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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

誇るなら、弱さを誇ろう

「そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。
このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。
ところが、主は言われた、『わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる』。
それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱いときにこそ、わたしは強いからである」(コリントⅡ12:7-10)

人は誰でも弱さを持っている。人前では一生懸命、強いふりをしていても、弱点を持たない人は一人もいない。私は二人の信徒から全く同じような苦労話を聞いた。それは、彼らが人前で話すことを苦手としていたにも関わらず、牧師になるように教職者に願われ、説教を担当させられ、それが本当に嫌で嫌で仕方がなく、ついに逃げ出すようにしてその奉仕をやめたという話であった。

私にはその人たちの気持ちが痛いほど分かるような気がする。なぜなら、私も社交家でないからである。もし人の能力を円グラフのようにして示すならば、いびつな図が出来上がらない人がいるだろうか? ある面では、人並み以上の力を発揮できる人も、他の面では、人の半分以下の能力しか持っていない。そういうことはよくあることだ。

自分の弱さを思いされる瞬間は、私にとっても、必ずしも楽しいものではないが、それでも、近頃は、キリストの力が私の弱さに染み渡り、そこにこそ働いてくれることが分かるので、以前のように、弱点を気にかけたり、それを自分の力で補おうと努力せずに済むようになった。気楽に構えるというところまでは行っていなくとも、ケ・セラ・セラ(露語ではАвось!)くらいの気構えにはなっている。

キリストを知って心から良かったと思うことは、もうこれ以上、頑張らなくて良いことである。弱さは弱さのまま置いていいのである。人が私の弱さに対してどのような感情や反応を示すかということに、私は責任を持たなくて良いのである。キリストが私を無条件に愛して下さったので、私は人から愛されるために、自分を強くみせかける演技を絶え間なく続けるようなむなしい努力の必要性から解放されている。

今はむしろ、自分の弱さを自覚するときに、「ここにキリストが働いて下さるんだな」と気楽に思えるようになった。人がどんな反応をしようと構わない、ただ主が「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」と言って下さっているので、その御言葉に安らぎ、自分をそのまま受け入れることができるようになった。

過去には、弱さについての記憶は思い出したくないもの、あるいは恥ずべきものととらえられていたかも知れないが、主イエスが与えて下さった福音を思う時、その弱さがあればこそ、神の強さに出会うことができ、神の強さに覆われて、自分で達成不可能な努力をして苦しむことなく、主がすべてをなしてくださるという生き方に変わることができたことをまことに幸いに思う。

聖書を開き、その一ページを読むだけで、主がどれほど私を愛して下さったかという証拠がいくつも目に飛び込んで来る。まるで芳しい香水を吸い込むように、私はその言葉を飲み干す。他に何も要らない。どんな人の賞賛の言葉も、どんな人の愛の言葉も、御言葉が与えてくれる約束の力にはかなわない。たとえ全世界から存在を否定されたとしても、一体、それが何だろうと思うほどの圧倒的な御言葉の威力。

「わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱いときにこそ、わたしは強いからである」

パウロがそう言ったのは、「私はキリストのためにこれほどのものを捨てたのだ」と人前で誇るためではなかった。ただ、主への愛からそうしたのだった。私も同じようにしたい。キリストのために華々しく殉教し、聖徒の模範のように生きることを目指すのでなく、ただ主への愛から、すべてを捧げたいのだ。

私に残されている人生の時間も、能力も、レプタ一枚程度のものでしかないかも知れない。だが、残るもの全てをただ愛によって捧げるならば、主は喜んで私の差し出したものを受け取って下さるだろう。主が喜んでくださるなら、私は自分の命そのものを捧げて構わない。私の命も、すべてはもとより主からの借り物なのだ。どうせいつかお返ししなければならない時が来るならば、それを自主的に今、主にお返しすることで、主が少しでも喜んでくださるなら、私はぜひそうしたいと思う。

「キリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう」

以前はただ自分で自分の弱さを克服しようと不可能な努力をして苦しんでいただけの人も、今はその弱さをキリストのために役立てることができる。その恵みを感謝したい。

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