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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

沖縄クリスチャン戦争を終わらせよ(続)

1.カルト化教会のマインドコントロールの恐ろしさ

「教会をやめたときには、心も何もかも疲れ果て、うつ状態になるかならないかといったところまで無気力になっていました。まるで魂を抜かれた人間みたいにボーとしていました。
あれ以来、教会が信じられない、牧師も信じられない、(ちょっと、心が非常に疲れているので聖書をまともに読む気力がない)
本当にホトホトに疲れ果てて、もうこんなに精神的に混乱と苦痛を味わう宗教はいらないと自分の中で何度も何度も言い聞かせたことか・・・」KENT氏の記事

 一つ前の記事では、救われたばかりで、偽クリスチャンの怖さをまだ知らない初心なベビークリスチャンが、偽牧師の巧言によって騙され、マインドコントロールを受け、教会の地上的繁栄のための道具として使役され、心を壊され、やがて疲労困憊して、救いの喜びと確信を失って、使用済みのぼろ雑巾のように捨てられるまでの過程を描いた。
 この例によって、偽牧師が聖書の御言葉を巧みに操り、まるでそれが神の御心であるかのように思わせながら、信徒の心に巧みに働きかけて、信徒の心身を、偽牧師の野望を達成するための手段として利用していく過程を、少しでも、読者に理解していただけたらと思う。

 カルト化教会では、ラブ・シャワーと呼ばれる歓待と、指導者に従わない者に対する手のひらを返したような冷たい態度が、信徒の心を操縦するための手段として使われる。つまり、信徒の心をマインドコントロールするための「飴と鞭」である。「飴」の部分には、慰めや励まし、温かいもてなしがあり、「鞭」の部分には、教会内の虐めや、蔑みや、あざけりや、叱責、無視、その他、指導者に従わない信徒に苦痛を味わわせるための様々な残酷な手段が用いられる。
 このように、外向きの温かくて親切な顔と、裏側の冷酷で思いやりのかけらもない顔と、その二つの仮面を持ち合わせ、教えていることと活動とに矛盾があり、深刻な二重性を持っているのがカルト化教会である。裏側の顔は、外来者には見せられることがないので、その教会にある程度、関わった人間でなければ、二重性があることは分からない。KENT氏もこの「飴と鞭」の使い分けについて、記事に書いている。

「いや、最初に教会に入った頃はすごく親切、その親切な態度は私を教会に入信させるための一時的なものなのです。そして教会員になって何年かして私が教会に疑問を持ったり、説教メッセージを聞くのがつらいと感じ始めると、手の甲を裏に返すような態度、つまり牧師やセルリーダー達の私に対する態度が180度ガラリと変わって攻撃的になってしまうのです。今まで牧師やセルリーダー達が私に見せた愛情表現や優しさはいったい何だったの?今までの優しさはすべて見せかけだけのうわべの愛や優しさだったの?本当に凍りつくような教会の牧師や指導者たちの冷たさをこれでもか、これでもかと思い知らされました。教会内でイジメにあったこともありました。」

 時折、「犯罪に巻き込まれるのは、騙された人が愚かだったのが悪いのだ、その人に警戒心が足りなかったのが悪いのだ」という人があるが、そのようなことを言う人はマインドコントロールというものの恐ろしさを全く知らない。人がマインドコントロールに抵抗できないのは、ハリケーンや暴風雨が吹き荒れている時に、いつものように戸外を散歩できる人が誰もいないのと同じである。
 人の精神には、肉体と同じように、外からかけられる負荷に対する抵抗力の限界というものがある。自分の限界を超えるような負荷をかけられると、誰でもその圧力に抵抗できなくなり、思考停止状態に陥って、されるがままに圧力に屈し、正常な判断を放棄して、なりゆきまかせに流されていくということが起こる。

 Dr.Lukeが記事「冤罪の構図」に書いていることを見てみよう。
「人は知・情・意の間に違和感-不協和-を生じたとき、事の真実とは無関係に、その不協和を最小にしようとして、自分自身の内的真実を変える習性を持つ。これを『認知的不協和最小化の法則』と呼ぶ。身に覚えのないことで逮捕されることなどは、もっとも大きな不協和を生じるが、ここである人はあくまでも否認を貫けるが、ある人は逮捕されたという事実自体に合わせて、不協和を最小にするために自分自身の内的事実を変えるのだ。これが偽りの自白のメカニズムである。やってないなら堂々としているはずだ、などは人間を知らない者の発言に過ぎない。まあ、それができるのはゴルゴ13くらいであろう。」

 カルト化教会では、信徒の正常な自己判断を放棄させるために、信徒の精神に外からかける圧力、つまり、「不協和音」を最大にするのである。カルト化教会とは、たとえるならば、まるで暴風雨が吹き荒れる真っ暗な夜の道、ヘビメタやロックの音楽が大音量で鳴り響いているコンサート会場のようなものである。カルト化教会は外から見れば、穏やかな場所のように見えるが、その実、精神的・霊的な意味では、誰も耐えられないような、最大の不協和音が鳴り響いている場所である。
 偽牧師たちはあらゆる方法で、信徒にはまるで理解できない支離滅裂な「飴と鞭」を駆使することによって、信徒を驚かせ、感情と思考を混乱させ、信徒の内的な真実を揺さぶり、信徒自身がそれまで信じてきたこと、信頼してきたもの、信徒自身の価値観と判断力そのものを揺さぶり、打ち砕き、放棄させて、ただ偽牧師たちに従う人形のようになるまで、この「不協和音」を聞かせ続けて、信徒の意志と自主性を徹底的に打ち砕くのである。

 必ずしも暴力的で残酷で非人間的な言動だけが使われるのではない。指導者たちは、残酷な処置の合間に、優しい、穏やかで、思いやりある態度を束の間、見せるために、信徒はより訳が分からなくなってしまう。激しい暴風雨のような圧力に振り回され、長時間、さらされ続けて、ちょうどジェットコースターに乗った後のようにふらふらになった信徒は、魂の平衡感覚を失い、どんな事が起きようと、それ以上、抵抗する力を失って、ただとにかく心の安定だけを求めて、さまようようになる。安定を得るためなら、何でもする、とにかくこの疲労から抜け出したい、その一心となって、言われるがままに指導者に着いていくようになる。指導者に従ってさえすれば、指導者から受ける不協和音が最小におさえられることを知っているからである。

 このような恐ろしいマインドコントロールにかからないためには、「不協和音」の鳴り響かない場所、偽牧師の圧力が及ばない場所、彼の管轄外、つまり教会の屋外に出て行くしかない。つまり、教会を脱出することしか方法がないのだ。だが、私の例を思い返しても、かえすがえす、悲しいことは、信徒はカルト化教会を訪れた際、まさか自分が世界最悪の「ジェットコースター」に乗せられたなどとは、まるで予想もしていないために、その機械が始動し、自分がさんざん振り回されても、一体、何が起こっているのか理解できず、そこに恐るべき仕掛けがあって、安全を守るためには、早急にそこから降りることが必要なのだとは少しも気づかないまま、これは一体、何なのだ、こんなことがあって良いのか、どうして誰も助けてくれないんだと叫びながら、自分の力でむなしい抵抗を繰り返し、当惑に次ぐ当惑、混乱に次ぐ混乱を重ねるだけで、結局、偽教会の思惑通りに、最後まで振り回されて行ってしまうことである。そしてジェットコースターがやっと止まって、やっと自分が放り出され、降りたときには、もう全ての気力を失って、無一文となり、絶望の淵に立たされている。ずっと後になって、何が起こったのかが判明した時には、全てが手遅れである。全てが最初から計算づくだったのであり、信徒の心と財産を奪うための罠だったのであり、仕掛けだったのだと分かって、どんなに心に怒りが燃え立っても、もうどうすることもできない。カルト化教会というそびえたつ悪魔のジェットコースターは、騙されたおまえが馬鹿だったんだよ、今更、おまえに何ができるものか、もう全て遅いんだよ、何もかも取り返しがつかないんだよと、高笑いを響かせているだけである。

 なぜ教会という聖なる神の宮であるはずの場所が、こんなにも恐ろしい残酷な悪魔の乗り物になりえたのか。信徒にとっては、この矛盾が最後の打撃となる。この最後に聞かされる「不協和音」に絶えられず、信徒は絶叫する。人生とは何なのだ、神とは何なのだ、人間とは何なのだ、私はただ神を信じて平和に、誠実に生きたかっただけなのに、こんな結末があって良いものか!! 人間への信頼、神への信頼を粉みじんに吹き飛ばされ、この現実に耐えられず、自ら死を選んだ人たちも多く存在しているということを私は聞いている。


2.沖縄リバイバル教会という偽教会の恐ろしいまでの金銭的むさぼり

 さて、KENT氏が記事に書いていることは、フィクションではなく、現実である。彼の書いている記事は、私が前の記事で語ったフィクションの物語よりも、はるかに惨い形で、牧師が徹底的に信徒を利用し、搾取した挙句、ぼろきれのように捨てている教会が現存していることを示している。それは沖縄リバイバル教会である。そこでは、何よりも、教会を挙げて、牧師による金銭的なむさぼりが行われている。初めに挙げた記事の中でKENT氏は書いている、

「秩序のある教会と混沌と野望に満ちた教会との違いというと、これは教会に行ってみて献金をどのように集めているか?(献金カゴが多すぎたり、3つ以上は要注意!)多くのお金を要求したり、資産や財産に至るまで話を吹っかけてきたら危険だと思ってください。特に献金額が3万円以上は危険だということ、10万円以上の献金を要求したら、ただちに教会を離れることをおススメします。
献金をいうものは、多くの豊かな恵み(収入)のうちからその一部を神に感謝して捧げるものであって、牧師が献金額を決めることは出来ないのです。献金額を吹っかけてくる教会の牧師は危険と判断すること、特にORCや大型教会(メガ・チャーチ)の牧師は献金額を吹っかけたりするので要注意」

「これは沖縄リバイバル教会の中で牧師を支援している人々に宛てたメッセージだと思ってください。私利私欲のために、または自分の生活費を稼ぐために、牧師から賄賂というか金を受け取り、牧師の奴隷になりさがる、つまり牧師の無理な言いなりでも従うしもべと化してしまった人たちが多くいること、たとえ牧師が悪事を働いたとしてもそれを擁護し、また牧師から違法な願いでも引き受けて実行してしまうこともあります。沖縄リバイバル教会の皆さん、お金のためなら悪事を働いても構わないその考えはそろそろやめにしませんか?生活費なら地道に仕事して働いたらいいではないですか?そろそろ悪の組織から足を洗い、心を入れ替えてみませんか?多くの人々はネットを通じてこの教会の異常な行為(妨害)などを目の当たりにして感じているはずですよ。こんな宗教団体もあるのかと。 」

 この記事を読めば、沖縄リバイバル教会では、牧師が法外な金額を信徒に献金として捧げるよう、様々な形で促していることが分かる。牧師によって、信徒が捧げるべき献金額があらかじめ指定されていることまである。さらに、牧師の貪欲な要求をかなえるための工作員のようになってしまった信徒たちが、牧師の手足となって働き、牧師の非をあらゆる方法で隠し、牧師がやっていることがあたかも聖書に基づいた正しい行いであるかのように他の信徒たちに見せかけ、牧師に従うように働きかけることによって、教会のむさぼり達成に貢献している。
 心弱い信徒たちは、圧迫されるとそれに逆らいきれず、言われるがままに、法外な献金の要求に応じて、財産を失い、さらに、土地などを献呈するように求められ、貴重な財産を失い、利用されつくした挙句、取るものがもうこれ以上ないという段階になって、教会から捨てられていく…。カルト化教会であれば、どこにでも見られる風景だが、その罪とむさぼりのスケールがとりわけ異常なのが沖縄リバイバル教会だと言えよう。
 

3.偽牧師、偽教師、偽預言者を見破ることの必要性

 クリスチャンが偽牧師、偽預言者、偽教師を警戒しなければならないことについては、どれほど呼びかけても、呼びかけすぎということはない。彼らは信徒の信仰を奪うだけでなく、信徒に金銭的損失をもたらし、肉体的にも大きな被害を与えるからである。偽牧師と接触したがために、死に至る人も決して珍しくない。以前の記事にも書いたことを、もう一度、繰り返そう。

 偽牧師の使命は、信徒の信仰を養うことではなく、信徒から信仰を奪うことにある。従って、偽牧師が信徒を信仰につまずかせ、教会に幻滅させ、果ては自殺を選ばせる時、彼らはまさに本職を忠実に果たしているのである。
 このような偽牧師や偽クリスチャンと密接に関わっていれば、必ず、あなたも、信仰を失うはめになることは間違いない。どんなに大きな被害を受けることになるか分からない。だから、正しい信仰を維持していく覚悟があるならば、これらの人々には絶対に関わってはいけないし、神から与えられたあなたの人生の貴重な宝を失わないためにも、彼らの正体を試して、早いうちに見破り、できればそれを公然と明るみに出して他の人々にも警告した上で、絶対に彼らとは関わろうとせず、離れ去ることがどうしても必要である。(たとえ裁判という形であっても、彼らとの直接的な関わりが続くことは避けた方が良いものと私は思う。)

 繰り返すが、聖書の御言葉を引用して語る人々全員が、本当のクリスチャンであるとは限らない。たとえ牧師という職業についていたとしても、その職業がクリスチャンとしての真実性を保証してくれるわけではないのだ。
 「むやみに人を疑うなんて…」と、義理人情に縛られて立ち止まってはいけない。なぜなら、偽クリスチャンを見破ることは、聖書が全てのクリスチャンにとって確かに必要なことであると教えているからだ。

 ヨハネの黙示録には、エペソの教会が「悪い者たちをゆるしておくことができず、使徒と自称してはいるが、その実、使徒でない者たちをためしてみて、にせ者であることを見抜いたことも、知っている」(黙2:2)と、この教会が偽使徒を試して見抜いたことが正しいことであったと賞賛されている。

「すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい。多くのにせ預言者が世に出てきているからである。」(ヨハネⅠ4:1)

 では、何が偽クリスチャンの特徴なのだろうか。どのような点を見れば、その人が偽クリスチャンかどうかが分かるのだろうか。すでに述べたことだが、もう一度、その点について考えてみよう。

「神を信じない者は、神を偽り者とする。神が御子についてあかしせられたそのあかしを、信じていないからである。そのあかしとは、御子が永遠のいのちをわたしたちに賜り、かつ、そのいのちが御子のうちにあるということである。御子を持つ者はいのちを持ち、神の御子を持たない者はいのちを持っていない」(ヨハネⅠ5:10-12)

 これまでにも書いてきたことであるし、また教会成長論の締めくくりを書くときに、もう一度触れることになるが、偽クリスチャンを見破るための最も一番の近道は、彼が本当に神の御子イエス・キリストによる罪の贖いの十字架を信じているかどうかを確かめることである。
 偽クリスチャンの一番の特徴とは、上記の御言葉にあるように、「御子イエスのいのちを持たない」ことである。御子イエスの命がその人のうちになければ、その人がどんなにクリスチャンを名乗っていたとしても、彼はクリスチャンではなく、救われてもいないし、永遠の命を持っていない。

★「クリスチャンが本当に御子イエスの命を持っているかどうか」のチェックポイント

1)牧師および信徒が、御子イエスの十字架による罪のあがないを信じて、その効力を公に語り、それを自分自身にちゃんと適用しているかどうか。
(人間の罪を帳消しにできるのは、その人の行いではなく、御子イエスの十字架だけであるということをきちんと説教の中で説いているかどうか。何らかの行いをしなければ救われないという律法主義に落ちて、奉仕や献金や礼拝出席が、信仰を維持する上で欠かせないものであると言っていないか)。

2)牧師および信徒が、御子イエスが完全な神であられ、完全に人となってこの世に来られたことを信じて告白しているかどうか。
(御子イエスが不完全な神であった、とか、不完全な人であった、といった聖書から逸脱した教理を信じていないかどうか。イエスが神ではなく人だったと言っていたり、イエスが神の養子であったなどと言っていないか。たとえば「養子論的キリスト論」(手束正昭氏)はイエスの完全な神性を否定する異端の教えであるし、また、聖霊のバプテスマを受けなければ、あるいはその印として異言を語らなければ、救いは完成されないというのも誤りである)。

3)神からの恵みを受け取るためには、信徒がイエスではなく牧師を通さなければならないと教えていないか。(神と人との仲保者はイエスだけであるにも関わらず、牧師を通さなければ信徒が神と交われない、祝福と恵みを受けられないと教え、牧師がイエスの役割を奪っていないか。)

 人間の罪を赦す力はただ神の御子イエスの十字架のみにある。それに何かを付け加えたり、引いたりするものは全て誤った教えである。教会で奉仕をしなければ信仰を失う、とか、献金をしなければ信仰を失う、とか、教会のために役立つ活動をしていなければ、神の救いと恵みを受け取れなくなっていく…などといった教えに耳を貸してはならない。御子イエスが十字架上で血を流され、人類の罪を贖われたということを信じるだけで、人は救われ、永遠の命を持つのであって(その信仰を表すために信仰告白しバプテスマを受ける必要があるが)、それをした時点で、その人の救いは完成されている。その後、イエスに従って信徒がどう歩んでいくかは、その人自身が決定することである。
 

4.今日の異端の特徴とは、神と人との仲保者である御子イエスの役割を否定して、信徒に牧師崇拝を要求することにある

 今日のカルト化した教会では、十中八九、「御子のイエスの命」を否定する異端の教えが説かれている。この異端の教えの特徴は、次の点にある。


★本来の正しい教義
キリストだけが神と人との唯一の仲保者


★今日広まっている異端の教義
牧師がキリストの役割を奪っている

 これまでに私は、ニッポンキリスト教界全体が今、急速に異端化しつつあるという記事を書いて来たが、教界の「異端性」はここにこそあると言えよう。つまり、今日、どういうわけか、多くの教会で語られる教えが、イエスの十字架をただ信じれば救われるという内容ではなく、牧師の言うことを信じて従わなければ救われないという内容にだんだんすり変わってきている点に、ニッポンキリスト教界の最も大きな異端性があるのだ。一見、イエスを信じているように語りながら、その実、自分自身がイエスに成り代わって、自分だけが神の恵みと祝福を信徒に流す管であるかのようにふるまい、信徒にそう信じるよう教え、信徒の魂と生活を支配している牧師が、教界では、公然と正当な牧師、クリスチャンを名乗って活動している。それは牧師崇拝と言って差し支えない、聖書とは無縁の異常な教えである。

 KENT氏が記事で言われていることはまさに正しい。
「多くの牧師は自分を神と同一化してしまったために、霊的な目を閉ざされ盲目になり、神の真理を自分自身の不義なる心の内で曲げてしまい、間違った教えを語るのです。つまり偽牧師(偽教師)と呼ばれる者は異端の教えによって神の真理の道がことごとくそしりに至らせるのである。盲目であるからこそ隣人に対して冷たく、優しさを見せても見せかけのうわべだけの優しさで終わる。盲目であるからこそ、自分自身をプライドと独善主義で塗り固めて、鎧のように頑なな心と化す、そして、素直、感謝、謝罪、敬意、謙虚、礼節、寛容などを失って、また、良心さえも失うような人間になってしまうのです。」

 自分を神と同一視し、イエスの役割を奪い、イエスに成り代わってしまった偽牧師たちが、今日、あちらこちらの教会におびただしい数で出現している。これらの偽牧者たちは神を信じようとする信徒の心をあらゆる手を尽くして自分に向けさせ、信徒が神ではなく人間である自分(牧師)に従い、牧師に仕え、牧師に栄光をもたらすように仕向け、信徒の心と身体を神に捧げられた聖なる宮ではなく、牧師に捧げられた忌まわしい偶像礼拝の神殿に変えてしまおうとする。そのような偽牧者の策略にかかり、父なる神への愛と献身を失い、人間である指導者に心身を支配され、自己決定権を奪われ、奴隷のように自主性を骨抜きにされてしまった人が、偽教会の工作員のようになってしまった偽クリスチャン信徒なのである。

 そのように、牧師崇拝に陥ってしまった教会には、次のような恐るべき実が結ばれている。

「巨額のお金を巻き上げて、信者たちの人生や生活の全てを破滅へと至らせる教会もあります。彼らは振り込め詐欺のような悪質な教会で、財産や資産を信者たちから集め、なかには消費者金融、サラ金から借金してまでお金を捧げる(献金というよりも信者の心理的操作、マインドコントロールによる騙しのテクニックが入っているので明らかに詐欺に近い!!) 」

「沖縄キリスト福音センターの自称N牧師は、あるクリスチャンに対して『病気は悪霊の仕業だ』『祈れば必ず治る』『病院に行ったり薬を使ったりするのは神に対する裏切りだ』と何度も言い聞かせていた。クリスチャンにとって牧師は神の代弁者であり、牧師の言葉こそ真理であり、何を言われても牧師の言葉が絶対だと受け止めてしまうのです。その人間の言葉をありのまま信じようとするところに最も危険な因子が満ちているのです。そのクリスチャンは肺結核になり、左の肺を喪失していたのです。」(KENT氏の記事より)

 教会の果てしない繁栄という、むさぼりの欲を達成するために、信徒をサラ金地獄にまでつき落とし、「霊の戦い」のために信徒に身体障害をこうむらせたり、死に至らしめたりしているのがカルト化教会なのである。聖書を曲げる異端の教えを奉じる人々が、どれほど恐ろしい実を結ぶかが、ここにはっきりと現れていると言えよう。


5.サタンを糾弾し、偽牧師の活動から分離することの必要性

 どうか、私がただいたずらに恐怖をあおるためにこんなことを言っているのだとは考えないで欲しい。牧師を名乗っているからといって、全ての人の教えをそのまま鵜呑みにして従うことがどれほど危険であるかということを、偽牧師の教会の信徒たちが受けた痛ましい被害を見て、どうか理解して欲しい。そしてすでにカルト化していることが分かっている教会については、被害状況を、声を大にして叫び続けて欲しい。
 今、「全ての牧師を疑え!」とクリスチャンに呼びかけることは、決して言いすぎでないどころか、クリスチャンが早急にそのような疑いを持つことこそが必要であると私は考える。

 偽牧師、偽教師、偽預言者たちの正体を暴露せよ、彼らを警戒し、彼らと分離せよ!これが今日のクリスチャンに早急に必要とされている安全のための処置であり、また教会のカルト化を防ぐためにも、避けては通れない「外科処置」ではないかと私は思う。

 Sugar氏が記事「サタンを糾弾する声」の中で書いていることに、どうか真摯に耳を貸していただきたい。

『悪人』は先ず冷静な正しい情報に基づいて その悪人の悪を非難する多くの声によってしっかりと糾弾されなければなりません。第一に悪の存在に気づき、そして誰かが勇気をもってそれに対して非難の声を上げ、その糾弾が少しずつ大きくなり、それが極めて大きくなると、遂にその糾弾の『声』に引っ張り出されて、その悪者が正体を現わさざるを得なくなるのです。

そこまで来ると 正体を現した『悪人』は破れかぶれになって、全力で彼の悪の限りを尽くすことでしょう。しかしハレルヤ! それは彼が現行犯逮捕される絶好のチャンスとなるのです。<略>

今この時代 以上述べた糾弾する役目はおもに、キリスト者にあります。<略>
明らかに神の定めは、サタンに対する糾弾は私達、多くの『弱き庶民』、神の乳飲み子、みどり児の口によって行われなければならない、と言うことです。(詩篇8篇)

それは、あのバプテスマのヨハネの場合と似ています。
彼は荒野(この世)で悪に対して叫ぶ『声』でした。(ヨハネ1の23)、声とは目には見えず 実に軽いものです。しかし、霊的な世界においては、声ほど重く強力なものはありません。
ヨハネの『糾弾する声の総和』がある一定量に達した時、遂にヘロデが引っ張りだされ、ヘロデはヨハネの首を切らざるを得なくなってしまったのです。
昔も今もこれが『真の殉教』が発生する経過(メカニズム?)なのです。<略>

キリスト者が先ずは真剣に、サタンを知り、サタンを糾弾することがもしないとするならば『何事も始まらない』ことは明らかです。従って私達に、悪とサタンについての神の真理が明らかに啓示されることは何と必要なことでしょう。」

 私が一人でできることには限界がありすぎる。だから今、一人や二人でなく、大勢のクリスチャンが心を合わせて悪を糾弾するために勇気を持って立ち上がることが、どうしても必要であると感じる。今、訴訟も、報復も、暴力も恐れず、偽牧師や偽教師たちをしっかりと実名にて糾弾する勇気ある者が、クリスチャンのうちにほとんどいないために、今、刑事告発などされ、訴訟を起こされた少数の大規模教会の例を除き、日本全国各地で、偽牧師、偽教師、偽預言者が思うがまま暗躍している現状がある。
 そして彼らを糾弾し、彼らの正体を告発する仕事は、ただ被害者に、偽牧師や偽教師に犠牲にされて、息も絶え絶えとなっている被害者だけに任されている。被害者は、受けた被害を叫び続けても、弱り果てているがゆえに、力尽きてしまう。他のクリスチャンがそれを支援し、代わりに偽クリスチャンの活動を糾弾することをせずに、どうして異端の拡大を食い止めることができようか。

 だが、偽クリスチャンを告発するという仕事がこんなにもおざなりになった結果、今や、ニッポンキリスト教界全体が、戦場と化してしまった。狭い地域にひしめきあう、おびただしい数の偽牧師たちが、互いに領土を分捕り合い、羊たる信徒を奪い合って、争い、羊を使役し、羊を喰らい、羊を剣に盾に我が身を防御しながら、血みどろの闘いを互いに繰り広げる戦場が、ニッポンキリスト教界となってしまった。にも関わらず、このような戦いが、神の国を築くことだと勘違いして、さらに激化した闘いを呼びかけているのがニッポンキリスト教界なのである。

 「リバイバル、リバイバル」と、自己の果てしない栄光を求めて貪欲に叫びながら、偽牧師が互いにかぶりつき合って、相身を滅ぼし合って、しかも、おびただしい数の羊を戦死者、犠牲者として出している。こんな醜い姿となったニッポンキリスト教界を、誰が正視するに堪えようか。この教界が今後、どんな良い実を結ぶことが考えられようか。私はKENT氏の記事が出している結論に全く同感である。

日本のキリスト教界が収益目当ての組織や団体であるからこそ、大規模なリバイバルが起こるようなことは決してありません。少人数でリバイバルという教会のむなしい争奪戦といった感じになると思います。教会員になったとしてもいつ教会を辞める可能性を秘めているか・・・、教会についていけないと感じたら、即脱会、なんのまえぶれもなく突然来なくなるでしょう。」

 リバイバルなどというものは今後、決して起こらないだろうと私も思う。少なくとも、地上の繁栄と人間の栄光だけを求める教界の叫ぶリバイバルなど聖書を冒涜するものでしかない。どうかカルト被害者の警告を軽んじないでいただきたい。彼らの身に起こったことが、自分とは無関係だとは思わないで欲しい。
 全てのクリスチャンにとって、このような愚かな羊争奪戦から早急に離れることが、身の安全を確保するために何より必要な処置ではないかと私は考えている。偽教会の指導者の野望のための餌食とされ、戦いの道具とされることを、一人でも多くのクリスチャンが拒否し、偽牧師たちが繰り広げる羊争奪戦のむなしさを公然と語り、この戦争が生んだ想像を絶するような被害を、声を大にして世に知らしめること――それこそが、今、教界のこれ以上のカルト化を防ぐために、真のクリスチャンに何より求められている課題ではないだろうか。

 偽牧師、偽預言者、偽教師ときっぱり分離していないという点では、カルト化教会も、カルト被害者救済を謳っている教会も、本質的に同じなのである。ともに、聖なる神にふさわしい清潔を求めて闘っているのではない。羊を一人でも多く獲得して、自らの権勢をさらに誇るために、他教会に喰らいつき、羊を餌食として、むさぼり食い、むなしい闘いを挑んでいるだけである、少なくとも、私はそう確信する。

 沖縄のクリスチャンよ、こんなむなしい戦場からは離脱しよう。いや、沖縄だけでなく、全国のクリスチャンよ、この不毛な同士討ち的な羊争奪戦(リバイバル戦争、カルト成敗に名を借りた羊争奪戦)からは早急に身を引こう。御子イエスは何のために死んで、私達クリスチャンを罪から解放して下さったのだ。貴い神があれほどの犠牲を払ってまで、私達に与えて下さった自由を、どうして今更、指導者の奴隷というくびきに取り替える必要があろうか。キリストはクリスチャンが「豊かに命を得るために」こそ死んで下さったのだ。なのに、どうして、神の栄光のためではなく、人の栄光のために、今さら、身をすり減らし、苦しみぬいて、命懸けで戦い、貧困の中に落ちていく必要があるのか。こんなことのために命を懸ける価値はどこにもない。牧師崇拝と、羊争奪戦からはきっぱりと縁を切ろう。

 そして、教会の権勢などなくて構わないから、立派な礼拝堂も、ゴージャスな花も、TV中継も、緋のじゅうたんも、有名歌手のコンサートも、華やかな行事も、最新の設備も要らないから、ただ初代教会の人たちがしたように、それぞれの家庭で、職場で、近所の集会所で、穏やかに集まって、つつましく、心から神を礼拝し、賛美し、隣人を愛し、互いに助け合って暮らし、心から愛に満ちた穏やかな信仰生活に帰ろうではないか。

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