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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

貧しい人々への虐げと、争いや軽蔑から離れよう

一つ前の記事に、カルト化教会の被害者の存在について一言書いてみたが、結局、その記事を削除し訂正することにした。私情を綴る代わりに、聖書のみことばを抜き出しておこう。
今日のテーマは「ヤコブの手紙」だ。

「父なる神のみまえに清く汚れのない信心とは、
困っている孤児や、やもめを見舞い、
自らは世の汚れに染まずに、
身を清く保つことにほかならない。」(ヤコブの手紙1:27)

ヤコブは再三に渡って、貧しい人たちや困っている人々への具体的な支援を行なうことが、信仰に不可欠な行いであるとしている。

「わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、
もし行いがなかったら、なんの役に立つか。
その信仰は彼を救うことができるか。
ある兄弟または姉妹が裸でいて、その日の食物にもこと欠いている場合、
あなたがたのうち、だれかが『安からに行きなさい、暖まって、食べ飽きなさい』
と言うだけで、そのからだに必要なものを何ひとつ与えなかったとしたら、なんの役に立つか。
信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。」
 (ヤコブの手紙2:14-17)

皆さんに忘れないでほしいのは、異常なカルト化教会によって財産や労力をむさぼりつくされた被害者の多くは、異常な教会を脱した後も、未だ極貧の生活を営んでいることだ。
彼らの多くは心の回復に必要なカウンセリングも十分に受けられず、とにかく生活のために蟻のように働くことを余儀なくされ、予期せぬフラッシュバックに今も襲われ続けて、それが仕事や日常生活の妨げになっている。

カルト化教会の被害者たちの多くは、困難な状況から未だ抜け切れておらず、社会から、教会から具体的な助けの手を必要としている。
何年間にも渡って拘禁状態のような共同生活を送った人々が立ち直るためにどれほどの時間がかかるかを考えてほしい。戦争後遺症のようなトラウマが心に残っているのに、どうやって一人の力だけで立ち直ることができようか。なのに、被害者の立ち直りを彼らの自己責任としてしまうことはあまりにも残酷だ。

必要なのは、言葉だけの同情を与えることではなく、被害者と呼ばれる人々が、被害者でなくなって、一般市民として晴れて日常生活に立ち戻れるよう、具体的支援を差し伸べることだ。
どうか教会やクリスチャンがこのような人たちに、ただ「安らかに行きなさい」という空文句だけを投げかけて、何の助けも与えずに追い返すことがないようにと願う。

自分の懐からは何も出さず、むしろ被害者に献金を払わせて暮らしているような聖職者がいるならば、そんな生活が信仰の証となることは決してないだろう。
また自分自身は困っている人に何の助けも差し伸べないでおきながら、被害者が、自己憐憫の気持ちから同情を乞うていると非難するような人がいれば、その人もまた主の前に申し開きさせられることになるだろう。
私たちは、自分より弱い立場にある者に対して、常に憐れみの気持ちを持って、主にある兄弟姉妹として、決しておごることなく、彼らが必要としているものをいつでも提供できる人間でありたい。しかもそのような行いをした後でも、決してそれを人前で誇ることがないようにしたい。

また、ヤコブの手紙は、人間の「舌は火である。不義の世界である」と、自分の知識におごって無用な言葉を発することをいましめ、言葉によって人を傷つけることに警告を発している。
私自身もそうだが、人間は毎日のように言葉を選び間違えては、人を傷つけている。
それに、人はとかく自分の功績や努力を知恵として誇りがちである。
世間で有名になる仕事をすれば、それが自分の手柄であると思い、優れた学術論文を書けば、それが自分の手柄であるかのように思う。
子供を何人育てたとか、車を何台持っているとか、数限りない些細な事柄が、みんな人間の功績になってしまう。

しかし、ヤコブの手紙は、自分を知者だと思う者は、決して知識をひけらかすことなく、むしろ柔和な行いを実生活において示すべきだとしている。要するに、不言実行というわけだ。
さらに、もし「真理を知っている」と自分では思いながら、その人の真理が社会にただ争いやねたみを引き起こすだけのものなら、そのような知識は上から来たものではないとヤコブは言う。

クリスチャンが自分だけは正しい信仰を持っていると自惚れながら、少しでも自分と意見が違う人を見つけると、とかく争ってばかりなのを見て、キリスト教を嫌う人は世間に多い。
私たちは争い続けるために福音を聞いたのではない。
今日、教会のあり方をめぐって議論が続いているが、どこかの団体や、誰かに対する対抗意識や、他人に対する軽蔑の感情をバネにして自分の主義にしたり、そのような感情で連帯して新たな集団を作ったりするのでは不毛だろう。

カルト化教会のひどい現状を見て軽蔑し、間違った道を歩んだ人々を見下し、被害者を軽蔑し、全てを高みの見物のように見下ろしながら、自分だけはそんな誤謬に巻き込まれることなく正しい生き方をしているのだと自惚れるようなことが決してないようにしたい。
とにかく私たちは争いや軽蔑のために救われたわけでないのだから、傷ついたものを修復し、平和を作り出す人となることをまず意識するよう心がけたい。

「しかし、もしあなたがたの心の中に、苦々しいねたみや党派心をいだいているのなら、
誇り高ぶってはならない。
また、真理にそむいて偽ってはならない。
そのような知恵は、上から下ってきたものではなくて、
地につくもの、肉に属するもの、悪魔的なものである。
ねたみと党派心とのあるところには、混乱とあらゆる忌むべき行為とがある。
しかし上からの知恵は、第一に清く、次に平和、寛容、温順であり、
あわれみと良い実とに満ち、
かたより見ず、偽りがない。
義の実は、平和を作り出す人たちによって、
平和のうちにまかれるものである。」(ヤコブ3:14-18)

この言葉には圧倒される。私自身、再三に渡り、異常な教会や、貧しい人たちを虐げるような教会のシステムに警告を発してきた。己が栄光のために信徒をむさぼり食うような牧師たちの存在について告発してきた。
聖職者が信徒を搾取するような悪しきシステムが、あまりにも教界全体に行き渡っているため、このままだとニッポンキリスト教界につまずかされる信徒は増え続けるのみであり、教界全体がやがて社会的信用を失って、今残っている団体さえ、本当に沈没する(破滅する)ことは免れられないと、私のみならず多くの人たちが考えている。

だが、かといって、ニッポンキリスト教界を離れた人たちも、教界をただ軽蔑し、自分だけはそのような汚れとは無縁でありたいとの潔癖症から、腐敗した団体と袂を分かち、自惚れと自己正当化の高みから、新しい団体を創設するのでは意味がないだろう。
主には教会を惜しまれる気持ちが全くおありにならないだろうか。
今日のキリスト教界に語られているみことばは以下のものだと私は思う。

「主なる神は言われる、わたしは生きている。わたしは悪人の死を喜ばない。
むしろ悪人が、その道を離れて生きるのを喜ぶ。
あなたがたは心を翻せ、心を翻して、その悪しき道を離れよ。
イスラエルの家よ、あなたはどうして死んでよかろうか。

(エゼキエル33:11)

これは、悪を離れないなら、死が待っているという前提で発せられたみことばである。
主は今日の多くの教会が陥った虐げとむさぼりの罪のために悲しんでおられるのではないだろうか。
主の憐れみは死んだ教会にも注がれている。だが、だからといって、私たちのなすべきことは主の憐れみを悪用することではない。一刻も早く、正義と公道に立ち帰り、貧しい者たちへの虐げから離れ、奪ったものを返し、償いをするならば、私たちは誰も滅びることなく、罪を赦されて生きるだろう。

「わたしが悪人に『あなたは必ず死ぬ』と言っても、
もし彼がその罪を離れ、公道と正義を行なうならば、
すなわちその悪人が質物を返し、奪った物をもどし、
命の定めに歩み、悪を行なわないならば、
彼は必ず生きる。
決して死なない。
彼の犯したすべての罪は彼に対して覚えられない。
彼は公道と正義を行なったのであるから、必ず生きる。」
(エゼキエル33:14-16)

果たして、ニッポンキリスト教界に救いの道があるのかないのか、異常な教えに傾倒していった教会がどこまで立ち直る可能性を持っているのか、私は知らない。(私には立ち直りの可能性は極めて低く、ゼロに等しいように見えるし、以前から言ってきたように、信徒が、あるかないかの立ち直りの可能性に期待して、異常な教会に所属し続けることは全く勧められない。)

だが、主なる神の御旨は「あわれみは、さばきにうち勝つ」(ヤコブ2:13)である。
私たちが心の中で何と思おうと、主はニッポンキリスト教界を惜しまれるだろう。それは主がこの教界にいるあらゆる人々の造り主だからである。だから主は誤った教会が破滅から救われるよう、早急に正義に立ち帰るよう求めておられると私は思う。

「愛する兄弟たちよ。よく聞きなさい。
神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富ませ、
神を愛するものたちに約束された御国の相続者とされたではないか。」(ヤコブ2:5)

腐敗した教会は貧しい人々をかえりみず、信徒の無知や弱さにつけこんで搾取を行った。私たちがその二の舞をしてはいけない。
神はこの世の貧しい人を選んで、信仰を与え、御国の相続者とされた。だから、私たちは貧しい人々や、病める人々、この世の弱者を軽んじず、大切に扱うようにしなければいけない。
心あるクリスチャンは、貧しい人々を搾取するような団体からは離れたい。そして、傷ついて、弱くなった者たちをかばい、ボロボロにされてきたキリストの肢体を修復し、自分の知識におごることなく、争わず、平和な信仰生活を送っていきたい。

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