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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

ジョン・バニヤン著『天路暦程』より抜粋(2)

[あらすじ]
主人公の基督者は十字架のもとで罪赦されて重荷を降ろし、新しい服を着せられ、額に印を受け、封印された巻物を受け取った。その後、引き続き、天の都、シオンの山を目指して信仰の旅を続ける。道中、様々な困難に見舞われながらも、信仰者という道連れを得る。
しかし、空の市を通り過ぎる際に、二人は市場に騒乱を引き起こしたかどで無実にも関わらず、逮捕、投獄され、信仰者は火刑にされて殉教した。基督者だけが釈放され、旅を続ける。
物語は、著者ジョン・バニヤンが夢に見ているという設定。


「さて、私が夢で見ていると、基督者は一人で進んで行くわけではなかった。有望者という名の者が(市場での基督者と信仰者の言動と受難を見て希望を抱くようになって)彼といっしょになり、兄弟の契りを結んで、道連れになろうと語った。こうして一人は死んで真理への証を立てたが、また一人がその灰の中から甦って、基督者の巡礼の道連れとなったのである。この有望者は基督者に語って、市場の人々の中には折を見て彼の跡に従おうとする者がまだ沢山あると言った。

 こうして私が見ていると、彼らは市場から出るとじきに前に行く人に追いついた。その人の名は私心者であった。そこで二人は彼にどこの国のお方でしょうか、どこまでお出かけになりますかと聞いた。彼は二人に答えて、自分は巧言町から来たもので、天の都へ行こうとしていますと言った(が、自分の名は告げなかった)。

 巧言町からですって、と基督者は言った、そこにはだれか善い人が住んでいますか。
 私心者は言った、はい、いると思います。
 失礼ですがお名前は、と基督者が尋ねた。
 私心者 あなたも私も互いに他人です。もしこの道を行かれるならば、喜んでお供いたしましょうが、さもなければ、一人でもしかたありません。

 基督者は言った、この巧言町のことはわたしも聞いたことがあります。何でも私の記憶しているところでは、富裕な町だそうですが。
 私心者 そうです、確かにそのとおりです。私もそこには沢山金持ちの親戚があります。
 基督者 失礼ですが、お差支えなかったら、ご親戚というのはだれでしょうか。
 私心者 ほとんど町中の人です。とくに、移気候、日和見候、巧言候(このお方の先祖から初めあの町の名をとったのですが)、また円滑氏、二心氏、何でも御座れ氏、また私たちの教区の牧師である二枚舌氏は母の腹違いの兄弟です。
それで実を申せば、私は身分のよい紳士となっていますが、私の曾祖父はただの船頭で、一方を向きながらそれをと違った方向へ漕げる人でした。私の身代も大部分は同じ仕事でもうけたものです。

 基督者 あなたは家庭をお持ちですか。
 私心者 はい、私の家内は実に貞淑な婦人の娘です。佯装(みせかけ)夫人の娘なので、非常な名門の出です。非常に高い教養に達していますので、王侯でも小百姓でも、どんな人の前に出ても、振舞う道をわきまえています。なるほど厳格な向きの宗教とは幾分異なっていますが、それはほんの二つの小さな点だけです。
第一に、私達は決して世の風潮にさからわないことです。第二に、私たちは宗教が景気がよくて銀のスリッパをはいているときにはいつも一番熱心です。日が照って、人々が宗教をもてはやすなら、それといっしょになって街を歩くのが大好きです。

 そのとき基督者は少し側によって仲間の有望者に言った、これは巧言町の私心者という人のように覚えています。そうだとすれば、私たちはこの界隈に住むしたたかな悪党と道連れになったわけですよ。
すると有望者が行った、聞いてご覧なさい。自分の名を恥はしますまい。
そこで基督者は再び追いついて言った、あなたは事柄によっては、世間のすべての人々より物知りなようなお話し振りですね。見当違いでなければ、ほぼ察しがついたように思われます。お名前は巧言町の私心氏ではありませんか。

 私心者 これは私の名ではありません。実は、だれか私に我慢のできない人がつけたあだ名です。それで私は仕方なしにそれを非難として我慢しているのです。ちょうど私より以前にも他の善人たちが我慢したようにね。
 基督者 ですが、人からそんな名前で呼ばれるような事をした覚えはないのですか。
 私心者 いやもう決して。私がこういう名で呼ばれる覚えのあることといったら、せいぜいこんなところですよ、つまり当時の時代風潮がどんなものであろうと、私の意見はいつも運よくそれと符号したことで、たまたまそれで得をしたというわけです。しかしいろいろな物がこんなふうに舞い込んでくるなら、それはありがたい授かり物と考えたいですね。そのために意地悪連中から非難を浴びせかけられるのはご免ですよ。

 基督者 実際あなたはうわさに聞いていた方だと思いました。私の思うとおりを申し上げると、この名はあなたが望まれる以上にぴったりではないでしょうかね。
 私心者 なるほど、そのように想像なさるというなら、しかたはありませんよ。もしまだお付き合いを許して下さるなら、私も相当な仲間だということが分かりましょうがね。
 基督者 私たちといっしょに行くと、世の風潮に逆らって行かねばなりませんよ。ですが、それはご意見に添いそうもないですね。宗教が落ちぶれてぼろを着ているときにも、栄えて銀のスリッパをはいているときと同様、それを認め、また鉄の足かせに縛られている時にも、歓呼の声を浴びて街を歩く時と同様、それを支持しなくてはいけませんよ。

 私心者 信仰はこれを押しつけたり、抑えつけたりしてはいけませんな。私の勝手にさせていっしょに行かせて下さい。
 基督者 私が提議することを、私たちと同じようにやろうとしないなら、これから先一歩も行けませんよ。
 そのとき私心者は言った、私は昔からの主義を決して捨てませんよ、それは無害で有益なのですから。ごいっしょに行けないのなら、あなた方に追いつかれない前にしたようにする、つまり独りで行くよりほかはありませんな。そのうちだれか私と道連れになるのを喜ぶ人が追いつくでしょう。

 さて、私が夢で見ていると、基督者と有望者とは彼を見捨て、大分離れて先に立って行った。ところがそのうち一人が振り返って見ると、三人の人が私心者に従って行くのが見えた。すると見よ、三人が彼に追いついたとき、彼がきわめて丁寧な会釈をすると、彼らもまた挨拶をした。人々の名は現世執着氏、愛銭氏、吝嗇氏で、私心氏が以前知り合いであった人々である。

彼らは少年時代には学校友だちで、北国の欲張州の愛利町という市場のある町で校長をしている掴取(つかみどり)氏によって教えられたのであった。この校長は、暴力、詐欺、追従、虚言によるか、それとも宗教の仮面を被ることによって、もうける術を彼らに教えた。この四人は先生の術を大いに会得して、このような学校をめいめい自分で経営することができた。

 ところで先にも言ったように、彼らが互いに挨拶した後、愛銭氏は私心氏に、前の方に行く人たちはだれですかと言った。基督者と有望者とはまだ視界のうちにいたのである。

 私心者 あの二人は遠国の者で、自分の流儀で巡礼をしているのです。
 愛銭者 それは惜しい。どうして待たなかったのでしょう。私たちは彼らのよい道連れになれたでしょうになあ。彼らも、私たちも、それからあなたもそうでしょうが、皆巡礼をしているのですからね。
 私心者 そのとおりです。しかし前に行く連中ときたら、それは頑固で、自分の考えにばかり固執して、他人の意見なんか非常に軽んじるのです。どんなに信心深い人でも、万事につけて彼らと一致しなければ、まったく仲間はずれにしてしまうのです。

 吝嗇氏 それはいけないな。『義に過ぎた』者のことを読んだことがあるが、こんな連中は頑固になるために自分以外のすべての者をさばいて、罪に定めるのさ。ところでお伺いしたいが、意見が合わなかったのはどんな事で、どのくらいでしたかな。
 私心者 いや、あの連中ときたら、その頑固な流儀で、天候はどうあろうと、むやみに旅を急ぐのが義務だときめ込んでいるのですが、私は風向きと潮流を待とうというのです。彼らは神のためにすべてを一挙に賭けるという方で、私はあらゆる機会を利用して生命・財産を守ろうという方です。彼らはたとえ他人がことごとく反対しても自分の意見を固執する方ですが、私が宗教にくみするのは、時代とわが身の安全がそれに耐える場合、またその限りにおいてです。
彼らは宗教がぼろを着て軽蔑されているときでもそれを支持しますが、私が味方するのは、宗教が金のスリッパをはき、日の照る中を歓呼を浴びて行くときだけです。

 現世執着氏 そうだ。いつもそこを固執し給え、私心者君。ぼくなど、彼はばかだとしか思われないね、自分の持物を保つ自由を持っていながら、愚かにもそれをなくそうというんだから。
われわれは蛇のように賢くなろう。日が照っているとき乾草をつくるのが一番いいのだ。蜜蜂は冬中はじっとしていて、愉快に利益が得られるときだけ活動するからね。神は時に雨を降らし、時に日光を送られる。たとえ彼らが愚かにも雨の中を行こうと、われわれは甘んじて天候のよい日を選んで行こう。

ぼくとしては、われわれに対する神のよい祝福の保証と一致するような宗教が一番好きだね。理性に従う者なら、神がこの世のよいものを賜ったのに、それを保持するのを神が好まれないなどとだれが思うだろう。アブラハムもソロモンも宗教で金持ちになり、ヨブも、善人は塵のように黄金を積むと言った。
しかし善人とは、前方に行くような人ではない、君の言うような人たちだとすればね。

 吝嗇氏 この事では皆意見が一致して(る)から、これ以上語ることはないと思うね。
 愛銭者 そうだ、実際これ以上語る必要はない。聖書も理性も信じない者は(この二つはわれわれの味方なんだからね)自分の自由を知らず、自分の安全を求めもしないものさ。

 私心者 諸君、ご承知のようにわれわれは皆巡礼の道中だから、悪い事柄からもっとよく気を紛らすために、次のような問題を提起するのを許していただきたい。
 たとえば、一人の人が、牧師でも商人でも他の者でも、この世のよい祝福を得る機会を目前に持っているとする。ところがそれは彼がこれまで関係しなかった宗教上のある点で、少なくとも上べだけでも、特別に熱心にならなければ決して手に入れることができないようなものだとする。この人はその目的を達するためにこれらの手段を用いてもなおまっ正直な人と言われないだろうか。

 愛銭者 問題の本意が分かった。諸君の許しを得て、答えを作るよう骨折ってみよう。まず第一に、牧師自身に関する質問に対して答えるなら、かりに牧師がりっぱな人でありながらほんの少ししか俸給を受けていないとする。そして遥かにゆたかな俸給を望んでいて、今やそれを手に入れる機会はあるが、もっと勉強し、もっと数多く熱心に説教し、また人々の気質が要求する以上は、多少自分の主義を変えなければ手に入らないとする。
私に言わせると、(彼が召命を受けているなら)そうやったって少しも構わない、いや、そのほかもっと沢山やっても、やはり正直者だ。というのは、

 一、一層大きな俸給が神慮によって目前におかれた以上、それを望むのは正当だよ(これに反対はできない)。だから、できればそれを手に入れてもいいわけだ、良心のために疑問など起こさないでね。
 二、のみならず、そういう俸給を欲する心から彼は一層勉強し、一層熱心な説教家になり、こうして一層よい人間になる、いや、彼の才能は進歩する。それは神のみ心にかなうことだ。
 三、さて信者たちに役立つよう、自分の主義を多少曲げて、その気質に従うことについて言えば、これは次のことを証明する。
(一)彼に克己心があること。(二)優しくて人を引きつける態度があること。したがって、(三)聖職に一層適していること。

 四、そこで結論を言うと、少ない俸給を大きなのと取り換える牧師は、そうしたからといって欲張りだと判断してはならない。いやむしろ、それによって才能と勤勉とを増進した以上、彼は自分の召命を励み、授けられた善をなす機会を追求する者として考えるべきである。<略>

 このように愛銭氏が私心氏の問題に与えたこの答えは、皆からやんやとほめそやされた。そこでこの答えは大体極めて穏健で好都合なものと断定された。彼らの考えでは、だれもそれに反対はできないし、基督者と有望者はまだ呼べば聞こえる所にいたので、二人に追いついたらすぐこの問題で攻めたてようということに一同の意見が一致した。ことに二人が私心氏に反対したことがあるのでなおさらのことであった。そこで彼らは後から呼びかけた。
二人は立ちどまって、彼らが追いつくまでじっとしていた。ところで彼らが道々取り決めたことは、私心氏ではなく年寄の現世執着氏が問題を出すというのであった。彼に対する返事なら、少し前別れる際に私心氏と二人との間に交わされた論戦の余熱もなかろうと思ったからである。
 こうして彼らは互いに近寄って、短い挨拶を交わした後に、現世執着氏が基督者とその仲間に問題を出し、できれば返事して欲しいと言った。

 そこで基督者は言った、宗教については赤ん坊のように幼稚な者でも、こんな問題なら一万でも答えることができましょう。もしパンのためにキリストに従うことがよくないとすれば(実際そのとおりですが ヨハネ第六章)この世をもうけて享楽するためにキリストと宗教をだしに使うことは、なおさら言語道断のことではありませんか。このような意見を持つ者は異教徒や偽善者や悪魔や魔女のほかには見当たらないのです。

 一、異教徒と言ったのは、ハモルとシケムがヤコブの娘と家畜とに気があって、割礼を受けるよりほかには、それに至る道はないと見たとき、彼らはその仲間に言ったものです、もしわれわれのうち男子が皆彼らのように割礼を受けるならば、彼らの家畜も財産もすべての獣もわれわれの物となるのではないかと。その娘と家畜とは彼らが手に入れようと欲したものであり、宗教はそれに近づくために利用した『隠れ馬』でした。その話をすっかりお読みなさい(創三四・二〇―二三)。

 二、偽善的なパリサイ人もこの宗教を持っていました。長い祈祷は彼らの見せかけで、やもめの家に入り込むことがその目的でした。神から来る『もっときびしいさばき』こそ彼らの受ける罰です(ルカ二〇・四六、四七)。

 三、悪魔ユダもこの宗教をもっていました。彼は財布のために信心深かったのですが、それはその中にある物を手に入れるためでした。しかし彼は滅び、見捨てられました。まさに滅びの子です。

 四、魔法使いのシモンもこの宗教を持っていました。彼は聖霊を得ようとしたが、それで金もうけをするためでした。ペテロの口から下された宣告は適切でした(使八・一九―二二)。

 五、私の念頭を去らないことは、この世のために宗教を取り上げるような者は、この世のために宗教を捨てるということです。確かにユダは信心深くなったとき、この世を捨てました。が、それと同じく確かに彼はこの世のために宗教と主とを売ったのでした。それ故その問題に肯定の答えを与えることは、(察するところ君たちはそうしたようですが)、また、そのような答えを拠り所あるものとして承認することは、異教的で、偽善的で、また悪魔的です。そして君たちの報いはその行いしだいです。

 そのとき彼らはお互いに顔を見合わせて立っていたが、基督者に答えるすべを持たなかった。有望者も基督者の答えの正しいことを認めた。こうして皆すっかり黙り込んでしまった。私心氏とその道連れはわざとぐずぐずして遅れた。基督者と有望者が先になるためである。そのとき基督者は仲間に言った、この連中が人間の宣告の前に立つことができないなら、神の宣告に対してはどうするつもりでしょう。また『土の器』である人間にあしらわれて黙るくらいなら、焼き尽くす火の焔によって叱責されるときはどうするつもりでしょう。」

ジョン・バニヤン著、『天路暦程』正編、池谷敏雄訳、新教出版社、1993年、p183-194。太字は筆者。

* * *

 これが何を示しているか、説明せずとも皆様は大体、お分かりのことでしょう。どこかで聞いたような話だとは思いませんか。信者が神の祝福を受けて、富める者になることは悪いことではない、それどころか、神はクリスチャンが豊かになることを望んでおられる、立派な牧師が貧しい謝儀に甘んじているなどとんでもない、牧師たるもの、自らの威厳にふさわしい、荘厳な生活を送らねばならない…。
 そんな風にして、主のための貧しさや、苦難や迫害にも勇敢に耐えるようにと信者を励ますのでなく、むしろ、地上的な繁栄を旗印にして、信者を増やそうとしている宗教団体がどこかにありませんか。時代の潮流に乗って、明るい日差しの中を、立派な衣装を着て、金の靴を履き、人々の歓呼の声を浴びて堂々と歩むことだけを奨励している宗教がありませんか。宗教の繁栄のために、聖書を曲げた偽福音を平然と宣べ伝えている教職者たちがいないでしょうか…?

ペンテコステ・カリスマ運動の主要な柱

1)信徒が回心後に、聖霊のバプテスマを受けて、霊的な力や賜物を得る必要性を強調
2)カリスマ的指導者を頂点に頂くミニストリーのスタイル
3)神は貧困を喜ばず、豊かになることは罪ではないとする繁栄の神学
4)人々の心身や、地域、国から悪霊を追い出さなくてはならないという霊の解放と戦いの神学
5)キリスト教シオニズム
6)大宣教命令に基づき、ペンテコステ運動を全世界に普及させるべく打ち出される教会成長プログラム

 クリスチャンが聖霊を受け、聖霊に満たされる必要性を私は否定するつもりはありません。ただし、何のために聖霊を受けるのか、その動機が問題となるでしょう。魔術師シモンは金もうけをもくろみ、聖霊を按手によって信者に授ける能力を金で買おうとして、ペテロの厳しい叱責を受けました。
 このように、聖霊を受けようとする信者の側だけでなく、聖霊を受けるように勧める教職者たちの動機もまた問題となり得るのです。今日、宗教団体の繁栄のために、信徒に聖霊を受けるように勧めている教職者たちがいないでしょうか。宗教団体の繁栄のために、信徒の持つ聖霊の賜物を利用しようとしている教職者たちがいないでしょうか。大宣教命令を隠れ蓑に、宗教団体の地上的繁栄を果てしなく求めて、組織拡大活動にいそしんでいる人たちがいないでしょうか。

 聖書は、時が良くても、悪くても、信徒が主のご用のためにいつも己をむなしくして御言葉に従順に働くよう教えています。主の栄光のために、貧しさや迫害を耐えねばならない時には、それに甘んじる覚悟を決めることも必要となります。それは主の栄光のために信徒が自主的に固める決意であって、決して、宗教団体の繁栄のために強制されたり促されることであってはなりません。ところが、自分の安楽と、金もうけのためだけに宗教を利用し、宗教を隠れ蓑にして現世利益を求めるようになった宗教指導者や信者たちは、偽善者となり、二枚舌を平気で使うようになり、そのうち、はっきりと福音を曲げる異端の教えを語るようになります。そして、他の信者たちを神に自主的に仕えるしもべではなく、人間に仕える奴隷としてしまうのです。

 しかしながら、このように、金銭的むさぼりを達成するための隠れ蓑として宗教を利用するようになった指導者や信者たちは、やがてどういうわけか、目指している繁栄とは正反対に、破滅と貧困に陥っていくのです。ハモルとシケム、ユダは成功と繁栄を手にすることなく、破滅に落ち込み、死にました。魔術師シモンも悔い改めることがなければ、やはり破滅していたでしょう。考えてもみて下さい、今日、繁栄と解放を謳っているある運動が、どんな思いもつかない悲惨な実を信者にもたらしているでしょうか。貧困と虐待と死の噂があちこちで聞かれる運動がないでしょうか。そういった悲惨な実は、一体、なぜ、もたらされているのでしょうか。

 人々が現世利益を求めるために宗教を利用するようになると、そこには数え切れない悲しい結果が生れるようになるのです。まことの豊かさに至りたいならば、その道は、たった一つしかありません。肉にまくことをやめて、つまり、自分の身体を喜ばせる現世利益を求めることをやめて、キリストの十字架を通して己の肉の欲に死に、霊にまくこと、すなわち、神の栄光のために自分を低くして、御言葉なるイエスに仕えて生きること、それだけが、まことの命の豊かさに至る唯一の道なのです。

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