忍者ブログ

私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

キリストの十字架以外に救いはない!

最近、複数の方から、問い合わせがありました。
そのうち一つは、今後のキリスト教界の浄化のために、このブログで、私はもっとキリスト教界の不正と声を大にして闘うべきであり、社会正義のために、受けた被害内容を公然と世に明らかにすべきである、との強い要望でした。

これが言語道断な要望であることは言うまでもありません。「正義」のためならば、本人の意志さえ踏みにじって、どこまでも、土足で人の心に踏み込んでもよいと考えることは間違っています。

しかし、今、キリスト教界の悪事を訴えることに熱中している人たちの一部は、自分が従事している仕事が、絶対善だと信じるあまり、世間では当たり前の常識や、他人の心への当たり前の配慮さえ、忘れています。自分を義とみなし、高慢になり、自己反省能力を失った挙句、カルト化してしまった教会の牧師や信徒達とまるで同じように、他人の人生を軽々しく扱い、人を辱めるような行いに慣れきった下劣な人間に成り下がってしまっているのです。

彼らは悪事と闘うための材料になりそうなものならば、自分と一切関係ない人の人生であれ、誰かの持ち物であれ、何でも、自分の望みのままに、引っ張り出して、世間に公開できると考えており、浅ましいまでに次々と非難の標的を探します。それが正しい行動であると信じ、実際には、まるで三流のジャーナリストのような低俗な行いに自分が従事していることに少しも気づいていません。これは恐るべきことです。

これとは反対に、私はまた最近、別の方から、お便りをいただきました。その人は今までカルト被害者の立場に立って、キリスト教界の腐敗を訴えて来られたのですが、これ以上、自分の恨みがましい感情だけを延々と訴え続ける「被害者」の立場にはもう立てない、と述べておられました。

私の立場は後者に近いものがあります。私もかつてはカルト被害者の立場からブログを書き始めました。初めのうちは、悪事を明るみに出すことによって、キリスト教社会を幾分か改革できると考えていたこともありました。
しかし、今、私はもはやキリスト教界の不正を声を大にして訴えることに全く関心がありません。なぜならば、キリストご自身を求めなければ、他の問題をどれほど追及したとしても、何の解決にもならないからです。

十字架なくして、どのような社会改革やカウンセリングを試みたところで、私たちには何の望みもないのです!

どうぞご覧下さい、キリスト教界の不正を追求する仕事に熱中している人たちが、どれほどまでに、信仰をなくしてしまっているかを。彼らはただ自分自身しか見えておらず、キリストのことを、もはや完全に忘れてしまっているのです。信仰という点から見て、彼らとカルト化した教会との間に何の違いがあるでしょう?
しかし、私たちはクリスチャンだったはずです。私たちは恨みと怒りをもって闘い続ける人生を選ぶべきではなく、平和に福音を宣べ伝え、キリストを知る喜びを世に証し、「キリストの香り」を漂わせる人となるべきなのです。

かつて、私はキリスト教界で遭遇した事件を通して、一時は、完全に希望を失うまでに、打ちのめされました。自分の信仰がどこへ行ったのかもよく分からない時期がありました。しかし、私は自分の被害状況や嘆きを、世に対して訴えるのではなく、神に向かって訴えるべきだと気づきました。
そこで、私はこの世の裁判官にではなく、カウンセラーでもなく、ブログの読者たちにでもなく、まことの裁き主であられる主の前に、この問題を持ち出しました。

すると、ある時、神ご自身が私の人生に現れ、そして、私の心の問題を完全に解決されたのです。
神は、神を信じる者にあっては、苦しみに満ちた過去でさえ、益となること、私の人生においては、すべてが神に至るために避けて通れない痛みであったことを示されました。

私が損失だと思っていたものは、肉なる私にとっては確かに大きな痛みでしたが、神の目から見て、それは損失ではなかったのです。
私がキリスト教界で失ったものは多かったのですが、その代わりに、私は神に出会いました。打ちのめされ、傷つき、私の信仰が風前の灯のようになっていた時でさえ、主は愛をもって、根気強く、私を招いておられました。
そして私が痛みの中からでも、とにかく神を見上げ、神を信じ、人の義ではなく、神の義を求めたことを、主は喜んで下さったのです。
キリストが私と共に生きて下さる、これ以上の光栄が、クリスチャンにとってあるでしょうか!?
神に出会うことに比べて、他の何が価値を持つでしょうか!?

その時から、私は自分を被害者とみなすことはできなくなりました。
神は十字架を通して、私のあらゆる問題に完璧な解決を下さったのです。
というよりも、問題に苦しんでいた私そのものが、十字架につけられ、光に照らされ、死んだと言った方がいいかも知れません。
そして気づくと、イエスの復活の命による全く新しい人生がスタートしていました。
もはや心の痛みを延々と訴える必要もありません。私はイエスの復活を通して、健やかで、傷のない、完全な、新しい命をいただいたのです。

ニッポンキリスト教界の問題にはそれ以来、関わっていません。
キリスト教界の問題を延々と追及する人たちに、この先、関わりたいとの願いもありません。
カルトと闘うことを人生目標にしている全ての人たちに、私は賛意を表することはできません。被害者として永久にこの被害を忘れまじと公言している人たちにも、被害者をケアし救済するという名目で、その仕事を自己実現の手段として利用している人たちにも賛同することはできません。

神を冒涜している人々には、すでに御言葉によって、裁きが定められているのです。
私たちがなすべきことは、正しい裁きを神に求めることだけです。
私たちは何事についても、早急な裁きをせず、裁き主なるお方に信頼して委ねるべきです。

神は生きておられます、キリストは今日も生きて、信ずる者一人ひとりの信仰を通して御業を成しておられるのです。心の貧しい者、心の痛む者、悩んでいる者、悲しんでいる者は、裁判所に行くべきではなく、カウンセリングの扉を叩くのでもなく、まず、神のもとに駆けつけるべきです。神を信じ、心から誠実に神に求めるならば、神がその人に慰めと解決を与えて下さるでしょう。

考えてもみて下さい。
もしも神ご自身が、あなたをキリストの似姿へと変えたいと言われるならば、あなたは喜んでそれを受け入れたいと思わないでしょうか。
今のままの自分でいる方が良いと思いますか。それともキリストの似姿へ変えられたいですか?

神は今日も、私の古い性質を砕き、新しい人を私の中に形作りたいと願っておられます。
そんな素晴らしい約束があるのに、過去にこだわって被害者であり続けることは愚かです。

「キリストと共に生きる」、こんなにも光栄なことを神ご自身が望んで下さっているのです。クリスチャンはそのために召し出されているのです。喜びだけでなく、苦難を通しても、主は、私たちを招き寄せて下さっているのです。

召し出された以上、私たちに残された道は、自分自身を完全に、贖い出して下さった方に捧げて、他の何にも心を奪われず、ただ神ご自身を求めて生きること、キリストとともに、喜びのうちに生きることだけです。永遠に至るまでも。

本当に残念なことは、今現在、クリスチャンを名乗っている人々のうち、かなり多くの人たちが、キリストの十字架を捨ててしまっていることです。ある人々は、クリスチャンとしての正義感から、キリスト教界の不正を見逃せないのだと言うのですが、その実、彼らの心には、神の御心を求める姿勢がなく、神の真実を求める願いもなく、神に従って生きようとの決意も見いだせません。もしそうだとすれば、どうしてそのような人々が、「クリスチャンとしての正義感」から、他人の悪事を糾弾していると言えるのでしょうか?

まるで姦淫の女を石打にして殺そうとした殺気立った群集のようになっている人たちがいます。悪事を犯した人々を次々と引っ張り出して、断罪しながら、自分自身もまた罪人であるという点を、完全に忘れ去っている人たちがいます。自分は少しもイエスに従って生きておらず、キリストの香りを放ってもいないのに、クリスチャンらしくない他者を非難できる筋合いにはないということを忘れています。それは恥ずべき、みっともない矛盾です! 

もしも私たちが神の御前で正しい生活を送っていないならば、私たちには、他者を非難する資格がありません。彼らも悪人であるが、私たちも悪人であり、我らは共に神の御怒りによって、打ち滅ぼされるべき忌まわしい存在だ、という結論以外には、何も残りません。

以前にも書いたことですが、もしも真の被害者がいるとすれば、それは私たちではなく、神なのです。誰よりも侮られ、誰よりも蔑まれ、誰よりも不当に扱われているのは、神なのです。キリスト教界に広がる不正を見て、人間が苦しんでいる以上に、神が心を痛めておられます。不誠実な人間の身勝手な悲しみと、誠実な神の正しい悲しみと、どちらが真に注目に値するでしょうか?

ですから、私たちはともに頭を垂れて、この国の不誠実なクリスチャンが神の御前に犯した恐るべき冒涜について、彼らに代わって悔い改め、そして、人間の振りかざす正義ではなく、まことの神の正しい光だけが、私たちの上に照らされ、それによって、真理が啓示され、偽りが退けられ、悪が裁かれることを、心から求め、待ち望むべきです。

私たちがどんなに自分の正義を振りかざしても、そのことから救済はやって来ません。
むしろ、自分の正義をもって人を裁けば裁くほど、ますますその人は冷酷無情な人間になっていき、常識を忘れ、礼儀を忘れ、愛を忘れ、尊大さと、怒りに満ちた人となり、信仰から遠ざかっていくでしょう。

私たちを罪の汚れから救ってくれるのは、イエスがすでに用意して下さった十字架だけなのです。神が私たちのために、御業をすでに成して下さったのです。にも関わらず、なぜ今日、これほど多くの人々が、十字架を忘れ、再び律法だけを持ち出して、他人に石を投げつけるのでしょうか。その律法は、あなた自身をも死罪に定めるのです! 他人を裁いた基準で、自分自身が裁かれるのです! あなたが投げた石が、あなたに向かって投げつけられる時が来るのです! 他人を裁く人も、裁かれている人も、共に律法の下では同じ罪人なのです! 私たちはそのことを思えば、一刻も早く、むなしい議論をやめて、十字架のもとへ駆け寄り、この罪人に過ぎない惨めな私をどうか赦して下さい、私も他人の罪を赦しますから、私をも赦して下さいと、神に求めて祈るべきではないでしょうか。

自分の正義だけしか目に入らない生き方は、御心にかなう生き方ではありません。神の御心は、常に人間の思いよりも高く、神の正義は、常に私たちの正義より優れているのです。私たちは自分の思いを脇において、まず、神の高さを理解させていただくことを願い求めるべきです。

キリスト教界の悪事だけを糾弾し続け、キリストご自身に目を向けないことは間違っています。しかし、私たちがそれが罪であったことを正直に認め、キリストに目を向けるならば、主は私たちの過去をも赦して下さいます。そして、私の過去の失敗の記録ですら、神は、益としてくださるでしょう、なぜなら、その失敗を通して、どれほど私が大きな無知と誤りから救い出されたか、主に出会って、どれほど根本的に変えられたかが、はっきりと世に証されるからです。失敗を通して、私は死に、私の名誉は失われ、私は消えるでしょう。私は砕かれますが、代わりに、その裂け目から、キリストが現れられるならば、それは私にとって少しも恥ではなく、むしろ、それ以上の光栄はないのです!

改めて申し上げますが、カルトと闘う人生は、無意味です。
偽物をどんなに斬っても、そこから本物は現れて来ないのです。
私たちは神の栄光を盗んではいけません、己の力で義を目ざし、私たちを救って下さった方を忘れてはいけません。

私たちが真に人間らしく、真に自由に、真に自然に、神がかくあれかしと創造された、美しい、真の人間として生きるためには、私たちはまず十字架を経由して、一度、死に、イエスの復活の命をいただいて、これまでとは全く別の、永遠の原理によって、生かされなければなりません。
この復活の命を現実に生きる、という段階に入らない限り、私たちがクリスチャンとされたことの醍醐味を味わうことは決してないでしょう。

人間の訴える正義や、社会改革、告発や闘争の中にはいかなる正義もありません。
救いはただ、キリストの十字架だけにあります。
自分の正義感や、自分の知性によって問題に立ち向かおうとすれば、いつでも、私たちはつまずくでしょう。

どうか道を踏み誤らないで下さい。十字架の贖いを否定するならば、私たちにはもはやクリスチャンを名乗る資格はありません。それは偽善者です。十字架を退けてまで、社会改革を選び取ったとすれば、やがて神の御前に立つ時、私たちには申し開きができません。

私たちはみな罪人です、著しい罪を犯した一部の人々だけが罪人であり、悪人なのではありません。にも関わらず、憐れみによって、十字架が与えられているのです。
十字架を経由せずに、私たちが真に人間らしく生きられる道はありません。まず、私たちこそが、イエスとともに十字架につけられて死ななければならないのです。私たちこそが、まず、自分の罪と不信仰を悔い改め、除かれるべき悪を、どうぞ私の心から取り去って下さいと、神の御前に心砕かれて、赦しを乞うべきなのです。

どうか互いに訴え合い、己を義として闘争に突き進むだけのむなしい活動を離れて、へりくだって祈ろうではありませんか。

PR