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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

教会とは何か

ニッポンキリスト教界はすでに命運尽きているから、きっとそのうちひどい崩れ方をするだろう、そうなる前に、ソドムから脱出せねばならない…
これまで随分、熱を入れてそういうことを書いてきたが、もしそれが本当に本当だとしたら、一体、クリスチャンはこの先、どこへ行けばよいのだろう? それが次なる課題となる。

実は、私自身も、これにまだはっきりした答えを得ていない。
所属するということがもたらす心地よさに比べ、どこにも所属場所がないということがもたらす言い表せない孤独感。私自身は、帰属場所を失うという孤独感には、かなりの回数、出会って来たので、随分、慣れて、覚悟を決めたつもりではある。しかし、初めにその体験を持つ人にとっては、きっと、ショックが大きいだろう。それを思うと、所属するということに重きを置いている既存の教会から、自主的に信徒が抜け出るということが、いかに難しい選択であるかよく分かる。私やカルト被害者のように教界から傷つけられて放逐されたのでなければ、ほとんどの信徒は、自主的に今いる場所を出ようとは決して思わないであろう。

それは、出て、どこへ行けば良いのか。それが分からないからだ。どこへ行っても、結局、人の集まりというのは、同じではないのか? 特に、複数の教会に通って、結局、居場所を見つけられなかった人や、複数の教会から食い物にされた経験のある人にとっては、次に「教会」を求めてどこかへ赴こうという希望を持つだけでも、かなり難しいことだ。

キリスト教界に属していた頃、いかによく次のような言葉を私は耳にしてきたことだろう。
「あのね、複数の教会を転々としながら、結局、どこにも居場所を見つけられないような人はね、どこへ行っても、結局はやっていけないんだよ。なぜならね、そういう人は自分は何も努力していないくせに、その無責任を棚に上げて、牧師や他の信徒のあら探しばかりしては人を批判して、教会に苦情を述べたてては、教会を変わっていくんだからね。本当は、変わらなければならないのは自分自身のくせに、それを認められないからこそ、ああやって苦情を言っては、教会遍歴を繰り返しているんだ。そんな人は、どこへ行っても上手くやれないに決まってるさ」

どこかで聞いたような、こういう残酷な台詞。ずっと後になって、心に突き刺さって来る。
教会の中にいて、所属場所を得ていた頃には、何事もなく聞き流せたこの毒を含んだ言葉が、教会の外にいるようになった時、改めて、効力を発揮し、自分に突き刺さって来るのだ。

私は、もしかして、教会遍歴者なのか? どうせどこへ行ってもやっていけないことが決まっている人種に属しているからこそ、今もこうやって、キリスト教界そのものにぶつぶつ不平を言って、悪口を言って、苦情を述べ立てているのか?
すると、その疑いがじわじわと心に広がるに合わせて、どこか地の奥深くからいやらしい声が聞こえてくる、「そうだ、やっと分かったか。随分、遅い理解だったな。おまえのような者は、どうせ、初めから教会にはふさわしくなかったのだ…。どうせ、どこへ行っても、やっていけないのだ…。何しろおまえは誰よりも最高の異端者、最高の無責任屋で、最高の自惚れ屋、最高の批判屋、最高の不満屋だからな。おまえだけがそれを分かっていなかったんだ。でも、他の人たちはみなおまえの短所がよく分かっていたからこそ、奴らは早めにおまえの有害性を見抜いて、おまえの正体を察知して、おまえを仲間から追い出したんだよ…。つまり、奴らがやったことは、全く正しかったんだ…。無駄なんだよ、どこへ行っても受け入れられない、それがおまえの運命だ。それはおまえが悪いからだ。教会など探しても意味がない、どうせ、拒絶され、よくても利用、悪ければ、再び恥辱をこうむるだけに終わるのだ…」

このいやらしい声を聞いていると、ひたすら、気が重くなり、もう一度、布団へもぐりこみたくなる。本当だ、これ以上、人に期待して裏切られるのはもうまっぴらだ、これ以上、傷つくことに誰が耐えられるだろう、それに、誰が一体、この私の強情な性格に耐えられるだろうか、私につきあう人々も苦労を強いられて可哀想なものだ、だから、やはり教会を探すということはやめよう、信徒の交わりなんてきれい事にこだわって、互いに理想論を押し付けあって、裁き合って、失望し合っても意味がない、どうせ人になんて、大した期待は初めから持てやしない、聖なる神の宮、うるわしい信徒の愛に満ちた共同体としての教会とか何とか言っているけど、そんなものは、この世にもとから成立しないのだ…、初めからなかったのだ…、そんなものを信じているのは初心な理想論者だけなんだろう…、私は高望みしすぎているんだ…、いい加減、この世の仕組みを理解しなくちゃいけない…、だんだん、そういう結論に心が傾いてくるのを感じる。

しかし、ここでこの疑いをバッサリ斬らなければならない。絶対に、何があっても、クリスチャンはこのような結論を受け入れてはいけないのだ。
確かに、もしもこの世に神がおられないなら、教会もまた存在しないだろう。だからあの悪魔の言っている「人の集まりには希望がない」、「理想を求めても無駄」という言い分は正しいのだ。

だが、キリストがもしおられるなら、話は全く別だ。
キリストは言われた、「わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである」(マタイ12:28)。
神の国の秩序は、キリストとともにこの地上にやって来た。それは見える形で存在するものではないが、イエスを神の御子として信じた人々の心の中に、神の国は種蒔かれ、広がって行ったのだ。

悪魔の毒矢が突き刺さって、激しい痛みに冒された私は、キリストの足元に涙ながらに駆け寄って言う、「イエスさま、あの悪魔が、今、私のことを告発しています、私は教会にふさわしくないと、こんな人柄では、きっとどんな教会に行っても、人から拒絶され、放逐される運命にしかないと言うんです、今まで私を教会から追い出してきた人たちは、全く正しいことをしたんだと言うんです、何が本当なんでしょうか」

キリストは静かに答える、「悪魔はあなたを悪者だと言ったんだね?」
「はい、地上で最も汚らわしい悪者、聖なる美しい教会にはふさわしくない悪者だと言われました」
「悪魔はあなたに罪があると言ったんだね?」
「そうです、私は悪口屋で、批判屋で、自惚れ屋で、強情で、えーと、それから、数え切れないほど嫌味を言われました」
「そう、それであなたの罪は今どこにあるんだろうか?」
キリストはそう言って、釘の打たれた両手を私に向かって見せる。
私ははっとして黙り込む。

「全く、あなたはどうしていまだにそんなに初歩的な悪口に耳を貸したりしているのか。思い出しなさい、あなたの罪はすでに私が全部、引き受けたんだよ…」
「じゃあ、私は教会にふさわしくないというあの人たちの言葉は…」
「嘘だ」
「でも、イエスさま、私は次に行くかもしれない教会のことを考えると怖くなるのです、私は人から愛される資格となるものを何ももっていません、特に今、私の人生には愉快な要素があまりにも欠けすぎています。立派な仕事がないし、自慢できるものは何もなく、人を楽しませてあげられる愉快な話題の持ち合わせもありませんし、カラオケも歌えません。趣味にしても、いくらもあるわけじゃありませんし、テレビは見ていませんので時事的な話題も知りません、その上、私は不正を黙って見逃せない性格ですから、きっと小さなことに針小棒大にこだわって煙たがられたりするでしょう、今でもこうやって時々、身の上に起こったことで悲嘆に暮れたりしていますから、きっと自己憐憫に溺れているのだと思われ、避けられるでしょう…」

「いつからあなたはそんなに臆病になったのか。もっと勇気を持ちなさい、一体、あなたの信仰はどこへ消えてしまったのだ。私は言ったではないか、こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国はかれらのものだ、悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められる、義に飢え渇いている人たちは、さいわいだ、彼らは飽き足りるようになる、心の清い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるだろう、義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである、これはみんなあなたのことではないのか」
「では、私は御国にふさわしい人間なんですか? でも、それにしては、この地上においては、どういうわけか、教会と名のつくところからは、厚遇された思い出がなく、排斥ばかりされてきたような気がするのですが。所属教会ももうなくなりましたし、その上、そうなったのも、私が悪いせいなのだ、私が不器用で、人と上手く合わせられなかったせいなのだ、もっと上手く立ち回らなければいけなかったのだとある人から言われました、どんな結果になっても、自業自得なのだと、いつも人から言われて来ましたが」

「一体、あなたの聖書の知識はどうなったのか。聖書のどこに、神の国は器用な人たちのものだと書いてあるか?」
「そうですね、書いてありません」
「そうだろう、正しい信仰者が会堂から追い出される日が来ることについても、私は警告しておいたはずだ」
「では私がされたことは自業自得ではなかったということですか?」
「あの人たちがやっていることが何であるか、それはこれから明らかにされるだろう。たとえあなたに自業自得があったとしても、あなたの罪は私を通して赦されている」
「では私はこれからどこへ行けばいいんでしょう、どこに行ったら、神の国の生きている教会を見つけることができるんでしょうか」
「神の国は、どこそこにあるというものではない。すでにあなたの心の中に神の国は来ているのだ」

もちろん、この対談は、キリストの名を出してはいても、私が心の中で思ったことを物語化したにすぎない。この不完全な文章は、とても聖書と並べられるような信憑性のあるエピソードではない。しかしこのようにして、教会から追い出されたことで、心に痛みが生じ、心に責めの思いが到来する度に、私はキリストの懐に飛び込んで行って、そこで対談を繰り広げるのである。聖書のページをめくり続けながら(まだ聖書の知識が私に不十分であることをひしひしと感じる)、ひたすら、私を告発する者の矢をへし折るための根拠を捜し求めるのだ。

今も、現実生活で上手く行っていない点を数え上げようとすれば、それは無限にあり、悩みもまた無限大に見えるときがある。しかし、そんな状況にあっても、私を告発する者が根拠とする材料は、何一つ残っていないことを確認して、ようやく心が休まるのである。

本当に、「人の集まり」に過ぎないあの教会で、これまで私はどれほど間違った先入観を抱え込まされて、無駄な罪悪感と劣等感ばかり抱えこまされて来たことだろう。
あの場所で私が学んだことは、律法による逃れられない罪悪感、責めと死の思い、それに尽きるような気がする。
結局、あの律法主義的集まりには、どう逆立ちしても、私には入れてもらえる資格がなかったのだろうと思う。だからこそ追い出されたのだろう。そして、それは確かに正しかったのだ。なぜなら、律法は人を罪に定め、殺すことができるだけで、人を生かし、命を与えるお方はキリストだけだからである。
だから、キリストを拒んでいるあの場所には、死の法則しか働いていないのである。
律法主義的な教会において、私は何度も死に定められた。肉体の死にまで至らなかったのは、本当に幸いであったと言えるだろう。だが、あの死によって味わった痛みが、まだ私の心に残っていて、時々、思いもしないきっかけで、うずき出すのである。

だが、もうこれ以上、そんな悩みは必要ない。仮に私の性格がどうひねくれていたとしても、そんなことは救いとも、御国とも関係ないのだ。ザアカイを呼び寄せてくださったキリストが、私をも呼び寄せてくださり、天の食卓に招いてくださった。キリストは私のために死んで下さった。キリストは、私が良い行いを何一つしない前に、私のために死を選ぶことを決意して下さっていたのだ。その愛が私を生かしている以上、誰が私を拒否することができるだろう、私を拒否する者は、キリストをも拒否することになるのだから。

この先も、肉なる人に過ぎない私は、地上できっと山ほど過ちを犯すだろうが、いかなる時にも、キリストが弁護して下さるのだから、心配は要らない。絶対に間違ってはならないのは、私が何かしら教会にとってパーフェクトな人間となろうと努力し、向こうの要求する条件を全て備えるから、教会にふさわしい人間として、中に入れてもらえるわけではないということだ。

教会は、私がそこへ入れて下さいと言って、全力で戸を叩いて、向かって行く場所ではなかった。教会は、私が呼ばない先に、向こうからこちらに出向いて来ていてくれたのである。神の国は種のように蒔かれ、私の心の中に根付いて、発芽していた。だから、きっと心に教会を(神の国を)持っているクリスチャンは、私がこの土の器の中に抱えている光に、きっと気がついてくれるに違いない。そしてこの私も、そのような人に道で行き交ったら、きっとこちらから気づくに違いないのだ。

互いが地の塩であり、世の光であり、キリストを愛する喜びをたたえている人たちとすれ違って、どうしてそれと分からないはずがあろう。あのお遍路さんでさえ、同じ衣装を着ており、互いにあいさつを交わすのだから、どうしてキリストのための本当の巡礼者たちが、互いが同じ小羊の血によって洗われた真っ白な着物を着て、額に印を持ち、手に持っている灯をできるだけ輝かせようと高く掲げているのに、互いに気づかないはずがあろう。そうして出会った素敵な巡礼者たちは、私を見て、きっとにっこり笑ってくれるに違いない、そして旅の道連れになってくれるに違いない。とにかくも、あの律法主義的教会の人たちのように、最初は笑顔、最後は憎悪、ということではきっと終わらないことだろう…。

さて、このように考え続けていたところ、山谷少佐が、記事の中で、「教会とは何か」ということについてはっきりと書いておられた。

「教会は、どこで生まれたのか。
 その始まりにあるのは、神の愛であります。憐れみ豊かな神が、わたしたちを、しかも、罪のために死んでいたわたしたちを、この上なく愛してくださった。この愛によって、教会が生み出されたのです。神の愛が教会を生んだ。

『この上なく愛してくださった』と言われていることに注意いたしましょう。だれにもまして、何にもまして、どのようなものにも優って、神は、わたしたちを愛してくださった。これ以上と言うことがないほどの愛で、愛してくださった、ということであります。

しかも、『罪のために死んでいたわたしたち』と言われていることに注意いたしましょう。わたしたちの側に、何か取り柄があったわけではない。わたしたちの側に、何か優れた点があったわけではない。わたしたちに、何か愛されるべき良きことがあったわけではない。そうでなく、罪のために死んでいた、と言われているのです。罪のため、もろもろの悪のために、死んでいた、つまり、これ以下と言うことがないほど絶望的なまでに、最低の状態にあった、わたしたち、ということです。」

 日曜日の朝にこの記事に出会えたことは不思議なめぐり合わせを感じる幸いだった。この記事は素晴らしいので全文を読まれたい。神の愛が、教会を生んだ。そして神の愛が、人を生まれ変わらせ、人を教会にふさわしい聖なる神の宮へと造り変えたのだ。
 私はこれ以上、自分の力でいかなる姿に変わろうとする必要もない。神の愛が無条件で私を包み、私の中に、主への愛と共に、生き生きとした神の国を与えて下さったのだから。

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