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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

石を投げる時、石を拾う時

 大学時代、ゼミである小説を読んでいた時、次の言葉が出て来たのを思い出す。
"Время поднимать камень и время бросать его"。(石を拾う時、石を投げる時)
 読んだ時はただ意味不明な言葉として通り過ぎただけだった。

 これについて、お師匠様(ゼミの教授)が後でこっそり教えてくれた。
 「石を拾う時って、伝道の書にあるでしょ?
 人にはね、石を投げる時と、拾う時とがあるんだよ」

 その当時、私は教会に幻滅して信仰を離れていた。だから、聖書はただの積読本となって家で埃をかぶっており、それが伝道の書からの引用であることさえ私は知らなかった。だが、師匠のこの言葉が胸に痛かったのを覚えている。

 石を投げる時。
 それは私たちが人を責める時のことだ。

 クリスチャンならば誰でも知っている、聖書のあの有名な場面。
 姦通の現場で捕らえられた女が、公衆の面前に引きずり出されて来て、律法に基づいて、ユダヤ人たちに石打にされそうになる場面。

 どうして女性だけが捕らえられたのだろうか。男は一体、どこへ逃げたのか。
 恐らく、女は密会の現場で、計画的に捕らえられたのであろう。着る物もとりあえず惨めな姿で引き出されて来たのかも知れない。聖書の記述によれば、女が捕らえられたこと自体が、「イエスをためして、訴える口実を得るためであった」(ヨハネ8:6)、つまり、イエスを陥れるための罠だった。だから、すべてが計画ずくだったものと想像できる。

 多分、女が逢引きの現場に向かうところを、律法学者、パリサイ人の手先が跡をつけ、物陰から密かに様子を伺って、現行犯逮捕するようにして、捕まえてきたのではないだろうか。

 密会だとか、姦通だとか聞けば、私たちはセンセーショナルなイメージを抱きがちだが、案外、そこには同情に値する、ロミオとジュリエットのような悲劇があったのかも知れない。幼い頃から、結婚を誓い合っていた若い男女が、家の事情やら、何かのいきさつのために、泣く泣く別れさせられ、男が徴兵されているうちに、女性だけが好きでもない老人のような別の男に嫁がされたのだとか。
 もしも映画化すれば、引きずり出された女性の側に誰もがほろりと同情してしまうような、そんな筋書きをつい想像してしまうことがある。

 どんな事情があったのかは不明だが、とにかく姦通罪は当時、律法に照らし合わせれば死罪、石打の刑に相当した。一説によれば、石打の刑とは、定められたやり方を実行に移すと、死ぬまでに20~30分はかかる、最も残酷な刑だったという。

 群集は、女が引きずり出されてきたこと自体が、イエスを陥れるための策謀であったとは知らなかった。恐らく、日頃からのうっぷん晴らしができる材料が出来たことに大喜びで、女を取り囲み、好奇心をもってじろじろ眺め、できるなら石を打ちつけようと、じりじり待ち構えていたのかも知れない。

 イエスの言葉がもしもなければ、殺気立った群集は、罪を犯した者を大喜びで死ぬまで打ち続けたかも知れない。
 だが、狡知とも言えるような見事な主の言葉が、群集を正気にかえらせ、なおかつ、律法学者、パリサイ人の卑劣な罠を打ち破った。

 律法学者、パリサイ人たちは、イエスが律法を守る側、すなわち女を殺す側に回っていれば、彼が自分達に屈服して仲間となった(すなわち律法の守り手となった)と認めたであろう。だがもし、イエスが律法を無視するように群集に命じたならば、その言質をとって、イエスを律法の違反者として捕らえる手はずであった。
 どちらに転んでも、律法学者、パリサイ人の筋書き通りになるはずであった。彼らは、一人の女の命を材料にして、イエスを罠にかけようと企んだのである。
 だが、イエスは彼らの予想に反して、どちらの選択もしなかった。いや、どちらをも選択したのである。律法を守り、同時に、律法を超越し、女の罪を認めながら、同時に、女の命を救ったのである。

 ああ、私たちは一体どのくらいの信仰生活を積めば、イエスのような答えに達することができるのだろうか、と、思わずため息つきたくなってしまう。
 人間はいつも二つのものの間で愚かに争い、引き裂かれ、対立しながら生きている。二つの対立する陣営があれば、私たちはいつもどちらに味方するかという単純な発想しか持つことができない。そして、それぞれの掲げる正義に心引かれ、相別れて争い、正義のイデオロギーのために命をかけると豪語して、殺し合いまで行い、和解と命をもたらす十字架には目もくれようとしない。
 もしも私たちが血まみれの戦場になった地平から目を上げれば、そこに主がおられ、すべての対立の終わりと、和解が用意されているというのに、生まれながらの人間にはそれが見えないのだ…。

 石を投げる時。
 それは私たちが自分の罪を忘れ、自分の義を振りかざして、自分よりも弱い、劣った、罪ある人間に対して優位性を誇り、罪人を裁くために、力をこめて拳を振り上げる時のことだ。

 対して、石を拾う時。
 聖書には、石を拾う時について劇的な物語の記述はない。ただ伝道の書3章5節にそれらしき言葉がある。
「石を投げるに時があり、石を集めるに時があり」

 これを、投げた石を拾う時であると詩的に解釈するなら、それに相当する場面はいくつか思い浮かぶ。
 ステパノを意気揚々と石で打ち殺すことに加わったパウロが、その後、ダマスコ途上で主に出会って、盲目となり、自分の犯した罪を思い知らされて愕然とした時。それはパウロにとって、自分が投げた石を拾う時ではなかっただろうか?

 戦場でウリヤを殺すことによって、バテシェバを奪ったダビデが、生まれるはずだった赤子を失って、悲嘆に暮れた瞬間も、やはり彼にとって、石を拾う時だったのではないだろうか。
 虐げられたヘブル人をかばうために、エジプト人を殺したモーセが、ヘブル人から逆に殺人者と罵られ、恐れと失意のうちにミデヤンの地に逃げた時も、やはり石を拾う時だったのではないだろうか。

 聖書は言う、罪のない者がまず先に石を投げなさいと。
 罪ある私たちが、罪ある他人に向かって石を投げれば、必ずそれが自分に跳ね返って来て、投げた石を拾わねばならない時が来る。

 裁判員制度に対して多くの人が恐れを抱くのは、そういう事情あってのことだろう。
 「私には人を裁く資格がない」という、本能的とも言える良心の声を、それぞれの人が心に持っている。クリスチャンであるか否かに関わらず、人は自分が義人でなく、他人を裁く資格を持たない、誤りやすい人間の一人に過ぎないことを誰しもどこかで感じているものだ。人を裁き、罪に定める行為が恐ろしいものであること、あまりにも重い責任が伴うものであること、それがいつか自分自身に対する裁きとなって跳ね返って来ることを、因果応報の考え方を強く持っている日本人は、無意識のうちに、感じ取っているのかも知れない。

 群集は扇動されやすく、集団的なサディズムに陥りやすい性質を持つ一方で、人を裁くことへの良心のブレーキをも心に持っている。理解できないものは裁けない。理解できない以上、裁きたくない。裁けない以上、握り締めた石を、そのまま静かに下ろすしかない。

 各自の心に働くこの良心のブレーキの中に、何か未来の希望につながるものがあるように私は思えてならない。「疑わしきは罰せず」、「罪のない者からまず石を投げなさい」、という、良心のブレーキを働かせる言葉が、今ほど、必要とされている時はないかも知れない。

 現代という時代は(石打刑の復活という危険なスローガンが象徴的に現しているように)、私たちが人を裁くことに対して慎重になるより、むしろもっと大胆に、軽率で、愚かになるようにと、盛んに鼓舞しているように感じられてならない。

 近年、国民が互いに監視し合い、互いに評価し合い、互いに告発し合い、裁き合うような殺伐とした制度が、いたるところに出来上がってはいないだろうか。あらゆる人々が、互いの活動を監視し合い、評価し合い、無用(あるいは有害)と判断されるものがあれば、容赦なく叩き潰していくことを正当化するような残酷な仕組みが各地に出来上がってはいないだろうか。

 十分な議論を重ねてから決断を下すのではなく、十分な議論のための時間すら用意されないまま、他人の活動を短い時間でおしはかり、本来、数値化できないはずのものを数値化し、評価できないはずのものを評価し、単純に白黒つけて、不適当なものを断罪し、除外することを、専門家ばかりか、名もない一般市民までが求められるような瞬間が、ますます多くなって来ているように、私には思われてならない。

 国民投票法案についても、次のような危険性を指摘する声もあるので紹介しておこう。
本当は恐ろしい国民投票法

 さらに、大学評価機構、カルト監視機構、裁判員制度、そういう発想や構図の中に、まるで隣組のように、互いが互いを監視し合い、告発する制度の萌芽を私は見ずにいられないのだ…。もしも隣の家で起こった殺人事件を、私たちが裁く者として選ばれた時、私たちはどこまで冷静に判断を下せるだろうか。いや、それよりも、昔からよく知っているおじさんおばさんを、私たちが裁く立場に立たされるかも知れないことを思い浮かべるだけで、私は何かしら慄然とせずにいられない。これはまさに愛の冷えた時代にこそふさわしい制度であるように感じられてならない。

 それでも、制度が始まった以上、私も裁判員制度にいつ呼び出されるか分からない。そこで今、一つの事件について、いかに違った見解が可能であり、いかに的確な裁きを下すことが難しいかを考えるために、ある事件について振り返ってみたいと思うのだ。

 酒鬼薔薇聖斗事件だ。

 中尾英司氏というカウンセラーが「あなたの子どもを加害者にしないために」というサイトを執筆している。クリスチャンでないが、温かい人柄を持った優秀なカウンセラーらしい、鋭い視点と深みのある考察で、現代の日本の家族を見舞う病理について、数々の例を挙げながら分析している。この中尾氏のブログの題名の根拠となっているのが、酒鬼薔薇事件だ。

 中尾氏のブログは、少年A、すなわち酒鬼薔薇聖斗事件のような凶悪犯罪を起こす少年を、これ以上、世に出さないために、私たちは何をすれば良いのか、という危機感から展開されている。
 氏の説によれば、少年Aがあのような凶行に及ぶに至った最大原因の一つが、Aの家庭環境であった。Aの家庭環境、特に両親の性格や行動を細かく分析することで、中尾氏は少年Aが犯行に至るまでに追い詰められていく心理を解明しようと試みている。緻密な分析がなされており、物語構成も巧みで、読んでいると納得させられてしまう。

 この中尾氏もまた、裁判員制度の難しさについて考察しながら、一連の記事(「仮面の家をあなたは裁けますか?」)を書いている。少年犯罪などでは、それぞれの家庭の抱える、部外者には分からない根深い問題まで、確実に見通した上でなければ、判決を下せない。だが心理学に関して全くの素人である市民に、そこまでの洞察や理解が果たして可能だろうか。そういう難しさが伝わって来る。

 中尾氏の説は全てもっともなのだが、しかし、私はあえてここで、中尾氏の説に根本から対立する一つの疑問を提示してみたいと思っている。
 それは、酒鬼薔薇事件の真犯人は、本当に少年Aだったのだろうか?という疑問だ。

 何を今更、そんな寝言のようなことを言い始めたのか…、と笑われるかも知れない。
 だが、ディベートの手法では、物事を論じる際に、一方の角度だけから論じることは決してない。必ず、肯定と否定の両サイドに分かれて討論を繰り広げ、それを徹底的に比較した結果、どちらの論理に、より信憑性があるかをジャッジが判定を下す。そうすることによって、私たちは一方的な決め付けに陥ることを防ぐことができる。
 このディベートの手法に、私は多くのものを学ばせてもらい、この思考法は、私が物事の判断を下す際の基礎となった。常識であっても疑うべし。全ての物事を両極の立場から考えてみるべし。このディベートの手法をここに持ち込むと、酒鬼薔薇事件の真犯人についても、私たちにはまだ議論の余地が残されていると言える。

 この事件については、かねてからぜひ詳しく記事を書いてみたいと思っていた。が、残念なことに、私は最近、眼精疲労のため、画面を長く見ていられず、あまり熱のこもった記事をしばらく書けないかも知れない。

 そこで、詳細な分析はずっと後になってしまう可能性があるが、ひとまずここに、酒鬼薔薇事件の犯人は、絶対に少年Aではあり得なかった、という立場に立つサイトを紹介しておきたい。

神戸小学生惨殺事件の真相

 恐らく、これを詳細にご覧になられた方は、この事件に再考の余地があることを感じずにいられなくなるのではないかと思う。
 すでに常識として世間に定着している事柄にすら、未だに疑問の余地が残っていたことに気づかされる時、私たちは、他人に向かって石を投げる行為がどれほど難しく、重大な行為であるか、考え込まずにいられなくなるだろう。
 柔軟に物事を考えるための頭の体操としても、ぜひ一度、ご覧になられたい。

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