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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

クリスチャンは神の子か、それとも神の養子か(終)

教会成長論 総括

 さて、あまりにも昔の話になってしまったので、すっかり忘れておられる方も多いかも知れないが、教会成長論についての総括を書いておきたい。
 これまで、手束正昭著『教会成長の勘所』(マルコーシュ・パブリケーション)を手本にしながら、教会成長論の教えがどれほど非聖書的かつ危険なものであるかを指摘してきた。最後の記事では、クリスチャンは神の子か、それとも神の養子かというテーマで話を進めたが、今、このテーマ全体を振り返りながら、氏が述べている「霊の親」の教えの危険性について、話をまとめたい。
 内容はすでに教会成長論という枠組みを超えて、ペンテコステ・カリスマ運動へと広がりを見せようとしている。そこで、教会成長論の分析はこれで終了とし、以後、改めて、議論を続行することにしたい。
 

1.「養子論的キリスト論」はなぜ異端なのか

 手束正昭氏の理論の異端性は、すでに見てきたように、何よりも、手束氏が早くから唱えていた「養子論的キリスト論」の中に最もはっきりと現れている。(これについては、すでに述べたように、『キリスト教の第三の波 ―カリスマ運動とは何か』p.29-35、『続キリスト教の第三の波』p.15-36を参照。)

 「養子論的キリスト論」とは、文字通り、イエス・キリストは神の子ではなく、神の「養子」だったとする説である。なぜなら、手束氏の見解によれば、イエスは、聖霊の力によらずして、本来的に、神の子としての資格と力を持たなかったからである。
 手束氏によれば、イエスを神の高みにまで引き上げたのは、聖霊による受胎、そしてバプテスマを受けて後の聖霊による満たしであり、この聖霊こそが、イエスに神の子たる資格を付与している根源であり、聖霊なくしては、イエスは私達と同じ人間であり、キリストではありえず、神の子としての資格を本来、持たなかった(つまりイエスは本来、神の子ではなかった)ということになる。
 つまり、聖霊なくして、イエスはただの人に過ぎなかった、というのが、手束氏の述べている「養子論的」キリスト論の本質であり、この説は異端とされたネストリウス派の教えの影響を強く受けて生れたものである。

 (ここで、私の言っていることがよく分からない、という人のために、手束氏の著書より、正統派の教えとされたキュリロスの説と、異端の宣告を受けたネストリウスの説の違いについて、もう一度、説明を補足しよう。手束氏は言う、
「ナザレのイエスにおいて無比なる仕方において働いていた聖霊の豊かさこそが、彼をしてキリストたらしめたと言える。
 キュリロスはキリストを聖霊の送り手としては認めるが、担い手としては認めようとしない。アナテマ九項に言う、『イエスの行い給うた奇跡は、イエスが神より享受し給いし聖霊によりて行い給うたものであると思うてはならぬ。何故ならば、この聖霊自体がイエス自身の聖霊であるのである』。

つまり、キュリロスはイエスが人に変化した神であるが故に奇跡をなし得たのであって、イエスと共に働いた聖霊がそれをなしたと考えてはならぬ、聖霊とはキリストの霊であり、キリストから発する、と言うのである。

これに対してネストリウスは、イエスの奇跡は『聖霊とロゴスなる神との間に存在せし連続関係による』のであり、聖霊こそがイエスをして“カリスマティカー”(カリスマの業を行う者)たらしめた原因であることを明確にしている。
 このカリスマティカーなるイエスとの聖霊による連続性は、同じくカリスマティカーとしてのキリスト者を生み出すことを可能にすることになる。もし、あのエペソ公会議においてネストリウスが異端として退けられることなく、その主張がキリスト教会の主流をなしていったならば、それ以後のキリスト教のあり方も俄然違ったものとなり、教会はカリスマ的なダイナミックなものとして生き続けていったことであろうと思う時、私は残念でならない。」『続キリスト教の第三の波』、p.35-36。

 このようにして、手束氏はその理論において、私たちクリスチャンが十字架を通して生まれ変わって神の子とされる必要性を強調するのでなく、クリスチャンが聖霊を受けることによって、イエスに等しい神の養子として引き上げられ、イエスのような「カリスマティカー」としてダイナミックに働くようになることを強調するのである。ここでは、人を生まれ変わらせる力として、聖霊の力だけが強調され、十字架による新生の必要が事実上、否定されていると言えよう。)

 手束氏のキリスト論の異端性は、すでに述べたように、この他、『教会成長の勘所』における、「父なる神、母なる聖霊」という主張にもはっきりと表れている(p.77)。従来の三位一体論には、聖霊を「母なるもの」として捉える見解はなく、三位一体の神は相補関係にあるのではなく、あくまでそれぞれが独立した神の位格であるとされてきた。にも関わらず、手束氏は「父なる神」と「母なる聖霊」とがあたかも相補関係にあって、互いに無い役割を補い合う存在であるかのような説を展開する。そのような考えに立つと、必然的に、二つの神格の交わりから生れたのが御子イエスであるということになる。そのような説に立つと、御子には「父なる神」と「母なる聖霊」への依存性が生じることになり、御子の独立性は成立しなくなる。

 このような説は、イエス・キリストが完全な神であられ、同時に、完全な人としての条件を持って地上に来られたとする従来のキリスト論、従来の正統な三位一体論から完全に逸脱している。カルケドン信条に照らし合わせれば、異端であることは明らかである。
 

2.「養子論的キリスト論」を信じることに伴う危険

 さて、手束正昭氏の「養子論的キリスト論」を受け入れ、それを信奉するようになると、私達の信仰にはどういう危険な変化が起きるのだろうか。

① キリストの十字架上での罪の贖いの否定
 まず、イエス・キリストの十字架上での罪の贖いは、私たちがキリストの神性・人性を完全に認めないならば、効力を持たないことになる。
 もしもキリストが聖霊によらずに単独では神の子たりえず、本来的に人間であったという説に立つならば、私たちにとって、十字架は、神の側から提供された、神の独り子による罪の贖いではなく、人間による犠牲ということになってしまうから、神と人とを和解させる効果を持たないことになる。

 従って、もしも私たちがキリストの完全な神性を信じないならば、私たちはキリストの十字架による罪の贖いを信じていないことになる。なぜなら、聖書ははっきりとこう言っているからである、「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。
 聖書は、キリストが神の「御子、ひとり子」であったと記しており、神の養子であったとは教えていない。キリストは完全に、何一つ欠けるところのない「神のひとり子」だったからこそ、神と人とを和解させる贖いの犠牲となられるにふさわしいお方だったのである。

「神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである」(ヨハネ3:17-18)

 このように、神のひとり子たるキリストを信じない者は、罪の赦しを得ることができず、救いにはあずかれないことを聖書は教えている。従って、「養子論的キリスト論」を信じ、キリストが本来的に神の「養子」であったと考える者が、救いの条件を満たしていないのは明白である。このような教えを信じている者について、聖書は何と言っているだろうか。
イエスを告白しない霊は、すべて神から出ているものではない。これは、反キリストの霊である」(ヨハネⅠ4:3)
御子を信じる者は永遠の命をもつ。御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまるのである」(ヨハネ3:36)


② 神と人との唯一の仲保者としてのキリストの否定

 『教会成長の勘所』によれば、神は人間とは異なる次元に住まう方であり、肉なる人間は、神と直接交信することができないので、神の恵みと救いを受け取るために、信徒は牧師を仲保者として介さなければならない、とされている(p.21)。だが、このような説は、すでに述べたように、聖書が神と人との唯一の仲保者であると教えているイエス・キリストを否定し、人である牧師がキリストに成り代わって神と人との仲保者になろうとする異端の教えである。

「神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる。神は唯一であり、神と人との仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。彼は、すべての人のあがないとしてご自身をささげられた<略>」(テモテⅠ2:4-5)

「キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである」(エペソ2:14-16)

 完全な神であられ、同時に、完全な人となって世に来られたキリストだけが、ご自身の死と復活によって、人を神と和解させることのできる唯一の仲裁者なのである。このキリストを信じることによってのみ、人は神にふさわしく生まれ変わることができる。このただひとりの仲保者、聖なる犠牲の小羊であるキリストを通さずして、私達はたとえどんなに優れた牧師を仲裁者に立てたとしても、決して、神からの救いも、恵みをも受け取ることはできない。優れた牧師も、信徒と同じく、肉なる人間の一人に過ぎず、人を神の国にふさわしく生まれ変わらせる力は十字架の他にないからである。

「だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」、「肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である」(ヨハネ3:3,6)
「自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう」(ガラテヤ6:8)


★本来の正しい教義

正しい教義 キリストだけが神と人との仲保者

★今日広まっている異端の教義

牧師がイエス・キリストに成り代わっている

 教会成長論は、牧師がキリストの代わりに神と人との仲裁者に成り代わろうとし、信徒にキリストへの信仰ではなく、牧師への崇拝を求める教えである。このように、キリストを通さずに、肉なる指導者を介して救いを得ようとする信者が、永遠の命に到達することは決してない。
 

③ クリスチャンが神の子である事実の否定
 聖書は言う、「神は<略>天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、<略>愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである」(エペソ1:3-5)
 このように、私たちクリスチャンは、万物の存在以前から、神の愛によって、神の子供として正式に選び出された。私たちは、父なる神の正統な子供であり、御国の正統な後継者であるがゆえに、救いや、その他諸々の恵みを約束されているのである。

 だが、もしもキリストを神の不完全な子、神の養子としてとらえるならば、私たちクリスチャンもキリストと同様に、神の養子に格下げされ、神の子たる資格と権利を本来、持たない者になってしまう。これは、私たちを子として愛して下さる父なる神の愛を否定することにつながるだけでなく、このような教えを信じていると、信徒は神の国の正式な後継者としての資格をやがて失うのは明白である。

「さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪によって死んでいた者であって、<略>この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて<略>生れながらの怒りの子であった。しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは、恵みによるのである――キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。それは、キリスト・イエスにあってわたしたちに賜った慈愛による神の恵みの絶大な富を、きたるべき世々に示すためであった」(エペソ2:1-7)

 もう一度考えてみよう、私たちの本当の父は誰なのだろうか?
 子供の頃、きっと誰しも一度は、自分が本当に両親の実の子なのか、それとも、継子なのかと、疑ってみたことがあるのではないだろうか。子供にとっては、自分が実の子であるのかどうかという疑問は、アイデンティティの根幹に関わる一大事のように思える。その差が、自分が親から本当に愛されるにふさわしいかどうかを決定する重大な要素のように思われるのだ(もちろん、実子かどうかという一点によって、親の愛をおしはかることはできないのだが、子供の目から見れば、これは重大問題のように思われる)。

 クリスチャンにとっても、同様のことが言える。私たちが誰を自分のまことの父と考えるのかという問題は、実際にはかりしれないほどの重大性を持っている。私たちが、まことの父とは唯一の神であると考えるのか、それとも、実は別な誰かが本当の父親として存在すると考えるのか、その違いは、私たちクリスチャンのアイデンティティを左右するだけでなく、御国の後継者としてのクリスチャンの資格そのものを根幹から揺るがす重大事である。

 仮に手束氏の説に立って、クリスチャンが神の養子であると信じるとしよう。すると、その人間にはどのような将来が待ち受けているのだろうか。聖書を見てみよう。

 パウロは言った、「あなたがたは律法の言うところを聞かないのか。そのしるすところによると、アブラハムにふたりの子があったが、ひとりは女奴隷から、ひとりは自由の女から生れた。女奴隷の子は肉によって生れたのであり、自由の女の子は約束によって生れたのであった。さて、この物語は比喩としてみられる」(ガラテヤ4:21-24)
 神の祝福によって、諸国民の父と呼ばれることが約束されていたアブラハムには、長い間、子が生まれなかった。そこで心配したアブラハムと妻サラは、神の約束の成就を待つのでなく、人間的な思惑によって、ハガルという女奴隷を通して、アブラハムに息子をもうけてしまった。だが、その子は女奴隷の血を引いているわけであるから、アブラハムとサラの正式な子ではない。そして、その後、神の約束が成就して、アブラハムとサラの血を引いた正統な息子イサクが生れた。

 女奴隷とその息子は分を超えて思い上がっていたので、イサクと世継ぎの資格を争うだろうとの危惧があった。そこで、女奴隷ハガルとその息子は、アブラハムの家から追放された。パウロは旧約聖書に記述されるこの出来事を「比喩」としてとらえて、次のように説明する。

 「兄弟たちよ。あなたがたは、イサクのように、約束の子である。しかし、その当時、肉によって生れた者が、霊によって生れた者を迫害したように、今でも同様である
しかし、聖書はなんと言っているか。『女奴隷とその子とを追い出せ。女奴隷の子は、自由の女の子と共に相続をしてはならない』とある。だから、兄弟たちよ。わたしたちは女奴隷の子ではなく、自由の女の子なのである」(ガラテヤ4:28-31)

 ここに私たちは、手束氏の言うような、神の「養子」たちに定められた運命を象徴的に見ることができる。

 十字架によって生まれ変わり、真理に従って歩むクリスチャンたちが、いずれ、偽りの信仰を持つ、律法と肉によって歩む世の子らから迫害されるだろうことについては、イエスも予告している。
人々はあなたがたを会堂から追い出すであろう。更にあなたがたを殺す者がみな、それによって自分たちは神に仕えているのだと思う時が来るであろう。彼らがそのようなことをするのは、父をもわたしをも知らないからである」(ヨハネ16:2-3)。
「あなたがたは両親、兄弟、親族、友人にさえ裏切られるであろう。また、あなたがたの中で殺されるものもあろう。また、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう」(ルカ21:16-17)

 この御言葉は、「私は神に仕えている」と標榜する信者の中に、実は神を知らず、キリストを知らない、肉によって生まれた者が混じっており、彼らが誤った信仰に立って、真の信仰者を迫害するだろうことを示している。このような、「父を知らない、キリストを知らない」信者は、肉に従って歩む者であるから、父なる神によって生まれたのでないのに、子供であると標榜している、いわば、キリスト教の私生児のようなものである。

 だが、私生児の方が、正統な子供たちよりも威厳があるような振る舞いをし、自分こそが最も神の国にふさわしい後継者であるかのように触れ回り、教会の会堂を占拠して、本当の信仰者を次々追い出したりする(というよりも、必ずそうなる)ことを聖書は告げている。

 パウロは、このようなキリスト教の「養子」たちは、いずれ、ハガルとイシマエルと同じ道を辿らなければならないことを告げている。御国の正統な後継者でない女奴隷とその子は、必ず、追い出されなければならないのである。

「聖書はなんと言っているか。『女奴隷とその子とを追い出せ。女奴隷の子は、自由の女の子と共に相続をしてはならない』とある」(ガラテヤ4:30)
イエスも言われた、「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけがはいるのである」(マタイ7:21)。

 このように、神の国の真の後継者は、霊によって生まれ、キリストのものとされ、神の子と約束されているクリスチャンだけである。肉によってはアブラハムの子孫を名乗る資格はないかも知れないが、霊によって、約束の相続人と定められているクリスチャンこそが、御国の相続人なのである。
もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである」(ガラテヤ3:29)。
「このように、あなたがたは子であるのだから、神はわたしたちの心の中に『アバ、父よ』と呼ぶ御子の霊を送って下さったのである。したがって、あなたがたはもはや僕ではなく、子である。子である以上、また神による相続人である」(ガラテヤ4:6-7)

 私たちは、神に向かって「アバ、父よ」と呼びかける特権を与えられた、神に愛される神の正式な子供である。この絶大な特権を、どうして養子という惨めな身分と取り替える必要があるだろうか。そんな必要はどこにもない。


④ イエスの名を通して信ずる者に与えられるすべての恵みの否定
 もしも私たちがキリストの完全なる神性を否定し、神と人との唯一の仲保者であるキリストを否定するならば、私たちは救いを失うだけでなく、神から一切の恵みを得ることもできなくなってしまう。

 「あなたがたが父に求めるものはなんでも、わたしの名によって下さるであろう」(ヨハネ16:23)と、クリスチャンには、御言葉のうちにとどまるならば、イエスの名を通して、父なる神から必要な恵みをいただけることが約束されている。ところが、もし、手束氏の説に従って、クリスチャンがイエスを通して父なる神に祈り求めるのではなく、「霊の父」である牧師を通して、祝福を得ようとするならば、私たちは聖書が約束している恵みを全く受け取ることができなくなってしまう。


⑤ 信徒の牧師への依存や隷従

 さらに、もしも私たちが聖霊を「母なるもの」ととらえ、「父なる神」と「母なる聖霊」を通して生まれたのが御子イエスであると考えるならば、イエスには「父なる神」と「母なる聖霊」への依存性が生じることになる。すると、 同じことが、信徒にもあてはまる。もしも信徒がイエスを通して父なる神に祈るのでなく、「霊の父」である牧師や、「霊の母」である牧師夫人を通さねば神と交われないという教えを信じるようになれば、信徒は、信仰生活全般にわたって、牧師(または牧師夫人)へ依存しなくてはならなくなるだろう。

 聖書は言う、「あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである」(ガラテヤ5:13)。信徒には救いと同時に自由が与えられたのである。しかし、その自由を牧師への依存ととりかえてしまえば、信徒は再び、人の奴隷と成り下がってしまい、この世の掟、肉に従って歩む奴隷の子へと転落し、神の怒りがその上にとどまる生まれながらの怒りの子へ逆戻りしてしまうのである。


 このようにして、教会成長論とは、教会を立派な会堂建築や、多額の献金集めや、信徒数の増加に駆り立てて、教会の権勢を誇ろうとする終わりない競争、「目の欲、肉の欲、持ち物の誇り」というむさぼりの欲に陥れるだけでなく、クリスチャンからイエス・キリストへの信仰を奪い取り、代わりに牧師崇拝を植えつけるものであり、救いを失わせるものであることを見て来た。

 手束氏の教会成長論は、牧師を「礼典的・象徴的存在」として、信徒が下にも置かないほど崇め、牧師を経済的にも何不自由なく厚遇するように教えている。
 だが、そのようにして信徒から尊ばれ、崇められ、もてはやされようとする聖職者に対して、イエスは何と言われただろうか。「あなたがたは、人々の前で自分を正しいとする人たちである。しかし、神はあなたがたの心をご存じである。人々の間で尊ばれるものは、神のみまえでは忌みきらわれる」(ルカ16:14-15)
あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」(ルカ16:13)

 教会成長論の影響を受けて、富に仕えるようになった教会は、必然的に、神を裏切り、神の御前で忌み嫌われる教会となることを、私たちは聖書から十分に学び知ることができる。富に仕え、営利を追い求めるようになった教会が、同時に神に仕えることは不可能である。そしてそのようなむさぼりに取りつかれた教会の中にとどまっている信徒は、実際に、イエス・キリストを否定する誤った異端の教えを信じるようになり、救いを失っていくのである。

 正統な教義にはっきりと反しているにも関わらず、このような教えを吟味もせずに取り入れた結果、はかりしれない悪影響を受けた教会は多いと考えられる。『教会成長の勘所』は、ペンテコステ・カリスマ運動の影響を受けた多数の教会で好意的に迎えられた。同書の裏表紙に推薦の辞を書いているのは、全日本リバイバルミッション代表 日本教会成長研究所全国講師 有賀喜一氏である。長年、講壇に立って信徒を教えてきたはずの牧師が、この書物の明らかな異端性をどうして見破ることができず、一方的な賛辞を送っているのか、驚く他ない。

 ところで、私は異端に関する分析は興味本位で行われてはならず、ある説を異端であると宣言するためには、慎重な分析と、十分すぎるほどの根拠が必要になると考えている。そこで、手束正昭氏の説を詳しく分析するために、私はこれまでにもかなり長い記事をいくつも書いてきただけでなく、氏の著書の大半を自費で購入したことをお断りしておきたい。

 特に、私の手元にある『教会成長の勘所』は、幸運なことに(!?)手束氏の直筆のサイン入りであり、「主を畏れよ!2008.8.31」とある。
 だが、その言葉はそっくり著者に返そう。主を畏れるべきなのは、一体、誰なのか、諸教会とクリスチャンは今、改めて考えてみる必要があるだろう。

 メガ・チャーチを目指した多くの牧師たちが、『教会成長の勘所』を手本にして、教会運営を目指し、誤った道に堕ちて行っただろうことが憂慮される。営利優先の教会運営に走って、多数の信徒を傷つけ、食い物にした沖縄の諸教会も、恐らく、この書物の影響を強く受けていたのではないかと私は想像している。

 しかしながら、『教会成長の勘所』が諸教会にもたらした悲しい影響はこれだけでは終わらない。この著書においては、この他にも、セル・チャーチ論、悪霊追い出しの理論等、ペンテコステ・カリスマ運動において重要な役割を果たしたいくつかのプログラムについての分析が進められており、いずれも一読しただけで、大きな危険性を含んでいることが感じ取れる。だが、そのことについては稿を改めて論じることにしよう。

 繰り返すが、教会成長論を信じてはならない。このような教えに影響されてはならない。私たちクリスチャンにとってのまことの父、まことの教師は、天にお住まいになられる神ただお一人である。それを「霊の父」としての牧師と取り替えようとするような教えを信じてはならない。

 私たちは神の子とされている貴いアイデンティティを忘れないようにしよう。クリスチャンは聖霊を受けることによって、イエスに並ぶ「カリスマティカー」とされることによって、御国にふさわしくなるのではなく、バプテスマを受け、十字架を信じて新生し、聖霊によって生まれ変わることによって、キリストと同じく神の子としての資格を与えられ、御国にふさわしい者へと変えられるのである。
 十字架による生まれ変わりには、華々しい奇跡や、五感で感じられるダイナミズムは伴わないかも知れない。だが、たとえ肉体的な感覚が何一つ伴わなくとも、人の罪を贖い、人を生まれ変わらせる力は、イエスの十字架にしかないことを、私たちクリスチャンは聖書を通して確かに知っているのである。

「あなたがたは、みな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。」(ガラテヤ3:26-27)

 私たちはキリストへの信仰にとどまり、そこから一歩も外へ出ないよう注意しよう。教会はキリストの御身体として機能する時にこそ、調和の中で、麗しさを発揮するのであって、キリストを否定し、キリストを捨て去った教会成長論の影響を受けた教会が、正常な機能を失い、やがて崩壊に至ることは疑いがない。そのような教会では、信徒は傷つけられ、救いを失って、絶望の中に投げ出されていくだろう。
 教会成長論は教会をカルト化させ、信徒から救いを奪う危険な教えである。そのことを、今までの記事の中で十分にご理解いただけたならば幸いである。
 

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