと願う男を、そばにいる女は、嫉妬の眼差しで見つめ、復讐心から、男が取り戻そうとしている完全な自己像を、こっそりと、不完全で抑圧された弱い女自身の像に取り替える。そして、それを機に、抑圧された自分の怨念と弱さを、その像を通して彼の中に注ぎ込み、転嫁する。

その時、すでに弱い者(女)が強い者(男)の存在を乗っ取り、否定し、弱い者(女)が強い者(男)と入れ替わって支配するというグノーシス主義の原則が成立している。

こうして、「母なるもの」の呪縛から逃れるために強くなろうと思っていた主人公は、「鏡」を見つめる度に、どういうわけか、ますます深く「母なるもの」の呪縛に自分を乗っ取られ、弱くなって行く。

主人公は体を鍛え、弱点を克服して勝利をおさめたと思い、母親に立派な体を自慢する。ところ、その直後に、さらなる「存在の乗っ取り」が起きる。

「鏡」を通して女に自分の像を乗っ取られた彼は、今度は、自堕落な母親がこしらえた借金という罪を、身代わりに背負わされていた。取り立て屋の前には、鍛えた体も全く通用しない。惨めに床に打ち倒された彼は、鏡を呆然と見つめるが、そこには、望んでいた立派な自己像とはかけ離れた、さらに弱く、惨めになった自分自身が映っていた。

 

 

こうして、彼は鏡を見つめる度に、望んでいた強さとは正反対の、ますます弱く、醜く、恥ずべき、厭うべき存在となった自分自身を見いだすのである。

それでも、彼が鏡の中に発見された自己の弱さを何とか克服しようともがくうちに、ついにそれまで彼の像を次々と簒奪して来た「鏡」が、女性の姿をして擬人化して現れる。

「鏡」は、高利貸しの女という人格になって現われ、借金という彼の弱みを足がかりに、ついに彼の全人格を支配した上、彼の存在をまるごとのみ込んで消し去る。

 


「ねえぼく、今分かったんだけど。長年、探し求めていた人が、やっと見つかったんだ。もう鏡なんか見なくたっていいんだ。今、ここに自分がいるんだって、はっきりと感じるんだよ。
「じゃあ、とことんまでつきあってくれる?死ぬのもよ。血の中でのたうち回って、動かなくなるまで、ちゃあんと見届けてあげるから。まあ、その後であたしは、毒なんか飲んで」
「いいけど。まかり間違っても、キスなんかしないでよ。ちゃんと死ぬまではね」

 

むろん、ここで母親の借金を理由に、主人公に奴隷契約を結ばせて、命まで差し出すことを要求する高利貸しの女は、グノーシス主義的な「虚無の深淵」である。

主人公は、この女に出会うまでの間にも、周囲の女たちや世間の眼差しという「鏡」の中に、次々と自己の弱さを質に取られて来たのだが、ついに虚無の深淵それ自体が現れて、借金を棒引きにして彼を弱さから「救済」するという名目で、彼自身の存在をまるごと対価として要求し、滅ぼした。

グノーシス主義の「鏡」とは、至高者が自らの似像を被造物として生み出すためのツールであるだけでなく、被造物の側から、妬みによって至高者の像を盗み取り、弱い者が強い者の像を奪い取り、強い者になりすまし、支配するためのツールだということを述べて来た。

そこで、この教えを信じる人間は、ちょうどグノーシス主義の真の至高者が、自分よりも下位の被造物から存在を盗まれ、流出させられたと同様、自分も「鏡」を通して、自分よりも弱い者から、無限に存在を盗み取られることを避けられない。

「女」たちは、主人公に群がり、「愛」や「慈悲」や「同情」の名のもとに、主人公の弱みを握り、それをもとに、さんざん主人公の像を奪い取り、主人公が望んでいた理想像の代わりに、自分たちの弱い像を彼に押しつけ、主人公の心の空洞に、自分たちの弱さや怨念を注ぎ込む。

そのため、主人公は強くなろうと願っているのに、「鏡」を介して、強い者と弱い者、抑圧する者とされる者、疎外する者とされる者、加害者と被害者が転換し、強くなるどころか、自分よりも抑圧されて疎外された者たちの怨念が、一斉に主人公の心に注ぎ込まれ、主人公はいけにえとして支配される。

グノーシス主義の「父なる神」はフィクションであって、実質的には存在していないと言って良い。「鏡」とは、真の至高者(原父)と同一視されるものの、その「鏡」は虚無の深淵であるから、そこに真の至高者の姿はなく、あるのは被造物の像だけである。そこで、グノーシス主義における真の至高者としての「神」は、「女の姿」をしている。

要するに、グノーシス主義の教えの中に「父なる神」は存在せず、ただ神の似像として「鏡」に映し出された被造物だけが存在する。被造物が「神」になりすまし、「神」のように振る舞っているのである。

ソフィアが「父なる神」の像を簒奪することを正当化した瞬間から、グノーシス主義における「父なる神」は、被造物に存在を乗っ取られ、事実上、消え失せた。その後は、被造物が神になりすましているだけなので、グノーシス主義の至高神は、女の姿になるのである。

このように、グノーシス主義は、被造物を神とする「母性崇拝」(イゼベルの霊)の教えであり、簒奪を正当化する教えである。弱い者たちが強い者たちの存在を怨念によって奪い取り、強い者を乗っ取ることを正当化する教えと呼ぶこともできよう。

このように、グノーシス主義の至高神は、被造物崇拝の「イゼベルの霊」であり、それは嫉妬と怨念を抱える霊である。この霊は、コンプレックスや弱さや被害者意識を抱える人間を探し求め、見つけると「愛」や「同情」や「救済」の名の下に、彼らの心を支配する。この霊は、人を解放するように見せかけながら、極端なまでに彼らの傷を押し広げ、二度と立ち上がれないように、自分の支配の中に閉じ込められてボロボロにする。そして、最後にはこれをいけにえとして、存在を乗っ取る。

結局、「父なる神」の像を、被造物が妬みによって奪い取り、自ら「父なる神」になりすますというグノーシス主義の教えを信じてしまうと、それを信じた人間も、自己の像を自分よりも弱い者に果てしなく奪い取られながら、最後には、自分よりも弱い者の怨念に飲み込まれて自己を喪失して終わるしかないのである。

さて、グノーシス主義では、表向きのヒエラルキーと影のヒエラルキーというダブルスタンダードがある。表向きには、「父なる神が家を統御している」かのようなフィクションが作り出され、「男性中心の秩序と支配」が成立しているように見える。だが、それは見せかけだけの秩序である。

グノーシス主義における「父が社会を統御する」というストーリーはフィクションであり、これは実質的に、「母の側からの乗っ取り」によって破壊され、現実には「無限大の権威を持つ母なる存在による支配」だけが正当化されるからである。

従って、グノーシス主義が男尊女卑の教えであるように見えることがあるとすれば、それはヒエラルキーの末端で起きている出来事であるか、見せかけの秩序でしかない。グノーシス主義のヒエラルキーの頂点には、常に「母なる存在」があり、これはヒエラルキー転覆の教えなので、延々と簒奪と秩序の転覆が繰り返される。

たとえば、最近、相撲協会が女性の土俵入りを禁止していることが、男女差別として話題になっているが、ほとんどの閣僚を、戦前回帰を唱える日本会議に占められている現在の我が国政府には、グノーシス主義的世界観が蔓延している。

そこで、このような国で、男尊女卑が支配しているように見えるのは、ほんの表面的な出来事でしかない。 その証拠に、トップを見れば、何の権限もないはずの「私人」である総理夫人が、首相以上の権限を行使して、国を陰から支配している。さらに、首相夫人のみならず、首相の母も「ゴッドマザー」などと呼ばれて影の実権として国を支配している。

それらの女性たちの国政への関与は、表向きにはいかなる法秩序にも基づいておらず、完全に公の秩序の枠外で行われているため、一体、その女性たちが、どれほど国政に絶大かつ重大な関与を及ぼしているのかは、誰にも分からない「ブラックボックス」となってしまっている。

こうして、表向きには戦前回帰だの男尊女卑だの、古めかしい秩序に支配されているようにみえるかも知れないが、我が国いおいて、男たちが作り出す表向きの秩序は、すでに「マザー・コンプレックス」によってすっかり形骸化・骨抜きにされており、結局、「母なるものによる支配」がいかなる法にも決定にもよらず、実質的に国を陰から動かすことがまかり通るという、とても民主主義国家とは思えない、まるで古代社会への逆行のような現象が起きているのである。

こうして、表向きの秩序は男たちによって占められているように見えても、その公の秩序が、実質的に、陰の秩序によって乗っ取られ、骨抜きにされ、もはや全く正常な機能を失ってしまっているのが現状である。

『鏡子の家』では、「鏡」を通して、女が男に置き換えられ、男が女に飲み込まれて消えるという、「男女の秩序の逆転」が起こっている。そこには、当然ながら、「被造物に過ぎない人類(霊的女性)が、父なる神(創造主)の像を簒奪し、自ら神になり代わる」という、グノーシス主義のお決まりの反逆の筋書きが表れている。

だが、そのプロットの中には、一人の人間における「霊」と「肉」の秩序の逆転も暗示される。

体を鍛えることで、コンプレックスから解放されて、肉体を永遠の理想状態にまで高めようとした主人公は、三島の分身でもある。だが、三島が、理想的肉体を手に入れることで、自己嫌悪から逃れることができたかのように考えられたのは、ほんの束の間でしかなかった。

祖母の言葉の呪縛からようやく逃れられたと思った途端、彼を縛っていた祖母の呪縛は消えるどころか、ますます巨大化し、三島が抗うことがほとんど不可能なまでの限界となって目の前に立ち現れた。

体の弱さを克服した先には、「老いと死」という、彼がどうやっても自力では克服することのできない、さらに大きな壁が立ちはだかっている。

焼き払ったはずの「金閣寺」は、消えていなかったどころか、より巨大化してよみがえり、相変わらず、彼に被造物としての惨めな限界を突きつけ、答えを迫る。

 



「夏雄ちゃん」
「いらっしゃい」
「やあ、どうしてたんだよ」
「いや、ボディビル始めたんだよ」

「へえ?」
「夏雄ちゃんの方はどう?相変わらず、描いてるの?」
「やってるよ」
「夏雄って、山形夏雄さん?日本画の?」
「ええ」
「この前拝見しましたよ」
「ああ、そうですか、どうも」
「まあ、人間の体描かないだけ、まだ許せるけど?」
「別に悪気ないんだよ。今ちょっと武井さん、彫刻の話してたからさ」
「ふーん、どんな話?」
「いやだからね、たとえミケランジェロでも、ロダンでも、結局は人間の体を石か何かで彫るわけだ。現に生きた人間の体ってもんがあるってのに。要するに、芸術家なんて要らないんだよ。」
「それじゃあ、武井さんが正しいとしましょうか。歯を食いしばって、汗を流して、その生きた芸術作品が出来たとしますね。しかし、それが老いさらばえることはどうするんですか。その美しさはどうなるわけ。作ったあなたが、それをどうにかしなきゃならないんだから。だから、一番美しい時に、死んでしまえばいいんですよ。

 

こうして、三島の思想の中に、ついにグノーシス主義者が決まってたどり着く「肉体の牢獄から霊を解放する」という究極的結末が、はっきりと形を取って浮かび上がる。

肉体の悪なることを否定して、自分自身を自己嫌悪から救うには、ただ体の弱さを克服し、健康的な衝動に従って生きるだけでは全く不十分であり、結局、死という肉体の限界そのものから解かれることによってしか、自己の弱さから逃れる道はなかったのである。

そのためには、自分の肉体そのものを滅ぼすしかないというパラドックスが明らかになる。

肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。神の霊によって導かれる者は皆、神の子供なのです。」(ローマ8:13-14)

キリスト者ならば、「霊によって体の仕業を絶つ」ことを知っているため、自己の弱さから逃れるために、肉体を滅ぼす必要など全くないことが分かっている。だが、信仰のない三島には、死を超越して生きることは不可能であり、それが可能であるかのように見せかけるためには、さらなる錬金術が必要となる。

彼に選択できるのは、自ら死に方を選択することで、死を支配しているかのような体裁を装うことだけである。自分の望み通りの死を演出することによって、肉体という限界そのものから、自己を解き放つ儀式を完了することだけである。

せめて無様に老いさらばえて、自己の弱さに飲み込まれるという、ありふれた当然の結末だけは避けたい。だが、青年期を過ぎている以上、「一番美しい時に死ぬ」という選択肢も、彼にはもはや残っていなかった。

三島に出来ることは、自分の死を、単なる老いや病の不可避的な結果としてではなく、自主的な決断・選択と見せかけた上で、なおかつ、その死の中に、「言葉による理想を究極的に実現し、言葉と肉体の区別を取り払う」という大義を持たせることで、自らの死を単なるありふれた死でなく、永遠性を持つ非日常的な宗教行事のレベルにまで高めることにしかなかった。

そのために、天皇のための「殉死」という概念が作り出されるのである。

<続く>

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神に疎外された者たちによる神への復讐の哲学としてのグノーシス主義ー映画"MISHIMA"から②

・霊肉二元論の悲観的な世界観―「イゼベルの霊」(東洋的母性崇拝)がもたらす心の呪縛

さて、先に述べたように、Paul Shrader監督の映画に描かれる三島由紀夫の人物像には、グノーシス主義がもたらす精神的病の一つである歪んだ自己愛、ナルシシズムがよく表れている。
 
このような歪んだナルシシズムは、グノーシス主義がもたらす「マザー・コンプレックス」と密接な関係があって生まれて来るものである。

グノーシス主義とは、「母なる神」(被造物)が「父なる神」(創造主)を妬み、これを否定して、神としての性質を奪って、自ら神となる物語だということは幾度も述べて来た。グノーシス主義の究極的な目的は、そのような「妬む母」(怨念を持つ母)の子孫として生まれた人類が、自ら「父なる神」の子孫であると宣言して神に回帰することで、「母の過ちを修正する」ことにあるということもすでに述べた。

言い換えれば、「尽きせぬ怨念に支配される母」とその母の怨念を一身に背負わされて運命共同体となった「子」が、一体化して自ら神になろうとする思想が、グノーシス主義なのである。

そこで、グノーシス主義思想の担い手となる者たちは、幼少期から、自らの家庭において「イゼベルの霊」から怨念を注ぎ込まれ、「母なるもの」の支配を受けて、深刻な「マザー・コンプレックス」に陥っていることが少なくない。

そのような者たちは、すでに幼少期から、「母なるもの」との間で、何らかの心の傷を介した悲劇的な心の絆(癒着)が出来上がり、まるで運命共同体のように「母」と互いを束縛し合う関係が成立していることが多く、それが彼らの生涯に渡る「母なるもの」の支配の原型となって行くのである。

映画"MISHIMA"では、三島由紀夫が生まれて数ヶ月で母のもとから取り上げられ、その後、祖母の精神的支配を受けて育った様子が描かれている。

 

「幼少の頃、私は絶えず窓辺にたたずみ、外で思いがけないことが起こる日を、しきりに待ちわびていた。自分の力では決して変えようのない世界を、じっと見つめながら、世界が向こうから変わってくれるのを熱望していた。生まれて50日目に祖母は私を母の手から奪い取った。」

「病が悪化する祖母を看護する私に、祖母は様々な歌舞伎の話をして聞かせた。遊び相手も外出先も、祖母によって厳しく限定されていた。」



この映画を観る限り、三島の幼少期は、母からではないが、祖母という女性による精神的統制と支配を受けたゆえに、まるで牢獄や隔離病棟に閉じ込められたかのように、息苦しいものであった様子が分かる。

祖母は、三島を母のもとへ返さず、自分に満足をもたらす道具として、片時も離さずそばへ置こうとした。そのため、彼女は、うわべだけは同情を装いながら、「ぼうやはなでしこのように体が弱い」と言い聞かせ、三島をマインドコントロールすることで、三島が、自分は病弱な人間であって、外界との接触になど耐えられないという嘘を信じるよう吹き込むのである。

子供ゆえに祖母の言うことを疑えなかった三島は、祖母の言葉を真に受けて、自分の体には病弱という大きな欠点があるのだと思い込んでしまう。だが、外出の予定も、友達選びも、すべてが祖母によって干渉され、支配される日々は、三島にとって耐えがたく、彼はいつか外界で何かが起きて、自分を閉じ込めているカプセルのような世界が打ち破られることを熱望する。

ただ一つ、祖母が許してくれた娯楽である歌舞伎だけが、幼少の三島が自力で閉塞した世界から逃避する手段であった。歌舞伎の舞台は、言葉を通じて現実を塗り替えることのできる芸術の世界が存在することを彼に教え、芸術の世界に彼の心を誘い出す。

「子供の頃、すでに私は、世界が二つの相反するもので出来ているのだと感じていた。一つは、世界を塗り替えることのできる言葉、もう一つは、言葉とは全く関係のない現実の世界。世の常の人は、体が先に出来て、そして言葉を覚えるのであろうに、私の場合は、言葉が先に来た。」

「舞台はあらゆるものを美しく塗り替えた。男を女に変え、世界中を塗り替えることができるのだった。」

三島は、早くから目の前に広がる現実を悲観的に見て、その現実が自分を疎外しているととらえ、これを「言葉によって塗り替える」ことを切望していた。

三島にとって、現実世界は、憎むべき混乱と矛盾に満ち、理想からはほど遠く、何の意味も見いだせない、牢獄のように彼を閉じ込めるものである。

彼は、なぜ自分が、他の子供たちと同じように何も考えずに思うがままに現実に生きることができないのか、なぜ現実から疎外されていると感じるのか、なぜ思索によって現実世界から隔てられ、自分自身をも嫌悪しているのか、理解できない。

そして、彼にとっては、自分の貧弱な体も、憎むべき現実世界の一部である。
 
三島は、祖母の精神的支配が、自分から自分らしい生き様を奪い、自分を世界から隔離し、他の人々からも疎外される原因を作り出しているとは気づかないまま、どうすれば自分と他の人々を隔てている壁を取り払うことができるのかと考える。
 
そこで、彼は世界を眺め、男が男であること、女が女であること、自分が自分であることを憎むべきことと考え、男女の区別、自他の区別、言葉と体の区別など、多くの区別が人間を疎外しているのだと考える。

そして、いつかはそうした隔ての壁がことごとく打ち破られて、すべての区分が取り払われ、対極にあるものが一つになって、自分が世界と一つとなって、自分を疎外している牢獄から解放される時を待ち望むようになる。
 
三島はそうした多重の疎外から成る憎むべき世界を、「言葉」によって、芸術を通して塗り替え、統合できると考えた。

彼にとっては、「言葉」の中にこそ、永遠の理想的な世界へ通じる扉があり、創作を通して、閉塞した世界からの逃げ道を見つけることが可能であると感じられる。

彼は文体を磨き、これを改造し、自分の作り出す芸術の世界を絶えずより洗練されたものにすることで、そこで作り出された美しい世界を、逆に現実に適用しようと考える。

こうした三島の世界観は、全世界が悪しき神(ヤルダバオート)のもとにあって悲惨に満ちており、天界へ復帰することがだけが救いであるかのようにみなすグノーシス主義の霊肉二元論の世界観ともおおむね一致する。

グノーシス主義は天的なプレーローマ界にこそ真のリアリティがあるとみなし、そこへ回帰することを終局的な目的とするのだが、三島の生涯も、人生を通じて、「言葉」と「現実世界」とのギャップを取り払い、両者を融合させることで、天界と現実世界とを融合させようとするものであったと言える。

だが、キリスト者ならば誰しも知っているように、十字架を介さずに天を地に引き下ろすことは不可能であり、それゆえ、グノーシス主義者に降りかかるのと同じ悲劇が彼を見舞うのである。
 
 
・疎外された者が疎外する者を否定的に乗り越える―悲観的な世界観の転換

太宰治のような作家が、厭世的な世界観を持ちながら、同時に、人間の奥深くに潜む罪の問題に気づき、罪悪感に苦しめられていたのに対し、三島は、祖母の心の中にも、自分の心の中にも、悪や罪の存在を認めなかった。

三島は、疎外されている人間自身に罪があるとは決して考えない。また、罪ゆえの疎外といった考えを持たない。そうなると、諸悪の原因は、人間自身の中にはなく、むしろ、人間を疎外している何らかの壁(区分)の側にあることになる。

三島は、自分を苦しめている諸問題の原因を、決して己の内にある罪に見い出すことがない代わりに、「自分を疎外している区分こそが悪である」とみなし、その区分を抹消することで、世界と自分とを再統合できると考える。
 
このようにして「自分を疎外する者の存在を否定的に乗り越えることで、自己疎外を解消しようとする」という発想こそ、グノーシス主義に典型的な発想なのである。

三島は、自分が病弱な人間であるという考えが、祖母によって吹き込まれた嘘であるとは長い間、気づかず、ただ鏡をのぞき込んでは、そこに映る自分の貧弱な体を見て、深刻なコンプレックスと自己嫌悪に苛まれていた。

彼はどうすればそのような自己嫌悪から逃れられるのかを考える過程で、「自分の美意識が自分の体を疎外している」と考えるようになり、自己の意識が自分の体を疎外しているという状態を取り払い、変えるための実験に着手する。むろん、それは実験というより、錬金術なのだが、ここに最初の目に見えるグノーシス主義的な転換が起こった。

美意識によって「見られる対象」であったはずの彼の肉体が、「見る者」である美意識から、その美なる性質を奪い取って我が物とし、「見られる者」が「見る者」と同化し、対等な地位を得ようとするのである。
 



「きみもぼくも美意識というものを持っている。きみが鏡の前へ立つと、その美しいものが見えて来る。それがぼくだと、もう目も当てられないんだ。だからもうからかうのはよしてくれ。」

「ハワイも近づいたある日、私はついに暗い洞窟から出て、太陽と握手したような衝動を覚えた。私はいつも、自分の中にある化け物のような感受性に苦しめられて来た。言葉の世界が、私を健康な肉体から切り離していた。その私を太陽が解き放ってくれた。ギリシアは私の自己嫌悪を癒し、健康への意志を呼び覚ました。私は美しい作品を作ることも、自分が美しいものになることも、その道理は同じなのだと見つけた。



三島にとって、彼の「美意識」(言葉)は「鏡」のように、肉体を「見られる対象」として客体化する役割を果たす。ここで言う「鏡」とは、まさにグノーシス主義のシンボルとしての「鏡」であって、次々と自分の似像を投影することによって数々の被造物を生み出す至高神を象徴する。
 
三島の美意識は、芸術の世界においては、思うがままの像を自在に作り出し、美しい世界を作り上げる。まさにグノーシス主義の神のような創造行為を行う。だが、その美意識は、同時に、現実世界の三島自身を、対象化して映し出す際、三島が望むような自己の像を映し出さず、むしろ、彼の弱々しい肉体を容赦なく映し出し、彼自身の弱さを暴露しては、彼を自己嫌悪させる。

三島は、自分の中にある「言葉の世界」つまり、自分の美意識が、自分自身を疎外しているという事実に耐えられなくなって言う、「私はいつも、自分の中にある化け物のような感受性に苦しめられて来た。言葉の世界が、私を健康な肉体から切り離していた。」と。

彼は、自分で自分の肉体を醜悪なものとみなして嫌悪するという、自己疎外の呪縛から逃れるために、自分の中で、何とかして言葉と肉体の二つを矛盾のないものとして融合させられないかと考え、「鏡」に映る自分自身の像を改良することによって、「美意識」が要求するのと同じ水準まで肉体を引き上げれば、美意識と肉体とが同一のものになり、言葉と映像(体)との間にある溝が埋まるのではないかと考えた。

そこで、三島は、自分の「体」を「言葉」と同じ芸術の水準まで引き上げるべく、健康を追求し、体を鍛え上げ、自己存在そのものを、芸術と同じ、理想的な存在にまで高めようとしたのである。

三島は、肉体改造に成功したことで、言葉を通して「美しい作品」を作り出すのと同じように、現実の自分自身を「美しいもの」に塗り替えることができたと錯覚する。

「私は美しい作品を作ることも、自分が美しいものになることも、その道理は同じなのだと見つけた。

こうして、グノーシス主義的な錬金術が行われ、「体」が「言葉」と対等な、美しい、善なる、永遠性を持つ存在にまで引き上げられる。

三島は、青年期を過ぎてようやく、自力で体の弱さを克服し、自分は弱すぎて外界の刺激に耐えられないという祖母の言葉の呪縛を振り切った。彼は感覚的な刺激に誘われるがままに、ためらいなく外界に飛び出し、「健康な衝動」に身を任せることで、「ついに暗い洞窟から出て、太陽と握手したような衝動を覚え」る。肉体の衝動を解放することで、それまで自分を縛って来た自己疎外の呪縛からようやく解放され、あるべき自分自身を取り戻したように感じたのである。

だが、こうした三島の行動には、ただ単に自分の弱さを克服するという目的を超えた、決して我々が無視することのできない、重大な危険をはらむ恐るべき目的が込められていた。それは、彼が、理想的な肉体美を追求することで、かつては目も当てられないほど厭わしく感じられ、「悪」でしかなかった自分の肉体を、あたかも「善なるもの」「聖なるもの」「永遠のもの」であるかのように、完成の極致へ導き、それによって、「体」の堕落を否定し、かつ、「言葉」と「体」とが対等な地位にあって、あたかも両者が融合可能であるかのように主張し、「霊」(言葉)と「肉」(体)の区別を否定し、「言葉が体を支配し、統御する」という、聖書的な動かせない主従関係や秩序を否定し、覆そうとしたことである。


三島のこのような発想は、当ブログでかつて取り上げた女性解放神学者リューサーの考えにも通じる。当ブログでは、解放神学が、キリスト教を換骨奪胎して作られたグノーシス主義であることはすでに述べたが、リューサーが伝統的なキリスト教の「二分性」に、激しい憎悪と非難の言葉を浴びせながら、キリスト教が人間の肉体および肉欲を堕落したものとみなしていることに、とりわけ強い抵抗感を示したことも説明した通りである。
  

(伝統的キリスト教における)「救いとは、肉的なものを抑えることによってくるものであると解釈される。肉欲と感情の抑制、そして内的・超越的・霊的自己への逃避。食べること、眠ること、入浴さえもが、また、視覚的・聴覚的楽しみ、そして何にもまし て、一番強烈な肉体感覚である性の喜びなどが真の『悪魔の住処』とされた。文字通り、死の倫理を形成したのである。救いは死を目指しつつ生涯かけて『苦行』を実践することによって与えられる『魂の肉体からの分離』である。創造を堕落と見るグノーシス主義的思考を訂正しようとして苦心したにもかかわらず、 キリスト教はその同じグノーシス的精神性の多くをそのまま保存するにとどまった」(『解放神学 虚と実』、勝田吉太郎他著、(大石昭夫著、「解放神学の基本構造」)、荒竹出版、昭和61年、p.61-62)。

 

ここで、リューサーが、肉欲を堕落して罪深いものとみなす伝統的なキリスト教の考えを、あたかもグノーシス主義的精神から来る誤謬であるかのようにみなして非難していることには、特別な注意が必要である。

なぜなら、「肉欲および肉体を罪深いものとして嫌悪し、軽んじることは、グノーシス主義的な霊肉二元論の発想である」という彼女の主張は、根拠を持たない決めつけだからである。

こうした言説は、今日でもクリスチャンの間でまことしやかに広まっている。グノーシス主義が、人間の肉体を、神聖な霊を閉じ込める牢獄とみなし、肉体からの解放を究極目的としていたという認識を利用して、肉体を堕落したものと考えること自体を、グノーシス主義的な概念だと決めつけて、「体の復権」を求めようとする人々がいる。そうした中には、「肉体は中立である」(Dr.Luke)という考えもある。

だが、聖書は、はっきりと人間の魂および肉体を堕落したものとみなしているため、肉体の堕落を認めず、肉体を「中立」とみなすような考えは、聖書に反している。
 
そこで、肉体を堕落したものとみなす考えは、決してリューサーの言うように、グノーシス主義的な考えではなく、むしろ、肉体の堕落を認めない考えこそ、以下に記すように、真理に背く虚偽であって、グノーシス主義的発想であるため、注意しなければならない。
 
グノーシス主義は、人間を「霊」と「肉体」の二つの部分から成ると定義しているのに対し、キリスト教は、人間を「霊」「魂」「肉体」の三つの部分から成ると定義する。

こうして、キリスト教は霊肉二元論を取っていないという違いはあるが、しかし、聖書においても、大きく分ければ、被造物は「霊」と「肉」の二つに分類される(「肉」の中には、人間の「魂」と「肉体」の両方が含まれる)。

ここにおいて「肉」とは堕落の象徴である。「肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。」(ローマ8:8)

クリスチャンが知っている通り、人はキリストを信じても、贖われるのは、ただ霊だけであり、信者の「魂」と「肉体」は、信者が救われた後も、依然として堕落した「肉」に属するままである。

信者の魂と肉体が贖われ、信者が完全に新創造とされるのは、復活の時である、そうなるまで、信者はこの地上にいる限り、贖われた「霊」と、贖われない「肉」の二つの部分を合わせ持つ。

聖書において「肉」は徹底的に堕落したもの、贖われていないものの総称であり、サタンの作業上にしかならないため、もし人間が「肉」を通して、堕落した肉欲に支配されるならば、人は罪を犯し、死ぬしかない。

そこで、聖書は、信者にはキリストと共なる十字架において「肉に対して死ぬ」ことが必要であると言う。「霊によって体のはたらきを殺す」ことなくして、信者は堕落した肉の罪深い衝動に支配されずに、霊によって歩むことはできないのである。

肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。神の霊によって導かれる者は皆、神の子供なのです。」(ローマ8:13-14)

以上のことを考えれば、人間の魂と肉体を堕落した「肉」に分類し、「肉的なもの」が、罪深いものであるとみなすことは、何ら聖書に反せず、グノーシス主義的な概念でもないことが分かるだろう。

従って、リューサーが、「伝統的なキリスト教が、肉的なものを罪深いものとみなして否定し、肉体および肉欲を嫌悪していることは、グノーシス主義的な誤りである」と決めつけていることは、極めて重大な誤謬なのである。

彼女がそれによって、聖書における「霊的なもの」と「肉的なもの」の区別を否定し、肉の堕落という動かせない事実を否定して、両者を融合させようとしていることに気づかなければならず、そのような考えこそ、グノーシス主義的発想なのである。
 
(このように、リューサーの論は、グノーシス主義者にありがちな「さかさまの理論」になっているため、注意しなければならない。)
 
私たちは、これまで、聖書において、霊的な世界と肉的な世界は、決して交わらず、その両者を仲介することができる存在も、キリストを置いて他にないことを見て来た。

従って、グノーシス主義の神話のプロットが、創造主を「鏡」のような存在とみなし、創造主が「鏡」に自分の姿を映し出すことによって、被造物の創造が行われたかのように主張して、霊的な存在である神と、物質的存在である被造物との間に、「鏡」という架け橋を設定し、この架け橋を通した交流が成り立つかのように主張していることが、完全に荒唐無稽であることを見て来た。
 
グノーシス主義の神話のプロットに見るように、もしも創造主が自分の姿を何らかの「鏡」に映し出すことによって、被造物を生み出せると仮定するならば、この「鏡」さえあれば、被造物の側でも、いくらでも霊的世界から物質世界にリアリティを流出させることが可能となり、霊的な世界と物質的な世界の隔ては事実上、なくなり、両者はまるで一続きの世界のようになってしまうだろう。むろん、そこには、創造主に背いたがゆえの被造物全体の疎外(堕落)もなく、肉の堕落もない。そもそも「肉」と「霊」の区別そのものが消え失せる。

リューサーは、このようなグノーシス主義的神話のプロットに従うかのように、聖書における「霊」と「肉」の絶対的な区別に反対し、堕落した人間の肉体を、まるで罪のないもののように、神聖な霊の領域に潜り込ませようとするのである。

そのことによって、彼女が「肉」という滅びゆく旧創造を、こっそり十字架の罪定めと滅びから救い出そうとしていることが分かる。

後述するが、グノーシス主義とは、決して今日考えられているように、ただ単純に肉体に対する悲観的な嫌悪や侮蔑に基づいて「霊を肉体の牢獄から解放する」ことを最終目的とする教えではない。
 
グノーシス主義は、「疎外される者と疎外する者との区別を廃することによって、疎外された者が、疎外した者を否定的に乗り越える」という思想であり、この思想は、神と人との区別、男女の区別、霊と肉の区別といったすべての区分を廃し、対極にあるものを融合させることによって、多重疎外の状態を解消し、原初的統合を回復することを目的としているのである。

それゆえ、グノーシス主義の思想の中には、「肉を堕落したものとみなし、肉体および肉欲を罪深いものとみなして嫌悪することによって、人間が自分自身の中から不当に肉体だけを疎外するという状態を解消する」という発想も込められており、 リューサーが目指したのは、まさにそれであった。

彼女は、霊と肉の区別を廃止することによって、人間が自分の中から自己の肉体だけを罪深いものとみなして疎外するという「自己疎外の解消」を唱えたのであり、その点で、三島とリューサーの見解は、本質的に全く同じなのである。
  
この二人は、「体」を「言葉」と対等なレベルまで引き上げ、両者の区別を取り払うことにより、「肉」が排除されているという状態を終わらせ、「肉」を「霊」と同じように、善良で、罪のない存在とみなし、共に聖なる領域まで引き上げようとしているのである。

もちろん、クリスチャンはそんなことは絶対に不可能であることを知っている。二人が目指していたのは、結局、「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」(ヘブル11:3)という聖書の秩序を否定して、あたかも「見えるもの」(被造物)と「見えないもの」(神の言葉)が本質的に同一の性質を持つ、融合可能なものであるかのように主張して、堕落した物質世界の「被造物」とを、霊である「創造主」と同一であると主張することにあった。

このように、グノーシス主義の思想は、決して混じり合うことのないものを一つに「統合」することで、弱い者(疎外された者)が、強い者(疎外した者)の性質を簒奪し、これを乗っ取り、なりすますというものであるため、この思想の中には、「罪深いものとして排除された肉欲および肉体が、自分は霊と同じ性質を持っていると主張する」ということも含まれていた。
 
リューサーは、女性解放神学者として、女は男から造られたという聖書の記述に猛反対する。だが、何度も見て来たように、グノーシス主義者が、女が男から造られたという聖書の記述を否定するとき、彼らは暗に、被造物は創造主から作られたという聖書の秩序を否定して、人と神とは同一だと主張しているのである。

こうして、グノーシス主義者が、聖書の御言葉の持つあらゆる「二分性」を嫌悪・否定して、それが悪しき自己疎外をもたらしているので、その区分自体を廃止しなければならないと主張する真の目的は、結局、人間が、己を疎外した神を「否定的に乗り越える」ことにある。

つまり、そこには、人間が、自分を疎外した神に対して、怨念と嫉妬に基づく復讐を企て、自分は神と同一であるから、神が自分を疎外しているのはおかしいと主張して、神の性質を奪い取り、神を乗っ取り、自ら神になり代わるという簒奪と破壊の願望があるのである。

肉体を言葉のレベルに引き上げるというのは、そのための第一歩である。
 
<続く>


神に疎外された者たちによる神への復讐の哲学としてのグノーシス主義ー映画"MISHIMA"から➀

さて、二つほど前の記事、神に疎外された者たちによる神への復讐としての「エクレシア殺し」の中で触れた、Paul Shrader監督の"MISHIMA: A Life in Four Chapters"について、もう一度、補足しておきたい。
  
残念なことに、以前に記事で紹介した動画はすでに削除されているため引用できないが、この映画を改めて見直してみると、三島作品の中には、至るところにグノーシス主義のシンボルがちりばめられていることが非常によく分かる内容である。
  
三島由紀夫が自分をグノーシス主義者だととらえていなかったとしても、三島作品にグノーシス主義のシンボルがふんだんにちりばめられ、かつ、三島自身の生き様の中に、グノーシス主義の思想がまざまざと体現されているのは全く不思議なことではない。

なぜなら、グノーシス主義は、厭世的で悲観的な哲学であり、政治や社会の情勢が不安定となり、人々の心のよりどころが失われるような状況があれば、いつの時代にも、どこの場所でも、発生しうるものだからだ。

今回、私たちは、この映画を中心に据えて、三島と三島の作品に流れるグノーシス主義的なナルシシズムの忌まわしさ、恐ろしさというテーマに踏み込んで行きたい。

そのことを通して、同時に、これまで見て来たような、グノーシス主義によって骨抜きにされた疑似キリスト教である、ペンテコステ・カリスマ運動を支持する信者たちの異常なほどの幼児性、自己愛などの数々の精神病理的な退行現象(セルフ病)の発生原因にも迫って行くことができるだろう。

私たちは、すでにペンテコステ・カリスマ運動の支持者らには、あらゆる場面で、実年齢にふさわしくない極端に自己中心でナルシシズムに溺れた幼稚な行動を取るという特徴があることを見て来た。

カルト被害者救済活動を支持している村上密、杉本徳久の行動、Dr.Lukeや坂井能大の行動について、ここで詳細に繰り返す必要はないであろう。現実の自分の失敗や欠点を直視することができず、自分をありもしないヒーローや救済者に見せかけて、人前に演技することをやめられなくなり、自分にとって不都合な事実はすべて無視し、批判に耳を塞ぎながら、フィクションの中に逃げ込んでいつまでも自画自賛を重ねているこの人々の行動が、実年齢に照らし合わせて、あまりにも幼稚で、自己中心であることは今更、わざわざ繰り返す必要がない。

だが、ペンテコステ・カリスマ運動に影響を受ければ、指導者であるか信者であるかを問わず、男女を問わず、誰でもこのように、とても大人とは思えない幼稚な行動を繰り返し、感情過多となって眉唾物の自画自賛やお涙頂戴の物語に年がら年中、明け暮れるようになることもすでに述べた通りである。
 
この映画を通して、私たちはそうしたペンテコステ・カリスマ運動の信者らの精神的幼児性はどこから来るのか、という問題だけでなく、日本人全般が抱える精神文化的な成熟度の遅れという問題を解く鍵をも、ある程度、見いだせるのではないかと考えている。

マッカーサーが日本人全体の精神年齢について次のように述べたことは知られている。

「もしアングロ・サクソンが、科学、芸術、神学、文化などの分野において45歳だとすると、ドイツ人は我々同様十分成熟している。しかし、日本人は歴史の長さにも拘らず、まだまだ勉強中の状態だ。近代文明の尺度で計ると、我々が45歳であるのに対し、日本人は12歳の子供のようなものだ。」

これは技術革新の話ではなく、日本の精神文化的な成熟度について行われた言及である。そして、状況が悲劇的なのは、以上の発言がなされた時点から今に至るまで、多くの月日が流れたにも関わらず、おそらく日本人はその間に、わずかに1歳たりとも成熟度を増し加えていないと感じられることである。

このように、日本人の精神的成熟を著しく妨げ、停止させている最たる原因は、グノーシス主義的文化的土壌にあるものと筆者は確信している。

つまり、ペンテコステ・カリスマ運動の支持者らに見られる実年齢に全くふさわしくない精神の幼児性や自己中心性と、日本人全般の抱える精神文化的成熟度の低さは、根は同じところに存在しており、その根本原因は、神と人との分離を否定する東洋的・グノーシス主義的な思想の病理に存在すると筆者はみている。

さて、Paul Shraderの映画の長所は、三島の人生を非常に美しく描写しながらも、同時に、三島とその思想を客観的に突き放して分析することで、その人生の悲劇を浮かび上がらせることに成功している点である。

おそらく、この映画を観て、ハッピーエンドだと思う人はほとんどおらず、また、これを観て三島に追随したいと願う者も出て来るまい。

そこがこの映画の長所なのであり、この映画は、三島の思想を十分に深く理解しながらも、三島自身や、三島作品の主人公たちの抱える心の弱点、彼らの陥った人生の悲劇を、はっきりと描き出しているために、観るものに一定の感銘と衝撃を与えるが、決して、三島や三島作品の主人公たちの人生美学を賛美したり理想化する材料とはならないのである。
 
やはり、キリスト教文化圏のフィルターを介して三島をとらえたことの意義は非常に大きかったのではないかと思う。それも精神文化の優位性のなせるわざかも知れない。45歳の大人の目から、12歳の子供を見れば、その人となりを分析することは、レントゲン写真でも撮るように容易なはずだからだ。

筆者が、日本人の精神年齢の低さが、グノーシス主義的文化的土壌に起因すると言うのは、グノーシス主義とは、神と人との断絶を認めず、「母と子の分離」を認めないことによって、人を永久に「嬰児」のままに留め置く思想だからである。

東洋思想は、神と人とは調和しており、いかなる分離もなく、自然を通して万物のうちに神は満ちており、人は自然の一部としてその中に調和していると言う。しかし、そのようにして、神と人との(罪による)断絶・分離を認めないという発想が、逆に、人を「母のへその緒」に永久に「嬰児」のままに縛り付け、自立させない束縛の枷となり、精神的な成熟と自立を妨げるのである。

キリスト教のように「父なる神」と「人」との分離を認めず、人間を含めすべての被造物が「神と一つであり、母のような慈愛の中で包容されている」という、東洋思想の「母性崇拝」を基調とする思想が、日本人が、自分を冷静に客体化して観察・分析することを妨げ、「自分しか存在しないナルシシズムの世界」を作り出しているのである。

日本人はしばしば自国の政策の誤りを、外圧という形で諸外国から突きつけられなければ、決して軌道修正できないと評されるが、そのように自己の過ちを自分で認識して修正できないという傾向も、そもそも自己を客観視できないという「自分病」のもたらす当然の結果であると言えよう。

このようなことを言えば、三島の信奉者からは早速、非難が来るかも知れないが、映画に見られる芸術としての美化された側面をすべて取り払って、むきだしの結論だけを語るならば、三島の人生は、「いい年をしたおっさんが、鏡を見つめて究極なまでの自己愛にふけり、理想的な自己を追求し続けた結果、ついに鏡に映った自分の映像に命を奪われ、飲み込まれて消失するという、どこまでも独りよがりなナルシシズムの破滅の物語」にたとえられ、しかも、彼がその破滅を、何かしら非常に神聖で崇高な宗教行事のように見せかけて、観客に拍手喝采や同意を求めるという、どこまでも誇大妄想的なおまけがついた物語だとも言える。

三島の人間像の中には、東大卒の人間が陥る典型的な病としてのナルシシズム、東洋思想につきものの「イゼベルの霊による支配」、また、母なるものの支配が生み出す深刻なコンプレックスと自信喪失、そのコンプレックスを覆い隠すためのむなしい肉体改造の試み、などなどの非常に興味深い精神病理的な特徴をすべて見ることができる。

詳しくは次章以降で論ずるが、これを観れば、なぜかつての我が国では、「いい年をしたおっさん」たちが、自己愛に溺れ、理性を失って幼児化し、自らの欠点や失敗を全く直視できなくなって、皇国史観などといった馬鹿げた神話にとりつかれ、天皇と己を神として破滅に突き進んで行ったのかという疑問が、おのずから解けるだけでなく、そういう精神性が、戦後も変わらず、「いい年をしたおっさん」たちの心の中に脈々と流れ、残っている理由が、何となく分かって来るのである。

現在の安倍政権なども、こうした「おっさんナルシシズム」が究極の形で現れたものだと言えよう。つい最近になるまで、盛んに安倍政権をヨイショして、政権批判的なコメントを貶めるために日夜ネットを監視しているネトウヨや、自民党ネットサポーターズクラブのメンバーは、盲目的に安倍を信奉する若者世代だと考えられていたが、自民党ネトサポの決起大会のような写真が流出することにより、実は彼らの大半が「いい年をしたおっさん世代」であったことが判明し、人々に衝撃が走った。

こうした自己愛に溺れる「おっさん」たちの出現は、彼らをいつまでも自立させない「母なる存在の支配」と密接な関係がある。

グノーシス主義とは、「父なる神を妬み、父なる神から神であることを奪い取って自ら神となった、母なる神による支配」を指す。この「母なるものの支配」が、常に「父なるものの支配」を凌駕し、否定し、簒奪し、骨抜きにするせいで、グノーシス主義の思想的影響下に生きる男たちには、健全な自意識、健全な自尊心が育まれる余地が喪失し、彼らは自信が持てず、コンプレックスに苛まれ、健全な自己を養えないのである。

本来、健全な人間であれば、幼少期から青年期にかけて「母からの自立」が始まるだろう。出生直後にへその緒が切られ、乳離れがあり、幼少期から青年期には反抗期が繰り返され、慕うべき存在であった母が、次第に、厭わしい分離すべき存在に変わる。そして、最終的には、母から完全に分離・独立し、母とは別の女性を自ら選び、新たな家庭を築くのである。

ところが、「イゼベルの霊」による支配は、怨念による支配であるから、グノーシス主義的母性崇拝の思想は、決して人を自由にしないのである。そこで、この霊の支配によって、マザー・コンプレックスに苛まれている男たちは、青年期を過ぎて、「おっさん」の年齢になっても、まだ「母の支配」から抜け出せない。

彼らの心の中にある「母の呪縛」は、あまりに強すぎるため、彼らは心の一方では「母なるもの」を憎み、そこからの解放を願いながらも、決して怨念によって結ばれた母との悪しき運命共同体の絆を断ち切ることができず、母を憎みながらも、最後には、嬰児として母の胎内に回帰することを自ら目指すかのように、「母なるもの」の中に飲み込まれて自分を消失して行くのである。

Paul Shraderの映画に描かれる三島の人間像には、グノーシス主義者を陥る避けがたい破滅が、極めて興味深くシンボリックに表れている。

<続く>


 
「さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。

 女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、 ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。
へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。 それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。
 
女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。
すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。 」(創世記3:1-7)

肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。神の霊によって導かれる者は皆、神の子供なのです。」(ローマ8:13-14)


義人の道はあけぼのの光のように。キリストの死を打ち破った非受造の命は、信じる者にすべてを供給する

「義人の道はあけぼのの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる。」(箴言4:18)

不思議なもので、独学でヴァイオリンを始めてから、もう少しで一年が来ようとしているが、当初、確信した通り、しょせん人間の作った楽器だ。アクロバットな要素は何もなく、きちんと取り組めばそれなりの成果が出る。

初めはとにかく憧れの難曲に、生きているうちに何とか到達するといったことを目標に、何年がかりかで曲を完成しようと覚悟していた。そこで、初めから初心者が取り組むにはかなり難しい楽譜を印刷して、無我夢中で運指を探して書き込んだ。当初は、それらしき音へたどり着くのが精いっぱいであったが、次第に、自分の音が出来て来たのである。

不思議にも、一旦、自分の音らしきものが出来上がって来ると、ピアノの鍵盤とそう変わらない感覚で、音程が取れるようになる。楽器を構えた瞬間から、音楽らしき音が出るようになったときはまさに感動であった。正しい音程を探して四苦八苦するのではなく、目を凝らして神経を費やして楽譜を追うのでもない。耳に自然な音楽が聞こえるようになって来たのである。

筆者が目指していたのは、まさにそれなのであった。最初の一音から、強制とは無縁の、自発的な、まさに自分の音楽と言える、オリジナルな音色を奏でることができる境地にたどり着きたかったのである。

筆者は子供の頃からピアノを習っていたため、ピアノに取り組んで来た年月の方がはるかにヴァイオリンよりも長かったにも関わらず、ピアノという楽器に対しては、楽器ではなく機械に向かっているような、何か言い知れない抵抗感やよそよそしさのようなものをずっと感じ続けて来た。

もちろん、音楽が嫌いなせいではない。弾きたいと思う曲は山のようにあり、頭の中にはイメージが駆け巡っている。にも関わらず、楽器に向かうとき、何かどうしようもないぎこちなさ、不自然さのようなものがあり、ピアノが自分自身の一部であるかのように自然に感じられるようになるまでには、教師に教えられたのとは全く異なる、自分のスタイルを見つけ出すための試行錯誤の年月が必要だった。

こうして、かねてより持っていたピアノに対する抵抗感が、だんだん払拭されて来たのは、ヴァイオリンに取り組み始めてからのことであった。それよりも前から、二年間ほどの緻密な練習を通して、すっかり遠ざかっていた鍵盤に再接近を試みたことも前に述べた通りである。

そうして真面目に練習再開をしたことに加えて、自分で音を作ることから始めねばならないヴァイオリンに取り組み始めてから、案の定、楽器というものに対する考え方が根本的に変化し、ピアノに対する抵抗感も次第になくなっていったのである。

やはり、ピアノに関しては、子供の頃に、自発的に習い始めたのではなく、やりたくもなかったのに無理に習わされていたという負の記憶がよほど鮮明に脳内に焼き付いていたのかも知れない。間違った音を出しては怒られていた記憶も残っており、長い間、どうしても楽譜通りに誤りなく正確に弾かねばならないといった意識が常に先行して、自由が束縛され、心から弾きたいと思う自分の音楽を探すことも、それを奏でることも二の次であり、自分の音楽などというものは、片鱗さえも手に入れていなかったようなのである。それが変わって来たのが、ヴァイオリンへの取り組みを始めてからであった。

ヴァイオリンは、当初は、1時間も楽器を構えていられないという状態から始まった。もちろん、子供の頃に知っていた曲以外は、新しい楽譜を見ても、何とかそれらしき音程を探すだけで、音楽にならない。高音域などは、指の力がないために、押さえても全く音にならない。

だが、そんなところから始まっても、楽器が自分になじむまでは、無理なことは何もしなかった。次第にそれらしい音が出るようになったからと言って、やはり、一つの楽曲の中でも、とても初めから弾けそうにない速いパッセージを無理やり全体に合わせるために猛特訓するようなことは決してしなかった。弾けるようにしか弾かない。弾けないところはスローモーション。とにかく体に負担がかかることを一切やらず、楽器が自分の親密な友達になるまで、無理な近づき方をせず自然に接近し続けることに月日を費やしたのである。

そして、半年が過ぎ、一年近くが経とうとする頃に、相当な変化が訪れ、楽器が楽器としての音を出し始めたのである。おそらく、自分にとって自然な楽器の構え方がだんだん身に着いて来たのであろう。楽器をしっかりと固定できるようになったことに続いて、両手の指の自由度が増し、それなりに速い動きも可能になって来たのである。

どうせ締め切りもなく、発表会が迫っているわけでもない。自分のペースで、嫌にならない程度、ひたすら練習を続ければ良い。多忙状況に置かれた際には、一カ月以上も、楽器をケースから出すことさえなく、中断していたこともあったので、本当のことを言えば、まだ一年も真面目に練習したわけではない。

だが、休んでいる間にも、驚くような進歩があった。眠っている間にも変化が起きるのである。最初は一曲すらも弾き通すことも無理であったのが、いつの間にか、余計な力が抜けて、連続して一つのソナタの第4楽章まで弾き通すことができるようになり、重音にも相当耐えられるようになって来た。オクターブももう少し練習すれば、何とかなるだろう。高音域を押さえる時にも、かすれず、はっきりした音色がだんだん出るようになって来た。

取り組めば取り組むだけ、それなりの答えが出て来る楽器である。通常、教師について、週一回か、二週間に一回くらいレッスンを受けていれば、多分、三年くらいかかるであろう行程を、一年で通過したのではないかという気がしている。

やはり、教師には就かない方が良いと助言を受け、筆者自身がそう感じていたことは正しかったという気がしてならない。自分にとって何が自然で、何が一番楽なやり方であるか、それは人に教えてもらうことがどうしてもできない領域なのである。おそらく教師について習っていれば、この最も基礎となる部分を入念に時間をかけて探し出すことができなかったのではないかと思う。

さて、話題は変わるが、当ブログを開いてから、今年で約10年が経ったことになる。これはお祝いのために書いているのではない。当ブログは、開設当初から近代化もしておらず、レイアウトの変更もほとんどなく、トレードマークの長文も変わらない。

当ブログが検索で上位を占めることが気に入らないため、毎日、必死になって検索結果を操作している読者たちがいるのだが、なぜそんなことをせねばならないのか、筆者は全く首をかしげるばかりだ。

毎回、筆者はその人たちに断っている、そんなことは徒労でしかないと。なぜなら、当ブログは、彼らが思うほどに、読んでいる人は多くなく、そもそもこんな学術論文のような長文を最初から最後まで読むことのできる人は限られている。筆者自身、最近は、眼精疲労のために、文章を満足に遂行することが追い付かないでいる。だから、初めの頃のように、隅から隅までチェックして満足のいく文章が書けていない。

さらに、10年もやっていると、検索してたどり着いて来る人などほとんどいない。だから、検索結果の操作をしても、その効果はほとんどないと言える。

さて、ヴァイオリンを教師に就かずにやり始めたことを当ブログに書き記したのは、半年ほど前のことだったであろうか。その時、筆者の心の中に、はっきりした直観があった。教師につけば、必ず、ピアノの二の舞となり、自分の音楽を見失ってしまうことになるだろうと。

その直観はまことに正しく、別に教師などいなくとも、大量の動画などもあるわけだから、いくらでも模範となるものは十分に揃っている。そういう意味では恵まれた時代である。

このように、教師に就かないという筆者の原則は、音楽だけでなく、信仰生活にも同様に適用されている。筆者はこの先、いかなる宗教リーダーにも就かず、目に見える人間から教えを乞うことを決してしないつもりである。

そもそも当ブログを始めた2008年にすでにその結論が出ていたのに、その原則を確固として貫けなかったところに、筆者の弱さがある。筆者の人格的未熟さのゆえである。

だが、年月が経つうちに、当初持っていた確信は心の中で強まり、ますます教師などなくても大丈夫だと確信するようになった。どんなことも、自分の内なる直観に基づき、解決できる。信仰においては、御霊を通して、神が必要のすべてを備えて下さると信じて、大胆に進んで行くことができる。

筆者が当ブログを始めて後、筆者より前からブログを書いていた多くのクリスチャンたちが、途中で書きやめてしまった。彼らはある時点までは、良好な交わりを持ち、意気揚々と信仰告白を記していたが、途中で、人間関係に変化が起こり、信仰的立場に変化が起き、様々な嵐が押し寄せ、自分がどうも大きな間違いを犯したのではないかと感じ、軌道修正を迫られた際、彼らは決して自分の誤りを人前に表明して修正することができなかった。人を傷つけないために、自分の体面を保つために、彼らは自分の心に起きた変化を決して外に表さなかったのである。それゆえ、彼らの発言は、途中から辻褄が合わなくなり、続けられなくなって行った。

そういう例は、キリスト教に限らずとも起きている。どういうわけか知らないが、人々がある時点を境に、とても良いことを熱心に書いていたと思われるブログやツイッターを放棄して行くのである。見かけがどれほど有意義で、どれほど大勢の読者がいたとしても、彼らの心の中で、何かの重大な変化が起こり、続けることができなくなったのは明白である。

だが、筆者は言っておきたい。真に信仰に立っていれば、必ず、最後まで告白を続けられると。ブログのレイアウトなどは問題ではない。問題は、神の御前での正直さ、誠実さである。

長く続けるために重要なことが一つある。それは神の御前で正直であらねばならないことで、そのためには、人に対しての遠慮を捨てねばならない。自分が間違いを犯したと感じる時には、たとえ面目を失う危険があっても、それをはっきり言い表し、立場を修正せねばならない。間違っているものは、間違っている、受容できないものは、受容できないと、態度をはっきりさせねばならない。

たとえば、自分が関わっていた一つの交わりが、途中から御言葉に背いて腐敗して駄目になったり、人に頼ってキリストを見失いそうになったりした際、その誤りや危険をきちんと認め、口で言い表し、あるべきところへ戻らねばならない。その過程で、決して自分の面目を惜しんだり、人の気分を害することを恐れてはいけないのである。

だが、それさえできれば、神の御前での首尾一貫性を失うことはない。ある信仰告白が残るかどうかの決め手は、首尾一貫性が保たれているかどうかにある。レイアウトを近代化することなど、それに比べれば大きな問題ではない。どんなに斬新なアイディアが溢れていても、そこに真実性がなく、首尾一貫性がなければ、長く続けることはできない。

何度も言うように、筆者は当ブログを人のために書いてなどおらず、神に対する信仰告白として書いている。

そこで、筆者が最も避けたいのは、たとえば、自分が誤りを犯していることが重々分かっているのに、面目を失うことが怖くて、また、人の期待を失うことが怖くて、人への遠慮や気遣いから、それを告白できなくなり、自分の人生を全く修正することができなくなって、嘘に嘘を重ね、ごまかしにごまかしを重ねながら生きることである。

筆者にはそのような不自然な生き方は、到底、逆立ちしても無理であるが、多くの人たちがそのように逆立ちして歩くように、器用に自分をごまかしながら生きている。信者を名乗っている人たちの中にも、そういう偽善的な生き方を確信犯的に行っている人たちが数知れず存在する。一体、何のための信仰生活なのか、筆者には分からない。不信者にはまだそういうことが許されても、クリスチャンにはごまかしは無理である。そんな生き方を重ねていれば、いつかしたたかに破滅する時が来よう。

砂地に立てた家は、嵐がくれば、ひどい崩壊を遂げるが、堅固な岩の上に立てた家は、崩壊しない。筆者はそういう家を築きたいと思っている。だが、そのためには、ヴァイオリンに取り組み、ピアノに取り組むときのように、人目につかない隠れたところで、根気強く、自分の納得がいくまで基礎を積み上げて行く地道な作業が必要になる。本当に自分が納得のいく生き方を、一人で黙って試行錯誤を重ねながら、模索して行かねばならないのである。

人に教えられ、強制されて身に着けた基礎は、どこかの時点ですべて取り払って、やり直さなくてはならなくなる。ピアノに関しては、筆者は約2年間をかけて、鍵盤への向かい方から始まり、基礎を全部やり直さなくてはならなくなった。教えられて身に着けたものは、決して自分にとって最も適切で正しい自然な方法ではなかったためである。自分にとって何が一番適切で自然であるかを自分で探し出すために、それなりの時間がかかった。

だが、やるべき努力をしていれば、その基礎は、一定期間が過ぎると、外に姿を現すようになる。自己満足の域を超えて、誰が見ても、一定の評価を下せるレベルになる。筆者はそのようにして、すべてのことに、自分で試行錯誤を重ねながら、自分の道を見つけて行くことこそ、重要であると考えている。教師につくと、自由が制限されてしまうように、人の采配の下で働けば、仕事の自由が制限される。まして宗教指導者の助言やアドバイスを受ければ、それに人生全体が拘束される。

人は人に向かって正しい道を教えられない。楽器の構え方一つをとっても、何が最も自然で無理がないかは本人でなくては決して分からない。人が人を助けられると思うことは、幻想であり、思い上がりでしかないと筆者はずっと言っている。

筆者はすべてにおいて、真に自由でありたいと考えている。そして、キリスト者のうちには、神の霊が宿っており、必要のすべてを、この霊が供給するからこそ、我々は自由であることができる。

キリストの霊は死を打ち破った非受造の命であり、自分の外にあるいかなるものにも依存しない命である。

この命がキリスト者の内側にあるということは、この命を通して、キリスト者はすべての供給を受けることができることを意味する。尽きせぬ命の水の源は、この霊の中に存在する。

それに引き換え、人に頼ることは、すぐに枯れてなくなってしまう水のために何度も何度も井戸へ向かうのと同じである。だから、筆者はそのような生き方を「隔離される」ことであると考えている。

多くの信者が、日曜ごとに教会に「隔離」されに行く。彼らは「罪」という不治の病にかかっており、これはおそろしく差別されている伝染病なので、彼らは自らを恥じ、社会を避けて、日曜ごとに、お参りをして自分を清めてもらうために、教会という療養所へ隔離されに行く。

だが、何度もお参りを繰り返しても、彼らの不治の病は治らない。日曜ごとに清めてもらわなくては、彼らは清くなったという確信も得られないし、罪や失敗や恥の意識もなくならない。

本当は、その不治の病を奇跡的に直すことができる力は、日曜礼拝にはなく、牧師たちにもなく、礼拝の場所も、あの山でもエルサレムでもなく、真理と霊によって神を礼拝することをせねばならないのであって、それを可能にして下さるのは、見えないキリストの御霊だけなのである。

人間の雑踏の中にこの方を見つけようとしているうちは、回答は得られないだろう。

この方に出会うためには、私たちは、しばしば、人里を離れてスカルの井戸のようなところで、キリストに出会う必要がある。日曜礼拝の只中でも、エルサレムの神殿でもなく、荒野のような寂しい場所で、主に出会うのである。

今、時代や社会はますますバビロン化が進んでいる。黙示録には獣の刻印を受けなければ、売ることも買うこともできない社会が来ると記されており、今やそうした時が近づいて来ていることが感じられる。

だが、キリストの命は、バビロン社会の全ての統制を超えて、信じる者に必要のすべてを供給する。

だから、筆者は述べておきたい。たとえどれほど大勢の人たちが、ヨブの苦難を見て、彼を責めた妻のように、「キリストを信じたがゆえに、あなたの人生は苦悩の連続になったのではありませんか。もっと楽な生き方があったとは思いませんか。あなたの信仰は愚かだとは思いませんか」と問うても、筆者は答える、決してそうは思わないと。

むしろ、この絶大な御名の権威のゆえに、筆者も当ブログも、堅固な家のように残るであろうと。多くの人たちは、筆者に比べれば、自分ははるかに幸せだと考えているのかも知れないが、この先もずっと今までのような時代が続くわけではない。筆者も当ブログも、人の目にどのように映ったとしても、10年後にも残るであろうし、しかるべき時が来れば、キリストが御顔の栄光を信じる者の上に朝日のように輝かせて下さるだろう。

アブラハムがそうであったように、キリスト者の人生は、晩年にさしかかればさしかかるほど、ますます光を帯びて壮健に輝いて来るはずである。

どういうわけか、筆者は今、当ブログを始めた時と同じような感慨に浸っている。その当時、筆者はいかなる宣伝もなしに、誰を満足させるためでもなく、ただ真実なる方を追い求めるためにブログを書き始めた。

読者もいなければ、手柄も功績も何一つなく、どこへ向かうのかさえ明らかでなかったその時と、似た様な感慨を味わっている。

神ご自身を真剣に呼び求めること以上の目的が、人にあるだろうか。

神ご自身が答えて下さりさえすれば、それにまさる満足がどこにあるだろうか。

筆者は、人として、神と共に地上で乙な歩みをしたいと思うのである。だが、人から見てどう思われるかなどは重要ではない。神と筆者との間で、後になってから、「これで良かった」と言える満足な歩みをしたいのである。その模索はまだまだ道半ばで、真の成果は今まで一度も完全に現れたことがない。だからこそ、前にあるものを一心に見つめ、まだ見たことのない約束の地を待ち望むのである。

ヴァイオリンがこの先、どうなるのかはまことに楽しみであるが、信仰生活にどんな実りが生じるのかは、もっと楽しみである。からし種のような信仰から、いくつも芽が出て、幹が伸び、成長して行く。光を照らし、水を注いで成長させて下さるのは神である。

この救いの岩に頼る者は決して恥と失望に終わることはない。


「イゼベルの霊」(被造物崇拝)の見せる偽りの「慈悲」や「同情」に基づく誤った「救済事業」は、弱者を永遠に弱さの中に閉じ込め、支配する

・ハンセン病の絶対隔離政策に見る、「慈愛」や「同情」を装う偽りの救済事業」の危険性
 
さて、これまで、グノーシス主義がしきりにキリスト教の父性原理に基づく二分性を糾弾し、「慈愛」や「慈悲」によってすべてを包容する「母性的情愛」を高く掲げていることを見て来た。

今回、私たちは、グノーシス主義がしきりに善良な要素として掲げる「母性的情愛」なるものが、本当に人間を解放することに少しでも貢献するのか、むしろ、「慈悲」や「同情」といったうわべだけは美しく響く概念が、どれほどその美名とは裏腹に、人間をディスカウントして貶め、人を弱さの中に閉じ込めてそこから受け出せないように支配する口実として利用されるかということを、以前にも一度触れたことのあるハンセン病の絶対隔離政策を例に見ていきたい。

ハンセン病患者に対する強制隔離政策は、我が国で、約90年以上も続けられて来た。

ハンセン病は、我が国では、古来から、世間では「家系に伝わる不治の病」「業病」などと呼ばれて、不当な差別の対象とみなされて来た過去があるが、我が国で、国家レベルでハンセン病者に対する差別的な隔離政策が推進されるようになったのは、明治になってからのことであった。
 
明治になってから、我が国は、近代国家としての体裁を急ごしらえで身に着けようと、西欧諸国にならって文明開化を急いだ。「内地雑居」により、欧米人が自由に日本国内を行き来できるようになった頃、当時の日本政府は、ハンセン病患者の存在を、文明開化した国にはふさわしくない、未開の国の無秩序状態を示す「国家の恥」とみなして、ハンセン病者を「国辱」であるかのように考え、排除を決定したのであった。

つまり、欧米人の前で、国家の見栄や体裁を保ちたいという理由で、国はハンセン病者を社会的に抹殺・隔離・根絶することを決め、それに基づいて、明治以降、平成に至るまで、政府が率先して絶対隔離政策を長年に渡り、推し進めて来たのである。

以下は、後ほど紹介するように、絶対隔離政策がようやく違憲として廃止された後、2005年に厚労省でとりまとめられた「ハンセン病問題に関する検証会議による最終報告書」からの抜粋である。そこには、明治政府が、1907年に「癩予防ニ関スル件」という法を定め、ハンセン病者の隔離政策に踏み切った理由が、対外的な見栄を保つためであったことが示されている。
 
そこから、欧米人と肩を並べる列強として、文明開化された強い軍事力を持つ国であることを対外的に演出したかった当時の明治政府から見て、ハンセン病患者は、アイヌ民族や、精神障害者と並んで、「野蛮」や「汚濁」を象徴する存在として、覆い隠さねばならない存在とみなされたことが分かる。

 

当時の日本の衛生政策は、防疫、すなわちコレラなどの急性感染症への対処に追われていて、とてもハンセン病への対策を実施する余裕はなく、ハンセン病患者への医療は、こうした宗教的施設に依存するばかりであった。

では、なぜ、1907(明治40)年、法律「癩予防ニ関スル件」を公布し、国家はハンセン病患者の隔離に踏み切ったのであろうか。その契機は2 つある。1 つは、1897(明治30)年、ベルリンで開かれた万国癩会議で、ハンセン病が感染症であり、その予防策として隔離がよいと確認されたことであり、もう1 つは1899(明治32)年に欧米諸国との間の条約の改正により新条約が発効し、「内地雑居」が開始されたことである。

「内地雑居」により、欧米人たちは日本国内を自由に居住し、旅行できるようになった。

当時、
ハンセン病には遺伝病という認識が支配的であったため、患者は家族・親戚への差別を恐れて、自宅に隠れて暮らすか、家を出て放浪して行方をくらますかの、いずれかの境遇を強いられていた。

放浪する患者のなかには、神社・仏閣などの門前で物乞いする者も多く、「内地雑居」が始まると、そうした放浪患者の姿を欧米人に見られることは国家の屈辱と考えられた。なぜならば、当時、ハンセン病は北米やヨーロッパには少なく、アジア・アフリカ・ラテンアメリカなどに多くの患者を発生させていたからである。

1900(明治33)年12 月、内務省が初めておこなったハンセン病患者調査では、患者数3 万0359 人、「血統戸数」19 万9075 戸、「血統家族人口」99 万9300 人と報告されている(国立療養所史研究会編『国立療養所史』らい編、厚生問題研究会、1975 年)。ここで、「血統」という表現を使用しているが、これは内務省がまだハンセン病=遺伝病説に固執していたということではなく、家族に患者を抱えている戸数と家族の人口という意味である。すなわち、「血統家族人口」とは、家族間で感染している可能性があり、今後、発症するかも知れないという人口を意味しているのである。

この数字は、国家にとって大きな衝撃であった。日清戦争に勝利し、条約の改正にも成功した本にとり、アジア・アフリカの植民地並みの患者が存在することは国辱以外のなにものでもなかった。

ちょうど、この頃、1899(明治32)年に「北海道旧土人保護法」が成立し、1900(明治33)年には「精神病者監護法」が成立しているが、法律「癩予防ニ関スル件」もまた、これらの法律とともに「内地雑居」との関連性をもって評価されるべきであろう。


すなわち、アイヌ民族への「保護」を掲げた「北海道旧土人保護法」や精神障害者の座敷牢ヘの監禁を認めた「精神病者監護法」について、小熊英二は「欧米人の視線から<野蛮>ないし<汚濁>とみなされかねない存在を隔離し被いかくす対策」の一環とみなしているが(『<日本人>の境界』、新曜社、1998 年)、法律「癩予防ニ関スル件」もまた、その一環とみなすべきである。

(厚労省「ハンセン病問題に関する検証会議、最終報告書」、pp.52-53)



こうして、もともと国家の対外的な面子を保つ上で、ハンセン病患者の存在自体を「国辱」とみなす考え方が生まれ、それを土台に、光田健輔のように、ハンセン病患者の治癒後も含めた生涯に渡る絶対隔離の必要性や、断種による患者根絶の必要性を強力に唱える(ある意味ではマッドサイエンティストのような)医師が登場して、多大なる影響を行使した結果、「癩予防ニ関スル件」、「無らい県運動」、「らい予防法」などの、日本政府による数々の非人道的な絶対隔離政策が成立して行ったのである。

このように、医学的な見地に立つよりも、むしろ、中世あるいはヘイトのような差別感情に基づくものと呼んだ方がよい我が国におけるハンセン病者への絶対隔離政策は、1943年にアメリカ合衆国で「プロミン」の治療効果が報告されて、ハンセン病の治療が可能となり、その後、これを改良した治療薬が開発されて、ハンセン病が事実上、不治の病ではなくなった後も、撤廃されることなく長年、続行された。

「らい予防法」に基づく絶対隔離政策がようやく終焉を迎えたのは、2001年5月11日に国立ハンセン病療養所に入所している元ハンセン病患者が起こした「らい予防法違憲国家賠償訴訟」において、熊本地裁が絶対隔離政策を違憲とする判決を出し、国が控訴を断念し、ハンセン病患者・元患者に謝罪を行ってからのことである。

1953年(昭和28年8月15日)に制定された「らい予防法」それ自体は、1996年(平成8年4月1日)の第136回国会で廃止されていたものの、この時点では、「らい予防法」に基づく「絶対隔離政策」や「患者絶滅政策」の違憲性は何らまともに検証されていなかった。こうした政策そのものが反人間的な違憲の法であったことが初めて明らかにされたのは、上記の熊本地裁判決においてである。

その熊本地裁判決が出された翌年の2002年に、政府は「ハンセン病政策の歴史と実態について、科学的、歴史的に多方面から検証を行い、再発防止の提言を行う」ことを目的に、検証会議を設置し、その後、2年半に及ぶ調査の結果、2005年3月1日に検証会議が「最終報告書」をとりまとめて厚生労働省へ提出した。

この最終報告書は、検証会議が行った療養所における患者や元患者への膨大な聞き取りや実態調査、さらに、長い歴史時代に渡って培われた差別構造についての多角的な考察や検証などを含んでおり、極めて重大な意義を有するものであるが、それでも、この調査報告がまとめられただけでは、それはハンセン病者らの不当に奪われて来た人権が回復されるための最初の一歩に過ぎない。

その後、政府は、「ハンセン病療養所入所者等に対する補償金の支給等に関する法律」を設けることににより、絶対隔離政策の犠牲となった元患者らへの補償金の支給を決定したものの、この補償金は、法律の施行からわずかに5年間の間しか請求できないと制限がつけられ、その5年の間に請求がなければ、受給できないものとされて、2006年6月で請求期間が終了した。

だが、その申請期間に、この法律の対象となりうるどれだけの患者・元患者らが、この法律の存在を知って、請求を行ったのかは、その後の調査もなく不明である。何しろ、90年間もの長きに渡り、差別と隔離の歴史が続き、自分の病気を患者が公表することもはばかられる環境が作り出されて来たのだ。その後で、ようやくその悪法が違憲と認定されてから、わずかに5年の間に、新しい法律に基づき、補償金の申請をせよというのは、あまりにも元患者らにとって、不親切・不案内かつ配慮に欠ける措置ではないだろうか。

療養所を退所した後、かつて隔離されていた過去をひた隠しにしながら息をひそめて生きたであろう多くの人々の存在を考えてみると、未だ差別意識に苦しめられているがゆえに、そのような権利があることを知っても、あえて行使しなかった人々もいると思われる。しかも、この補償金が違憲の法律によって家族のメンバーを残酷に家庭から奪われた人々などは対象としていないことにも、決してこれが政府による隔離政策に対する十分な反省や償いを示すものとは言い難いことは明らかである。

国は戦後、かつての軍人やその遺族に手厚い恩給や年金を支給しているのであるから、長年、隔離され、人権を奪われ続けて来たハンセン病者やその家族に対する補償は、決して期限付きの自主申請に基づいて行われるべきものではなかったと考えられてならない。

政府が90年以上もに渡る隔離政策の後で、療養所の入所者や退所者に関するきちんとした後追い調査をせずに、補償金の受け取りをただ元患者らの自主申告に委ねたことは、大きな間違いであると思われてならない。

こうして、元患者らへの、隔離によって奪われた人生の年月や、残酷な断種政策によって侵害された人権に対する償い、また、隔離施設の中で、非人間的な差別的扱いのもとで開かれた「特別法廷」で出された判決の再検証などの取り組みについては、法曹界からの声などは上がっているが、政府からは、今も個別の訴えがない限り、遅々としてなされていないのが現状であると言える。

もしも真の「国辱」とは何であるか、真の「野蛮」や「未開」の概念とは何を意味するかを考えるなら、このように、政府が自ら不当に弾圧して来た人々の人権の回復に積極的でなおい態度を取り、いたずらに補償金の受け取りを制限し、絶対隔離政策のもたらした害を個人の責任として押しつけて放置するような態度を取っていることこそ、文明国家の恥であると言えよう。

さて、以上で挙げたハンセン病に関する検証会議の最終報告書は、「ハンセン病問題に関する検証会議 最終報告書」(厚労省)および「ハンセン病事業検証調査」(公益財団法人日弁連法務研究財団)のホームページで見ることができる。
 
だが、おかしなことに、厚労省が出しているホームページでは、「第四  1953年の「らい予防法」―強制隔離の強化拡大の理由と責任― 」における「第4  藤楓協会および皇室の役割」の項目には、個別のリンクが貼られていない。

よくよく探せば、この項目は、その上にある第三の全体版に合体されていることが分かるが、他のすべての項目では個別のPDFが存在するにも関わらず、皇室の責任を問うたこの項目だけに、個別のPDFのリンクが存在しないことは、非常に奇妙に感じられる。偶然のミスなのであろうか。

さて、以下では、この最終報告書を参照しつつ、皇室および、宗教界の中から、キリスト教を例にとりつつ、これらの宗教勢力が、なぜ絶対隔離政策を廃止する原動力とならないどころか、むしろ、強力にこの人権侵害を黙認し、むしろ、擁護するための大義名分の役割を果たしたのか、それぞれの「救済観」の誤りという問題に照らし合わせながら、考えてみようと思う。

まず、皇室からである。

ハンセン病者は、「慈悲深い皇室」というプロパガンダを国民に流布するために大いに利用された。絶対隔離政策は、ただ暴力的に患者を隔離するという方法で推進されたのではなく、皇室がハンセン病者に「慈愛の涙を注ぎ、救済の手を差し伸べる」という「神話」や美談によってカモフラージュされながら、推進されたのである。

> 近代日本の皇后像を研究した片野真佐子は、「皇室を慈善恩賞の府、とりわけ慈善の府となし、皇恩の広大さを目に見えるかたちで国民に知らしめるもっとも有効な事業はなにか。的は『救癩』事業にしぼられた。問題は国家の体面にかかっている。『癩』の問題を放置する国家を、西洋社会は文明国家と認めないからである」と述べ、皇室と「救癩」の接点となったのが貞明皇后節子さだこであったと結論する(片野真佐子『皇后の近代』講談社、2003 年)。

たしかに、貞明皇后(節子は1926 年12 月25 日に大正天皇が死去した後は皇太后となるが、本報告書においては諡名である貞明皇后で表記を統一する)は、1930(昭和5)年、癩予防協会設立の基金に「御手許金」を「下賜」し、1932(昭和7)年11 月10 日には、大宮御所の歌会で「癩患者を慰めて」と題して「つれづれの友となりても慰めよ 行くことかたきわれにかはりて」などの歌を詠むなど、皇室の「救癩」の象徴となっていく。

では、なぜ、象徴の役割が貞明皇后でなければならなかったのか。これについては、片野も引用している次田大三郎「地方局の思い出を語る・上」(『自治時報』1959 年5 月号)に詳しい。それによれば、癩予防協会設立時、内務省地方局長であった次田は内相安達謙蔵に対し、「一つ、皇室のお力を借りられたらいいのではないか。大臣が皇后に拝謁されて、あの光明皇后―奈良時代の光明皇后の先例にもあるから、皇后が、そういう哀れなるらい患者のために大御心をわずらわすということにされたらいいと思う。そういうことをお願いなすつて、皇后がそれをやつてくださるということであれば、それはもう皇室中心の日本で、きゆう然として世論がそれにしたがつて来るだろうと思う」と述べ、安達もそのとおりに、貞明皇后に願い出て、同意を得たという

次田は、隔離政策に国民の理解を得るための「プロパガンダの一つの方法」として、貞明皇后を担ごうとしている。そして、その根拠は光明皇后の「救癩」伝説にあった。かつて、光明皇后がハンセン病患者の背を流し、膿を吸ったという伝承を現代に再現する意味で、貞明皇后は象徴となり得たのである。 
(ハンセン病問題に関する検証会議 最終報告書 p,144)



光明皇后に関する「神話」に重ね合わせる形で、貞明皇后が「救癩」の象徴として担ぎ出された。それは、皇室が主体となって、ハンセン病者を「救う」という「お涙頂戴物語」を隠れ蓑にして、政府が事実上、「国辱」とみなしていたハンセン病者を、可能な限り、穏便かつ早急に社会から排除するためであった。

そのために、「皇后じきじきにハンセン病者の苦悩に寄り添い、慈悲をかけられた」という「救済神話」が作り出され、恐るべき隔離政策が、皇室に由来する費用の下に、「同情」の名のもとに進められて行った。

こうして、「慈悲」や「救済」の概念の下、ハンセン病者の「根絶」や「絶対隔離」という忌むべき政策の非人道性が覆い隠され、国を挙げての人権侵害が正当化されたのである。
 

貞明皇后は、すでに1925(大正14)年、後藤静香が主宰する教化団体希望社を介してハンセン病患者の処遇に関心をいだき、「女官一同」の名で、金一封を後藤に贈っていた(加藤義徳「後藤静香と救癩運動」、『JLM』571 号、1980 年11 月)。希望社は全生病院への慰問や群馬県草津の鈴蘭園への支援をおこなうなど、隔離を前提にした患者の「救済」を実践し、希望社が発行する『希望』は宮中の女官にも読まれていた。

貞明皇后は安達内相の申し出を受けて、1930(昭和5)年11 月10 日、「御手許金」24 万8000円を内相と拓務相に「下賜」した。このうち、20 万円が癩予防協会の基金に組み込まれ、残りは日本国内と朝鮮・台湾の計10 か所の私立療養所への補助、公立療養所職員への慰安、および公私立療養所入所者への慰安に使用された(関屋貞三郎『皇太后陛下の御仁慈と癩予防事業』、癩予防協会、1935 年)。

その際、入江大宮大夫より「熟ら思召さるゝには世に不幸な者多しと雖も癩病患者の如く治療の方難く家庭の楽もなき悲惨なるものあらしと最も御同情遊はされ、又其の患者を救護し事務に尽瘁する人々の献身的の至誠に深く御感動あらせられ、今般此種の社会事業に対し夫々御下賜あるべき旨御沙汰あらせらる」という「謹話」が発表され、貞明皇后の「同情」が強調された(『山桜』12 巻10 号、1930 年10 月)。

また、1934(昭和9)年3 月、中央社会事業協会主催の社会事業中央講習会で、「皇室と社会事業」の題で講演した前宮内次官関谷貞三郎も、貞明皇后と「救癩」の関わりについて詳しく論じている。この講演は、同協会より冊子になり刊行されているが、全体47 頁のうち、貞明皇后と「救癩」についての叙述が7 頁を占めている。講演は、古代から近代に至る内容であったことを考えると、その比重の大きさは否定できない。<略>

貞明皇后のハンセン病患者への「仁慈」は植民地にも流布される。<略>

さらに、1942(昭和17)年、「大東亜共栄圏」に日本のハンセン病患者を送り出し、現地の患者を看護させようという「救癩挺身隊」構想が、長島愛生園などから提起されると、同園事務官宮川量(ペンネーム東洋癩生)は「八紘一宇の理念さらに我等に尊い皇室の御仁慈がある。これを大東亜の病める兄弟姉妹に頒ち与へ、共に大恵に浴さしめたい」と訴え(東洋癩生「大東亜救癩進軍譜」、『愛生』13 巻1 号、1943 年1 月)、入所者の間にも、隔離された自分たちでも御国に奉公できるという意識が強まり、星塚敬愛園の入所者は、貞明皇后の「つれづれの友となりても慰めよ」の歌をもとに皇室の「仁慈」が「大東亜共栄圏」のすべてのハンセン病患者を救済する「御歌海を渡る日」を待望していた(南幸男「南方救癩に処する我等病者の心構え」、『愛生』13 巻3 号、1943 年3 月)。

結局、「救癩挺身隊」構想は、戦局の悪化で実現しなかったが、貞明皇后のハンセン病患者への「仁慈」がこうして、患者の戦争動員の論理にも適応されていった。

このように、ハンセン病患者は皇室の「仁慈」を顕在化させる恰好の対象とされた。しかし、その一方で、ハンセン病患者は皇室の権威を借りて排除された事実も指摘しなければならない。
(同上,pp.144-145)



もちろん、この残酷な絶対隔離政策に、患者自身が抵抗しなかったわけではない。当時のハンセン療養所では、強制的に隔離された患者たちが、脱走や逃亡を企てたり、反乱が起きることもなかったわけではない。

しかしながら、療養所では、貞明皇后がハンセン病者を哀れんで詠んだとされる歌や、皇后の「慈愛」に満ちた「救癩」の取り組みがしきりに強調されることにより、隔離された患者らの心には、「皇后じきじきに関心を持って下さるのだから、私たちは国家の恥として見捨てられ、抹殺された存在ではない」とか、「私たちは差別されているだけの惨めで哀れな存在ではない」などという考えが植えつけられ、患者らは、皇后が自分たちに慈悲を垂れたという美談によって自分を慰めることで、おとなしく隔離に自主的に応じるようマインドコントロールがなされて行ったのである。

こうしてハンセン病者は、皇室が「慈悲深い救済者」であり、見捨てられた社会的弱者の「救済事業」を主体的に行っているという「美談」や「神話」を作り出し、身分差別を強化・固定化していくための大いなるプロパガンダとして利用されたのである。

そうした伝統は戦後になっても受け継がれる。

こうした藤楓協会が国民に強く訴えたのが皇室の「仁慈」である。一般的に、日本の医療・福祉関係の施設・団体には多くの皇族が顔を並べている。日本赤十字社を筆頭に多くの皇族が名誉総裁などの地位を占め、また、皇族が旅行すると必ずと言っていいほど、病院や福祉施設を慰問する。

戦前は、男性皇族は軍務に就き、女性皇族は軍事救護や福祉に関わるという、まさに厳父と慈母というイエ制度に基づくジェンダー的役割分担をおこなってきたが、戦後は男女とも、福祉の顔を国民に向けることになった。

ハンセン病に関しては、特にそれが顕著である。藤楓協会のみならず、菊池恵楓園、邑久光明園の園名には、いまだに皇后たちの印章や謚号が使われている。戦後の皇族は、どれほどハンセン病と関わってきたのか。

皇族のなかでは高松宮宣仁が頻繁に療養所を訪れている。高松宮は、藤楓協会の初代総裁であり、1987(昭和62)年に死去した後は、妻の喜久子が総裁を継いだ。貞明皇后に続き、高松宮は皇室のハンセン病患者への「仁慈」の象徴となった。

ここで、特に注目するべきは占領期の高松宮の行動である。高松宮は1947(昭和22)年から1951(昭和26)年までの5 年間に、全国9 か所の療養所を廻っている。これは、高松宮の自発的なものだったとは考えられない。皇族の行動には、それなりの意味がある。(同上,pp.151-152)


ロイヤルファミリーという特権階級の存在意義を世間に納得させ、その威光を社会に輝かせるためには、彼らが絶えず、自分たちが最もひどく搾取している対象である弱い人々を気にかけ、特に打ち捨てられた社会的弱者に関心を寄せ、彼らに救援の手を差し伸べているというポーズを取ることが必要不可欠である。

やんごとなき人々が「慈悲深い姿」を社会に見せることが、支配階級を存続させるための絶好のプロパガンダであるという認識は、日本だけに限ったことではない。

そのような慈善事業は、一見、支配階級が格差や差別によってできた溝を埋め合わせるために行っているように見えるかも知れないが、真の目的はそれとは正反対である。それは格差や身分による差別をより一層、強化・固定し、永遠にそれが覆されることがないよう、支配階級に対する弱者の怨念の一種のガス抜き、うわべだけのプロパガンダとしてなされているだけなのである。

つまり、やんごとなき人々が、雲上人の高みから、どん底の苦しみの中にいる人々に関心を示し、同情の涙にくれて手を差し伸べるという「神話」が作り出されることにより、うわべだけ、「差別する側」と、「差別される側」との間の感情的対立が緩和され、両者の和解が成立したかのように見える。

差別階級は、「慈悲」の名のもとに、被差別階級のために涙を流し、被差別階級は、その涙を見て、自分たちの労苦がかえりみられ、差別階級が反省を示して歩み寄りをしてくれたかのように考えて自分を慰める。ところが、現実には、「慈悲」という隠れ蓑の下で、「哀れむ側」と「哀れまれる側」との間にある圧倒的な不公平や身分差別は、なくなるどころか、より一層、強固に固定されて行く。

「哀れむ側・施す側・助ける側」だけが一方的に栄光を受け、「助けられる側」は、ますます惨めな境遇の中に閉じ込められて、支配階級の栄光と満足の道具とされて行くのである。

従って、その慈善事業は、実際には、社会的強者を永久に強者のままにしておき、社会的弱者を永久に弱者のままに留め置くための「ポーズ」でしかない。その実態は、「救済」どころか、「不当な支配や搾取の正当化」であり、人々を弱さの中に閉じ込め続けることで、永遠に搾取の対象とすることにあり、実際には「救済事業」という見せかけの美しい名目とは正反対の役目を果たしているのである。

こうして、「慈愛」や「同情」や「救済」の美名のもとに行われる排除、支配、差別、隔離、マインドコントロールが存在する。

当時、ハンセン病のほとんどの療養所では、貞明皇后がハンセン病者を「慰める」ために詠んだとされる歌が、皇室からハンセン病者への「御恵み」として宣伝された。以下の記述を通して、ハンセン病者を利用して「慈愛に満ちた皇室」のイメージが作り出され、それがまるでカースト制のような、差別に基づく支配構造を固定化するために大いに利用されていた様子が分かる。

「我々国民として最も尊ぶ皇室」の威光を輝かせるためには、それと正反対の「日本で一番虐げられて居る、踏みにじられている癩者」の存在が大いに役立ったのである。

「癩予防協会」は、1931 年3 月に、絶対隔離政策を支持する世論作りのために、大正天皇の后、貞明皇太后節子が深く関わり設立されたものである。この時ハンセン病医療のために出された節子の「下賜金」25 万円の内の10 万円が設立の基金とされているが、基金ということ以上に、皇太后節子の関わりは世論形成に大きな意味を持った。

癩予防協会は、節子の誕生日である6 月25 日を「癩予防デー」と定め、「癩撲滅」「絶対隔離推進」の世論喚起の取り組みを行い、11 月10 日を「御恵みの日」と定め、「我々国民として最も尊ぶ皇室皇太后陛下が日本で一番虐げられて居る、踏みにじられている癩者に御手を下し給ふた」ことが皇室の慈愛として強調されていったのである。

ハンセン病問題における皇室の存在の大きさは、節子が「癩患者を慰めて」と題して詠んだ「つれづれの友となりても慰めよ 行くことかたきわれにかはりて」という歌の歌碑が、私立も含めて、ほとんど全ての療養所(菊池恵楓園は額装のみ。現在は倉庫に格納されている)に存在し、現在も大切に扱われていることからもうかがえる。「御恵みの日」の11 月10 日は、この歌が詠まれた日にちなんでいる。

光田健輔は、療養所内の反応を「患者たちにとりては、境遇上虐げられ、さいなまれた夜が明けたように有難く思うたことであろう」と述べ、「その声が療養所から叫ばれるとき、民衆は一日も早く病者を恩恵の楽天地に送ることを心がけるであろう」(『愛生』3 号 1932 年)というように、皇太后節子の存在を、絶対隔離政策推進の大きな力として感じとっている
(同上、pp.436-437)


だが、こうして、残酷な隔離政策、差別と支配の構図の上に立って、ハンセン病者を利用して存分に栄光を受けたのは皇室だけではなく、宗教界も同じであった。

最終報告書には、キリスト教がどのように隔離政策の推進に利用されたかというくだりもあるため、読んでみよう。
 

信仰によって苦難もよく之を征服する事を得べく、苦難に遭遇し初めて真の信仰に生きる事が出来るのだ、我々は苦難に打ち勝ち初めて意義ある人生の光明を見出す事が出来る。(「苦難の恵み」仁人 『甲田の裾』1931 年9 月号)

苦難を恵みとして受けとめ、それに打ち勝つことが「真の信仰」なのだと受けとめられている。
このように信仰による安らぎを与える「慰安教化」活動は、そのまま入所者に対して「隔離の受容」を植え付けていくことと表裏となるものであった。

2)「隔離の受容」の植え付け

「隔離の受容」の植え付け、このことが、ハンセン病問題に対する宗教の責任を明確にしていくうえでもっとも重要な事柄と言える部分である。

まずキリスト教の事例から考えていきたいが、多磨全生園のある入所者は、次のように述べ、ンセン病は天主(神)が人間に対して許可した疾病で、それには霊的すなわち宗教的な意味があるはずだと主張している。<略>

十字架の贖罪にしめされた天主の愛を知り、新生を経験した癩者の魂は、かつては自らの生ける屍を埋めるために来た墳墓である癩園を、聖寵の花園に変える。肉親との離別の寂寥、病まざりしならば知り得たであろう人間生活の諸々の愉しみ、病気の肉体的苦痛、それらをすべていと小さい犠牲として捧げる。それらは云いがたい霊魂の冨となって、彼の中に浄らかな喜びを溢れさせるだろう。」 (「癩と信仰」光岡良二『声』1954 年6 月号)

イエスの十字架上での苦しみと死を通して神の愛を知る者は、苦しみを神に捧げる貴い犠牲として受け入れることができ、そのことが療養所の中で生きていく上で喜びをもたらすとの理解である。

一言で言えば、病気とそれゆえの隔離の苦しみを受容し耐え忍び、喜びと変えて療養生活を営んでいくための支えとして、キリスト教は役割を果たしてきたと言える。そのことは、次の神山復生病院院長岩下壮一の「祖国の血を浄化せよ」というタイトルの講演でも顕著である。

この講演で岩下は、宗教あるいは信仰の果たす役割を「納得の装置」とみなし、なぜこの病気にかかったかという質問にどう答えるのかとの友人の質問に、「これはただの道徳や慈悲の心では解決できない、信仰の世界に入らなければ納得させることができない、実に癩問題には必然、宗教問題が伴わなければ満足な解決は得られない」(『岩下壮一全集・第8 巻』)との考えを示している。

ここでの信仰の世界とは隔離政策を受容し、自分の病気の苦しみを犠牲として神に捧げることである(岩下壮一「病者の栄光の日近づく!」『声』No.736 1937 年5 月号)。要するに隔離政策の中で生きていくには十字架にかかったイエスを思い起こす信仰によって不満や怒りを鎮め、さらに皇恩を感謝して生きるようにと促していくのである。
(同上、pp.444-445)

ここで、宗教あるいは信仰が、あらゆる理不尽な人権侵害に対する「納得の装置」としての役割を果たしたと指摘されていることは興味深い。

療養所において、キリスト教界の伝道者らは、ハンセン病患者が、このような病にり患したという不幸な事実だけでなく、その上に、政府の不当な絶対隔離政策によって社会から排除されて、残酷に人権を剥奪されて暮らさねばならなくなったという不幸をも、あたかも「キリストの十字架の苦難」にならうことであるかのように説くことにより、患者らの抵抗を静めることに貢献した。

キリスト教の伝道者らは、療養所を訪問しても、病者に向かって、苦しみの中に、「神の御心」を見いだすことによって、苦難を感謝しつつ耐え忍ぶように説いて聞かせるばかりで、決して政府の隔離政策そのものの不当性を訴えることはなかった。

このように、患者らが病という苦しみに冒されるだけでなく、絶対隔離政策という人権侵害の苦しみまでも耐え忍ぶことを、伝道者らは「霊的研鑽を積み、神に近づくための尊い宗教儀式」であるかのように説こうとしたのである。

このように、国家神道だけでなく、キリスト教界も、信仰を隠れ蓑にしつつ、患者らに不当な苦難を、抵抗することなく、甘んじて受け入れるように教え、人権侵害を正当化し、覆い隠す一種の「アヘン」(「納得の装置」)としての役割を果たした。さらに、カトリックは、そこからすすんで、患者らが療養所に隔離されていること自体を、あたかも出家者が俗世を離れて山奥で隠遁生活をするように、修道院生活と同一視することで、患者らが世俗の社会を離れて霊的な修練を積み、神に近づくことに専念できる生活は幸いであるとする考え方までも生んだ。
 

さらにキリスト教の信仰を持つものに対しての隔離の受容ということの極めつけは、療養所を修
道院と見なすことである。前出の多磨全生園の入所者は「癩と信仰」というタイトルで次のように記している。

「癩園にも特有の人間の悪意があり、醜さがある。其処と言えども原罪、自罪から自由に離れた世界ではない。しかし国家社会の保護の下に、生存競争の激しさから免れ、静穏な療養にいそしむ事の出来る此処は、世の嵐からの避難所であり、憩いの場所であり、或る意味でのユートピアであろう。この様な環境を最もよく利用する道は、此処を肉体的疾患の療養の地としてのみでなく霊魂の鍛錬、浄化の場所として用いることであろう。自らの療養生活を修院生活として自覚し実践することであろう。」 (『声』918 号、1954 年6 月号)

カトリック教会には修道生活の伝統と生活が美しく伝えられており、療養所を修道院と見なして生活することを理想とするようなメンタリティーも、カトリックの信者にとって隔離の受容に大きな役割を果たしたと思われるである。

そしてこの療養所は「修道院」という考え方は、カトリック系私立療養所の入所者にとって、大きな意味をもつものであった。

このたびの検証会議のなかで行われた被害実態調査の調査結果からもうかがえることであるが、カトリック系の療養所においては園内結婚は認められていなかったといってよい。それはカトリックの教義と深くかかわっており、療養所で働き生活をするシスターたちは、「清貧」「従順」「貞潔」がモットーとされ、信仰の上において男女関係を絶つ生活が貫かれていた。そのことが宗教的に価値のある生き方として、入所者に対しても求められていったのである。また、子孫をもうけること以外の目的での性交渉はカトリックの倫理観に強く反するものとされ、断種や堕胎は宗教上の「罪」であり許されるものではなかった。

これらのことから、国立療養所において隔離がもたらした大きな人権侵害である「断種」「堕胎」「不妊」手術は、カトリック系療養所では、国立のそれとはまったく背景の違うところで、少なくとも建前上は実施されなかったのである。

この結果、結婚をしようと思う入所者は、国立療養所などに移っていくより仕方がなかった。

また、患者作業についても、国立のそれとはやや趣を異にするといってよい。
カトリック系療養所において、「労働」は、毎日の「ミサ」と並んでひとつの「宗教的行為」と位置づけられていた。前にも触れたが、1959 年にカトリック系宗教誌で、神山復生病院の70 周年の特集が組まれた時、そのキャッチコピーが「祈りかつ働く生活」であった。

宗教施設における労働は、「神の願いを地上に実現するための行為」なのである。これは「修道院」の精神であり、神山復生病院が修道院になぞらえていたことがうかがえる。そのような修道院的環境の中で、患者作業への従事を施設側は入所者に求め、それに応えようとした入所者が存在していたことは確かであろう。国立療養所の患者作業との違いとして注目しておきたい。
(同上,pp.444-445)


この指摘は、カトリックの修道院生活を決してロマンチックで浅はかな幻想で美化してはおらず、修道院生活の中に、根本的に療養所生活に通じる「人権の剥奪」という概念が横たわっていることを見ている点で、非常に興味深いと言える。

むしろ、療養所生活の残酷さを通して、修道院生活の残酷さをも浮かび上がらせているとさえ言えるかも知れない。

こうして、療養所が修道院と同一視されることにより、「神への献身」「清貧」「貞潔」「従順」といった美名のもとで、患者らに、私有財産の剥奪、社会からの隔離、結婚の禁止や、子供を持つことの禁止などの様々な人権の制限・剥奪を加える行為が、宗教的な装いによって正当化されたのであり、その行為の残酷さが覆い隠されたのである。それらのことは、あたかも信者となった患者自身が自主的に望んで行われる神への献身であるかのようにみなされたのである。

さらに、療養所では、患者らの労働が奨励され、患者自身への日常生活の世話や、死んだ者の火葬でさえ、患者たち自身の仕事とされていたが、こうした労働についても、「カトリック系療養所において、「労働」は、毎日の「ミサ」と並んでひとつの「宗教的行為」と位置づけられていた。」。こうした刑務所の強制労働のような作業も、搾取や、支配や、苦役ではなく、自主的な宗教儀式の一環であるかのように、美化され、正当化されていたのである。

さて、最終報告書では、キリスト教界のみならず、仏教や天理教などが絶対隔離政策に果たした役割についても公平に記述されており、全宗教界がこの隔離政策の推進に加担した事実があるわけだが、本記事では、それぞれの宗教について語ることが目的ではないため、そろそろ最終報告書の記述を離れよう。

なぜ、これらの宗教は、絶対隔離政策の非人間性を何一つ指摘することもなく、むしろ、それに対する抵抗を眠らせる「アヘン」(「納得の装置」)としての役割を果たしたのであろうか。

その問題を考えるとき、私たちは、こうした宗教すべてが、それ自体が、「隔離」の原則に基づいて成立しており、ハンセン病者が隔離されていたのみならず、これらの宗教そのものも、人間に真の自由を与えず、むしろ、「愛」や「慈悲」の名のもとで、弱さの中に閉じ込め、人間の作り出したヒエラルキーの下に束縛することしかできないという、全く同じ構図を持っていた事実を見ることができるのではないだろうか。

筆者は、以上の宗教はすべてグノーシス主義的ヒエラルキーに基づいて成立した偽りの宗教であるがゆえに、本質的に、ハンセン病者に対する絶対隔離政策と同じ弊害を内に宿していたと考えている。たとえば、貞明皇后が、戦前の日本社会のヒエラルキーの頂点に存在する者として、最下位に位置するハンセン病者に慈悲を垂れるという構図は、グノーシス主義的な「簒奪の模倣」の願望を、ある程度満足させるものである。

つまり、至高者のような、下々の者たちには手の届かない高みにいる存在が、ほんの束の間、最下級の者たちに自分を現すだけで、下級の者たちにとっては、「神に等しい存在」である者が、自分たちに「存在を分かち与え」てくれた行為であるかのように、この上ない幸いとして受け止められる。

だが、現実には、何一つ、分かち与えられるものはなく、かえって奪い去られるだけである。慈悲という名目で、やんごとなき人々は、下級の者たちを救うどころか、より一層、辱める。「行くことかたきわれにかはりて」と詠まれた通り、貞明皇后が自ら直接ハンセン病者の世話をすることはなく、彼らの前に姿を現すこともない。患者に求められているのは、ただ「皇后が慈悲を示された」というフィクションの物語に感涙し、それを理由に、自分たちに対して行われている人権侵害を黙って受け入れ、耐え忍ことだけである。下賜金さえ、療養所の隔離政策を推進するために投入されたに過ぎず、ハンセン病者の自由のために用意された費用ではない。

これとほぼ同じ構図が、カトリックのヒエラルキーや、プロテスタントの牧師制度にも、見いだせるのである。もちろん、キリスト教以外の宗教も皆同じなのだが、伝道者らは常にハンセン病者よりも高いところに立って、彼らに慈悲を垂れる存在として、患者らのもとを訪れた。それらの宗教は、それぞれの人間の抱える弱さに、常に「救済」めいた解決案を示すことと引き換えに、信者となった者たちを、宗教指導者とのヒエラルキーに従属させ、かつ、信者が宗教団体のもとに来て、これに所属し、奉仕や献金をすることで仕えるよう奨励する側面を持っていた。

いわば、これらの宗教そのものが、大きく見れば、信者を俗世から「隔離」し、宗教団体の支配の道具として行くという側面を持っており、信者を人間を中心とする宗教的なヒエラルキーの中に束縛して行くちう性質を持つものなのである。そして、常にそのきっかけとして大いに利用されるのが、人間の抱える弱さや問題なのである。

キリスト教に入信する多くの信者たちは、この世で味わった何らかの挫折体験をきっかけに、己が罪を自覚し、それを克服する手立てを見つけようと教会を訪れる。しかし、教会の方では、彼らの弱さに耳を傾け、相談に乗り、助けの手を差し伸べるように見せかけながら、実際には、その悩み相談をきっかけに、信者となる人々から、「救い」を質に取る形で、その信者を宗教指導者を頂点とするヒエラルキーの中に組み込み、神に奉仕するという名目で、支配を受け入れさせた上、宗教団体の中に束縛し、「隔離」して行く。

はっきり言えば、キリスト教界であろうと、それ以外の宗教界であろうと、目に見える人間を宗教指導者として立て、信者がその者の教えに従い、宗教団体に帰依することで、人間が人間に「救済」を与えようとするすべての宗教には、本質的に、ハンセン病者の隔離政策に通じる残酷な支配と搾取、「隔離」の側面が含まれていると言えるのである。そうであるがゆえに、これらの宗教は、絶対隔離政策の誤りを見抜くこともできず、それを糾弾することができる立場にも初めからなかったと言えるのである。

当ブログではこれまで、ペンテコステ・カリスマ運動から出現して来たカルト被害者救済活動を例として、なぜこのような「弱者救済運動」が、偽りであると言えるのかを説明して来たが、つまるところ、この弱者救済活動の失敗も、国家神道がハンセン病者を「救済」という名目で隔離したのと同様に、「人間による人間の救済はすべて偽りである」という事実を表しているだけなのである。

うわべは「慈悲」や「同情」に基づいてなされる人間による人間の「救済事業」の究極的な目的は、決して人間を弱さから解放することにはなく、むしろ、弱さの中に永久に閉じ込めて支配することにこそある。それは「イゼベルの霊」のなせるわざであり、支配する者とされる者とのヒエラルキーの中に、弱さを抱える人間を永久に閉じ込める事を目的とする偽りの「救済」なのである。

人の弱みを足がかりにして、「救う側」と「救われる側」の差別が作り出され、その差別構造を固定化するために「慈悲」や「同情」という名目が用いられる。それをありがたいものとして受け入れれば、ターゲットとされた人間はどんどんディスカウントされて、その支配に抗う力を失って行くのである。

こうしたグノーシス主義的被造物崇拝と偽りのヒエラルキーのもたらす歪んだ差別と支配の構造が、ハンセン病者の絶対隔離政策には、究極の形で現れていただけであると、当ブログでは考えている。療養所の外に出れば、そこには自由な世界が広がっていたのかと言えば、全くそうではなかったのである。

療養所を訪れた宗教界の人々は、ただハンセン病に罹患していなかっただけで、宗教界にも、療養所と本質的にはそれほど変わらない風景が広がっていた。軍国主義時代の日本人の国民生活は自由でなく、宗教界の信者の生活も同じであった。人々は自分たちの弱みを宗教団体や社会に質に取られつつ、現人神のような誰かに生殺与奪の権を握られて、その者に仕えることで、自分を正当化し、何とかして自分の弱さを克服しようともがきながら、現実には、いつまで経ってもその弱さを克服できずに、支配と搾取の関係の中に閉じ込められ、隔離されていただけなのである。

さて、当ブログの本題に戻ろう。私たちは一体、どうすればこのようなグノーシス主義的な忌まわしい差別や支配と搾取の構造から逃れ出ることができるのであろうか? 

どうすればイエスが与えようとされた自由に人は至り着くことができるのであろうか?

そのためには、まずは目に見える宗教指導者に帰依することをやめることであろう。「やんごとなき人々」を探し出しては、彼らに自分の悩みや問題を打ち明け、他人に弱さを解決してもらおうと、彼らの「慈悲」や「同情」を乞うことをやめ、目に見える一切の教師たちを心の中から投げ捨てて、ただ目に見えない神だけに頼り、神にすべての重荷を負ってもらうことである。

イエスは地上におられた間、人々に同情の涙を注ぐことによって永久に人を弱さの中に閉じ込めようとはされなかった。むしろ、ご自分の復活の命を、信じる人たちに分け与えることにより、ご自身が救いとなって、その人を内側から解放されたのである。イエスは盲人の目を開き、足の不自由な人を立ち上がらせ、らい病患者を癒され、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16:15)と言われた。

人間は被造物に助けを求めている限り、罪に罪を増し加えるだけで、決して解放されない。キリストだけが唯一の救い主であり、十字架を通して人を内側から解放する力を持っておられるのである。

あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。<略>まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。」(ヨハネ4:21-23)

あなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要はありません。この油が万事について教えます。それは真理であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。」(Ⅰヨハネ2:26)

わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネ8:31)

主の霊のおられるところに自由があります。わたしたちは皆、顔の覆いを取り除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(Ⅱコリント3:17-18)