忍者ブログ

私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

引越しの予告

今夜は近くの天然温泉に母と共に行って来た。
おかげで休養を取れ、眼精疲労もかなりましになったように思う。昔から私は斜視ゆえに視力が悪かったのだが、最近は、本を広げても、15分とページを見つめていられないほどに疲れが出て来るようになった。

ただ疲れが出て来るせいだけではない。以前にはあれほど面白いと思った小説に関心がなくなった。フィクションの世界に思いを巡らせるよりも、御言葉のリアリティの中に浸っていたいと思うようになったからだ。

最近、主の憐れみと恵みにより、我が家には平和が訪れた。新たにキリスト者となった者がいるわけでなく、偽教会で起こった事件を語ることもできないし、信仰の話を分かちあえる人がいるわけでもないのだが、少なくとも、以前にあったような裁き合いはまるで起こっていない。

静かな湖面のように、穏やかで、何気ない日常が続いている。これは主の御恵みであり、また祈りのおかげだと感謝しています。

先日、店でかかっている音楽を聴いて、おやと思った。
「これって、KFCで使っていた賛美と同じ曲じゃない…?」
母が言った、「知らなかったの、ヒルソング、一時期、流行したでしょう?」
そうか…。随分前から、私は店でかかっているヒルソングを知らずに聴いていたのだ。

我が家には、キリスト教界を席巻したあらゆる書物や音楽CDが大量に保存されている。書棚をのぞけば、聖霊派の信徒が教科書のように読んだ本がいくらでも見つかるし、リバイバルソングのCDもきっちり棚にそろっている。だが、約10年間、教会に幻滅してキリスト教界から遠ざかっていた私には、その間の流行に関する知識が全く抜けている。どうやら、私よりも母の方がはるかに教界の動向に精通しているようだ。

私は生まれてこの方、携帯電話を一度も持ったことがなく、外出しても腕時計をはめず(時間に拘束されるのが嫌いだからであるが)、TVも見ない、新聞も読まない、流行の音楽も聴かない、そんな人間であると白状したら、驚かれるかも知れない。好まないものを排除した結果、そうなったのだが、これでは、現代の化石と呼ばれても仕方ないだろう(化石からはほど遠い若さなので、これはもちろん冗談ではあるが…)。

その上、幼い頃から通って来た教会のすべてが誤っていることが理解できて後、約1年間、ショックのため、世間一般の動向から完全に遠ざかった。そんないきさつがあって、私には、さらにその頃の世間の誰もが知っている出来事の記憶がないかも知れない。だが、ニュースなど、さほど重要ではない、永遠に変わらない御言葉に比べれば…。

さて、話を戻せば、我が家に平和が訪れて、約1ヶ月ほどが過ぎた。
平和になって、心が落ち着いたかと言うと、そうではない。ますます、主に連なる兄弟姉妹を近くに得られないことから来る孤独感が高まった。

聞けば、ある兄弟もやはり家庭でキリスト者として孤立し、信仰の友を近くに得られずに苦しんでいるようだし、以前、親しかったある姉妹はと言うと、生活のために過重労働を強いられて、とても交わりを持つどころではないらしい。

たとえ周りで穏やかな日が続いても、心の深いところで何よりも求めているものが見いだせないことから来る孤独感は埋まらない。

だから、日々、祈らずにいられない。
主よ、あなたの名において歩む全ての兄弟姉妹に、あなたの名において集まる機会をどうぞお与え下さい。世の光としてのクリスチャンを孤立したままに置かれないで下さい。あなたを共に賛美し、あなたに栄光を帰し、共に愛を示し仕えることのできる兄弟姉妹と会う機会をどうか与えて下さい、と。

さて、このブログは読者の皆様の参加のおかげで随分、有益な議論の場にすることができた。しかし、今、私の中で、一つの時代が終わったように感じられるため、この記事を最後に、もう一度、場所を改めることにしたい。

私は完全な人間として、真理を完全に把握している人間として記事を書いているつもりは少しもない。学術論文ならば、誤りは決してあってはならないが、キリスト者の歩みは、それとは違う。不完全な者が、キリストを求め、真理を求め、時に、苦しみ、迷い、道を誤りながらも、倒されてもまた起き上がって、歩んでいく過程が、信仰の歩みだ。

だから、この拙い文章から、ただ私の弱さ、足りなさ、不完全さを見るのではなく、そのように不完全さを持つ一人の人間を、キリストの強さがどのように覆い、キリストの義、キリストの憐れみによってどのようにその人が生かされて行ったかという事実を見つめてもらえれば嬉しく思う。

さて、このブログ執筆中に起こった変化の中でも、最大の変化(恵み)が一つある。それは私が、ニッポンキリスト教界から受けたひどい仕打ちに対する怒りから解放されたことだった。

幼い頃から通い続けた教会が、真理に立つどころか、大きな偽りの体系の一部であったことを知ったことの衝撃は大きい。キリスト教界では、今も私の遭遇した事件に勝るとも劣らない悲惨な事件によって、カルト被害者と呼ばれる人々が次々生まれており、このブログを書いている途中まで、私も、そのような出来事はあってはならず、彼らを助けねばならないと考えていた。

ところが、ブログを書いている途中で、私には変化が起こった。

それまで私をキリスト教界の告発へと突き動かしていた動機―義憤―が消えてなくなったのだ。それは、ひとえに主の憐れみによって、私の悲しみが癒されたのだが、それだけに終わらなかった。

私が自分の中で最も正しいと思っていたもの、不正や悪事に対する一人の人間としての全うな憤りすら、キリストの御前に焼き尽くされたのだった。だが、これは、悪を悪と感じなくなることとは違う。正義を曲げ、嘘や、虐げや、不真実を喜んでいる人たちの仲間入りすることとも全く違う。

それは、悪事を犯している人々に対する未練や、関心がもはや消え去ったということである。彼らに何としてもこちらを振り向いてもらい、私に対して犯した罪を償い、反省してもらわなければ気が済まない、といった憤りが全くなくなった、ということである。

確かに、忌々しい事件は、忌々しいものであり、あるまじき事件は、あるまじき事件なのである。悪事は悪事であって、悪事を犯した人々は、いずれ神の御前で裁きを受ける日に、確かにその罪を問われることであろう。そういった出来事の重さは何ら変わらないのである。

しかし、私は、もはや彼らと関係なく、神の新しい命によって、全く異なる領域を生きて行きなさい、と言われているように思う。もしそのような人々と道で出会ったとしても、過去の出来事に対する憤りゆえに、彼らを引き留めて、昔の出来事を正したり、非難するということはないであろう。もう彼らと私とは十字架によって隔てられ、関係ない世界に住んでいる。過去に対する心のこだわりや、義憤から生じる悪事に対する憤りが、十字架を経て、完全に消え去って行ったのである。

だから、言えるのは、たとえ想像を絶するような苦しみを体験したとしても、神は人の心を新たに生かすことができるということだ。神は信じる者に新しい霊を与え、新しい心を与え、生まれてこの方、一度も、傷を受けたことがないかのように、健康な命、健全な心によって、信者を生かすことができる。

だから、改めて言いたい、私たちは決して、自分を迫害する者を憎んではいけないと、両親を憎んではいけない、兄弟を憎んではいけない、信仰の友だった者を憎んではいけないと、自分自身で裁きを行おうとしてはいけないし、敵と思われる全ての人を、主にあって赦すべきなのだと…。

むろん、そんなことは自分の力では誰もできはしない。だから、そんなきれいごとは言わないでくれと言われるかも知れない。私にもそのことは分かっている。だが、自分ではできない、だからこそ、私たちはしばしば叫びながら、燃える炉のような試練の只中を通らされるのだ。しかし、その試練の只中で、「私の義ではなく、主よ、あなたの義だけが成りますように!」と願う心さえあれば、私たちの心にある不要なものは、神が焼き尽くし、切り落として下さる。

今、この記事は、この引越し予告を書いてからだいぶ経って加筆しているのだが、筆者は改めてこう言いたい。

どんなことについても、被害者のままでいないで欲しい。神はいつまでも人が過去のことにこだわり、打ちひしがれて、悲しみながら生きて行くことを願っておられない。

神は、神に願い求める人に誰でも新しい心と新しい霊をお与え下さることができる。神はその人をキリストにある新しい人格として生かし、それまでの人生と違った新しい人生を送らせることができる。だから、たとえ全世界がスクラムを組んで、あなたを迫害し、あなたを執拗に追い詰め、あなたの嫌がることをひたすらやり続け、あなたの敵と化したとしても、地獄の軍勢によってもたらされたそのすべての敵意と憎しみを超えて余りあるだけの愛、善良さ、喜び、健やかな命を、しかも、満ち満ちた命の豊かさを、キリストはあなたの心に流し込み、あなたの人生にお与え下さることができる。

キリスト者に与えられる救いは、いきなり人生が劇的に変わって突然、夢のように贅沢な生活を送るようになった、といったものではないかも知れないが、神は最後まであなたと共にいて、どんな時にも、あなたに必要な助けとなって下さり、あなたが試練を乗り越え、健康で豊かに生きるために必要なすべてを供給して下さることができる。
 
だから、たとえ悪魔が吠え猛るししのように咆哮をあげていても、天にはいつも静けさがあって、信じる者はそこに座して主を喜ぶことが可能なのだと筆者は信じているし、また、その平安と静けさに生きることの意味をますます知りたいと願っている。

このブログを終了するに当たり、私ははっきりと宣言しておきたい、私を傷つけた人々を私は主の御名において赦すと。この言葉の裏に、私の絶叫のような、心引き裂かれる痛みがあることを忘れないで欲しい。しかし、私は自分の感情にではなく、主の御言葉に従って生きるために、このことを宣言する。だから、私に対して罪を犯した人は、主にあって赦されることを先ず何よりも考えて欲しい、たとえ私に対して何もできなかったしても、負い目を感じる必要はない。

ただし、聖霊を穢す罪は許されない、と聖書にあるように、人を傷つけることは赦されても、神の霊に対して一線を超えた冒涜を犯すと、信者には後戻りできなくなる危険があることは断っておきたい。

これは世人に対する警告ではなく、クリスチャンを名乗っている者に対する警告である。

人間を冒涜する罪は赦されるであろうが、もしもその人の背後に神の聖霊の力強い働きがある時には、その証を冒涜することは、神の霊を冒涜することにつながりかねない危険性があることを覚えて欲しい。こうした罪を犯した人には、神自らがその人から悔い改めのチャンスを奪って彼らの心を頑なにされ、悪魔に引き渡される、ということも起こり得るのだ。
 
あざけりは愚かさの表れである、と私は思っている。私たちは迷いの最中にある人、誤った道を歩いている人、真理を知らない人をあざけらないように気をつけねばならない。たとえある人々は、キリスト教界以上に真理を知っていたとしても、だからと言って、その知識を弱い人々の前で誇るべきではない。ニッポンキリスト教界に属している人々をあざけったり、カルト被害者をあざけったり、偽牧師、偽教師に対して裁判を起こした人々をあざけったりすることは間違いである。誤謬の道を歩んでいる人々には、神がふさわしい裁きをされるであろう。

クリスチャンは、ただすべての人が十字架を信じ、命と喜びに引き入れられて欲しいと願うべきであり、真理を知らず、自分よりも無知な人生を送っているように見える人を馬鹿にしたりすべきではない。私も昔は随分、人に対する軽蔑の感情を持っていたが、今はあらゆる軽蔑、嘲笑は主から来たものではないと確信している。高ぶりは滅びに先立つことを人は知るべきである。

さて、場所を改めて、キリスト教界の動向についての分析をこの先も続けたいと思っているが、それはただまことの光であられるイエス・キリストの栄光のために、真理でないものの正体をはっきりさせたいという気持ちから行うつもりである。

数日程度、休みを取ります。その後、新しいアドレスをここに書きます。
では、皆さん、お元気で!

PR