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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

完全な恵みの中で

 一週間ほど前に、近所の田んぼには水が引かれ、小さな苗が植えられた。今、我が家の前に広がっている田んぼは湖面のようで、風が吹くごとにさざなみが立って美しい。

 今日は井倉洞に行く予定を立てていた。子供の頃、祖父に連れられて行った記憶がおぼろげにある鍾乳洞だ。近々、友人がひょっとすると家に遊びに来てくれるかも知れないので、下見をしておこうと思ったのだが、ホームページを見ると、豪雨のため落石が起こり、入洞禁止とのこと。残念…。

 さて、今日は地元で撮影され、私が興味を持っている映画を一本紹介したい。私はまだ観ていないが、全国ではすでに上映が始まっている地域があるそうなので、関心がある方はぜひご覧下さい。

 映画「精神」は、「こらーる岡山」という、岡山市にある外来の精神科診療所で、実際の患者を対象として撮影された。
「映画が撮られ始めたのは小泉政権のもと、『障害者自立支援法案』が可決された2005年秋。
『自己責任』や『受益者負担』のかけ声のもと、福祉政策や社会構造が激動期に突入し、患者たちの生活や将来の展望に不安が増していた。『精神』は、社会の転換期を如実に切り取る作品にもなったのだ。

監督は、ニューヨーク在住の映画作家・想田和弘。前作『選挙』に続き、ナレーション・説明・音楽一切なしで、観客が自由に考え、解釈できる作品を完成。『被写体にモザイクをかけると、偏見やタブーをかえって助長する』と考えた監督は、素顔で映画に出てくれる患者のみにカメラを向け、人間として鮮烈に描き出すことに成功した。
本作は、08年の釜山国際映画祭とドバイ国際映画祭で最優秀 ドキュメンタリー賞を、マイアミ国際映画祭で審査員特別賞を、そして香港国際映画祭で優秀ドキュメンタリー賞を受賞し、 既に4冠 を達成。ベルリン国際映画祭(09年)にも『選挙』に続き正式出品され、世界中で絶賛されている。」

 小泉政権以来、日本社会には、合理化の強い圧力が上からかけられている。終身雇用制を含む、伝統的な制度と価値観が崩壊し、それに代わって、至るところで、厳しい競争原理が導入され、日雇い派遣、派遣切りなどの問題が続出している。だが、そのような非人間的なまでの合理化の圧力に対して、元来、不合理な部分を含む人間性は、必ず反乱を起こすものだ。それは不適応や、病や、脆さ、弱さとなって現れる。今や年間の自殺者が三万人にも達している日本社会で、鬱病など心の病は誰にとっても、他人事ではなくなっており、人間の変えられない弱さ、非合理性を体現している一つの集団が、精神障害者たちであると言えよう。

 映画「精神」は、精神障害者に直接、スポットライトを当てることによって、極端な合理化の波に見舞われた現代日本社会の中で、圧迫され、行き場を失い、叫び声をあげている人間性そのものを象徴的に描き出していると言えるだろう。上映されれば必ず観に行こうと私は考えている。
 

* * *

 さて、今、日本社会だけでなく、ニッポンキリスト教界も、刻一刻と殺伐とした場所に変わりつつあるように感じられる。営利を優先した過酷な競争社会となり果てたキリスト教界は、カルト被害者を含む、数え切れない脱落者の信者を今も生んでいる。だが、人間を大切にしない、利益優先の競争原理は改められているようには見えない。

 その上、カルト対策、異端の排除等の美名に名を借りた、別種の圧力がキリスト教界に介入している。こうして、信者同士が互いに断罪し合い、互いに罪をなすりつけあい、互いの正当性を誇って、互いを滅ぼし合う殺伐とした場所がキリスト教界となりつつある。
 キリスト教界全体が、まさに血塗られた戦場のような場所へと変わりつつあるように私には感じられてならない。いくつもの対立する集団が、互いに異端のレッテルを貼り合って、互いに根絶し合うような時が間もなく来るかも知れない。すでにその兆しのように、浅はかな勧善懲悪の構図に基づいた異端バッシングと、一触即発のような緊張した空気が、各種キリスト教系のメディアに漂っているように感じられる。

 異端という言葉が独り歩きすることを私たちは十分に警戒しなければならない。異端を異端であると告発するためには、分厚い調査報告書のような、十分な論拠が必要となるだろう。異端に関する判断は決して、軽率に行われてはならず、極めて慎重に行われなければならない(だからこそ、それは本来、専門家が行うべき仕事であると私は考えるのだ)。
 だが、今日、異端を告発しているメディアのうちどれほどが、信頼するに足る十分な根拠を提出した上で、異端の教えを糾弾しているだろうか。たった2行や3行程度の短い文章で、満足な証拠の提出もないままに、長年、存続してきたどこかの教会に、あるいは誰か特定の信者に対して、異端のレッテルを貼りつけられると考えている人がもしあるとすれば、それはあまりにも軽率な考えであるだけでなく、はかりしれないほど危険な行為であると言えよう。

 私はこれまで、キリスト教界の未来が大変、危険なものになるだろうという予測を様々な形で述べて来たが、そこには教界のカルト化の危険性だけではなく、カルト対策に名を借りた異端への抑圧行為が暴走することの危険性も含まれている。すでにキリスト教メディアにおいて、カルトや異端について警告するという名目でのバッシングが暴走するきざしが見えていることを私は感じているが、この先、教界内に何らかの公式の抑圧機関、異端審問機関が生まれる可能性も、まだ完全に消えたわけではないと思っている。恐らく、このような計画は、一旦、提出された以上、たとえ考案者とは別人の手によってであっても、何度でも再燃し、いつかは実現するものだと感じざるを得ない。

 歴史を振り返っても分かることだが、社会を一元的な価値観の下に統制しようとする様々な計画は、熱狂的に統一的な秩序を夢見る者たちの粘り強い努力によって、長い時を越えて、実現されて来た。だから、キリスト教界において、やがていつか一元的な秩序と、公式の異端抑圧機関が生まれることは、不可避の結果であるように私には思われてならない。だが、そのようなものによって人間を解放することは決してできない相談であるから、もしもそのような統一的な秩序が教界内に出来上がれば、それは反人間的な制度となり、教界に属しているあらゆる信者にとっての抑圧となるだけでなく、教界に属していない、私のような、はみ出し者の信者にとっても、大きな脅威となって迫り来るだろう。

 神は人間一人ひとりに自由意志を与えられた。人間の自由は侵しがたいものであり、人間の尊厳の根底に横たわる、どんな暴力によっても取り除かれてはならないものである。人には、多様な価値観の中から自分が好むものを取って生きる自由が与えられており、たとえある信者が異端の教義を選んだとしても、神がその人から力づくで選択の自由を奪われることはない。それは神が人を創造した初めの時点から、人に内心の自由を与えておられるからである。

 従って、キリスト者がキリストに服するのは、あくまで本人の自主性によるものでなければならない。神は自主的な礼拝を喜ばれるのであって、強制された回心や、強制された礼拝は、神を喜ばせる聖なる捧げ物にはならない。キリストは十字架上の死を通して、人間を律法による罪の奴隷状態から解放した。福音の本質は自由であり、律法主義からの解放であり、強制ではなく、自主的な献身と服従である。
 神が与えられた自由を、人間に奪う資格がないことは明白である。

 ところが、昨今、この神の与えたもうた自由を人間から取り上げて、外的影響力を通して、人間の悪なる部分を矯正するために、極端な律法主義をあてはめようと叫ぶ声がキリスト教界に顕著に現れて来ているように私は思う。それは日曜礼拝の厳守というような、我々が諸教会でよく耳にしてきた比較的緩やかな教えから、モーセ律法に基づく石打刑の復活という極端に残酷な教えまで、内容は様々であるが、実に危険な傾向として観察される。
 さらに、現在のカルト対策のあり方も、これと同一線上にあると見てよいだろう。

 今、キリスト教界には目を覆いたくなるような不祥事が広がっているが、このような無秩序な混乱に飽き飽きした信者たちは、自分たちが何を望んでいるのか全く分からないままで、統一的な秩序を打ち立ててくれる強力なリーダーの登場を待ち望み、その登場を歓呼して迎えたい心境になっているのではないだろうか。教会の不祥事が一つまた一つと暴露される度に、自分の代わりに手っ取り早く悪を成敗してくれる誰かを求め、その人間に一票を投じたいとするクリスチャン大衆の欲求が、日に日に強まっているように私には思われてならない。

 大衆は「カルト対策をやってくれる誰か」を求めている。無秩序状態に終止符を打ってくれ、自分が望んでいる正義を手っ取り早く体現してくれ、散らかった机の上を自分の代わりに片付けてくれそうな誰か、面倒かつ複雑な問題に、自分に代わって着手してくれる聡明な誰か、望んでいる理想的な秩序を、早急に打ち立ててくれそうな誰かを求めているだけなのである。

 大衆は、自分自身がその問題に着手しないでいられる怠慢を確保するために、自分の代わりに働いてくれるリーダーを常に待ち望む傾向を持っている。そういう他人任せな、身勝手な期待が、これまでにもさんざん、キリスト教界において、自称預言者、自称牧師、自称カルト専門家などが活躍する土壌を作ってきたし、それこそが、いかがわしい偽牧師や偽教師の活躍を支える培養土となってきたのである。従って、カルト対策に関しても、もしもクリスチャンがそのような無責任かつ身勝手な心理だけに基づいて、リーダーを求めるならば、ろくな結果を生まないだろうことは誰しも予想できる。

 異端の教えは確かに警戒しなければならないが、異端を排除するという名目で、人の自由までが圧迫されるようなことはあってはならない。その意味で、異端の取り締まりを唱えて登場してくる「正義の味方」をも、私たちは十分に警戒し、吟味しなければならないのである。
 聖書は、クリスチャンが異端に対して力づくの闘いを挑むことで、信者を無理やり解放するようにとは教えていない。異端団体から力づくで信者を奪回したり、異端団体に対して訴訟を起こしたり、異端の教会を取り潰して、土地と財産を没収したり、異端者を火刑に処したり、異端文書を徹底的に焚書にすることによって、異端団体を地上から根絶し、ただキリスト教的な秩序に基づいた一元的な世界を残すようにとは、聖書は教えていない。

 聖書が教えているのはあくまで、異端を警戒し、異端から離れ去りなさい、ということと、罪のない者がまず先に石を投げなさい、ということである。異端に対して、私たちクリスチャンは、十分な証拠を集めた上で、平和的に警戒を呼びかけることは許されるが、それ以上に、石を投げること(つまり、裁判を起こしたり、暴力を用いたりして、異端者の生活の糧を奪ったり、異端団体を根絶したり、異端者を死に追いやるなどのこと)はクリスチャンに許されている行いではない。

 異端の教えに陥った信者は、正しい教えを信じるクリスチャンから絶縁されてしかるべきだと思うが、それ以上に迫害されるべきではない。異端者がもしも新しい宗教を開いて、そこに活動の場を見いだそうとするならば、それは止めてはならないことだと私は思う。
 だが、今日、キリスト教徒を名乗るある種の人たちには、異端者への処遇について、一線を踏み越えて、サディズムに落ちようとしている危うさが感じられるように思う。異端を静かに批判し、排除することではなく、異端を絶滅することを目的に活動している人たちがいるのではないだろうか。さらに不十分な証拠に基づいて異端のレッテル貼りが行われていることについて、私は憂慮している。

 クリスチャンの目的は異端への警戒と異端からの分離であって、異端の根絶ではない。聖書に基づいて、十分な議論を重ねた上で、異端団体と分離することが必要なのであって、十分な証拠の提出もないままで、一方的に誰かに異端のレッテルを貼って、異端者とされた人に危害を加えたり、異端団体と取っ組み合って、どちらかが勝つまで、徹底的に闘争を続けることが必要なのではない。
 そのことをよくわきまえておかなければ、クリスチャンは自分も罪人の一人に過ぎないのに、罪を犯した人間を石で撃ち殺すということを、今でも、平気でやってしまいかねないのである。しかもそれが集団的なサディズムに発展していく危険性を否定できないのである。

 あらゆるカルト団体の教えには、極端な律法主義の再来、つまり、十字架を通さない、外側からの人間の改造と浄化の試みが含まれている。だが、今日の著名なカルト対策のあり方にも、それと全く同様の危険が含まれていることに私は恐怖を覚えずにはいられないのである。
 たとえ異端の取り締まりという名目であっても、外側からの圧力によって人間を変えようとする試みは、十字架を通しての生まれ変わりという、キリスト教の教義とは相容れないものであり、キリストの与えたもうた自由を、再び律法の奴隷というくびきに取り替えることを意味する。裁きや、処罰といった強制力によって、人間性を変えようとする試みは、実際に罪を処理し、人間を変える力を持たないだけでなく、人間に与えられた自由の領域に侵入し、自由を奪い取る行為である。
 その意味で、この世の力学を用いて、カルトを抑圧・根絶しようとしているカルト対策のあり方は、まさに人間性そのものに対する脅威だと私は感じざるを得ない。

 この問題は極めて深刻であると思うので、今後も続行して訴えていかねばならないと思うが、今は、このことについて、これ以上、声を大にして訴えるのはやめて置こう。

 不思議なことに、心に平安が満ちるに連れて、キリスト教界において繰り広げられる殺伐とした事件に、私は興味を持てなくなってきた。カルト化教会の悪事を見逃すべきでないと主張する人たちは多く、私もそう考えていた一人であったが、かといって、律法主義を律法主義によって斬る試みに一体、どんな将来の希望があるというのだろうか。

 大切なのは、キリストの下さる愛と平安を私たちが十分に享受し、キリストの与えたもうた自由をしっかりと受け取り、放さず手中につかんで生きることだ。つい最近まで、私は臆病者、卑怯者になるくらいならば、勇敢に悪事を告発し、そのために命をいくつ投げ出しても惜しくないと思っていたが、クリスチャンの第一義的使命は、悪との闘いにあるのではなく、神と隣人を愛して、助け合って生きていくことにある。

 こんなことを言うと、誰かさんに早速、食ってかかられそうな気がする。
「あなたは本当に不真面目で意見がころころ変わる移り気な人なんですね、一体、あなたは誰の味方なんですか、本当に正義を望んでいるんですか、カルト被害者の心情に配慮する気持ちがあるんですか!?」
 その質問にはこう答えよう、
「ご指摘の通り、私は今、被害者の感情を全く考えていないと思います。私はこれまで自分がカルト被害者のつもりでいましたし、確かに相当の被害を受けたので、そう言うだけの根拠はあったでしょう。自分と同じ苦しみを味わった人のために、できる限りのことをしたいと願って来たことは確かです。

 けれども、私はもうこれ以上、自分を被害者とは呼べないだろうことを感じます。失望させていたらごめんなさい。冷たい人間と思われても構いません。でも、私にとって今、一番重要なのは、弱者の正義ではなく、主ご自身が何を正義とされ、何を喜ばれるかという点なのです。

 どういうわけか、私は主にあって、急に被害者ではなくなってしまったことを感じます、私は完全に贖い出され、完全に買い戻されたのです。私は完全にされ、訴えるべき被害がもうなくなったのです、ですから被害者と同じ感情を共有することができなくなってしまったのです。奪われたもののために涙し、奪われたもののために立ち上がるということができなくなったのです。虐げられた弱者の正義を訴えることに、関心がなくなったのです。なぜならば、私に与えられた恵みは完全だということを全く否定できないからなのです…」

 私の過去は変わらないが、私には嘆かなければならない被害と損失がもうなくなってしまった。嘆きも、恐れも、義憤もなく、今は、キリストの与えて下さった命の豊かさが私の心をとらえて離さない。だから、カルト、アンチカルトのどちらの陣営の訴えにもほとんど関心はないし、それを告発する作業も、しばらく脇に置いておきたい。

 こんな風にして、カルト被害者の戦線から離脱しようとしている私を、愚か者、臆病者、変節者、裏切り者、冷血漢、等々の名前で呼ぶ人があるかも知れないが、そうなっても構わない。魂に暗闇をもたらす諸々の闘争から抜け出し、命ある喜びに引き入れられたクリスチャンは幸いだと思う。

 ヨブの例を思い出してみればよい。カルト被害者の被害を何倍にもして償うことができるのは、神ご自身である。まことの裁き主、癒し主であるイエス・キリストに立ち戻る時、被害者はもはや被害者でなく、受けた被害を補って余りある祝福を受け取ることができると私は確信している。

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