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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

『クロイツェル・ソナタ』に見る男女の悲劇

2.『クロイツェル・ソナタ』に見る男女の悲劇

1.『そうか、もうきみはいないのか』に見る日本の旧来の夫婦観

 最近、団塊の世代が老境に差しかかるに伴い、熟年夫婦のあり方や、夫婦の死別という問題について考える本が多数、売り出されている。城山三郎著『そうか、もうきみはいないのか』(新潮社、2008年)なども、そうした系統に含まれるだろう。城山氏は、若い頃に海軍に入って、お国のために散華することを求められ、戦後、軍国主義が偽りであったことに気づいて茫然自失し、その後、小説家として一連の著作を書いた後、妻容子氏に先立たれ、孤独の中で半生を振り返りながらこの手記を書いたという。
 しかし、世代があまりに違いすぎるためか、私はこの本を読んでも、ぴんと来るものがなかった。未完の作品である点を考慮に入れても、それでも、この著書の中からは、城山氏が妻の容子氏の人格を、人間として、女性として、母として、どれほど深く理解していたのかが浮かび上がって来なかった。夫である城山氏が、小説家としての鋭い視点も合わせて、一人の人間としての妻を深く理解していた様子が、残念ながら、文面からはほとんど理解できなかった。

 それどころか、この著書から見えて来るのは、美しく、天真爛漫で、母のように夫に無限なる愛を注ぎ、夫を中心として生活し、夫の負担にならないように、自分の悩みは口にせず、どんな時にも、夫を温かく受け止め、夫婦喧嘩も滅多にせず、子ども達の面倒や動物の面倒、店子の面倒をもかいがいしく見て、家の仕事を切り盛りし、いつも明るく、癌になってさえ希望を失わず、逞しく闊達に生きる妻容子氏の姿だった。
 確かにこのような妻がいれば、理想的な存在ということになるだろう。
 だが、こんな女性が現実にいるのだろうか。ここには全世界が悩み続けてきた夫婦間の不調和の問題は一切、描写されていない。城山氏が亡くなった妻に配慮して、故意に彼女の心の葛藤を描かなかった可能性もあるにはあるとはいえ、氏が述べているように、二人の間には本当に、夫婦喧嘩さえ滅多に起こらなかったのだという気がする。だとすると、城山氏は、妻が演じている理想的な主婦の姿だけを見て、それが妻の全ての姿だと思い込み、自分が彼女をたったの半分だけしか理解していないことに、最後まで気づかないまま亡くなったということにならないだろうか。容子氏は夫に迷惑をかけないために、自分自身の困惑や内面の葛藤があっても、決してそれを彼には見せないようにしながら生きて来たのではないだろうか…。

 この著書から強く感じたのは、日本人の昔かたぎの男性が、妻を自分と対等な人格としては決してとらえていないことだった。ただ自分の延長のように、あるいは母親の代理のように妻を見て、妻が自分を中心として世界を築いてくれれば、それでよしとし、妻にも女性として、自分とは別の世界があり、当然のことながら、言葉にできないような数々の強い思いが心の中に渦巻いているということをほとんど理解していなかったことが伺える。
 性においても、夫婦は対等ではなかった。男は未婚の時代には色々な冒険をし、様々な女性との関わりもあるものだが、妻となる女性には、結婚の何たるかさえ知らないほどに、無垢でいてもらわねばいけない。それが理想であるし、そうであれば男の方に過去、何があろうと、問題はない。
 そんな旧式の考え方が、ほとんど疑問も呈されず、美化された形で、淡々と綴られていた。この本を読んで、男性はともかくとして、女性までがその偏った考え方に気づかずに喜んでいるのだとしたら、それは私には理解しがたいことである。


2.『クロイツェル・ソナタ』に見るトルストイの夫婦観と、妻帯の否定

 夫婦の人間関係を描いた作品の中で、この本とは完全な対極にあるのが、レフ・トルストイの『クロイツェル・ソナタ』である。『戦争と平和』や『アンナ・カレーニナ』などレフ・トルストイの作品は世界で読み継がれているが、彼の作品の中で、『クロイツェル・ソナタ』だけはどうにもこうにも、陰鬱な読後感のために、敬遠されがちな作品ではないだろうか。
 世界中のヴァイオリニストが異口同音に最高峰だと述べているベートーヴェンの「クロイツェル・ソナタ」の高い芸術性を思いながらこの作品を手に取った人にとっては、この小説の筋書きは、俗悪で救いようがなく、そのひどい終幕にはただ愕然とさせられるばかりだろう。
 だが、アダム以来、堕落してしまった夫婦の歪んだ関係について、この小説ほどに、あらゆる恐れと虚飾を振り捨てて、厳しく核心に迫ったものは他にないと思われる。そこで今回はこの小説を中心にすえて話したいと思う。

 『クロイツェル・ソナタ』の小説のエピグラムには、次のような聖書の言葉が挙げられている。(以下、引用は全て『クロイツェル・ソナタ 悪魔』、トルストイ、原卓也訳、新潮文庫から。)

「しかし、わたしはあなたがたに言う、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。」(マタイによる福音書5:28)
「弟子達は言った。『もし妻に対する夫の立場がそうだとすれば、結婚しない方がましです』
 するとイエスは彼らに言われた。『その言葉を受け入れることができるのは、すべての人ではなく、ただそれを授けられている人々だけである。
 というのは、母の胎内から独身者に生れついているものがあり、また他から独身者にされたものもあり、また天国のために、みずから進んで独身者となったものもある。この言葉を受け入れられる者は、受け入れるがよい」(マタイによる福音書19:10-12)
 
 最初に挙げられたマタイ5:28の「情欲をいだいて女を見る者は…」という聖句はクリスチャンの間ではあまりにも有名だ。これは通常、男性が結婚によって許された限度を越えて、女性に対して過度な欲望を弄ぶことを禁止する意味に解釈される。
 だが、驚くべきことに、トルストイはこの言葉を、全く別の意味で解釈しているのだ。彼は、これを婚姻関係の「外」の男女の関わりを指したものでなく、婚姻関係の「中」の男女関係について言われていると考える。すなわち、これは「夫が妻を情欲をもって見ることの禁止」であると言うのである。

 この考えは驚くべきものである。トルストイによれば、この聖句は他でもなく、夫となった男性たちが、妻の気持ちを無視して、妻を勝手に情欲の対象として扱ってはいけないという警告であるばかりでなく、とどのつまり、情欲そのものを否定する言葉であり、夫と妻との夫婦関係さえも禁止する意味で発せられたのだと解釈されるのである。

 そのことは、「クロイツェル・ソナタ」の物語全体を見るとよく分かる。好奇心でこの話を読んだ人は、きっとこの物語は妻の不貞と、それに対する夫の復讐劇を描いたのだと早合点してしまうかも知れないが、そうではない。この物語は、妻を情欲の対象としてしか見ることのできなかった夫の悲劇を描いたものであり、そのことは作品の主人公、ポズドヌィシェフ男爵自身の次の台詞によって裏づけられる。
「性欲は、たとえどんなに飾りたててあろうと、やはり悪なのです。これは、われわれの間でやっているように奨励したりせず、あくまでもたたかわねばならぬ、恐ろしい悪ですよ。情欲をいだいて女を見る者は、すでにその女と姦淫したにひとしいという福音書の言葉は、他人の妻に対してのみ向けられたものではなく、何よりもまさに、自分の妻に向けられたものにほかならないのです」(p.51-52)

 この小説の根底には、トルストイ自身の性に対する極めてストイックな考え方がある。トルストイはポズドヌィシェフ家に起こった悲劇の原因は、若い頃の放蕩が原因で、心の清さを失った男爵が、全ての女性を色欲のフィルターを通してしか見ることができなくなったことが、夫婦関係の破綻の最大原因であるとしているのである。

 トルストイ自身は熱心なクリスチャンであったが、極めて特異な信仰の持ち主であった。彼はキリスト教について独自の研究を進め、独自の信仰観を持ち、晩年には、ロシア正教から異端とみなされて破門された。彼は奇跡を否定する独自の福音書を編纂し、極端に禁欲主義的な信仰を実践して、あらゆる所有の概念を否定した。トルストイは最晩年には、貴族としての全ての特権的生活を捨て去って、農民と同じ無一文となって再出発を遂げるために領地ヤースナヤ・ポリャーナを去った。
 トルストイの家出には、「あらゆる所有は悪である」という彼の強い信念がこめられている。財産を所有することへの否定、領地を所有することへの否定、地位を持つことへの否定、農奴を所有することへの否定、農奴を使役することへの否定、特権的身分を有することへの否定、著作権を所有することへの否定、収入を得ることへの否定、それら数々の「所有の否定」が、トルストイの家出という行為になって結実したのであり、そこには、最後に、妻を所有することへの否定(妻帯の否定)も含まれていた。

 これはトルストイ独自の思想であり、多くのクリスチャンがそれに同意できないのは当然である。それでも、トルストイの名声が世界的にまで高まっていたために、このような彼の考え方を「トルストイ主義」として実行しようとする追随者も現れた。
 そして、トルストイが死に際してまでも、夫人を遠ざけようとしたため、ソフィヤ夫人はまるで悪妻であったかのような誤解さえ広まってしまったが、事実はそうではなかった。ソフィヤ・アンドレーエヴナの弁護のために言っておけば、ソフィヤ夫人は、先に挙げた容子夫人と比べて、何ら遜色のない、まさに良妻賢母の鑑のような女性であった。
 ソフィヤ夫人はトルストイの著作活動に理解を示して、全面的に夫の仕事に協力し、『クロイツェル・ソナタ』が検閲によって出版を許されなかった際には、自ら内務大臣に働きかけ、皇帝に嘆願さえしている。その他にも、子育てや、貴族の夫人としての役目を果たし、領地や財産を管理した。トルストイはソフィヤ夫人と恋愛結婚をしたのであり、夫人を愛していた。従って、夫人の性格や行動に何か原因があって、トルストイが彼女を拒否するに至ったわけでは全くない。

 ソフィヤ夫人は申し分のない妻であったにも関わらず、トルストイの「主義」があまりにも、彼一人だけを遠くへ運び去ってしまったのだと言えよう。トルストイは信仰について思いつめた結果、あらゆる所有は悪であり、信仰に反するものだという結論に至った。そして、潔癖で正しい生き方をするために、ついに妻帯さえも否定して、自分が築いた家庭を残して、家を出て行くに至ったのである。
 トルストイが目指したのは、修道僧のように禁欲主義的で、博愛主義的で、無一文の単純素朴な生き方であった。修道院という囲いの全くないところで、トルストイは自分なりの、修行生活を目指して旅立ったのだと言えよう。


3.人間の道具化への反対としての『クロイツェル・ソナタ』

 しかし、「そんな極端な話があるものか」と大勢が反論したくなるだろう。
 普通のクリスチャンから見て、やはりトルストイの考え方には同意できない部分が残る。特に、トルストイのマタイによる福音書の解釈、夫は妻を情欲の目で見てはいけない、夫婦の性生活もいけない、という考えはきっとクリスチャンの間でも物議をかもし出すに違いない。

 「そんなのは無茶苦茶だ、もしも夫が自分の妻をすらも決して情欲の対象として見てはいけないというならば、どうして人が結婚する意味があるんだ? 何のために結婚生活があって、どうやって結婚を維持するんだ?」
 誰しも抱くに違いないこのような疑問を、トルストイはまさに、弟子達の発言という意味でエピグラムに託している。
「「弟子達は言った。『もし妻に対する夫の立場がそうだとすれば、結婚しない方がましです』」

 これらの聖句を、トルストイは「もしも自分の妻をさえ情欲の対象として見てはいけないというなら、夫には結婚する意味が全くないじゃないですか!」という、弟子達からイエスへの不服申し立てと解釈して引用しているのだ。

 このような解釈は通常の解釈からかけ離れており、いささか無理がありすぎるように私は感じる。だが、トルストイ自身の極端な主義は今はさて置き、いずれにせよ、小説『クロイツェル・ソナタ』は、私たちに、ある極論を提示することによって、重要な問題提起を投げかけているのだと言えよう。この小説が読者に投げかけているのは、人間を道具化することへの強い反対のメッセージだ。つまり、たとえ夫婦であっても、パートナーを自分の満足のための道具のようにみなし、自分勝手な満足を求めて、相手の意志を無視して、相手を利用したり、搾取したりするなどのことはあってはならず、そのような歪んだ関係は、健全な夫婦のあり方を壊し、人間関係に悲劇をもたらし、崩壊へ導く。小説はそう主張しているのだ。

 人が他人を、自分の満足のための道具とみなし、自分の利益のためだけに、所有物のように扱うことはあってはならない、という命題を、トルストイは夫婦の性の問題という形に置き換えて、極限にまで押し進める。

 小説は、主人公、ポズドヌイシェフという男爵がほとんどモノローグのような一方的な話の中で、自分の過去を振り返りつつ、現代の世の中における男女関係が、いかに歪んだ、支配と搾取に満ちたものとなっているかを語るところから始まる。
 男爵はまず、青年たちの避けようのない堕落について話し始める。子供時代に、学校の教室で机を並べて勉強している頃には、子ども達は男女を問わず、無垢で対等なつきあいをしている。しかし19世紀末のロシアには公娼制度があり、貴族の青年達はある年齢に達するとほとんど必ず、遊郭で女遊びを教え込まれ、性的に堕落させられた。その結果、青年たちの心の中では、何かとても大切なもの、女性との清らかな関係の理想が永久に失われてしまうと男爵は言う。

「女性に対するごく自然な、気取らぬ関係は、永久に滅びてしまったのです。あれ以来、女性に対する清い関係は、わたしにはなくなりましたし、ありえなくなったのです。わたしは道楽者とよばれる人間になりさがったんですよ。道楽者になるということは、モルヒネ中毒者や、酒飲みや、煙草好きの状態に似た生理状態ですからね。<中略>
自分の満足のために数人の女を知った男も、もはや正常な人間ではなく、永久に汚れはてた人間、つまり道楽者なのです。酒飲みやモルヒネ中毒は、顔つきや態度ですぐにわかるものですが、道楽者もまったく同じことです。道楽者とて抑制したり、自己とたたかったりすることはできます。しかし、女性に対する、兄弟のような気取らぬ、すっきりした清純な関係は、もはや決して生まれないのです。<中略>そしてそれがわたしを破滅させたのです」(pp.30-31)

 このような痛みに満ちた告白を男性だけにさせておくのは不公平というものだろう。世の中では、性に関して横暴で、堕落しているのはいつも男性ばかりであって、女性はその哀れな犠牲者だと無意識のうちに思い込む傾向がある。だが実際には、男性と同様の堕落は、女性にも起こり得るのだ。
 男爵は言う、「われわれ上流階級の生活を、恥知らずな面までそっくりありのままに見るなら、まさにそれこそ、連続した一つの売春宿にほかなりませんからね」(p.36)

 これは19世紀末のロシア貴族の上流社会にだけしかあてはまらないこととは言えない。今日、男女を問わず、過剰なまでに恋愛を宣伝し、無駄に性欲を煽り立てるような社会の風潮が促進されていないだろうか。無駄に性欲を煽るようなグラビアを載せた雑誌は、サラリーマン向けの週刊誌だけの専売特許だろうか。たとえば今日、様々な女性雑誌や、少女漫画や、ハーレクイン・ロマンスなどの形で普及しているありふれた読み物が、男性を堕落させるのとほとんど同じ効果を、女性にも与えていないだろうか? 
 
 学校に通っている時分から、少女たちは、できるだけルックスの良い、家柄も人柄も良くて、誰にでも自慢できるような彼氏を手に入れることを夢見て、そのことのために先を相争って美しくなろうとしている。自分は果たして優れた伴侶に値する優れた人格なのかという問題はすっかり置き忘れて、ただ自分という取るに足りない存在を元手として、できるだけたくさんの利益をもたらしてくれそうな男性を伴侶としてつかまえようという発想が、公然とまかり通っている。

 19世紀末のロシア社会だけに限った話ではなく、今日でも、結婚は商売と同じレベルにまで成り下がってしまっている。男女の両方にとって、恋愛は、自分というわずかな元手によって、いかにして大魚を釣り上げるかを試すための市場のようになってしまっている。その結果、男性も女性も、幼い頃からすでに、異性に対する清らかな視点を失い、異性を見れば自分の利益や、快楽の道具とみなして、今しも相手に襲いかからんばかりに欲深な目つきで相手を見つめ、相手を利用し、人間性を貶め合うようになってしまっているのではないだろうか…。

 哀れな少女たちは、そのような風潮が、人間である自分を商品道具におとしめる発想であり、決して幸福をもたらしてくれないことに気づく機会もなく、女性が売りに出される市場に、いち早く参入して、自分をできるだけ高い値段で競り落としてもらおうと努力することに大忙しになっている。
 しかも、残酷なことには、20歳を過ぎ、30代に入る頃には、未婚の女性たちの中には、この社会の風潮のために、恐怖のような焦りを感じさせられる者も多い。純潔と独立を尊重して、独身を保っている女性がいれば、世間は彼女を変人とみなし、侮蔑的な名前で呼び、奇異の目で見る。
 今日では、幸いなことに、「女は結婚」という考え方が廃れてきたため、自らの選択で、生涯、独身を貫く女性も多くなってきた。だが、一昔前であれば、値段のつかない女、すなわち、男性に結婚を申し込まれたことがないような女には、人間としての価値もないと言わんばかりの風潮があった。そして、このような風潮を作っているのは誰よりも女性たち自身であった。すでに結婚した女たちが、独身者に対して、自分たちの生き方こそがまっとうな模範であるかのように宣伝してきたのである。

 今日でもそのような風潮に踊らされた女性たちは、まるで市場で奴隷を品定めする仲買人のように、あらゆる角度から自分を品定めしている"バイヤー"がいても、その異常さに気づかず、何とかして人の気を引こう、買ってもらおうとして、無理やり微笑むことさえする。そして今日の乱れた社会においては、そのようにして、いたいけな娘たち、女性たちが、幾度も、幾度も卑しい"人買い"の犠牲者となり、若い時代を苦痛のうちに過ごした後に、初めて、そのような考え方そのものが異常であって、自分をないがしろにするものであったことにやっと気づくのである。


4.真実の愛に基づかない結婚がもたらす苦痛

 さらに、仮にそのような市場での"せり"が首尾よく成功して、若い男女が世間的に見てかなり有利で安全な結婚を早期に成立させたとしよう。しかし、めでたいのも束の間、そこからまた、ポズドヌィシェフ男爵が語るような、蟻地獄のような状況が始まる。時代が一夫一婦制という規則を定めているにも関わらず、無駄に恋愛を鼓舞し、性的情熱ばかりを煽り立てる世の中の風潮の中では、それが若い頃から身についた放蕩の習慣とあいまって、男女は結婚という枠組みの中に少しもじっとしていられないのである。

 若い頃から、恋愛を夢見、恋愛を至上の糧として生きるように教え込まれた女性たちや、一時の情熱に煽られて結婚したはいいが、結婚の中に期待していたような生活がなかったことが分かって幻滅した男性たちは、退屈のあまり、情熱を持て余すようになる。パートナーへの興味は尽き、夫婦の会話は途絶え、心の内では無意識のうちに、窒息するような結婚生活に自分を陥れた相手を憎み、呪いながら、それでも社会的対面のために別れられず、惰性の生活を続けるという地獄が始まる。

 ポズドヌィシェフ男爵は言う、「わたしたちは、一本の鎖につながれて、互いに憎み合い、相手の生活を毒し合いながら、それを見まいと努めている、二人の囚人にひとしかったのです。当時のわたしはまだ知らなかったのですが、九十九パーセントの夫婦がわたしの生きてきたような地獄の生活を送っており、それ以外の場合はありえないのですね」(p.78)

 日本では昔から「オイ、フロ、メシ、ネル」という、極めて貧しい会話術しか持たない夫婦がかなり多く存在したようであるが、ポズドヌィシェフ男爵夫妻の家庭もそれと全く同じ状態に陥っていた。
「二人きりになったときには、ほとんどいつも沈黙か、でなければ動物でさえお互い同士で交わせると思う程度の会話にとどまる定めになっていたようでした。『何時だい? そろそろ寝るか。今日の晩飯は何だい? どこへ行こうか? 新聞にどんなことが書いてある? 医者をよびにやらなけりゃな。マーシャが咽喉が痛いそうだ』
およそ考えられぬくらい狭まったこんな会話の範囲から、毛一筋でも踏みだしさえすれば、ただちに苛立ちが火の手を上げるのでした。コーヒーだの、テーブルクロス、馬車、ホイストでのカードの出し方など、どちらにとって何の重要さももつはずのないようなことが原因で、のべつ衝突や、憎しみの表現が生じたのです。」(p.76)

 言葉が足りずに、会話が貧困になったのではない。憎しみに満ちた夫婦関係の中で、少しでも新しいきっかけがあるとすぐに喧嘩に発展するため、無益な争いを避けるために、夫婦の間では最小限度の関わりしか持たないことで平和を装う取り決めが自然と生まれたのである。

 子供さえも、この絶望的な夫婦を救う薬にはならなかった。男爵は言う、「子供に関しても、またしても実にひどい嘘が横行しているのです。子供は神の祝福だとか、子供は喜びだとかって。こんなのはみな、嘘っぱちです。これはみな昔のことで、今やそんなものは何一つありゃしませんよ。子供は苦しみ以外の何物でもありません。大多数の母親は率直にそう感じています」(p.69)

 世間では、子供を持つことが当然のように奨励されているので、夫婦は何の疑いもなく子供を持とうとするが、子育てのためのあらゆる苦労が、夫婦の絆を強めるどころか、かえって不安定にし、生活の余裕をなくし、心を責め苛む。子供の怪我や、病気、命の危険のある事故などのために絶えず奔走せねばならないことで夫婦は苛立ち、その苛立ちと憎しみが、今度は子供を道具にした夫婦喧嘩へと変わって行く。

 恋愛至上主義的な世の中の風潮や、結婚と子育てを促進する世間の風潮に煽り立てられ、まんまんとその術中にはまってしまったポズドヌィシェフ夫婦は、まるで蟻地獄に落ちた蟻のように、絶望的な結婚生活の中でもがき苦しむ。その結婚生活そのものが、本当は清らかな愛によって結ばれたものでなく、人間を商品化する市場のせりの結果として与えられただけのものであるから、その結婚はお互いを拘束し、傷つける枷としかならない。だが、そのことに気づかず、何とか世間体も守って、人並みに結婚生活を維持すべきだ、それが当たり前だと考えている二人は、無理な結婚生活に必死に耐えようとする中で、互いに対する憎しみだけが募りに募っていく。性格も違い、互いの人格を理解するための素地がなく、愛によって結ばれたわけでもない二人をつなぐものは、絶えず頭痛の種となり、喧嘩の材料となる子供の他には、惰性的な情欲による結びつきだけだ。だがその愛も理解も伴わない惰性的情欲こそが、お互いを何よりも貶め、道具化するのである。壮絶な夫婦喧嘩の後に、惰性的な和解が訪れることによって、二人ともがよりボロボロになり、虚しさを覚える。こうして、限界まで張りつめた弦がついにはじけ切れるようにして、最後の事件が起きる。

 男爵は言う、「妻とあの音楽家の関係がたとえどのようなものであろうと、そんなことはわたしにとっては無意味ですし、妻にとっても同じことです。意味をもっているのは、今まであなたにお話ししたこと、つまり、わたしの下劣さなのです。あなたにお話ししたような、あの恐ろしい深淵と、きっかけさえあれば危機を生むに十分な、お互いに対する憎しみの恐ろしい緊張とが夫婦の間に存したことから、すべてが生じたのです。とにかく最後のころには、夫婦喧嘩も何か恐ろしいものになり、これがやはり張りつめた動物的な欲情に変ってゆくあたりが、とりわけ異常でした。<中略>
 わたしが協調したいのは、わたしのやってきたような生き方をしている夫はみな、女遊びに走るか、夫婦別れをするか、自殺するか、さもなければ<略>妻を殺すかするにきまっているということなのです。」(p.86)
 

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