「人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方に逸れていく時が来るであろう。しかし、あなたは、何事にも慎み、苦難を忍び、伝道者のわざをなし、自分の務を全うしなさい。」(テモテへの第二の手紙4:3-5)
「悪人と詐欺師とは人を惑わし人に惑わされて、悪から悪へと落ちていく。しかし、あなたは、自分が学んで確信しているところに、いつもとどまっていなさい。」(テモテへの第二の手紙3:13-14)
1.大衆の心に潜む偶像崇拝への願望
信仰的な事柄について、クリスチャンが判断を下す際、第一に聖書に基づき、第二に、それに加えて、あらゆる知識を総動員して徹底的に検証作業を行なうことは有益である。
なぜ今、日本のキリスト教界でまさに異常という他ない不祥事が多発しているのか? この問題について、それぞれの人が違った角度から専門知識を生かして分析を進めることはとても有益なことだと私は考えている。何かを議論したり、検証したりする際には、できるだけ正確な答えを出すために、あらゆる角度から光を当てて、できるだけ多くの知恵を集めて、論拠を提出することが役立つ。
Dr.Lukeは記事の中で、精神病理学という専門的観点から、今日のキリスト教界にはびこる病理現象に光を当てて、こう述べる、
「個人にしろ、国家にしろ、自己増殖&自己保存欲求に従って行動するわけで、<略>そのことを念頭におけば世界がどう動くかは予想できる。<略>
今後大衆が切に求める、また自身をすらそれに委ねるであろうもの-それは自己保存欲求を満たしてくれる存在。それは本来神だったのであるが、人類は『何か』に置き換えたいのだ。
ここにバビロン由来の宗教・経済複合体が侵入する隙があるのだ。『何か』がすなわちアイドル(偶像)となる。ゆめゆめあなどってはなりませぬぞ、アイドルとはかくも深く人間の実存性と関わるものなのだから。」
別の記事においても、同様に、彼は自己増殖と自己保存の欲求に突き動かされる「セルフ」は偶像礼拝であり、信仰にとって最大の障害となると警告する、
「私たちは絶えずセルフかキリストかの選択に直面しているのだ<略>。すなわち肉とはセルフの実体化であり、信仰とはキリストの実体化である。この『実体化』という概念は昨今のオブジェクト指向言語でも採用されているが、まさに適切な用語と思う<略>。
かくしてこの世はセルフのぶつかり合いであるからともかくとして、ニッポンキリスト教の根本病理は、前からずっと指摘しているとおり、『セルフの病理』なのだ。個々の現象をあれこれあげつらったところで、それは『実』に過ぎない。根本にあるのは自分で自分の生存を担保し、自己増殖を試みる動機である。<略>
このために経済・宗教-いずれもセルフがセルフを救うシステム-が偶像となり、またセルフを喜ばせるもの、セルフを増長させるもの、これが肉の欲・目の欲・暮らし向きの自慢の3つのチャネルから侵入する。かくして経済・宗教複合体の侵入により、ニッポンキリスト教は、否、世界的にもバビロン化されてしまっている。キリスト教はまさにセルフの要塞と化し、むしろセルフを否む信仰あるいは福音にとっての最大の障害、あるいは敵にすらなっている。」
以上のDr.Lukeの見解には、文学的見地からも裏づけが取れる。ちょっと長すぎるかも知れないが、シュテファン・ツヴァイクの文章を引用してみよう。
「人間性の奥底に、自分を社会のなかに溶けこましていこうとするふしぎな欲求があることは疑う余地がない。私たちの心のなかには、人類のすべての成員にとって公正な永遠の平和と秩序をもたらす特定の宗教的・国家的・または社会的な制度がやがて発見されるにちがいないという昔からの見はてぬ夢が抜きがたく残っている。
ドストエフスキイの作品に登場する大審問官は非情な論理を駆使して、大半の人間はもともと自分自身の自由を恐れているのだということをあきらかにした。がっかりさせられるように雑多な問題や解決を必要とする人生の複雑な困難や責任をまえに疲労困憊したひとびとは、彼らにものを考えるという面倒な手間を一切はぶいてくれるような世界の劃一化、いつどこでも通用するような固定した秩序に実はあこがれているのだということをあきらかにした。
さし迫った問題がすっかりかたづいてしまうような状態にたいするあこがれ――救世主にたいするあこがれにもにたこの熱烈なあこがれこそ、あらゆる社会的予言者に道をひらいてやる酵母の働きをするのである。ひとつの世代の理想がそのいきいきとした生命の火と色彩を失ったときにはいつでも、つよい暗示力に富んだひとりの人間が立ちあがって、この自分こそはあたらしい真実の体系を発見した、あるいは編みだしたと厳然とした調子で宣言しさえすれば、幾千幾万のひとたちはたちまちこの自称民族救済者または世界救済者を信用してしまう。
あたらしいイデオロギイというものは、いつでもこの世にまずあたらしい理想主義を生みだすものである(おそらくこれがあたらしいイデオロギイの形而上学的な意味なのであろう)。なぜかというと、ひとびとに統一と純粋というあたらしい幻影をもたらす人物は誰でも、まず第一に彼らからもろもろの力のうちで最も神聖な力である献身と熱狂とをひきだすからである。何百万というひとたちが、まるで魔法にかけられたように自分の方から進んで身を任せ、はらませられ、陵辱されるままにさえなる。
そして、この予言者または予言者が彼らに多く要求すればするほど、彼らは随喜の涙を流す。彼らはこの予言者に対する愛著から、いささかも抵抗することなく指導されたいばかりに、つい昨日までは彼らの最大のよろこびであった自由を棄てさってかえりみないのである。『われわれは奴隷状態におちる』(Ruere in servitium)という古いタキトゥスの言葉はすでに一度ならず実現されてきた。人間の連帯という考えに酔いしれた民衆はみずから進んで隷属のなかにわが身を投げこんでいったし、彼らが鞭うたれているその鞭さえも賛美したのであった。」
『ツヴァイク全集17 権力とたたかう良心』、ツヴァイク著、高杉一郎訳、みすず書房、1973年、p.11-13。太字は筆者。
一言で言えば、経済が混乱し、秩序が乱れ、不安が増大した社会においては、差し迫った不安の解決を誰かに求めようとする潜在的な願望が大衆の中に大きく膨らんでくるのだ。誰か優れた偉い人が登場して、この社会不安を一挙に片付けてくれないだろうかという願い、自分で難しい物事を考えたくない、これ以上、自分個人の力だけで人生の困難に直面したくない、手っ取り早く平安が欲しい、連帯が欲しい、できるだけ困難の少ない方法で早く自己実現を果たしたいと願う、名もない無数の一般大衆の焦りにも似た欲求が、大衆を喜ばせてくれるような偽りの予言者の登場を歓呼して迎え、彼を偶像化し、現人神として祭り上げる土壌となり得るのだ(ツヴァイクによれば、この予言者は権力を握った途端、必ず独裁者となる定めにある)。
そのアイドル予言者が祭り上げられた結果、大衆を残酷に支配するようになり、無慈悲に権力をふっても、自己という重荷を自分で負わないでいたいがために、指導者へ妄信盲従すること(これは献身などという言葉で美化される)を選び、偽の快感に酔いしれている大衆は、自分が愚弄され蹂躙されていることに気づこうともせず、むしろ、「何百万というひとたちが、まるで魔法にかけられたように自分の方から進んで身を任せ、はらませられ、陵辱されるままにさえなる」という異常な現象が起きる。
私自身がカルト化教会の被害者でもあるため、カルト化教会の被害者を厳しく責める気持ちにはならないが、しかし、残酷なようでも、目を背けてはならない事実がある。それは、カルト化教会の牧師だけがひとりでに独裁者となって信徒に君臨し、悪道に堕ちて行くことはありえないという事実である。どんなに悪しき企みを心に秘めた指導者とて、自分の力だけで自分を神のように祭り上げることはできない。大衆の同意と支えがなければ、誰一人、独裁者として権力をふるうことはできないのだ。(かといって悪道に堕ちた指導者が大衆の要求を逃げ口上に使うことは言語道断であるが。)
ある人が、「権力とは大衆の権利のゴミ捨て場である」という表現を使ったが、「権力とは大衆の見果てぬ夢の集積場である」とも言えるだろう。一人の弱い存在に過ぎない人間が、現人神のように祭り上げられる背景には、必ず、彼を取り巻く群衆が無自覚のうちに自己の権利や願望を彼の足元にすすんで差し出し、彼に委ねて行った経緯がある。人々が預けて行った権利と願いの山を手にして初めて、ただの人間に過ぎない指導者が、絶対者として奮い立ち、大衆の欲望を叶えてやるための偶像として君臨し、絶対的権力をふるう事態が可能となるのだ。
このような偶像としての指導者を頂点にいただく人間の集合体は、大概、人類救済論を始めとして、何らかの壮大なイデオロギーや、大義名分を唱えている。指導者はそのイデオロギーの象徴であり、体現者であり、教祖のような性格を帯びている。(人の道に外れた破壊的カルトのような宗教団体のほとんどが、厚かましくも、人類救済論を唱えながら教祖を担ぎ上げていたことを思い出そう。)
このいかがわしい人類救済論は一体どこから生まれて来るのだろうか?
理由は簡単である。本来、ちっぽけな生存本能に基づいて集まったに過ぎない個々の人間が、集合体になることによって、自分たちの自己保存願望を大規模化して、団体のイデオロギーにすり変える。いつしか、それはその団体にとどまらず、人類全体のためのイデオロギーということになり、団体の自己保存願望は、人類の自己保存願望と同一視されるようになる。
ちょうど、小魚が群れになって大魚を装い、自分を守ろうとするように、弱いセルフを抱えて絶えず煩悶し、不安に脅かされる個人が結集することによって、巨大化したセルフの幻影が生まれる。そしておのおののメンバーは、集合体としてのセルフの幻を守り、永久に保存・繁栄させようとすることで、その幻を隠れ蓑に、自分を守り抜こうとする。
その時、魚には起きるはずのない奇妙な現象が、人間の集団に起きる。本来、ただ生存本能のために結集したに過ぎなかったはずの群れは、いつの間にか、人類を救済する崇高なイデオロギーのもとに結集した崇高な団体へと変身するのである。
立派な指導者の唱える幾多のスローガンにメンバーが心酔し、団体全体が有益な事業に自己犠牲的に、戦略的に献身する奉仕者となる。団体は組織化された軍隊のような様相を帯びてくる。
そこでは、救済という言葉がもたらす崇高なイメージが、力強い求心力となって、その団体をまとめあげ、メンバーに異常な熱狂と興奮状態をもたらす。
その団体はもはや単なる自己防衛のためだけに存在するありふれた群れではなくなり、「崇高な目的のために特別に選ばれたエリート集団」というブランド意識を持つ。そこではメンバー一人ひとりは、寒さや貧しさに怯えながら自己保存を願うちっぽけで哀れな稚魚ではなくなり、人類救済のために献身的に奉仕する気高い存在ということになる。
このようにして一個の団体を軍隊的なシステムに変えてしまうイデオロギー、いかがわしいエリート意識を生み出す人類救済論の正体は、つきつめれば、Dr.Lukeの言葉で言えば、「セルフがセルフを救うシステム」という偶像なのであり、ツヴァイクの言葉で言えば、「さし迫った問題がすっかりかたづいてしまうような状態にたいするあこがれ――救世主にたいするあこがれにもにたこの熱烈なあこがれ」である。
人の心の中には、あらゆる問題が解決してしまい、何一つ思い煩う必要のない地上のユートピア社会を夢見る「見果てぬ夢」が抜きがたく残っているが、それは本当は、これまでさんざん美化されて語られてきたような、崇高なイデオロギーでも何でもなく、とどのつまり、世の中のどんな脅威にもさらされることなく自己実現を果たしたいという、一人ひとりの弱い人間の身勝手な自己保存の欲求が、社会において無数に集まって大規模な集合体となったものでしかない。
自己保存願望を抱える人間が結集した時、その自己保存願望ははかりしれないほど膨らみ、人類全体の自己保存願望にまでされて、何やら宗教的様相を帯びて、人類を一切の不安と恐れから解放する地上のユートピア社会の建設を唱える人類救済論が生まれるのである。
地上における大規模な「神の国」建設を唱えるような、人類救済的なプログラムは、結局、個々人の持っていた「セルフの原理」、すなわち自己保存願望、自己増殖願望というパーツが無数に組み合わさって出来たものであると考えられる。人類救済論が人々を魅了するのは、それがおのおのが持っているセルフの欲求、すなわち何ものにも圧迫されたり脅かされたりすることなく自己実現を遂げたいという人間の抜きがたい欲望に直接、働きかけるからである。
だが、そのような救済論を唱える団体が、その「崇高な」目的を遂げることは絶対にない。むしろ、それは人を惑わせ、人の現実感覚を狂わせ、偽りの陶酔感の中で自己放棄させて、人生を破滅させるだけであるから、善良な人々はそのような教えに決して近寄ってはならない。
人間の救いは、キリストの十字架による救い以外にはない。そして、十字架による救いは、神から個人に直接与えられた救いであり、すでに完了している。そこに団体による介入は必要ないし、団体による人類の大規模救済プログラムなどによって人間が救われることは一切ない。
アダム以来、クリスチャンには生きる限り、老いと病と死と、生活苦と人間関係の軋轢から逃げることはできないことが定められた。この世は未だに闇であり、信徒はそこに輝く小さな光である。私たちがこの世で一切の不安を下ろし、苦労なく安らぐことは不可能だ。ただ、イエスが一日の苦労は一日にて足れりと言われたように、クリスチャンは、十字架による救いの他に、負いきれないほどの余計な重荷を背負い込むことなく、平和に生きなさいと、キリストにあってさとされ、慰めを得ている。
人類救済論を唱える団体は、人間の存在不安を巧みにくすぐり、不安を解決してあげると呼びかけ、人を魅了するが、地上を「神の国」という大規模ユートピアに変えようとする試みは今までも成功しなかったし、今後も決して成功しない。そのような教えは、この世界と、人間の本質をあざむくものである。
したがって、そのような教えを説いている団体は結局、掲げた目的を何ら達することなく、ただ団体の虚栄心を満たすために、個々のメンバーを道具とし、残酷に支配して、使い捨て資材とし、そうやって数え切れないメンバーを不幸に巻き込んだ挙句、どうにもならないところまで行き着いて、自滅するだけである。
2.擬似キリスト教的セルフ教
だが、キリスト教界でも、この種の危険な教えが各地で堂々と説かれているため、本当に注意と警戒が必要だ。セルフ(無限の自己保存と自己増殖の欲望)に生きる人間が結集することで、人間の欲望を喜ばせるような教えが全世界に蔓延し、偽物が本物にすりかわって横行し、擬似キリスト教的セルフ教?のような一大宗教にまで発展している。
集合体となったセルフが生み出す大規模な夢幻、人類救済的なイデオロギーの例を挙げれば、教会成長論、弟子訓練プログラムによる世界征服、日本や世界全体のリバイバル化、特定の国を神の国と同一視する考えなどとなる。善良なクリスチャンであれば誰しも、このようなスローガンには不審を感じることだろう。
これらのプログラムは、人間の肉を喜ばせる野望を目的に掲げ、全世界を自己の野望の下にひれ伏させ、世界征服することを究極的な目標としている。その目的は初めから実現不可能であり、人の目を真の救いと福音からそらせ、無意味な事柄のために酷使するだけである。
少し考えれば、その異常さは誰にでも分かるはずだ。たとえば、この世の移ろいゆく組織の一形態に過ぎない特定の教会に、なぜ果てしない成長が保障されなければならないのか? どこまで教会が成長すれば教会成長プログラムは完了したことになるのか? 一人の人間が不老不死であり得ないように、地上組織としての教会も当然、不老不死ではあり得ないということが、教会成長論において初めから考慮されていないのはなぜだろう?
同様に、弟子訓練というプログラムは、一個の教会内にとどまらず、全世界規模にまで押し広げなければならないとされているが、すでに世界中にキリスト教会があって、それぞれのクリスチャンが働いているのに、その上、なぜ弟子訓練プログラムが世界征服を企てなければならない理由があるのだろうか? それに、どうやって一方的に世界中の弟子化を実現することができるのか、その確たる方法論を誰が明確に提示することができようか? いつになれば世界の弟子化は終わるのだろうか?
こういうプログラムは果てしない繁栄を目的とするむさぼりから出たものであり、人の目を欺く偶像崇拝である。その終わりのない遠大な目的を実現する有効な手段はないに等しいというのに、それがキリスト教界においては、聖書的美名のもとで公然と宣伝されている。だが、そのようなプログラムを導入し、実施すると、たちまち、教会内にあらゆる異変が起きはじめ、やがて教会が崩壊する。教会成長論と弟子訓練のためにどれほどの悲惨が各地の教会にもたらされたことだろう。ここ10年間のうちにいくつの教会がカルト化したことだろうか。それがこのプログラムの結んだ実であるからはっきりと目を開いて見た方が良い。
癌細胞が、果てしない増殖を遂げて肢体全体を食い破ることを使命としているように、特定の団体が果てしない自己増殖を目的とする時、その団体は癌細胞化するのだとも言えよう。
形あるものには全て終わりが定められており、人間に有益な役割を果たすプログラムにもいつか終わりが来る。だが、異常プログラムにはどこまで行っても終わりがない。それは壊れたプログラムであって、人間に食らいつき、いつまでもしがみついて離そうとせず、実現不可能な夢のために、人間を使役し、噛み砕き、むさぼり食うシステムだ。
人はおのおの自分に与えられた限界をかえりみて自分の分を知らなければならない。アダム以降、原罪を抱える人類には、誰一人として永久の自己保存や、終わりのない自己増殖を許された者はいない。クリスチャンに許されているのは、社会からあらゆる不安を一掃し、社会全体を神の国に変えてしまおうとする運動にいそしむことではなく、この混乱と不安に満ちた暗い世の中において、ただ自分に与えられた灯火をしっかり保ちながら、日々の生活の中で、周りの人々に福音を伝え、平和を築いていくことである。
キリスト教は、魂を救うためにあり、世の中を大変革するために与えられたものではない。正しい教えは、人の心の状態を平安に導き、その人が今与えられているもので満足するように働きかける。誤った教えは、人を現状に満足させず、問題を強調し、その解決のために性急に行動へと駆り立てる。そして、遠大な目標のために大きな犠牲を要求し、戦いを強調し、人の性格を戦闘的・攻撃的にしていく一方で、心には落ち着きを与えず、ただ不安をあおるばかりで、偽りの陶酔感を除いては、どんな安らぎをも与えることはない。
人の心の状態を平安に導かず、人をとかく行動に駆り立て、犠牲を要求するような教えはこの世的なものである。
聖書ははっきりと言う、「知性が腐って、真理にそむき、信心を利得と心得る者どもの間に、はてしのないいがみ合いが起る」と。
「富むことを願い求める者は、誘惑と、わなとに陥り、また、人を滅びと破壊とに沈ませる。無分別な恐ろしいさまざまの情欲に陥るのである。金銭を愛することは、すべての悪の根である。」
「しかし、信心があって足ることを知るのは、大きな利得である。わたしたちは、何ひとつ持たないでこの世にきた。また、何ひとつ持たないでこの世を去って行く。ただ衣食があれば、それで足れりとすべきである。」(テモテへの第一の手紙6:5-10)
信心があっても足ることを知らない人々は、果てしのない自己増殖願望に取りつかれて、終わりのない教会成長論、リバイバル論、会堂建築の夢をひたすら追いかける。欲にとりつかれた聖職者の間では、果てしないいがみあいと分裂が続いている。むさぼりから、性的放縦が生まれることも多々ある。
彼らの貪欲は果てしがなく、そのようにして狂ってしまった聖職者たちの中には、衣食どころか、全ての生活の必要を超えるほどのあり余る犠牲を教会から当然のように捻出させてはばからない人たちがいる。「牧師たるもの、経済的不安や、日常の些事に一切、煩わされずに牧会に専念できることが理想である。よって牧師の日常の些事は伝道師や役員信徒が全部、引き受けるべきである。教会は牧師に経済の不安を一切抱かせないのが理想だ」などと高言してはばからない人たちがいる。
そのような聖職者の特徴は、お抱えの伝道師や信徒をまるでお仕着せの召使のように周りに侍らせ、信徒を雑役夫のように平気で使役することであり、その上、彼らは自分たちの団体の威信の象徴である「お城」としての、立派な会堂を建築することや、自分たちの心を楽しませるコンサートなどのイベント活動に夢中になっている。このような聖職者には福音のために赤貧に甘んずるとか、羊のために命を捨てるなどということは思いもつかないことだろう。
このような人々が唱えるむさぼりの教え、果てしない繁栄を目指すような貪欲な教えに近寄ってはならない。どんなにそれが聖書用語で美化されていたとしても、終わりのない成長を掲げる団体は、現実には、シジフォスの苦役のように、現実の人間を酷使する、強制労働収容所のようなシステムと化すことを免れられない運命にあるのだから。
目を見開いて、理性を働かせれば、誰にでも分かることだ。
イエスの救済は十字架上ですでに完了した。乱れた地上社会をもう一度、罪と汚れから救ってやるために、どこかの団体が新たな理論や計画を生み出す必要は全くない。私たちには完成された福音を、ただ必要としている人に語ることが求められているのであって、聖書に何か新しいプログラムを書き足したり、大規模な世直しを唱えたり、人の心の領域にまで立ち入って、人の心を操作して、自己変革を促す訓練に携わる必要など全くないのだ。
たとえキリスト教の装いをしていたとしても、果てしない繁栄を求めるむさぼりは罪である。
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