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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

大衆が作り出す幻としての偶像崇拝宗教

「人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方に逸れていく時が来るであろう。しかし、あなたは、何事にも慎み、苦難を忍び、伝道者のわざをなし、自分の務を全うしなさい。」(テモテへの第二の手紙4:3-5)

「悪人と詐欺師とは人を惑わし人に惑わされて、悪から悪へと落ちていく。しかし、あなたは、自分が学んで確信しているところに、いつもとどまっていなさい。」(テモテへの第二の手紙3:13-14)

1.キリスト教界のバビロン化を糾弾しながら、自らがバビロンと化していった人々
 
 信仰的な事柄について、クリスチャンが判断を下す際、第一に、聖書に基づき、第二にも、聖書に基づき、第三にも、聖書に基づいて吟味し、それに加えて、あらゆる知識を総動員して徹底的に検証作業を行なうことが有益であると筆者は思う。

 日本のキリスト教界のカルト化などという現象を論じる人々は、この問題をまず第一に、聖書的な観点から論じるべきである。

 筆者が初めてこの記事を書いてから、すでに7年以上の月日が過ぎた。2009年当時、「キリスト教界のカルト化」というテーマは、信者の間ではかなり熱心に議論されていたが、キリスト教界に起きる不祥事を次々告発し、またその原因がキリスト教にあるかのように主張していたカルト被害者救済運動の支持者たち、および、「ニッポンキリスト教界の腐敗」を声高に非難していた人々は、恐ろしいことに、聖書の教えから逸れて、異端の教えの信奉者となって行ったのである。

 キリスト教界の「カルト化」を糾弾しているうちに、神と教会とクリスチャンの敵と化してしまった人々の代表者が、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師(カルト被害者救済活動の主導者)、それから、KFCのDr.Luke(脱カルト協会の会員)である。

 さて、Dr.Lukeの主張からは、筆者は2009年当時、大いに学んだことがあったが、今から振り返ると、同氏の主張の中には巨大な盲点もあったことが分かる。

 たとえば、同氏は自らの記事の中で、精神病理学的観点から、キリスト教界の不祥事の問題に光を当てようとしてこう述べていた。
 
「個人にしろ、国家にしろ、自己増殖&自己保存欲求に従って行動するわけで、<略>そのことを念頭におけば世界がどう動くかは予想できる。<略>

今後大衆が切に求める、また自身をすらそれに委ねるであろうもの-それは自己保存欲求を満たしてくれる存在。それは本来神だったのであるが、人類は『何か』に置き換えたいのだ。

ここにバビロン由来の宗教・経済複合体が侵入する隙があるのだ。『何か』がすなわちアイドル(偶像)となる。ゆめゆめあなどってはなりませぬぞ、アイドルとはかくも深く人間の実存性と関わるものなのだから。」

 この言葉自体は、誤ってはいないものと筆者は思う。これは、生まれながらの人間の欲望を抱く欲望をよく表している。人は常に神でないもの(すなわち自己)を神に置き換えたいと言う願望を心の中に持っており、「アイドルが欲しい」というのが、人間の最たる願望なのだという。むろん、人間にとっての崇拝の対象は、目に見えない神のみであるべきなのだが、それを別のものに置き換え、あるいは、神への信仰に何か別のものをつけ加え、唯一のまことの神だけへの従順を捨て去って、別のものを跪拝の対象に含めようとする罪なる傾向が、人類に潜んでいることを指摘したものである。

 そうした願望の集大成が、「セルフ」という言葉で呼ばれる。セルフとは、人の生まれながらの自己のことであり、その生まれながらの自己から、人間の自己肯定、自惚れ、自己義認、自己正当化など、自分を中心した様々な欲望が生まれて来る。要するに、神を抜きにして、神に認められていないのに、自分で自分を肯定し、自己保存したいという人間の本能的な願望である。

 そして、生まれながらの人々が、この罪深いセルフの願望を通して手を結び、自己を守るために連帯して、セルフの欲求を担保するために作り上げたものが、バビロン的な異端なのである。バビロンとは混乱・混合のことであり、これはキリスト教と異教的な要素が混じり合って生まれた、キリスト教に偽装する反聖書的な教えのことである。

 ここまでの点において、筆者は今のところ異論はない。終末の反キリストが他ならぬキリスト教の中から登場するであろうことは、ドストエフスキーなども警告していたことである。つまり、世が終わりに近づくに連れて、キリスト教も世俗化が激しくなり、「狭き門」であるイエスの教えを捨てて、人間の生まれながらの本能(セルフ)やこの世と妥協した堕落した福音が生まれるというのである。それがバビロン化したキリスト教である。

 別の記事においても、Dr.Lukeは同様に、自己増殖と自己保存の欲求に突き動かされる「セルフ」こそが、偶像礼拝の源であり、信仰にとって最大の障害となると警告していた。

 しかし、Dr.Lukeの言説の問題はここからである。

私たちは絶えずセルフかキリストかの選択に直面しているのだ<略>。すなわち肉とはセルフの実体化であり、信仰とはキリストの実体化である。この『実体化』という概念は昨今のオブジェクト指向言語でも採用されているが、まさに適切な用語と思う<略>。

かくしてこの世はセルフのぶつかり合いであるからともかくとして、ニッポンキリスト教の根本病理は、前からずっと指摘しているとおり、『セルフの病理』なのだ。個々の現象をあれこれあげつらったところで、それは『実』に過ぎない。根本にあるのは自分で自分の生存を担保し、自己増殖を試みる動機である。<略>

このために経済・宗教-いずれもセルフがセルフを救うシステム-が偶像となり、またセルフを喜ばせるもの、セルフを増長させるもの、これが肉の欲・目の欲・暮らし向きの自慢の3つのチャネルから侵入する。かくして経済・宗教複合体の侵入により、ニッポンキリスト教は、否、世界的にもバビロン化されてしまっている。キリスト教はまさにセルフの要塞と化し、むしろセルフを否む信仰あるいは福音にとっての最大の障害、あるいは敵にすらなっている。

この最後の文章に注目してもらいたい。

キリスト教はまさにセルフの要塞と化し、むしろセルフを否む信仰あるいは福音にとっての最大の障害、あるいは敵にすらなっている。

 Dr.Lukeのこの言葉に、信者は多大な注意と警戒が必要である。なぜなら、ここに大きな論点のすり替えがあるためなのである。

 筆者は、バビロン化したキリスト教、すなわち、セルフとの混合となってしまったキリスト教は非難されても仕方がないものと思うが、だからと言って、キリスト教そのものを根底から否定するのは、大きな間違いであると考える。

 たとえば、冷蔵庫に入れていた人参なり大根なりが、古くなって一部が痛んだとしても、だからと言って、全体を捨て去るべきであろうか? 病にかかったり、凍ったり、劣化したりして痛んだ箇所は切除せねばならないが、その一部を取り上げて、「これが全体だ」と主張して、全体を否定するのは愚かな間違いである。

 キリスト教がバビロン化するのは、キリスト教に非キリスト教的な要素が加わったために起きることであって、つまり、聖書の教えに、聖書以外のエキスを混合されたことの結果なのである。

 従って、聖書以外のところから付け加えられたもの(セルフ)が取り除かれさえすれば、キリスト教は本来の姿を取り戻すのである。

 悪いのは、セルフであって、キリスト教に罪はないのである。

 むしろ、正しいキリスト教は、この悪しき欲望の源である人間の生まれながら自己(セルフ)が、キリストと共に十字架につけられて死んだ、という認識を出発点として始まるのである。

 エクレシア(教会)は、主と共なる十字架上で、自己を焼き尽くされて死んだ人々の集まりである。

 従って、セルフの死未満のものは、本来、キリスト教とは呼べないし、エクレシアでもないし、これをキリスト教に含めるのは大きな間違いなのである。

 にも関わらず、Dr.Lukeは、「キリスト教こそセルフの要塞となり、福音の敵となっている」と主張して、ただ単に人間の作った組織や団体としての教会からの「エクソダス」を提唱するのみならず、「キリスト教からのエクソダス」まで提唱し、聖書の御言葉から時を追うごとに逸れていき、ついには何やら別の福音を打ち立てるに至ったのである。

 そうなったのは、同氏の批判には、もともと重大な欠陥が含まれており、同氏が聖書の御言葉を永遠に正しいものととらえず、バビロン化したキリスト教からバビロン的要素を取り除く(聖書の御言葉に立ち戻る)ことによって、正しい信仰に立ち戻ろうとしたのではなく、キリスト教を非難して、キリスト教と訣別することによって、異なる信仰に至ろうとしたことが原因である。

 同氏の主張においては、巧妙に、混ぜてはならない二つのもの(キリスト教とセルフ)が混ぜ合わせられており、本来、セルフに帰されるべき罪が、キリスト教へと転化されていることに気づかなければならない。

 Dr.Lukeの主張は、あたかもセルフ(アダム来の人間の罪深い古き人)を糾弾しているようでありながら、その罪をキリスト教にかこつけて、キリスト教全体を糾弾する転倒した理屈となっていることに注意が必要である。

 Dr.Lukeは、自分自身の主張に潜むこの極めて重大な論理のすり替えに、自分で気づいていなかったようである。そのため、この欠陥によってとんでもないところにまで持ち運ばれ、自らキリスト教の敵と化し、それでなく、聖書の神の敵と化したのである。

 そのことは、同氏が今や(2016年時点で)「自分は神である」と宣言していることからも見て取れる。このような主張は、善良なクリスチャンからは決して出て来ることのないものであり、まさに神から神の地位を奪って神になろうとした悪魔の主張を思わせるものである。

 Dr.Lukeは、クリスチャンには神以外の「アイドル」は決してあってはならないことを明確に主張しながらも、結局のところ、自分自身が、信者の「アイドル」となって脚光を浴びる道を捨てられなかったのである。

 一方では、同氏は自らのセルフを主と共なる十字架に渡すことを主張していたが、自分自身がその道を通らされることになった時、自分の肉欲、願望を十字架に渡すことを拒み、感覚を楽しませる享楽的な生活を捨てられず、多くの信徒たちの目を神ではなく自分自身に向けさせ、自分に心酔させる楽しみを捨てることができなかったのである。

 こうして、同氏はセルフに生きることを自ら選んで、神の御言葉を捨てたのであった。

 その結果、同氏のセルフが、彼に心酔し、支えるファンクラブのような支持者たち(大衆)のセルフと絶妙に響き合って、セルフの欲望を増幅させる集団的陶酔状態を作り出した。

 これが、「Dr.Lukeという幻想をアイドル化したKFC」である。

 こうして、「セルフがセルフを救うシステム」を糾弾していたはずのDr.Lukeは、自らセルフを慰め、救うための偶像となって、そのシステムをKFCに固定化してしまった。

 このようなことが起きたのは、Dr.Lukeがキリスト教のバビロン化という憂慮すべき事態を糾弾しながらも、その原因が、人間(Dr.Luke自身も含む)の自己の罪にあることを見ずして、あたかもキリスト教にその原因があるかのように主張して、神と聖書の御言葉と教会とクリスチャンを悪者にしたためである。

 「あらゆる人を偽り者としても、神を真実な方とせよ」と聖書にある通り、同氏は、セルフを糾弾しても、キリスト教と聖書の神を糾弾してはいけなかったのである。

 むろん、キリスト教という呼び方には、筆者も多少の抵抗がある。キリスト教は本当は人間の作った教えではなく、神の御言葉の霊的なリアリティだからである。だが、訳語の問題は今は脇に置いておこう。

 どんなに教会と呼ばれるところが世俗化して悲惨な状態になり、真にキリストを知る信徒らが減少しているように見えたとしても、それはこの世の移ろいゆく有様に過ぎず、神の御言葉は永遠に変わらないのである。

 また、神が定めたエクレシアも、この地上における教会の有様とは関係なく、永遠に変わらないものとして存在している。同氏は、現状のキリスト教の有様が混乱しているからという理由だけで、神の御言葉にまで間違いがあるかのように唱えて、キリスト教全体を否定して、教会とクリスチャン全体を退けるべきではなかったのである。

 これと同じことが、村上密牧師にも起きた。

 村上氏は、「キリスト教界のカルト化、牧師の独裁化という現象」を声高に非難し、キリスト教界で被害を受けたと主張する人々に手を差し伸べるうちに、Dr.Lukeと同じように、自分自身が牧師となって信徒の上に立つ栄光に幻惑され、なおかつ、神よりも人間の利益を優先する偽りの指導者、福音の敵となって行った。

 村上氏は「カルト化や独裁化」といった現象は、ごく一部の悪い牧師だけに起きることであって、自分には無関係だと考えたのであろう。(Dr.Lukeがセルフとはキリスト教につきものであって、自分自身の欲望を指すものだと考えなかったのに似ている。)

 このように「他人に教えておきながら、自分を教えない」盲点があだとなって、村上氏は自分を疑うことができなくなり、その結果、同牧師も、カルト化牧師と同じように、独裁化し、自己の無謬性を主張するよういなり、同氏の率いるカルト被害者救済活動も、反対者に対して言語を絶する制裁を行うような、カルト以上のカルトとなって化して行ったのであった。

 また、その過程で、村上氏は、あたかもキリスト教にカルトを生む原因があるかのように主張して、キリスト教の「二元論」を克服すべきものとして訴えた。

 こうした主張は、ペンテコステ運動に典型的なものであり、ペンテコステ運動はもともと「キリスト教には父性原理の二分性ばかりが強すぎるから、すべてを包含する母性的な要素を補わなければならない」と主張していたのである。

 だが、このような主張は、神の御言葉の切り分けの機能までも否定し、神の聖なるものと、汚れたものをごっちゃにし、神が受け入れられるものと、そうでないものの区別を曖昧にして行く大変危険なものである。

 村上氏は、キリスト教界で傷つけられたとする被害者を傘下に集め、彼らの面倒をみているうちに、いつしか、キリスト教そのものを(Dr.Lukeと同じように)憎むべきものとして告発するに至ったのである。

 人間の利益に寄り添うことを重視し、神の利益をかえりみない人々に共通する末路である。

 これらの人々が堕落して福音の敵となったのは、彼らの心に、ともに「大衆のアイドルとなりたい」という願望があって、これを捨てきれず、また、自分を頼ってやって来る人々の要求を拒みきれず、そうした願望に突き動かされた結果、誰もの願いを満たしてやりたいと考えたからに他ならない。

 本当は、カルト化現象は、キリスト教から生まれるものではなく、人間の罪から生まれるものであって、信者が聖書の御言葉から逸れ、聖書の唯一の神だけに従うことをやめて、神以外のもの(大抵は人間の指導者)を神のごとく拝み、奉ったことから生じる必然的な結果なのである。

 だから、カルト化現象のためにどれほど傷つけられた「被害者」がいたとしても、その人は、自分を被害者だと思う前に、神が被害を受けられたことに思いを馳せるべきである。

 その信者は、自分がまことの神から逸れて、人間の指導者を神として歩んだ過去をはっきりと罪として告白し、悔い改めることなしには、神の懐に戻ることはできないであろう。それをせずに、ただ自分は一方的な被害者だと主張していたのでは、神もその人を助けることができないであろう。

 にも関わらず、人間に優しく、人間の利益に寄り添って行動するために、村上密牧師は、被害者を名乗る人々の心の中でのキリスト教に対する敵対感情を助長するばかりで、彼らを悔い改めには導かなかった。

 そして、彼らがカルト化牧師を失った心の空洞に、今度は自分が入り込み、自分が彼らの新しい主(あるじ)となって彼らの心を支配したのである。

 そんな有様だから、こうした人々の活動が、聖書の神に敵対するものとなるのは、必然である。彼らはキリスト教界で起きている憂慮すべき事態を声高に叫びはしても、決して、信者をまことの神だけに頼って生きるように導かないからである。

 だから、このように信者をまことの神から遠ざけ、迷わせるだけの存在が、やがて反キリストに与し、神と教会と信者を敵に回すものとなって行くのは、全く不思議ではない。

 彼らは人間のセルフを糾弾する代わりに、これを擁護して、神を糾弾し、神の御言葉を糾弾することを選んだのである。こうした人々は、当然ながら、ふさわしい報いがある。

 今後、彼らを待ち受けているのは、信奉者もろともの破滅だけである。


2.「キリスト教の危機」を唱えて信者を食い物にする擬似キリスト教的セルフ教

 悪徳商法や、霊感商法が、常に人の不安につけ込んで支配するように、「キリスト教界に起きた諸問題」を餌にして、人の心を釣り上げようとする似非指導者も、れっきとして存在することを、我々は覚えておく必要がある。

 キリスト教の改革を装った偽りの運動に欺かれないようにする必要がある。彼らは商売のために、困った人々を救う優しい指導者を演じているに過ぎない。

 もともと、キリスト教界にはあまりにも多くの自己啓発的な商売のためのプログラムが溢れ、バビロン化が甚だしい。教会成長論、弟子訓練プログラムによる世界征服、日本や世界全体のリバイバル化、特定の国を神の国と同一視する考えなど、誤った運動は枚挙に暇がない。

 だが、だからと言って、そうした誤った運動を非難するだけでなく、「キリスト教界全体を非難して、そこからの脱出を訴えること」もまた、ある人々の商売の一環となっているのである。

 これらのプログラムは、すべて人間が始めたものであって、聖書の御言葉に基づくものではない。だからこそ、「被害者救済」を唱える上記の運動も、絶え間ない分裂といがみ合いに見舞われているのである。
 
 聖書ははっきりと言う、知性が腐って、真理にそむき、信心を利得と心得る者どもの間に、はてしのないいがみ合いが起ると。

富むことを願い求める者は、誘惑と、わなとに陥り、また、人を滅びと破壊とに沈ませる。無分別な恐ろしいさまざまの情欲に陥るのである。金銭を愛することは、すべての悪の根である。

しかし、信心があって足ることを知るのは、大きな利得である。わたしたちは、何ひとつ持たないでこの世にきた。また、何ひとつ持たないでこの世を去って行く。ただ衣食があれば、それで足れりとすべきである。」(テモテへの第一の手紙6:5-10)

 しかしながら、主イエスの救済は、十字架上ですでに完了した以上、乱れた地上社会をもう一度、罪と汚れから救ってもらうために、我々は、新たな救済者を待ち望む必要ないのである。ましてや、キリストを知っている人々から成る教会を「浄化」「改革」してもらうために、キリスト以外の指導者を待ち望む必要などないのである。

 キリストこそ、世の全ての罪を取り除くために来られた贖いの小羊であり、この方に従うことこそ、すべての問題の解決である。

 「世の中の危機」「教会の危機」「カルト化の危機」などを唱えて、しきりに信者の心に不安を煽り、新たに生まれたその「危機」に対する「救済」を提供しようとやって来る目に見える指導者に従う必要はない。

 「キリスト教の危機」を訴えて、キリスト教があたかも欠陥宗教であるかのように主張し、「あなたたちクリスチャンが抱える問題を私が解決してあげよう」などと言って、上から目線で信者の前に登場して来る指導者に、自分を委ねる必要はない。

 己を神以上と考えている人たちだけに、そういう主張ができるのである。聖書以上に自分を正しいと考えている人間でなければ、キリスト教の「欠陥」を主張することはできない。
 
 だから、そうした謙遜さを装いながら、神ではなく、人間の利益の擁護者として登場して来る傲慢な人々の言い分に惑わされてはならない。

 キリスト教に危機など存在しない。あるのは人間の神に対する背信の罪と、その罪の結果として人間に当然のものとして起きた危機だけである。

 従って、そうした「危機」を解決するために必要なのは、キリスト教を非難することではなく、人が己のセルフの罪をかえりみて、これを悔いて神に立ち戻ることだけである。

 繰り返すが、神に罪があるのではなく、キリスト教に罪があるのではなく、聖書の御言葉に非があるわけでもなく、人間の側に罪があるだけなのだ。

 にも関わらず、あたかも「キリスト教にカルト化の原因がある」かのように訴えて、セルフを甘やかしつつ、キリスト教を悪者としている人々は、今日も、「イエスを十字架につけろ! バラバを赦せ!」と叫んでいるのであって、教師を装いながら、そのような主張を繰り広げる人々に将来的に待ち受けている神の裁きは、とりわけ厳しいものとなるであろう。
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