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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか。心を探り、そのはらわたを究めるのは、主なるわたしである。

前回の記事で、善悪知識の木の実を取って食べるとは、善と悪を切り分けるための議論をやめて、善と悪をごちゃ混ぜにしようとすることを意味すると書いた。

「何が善であり何が悪であるか」を議論することが、善悪知識の木の実を取って食べることではなく、むしろ、逆に、善と悪とを切り分ける議論をやめることが、「対極にあるものの融合」すなわち、相反するものを一つに統合しようとするグノーシス主義の錬金術に身を委ねることを意味するのだと。

聖書において、神の御言葉は、何が神に属する聖なるものであって、何がそうでない堕落した汚れたものであるのか、すべてのものを識別し、切り分け、分離する機能を持っていることが示されている。

「というのは、神のことばは生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。

更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。 」(ヘブル人への手紙4:13)

 
 この御言葉の切り分けの機能こそ、キリスト教の二分性、二元論、父性原理なのであって、これを否定すれば、キリスト教の神聖さは失われる。

キリスト教の神は、唯一の神であり、ご自分以外のいかなる者にも栄光を与えられることのない排他的な神である。

ところが、異端思想は、必ず、このキリスト教の排他性を非難して、そこに何かをつけ加えようとする。

たとえば、「キリスト教には父性原理ばかりが強く、二元論の排他性ばかりがあって、それは人間に狂気をもたらす。キリスト教にはすべてを包容する母性原理が足りず、それを補うべきだ」などとして、キリスト教の二分性を非人間的なものとして非難し、御言葉の切り分けを否定し、そこに「何か別なもの」をプラスアルファとして混ぜ込もうとする。

ペンテコステ運動も、キリスト教の中に「母性原理」を持ち込もうとするものであり、それは東洋神秘主義とキリスト教の合体を目指す異端思想であるということを、当ブログでは幾度も示した。

キリスト教は「父性原理と母性原理の統合」のための宗教ではない。

ここでは、父性原理とは、父なる神の戒めである御言葉を指し、母性原理とは、被造物=人類=目に見える万物を指す。

聖書の秩序においては、この世の目に見えるもの(被造物)は、見えないもの(御言葉)から成り立っているのであり、見えないものこそ、見えるものの根源であるから、そこにある支配関係は明白である。

ところが、父性原理と母性原理の「対等」を唱え始める人々は、見えるものと見えないものとの支配関係を覆す。

「対等」という言葉に注意が必要である。「対等」を主張する人々が、本当に対等な関係で満足することはない。それは必ず、支配関係を覆すために使われる。

つまり、聖書の秩序においては、見えないもの(御言葉)こそ主であって、見えるもの(被造物)は従の関係にあるにも関わらず、これらを「対等」であると主張する人々は、その秩序をこっそり逆転し、「見えるもの」を「主」として「見えないもの」を「従」とさせる唯物論を唱えているのである。

こうして、キリスト教の中に「母性原理」が持ち込まれると、人類が父なる神の戒めに服従せねばならないという関係性が失われ、目に見える被造物が、見えない神ご自身よりも高く掲げられて、唯物論が出来上がることになる。

それが、Dr.Lukeの提唱している理論である。

Dr.Lukeがフォイエルバッハを肯定し、神学を否定している背景には、「見えないもの(御言葉)」こそが「見えるもの(この世)」の根源であることを否定する唯物論の影響がある。
 
唯物論とは、端的に言えば、見えるものが見えないものから生まれたことを否定し、御言葉なるお方を否定し、退けて、その方に服従することを拒み、目に見えるものが主であって、すべての根源であると主張する思想である。

だからこそ、Dr.Lukeは「エクレシアはキリストである」などという荒唐無稽な主張に至り着き、キリストの頭首権に服さず、まるで斬首された死体のように、首を持たないさまよう体が、あたかも神であり、主であるかのようなグロテスクな結論に行き着くのである。

Dr.Lukeはついに恐ろしいことに、キリスト教の一神教なることさえ否定し始めた。彼は書いている。
 

Luke Karasawa(唐沢治)
@Doctor_Luke ·
「聖書はいわゆる一神教ではない。エロヒムとはマルチ・ゴッドsの"カテゴリー"。要するに聖書は多神ワールド。一神教は白いキリスト教が創作したものにすぎない。」


眩暈がして来るような話だ。

キリスト教の一神教なることまでも否定するとは、完全に聖書から逸脱しており、イカれている、狂ってしまっている、としか言いようのない状態である。
 
それはDr.Lukeは自分たちが「キリスト」であり、「神々」であると公然と言い始めたことを意味する。かつて杉本徳久が「神々の風景」というブログを解説していたことを思い出す。
 
Dr.Lukeは次の記事の中で、彼の言う「エロヒム」とは何であるかを解説する。
 

キリスト教のマトリックスをエクソダスせよ
2020-07-03 | by drluke 

「ここでも、メッセでも繰り返し指摘しているが、Elohimを「神」とか”God”と、YHWHを「主」とか”LORD”と訳してはならない。特に”God”は元々バビロンのいわゆる神の名称である。もとより「神」は日本の概念であり、聖書の原語におけるElohimやYHWHからは相当に離れている。

このElohimが霊的生命体の”residence”あるいは”domain”であることはDr.Heiserがその著書 “The Unseen Realm: Recovering the Supernatural Worldview of the Bible “において解き明かしていることはすでに私のセミナーでも紹介している。

これらの概念の差はいわゆるキリスト教の歴史の中で構成されたキリスト教神学が元凶であり、それはオリジナルの聖書のマトリックスとはかけ離れた人造のマトリックスである。

最近ではこのことが徐々に広まりつつあるが、たまたま発見したこのチャンネルは私とほぼ同じ見解である。

まずはElohimに関して-

最も高きElohimであるYHWHについて-

そして新しい霊的生命体としてのわれわれについて-」



こんな記述を真面目に読む必要はない。

ここで「最も高きElohimであるYHWHについて-」という言葉が使われていることに注目しよう。

そうすれば、以上の説はまさにグノーシス主義であることが分かる。

以前に当ブログでは、「キリスト教界に入り込むグノーシス主義的・東洋的神秘主義の危険⑩~」の中で、一見すると、キリスト教を宣伝するための動画のように見えるEden Mediaも、その実、グノーシス主義を広めるための媒体であることを指摘した。

たとえば、Eden Media は「【4月】全能の目・松果体のお話。」の中で、ヤコブがペニエルで神と格闘したことについて言及し、そこで「神」を「最高神」と呼んでいる。
 

 

 聖書における「松果体」について…

古代人は松果体(PINEAL GLAND)を知ってた。
マインドとの繋がりを。
それは難解だった。
実際、聖書も触れてるくらいだ。

それでは、聖書に松果体(PINEAL GLAND)が登場する
節句を挙げていこう。
「創世記 32章30節」

ヤコブは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、
なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)
と名付けた。

ペヌエル=Peniel="Pineal Gland"(松果体)」 


「”ペヌエル”で何が起きていたか説明すると、
ヤコブは夜明け前になっても起きてたんだ。
そんな彼は最高神の天使と格闘中だった。
それは”YAH”(ヤハウェ)の天使だ。
ヤコブが最高神の化身の天使と格闘していると
ヤコブはももの関節をはずしてしまう。

それでも、ヤコブは最高神から
祝福をもらうのに必死で
「祝福するまでは離さない」と言った。
すると、最高神は彼に祝福を与え、彼の名前を
”イスラエル”に変えた。

ヤコブは「顔と顔とを合わせて神を見たので、
その場所を”ペヌエル”と名付けた。
「面と向かって、神を見たため…」



確かに、聖書には、父なる神、唯一の神を指す言葉として、"the most High"という言葉が使われていないわけではない。

たとえば、イザヤ書12;14では、ルシファーが神を超える存在になろうとして、

いと高き者のようになろう」

と願ったくだりは、

KJVでは
"I will ascend above the heights of the clouds; I will be like the most High."
と訳されている。

他にも、詩編73:11において、

「そして彼らは言う。
「神が何を知っていようか。
いと高き神にどのような知識があろうか。」」

というくだりは、

”And they say, How doth God know? and is there knowledge in the most High? ”
 
  また、詩編82:6-7の

「わたしは言った
「あなたたちは神々なのか
 皆、いと高き方の子らなのか」と。
 しかし、あなたたちも人間として死ぬ。
君侯のように、いっせいに没落する。」

のくだりは、

”I have said, Ye are gods; and all of you are children of the most High.
 But ye shall die like men, and fall like one of the princes. ”

また、哀歌3:34-36では、

「この地の捕われ人をだれかれなく
 足の下に踏みにじったり
 いと高き神の御前もはばからずに
 他人の権利を奪ったり
 申立を曲解して裁いたりすれば
 主は決してそれを見過ごしにはされない。」

とのくだりは、

"To crush under his feet all the prisoners of the earth,
To turn aside the right of a man before the face of the most High,
To subvert a man in his cause, the Lord approveth not. "

とある。

このように、聖書では、「いと高き方」という言葉が、"the most High"と訳されている事実はないわけではないが、それはあくまで天におられ、すべてのものを足の下にしておられる神の高貴な地位、支配的な立場のことを指しているだけであって、神々の等級(ヒエラルキー)を示したものではない。

だから、聖書では、Eden Mediaのように、"the most High"という言葉が、「最高神」などという言葉に訳されることはない。

もちろん、聖書に「松果体の話」などが述べられていないことも確かである。その意味でも、Eden Mediaの動画は、人間が悟りの境地に達することによって「神のようになれる」と教える東洋神秘主義思想を述べたものであって、聖書とは似ても似つかない内容である。

Dr.Lukeは以上に挙げた記事の中で、聖書プロジェクトの動画を紹介している。

しかし、この動画も、筆者から見ると、極めて危険である。

聖書は映像ではないし、人間による解説の言葉でもない。ところが、聖書プロジェクトの動画は、聖書を分かりやすく3分で解説するなどと言って、人々の目を平板でつまらない音声の解説と、ありきたりで面白くもないアニメに釘付けにし、聖書の御言葉そのものから逸らしてしまうのである。

聖書の御言葉は、霊的コンテクストの中で編み出されたものであって、その言葉そのものに価値があるのに、これを二番煎じ、三番煎じの内容に置き換え、似ても似つかないものを掴ませた上で、分かった気にさせてしまうのである。

どんなに大量の動画を見ても、聖書の御言葉は一つも頭の中に残らない。そういうものに熱中している人は、いざという時、真剣勝負で神に頼るために、神に願いを聞き入れていただくために、聖書に記された約束の御言葉を一つでも思い起こそうとしても、何も思い浮かんで来ないだろう。

Dr.Lukeは過去にこんな記事も書いていた。

聖書は読むというよりは聞くものである
2019-06-22 | by drluke 

こんな考え方をしているからこそ、意味のない動画に飛びつくのであろう。聖書の御言葉をただ音声として聞くだけでは、私たちはその意味内容を全く理解できず、霊的に咀嚼もできず、それゆえ、御言葉が私たちの内で実際に実を結ぶことはない。

私たちが御言葉に触れるときに、最も必要なのは、それを音声として聞くことではなく、霊的な文脈における意味内容をとらえることである。
 
さて、話を戻すと、Dr.Lukeが、「最も高きElohimであるYHWHについて-」と書いていることから、彼らの言う「エロヒム(神々)」には等級(ヒエラルキー)があるということが分かる。

東洋神秘主義思想とグノーシス主義は、もとは同じ一つの思想である。

グノーシス主義においては、「真の至高神」(虚無の深淵)とされる「最高神」がおり、そこから「存在の流出」が起きて、「アイオーンたち」(神々)が誕生したとされる。

しかし、そこで言う「アイオーンたち」は、いわゆるギリシア神話に登場する神々のようなそれぞれに個性や性格を持った神ではない。

どちらかと言えば、Dr.Lukeの言う、「エロヒムとはマルチ・ゴッドsの"カテゴリー"」という言葉に近いものである。

もっと別の言葉で言えば、アイオーンとは、この目に見える世界の被造物、すなわち、人間のことである。

グノーシス主義において、至高神から「存在の流出」により、アイオーンが誕生したとされていることの意味は、「見えない世界(父なる神の御言葉)」と「見える世界(被造物、この世、人間)」とを逆転させるためのトリックなのだということに気づく必要がある。

聖書の創世記は「初めに、神は天と地を創造された。」というフレーズから始まっており、ここには、神の主体的で能動的な命令がある。

神はこの天地を創造するに当たり、自らの意思によって力強く命令を下し、無から有を呼び出された。
「光あれ。」(創世記1:3)
「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」(創世記1:6)

人間を創造される際にはこう命じられた。

我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」(創世記1:27)


そして人にこう言われたのである。

「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」(創世記1:28)

このように、神が被造物を創造されるに当たっては、はっきりとご自分の意思により、目的を定め、主体的にこれを造られたのである。

ところが、グノーシス主義においては、神と被造物との関係性が逆転しており、被造物の側から神を「覗き見る」ことによって、誕生の力を奪うのである。

グノーシス主義において、神は「虚無の深淵」であり、「鏡」であるとされている。

そのため、神が人をご自分に似せて造られたのではなく、人が自分の姿を「鏡に映して」覗き見ることにより、そこから、神々しい存在が「流出」したという。つまり、グノーシス主義では、神を「鏡」とみなすことによって(すなわち、人間の欲望を映し出す鏡とすることによって)、人はその鏡にただ自分の姿を映すだけで、自己の存在を神の領域にまで高めることができ、神としての性質を我が物にできるかのようにみなすのである。

だが、そこには、人の側からの欲望があるだけで、神の側からの承認はない。だからこそ、神の意思を抜きにした「存在の流出」であり、とどのつまり、盗みなのである。

それはエデンにおいて、悪魔が人類をそそのかし、善悪知識の木の実を取って食べれば、目が開けて「神のようになれる」と教えたのと同じである。

そこでは、あたかも神の側に能動性、主体性、意思、力、命などがあるのではなく、それらは被造物の側にあって、被造物の誕生は、神の意思ではなく、被造物の意思によるものであったかのごとき理論が展開されていることが分かるだろう。

一言で言ってしまえば、グノーシス主義において、神は被造物の欲望に承認を与えるための単なるお飾りの存在に過ぎず、結局のところ、それは無であって、意思を持たないのである。

このようにして、グノーシス主義の世界では、ナルキッソスが水面に映った自分の姿に見惚れ、限りの無い自己愛、自己肯定に溺れ、自分をついに神としたように、アイオーンたちが「虚無の深淵《鏡)」である「父(至高神)」を見つめ、そこに映った自分の姿に見惚れ、それを勝手に自己肯定して、自分は神だと言い始めるのである。

アイオーンたちが、父なる神の同意なしに、神から神としての性質を盗み取って勝手に神々を詐称するようになった。

だが、そうして生まれた「神々」が多すぎて、「神々」の社会にはヒエラルキーが作られたのである。

このように、グノーシス主義では、まず最初に「アイオーンたち」による神の性質の盗みがあって、その次に、最下位のアイオーンであるソフィアが、序列を犯して、一足飛びに、真の至高者を知って、単独で子を産もうとする。

そして、ソフィアは禁を犯したとして下界に転落しかかるのだが、それはグノーシス主義において、ソフィアの「罪」とみなされているのかと言えば、そうではない。

グノーシス主義においては「罪」という概念が存在しない。そこで、ソフィアのしたことは、「ソフィアの過失」という言葉で呼ばれている。

彼女が、至高者の意思を抜きにして、勝手に神を知ろうとしたことは、父なる神の戒めに背いて罪を犯したことを意味せず、彼女の単なる過失だったというのだ。

一体、ここで言う「過失」とは何なのか。

それはソフィアが、アイオーンたちの社会の暗黙の序列を乱した、すなわち、「和を乱した」ことである。

ソフィアは、本来ならば、最下位のアイオーンであるから、分をわきまえ、自分よりも上位のアイオーンたちを差し置いて、至高神を知ろうとしてはいけなかった。ところが、彼女は、至高者に対する憧れが強すぎ、それを抑えることができなくなって、自らその序列を踏み越え、自分に与えられた分以上のものを得ようと、他のアイオーンたちを差し置いて、至高者を知ろうとしたことが、彼女の「過失」であるのだという。

ソフィアが何が何でも至高神を知って、自分も神のようになりたいと願ったことは、グノーシス主義においては、盗みどころか、神への尽きせぬ憧憬や愛着の念が引き起こしたこととみなされ、一定の同情の対象にさえなっているのである。
 
言い換えれば、ヒエラルキーを飛び越えて、アイオーンたちの社会に水を差すようなことをしたことが、彼女の過失とみなされている一方、至高者から神としての性質を盗み取ろうとしたことそれ自体は、罪とみなされていないのである。

いかにグノーシス主義において、至高者の意思というものが無視され、アイオーンたちの村社会の掟ばかりが重要視されているかがよく分かる話である。それでいながら、「自分も至高者のようになりたかった」というソフィアの欲望に基づく反逆は、他のアイオーンたちにも頷ける話として、同情の対象にさえなっているわけだから、自己矛盾に満ちている。
 
つまり、グノーシス主義とは、神不在の、人間だけがすべての村社会なのであって、そこでは、父なる神の掟に背くことが罪なのではなく、人間の欲望こそが掟なのであって、人間が人間の気分を害し、上下関係を犯し、自分よりも目上の人間たちの気分や尊厳を傷つけ、面目を失わせることが、「罪(過失)」とされるのである。

そこで、Dr.Lukeが、自分たちは「エロヒムだ」と述べていることは、グノーシス主義のアイオーンたちと同じ原理に基づき、彼らが聖書の父なる神から、父なる神の意思と承認がないのに、勝手に神である性質を盗み取り、神々を詐称するようになり、さらに神々としての自分たちに等級をつけたことを意味すると言って良い。

Dr.Lukeは、「罪」という言葉を決して使わない。

そして、「悔い改め」という言葉も嫌いだとして、「悔い改め」の定義を改変する。
 
 「マインドの要塞が国も個人も滅ぼす-真のメタノイアの必要性-
2020-06-30 | by drluke 

の記事の中では、D.LukeはMMTの理論を用いて、日銀による無限の量的金融緩和がいずれ財政破綻をもたらすだろうとして緊縮財政を唱える者の理屈を打破しようとする。

そして、人間は誤った思考にとらわれているから、自由になれないのであって、その誤った思考を捨てることによって、「メタノイア」(悔い改め)を経て、自由になれる、などと主張する。
 

原則は霊的なことも、経済的なこともすべて同じだ。マインドの中に構築された要塞がその人の人格や人生を決定する。国のレベルでも集合的マインドのうちに構築された要塞が国柄や国の行く末を決める。かのハラリ氏も、人類は共同幻想を共有する認知革命により生存していると指摘しているが、この共同幻想が致命的な偽りである場合、事は深刻となることは歴史が証明してる。


メタノイアを「悔い改め」と訳することはいつもながら不適切。こういった邦語訳の罠でニッポンキリスト教が構築されることは常に指摘している。「悔い改めよ~」と叫ぶボクシが実はメタノイアしていないのだ。それはマインド・シフト(転換)。語源は”meta+noieo”、文字通り、マインド(nous)をメタ(=トランスファー)することだ。ここで宗教的な倫理や道徳と絡めるとややこしいことになる。単純に言って、すべてのことにおいてYHWHエロヒム視線の価値判断をすることだ。」



全く滅茶苦茶である。

キリスト教の悔い改め(回心)とは、人が神の御言葉に背き、神に対して罪を犯したことを認め、神の独り子なるイエス・キリストの十字架の贖いを自分の罪のための身代わりであると認め、イエス・キリストを主として、救い主として受け入れ、神に立ち帰ることを意味する。

人が救われるのは神の側からの恵み、すなわち、超自然的な介入によるのであって、回心そのものが信仰による御霊の働きにより、恵みによるものである。

罪の自覚と、信仰がなくては、回心すらも起きない。

つまり、そこには、人間の側からの罪の告白と、神の側から人間の心に対する超自然的介入が存在するのである。

ところが、Dr.Lukeの論では、回心の中から罪という概念が抜け落ちている。

彼は「YHWHを「主」とか”LORD”と訳してはならない。」として、イエスが主であるという事実さえ認めない上、悔い改め(メタノイア)とは、罪の悔い改めではなく、ただ人が誤った思考を捨てて、より適切で正しい思考を選び取ることによって、破滅から逃れることとする。

これは人間の心の中で起きる単なる思考転換である。
 
 Dr.Lukeは「マインドの中に構築された要塞がその人の人格や人生を決定する。」などと言って、体に出来た病巣を切除するように、「マインド」に出来た病巣である「要塞」(すなわち誤った思考)を切除しさえすれば、「マインド」は健全になると唱える。

これは今流行りのキリスト教カウンセリングにも通じる。人が自分の心を点検し、幼少期までさかのぼって、何かつらい、トラウマになるような体験がなかったかどうかを探り出し、そういう悲しい出来事を見つけると、それを「魂の病巣」として告白し、これを自分で「手放す」儀式を行い、そういうことを繰り返すことで、あたかも魂が健康になるかのように錯覚する。

この考え方は極めて危険である。なぜなら、マインドとは人の魂であって、人の魂も、人の肉体と同じく、罪に堕落しているにも関わらず、それを認めない考えだからである。

もともと魂も肉体も罪に堕落している以上、それをどんなに改良しようとして、どんなに多くの手術を繰り返し、「病巣」なるものを見つけ出しては切除を繰り返しても、魂がそれによって清められることは決してないのである。

聖書は言う。
 
人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか。
 心を探り、そのはらわたを究めるのは、主なるわたしである。」(エレミヤ17:9-10)

このように、人間の心を取り扱って、正常にすることができるのは、神だけである。

人間はどんなに自分で自分の心を点検しても、その病を癒すことはできないのである。

ヨハネの手紙にははっきりと記されている。

「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理は私たちの内にありません。自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません、」(1ヨハネ1:8-10)
 
聖書における罪とは、神の戒めに背くことであって、「誤った思考」を持っていたと人前で告白することではない。

ところが、ある人々は、カウンセラーの前でトラウマを告白したり、牧師や信徒の前で「信仰の証」と称して、自分の人生の失敗を公言したり、自分で自分の思考を点検し、改造することで、あたかも健全な魂が手に入るかのように教える。

しかし、そうして人前で過去の失敗体験を告白することと、神の御言葉に服さなかったことを神の御前で罪として認めて悔い改めることは別物なのである。

また、罪とは、人間が自らの魂と肉体に働く堕落した欲望に従って生きることの結果として生まれるものであるから、人間は罪と手を切るためには、主と共なる十字架がその人の堕落した肉に深く適用されて、人が生まれながらの古き自己に対して死ぬということがどうしても必要となる。
 
ところが、Dr.Lueはボディビルなどで体を鍛え、あたかも三島由紀夫が肉体を永遠に高めようとしたことにならうかのような態度を取り、今またそれと同じ法則に従い、マインドを鍛えるためのボディビル(マインド・シフト)をすれば、人の心は健全となり、サタンのわざを打ち壊すことができるかのように教えるのである。
 
杉本徳久もかつて「健全な精神は健全な肉体に宿る」と記事に書いていたことを思い起こしたい。

こうした考え方の危険性は、人が肉体を鍛え、精神を鍛え、どれだけ自分の弱点を自力で克服したつもりになっても、人は自己の力でこれらを罪から解放することはできないことを忘れ去れ、あたかも肉体のボディビル、精神のボディビルによって、人が改造不可能な自己を健全化することができるかのように錯覚させるところである。

Dr.Lukeはいみじくも上記の記事の中で、「閉鎖社会の共同幻想」なるものに警鐘を鳴らしているが、それがそっくりそのまま、自分に当てはまる警告となっていることに気づいていない。

Dr.Lukeはかつて記した「閉鎖社会の共同幻想に思う」の記事の中でこう書いていた。
 

「ちなみに精神分析学者の岸田秀氏は『官僚病の起源』という本の中で、日本の官僚組織がどうして現在のような状態であるのかについて、閉鎖社会における共同幻想によるとして、次の諸点をまとめています:
①官僚組織は、本来、国のため国民のためのものであるにもかかわらず、自己目的化し、仲間うちの面子と利益を守るためにの自閉的共同体となっている。

②しかも、その自覚がなく、国のため国民のために役立っているつもりである。

③共同体のメンバーでない人たち、すなわち仲間以外の人たちに対しては無関心または冷酷非情である(外共同体バイアス)。

④同じことであるが、仲間に対しては配慮が行き届き、実に心やさしく人情深い(内共同体バイアス)。

身内の恥は外に晒さないのがモットーで、組織が失敗を犯したとき、失敗を徹底的に隠蔽し、責任者を明らかにしない。

したがって、責任者は処罰されず、失敗の原因は追究されないから、同じような失敗が無限に繰り返される。」

 
以上は、まさにDr.Luke率いるKFCにそっくりそのまま当てはまる理屈である。

しかし、以上はKFC、官僚集団のみならず、どんなに集団にでも起きうる現象なのである。なぜなら、それはグノーシス主義のもたらす世界観であり、誤った思想に導かれる「神々」が作り出す歪んだ「村社会」の掟だからである。

グノーシス主義とは、村社会である。そして、その村社会が閉塞的で、歪んだものとなって行くのは、それが離脱を許さない上下関係によって支配されており、しかも、その共同体では、上下関係(ヒエラルキー)に逆らうことが「罪」とされ、真の意味での「罪」の概念が失われているためである。

グノーシス主義では、「アイオーンたち」は誕生の最初の瞬間から、「自己目的化」しており、神を自分たちに箔をつけるための存在として勝手に利用して、神から存在を盗んで「神々」となった。そうして出来たアイオーンたちが己を誇るための共同体は、「仲間うちの面子と利益を守るための自閉的共同体」(いわゆる「コミュ障な社会」)であり、自己保存以外の目的がそこには全く存在しない。

従って、それは「俺様主義者」ばかりで占められる共同体なのだが、ヤクザの仁義のように、一応、そういう「俺様主義者」の社会に、見せかけの秩序を保つために、ヒエラルキーがもうけられ、厳格な序列が存在する。

そこでは、神がただ人間の欲望を裏づけるだけの存在として形骸化しているため、神に背くことが罪なのではなく、人間が社会の序列を犯すこと、上下関係を壊すこと、目上の存在の命令に背き、面目を失わせることが「罪」とされる。

そこには、人権だとか、善だとか、悪だとか、不法とかいった概念はない。弱い者には何をしても良いが、目上の者に逆らうこと、また、「神々」であるはずの彼らの存在価値に疑問を投げかける行為が、「罪」(過失)とされる。

だから、Dr.Lukeに盾突く信者は破門されたり、刑事告訴されたりする。

安倍氏に忖度しない官僚は、人事で干されたりする。

教団を離脱する教会が悪者とされてバッシングされる。

たとえるならば、SNSを開設してそこに自撮り写真を投稿しては自画自賛を繰り返している人たちの集団のようなものだ。彼らは毎日、自分たちの姿を鏡に映してそれに見惚れ、自分自身を賛美することによって、自己価値を高められると考えている。

しかし、それはすべて彼らの身勝手な自己承認に過ぎず、彼らの集団の外から、彼らを賞賛してくれる誰かがいるわけではない。

彼らは、同じ価値観を共有する身内の間では、互いにヨイショし、褒め合うことで連帯している、その連帯が保たれていることで、あたかもこの異様な自己愛に満ちた集団に、秩序があり、高い価値があるかのような錯覚が保たれる。

その価値を保つために、仲間の間で失敗があっても、決して言及せず、大目に見ることが暗黙の了解とされる。

だが、その一方で、同じ価値観を共有しない部外者に対しては、恐ろしく残忍であり、冷酷である。

たとえば、彼らが自画自賛にふけっている最中に、外来者が一人やって来て、彼らの投稿した写真を冷めた目で見つめ、一言でもけなそうものなら、その人は袋叩きにされるかも知れない。

その社会は「俺たちはすごい!」という錯覚を保つことだけを第一目的として存在しているから、彼らの存在をけなすということは、タブーを破ることを意味し、「神々」であるはずの人々を栄光の高みから引きずりおろして辱める人類に対する許されない「冒涜」行為とされるのだ。

ところで、もし以上の指摘が日本の官僚に当てはまるとすれば、一体、なぜ日本の官僚集団はそのようにまで自己目的化してしまったのか?

筆者は、鍵は天皇にあると見ている。

戦前・戦中の官僚は、「主権者」とされた天皇に仕える存在であった。それゆえ、官吏たちは、自分が神を取り巻く神々のような存在であるとの自負を持つことができ、国民の上に立つ存在であると己惚れることができた。

しかしながら、戦後、天皇は「神」ではなくなった。「象徴」という何かよく分からない、鏡のように空洞化した存在となった。

だが、プライドの高い官僚には、いきなり国民の公僕になったなどと言われても、認められないだろう。何しろ、エリートになるために勉強し、試験も受けたのに、なぜ自分よりもはるかに愚劣な人々の僕にならねばいけないのか。

現に、国民は納税、勤労、教育の三大義務を国に対して負っているではないか。

だとすれば、国は国民に対し、これらの義務を守るよう命令する立場にあるのではないのか。

そこで、現代日本の官僚たちは、国民に対する義務という鞭を振りかざし、さらに、抜け殻となった天皇という「鏡」に自分たちの姿を映し出し、そこから過去の「神々」としての栄光を引き出し、これを依然、幻想として今も身にまとおうとしている。

そんな人々ばかりではないかも知れないが、日本の官僚機構にそういう傾向が強く残っているのは確かだ。未だに彼らの多くは、自分たちが国民に君臨する存在だと自負している。

いっそ天皇制が廃止されていれば、そのような逆転現象も起きなかったかも知れない。

国事行為しか行えない、あたかも意思を持たないかのような「象徴」というものがなければ、そのような中途半端などっちつかずの状態は生まれなかったかも知れない。

それだからこそ、かえってその中途半端さを悪用して、「大日本帝国の栄光よ再び」などと、天皇を再び「神」に押し戻そうとする人たちが出て来るのだ。

また、我が国は社会主義国でないにも関わらず、なぜ現憲法が、国民に三大義務を課しているのか、筆者には理解に苦しむところである。

たとえば、コロナで失業者や倒産が増えるにつけ、国民には勤労の義務を果たそうにも果たせなくなり、納税の義務も、国の経済が落ち目になればなるほど、果たせなくなって行くことは目に見えている。

さらに、教育となれば、学校ではいじめが蔓延し、子供たちが自殺に追い込まれており、教育現場の崩壊は、もはや無視できないものになっている。
 
以上に挙げた国民の三大義務が、当然のごとくまかり通る時代は、もはや過ぎたのだ。

ならば、国民に義務を課すこともできなくなった官僚集団の栄光、存在価値はどこにあるのだろうか?

これはプロテスタントの教会の現状とよく似ている。

プロテスタントは、カトリックの聖職者階級を、聖書に定めのない、腐敗した権力として否定して、神と人との仲保者はキリストだけであるとの聖書の御言葉に立ち戻り、万民祭司を唱えて、宗教改革を行ったはずであった。

ところが、そのプロテスタントも、牧師制度という甚だ中途半端な抜け殻を内に残してしまったのである。

牧師制度は、カトリックの法王を頂点とする聖職者のヒエラルキーの残存物であり、神と人との仲保者であるキリストになり代わる可能性のあるものだからこそ、牧師のいる教会では、牧師の独裁化やら、カルト化やらが起こるのだ。

牧師とは、「象徴」であり、霊典的存在だという人もあるが、そもそもなぜ信徒とは異なる牧師階級が教会に必要なのか、なぜ役割分担ではなく、身分としての階級が必要なのか、聖書にその根拠はない。

牧師とは、結局のところ、天皇と同じように、「法王は神の代理人である」という過去の現人神の栄光を抜け殻のように身にまとっただけのどっちつかずの存在である。

この世の進歩は、キリスト教の進歩にかかっているということを、筆者は以前に書いたことがある。

資本主義は、プロテスタントの申し子であって、もしもこの先、プロテスタントから新たな宗教改革が生まれて来なければ、資本主義の行き詰まりにも、打開策は現れないであろう。

資本主義の仕組みはプロテスタントにおける教会生活を基盤として作り上げられている。

我が国において、現憲法下で国民に定められた納税、勤労、教育の三大義務も、プロテスタントにおける信者の献金、奉仕、日曜礼拝を守る(牧師の説教を聞く)義務に重なる。

しかし、今やこれらの義務は信者に重くのしかかり、信者を押し潰そうとしている。日曜礼拝の牧師の説教は、命の息吹の伴わない、恐ろしく退屈で聞くに堪えないものとなり、月曜から金曜の労働で疲弊している信者には、日曜日にまでただ働きの奉仕をする余力はない。牧師だけでなく牧師一家全員を養わなくてはならない献金は、信徒にとって重い年貢同然である。

その上、教会はさらに立派な礼拝堂の建設を目指し、教会債を発行してまで、これを賄おうとしている。この先、社会は高齢化して信者が増える見込みもなく、返済できる当てもないのにだ。

このような共同体が、神の国と何の関係があるだろうか。

このどこに一体、山上の垂訓を少しでも反映した地上天国に値する神の国の要素があると言えるのか。
 
結局、こうした腐敗現象はすべて「目に見えないもの」を「見えるもの」に従属させた結果として起きる転倒に他ならない。

安倍政権が第一次では「神国日本」などという幻想を取り戻そうとするかのごとく、「美しい国造り」などを唱えていたことを思い出せば良い。

これらはすべて地上天国の実現を目的に掲げるものである。

しかし、山上の垂訓が実現するために何より必要なのは、人間の欲望が肯定されて、繁栄が築かれることではなく、人間が正しい行いをして、悪を退け、善なるもの、正義と真実を守ることである。
 
人間は、たとえ神を信じていない人であっても、己の良心の働きにより、何が善であって、何が悪であるかを見分ける力を少しは持っている。

決して権力者に忖度して目上の人間の面目をつぶさないことが「善」なのではなく、権力者に逆らうことが「悪」なのでもなく、正義とは、この世の権力の有無とは関係がなく、かえって、自力では自分を守れないような弱い者を虐げ、追い詰め、死に追いやることが、悪であることを人は知っている。

しかし、そうした心の良心の働きを殺し、ただこの世のヒエラルキーに従い、自分よりも目上の人間に忖度して生きることを「善」とし、権力者の言い分に逆らうことや、社会に波風立てることを「悪」とみなすとき、人は良心の働きを失う。

それはあたかも自分では何が善であって何が悪であるかもわきまえることができず、ひたすら己の欲望だけに従ってさまようようになった、首を失った体のようなものである。

人の良心の機能が死んでしまうと、すなわち、罪に対する鋭敏さが失われると、人間社会は、各人が己を保つことだけを全てとする自己目的化した場となり、そこは村社会の掟だけがものを言う、弱肉強食の場となり、無法地帯と化して行くことになる。

人の良心が機能しなくなると、人間の人間たる所以が失われるのである。

かくて最高の掟である神の御言葉の権威が失われ、御言葉に逆らうことが「罪」であり、「悪」であるという認識が失われ、ただ目に見える人間社会に混乱をきたさないこと、その上限関係を壊さないこと、人間の満足に逆らわないこと、目上の人間の面目を保つことだけが「善」とされると、人間の欲望を肯定することだけを目的とした、どこまでも独りよがりで身勝手な社会が出来上がり、その社会には悪が満ちることになる。

神の栄光を、神ご自身に求めるのでなく、影に過ぎない人間が勝手に身にまとい、模倣し、横領しようとすることは、罪なのであり、その悪の上に、人間の栄光ある社会を築くことはできない。

精神のボディビル、肉体のボディビルをどんなにやって、その成果をSNSに撮影して自慢したところで、人は一切、罪なる自己を改良することはできず、神はその一切の努力を嘲笑われる。

人の堕落した魂と肉体には、十字架の死が適用される以外に道はないのであって、最も尊い人間の心の機能は、再生された霊の中に、人の良心の中にある。

そこで、人間の罪というものを認めないグノーシス主義の世界は、一見、ヒエラルキーによって保たれているように見えても、絶えず反逆が起こり続ける。

それはその社会が、初めから神に対する反逆によって成立しているからであって、それだからこそ、その社会の内では、終わりなき失敗、下剋上が起き続けるのである。

かくて罪の問題を直視することなくして、人間社会に幸福をもたらすことはできないのであって、人間が人間の罪を否定して、己を神に祀り上げるとき、社会からは法が消え、善悪の切り分けが消え、悪が満ちる。

そんなものが神の国とは何の関係もないことは明らかであり、人は堕落した自己を万死に値するものと認めてキリストと共なる十字架の死に渡し、そこにキリストの復活の命が働くことを待たずに、人としての本分を全うすることはできない。

さて、日銀による量的緩和は、グノーシス主義の「存在の流出」と同じ、錬金術なのであって、それは根本的に、グノーシス主義が、聖書の唯一の神から、神としての性質を盗んで、「八百万の神」を打ち立てようとすることと原理は同じなのである。

また、牧師を頂点にいただく目に見える組織としての教会が、神の国を詐称しつつ、全国各地に教会を建設するのにも非常によく似ている。

貨幣の価値はそれが希少だからこそ保たれるのであり、無限の「量的緩和」を行えば、悪貨が良貨を駆逐し、その希少性は損なわれる。そして、いずれその価値はゼロとなる。

それはグノーシス主義の「存在の流出」によって誕生した「神々」が、聖書のまことの神から、いずれ反逆者としての烙印を押され、ゲヘナに投げ込まれるのと同じである。

この世が終わりに至る前から、彼らは自らの悪い行いによって自滅して行くのである。

かくて錬金術は科学的にも、歴史的にも、成立したことはなく、本物から本物としての性質を盗んで、価値の劣る偽物、粗悪品をどれほど作り続けても、それが本物と同じ価値を発揮することはない。

そういうまがい物によって作り出される豊かさは、内実の伴わない見せかけだけのもので、いずれ実体のない無価値なものであって、有害であることが証明されるだけである。

それは、我が国の国民が、たとえ明日からDr.LukeとKFCのように、「私たちはエロヒムだ!」「私たちはキリストだ!」などと叫び始めたからと言って、決して、彼らがキリストにならないのと同じである。


<続く>

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私は王のもとに参ります。このために死ななければならないのでしたら、死ぬ覚悟でおります。

今回の記事では、クリスチャンが証の言葉を公然と宣べ続けることの重要性を強調しておく。
 
今、香港では大変なことが起きている。

6月30日には周庭(アグネス・チョウ)氏が香港での政治団体からの離脱を表明した。
 

Agnes Chow 周庭
@chowtingagnes 

 「私、周庭は、本日をもって、政治団体デモシストから脱退致します。これは重く、しかし、もう避けることができない決定です。 絶望の中にあっても、いつもお互いのことを想い、私たちはもっと強く生きなければなりません。 生きてさえいれば、希望があります。 周庭 2020年6月30日」



その数日前の6月28日、27日に、周庭氏が以下のツイートをしていたことから、やむなく政治闘争をやめざるを得なかった過程が分かる。
 

「今日の香港での報道によると、香港版国家安全法は火曜日(30日)に可決される可能性が高い、そして「国家分裂罪」と「政権転覆罪」の最高刑罰は無期懲役という。日本の皆さん、自由を持っている皆さんがどれくらい幸せなのかをわかってほしい。本当にわかってほしい...」

「香港で自由や民主主義のために戦う人たちは、自由や命を失うことも考えないといけないということが、本当に悲しい。私も、たくさんの夢を持っているのに、こんな不自由で不公平な社会で生き、夢を語る資格すらないのか。これからの私は、どうなるのか... いつかまた日本に行きたいなぁ。」



さらに、6月10日のツイートにはこうある。
 

普通の23歳は就職や夢の話をする時期なのに、これから何年(中国当局に)収監されるのだろうかと考えるのが悲しい。国際社会が中国の人権状況をみているとメッセージを出すことが大事だ。」



こんなことが現代に起きているとはまことに驚きである。香港では今も国家安全法に抗議するデモが進行中だが、370人が国家安全法違反で逮捕されたとの報道もあり、もはや後戻り不可能な地点に来た様子が伺える。

香港は完全に中国共産党政権下に制圧されたのである。
 
周庭氏は過去に3回逮捕されたとツイッターに書いているため、今回は、自身の逮捕を恐れたのではなく、仲間の身を案じたのだろう。

ついに自由に発言することさえできなくなって、沈黙に追い込まれたのである。
 
こうした動きを見ながら、筆者は深く考えさせられた。やはり、何かを主張するためには、命をかける覚悟が必要なのだと思わされた。それがないことには、この世では何も主張することはできない。
 
私たちは、香港で起きていることを踏まえ、身近に何気ない日常がまだ存在しているうちに、不屈の精神を持って、命がけで、自らの主張を叫び続けることをしなければならない。それをやめてしまえば、以上は我が国の明日になるかも知れないのだ。

今、私たちがさして激しい戦いもないうちから、自己の命、身の安全、幸福な生活、生活の安寧を何より優先するならば、私たちはこのまま死人のような生活に突入して行くだけであって、我々の発言権など誰も守ってはくれないだろう。

だが、筆者が言及しているのは、政治デモのことではなく、信仰を守るための戦いのことである。

御言葉に基づき、聖書の神の正しさを主張するためには、どうしても代価が必要だ。

主イエスは言われた。

わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。

人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。」(マタイ16:24-27)

また、このようにも言われた。

「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。

人をその父に、
娘を母に、
詠めをしゅうとめに。

こうして、自分の家族の者が敵となる。
わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」(マタイ10:34-39)

エステル書4:1-17を思い出す。大臣ハマンの差し金により、ユダヤ人の絶滅の勅書が出された際に、エステルが取った態度である。

「モルデカイは事の一部始終を知ると、衣服を裂き、粗布をまとって灰をかぶり、都の中に出て行き、苦悩に満ちた叫び声をあげた。更に彼は王宮の門の前まで来たが、粗布をまとって門に入ることは禁じられていた。勅書が届いた所では、どの州でもユダヤ人の間に大きな嘆きが起こった。多くの者が粗布をまとい、灰の中に座って断食し、涙を流し、悲嘆にくれた。

女官と宦官が来て、このことを王妃エステルに告げたので、彼女は非常に驚き、粗布を脱がせようとしてモルデカイに衣服を届けた。しかし、モルデカイはそれを受け取ろうとしなかった。

そこでエステルはハタクを呼んでモルデカイのもとに遣わし、何事があったのか、なぜこのようなことをするのかを知ろうとした。ハタクは王に仕える宦官で、王妃のもとに遣わされて彼女に仕えていた。ハタクは王宮の門の前の広場にいるモルデカイのもとに行った。

モルデカイは事の一部始終、すなわちユダヤ人を絶滅して銀貨を国庫に払い込む、とハマンが言ったことについて詳しく語った。彼はスサで公示されたユダヤ人絶滅の触れ書きの写しを託し、これをエステルに見せて説明するように頼んだ。同時に、彼女自身が王のもとに行って、自分の民族のために寛大な処置を求め、嘆願するように伝言させた。

ハタクは戻ってモルデカイの言葉をエステルに伝えた。エステルはまたモルデカイへの返事をハタクにゆだねた。

この国の役人と国民のだれもがよく知っているとおり、王宮の内庭におられる王に、召し出されずに近づく者は、男であれ女であれ死刑に処せられる、と法律の一条に定められております。ただ、王が金の笏を差し伸べられる場合にのみ、その者は死を免れます。三十日このかた私にはお召しがなく、王のもとには参っておりません。」

エステルの返事がモルデカイに伝えられると、モルデカイは再びエステルに言い送った。

「他のユダヤ人はどうであれ、自分は王宮にいて無事だと考えてはいけない。この時にあたってあなたが口を閉ざしているなら、ユダヤ人の解放と救済は他のところから起こり、あなた自身と父の家は滅ぼされるにちがいない。この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか。

エステルはモルデカイに返事を送った。

「早速、スサにいるすべてのユダヤ人を集め、私のために三日三晩断食し、飲食を一切断ってください。私も女官たちと共に、同じように断食いたします。このようにしてから、定めに反することではありますが、私は王のもとに参ります。このために死ななければならないのでしたら、死ぬ覚悟でおります。

そこでモルデカイは立ち去り、すべてエステルに頼まれたとおりにした。 」

* * *

この国において、エステルのような覚悟を固めている人がどのくらいいるのだろうか。

政治デモではなく、クリスチャンの中に?
 
筆者はここしばらくの間、我が身を振り返り、すべてを捨てる覚悟が本当に必要であることを思わされた。

かつてオウム真理教は省庁制を取り、疑似政府を教団内に作っていたと記事で触れたことがある。その時に、筆者は書いた、もしもカルト宗教が政府に浸透すれば、そんな面倒なことをせずとも、彼らには国を内側から思い通りに牛耳ることができるようになるだろうと。

敵の狙いは、法律を自分に都合よく解釈して、悪者を守るために、そして、正しい人々を弾圧するために、法を使うことだ。

反則行為の事実を山のように積み重ね、人々に無力感を植えつけ、後からそれらを合法に見せかけ、法律を自分たちだけにとって都合の良いものに書き変えてしまうことだ。
 
だが、法はそんなことのためにあるのではない。法を悪用して自分に都合よく裁きを曲げようとする人々に対して、私たちは断固、立ち向かい、彼らの言葉の嘘を喝破し、その効力を粉砕しなければならない。

そういうわけで、周庭氏が沈黙に入る前日の6月29日、筆者は、さるぐつわを投げ捨て、立ち上がって戦うために、前に向かって歩き出した。

この日、家を出がけに、Dr.Lukeが次のようにツイッターに書いていたのを見た。
 

不毛な論争で消耗することを避けよ。



筆者は心の中で、これを見て笑った。そして、”NO”と叫んだ。

敵であるエジプト軍は、これを読んで議論など不毛だと考えて、筆者の苦労をますます嘲るだろう。そして、自己の生活に安住しようとするだろう。

だが、筆者は、命をかけてでも、守り抜かなければならない価値があることを知っているので、追っ手を振り切って、紅海を渡り、前進して行くことに決めた。

海の向こう岸を目指して、水の上を歩き出す。

たとえそれが水の上であっても、渡って行かねばならない。

私たちは生きている限り、何が正しく、何が間違っているかを識別するため、議論し、主張し続けることをやめてはならない!
 
気づくと、もはや追っ手は着いて来ていないようであった。

Dr.Lukeはツイッターで次の記事を紹介することによって、いかに議論のむなしいかを力説したい様子に見られた。それは筆者以外の人々にとっては効果があったかも知れない。
 

認識とは高次元リアリティーの投影=論争の原因=
 2019-06-29 | by drluke 

「いわゆる「熱くなる」精神状態は自己(Self)と密接に関係している。人は自分が入れ込んだもの、そしてその上に自らのアイデンティティを置いたものを否定される時、抑え難い情緒的反応を呈する。「誤り」を指摘して相手の説を論駁し、「正しさ」を論証して自説を通そうとすることは、実は魂の自己主張と自己保存欲求の現れである。善悪の知識の木の実を食べて魂を肥大化した人類の宿命である。



要するに、人が「熱くなって」議論に熱中するのは、セルフ(堕落した自己)のなせるわざだというのだ。人は自分が入れ込み、その上にアイデンティティを築いたものを否定されたときに、自己を否定されたと考え、むきになって自説を主張せずにいられなくなるというのだ。

そうして、自己の正当性を主張するために議論を続けるのは、ますます善悪知識の木の実を食べて自己を肥大化させるだけの道だから、それはみっともないことであり、悪であり、避けた方が良いという。

だが、筆者は全くそれに共感しないばかりか、よくもこんな大した自己矛盾が言えるものだと呆れるだけだ。

第一に、このように言ったDr.Luke自身が、KFCの元信徒から「密室で呪いの預言をされた」ともの申された際、「熱くなって」、信徒の「誤り」を指摘して、相手を「論破」するために、しかも、ただ論破するためだけでなく、実力行使して排除するために、信徒を刑事告訴したのではなかったのか。

間違えないで欲しいのだが、筆者は刑事告訴すること自体が禁じられていると言っているのではない。

だが、Dr.Lukeの場合、彼の訴えた信徒の言い分は、真実であったかも知れず、さらに、彼は宗教指導者や、教職者という立場を利用して、ほとんど言い返す能力もない信徒を相手に告訴し、沈黙に追い込んだのである。

さらに、Dr.Lukeはブログやホームページで、当ブログも含め、気に入らない考えを述べている信徒を断罪しては、未だ自分の「正しさ」を論証し、「自説を通そうとする」ことを止められないでいる。

ニッポンキリスト教界も日々断罪されていれば、数知れぬ著名人もそこに含まれている。

彼の言葉をそのまま使えば、そのようにして、何が正しく、何が間違っているかという議論にのめり込むこと自体が、肥大化した「魂の自己主張」であり、「自己保存欲求の現れ」であり、「善悪知識の木の実」を食べて生きる人類の宿命なのではなかったのだろうか?

このように、Dr.Lukeの説は自己矛盾している。彼の理屈においては、自分が他人に論争をしかける時だけは、それは正しい行動であるが、他人から論争をしかけられる時には、それは「セルフ」のわざであり、悪しき人類の宿命であって、「善悪知識の木の実」の結ぶ議論とされるようだ。

そんな二枚舌の人間の言い分を信じてはならない。

悪徳商法は、人にものを考えることをやめさせるが、それは人を騙すためだ。

Dr.Lukeが論争を避けるように言うのは、人々に自分で物事を考えさせず、彼の教説の是非を検証させず、彼の言うことを疑わない思考停止状態を作り出すためである。

また、それは、牧師(指導者)と信徒という上下関係の中に信徒を閉じ込め、目下の立場にあるはずの信徒が、目上の立場にあるはずの指導者に異議申し立てをさせないための圧力でもある。

その考えは、戦前・戦中の国家神道、天皇崇拝によく似ている。

* * *

 『国体の本義』は、人々を上下関係の中に閉じ込め、人間に全体から切り離された個人としての存在価値を認めず、上下関係からの離脱の自由を与えなかった。
 

『国体の本義』、第一 大日本国体、三、臣節、忠君愛国 より抜粋

個人は、その発生の根本たる国家・歴史に連なる存在であつて、本来それと一体をなしてゐる。然るにこの一体より個人のみを抽象し、この抽象せられた個人を基本として、逆に国家を考へ又道徳を立てても、それは所詮本源を失つた抽象論に終るの外はない。」



このように、『国体の本義』は、人は生まれながらに国家とその歴史に連なる存在であって、そこから抜け出す道はなく、全体から切り離された個人などは、虚妄の概念に過ぎないとして、個人という概念すらも根こそぎ否定したのである。

そうして、個人は全体から切り離せない存在であると決めつけた上で、国が国民に忠君愛国、親孝行などを強要し、人は自分よりも強い者のために自己犠牲することで分を果たせるなどと教え、「天皇の御ために身命を捧げることは、所謂自己犠牲ではなくして、小我を捨てて大いなる御稜威に生き、国民としての真生命を発揚する所以である。」などとして、人が天皇のために死ぬことまで要求したのである。

その際、人が個人として己のために生きることを「小我」として軽蔑し、自己を捨てて天皇のために身を捧げることこそ、「国民としての真生命の発揚」などと誉め讃え、人が天皇のために死すことが最大の美徳であって、人としての使命の全うであるかのように要求し、そうした異常な価値観に対して一切の異議申し立てを認めず、個人としての生き方を徹底的に侮蔑・否定したのである。
 

第一 大日本国体、三、臣節、忠君愛国 より抜粋

我が国は、天照大神の御子孫であらせられる天皇を中心として成り立つてをり、我等の祖先及び我等は、その生命と流動の源を常に天皇に仰ぎ奉るのである。それ故に天皇に奉仕し、天皇の大御心を奉体することは、我等の歴史的生命を今に生かす所以であり、こゝに国民のすべての道徳の根源がある。

 忠は、天皇を中心とし奉り、天皇に絶対随順する道である。絶対随順は、我を捨て私を去り、ひたすら天皇に奉仕することである。この忠の道を行ずることが我等国民の唯一の生きる道であり、あらゆる力の源泉である。されば、天皇の御ために身命を捧げることは、所謂自己犠牲ではなくして、小我を捨てて大いなる御稜威に生き、国民としての真生命を発揚する所以である。



このように、戦前・戦中の国家神道・軍国主義が、人に権威者への異議申し立ての機会や、自己主張の機会を一切与えなかったのは、彼らが作り出したヒエラルキーの中に人を閉じ込め、その支配関係の中で、個人を最後の血の一滴まで道具として使役せんがためである。

グノーシス主義とは、人をそのように上下関係の中に閉じ込めて離脱を許さない教えである。

なぜこのように、戦前・戦中の日本社会では、「全体の中に閉じ込められた個人」の存在しか認められず、「全体から切り離された個人」が認められなかったのか、その考えの根源は、「神と人との和」という発想にあることも、前に説明した。
 

『国体の本義』、第一 大日本国体、四、和とまこと より抜粋

  更に我が国に於ては、神と人との和が見られる。これを西洋諸国の神人関係と比較する時は、そこに大なる差異を見出す。西洋の神話に現れた、神による追放、神による処罰、厳酷なる制裁の如きは、我が国の語事とは大いに相違するのてあつて、こゝに我が国の神と人との関係と、西洋諸国のそれとの間に大なる差異のあることを知る。

このことは我が国の祭祀・祝詞等の中にも明らかに見えてゐるところであつて、我が国に於ては、神は恐しきものではなく、常に冥助を垂れ給ひ、敬愛感謝せられる神であつて、神と人との間は極めて親密である。

 又この和は、人と自然との間の最も親しい関係にも見られる。<略>

 この和の精神は、広く国民生活の上にも実現せられる。我が国に於ては、特有の家族制度の下に親子・夫婦が相倚り相扶けて生活を共にしてゐる。「教育ニ関スル勅語」には「夫婦相和シ」と仰せられてある。而してこの夫婦の和は、やがて「父母ニ孝ニ」と一体に融け合はねばならぬ。即ち家は、親子関係による縦の和と、夫婦兄弟による横の和と相合したる、渾然たる一如一体の和の栄えるところである。

 更に進んで、この和は、如何なる集団生活の間にも実現せられねばならない。役所に勤めるもの、会社に働くもの、皆共々に和の道に従はねばならぬ。夫々の集団には、上に立つものがをり、下に働くものがある。それら各々が分を守ることによつて集団の和は得られる。分を守ることは、夫々の有する位置に於て、定まつた職分を最も忠実につとめることであつて、それによつて上は下に扶けられ、下は上に愛せられ、又同業互に相和して、そこに美しき和が現れ、創造が行はれる。

 このことは、又郷党に於ても国家に於ても同様である。国の和が実現せられるためには、国民各々がその分を竭くし、分を発揚するより外はない。身分の高いもの、低いもの、富んだもの、貧しいもの、朝野・公私その他農工商等、相互に自己に執著して対立をこととせず、一に和を以て本とすべきである。



これを読んで分かるのは、戦前・戦中の日本では、「神と人とが和合している」という誤った概念に基づいて、すべての誤った人間関係が規定されたことである。

端的に言ってしまえば、人間の罪を認めず、神と人との罪による断絶を認めない反聖書的な思想の誤りが、すべての間違いを導き出したのである。

当時の日本社会では、「我が国に於ては、神は恐しきものではなく、常に冥助を垂れ給ひ、敬愛感謝せられる神であつて、神と人との間は極めて親密である。」と書かれているように、キリスト教とは異なり、神と人とが罪によって断絶し、人間が滅びに定められたなどの事実は否定されて、神と人とが「親密」であるとされた。

そこで言われる「神」とは、天皇家のことであるから、彼らの言う「神と人とが親密」というのは、天皇と臣民とが「親密」だという意味である。

「親密」とはどいうことか。

それは結局、「和」のこと、和合しているという意味であるが、天皇と臣民は生きて会うこともほぼないわけだから、そこで言われる「和合」とは、言い換えれば、「切り離せない」関係のことである。要するに「あなたはこの上下関係からは、未来永劫、逃れられませんよ」という意味だ。

そして、「夫々の集団には、上に立つものがをり、下に働くものがある。それら各々が分を守ることによつて集団の和は得られる。」とあるように、この「親密さ」「和」は、個人が全体の中での「分を守ること」つまり、「上下関係を覆さないこと」によって保たれる。

個人はあくまで社会の中で定められた上下関係の中で、自分に与えられた分を超えないようにしながら、求められている役目を果たすことによって、「集団の和」を保たねばならないとされたのである。

相互に自己に執著して対立をこととせず、一に和を以て本とすべきである。」と書かれている通り、「上下関係を覆すこと」や「対立」を生むことは、「自己に執着」する行為として、和を乱す悪とされた。

これは、Dr.Lukeの言葉と非常に近いものである。

「いわゆる「熱くなる」精神状態は自己(Self)と密接に関係している。人は自分が入れ込んだもの、そしてその上に自らのアイデンティティを置いたものを否定される時、抑え難い情緒的反応を呈する。「誤り」を指摘して相手の説を論駁し、「正しさ」を論証して自説を通そうとすることは、実は魂の自己主張と自己保存欲求の現れである。善悪の知識の木の実を食べて魂を肥大化した人類の宿命である。」



つまり、自分よりも目上の人間の誤りを公然と指摘して恥をかかせたり、その者を論破して自説の正しさを主張したり、上下関係を否定したり、そこから離脱したり、これを覆すような行為は、「自己に執着して対立」を生む、すなわち、和を乱す行為であって、悪とされたのである。

そして、目上の人間は、目下の人間が「分をわきまえて」行動しているのを見て、つまり、決して自分を乗り越えて権力を主張したり、自分との上下関係から離脱しようとしないのを見て、これを良しとしたのである。

そこで、ここで言われる(たとえば天皇から臣民への)「慈悲」「慈愛」とは、結局、「お前は私より劣った存在であって、その分をわきまえて行動することを忘れるなよ、その限りにおいてのみお前の存在を認めてやる」というディスカウントの言葉でしかなく、真の慈悲や愛情と呼べるものではない。

このような考えに基づき、当時の日本社会においては、国民は生まれながらに天皇の赤子であって、天皇との関係から離脱は許されず、天皇だけでなく、親子関係においても、職場の上司と部下との関係においても、社会のいかなる場所においても、上下関係に従って、分をわきまえて行動することが求められ、決して異議申し立ても、その関係からの離脱も許されなかったのである。

これが「親密」の意味である。人を上下関係の中に閉じ込め、異議申し立ての機会を与えず、そこから離脱する自由も与えず、果ては命まで要求するのだから、大した「和」である。

「親密」と言いながら、あなたにつきまとって来ては、カツアゲを繰り返すヤクザを想像すれば良い。そこに真の「親密さ」「慈悲」もあろうはずがない。そんな「和」など心底、ご免被りたい。

* * *

もちろん、そんな異常な教えには、終戦によって裁きが下された。戦後の民主主義も、キリスト教も、決してそのように「全体から切り離された個人」を虚妄として否定する考えの上に成り立つものではない。

むしろ、逆に、聖書においては、前述の聖句にも見る通り、主イエスは信じる者に、「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。」と言われた。

ここでは、親子関係が未来永劫に抜け出せないものとして提唱されているなどのことはない。それどころか、親子関係は、神に従う以上に優先されてはならないことが記されている。信仰は、家族関係に従って代々受け継がれるようなものではなく、あくまで個人としての決断であり、選択である。

また、主イエスは、狭い門から入りなさい。滅びに至る門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」(マタイ7:13-14)と言われた。

神の国に入る人は、「全体」ではなく、極めて少数の人々であることが示されたのである。

また、主イエスは偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。あなたがたはその実で彼らを見分ける。」(マタイ7:15-16)と言われ、個人がしっかりと自らの頭で物事を考えて、御言葉に照らして、何が正しいかを識別し、誤った教えを見分ける必要性を幾度も強調された。

主イエスは、信じる者が、社会の上下関係の中で、分をわきまえて行動し、自説に固執することによって周囲に波風立てて和を乱さないように、対立を生まないように自己主張を控えるように、などとは一切、言われなかった。

むしろ、主イエス御自身が、自分は分裂をもたらすために地上に来られたと言われたほどである。

主イエスは、地上におられる時、宮の境内から商売人を怒って追い払われたり、嵐を叱りつけられたり、不正には憤り、人の苦しみの前に涙を流され、自らに論争を挑み、彼を破滅に陥れようと罠を張った律法学者や、祭司たちには毅然と反論された。常に人間としての意思と感情をはっきりと表され、自らの信じる通りに、つまり、父なる神の戒めの通りに、ご自分の信念を持って真実に行動されたのである。

従って、聖書において、主イエスは決して自己主張を殺して、世人に迎合されたことは一度もなく、自己主張をすることや、怒ったり、反対を述べたり、非難するという、世に対して「和を乱す」行為を悪とされたこともなかった。

堕落したこの世に波風立てず、対立を起こさないことを善とされたのでなく、むしろ、この世からは憎まれ、罪なくして十字架につけられるほど、この世からは憎しみを受けられたのである。

そこで、私たちも、主イエスにならう者として、御言葉に従うためならば、世からの敵対や反発を恐れず、大いに自己主張せねばならないのであって、それは自分のためではなく、聖書の神の正しさを証明するためである。

「兄弟たちを告発する者」、すなわちサタンを後退させるために、私たちは生きている限り、証の言葉を宣べ続けなければならない。

「今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。
 神のメシアの権威が現れた。
 我々の兄弟たちを告発する者、
 昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者が、
 投げ落とされたからである。
 
 兄弟たちは、小羊の血と
 自分たちの証しの言葉とで、
 彼に打ち勝った。
 彼らは、死に至るまでも命を惜しまなかった。」(黙示12:10-11)

この御言葉を読むなら、文字通り、「死に至るまでも命を惜しまず」、「自分たちの証しの言葉」を宣べ続けることによってしか、サタンに対する勝利がもたらされないことが分かる。

主イエスは言われた。

神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」(マルコ8:38)
 
罪深い時代の風潮に迎合し、自分を惜しんで証の言葉を捨てるなら、その者は自分自身が、来るべき日に、主によって恥じて捨てられるだけだ。

このように、聖書的な観点から見れば、何が正しく、何が間違っているかを識別するための議論を行うことは、何ら悪ではなく、正統な信仰を守り抜くために、証の言葉を宣べ続けることは、決してやめてはならないことである。
 
むしろ、聖徒らの信仰の証しを迫害し、口を封じようとすることこそ、悪魔の所業なのである。

だから、人が自己主張することが、悪だという誤った考えを持ってはならない。人が何を擁護して自己主張するのか、神の側につくのか、それとも、サタンの側につくのかが問われているだけである。
  
エデンにおいて、悪魔にそそのかされて、神が食べてはいけないと命じられた善悪知識の木の実を取って食べて以降、人類の中では、善と悪がごちゃ混ぜになった。

この木の実を食べるまで、人は神の御言葉の中を歩み、何が善であるかを知っていたが、サタンのそそのかしに従って、この木の実を食べたとき、人の中に悪が入り込み、人は善と悪を見分ける力を失ったのである。

こうして、混合してはならない相反する異質な概念が、人の内で同居するようになり、人は罪に堕落し、自ら神に至り着くことができなくなり、ただ御言葉だけが、この相反する二つのものを切り分け、人が悪を捨てて、罪に対して死んで、神に対して生きるようにすることができる。
 
御言葉だけが、人の内で混ざり合った善と悪の概念をもう一度、切り分け、死の病に冒された人を救い出して、神の正しさの中に引き戻すことができる。

ただし、一度でも罪に堕落したものは、罰を受けずに正しい存在にはなれないため、キリストの十字架の贖いが存在するのである。

こうして、聖なるものと、汚れたものとを分離するために、御言葉があり、キリスト教の二分性がある。

そこで、私たちは自分の頭で、御言葉を用いて、何が真実であって、何が嘘であるか、何が神に喜ばれる正しいことであって、何がそうでないのか、自ら考え、識別することをやめてはならない。

そうして御言葉による識別を否定し、自ら考えることをやめるとき、その人の内には、グノーシス主義者の言う「相反するものの統合」が残るのである。

かくて、善悪を知る知識の木の実を取って食べるとは、善悪について議論することや、自分が正しいと思うことを主張することを意味するのではない。かえって、善と悪を識別することをやめて、正しいものを守るための議論をやめること、自ら正しいと信じることを主張するのをやめて、証しをやめ、善悪をごちゃ混ぜにして識別せずに容認する態度を取ることを意味する。

歴代教会は、異端を識別するための公会議を幾度も開いて来た。正しい教えを異端から守るために、誤った教えを識別し、それを正しい教えから切り分けるための議論の重要性は、どんなに強調してもし足りない。

にも関わらず、御言葉の切り分け機能を用いて、自分で物事の是非を考え、議論することをやめてしまうならば、その人こそ、再び、善悪知識の木の実を取って食べているのだと言えよう。

善悪知識の木の実とは、「相反する概念の統合」である。

この木の実の本質は、「善と悪を統合すること」にある。つまり、グノーシスである。

Dr.Lukeは、幾度警告されても、「自分は大丈夫」と言いながら、聖書とは異質な教えを取って食べ続けた。ペンテコステ運動、サンダー・シング、ニューエイジ、スピリチュアリズム、禅、東洋思想…。

そうして限りなく「善悪知識の木の実」を食べ続けたために、彼の教説は、何でもありの混ぜ物だらけの堕落した福音になったのである。
 
もう一度言う、私たちは、議論することによって、善悪知識の木の実を取って食べるのではなく、逆に議論しないことによって、識別しないことによって、善と悪をごちゃ混ぜにして、善悪知識の木の実を食べるのである。

だから、議論することや、自己主張することが、悪だと考えてはならない。

分をわきまえ、社会に波風立てず、自己の主張を殺し、権力者に異議申し立てを一切せず、誰とも議論しないことが、あたかも正しい所業であるかのような考えに欺かれ、まだ生きているうちから、もの言わぬ死人のようになってはいけない。

私たちは生きている限り、公然と御言葉の証を宣べ続けなければならない。

それなのに、御言葉による切り分けのために必要な議論までも、悪として退け、聖徒らに証を宣べることをやめさせて、沈黙に追い込もうとする力は、悪魔から来るものであって、神の喜ばれることがらではない。

それは親孝行を是とする儒教的精神、忠君愛国を解いた国家神道、天皇崇拝などから生まれた、人間の作り出したこの世のむなしいだましごとの哲学の下に、聖徒らを閉じ込めようとするグノーシス主義的精神であって、聖書にその根拠はないことに気づかなければならない。


肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。

とても重い反駁の作業の第一段階が終わった。筆者が、聖書の正しい教えを守り、悪魔から来た誤った教えを退けるためには、論戦が必要だと書いているのを見て、そんなのは嘘だと思っている人間がいるかも知れない。

しかし、私たちの発する言葉は、すべて霊的な論戦の材料なのだ。そして、敵(暗闇の勢力)の発する言葉には、いつも自己矛盾があって、そこには、嘘や、呪いが込められている。

私たちは、敵の理論のほころびを見つけ出し、これに丁寧かつ根気強く反論することで、彼らの蒔いた嘘を無効化できる。

以前から書いている通り、嘘は嘘たる所以を明らかにすることで、効力を失う。反論とは、単なる否定ではなく、敵の論を無効にするための作業なのだ。 
 
この先、隠れたところで行われることを見ておられ、明らかにされる神が、何をどう明るみに出されるかに注目したい。

地道な論証作業の積み重ねの必要性はいくら強調してもし足りないし、判断が下されることで、初めてその理論のほころびや、次に踏むべきステップが見えてくる。全てのことが極めて貴重な実地体験であり、それがあって初めて前進が可能となる。 

だが、筆者の論証作業だけが物事の真相を明るみに出すわけではない。隠れた事柄を明らかにして下さるのは神ご自身であるから、神の御業に信仰を持って期待したい。
 
 
* * *

さて、前回、Dr.Lukeの教説の異常性について触れたが、彼は最近、「エロヒムの増殖」なる非常に気持ちの悪い言葉を使うようになった。

神の増殖を増殖する-エロヒムとはスピリチュアル・ドメイン-」
2019-03-05 |  by drluke 

上記の荒唐無稽な記事内容には深く立ち入らないが、この記事に欠けているものがある。

それは、やはり、キリストの頭首権に服すること。すなわち、御言葉の掟を守ることだ。

御言葉の中にとどまらない者、その掟を守らない者は、神の国の住人ではない。

その視点が、Dr.Lukeの教説からは完全に欠けている。

いわば、自分は御言葉に服さないまま、恵みだけを受け取るという、いいとこどりの御都合主義の福音である。

Dr.Lukeが「エクレシアとはキリストだ」と言っていることについては、これは首のない体であるということを説明した。

エクレシアはキリストの体であって、頭ではない。そして、頭(かしら)なる方こそがキリストであるから、Dr.Lukeが主張しているものは、首のない体なのである。

ヘッドのないボディ。司令塔なくさまよう体。斬首された罪人の体。

それが「増殖」するとは何を意味するか。

自己増殖である。

頭なるキリストなしに、体だけが自己増殖するのだから、そこには「二人」ではなく「一人」しかいない。だから、自己増殖である。

グノーシス主義において、単独で神を知ろうとしたのはソフィアである。彼女は最下位のアイオーンであったが、父なる神からの承認がないのに、神のDNAを盗み、自ら神となろうとした。その結果、ソフィアの堕落(転落)が起きる。

「父」が、自分の生んだ子でないものを、自分の子と認知するはずがない。だが、神から神の性質をを盗んだそのトリックを正当化するために、ソフィアとその子孫たちは、「神の御国の後継者」を名乗り出て、正当な後継者を追い出し、自分たちこそが神の子孫だと詐称する。それがグノーシス主義である。

Dr.Lukeはこんなことも言っていた。

ジーザスがニューエイジを始められた-我々こそが真のニューエイジャーだ
2018-06-16 |  by drluke 

これは、類人猿は人類の親戚だから、人類の兄弟だと言っているのにも等しい。

Dr.Lukeは、以上のようなタイトルを通じて、イミテーションが本物を模して作られたからと言うだけで、イミテーションを本物と巧妙にすり替えようとしているのだ。

聖書とニューエイジは何の関係もなく、ニューエイジはどこまで行っても、聖書の悪しき模倣でしかない以上、キリストとは何の関係もないイミテーションに過ぎない。

ところが、本物とイミテーションをごちゃまぜにし、すり替えてしまうのである。

Dr.Lukeの記事のタイトルは、「人類と類人猿は似たDNAを持っているから、人類こそが真の類人猿だ!!」などと叫んでいるに等しい。

一体、なぜ、我々が尊い人類であることを捨てて、「真の類人猿」などという蔑称にも近い呼称を受け入れなければならないのか。

そこに巧妙なすり替え、ディスカウントがあるのに気づかなければならない。

あなたは類人猿が人類と似たDNAを持っているからと言って、類人猿があなたの親戚として名乗り出ることを認めるだろうか。ある日、類人猿があなたの家庭にやって来て、自分はあなたの兄弟だから、自分にも相続財産を分けろと言えば、それを認めるだろうか。

絶対に無理だろう。

ところが、ニューエイジは聖書のパクリだと強調することによって、キリストはニューエイジの元祖だと論旨をすり替え、キリスト教徒がニューエイジを受け入れることは罪ではないとする。

これは、全く性質の異なるものを混ぜ合わせようとするとんでもない論法であって、キリストを人間のレベルに引き下げることによって、彼から聖なる神の独り子としての性質を失わせてしまう、ペンテコステ運動にありがちな「養子論的キリスト論」と同じトリックである。

要するに、そのような教えを信じる人々は、自分たちが聖書の「まことの父」から生まれたと勝手に詐称しているだけで、実際には、そこには異なるDNA(異なる福音)がごちゃ混ぜにされており、彼らは誰から生まれたのか、誰が父なのかも分からず、結局、その教えは、父を持たない「みなし子の福音」なのである。

さらに、Dr.Lukeは、人類は地上に生きている限り、完全な贖いに達することはできず、従って、完全な聖化も有り得ず、すべての面で新創造とされることはない、という事実さえ見失っている。

スピリチュアル・ジャーニーは神との同意から始まる
2018-06-29 |  by drluke  ではこう書いている。

「私が最近強調しているニュー・クリーチャー、エロヒム属。アダムにある私たちはすでに終わり、キリストにある新創造とされた事実(2Cor 5:17;Gal 6:15)。これって、けっこう抵抗があるようだ。あるいはこの聖句を単なる文学的表現と思っているむきもかなりある。

いわく、自分のうちを見ると罪的なものや汚れているものばかり。それを無視して、新しい人類と言ってしまっていいのか? 私たちは罪ゆるされた単なる罪人にすぎない1)、だからへりくだって、自我が砕かれる必要があるし、もっと罪の告白やデボーションや修養により聖化される必要がある・・・。ところがそのような人はたいてい次から次へと問題を抱える。

大脳辺縁系の問題はもう繰り返さないが、真理は私が今現在どのような状態であるとかないとか、一切関係ない。神がキリストにあってそれをなされたゆえに私たちはすでに新創造、ピリオド。スピリチュアル・ジャーニー、すなわち神とともにスーパーナチュラルな歩みをするためには、まず神と同意する必要がある。問題を次々に抱える人は、実は真に神と同意してしないのだ。

ふたりの者が同意することなしに一緒に歩めるだろうか。-Amos 3:3

神は言われる、あなたはすでに聖であり完全である。新しい生命体であり、ニュークリーチャーであると。あなたはこれに同意するか?

サタンはすでに私たちに対して何らの権威も有していない。が、彼は私たちのマインドに接触できる(Eph 2:1-3;Col 2:20)。私たちのマインドに彼が語りかける偽りに同意するならば、彼のパワーが私たちに働くようになる。つまり自ら敵の権威の下に服することになるのだ。」

非常に危険なのは、Dr.Lukeがかねてより「魂と肉体の堕落」という聖書的事実を無視しながら話を進めている点である。

Dr.Lukeはここで、地上にある限り、私たちは堕落した魂と肉体を持ち、体が贖われない限り、地上において、完全な新創造とされることはない、という事実に言及していない。

Dr.Lukeはかねてよりボディビルで鍛え上げた自分の肉体を自慢するなど、肉体が堕落したものであって、そこに働くのが罪と死の法則であることを無視した教説を唱えて来た。

そしてついに、肉体の堕落(+魂の堕落)という事実を無視したまま、自分たちは新創造だと言い始めたのである。

これは、危険極まりない教えである。
 
パウロは言った。

「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意思はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。

それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則性があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。

わたしはなんという惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」(ローマ7:18-25)

このように、罪と死の法則が絶えず働く堕落した肉体の中にありながら、命の御霊の法則に従って善をなそうとして生きる、パウロの言ったその葛藤が、Dr.Lukeの教説には、存在しないのである。

聖書は、肉(魂と肉体)が堕落していると言い、私たちは罪と死の法則に縛られながら、霊によって善をなそうとしてもがいている状態にあるという。

その葛藤に終止符を打つのは何か。肉に対して十字架の死が適用されることである。
  
聖書は言う、

肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。」(ローマ8:13)

これは、人の堕落した肉の領域には、十字架の霊的死が絶えず適用されなければ、人は肉に従って生き、すなわち、罪と死の法則に支配されることを免れられないことを意味する。

ところが、Dr.Lukeは、肉に対して十字架の死が適用される以外に、人が罪と死の法則に対して死ぬ方法がないという事実から目を背け、人が霊によって体の仕業を死に渡すのではなく、自らの「マインド」すなわち、思考パターンを変えることによって、魂の領域に働くサタンの脅威を排除できるかのごとく教える。

彼は上記の記事の中で、このように言う、「人は自分で自分を罪深いものだとみなして、くよくよ悩むから、実際にそうなるのであって、自分で自分の思いを変えて、自分はすでに新創造とされたと信ずれば、サタンの脅威に翻弄されることはない」と。
 
このような考えには、ある種のトリックがある。すでに幾度も書いて来た以上、私たちが新創造とされているのは、霊だけであって、魂と肉体は、この地上に生きている限り、新創造とはされず、逆に十字架の死に服さなければならない。

このように、魂と肉体は常に主と共なる十字架で死に渡されなければならないのに、「思考パターンを変える」ことによって、サタンの働きを排除できるとなれば、その霊的死の必要性は忘れ去られる。

そうした考えに陥ると、結局、サタンの攻撃というものは、人の外側から来るものでなく、内側に存在するものであって、人の考え方が悪いから、サタンの攻撃を受けるのだ、という結論に至り、サタンの罪が免罪される。
 
たとえば、肉体というものの堕落を認めない考え方に立つと、「病気になる人は、肉体の筋力が衰え、免疫低下が起きているから、病気に罹患するのであって、健全な肉体を持ちさえすれば、病気にかかることはない」などという考えが生まれる。

そうして、肉体を増強することで、病に打ち勝とうと、ボディビルに励んだりすることになる。しかし、どんなにボディビルに励んでも、人は病どころか、死を克服することもできず、どんなに鍛えた体も、滅びに向かって行くこととなり、そのようなやり方で、人間の肉体を永遠にまで高めようと試みるものは、逆説的に、自分で自分の肉体を滅ぼすという、三島由紀夫と同じ最期に行き着く。
 
そのような理論を、同じように魂の領域に当てはめた場合、魂そのものの堕落という事実は否定され、「人が悩んだり、苦しんだりして、精神の働きが低下したり、精神を病んだりするのは、魂(精神)の筋力が衰え、魂(精神)の免疫低下が起こるからだ。だから、マインドを鍛えれば、悩み苦しみは去る」などという理論が生まれる。

その結果、人々は、自分の「マインド」を何とかして改造し、弱みを取り除き、強い「マインド」を作れば、悩み苦しみは去って、幸福になれると考え、魂のボディビル(自己改造)にいそしむ。「マインド・セット」によって、心の筋力増強に取り組んで行くことになる。

だが、そのような考え方は、魂と肉体そのものが堕落しているがゆえに、すべての罪が生まれるのであって、これらの肉はどんなに改造しようと、良いものにはならず、死に渡される以外に結論はないという聖書的事実を否定している。

自分で自分の思考改造を行うことによって、悩み苦しみのない幸福に到達し、サタンの攻撃を免れられるなどというのは、真っ赤な嘘である。

それは「病気なんてない。病気があるのではなく、ただ人の体が弱くなった結果、病気に似た現象が起きるだけだ」と言うのにも似て、「サタンの攻撃なんかない。人の精神が弱くなるから、そういう状態が生まれるだけだ」と言っているに等しい。

サタンは、存在を隠すことによって、聖徒らからの攻撃を免れようとする。多くの人たちは考えている、「悪魔なんていない。そんなのは想像の産物だ。」と。

そのようして、悪魔は脅威ではないと思わせ、堕落した肉に働く罪と死の法則を軽視・無視することで、悪魔は逆に人々に対するステルス支配を行うことができる。

その足場を排除するためには、魂と肉体が堕落している事実を認め、それを十字架において死に渡し、体の仕業を絶つこと、自己を否むことから始めねばならないのに、罪による堕落を否定し、死に渡されなければならないものを改造することによって、あたかも悪しき働きから逃れられるかのように教えることは偽りである。
 
こうして、サタンの脅威を否定し、肉の堕落を否定し、サタンの働きを人があたかも自己努力によって克服・排除できるかのごとく教えることが、悪魔による支配の第一歩なのである。

それに対して、私たちが知らなければならないことは、「どんなに自己改造をしようとしても、人間の魂と肉体は堕落しており、人がこれを自分自身で改良することはできない」という聖書の事実であり、「これらのものは、十字架で絶えず死に渡されるしかない」という結論である。

だからこそ、人は自己を否み、自分の十字架を取って、イエスに従わなければならないのである。
 
  <続く>


キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。

「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。」(ヘブル11:6)

* * *

長らく何の関係もなく、彼らが何を言っているのかも知らなかったが、その間にここまで異端化が進んでいたのかと呆れた。

Dr.Luke率いるKFCのことである。

エクレシアとはキリストである」2019-06-25 |  by drluke 

この標題を見ただけで、ああ、またしても聖書にはないことを言っているなとすぐに分かる。
記事の中でDr.Lukeは次の聖句を自分で引用している、

教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」(エフェソ1:23)

教会をエクレシアと置き換えて読んでも、エクレシアはあくまでキリストの「体」。キリストご自身ではないのだ。「体」は「頭」の指令に従って動く。

つまり、エクレシアがキリストの体であることの意味とは、エクレシアは頭(かしら)であるキリストの頭首権に服し、その手足となって動くという意味なのだ。

前述の御言葉の前に次のフレーズがあることを忘れてはならない。

「神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。」(エフェソ1:22)

ところが、この「キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました」という部分は、Dr.Lukeの記事からは都合よく抜け落ちている。

同じエフェソ書には次のようにもある。

「こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。」(エフェソ4:14-15)

これを読む限り、エクレシアは、キリストの体ではあるが、頭ではない、ということがよく分かるだろう。

ならば、Dr.Lukeが「エクレシアとはキリストである」と言っていることの意味は何か。

これは、頭のない体のことを指す。

頭がない体とは、首のない体、斬首された罪人と同じである。Dr.Lukeがしばしば尊敬する人物として挙げている三島由紀夫は、自ら割腹し、首を刎ねられて死んだことを思い出したい。

首を刎ねられるとは、明白に罪人の死を意味する。

以前にも当ブログでは書いた。首を刎ねられた上、割腹するとは、自らの欲望を神として生きた者が、その罪のゆえに罰せられるという意味だと。

首のない体が、地上をうろうろさまよっている光景を考えてみれば、誰しもぞっとするばかりだろう。

首のない体とは、自分で物事を考えることができず、判断することができない体である。そして、自制することもできないので、体に働く欲望に従ってほしいままに罪を犯す。

体は、罪に堕落しており、死が適用されなければならない領域である。
 
キリストに連なり、彼と共なる十字架の死と復活を経て、この御言葉なる方の頭首権に服するからこそ、死んだはずの者が贖い出されて生きるのである。堕落した体にも霊的死が及び、もはや体の欲望の奴隷となって生きることがなくなるのである。

従って、我々を死から救い出して下さった方の頭首権を否定するならば、その人は死刑に処せられたままの首のない体に等しく、それはキリストでないばかりか、エクレシアでさえもない。

そして、首のない体とは、唯物論のことなのである。

フォイエルバッハは唯物論者の父のような存在であり、マルクス、エンゲルスなども、フォイエルバッハの哲学を土台として自らの唯物論を作り上げた。

Dr.Lukeが神学を「人間が考え出したもの」として否定して来たことも知られるが、同氏は「カルバンvsアルミニウスのナンセンス」(2017/01/07 20:41)で言う。

フォイエルバッハは、「神学は人間学である」と喝破した。つまりソレを唱える人の精神病理の反映なのだ。カルバンはサディズム、批判者をあえてとろ火で火あぶりにした。ルターはユダヤ人排斥でヒトラーの思想的根拠となった。ウェスレーは完全癖・強迫性で、清め派の牧師などはメンタル病むのが多い。自殺者もね。だから、私は神学本読むときは、その提唱者の病理を読み取るべく読んでいる次第。要するに彼らの主張をマジで受け取るなということ。

要するに、ルターもカルヴァンもウェスレーも人間的に狭量であるから、彼らの神学は間違っている、というとんでもない言い分だ。

ここには、ルターは宗教改革によって、カトリックの教皇権を含め宗教権力を否定し、「聖書のみ」を唱えて、カトリックから分離し、聖書への回帰を唱えた結果、カトリック側からは異端者とみなされ、断罪された経緯などは、一切触れられていない。

さらに、かつては「人間に優しい砂糖まぶしの甘えの福音」は聖書に反する罪であるとして断罪していたDr.Lukeが、また、今もニッポンキリスト教界を根こそぎ否定しているDr.Lukeが、ルターとカルヴァンとウェスレーの狭量さを断罪するなどといった自己矛盾は全く愚かしい限りである。

プロテスタントの宗教改革者は「聖書のみ」の観点から、この世の世俗の権力と迎合したカトリックの宗教権力を否定したのであって、宗教改革者の人間的な弱点を取り上げることによって、彼らの果たした最も大きな功績までも否定するのは間違いである。

そこまでするならば、いっそDr.Lukeがカトリックへ回帰すれば良い。法王はあらゆる宗教の原理主義を否定しているようなので、考え方としては極めてよく似ている。「生ぬるい信仰」はOKだが、本気ですべてを捨てて、神に従うような考え方は、原理主義であり、過激派だから、御免被るというのである。

「苦しみの代価の伴わない、生ぬるい信仰」、「大衆迎合主義的信仰」を唱道していればこそ、Dr.Lukeはかつて自分を激しく罵り、プロテスタントを去って、カトリックへ行った言われている信徒と仲良く文通したりするのだろう。

そういう意味で、Dr.Lukeはもはや「聖書のみ」を唱えたプロテスンタントの中にはいない。そして、「聖書のみ」に基づく信仰を否定するからこそ、ニューエイジ、オカルト、サンダー・シング、禅、三島由紀夫など何でもありのごちゃまぜの福音を垂れるようになっているのだ。

だが、Dr.Lukeの出発点はペンテコステ運動だった事実も見逃せない。反カルト運動の指導者らも、ペンテコステ運動から出てきているが、当ブログでは、ペンテコステ運動は、その本質は盗みであるということを再三、述べて来た。

当ブログでは、ペンテコステ運動は、聖書の中から出て来たものではないということをいくつもの記事で解説した。また、その運動の本質は、本来は、キリスト教でないものが、既存のキリスト教の仮面をつけて、キリスト教の中に入り込み、これを内側から破壊し、乗っ取ることを目的としていることも指摘した。

反カルト運動を率いている村上牧師が、沖縄の教会をブランチ化したことへの疑問も前から述べているが、最近、Dr.Lukeが「第二のエクソダス」などを呼びかけているのも、既存のキリスト教から信者を離れさせるためである。

既存のキリスト教界を否定するのは自由とはいえ、自分の囲いでないところから、羊を奪い取ろうとするように、離れさせるのはいかがなものか。

ちなみに、当ブログでも、プロテスタントの終焉を述べているが、それは「聖書のみ」の信仰を否定するためではなく、カトリックの宗教権力を否定して「聖書のみ」の信仰へ立ち戻るために始まったはずのプロテスタントが、時を経て、牧師制度という、またしても聖書にはない宗教権力を打ち立て、それを固定化させたためである。

牧師と信徒の階級制には、聖書的根拠がない。だから、カトリック同様に、教職者を信徒にまさる階級として位置づけ、信徒から教職者への奉仕を当然視し、牧師に権力を持たせたプロテスタントは、もはやカトリックとの境界線を失い、新たな宗教権力となって、当初の宗教改革のエッセンスを失ったのであるとして、反対しているのである。

それゆえ、今やもう一度、プロテスタントからの宗教改革が必要とされている、というのが当ブログの結論である。

さて、話を戻せば、Dr.Lukeは自分たちは「神(=エロヒム)」だと豪語しているが、彼らの言う「エロヒム」とは何なのかは上記の記事に解説されている。

「かくしてあのキリスト(The Christ)がなされたことがキリスト(christ)であるわれわれにおいて再現される。ただし、私はわれわれがナザレのジーザスとは言っていないし、エロヒムであると言っているが、YHWHであるとも言っていないことに注意すること。何度も指摘するようにエロヒムとは霊的領域あるいはカテゴリーである(Dr.Heiser)。」

何と、エロヒムとは「霊的領域あるいはカテゴリーである」そうだ。

ここに欠けているものは何か。意思・人格を持ったパースンである。

聖書によれば、神は霊であるが、人間と同じように、意思や考えを持っておられるパースンである。キリストの御霊は、キリストの人格そのものである。

従って、ヘッド(頭)を失ったボディ(体)には、意思・考え・思いなどを持ち、体を統御する司令塔となる人格が存在しないのである。

ボディは、ヘッドの意思によって治められる領域であり、同じDNAを持つ一つのカテゴリーに属する細胞の集合体である、と言えるだろう。

これらの細胞の塊は、ヘッドの意思があってこそ、一つの目的へ向かって一貫性を持って機能する。

もしボディからヘッドが失われれば、そこには、統御されないバラバラのパーツ、空っぽの領域が広がるだけである。一つ一つの細胞が、てんでんばらばらに自己主張を繰り広げ、体全体の生き残りではなく、一つの細胞としての自分の生き残りのために、欲望のままに振る舞おうとするだけである。

聖書は言う。

キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。」(エフェソ4:16)

頭なるキリストがいなければ、体だけでは、成長することができない。節々を補い合うことも、しっかり組み合わされることも、分に応じて働くこともできない。

Dr.Lukeが「愛」を何より否定し、その言葉に拒否反応すら示していたことも思い起こされる。

さらに、Dr.Lukeは次の記事の中でこんなことも言っている。

メタモルフォーシスは栄光の中で-宗教の霊から解かれよ-」2018-06-26 |  by drluke 

「すなわち造り変え(メタモルフォーシス;トランスフォーメーション)は栄光の中でなされるのだ4)。栄光とは”Kavod”、その原意は「重さ」だ。神の栄光が望むとき、それは重い。その重さは素晴らしいエクスタシーをもたらす。その主の重いタッチが私たちを造り変える。決して歯を食いしばることによるのではない!  主ご自身ですら、喜びのゆえに十字架につかれたのだ5)。十字架教の宗教の霊から解かれよ!

当ブログでは、ペンテコステ運動がもたらす恍惚状態は、偽りのエクスタシーであり、その起源は、聖書にはなく、ヒンドゥー教のクンダリーニ覚醒と同じであるということを指摘した。

あらゆる原始宗教にはそういうエクスタシーがつきものである。

そして、Dr.Lukeは、そのような恍惚体験こそが、「栄光」であり、その中で、人々がキリストに似た者とされる、などと言う。そして、キリストは十字架につかれる瞬間にも、「歯を食いしばる」ことなく、「喜びのゆえに十字架につかれた」などと言うのだ。

この箇所について、Dr.Lukeは次の御言葉を引用している。

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。-Heb 12:2」

しかし、この箇所は新共同訳ではこうなっている。

「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。

このイエスは、御自分の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。」(ヘブライ12:1-2)

真逆の文脈になっている。だが、KJVなどを見る限り、訳としては上記の訳の方が近いのではないかという気がする。

"Looking unto Jesus the author and finisher of our faith; who for the joy that was set before him endured the cross, despising the shame, and is set down at the right hand of the throne of God."
 
日本語訳の食い違いの問題をさておき、ここでは「御自分の前に置かれた喜び」をどう理解するのかが争点である。十字架そのものが喜びであろうはずがない。現に"endured the cross, despising the shame, "と書いてある通り、それは恥であって、忍耐の限りを尽くして負わなければならない死の苦しみである。

そこで、"for the joy that was set before him "、つまり、「御自分の前に置かれた喜び」とは何かと言えば、それは死の向こうにある復活の喜び、その復活を一人の人(キリスト)を通して多くの人(信じる者たち)が享受することになる喜びであるとみなせる。

つまり、神が独り子なるキリストに人類の罪の身代わりとして、人類の受けるべき死の刑罰を受けさせることによって、贖いの御業が完了し、そして、御子が栄光のうちに引き上げられた神の右の座に就かれたこと、それが復活の意味であり、それこそが喜びの内容である。

また、"and is set down at the right hand of the throne of God"、「神の右の座に就かれた」という後半部分こそが、「御自分の前に置かれた喜び」の具体内容だと見ても良いだろう。神の右の座に就くこと以上の栄光はないからである。

しかし、その喜び、その栄光は、死の刑罰を受け切った先にしか用意されていないものであり、そのために、キリストは神の栄光に満ちた形を捨てて人となられ、十字架の死に至るまでもご自分を低くされたのである。

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」(フィリピ2:6-11)

 
このように、キリストが十字架の死の苦しみに至るまでも、ご自分を低くして、従順に御父に従われたからこそ、神はキリストにあらゆる名にまさる栄光を与えられたのである。

だが、当ブログでは、サンダー・シングについて分析した過去の記事においても触れたことであるが、グノーシス主義者は、十字架から死の苦しみを割り引き、かえって十字架を甘美な体験であるかのようにみなす。

ヴァレンティノス派に属するグノーシス主義文献、『真理の福音書』は次のように述べた。

「……あなたの見た、十字架の上で喜び笑っている者は、生けるイエスである。しかし、彼らが手足に釘を打ちつけているその人は、生けるイエスの肉体的な部分であり、それは身代りである。彼らは、彼の似像に残ったものを辱めているのだ。<…>」(『ナグ・ハマディ写本 初期キリスト教の正統と異端』、エレーヌ・ペイゲルス著、荒井献他訳、白水社、p.168)

「……いつくしみ深い忠実なイエスが、苦難を身にひき受けて耐え忍んだ。……なぜなら彼は、彼のこの死が、多くの人々にとって命であることを知っていたからである。……彼は木に釘づけにされた。……彼は 自らを死に至らせるが、彼は永遠の命を身につける。滅びの衣を脱ぎ捨てて、不滅をまとうのである。……」

「……木に釘づけにされた。彼は父の知識(グノーシス)の実になった。しかし、それは食べ[られ]ることによって破滅を与えるものになるのではない。そうではなくて、それを食べた人々が見いだすことに喜ぶようになる原因を与えたのである。なぜなら、彼は彼らを自らのなかに見いだし、彼らは彼を自らのなかに見いだしたからである。……」(同上、p.169)

このように、グノーシス主義者は、十字架を通して、キリストは人々にグノーシス(偽りの知識)を与える甘美な実になったと述べる。

彼らは、主イエス・キリストが十字架上で味わわれた凄絶な死の苦しみを矮小化、過小評価、あるいは、無視して、十字架には苦しみなど伴わず、十字架はかえって喜ばしい体験であったかのごとく描写する。そして、「それは食べられることによって破滅を与えるものになるのではない。そうではなくて、それを食べた人々が見いだすことに喜ぶようになる原因を与えたのである。」などという。

こうして、グノーシス主義者は、主の十字架の苦しみを割り引くことで、主イエスを信じる者たちが、日々、自己を否んで、自分の十字架を取って主に従う過程からも、すっかり苦しみを割り引いてしまうのである。

彼らは言う、キリストの十字架とは、人にとって喜ばしいグノーシスの実であり、その実は、それを食べた人が「決して死」んだりせず(創世記3:4)(=「それは食べられることによって破滅を与える…のではない」)、むしろ、その実は「まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くする」には「いかにも好まし」い(創世記3:6)、つまり、甘美なものであり、(=「それを食べた人々が見いだすことに喜ぶようになる原因を与えた」)、その実を見いだした人間は、「目が開け、…神のようになり、善悪を知るようになる」(創世記3:5)(=「彼は彼らを自らのなかに見いだし、彼らは彼を自らのなかに見いだした」=「エクレシアはキリストであることを発見する」)、つまり、十字架を取って主イエスに従うとは、決して「歯を食いしばることによるのではない」と、そこには苦しみも死も伴わず、むしろ、喜ばしい体験(エクスタシー)の中で、「永遠の命を身につけ」、「滅びの衣を脱ぎ捨てて、不滅をまとう」、つまり、神と自己とが同一になるというのである。

こうして、グノーシス主義者の言う「十字架」とは、聖書における十字架の概念から完全に逸れて、ただ単に人を高ぶらせる知識の実、つまり、エデンでサタンが人類をそそのかして食べさせた善悪知識の木の実と同じようになる。

奇しくも、Dr.Lukeはツイッターにおいて、「主は甘い」と述べたら驚く人があったが、リンゴを食べたことのない人にその味が分からないのと同じだ、などと言っている。

「「主は甘い」と言ったら、あるニッポンキ業界の女性に質問された。「それって、分かりません!」と言われても、リンゴを食べたことのない人にそのテイストをどうやってシェアできる?」(6月25日)
 
ここでリンゴのたとえが用いられているのも偶然ではない。禅の思想家である鈴木大拙は「二度目の林檎を食べねばならぬ」と述べたが、大拙の言う「二度目の林檎」とは、以前にも詳しく記事に記した通り、悟りのことであり、悪魔が人類に与える偽りの知識に開眼することである。
 
ペンテコステ運動のもたらすエクスタシーとは、人を偽りの知識で開眼させるための覚醒の儀式のことである(クンダリーニ覚醒などと同じ、「悟り」のための儀式)。

クンダリーニ覚醒の場面では、教師に手を触れられた人が痙攣するなどしながら恍惚状態に陥って地面に倒れ伏す映像を紹介した。(キリスト教界に入り込むグノーシス主義的・東洋神秘主義の危険⑦キリスト教界に入り込むグノーシス主義的・東洋神秘主義の危険⑧ 参照)
 
Dr.Lukeは言う、「神の栄光が望むとき、それは重い。その重さは素晴らしいエクスタシーをもたらす。その主の重いタッチが私たちを造り変える。決して歯を食いしばることによるのではない!  主ご自身ですら、喜びのゆえに十字架につかれたのだ5)。十字架教の宗教の霊から解かれよ!

これは、そのエクスタシーの中で、Dr.Lukeが得たとしている知識の中身をよく表している。彼はその儀式を通じて、既存のキリスト教界を憎むようになり、旧来の十字架の解釈とは全く異なる十字架の解釈を得た。
 
それを通じて、聖書に記されている十字架とは別の十字架、異なるイエス、異なる霊、異なる福音に目覚めたのである。
 
しかも、Dr.Lukeが「十字架教」などという言葉を使って、一人一人の信者が自分を十字架で死に渡すこと、日々の十字架を取って主に従うことを侮蔑・否定し、「十字架教の宗教の霊から解かれよ!」などと述べて、旧来の聖書的な十字架の理解を全面否定していることに注目したい。

これがその「エクスタシー」がもたらす実であり、美味な「リンゴ」を取って食べた人が受ける偽りの知識の中身なのである。

パウロは述べている。

「何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。

キリストは、万物を支配下に置くこさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださとるのです。」(フィリピ3:18-21)

頭を持たない体は、斬首された罪人と同じで、栄光とは何の関係もない存在である。それにも関わらず、罪人が自分の卑しい体を誇る。自分自身の欲望を誇る。自分自身を神と称する。

そして、信仰によって到来する霊的秩序を、目に見える世界の秩序に置き換え、地上天国を提唱する。
 
Dr.Lukeが以下の記事で述べているのとほとんど同じことを『国体の本義』が述べていたことを思い出したい。

神の国はNOW&HERE」2017-11-01 |  by drluke 
 
『国体の本義』は、万世一系の天皇家が永遠に続くものであり、そこに「過去も未来も今に於て一になり」「我が国が永遠の生命を有し、無窮に発展する」として、「我が歴史は永遠の今の展開であり、我が歴史の根柢にはいつも永遠の今が流れてゐる。」などと主張していた。

さらに、その「永遠の今」なる時空間を日本国民は生きるのかと言えば、天皇のために死すことにより、人は自己存在を昇華し、「真生命の発揚」すなわち、「永遠の今」に至れるなどという、とんでもない説を唱えていたのである。


国体の本義

第一 大日本国体、一、肇国から抜粋


  天照大紳は、この大御心・大御業を天壌と共に窮りなく弥栄えに発展せしめられるために、皇孫を降臨せしめられ、神勅を下し給うて君臣の大義を定め、我が国の祭祀と政治と教育との根本を確立し給うたのであつて、こゝに肇固の大業が成つたのである。我が国は、かゝる悠久深遠な肇国の事実に始つて、天壌と共に窮りなく生成発展するのであつて、まことに万邦に類を見ない一大盛事を現前してゐる。
<略>

 天壌無窮とは天地と共に窮りないことである。惟ふに、無窮といふことを単に時間的連続に於てのみ考へるのは、未だその意味を尽くしたものではない。普通、永遠とか無限とかいふ言葉は、単なる時間的連続に於ける永久性を意味してゐるのであるが、所謂天壌無窮は、更に一層深い意義をもつてゐる。即ち永遠を表すと同時に現在を意味してゐる。

現御神にまします天皇の大御心・大御業の中には皇祖皇宗の御心が拝せられ、又この中に我が国の無限の将来が生きてゐる。我が皇位が天壌無窮であるといふ意味は、実に過去も未来も今に於て一になり、我が国が永遠の生命を有し、無窮に発展することである。我が歴史は永遠の今の展開であり、我が歴史の根柢にはいつも永遠の今が流れてゐる。



第一 大日本国体、三、臣節、忠君愛国 より抜粋

我が国は、天照大神の御子孫であらせられる天皇を中心として成り立つてをり、我等の祖先及び我等は、その生命と流動の源を常に天皇に仰ぎ奉るのである。それ故に天皇に奉仕し、天皇の大御心を奉体することは、我等の歴史的生命を今に生かす所以であり、こゝに国民のすべての道徳の根源がある。

 忠は、天皇を中心とし奉り、天皇に絶対随順する道である。絶対随順は、我を捨て私を去り、ひたすら天皇に奉仕することである。この忠の道を行ずることが我等国民の唯一の生きる道であり、あらゆる力の源泉である。されば、天皇の御ために身命を捧げることは、所謂自己犠牲ではなくして、小我を捨てて大いなる御稜威に生き、国民としての真生命を発揚する所以である。


その時代には、天皇のために臣民は身命を捧げ、死ぬことにより、「真生命の発揚」すなわち「永遠の今」に到達することができるなどという愚かしい詭弁が唱えられていた。つまり、彼らの言う「永遠の今」には、死を持ってしか到達できなかったのである。

Dr.Lukeが以上の述べていることもそれとほぼ同じになって来ている。
 
われわれは新生命体であり、世の人とは致命的に異なる次元に生きているのだ。このアイデンティティーを明確に持たないと、いわゆる罪ゆるされた憐れな罪人に過ぎないとして、「まずしく・きよく・ただしく・うつくしく」という三浦綾子の世界に生きることになる。」

キリスト教界の貧しさを嘲笑し、上から踏みつけて勝ち誇る。なぜ三浦綾子が再三に渡り引き合いに出され、踏みつけにされているかと言えば、おそらくそれはDr.Lukeの女性蔑視が出てきたものなのだろう。同氏があえて嫌いな神学者を引き合いに出さず、わざわざ女性作家を引き合いに出して踏みつけにするのは、当ブログへの攻撃と同じ精神の上に立ってなされたものだと見える。

「貧しさなんて嫌だ。清さなんて古い。そんなものに美はない!!」というわけだ。
 
こうして、常に自分よりも弱そうな他者を引き合いに出して来ては、マウンティングして勝ち誇り、自分たちがいかに優れているかを強調せずにいられないという論法の中には、かつてこの日本国民が、自分たちは「万世一系の天皇家」を頂点にいただいているから、卑しいアジアの他国とは違う・・・などと言ってアジアの国々を侵略した驕りとほとんど同じ高慢さが見て取れる。

結局、今や我が国はそうして過去に見下していたアジアの国々にすっかり経済成長で追い抜かれ、置き去りにされているのであるが。
 
Dr.Lukeは、そのようにまで躍起になって、「清く、正しく、貧しく、美しく」という生き方を否定しながらも、同時に、中国共産党政権下で福音宣教を行ったために、20年間幽閉されたウォッチマン・ニーを再三に渡り、引き合いに出して褒めたたえるという自己矛盾ぶりだ。

ウォッチマン・ニーの生き様は、三浦綾子に比べて、はるかに貧しく、はるかに苦しみに満ちていたはずなのだが…。
 
さらに、Dr.Lukeは、

フェイスは時間のマトリックスを超える」2018-03-02 |  by drluke 
でこう述べる。

「フェイスには時間のスケールはない! それは永遠のNOW! われわれのフェイスは時間に束縛されていない(☞フェイスは時空を超える)。なぜなら-

神のわざは天地創世の時にすでに完成されていたのだ。-Heb 4:3」

ほとんど言っていることが「国体の本義」と同じになっていることにお気づきか。

ここには、グノーシス主義者が決まって陥る無限ループがよく表れている。グノーシス主義者には、必ず原初回帰を唱えるという特徴があるからだ。

つまり、彼らはエデンにこそ完成があり、エデンに戻ることが、人類の完成なのだと言って、輪を描く時間軸を主張する。

共産主義者も同じように、人類の歴史の最初には、いかなる経済格差もない「原始共産主義社会」があったとして、階級を廃絶することにより、その理想状態に逆戻ることを目指した。
 
だが、聖書の時間軸は直線である。そこにはアルファとオメガがあり、初めと終わりは決して同じにはならない。

聖書は言う。

見よ、わたしは新しい天と地を創造する。
 初めからのことを思い起こす者はいない。
 それはだれの心にも上ることはない。」(イザヤ65;17)

その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。」(2ペテロ3:12-13)

神の国が私たちのところに来ているとは、この直線的な時間軸の中に、神の側からの恵みとして、超自然的介入がもたらされ、救いを受け入れた人の中に、神の国の秩序が(永遠の命、キリストの復活の命)がもたらされたことを意味する。

だが、それでも、私たちが滅びゆく地上の幕屋の中で、体の贖われる時を待ち望みながら生きている事実は変わらない。私たちの贖いの完成は、あくまで未来の出来事である。

Dr.Lukeの説には、十字架の死がもはやないのだ。そこには、体が滅びへ向かっている事実もなければ、頭なるキリストの頭首権に服するという考えもない。

今というとき、滅びゆく罪に堕落した体が、あたかも聖なるものであるかのごとく祀り上げられ、それは実際には、死に定められた人間が首を切り落とされて地上をさまよっている姿と同じなのにも関わらず、その体が、「自分たちは永遠だ!」と叫んでいる異様さである。

キリスト教の正しい秩序は、霊が魂と肉体を支配するというものであるが、彼らの場合は、肉体が魂と霊を支配しようとしており、頭なるキリストが否定されることにより、体があるじとなって、唯物論が提唱されているのだ。

ヘッドを否定して、ボディが己を誇る思想は、すべて唯物論である。そして、唯物論に立脚しているからこそ、今、見えている世界で富や栄光を得ることが、神の国の富や栄光と同一視され、地上天国が説かれるのである。

だが、主イエスははっきりと言われた。

「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一歩を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで 他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(マタイ6:24)

地上の富を追い求めながら、同時に、神に仕えることはできないのだ。

だが、それだけではない。すでに述べた通り、グノーシス主義は相反する概念を統合しようとする無限ループの教えなので、そこには、霊的死がない代わりに、必ず何らかの形で現実の死が求められることになる。

つまり、この世の富や快楽を求め、今という時の永遠性を主張しながらも、同時に死へ向かって行くという自己矛盾が必ず起きて来るはずなのだ。

筆者は、それがどういう形でDr.Lukeの教説に現れて来るのかは知らない。

今の所、Dr.Lukeは三島を讃えてはいても、三島のように「天皇のために死ね」とは言っているわけではない。ウォッチマン・ニーを引き合いに出しているが、誰もが20年間幽閉されるべきと言っているわけではない。

今の所、享楽的な生き方を唱道しているようであって、何かを口実に死へ向かうようあからさまに唱えているようには見えない。従って、その「死」が何を口実にもたされることになるかは、興味のあるところだ。

しかし、Dr.Lukeがウォッチマン・ニーの死を賛美しているところにも、筆者は三島由紀夫と似たような、ある種の「死の美学」を見いださないわけには行かないのだが。

また、当ブログの証を否定し、これを踏みにじって立ち向かって来た人物らに降りかかった滅びのことを思うと、筆者は、それがこの先、どういう形でやって来るにせよ、以上のような教説を唱えている人が、そのまま普通の人生を送るとは思えないものがある。

地上のエルサレム神殿は、石組み一つ残らないように崩された。マサダの城壁に逃れて立てこもった人々も、自ら死を選んだのである。

マサダに立てこもったユダヤ教徒たちは、自己の誇りを捨てないために死を選んだ。自己の教説を守るため、彼らの信じる「永遠の今」が否定されないためである。

また、グノーシス主義者たちは「肉体の牢獄」から魂を永遠に解き放つためと称して、死を選んだのである。
  
従って、この先、KFCにどういう形で「死の美学」が現れて来るのかは分からない。

だが、主と共なる十字架において自己の栄光を捨てることができず、それをしようとする人々を嘲笑し、踏みつけにするような人々の建てた城壁は、遠からず、バベルの塔として、何らかの形で崩される時が来るであろうと思わずにいられない。

御言葉も、十字架に敵対する人々の行き着くところが「滅び」であるとはっきり告げている。

「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。

主と共なる十字架の死を拒んで、生まれながらの自己を神とする人々は、堕落した人間の体を神聖なものであるかのようにみなし、己の欲望を神として生きている。

従って、そのような人々は「腹を神」として歩んでいるのだと言えるのであって、彼らのその後については、三島由紀夫が割腹自殺したことや、イスカリオテのユダの末路を思い出し、早急にそのような生き方からは離れるべきだろう。

「そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。

しかし彼らは、「われわれの知ったことではない。お前の問題だ」と言った。そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。祭司長たちは銀貨を拾い上げて、「これは血の代金だから、神殿の収入にするわけにはいかない」と言い、相談の上、その金で「陶器職人の畑」を買い、外国人の墓地にすることにした。

このため、この畑は今日まで「血の畑」と言われている。こうして預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。
彼らは銀貨三十枚を取った。それは、値踏みされた者、すなわち、イスラエルの子らが値踏みした者の値である。主がわたしにお命じになったように、彼らはこの金で陶器職人の畑を買い取った。」 (マタイによる福音書 27:3-10)

「兄弟たち、イエスを捕らえた者たちの手引きをしたあのユダについては、聖霊がダビデの口を通して預言しています。この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです。ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました。

ところで、ユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのですが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました。このことはエルサレムに住むすべての人に知れ渡り、その土地は彼らの言葉で、『アケルダマ』、つまり、『血の土地』と呼ばれるようになりました。
詩編にはこう書いてあります。

『その住まいは荒れ果てよ、 そこに住む者はいなくなれ。』
また
『その努めは、ほかの人が引き受けるがよい。』」 )(使徒行伝 1:16-20)

ヘッドから切り離されて、ボディだけが無事に生き残ることなどあり得ない。十字架に敵対する人々の末路は滅びである。だから、筆者はどんなに嘲られ、蔑まれようとも、主イエスと共に十字架の死にとどまることを固く決意する。今は特にそうしなければならない緊急の時だ。

奇しくも、Dr.Lukeが幾度も引き合いに出すウォッチマン・ニー自身が、十字架の装甲から外に出れば、我々は一巻の終わりだと告げている。それは主と共に十字架の死にとどまることだけが、復活にあずかる道であり、それ以外に、信じる者が主と共に栄光を受ける道はないという強いメッセージだ。
 
だから、読者よ、この悪い時代に惑わされることなく、立ち返って救いを手放さないようにしなければならない。
 
筆者は全面的に次の御言葉にアーメンと言う。もしもこの御言葉を原理主義と呼んで嘲笑うクリスチャンしかいなくなっているとしたら、もはやこの世に信仰はほぼ見られない時代になったのである。

もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。
<略>
だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」(ルカ14:25-33)
 
最後に、常に忘れられがちになっているが、私たちが主のために投じたものが、決して無駄になることはなく、真に主イエスに従うために必要があって捨てたものならば、必ず、百倍にされて報いられると聖書は告げていることも思い出そう。
 
キリストの福音は、ハッピーエンドであって、決してウォッチマン・ニーのような悲劇には終わらない、と筆者はみなしている。

むろん、苦しみの渦中にある時には、それは分からないかも知れない。だが、主は私たちが福音のために捧げた犠牲を決してお忘れにはならない。百倍にもしてそれを返して下さることが約束されているのである。

かくて天の御国の法則は、主のために捨てた者がそれを豊かに得、この世ですべてを握りしめたまま何一つ捨てなかった者は、何も得られないで終わるというものである。
 
ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言い出した。

 イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。」(マルコ10:28-30)


今こそ、神の家から裁きが始まる時です。わたしたちがまず裁きを受けるのだとすれば、神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるだろうか。

今こそ、神の家から裁きが始まる時です。わたしたちがまず裁きを受けるのだとすれば、神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるだろうか。

正しい人がやっと救われるなら、
 不信心な人や罪深い人はどうなるのか

と言われているとおりです。だから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい。」(1ペテロ4:17-19)

* * *

「天のお仕事」を始めてからしばらく経つ。

ある指導者が「私たちはキリストだ!」と豪語している。この理論の誤りについては、後ほど記事にする予定である。エクレシアはキリストの体であって、キリストご自身ではない。ところが、彼らはそんな初歩的な聖書理解さえ失い、エクレシアはキリストだと言い始めた。

その指導者は神学を無用なものとして否定・攻撃しているが、それも当然、彼らはかしらであるキリストに服することを拒んでいるので、体の欲望に導かれるまま進んでいるだけで、自分で物事を考える力がそもそもないのだ。

それはまるで首を切り落とされた罪人が、頭がなくなったのに、まだ動き、よろめき、手足をばたつかせながら、この世をさまよっているかのごときグロテスクな光景である。それがキリストとは何の関係もない腐乱死体に過ぎないことは、この先、如実に証明されるであろうと思う。

唯物論とは、かしらであるキリストを否定して、からだに過ぎない者が、己を神だと宣言する「さかさまの理論」に他ならない。彼らは、ヘッドから切り離され、ヘッドを否定して、ボディだけで生き残れると主張して、ボディを鍛える。だが、そんな生き方が可能なはずがなく、頭を失った体は、短い期間で、己を守れなくなり、その体の細胞は壊死して行き、腐臭を漂わせることとなる。

前にも書いた通り、ハンセン病者の体が形を失って行くのは、痛みの感覚がなくなることによる。頭を失えば、体は神経の感覚がなくなり、痛みを感じなくなる。痛みの感覚が失われるからこそ、自分の弱い部分を守れなくなり、自分を自分で痛めつけ、人の形を失い、崩壊して行くことになる。

筆者はそういう恐るべき自己顕示、自己栄化に生きる道を拒み、十字架の死にとどまって、地道に天の仕事を遂行している。そこから復活の命が現れるためだ。

筆者の言う「天の仕事」とは、悪魔と暗闇の勢力が作り出した偽りの理論の嘘を明るみに出し、彼らの罪を証明する作業である。

それは根気強い地道な作業の積み重ねだが、敵の城を崩すためには、避けて通れない道だ。考えれば考えるほど、敵がいかに卑劣な論旨のすり替えを行っているがよく分かる。

こうして、暗闇の勢力との論戦を繰り広げるうちに、分かったことがいくつかある。

第一に、悪魔はまともな理論をどうしても作れないこと。悪魔の作った理論には必ずほころびがあり、自己矛盾があり、論理破綻がある。それを見つけ出し、嘘の嘘たる所以を明らかにすることによって、悪魔の理論が崩壊する。

端的に言ってしまえば、敵の理論は、自己矛盾による無限ループに陥っており、目指している目標を決して達成することができない。その事実が明るみに出されれば、それは誰にとっても無用な理論として打ち捨てられることになる。

第二に、悪魔には人権がない。だから、悪魔と暗闇の勢力に与した人たちには、他人を傷つけることしかできず、自分を守ることができなくなるという特徴がある。 つまり、自らの正当な権利を擁護するために立ち上がるということが、彼らにはどうしてもできないのだ。

だから、彼らは攻撃されっぱなしになり、自己防衛できないまま、弱体化して行く。彼らが応戦すると叫ぶのは、報復措置として不法行為を行うという予告でしかなく、彼らは不法行為を行わずして、正当な方法で身を守ることができない。

だから、彼らが自己防衛に成功したように見えるときでさえ、そこには不法行為がつきものであって、その事実を静かに指摘することによって、彼らの成功は失われる。

また、彼らは欲望に満ちており、自己を顕示するための享楽的な活動にしか精を出せないため、最も苦しい戦いを地道に孤独に戦い抜いて、身の安全をはかり、自分を守り通さねばならないときに現場を離れ、お祭りに精を出す。防衛のシェルターが敗れても繕わず、自分を守れない。

彼らは採算度外視で拡大すること、繁栄することばかりを目指し、破れ目を修復し、弱ったもの、傷ついたものを包み、病んでいるものを癒し、自己や他人を世話することがどうしてもできない。だから、彼らの言う成長は、ハリボテの人形のように中身のないものとなり、その空虚さを明るみに出せば、その成長は、風船のように弾け飛んで消え失せる。

* * *

今、筆者の中で、激しい争奪戦が起きている。それは自己のアイデンティティを巡る争奪戦である。キリストに贖われた新しい人として立つか、それとも、過去の残滓にとどまるか、重要な戦いの正念場である。

反カルト運動の指導者や支持者らは、長年に渡り、自分たちが一度、捕虜とした人間を、生涯に渡り、奴隷として拘束し、逃がさないために、手かせ、足かせをつけては、その人間を決して自由にしないと宣言して来た。

だが、神はそれとは全く異なる結論を私たちのために提示して下さる。

それが、真理によって私たちが得た自由、キリストにある新しい人である。

筆者はその真理を掴み取り、それを堅く握って手放さずに、先へ進んで行く。ここから先は、エクソダスの道、別れた紅海を渡っていく道だ。敵軍はもう追いつけない。

筆者はある人を数年前に「サタンに引き渡す」と書いた。筆者が反カルト運動と完全に決別し、聖書の真理に立つための戦いの覚悟を決めた瞬間であった。

たとえこの地球上の誰一人、理解せずとも良いから、一人になっても、聖書の御言葉に固く立ち、神がキリストにあって私たちのために約束して下さった絶大な栄光の真理に固く立って、その約束を破壊しようとする者に、断固、立ち向かうことを決めた。

それからしばらくの間、依然として激しい戦いが続き、筆者は、あまりの戦いの激しさに、何度か、それをやめようとしたことがあったが、その度毎に、暗闇の勢力が、筆者に敵対していたその人間を、敵軍の捕虜として、筆者の手の届かないところへ連れ去って行った。

筆者が最も劣勢にあって、ほとんど絶望しかかっているような時にさえ、その人は悪魔によって捕えられたまま、筆者との間で停戦を結ぶこともできず、打ちのめされ、罪を宣告されて、ついに筆者の力によらず、暗闇の勢力によって連れ去られたのである。

そうして、戦いの渦中で、その人は筆者から引き離されて、暗闇の勢力によって、二度と戻って来られない領域へ連行された。

筆者は、それを見ていささか驚いた。暗闇の勢力は、自分たちを守るために一致団結しているのかと思っていたが、そうではないことが分かったからである。暗闇の勢力の中にも、序列があって、彼らは破滅を宣告された者を捕虜として、彼らをより深い破滅へと引きずり込むために活動しているのだ。

だから、彼らは自分たちが助かるために連帯しているのではなく、破滅を宣告された者から順番に、より深い破滅へ引きずり込むために連帯していると言って良い。何にせよ、それは破滅を運命づけられた者たちによる連帯だから、助け合っているように見えるのは表面的なことでしかなく、その連帯の中にいる人間は、結局、全員が破滅することになる。

そういうわけで、長年、筆者を苦しめて来た人物は、筆者には手を触れることができなくなり、遠く、遠くへ連れ去られて、戻っては来れない領域に行った。再度、戦いをしかけて来ることがあれば、その時が、その人の完全な終わりになるだろう。

そこで、筆者はさらなる戦いのために、後ろを振り返らずに、別れた海を新しい地へ向かって前進している。新しい地へ到達するのか、それとも、諦めて途中で立ち止まって、溺れ死ぬのか、それは私たちが自ら選択する道なのだ。

他人のことを論じているうちに、自分自身が失格者にならないよう、よく気をつけて歩まなければならない。
 
過去は私たちを常に出てきた故郷に引きずり戻そうと狙っている。だが、私たちは後ろのものを忘れ、前へ向かい、目の前に置かれた賞与を目指して走り抜かねばならない。たとえ目の前に広がっているのが、海でしかなかったとしてもだ。

主が用意される道は、薄暗がりの中にあって、それが勝利の凱旋の道だと分かることはほとんどない。そこを歩いているときに、その道が天に続いていると分かることもまずない。

戦いは激しく、恐れや不安が取り巻き、孤独と戦いながら、身一つで手探りに進むしかない。後になってようやく分かる、そうして人知れず支払った代償、孤独に歩んだ戦いの道を、神はご覧になって、評価されていたこと。そのように代価を払うことでしか、決して成果を勝ち取ることはできないことが。

だからこそ、筆者は誇示しようと思えば、誇示できるものがあっても、キリストご自身以外のものを誇ることはすまいと決めた。やろうと思えばできないことではなかった。だが、その度毎に、心を押しとどめるものがあり、その神聖さ、厳粛さを決して手垢にまみれたものにしないためには、事を秘めなければならないと分かった。 

今まで、筆者のために尽力してくれた人たちも、いなかったわけではないが、筆者は、それを誇ろうとも思わないし、その人たちに、お礼も言うまいと決意している。お礼を言ってしまえば、天での報いがなくなるだろう。ただ黙って、互いにやるべきことを果たしただけと、感謝もねぎらいもなく、素っ気なく別れるのが良い。

そういうわけで、筆者は表情を固くして、本音を語らない。まだ戦いは続行しており、終戦などしていない。どうして今、すべてが終わったかのように安堵して、喜ばしい台詞を口にし、くつろぎの時のように過ごすことができるのか。

腰に帯をし、身を引き締めて、霊的な武器で固く武装して立ち、大切な結論は、心に秘めておけ。神にのみ心を打ち明けよ。人にどうこう言わせてはならない。命と引き換えにしてでも、守り抜かねばならない宝がある。

むろん、それは神がご自分の独り子を通して私たちに与えて下さった完全な救いのことであり、完全な贖いのことであり、この古き世界からのエクソダスのことだ。

エジプト人が溺れ死んだそのときに、やっと筆者は笑顔を見せることができるかも知れないが、それも束の間であり、一つの仕事が終わっても、高く、高く、さらなる高度へ向かっていかねばならない。

世にどっぷりと浸かっていればいるほど、人の物事の判断はダメになる。神の御前に静まり、全てを置いて、御心を尋ね求めねばならない。人間の利益の全てを脇において、神が何を願っておられるのか、その観点から物事を見ることが、どうしても必要なのである。

2009年に起きた出来事を、確固として握り、手放さないようにせねばならない。それを考えていたとき、自民党政権は、2009年に終わっていたのだと気づいた。それ以後の歴史は全部、嘘であり、泥棒の歴史であり、政権交代によって、この国の民意が打ち立てるはずだったものの否定、破壊の連続だったのだと・・・

あの時に掴んだはずのものを守り通せず、敵の恐るべき卑劣な作戦に打ち勝つ術を知らなかったから、我が国の現在があるのだと。

* * *

筆者が訴訟について具体的なことを書かなくなったので、何も進展していないと考えている人々は多いかも知れない。

前にも書いた通り、真に勝利が確定していないのに、快哉を叫ぶのは極めて愚かなことであって、私たちは神が勝たせてくださるなら勝つが、神が味方して下さらなければ、そうではないと、謙虚に言わなくてはならない。

敵の足元は崩れており、 それは感情論ではなく、峻厳な事実である。だが、今、そのことについて書こうとは思わない。

地上に立派なエルサレム神殿が建っているとき、まさかイエスが生きた神殿であることを理解した人はほとんどなかった。イエスは神殿が破壊されても3日で建て直すと言われた。それはご自分のことを指して言われたのである。

神の国の秩序、新エルサレムの秩序は、私たち信じる者の中に来ている。なのに、そのことを知っている人はとても少ない。地上の多くの人々は、あの山、エルサレムへ駆けつけ、自分好みの指導者の発言の中に、神の国があると信じている。

しかし、聖書は警告している、人に惑わされるなと、あそこに、ここにキリストがいると言われても、彼らに着いて行くなと。

東京都知事選などを見ていると、我が国の主都は魔都となったと思わざるを得ない。筆者は候補者全員を見渡して、誰も選ぶ人がいない、という結論にしか至り着かないからである。

多くの人たちは知らない、この国に裁きの時が迫っていること。前からずっと書いていることだが、オリンピックは開かれず、コロナは収束せず、東京に迫っているのは巨大地震である。

今、この主都に新しいものを建設する時ではない。

だが、筆者は地上を取り戻すために奔走している。人間の失われた尊厳を、失われた調和を、失われた正義、真実を回復し、神が私たちのために用意して下さった新しい人を着る約束を、確かにこの手にしっかりと握るために。

貧しい者が天の国を得、悲しむ者が慰めを得、義に飢え渇く者が満ちたり、心の清い人が神を見るために。 

だからこそ、戦いがあり、語らなければならないのだ。私たちのアイデンティティは何か。神がキリストの十字架を通して、私たちのために用意して下さったものは何か。

私たちは死に物狂いで、キリストを選び、御言葉の中にとどまらねばならない。古き自己を否み、日々の十字架を取って、キリストに従い、まといつく罪を振り切って、あらゆる古き人の痕跡を脱ぎ捨て、しみも、しわも、その類いの一切ない、栄光の花嫁なる教会を自ら選択し、そこに立ちおおせねばならないのだ。
 
今の時代は、イエスが地上を生きておられた時代と同じで、地上には数々の立派な神殿が築かれ、厳かな儀式があり、きらびやかな衣をまとった聖職者たち、教師たちがいる。

だが、私たちは自分自身の心の内に、神の国が到来しており、神の神殿を破壊する者は滅ぼされる、という法則を思い出さなければならない。

あの教会でも、この指導者でもなく、私たち自身が、ノアの箱舟であり、次なる時代のために備えられた贖いの初穂なのであり、キリストを長兄とする神の家族なのである。

だから、すべての指導者や、カウンセラーを名乗る人々から離れなさい。見えない神ご自身、キリストから与えられた油である御霊に直接、教えられて歩みなさい。

目に見える指導者につき従えば、待っているのは、霊的搾取だけである。そしてついには、滅びへと誘い込まれることになる。
 
よく見ておいてもらいたい。多くの人たちが、自分は「紅海を渡り」、「キリストに連なる者」になったと豪語している。ある人々は、「キリストご自身になった」とさえ言う。自分たちは新創造であって、約束の地にたどり着いたと彼らは言う。

だが、彼らのエクソダスが本物でなければ、彼らは紅海を渡り切ることはできず、途中で溺れ死ぬことになる。今、筆者が、追っ手がようやく筆者に手を触れられなくなったと述べているだけで、紅海を渡り切ったとは述べていないことに注意してもらいたい。

パウロでさえ、自分はすでに得たとは思っていない、得ようとして前に向かって身を伸ばしていると述べているのに、すでにすべてを得たかのごとく豪語している人々の発言には注意する必要がある。
 
それは各人の激しい戦いである。みんな仲良く、手を携えて天の門をくぐることなどできない。神はそれぞれの生き方に報いられる。御言葉を聞いても従わない者は、神の国に到達することはできない。これは厳粛な結論である。 
 
筆者の周りでは、箱舟建設を嘲笑する声が絶えなかったが、すでに大雨が降り始めている。エジプトのファラオのように、筆者を奴隷にしておきたい蛇のような人たちが、何度、エクソダスを阻もうと追って来ても、私たちの前進は、それによって妨げられることはない。

策が多いから功を奏するのではなく、神が知恵を与えてくださるからこそ、助かるのだ。

この国の人々は、あたかも安全配慮義務を怠ったまま、高い高い塔を建てている建設現場の労働者のようだ。あるいは、兵糧もないのに、大戦争を開始すべく、他国に奇襲をしかけている国のようだ。

この地が大きく振るわれるとき、彼らが築いた脆い土台では、塔は立ちおおせない。彼らの皮算用では、大戦争を遂行するに十分な費用は賄えない。しかも、彼らは、初戦が終わっただけなのに、もう終戦が来た、勝利は確定したなどと言って喜んでいる。

まるで我が国のかつての大戦の時と同じである。

真に砂上の楼閣を建てているのが誰であるかは、数年も経過しないうちに、はっきりと分かるだろう。今、一人、また一人と紅海を渡り切れずに、敵に連行されて行く人々が現れている。ここから先、その人数はもっと増えて行くことになる。

筆者の論を、極めて少数説だとして嘲る人々がいるが、主イエスは再び地上に来られるときに、この地に信仰が見られるだろうかと言われたのであり、ノアの時代には、人類のうちで救われた者は8人しかいなかった。

キリスト教が、マジョリティの福音だと書いてある箇所は聖書のどこにもない。
 
裁きは、神の家から始まる。信仰による義人も厳しく試されている以上、不信心な者、罪深い者の行く末は、筆舌に尽くしがたいものとなる。頭なる方を否定して、体を神とした人間の末路は、三島由紀夫の最期を思い浮かべるだけで十分である。