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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

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沖縄クリスチャン戦争を終わらせよ

少し前に、ある沖縄クリスチャンの方からお便りをいただいた。沖縄のカルト化教会の悲惨な現状を、長い間、勇気を持って、訴えて来られた方だったが、活動をもう続けられないという便りであった。
「思い出すだけで、あまりにも苦しすぎて、つらすぎて、もうこれ以上、訴えることを続けられそうにありません…」とのことだった。

カルト化教会を抜けてから、今まで、私は過去の災難から生じた疲労と絶望から抜け出すのでやっとだった。過去を見なおす作業、過去を嘆き、それと訣別する作業、そして、主にあっての休息を得て心の回復をはかり、なおかつ、崩れた家庭の回復を心がけることが、今までの私の生活の主な内容だった。
他のカルト被害者の心痛に対して、私は何もすることができない状態にあった。

しかし、今や休息の日々が終わり、私は信仰のための犠牲を求められるタイムスパンに入ったように思う。
私は今まで、実際に自分が人生で遭遇したことだけを書いてきた。私自身の体験をもとにして、クリスチャンを食い物にしていると思われる人物を告発してきた。初めはかなり曖昧な表現をしていたが、ある時点から、どんな災難が私に降りかかろうとも構わないから、覚悟を決めて、実名で告発することに決めた。それが私が、主のために犠牲を払うことを覚悟した最初の第一歩だった。

だが、そうしてある陣営を告発する一方で、今、沖縄のクリスチャンを食い物にしているもう一つの陣営については、私はかなり無知なままであったし、そのことについてほとんど書いて来なかった。そのために、私がこれまで書いて来たことは、結局、沖縄のカルト問題にとっては、片手落ちであるだけでなく、実際に何の解決にもならない机上の空論に過ぎないと受け止められた被害者も、恐らくいたのではないかと思う。

もしも私がこの先、沖縄のカルト化教会側の問題を無視し続けて、カルト被害者救済活動の非難だけに終始したならば、実際に、私の議論は被害者を置き去りにした空論だということになるだろう。カルト被害者救済活動を否定するならば、一体、では誰がカルト化教会の被害者に必要な助けを差し伸べるのか。誰が本気で被害者の心配をするのか。被害者を無視しての机上の空論は、もう沢山だからやめてくれ、そういう結論が出るだろう。

こうしているうちにも、今一人、愛する沖縄クリスチャンが、ニッポンキリスト教界の放った毒矢に倒れようとしている。そして、ニッポンキリスト教界によって殺されようとしているまた別の羊からの叫びのメッセージが先日、私に送られた。今、沖縄では、カルト化教会、そしてカルト撲滅運動という、二つの陣営の間で、すさまじい戦争が行われている。それによって、引き裂かれ、互いに血で血を洗うような闘争に陥れられている沖縄クリスチャンたちの悲鳴がそこに記されていた。

私はこれを「21世紀の沖縄クリスチャン戦争」と名付けたい。もちろん、もっと良い名があれば皆様に考えていただきたいのだが…。
たとえ沖縄に住んでいなくとも、この惨い戦争を黙って見逃すことなどできるはずがない。両方の陣営を公平に告発しなければ、いや、この戦争そのものを非難しなければ、それは公平な非難とは言えないだろう。沖縄の実態に関しては、これから地道に、時間をかけて書いていくつもりだが、まずここで言えることは、この沖縄クリスチャン戦争を止める最も有効な手立ては、一人でも多くのクリスチャンが徴兵忌避をして、ニッポンキリスト教界による羊争奪戦争という馬鹿馬鹿しい戦闘への参加を拒否することであると私は考えている。つまり、

1)カルト化教会から一人でも多くのクリスチャンが抜け出て、カルト化教会の手先として活動することをやめること。そのためにカルト化教会に属さないクリスチャンは、カルト化教会の悪事を世に告発し、明るみに出し、カルト化教会の権威失墜に貢献すること。
2)カルト化教会で被害を受けた方たちも、カルト被害者救済活動に関わらないようにすること。カルト被害者救済活動の問題点を告発すること。
3)最終的には、沖縄でも、それ以外の地域でも、一人でも多くのクリスチャンが、ニッポンキリスト教界の組織拡大活動から手を引き、教界指導者の引き起こす羊争奪戦に一切手を貸さないようにすること。

とにかく、ニッポンキリスト教界がこれほど殺伐とした場所となってしまった以上、すべてのクリスチャンに勧められることは、一刻も早くそこから抜け出ることだけだ。戦争を終結させる最も有効な方法は、戦争に勝つために戦うことではなく、戦争そのものから手を引くことなのだ。つまり、一人でも多くのクリスチャンが兵士となって戦うことをやめることによって、戦争の威力そのものを弱めることができる。一人、また二人と、クリスチャンたちが、教界の引き起こす様々な形の(リバイバル運動も含む)羊争奪戦争のむなしさを悟り、教界の兵士として戦うことをやめていけば、戦争は力を失って、ついには自然消滅せざるを得なくなるだろう。

教界によって殺されかかっている私の愛する沖縄クリスチャンがもう一度、元気を回復され、立ち上がるその日まで、私もまた、沖縄の現状について、少しずつ書いていかなければならないことを思う。

* * *

さて、沖縄の話題はここで一旦、置いておく。そして、まず、カルト化教会の恐ろしさを全く知らない人たちに周知するために、たとえ話を出したいと思う。
教会で深刻なマインドコントロールに遭ったことのない人には、どうして私がある種のクリスチャン(私がエージェント・クリスチャンと呼んでいるもの)に過敏なまでの拒否反応を覚えるのか、その理由が分からないかも知れない。

「マインドコントロールというものがなかったら、どんなにいい教会だったか・・・、マインドコントロールの恐ろしさを知らない多くの人に伝えたい。マインドコントロールは信者になる以前の考え方や行動に至るまで、すべてを否定するような暗示にかかり、信者になった後のほうが思考能力や判断能力を失う、盲目(思考停止)の状態に陥ってしまうということなのです。人の心(魂)に精神的ダメージを与え続けるのがマインドコントロールの暗示の効いた言葉、つまり説教やメッセージということなのです。 
これは魂の救済よりも目に見えない心の殺害といったほうが近いかもしれません。魂を救い(救済)を謳った教会が、実際には欲望と野望のために、人々の魂を苦しめている、精神的ダメージを与えて判断能力を麻痺へと導くような実態がある」のです。(KENT氏の記事より)

エージェント・クリスチャンという呼称は、私がつけた自己流のあだ名であるが、これはニッポンキリスト教界という、外的影響力によって人の人格を改造しようとする、聖書から逸脱したむなしい人工的福音を語る、異端団体によって、マインドコントロールを受けて、自分の意志を失い、ただ組織の道具として思考し、行動するようになっているクリスチャンのことである。教界組織の工作員となっているところから、エージェントと呼んだ。工作員信徒と言っても構わない。彼らの本質は、要するに、神ではなく人に仕える偶像礼拝者であり、肉なる人間の栄光を築き上げようとする偽教会のむなしい活動のために、働き蟻のように働く偽クリスチャンである。

あたかも真のクリスチャンであるかのように偽装し、公然とクリスチャンを名乗って破壊活動を行い、キリスト教の名を貶めているエージェント・クリスチャンに対する私の嫌悪感と怒りは、とどまるところを知らないくらいだが、きちんと説明しておかなければ、これはただ私の感情的な反応であって、正しい反応ではないと人々に誤解されてしまうだろう。

なぜ、マインドコントロールを受けたエージェント・クリスチャンがそれほどまでに真のクリスチャンにとって危険なのか。このことを説明するためには、まず、カルト化した偽物の教会に、どんなに危険な「世の気遣いと富の惑わし」(マタイ13:22)が満ちているか、そこから説明しなければならない。
カルト化教会とは、神ではなく、人の栄光を求める団体である。人が人におもねらなければ、やっていけない社会がカルト化教会である。そこでは、神を重んじることよりも、人(権威者)を重んじ、組織の繁栄をはかることが何より最優先され、信徒が神ではなく、指導者と組織に栄光をもたらすための道具とされてしまう。そうする以外にはいかなる信徒にも居場所がない、そういう場所がカルト化教会だ。

カルト化教会、偽教会は、イエスの十字架を信じて、神から自由を得て、罪の奴隷の身分から解放されたはずの信徒を、再び人のための奴隷とし、様々な手かせ、足かせをつけて、組織の、指導者の操り人形にしてしまう。そして偽教会には、その教会の偽りの目的(人間の栄光)を達成するための工作員となった信徒たちがうようよしている。そういう偽クリスチャンたちが、指導者である偽牧師、偽教師の手足となって活動し、神の栄光を真に求めている本当の信徒までを圧迫し、操作し、教会の隅々まで信徒をエージェント化するために暗躍し、教会生活を狂わせていってしまうのである。

私は、「偽牧者の霊」、「偽説教者の霊」というものがこの世には確かに存在しているのではないかと思っている。カルト化教会以後、そのようなものに動かされている人たちを一種独特の嗅覚で感じられるようになった。カルト化教会の指導者たちは、まず例外なく、この「病気」の霊に取りつかれていると考えて良いだろうと私は思っている。

「偽牧者の霊」、「偽説教者の霊」は真のクリスチャンにとって大変危険な敵である。
なぜならば、この空中をうごめくハエのような「偽牧者の霊」が、最もおいしい餌として狙いを定め、常食としているのは、新生クリスチャンの純真な魂だからである。

聖書は言う、「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである」(ローマ12:1-2)
「あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい」(コリントⅠ6:20)。

このように、神を信じて受け入れた信徒の身体と心は、もはやその人自身のものでなく、その人の指導者のものでもなく、ただ神の栄光を表すための聖霊の宮となっているはずなのである。信徒は何が神の御心であって、何がそうでないのか、よくよく吟味して、御旨だけに従わなければならない。ところが、この「偽牧者の霊」「偽説教者の霊」は、神の栄光のためにあるはずの聖徒たちの心と身体を、人である牧師の栄光、ひいては、肉なる人間が作り上げる組織の栄光を築き上げるために奪い、かすめ取ろうとする。そして神の御心ではない様々な事柄を、あたかも神の御心であるかのように語って、信徒を惑わし、信徒を牧師の栄光のために使役していくのである。そうしているうちに、最終的には、まことの神への信仰が信徒から失われ、人への信仰(偶像崇拝)だけが残る。

さて、以下は私の体験ではなく、カルト化教会の偽牧師の使うマインドコントロールのテクニックのごくごく一部を示すために作ったフィクションである。

日本のどこかで、ベビークリスチャンが一人生れたとしよう。イエス・キリストを信じて、神に心を明け渡し、喜んで、これからの人生を信仰に基づいて生きようと、希望に満ちている新生キリスト者だ。ところが、空中にうようよしている「偽牧師の霊」というおぞましいハエが、その鋭い嗅覚によって、自分の餌となるものが生じたことを察知する。そして早速、ベビークリスチャンのもとに飛んでいく。

ベビークリスチャンは純真無垢で喜びに満ちているが、まだ信仰のための血のにじむような闘いの厳しさを知らない。偽牧師、偽教師、偽預言者、偽信徒がどれほど危険であるかを知らない。すべての霊が神から来た霊なのではなく、選ばれた人々だけが本当のクリスチャンであり、偽クリスチャンもまたクリスチャンに偽装して混じっているので、疑って、試さなければならないということを全く知らない。

大体、振り返ってみれば、私の知っているどの教会でも、「偽クリスチャンを警戒せよ」という教えは、聖書を見ればこれほどたくさん書かれているのに、一度も講壇から語られたことがなかったように思う。私は救いを受けてこの方、自分自身の頭で物事を考え、自分で聖書を読むようになるまで、偽クリスチャンを警戒することの重要性を、どの牧者からもきちんと教わったことがなかった。
教会でいつも教えられることはこうであった、「何事も自分の頭で考えないで、権威ある書物や牧師たちの教えることを従順に聞きなさい」。教会で、人の信仰が本物かどうかを疑うようになどと教えられた記憶は私には一切なく、まして、「牧者であっても、信仰が本物かどうか試さなければらなない、偽牧者を警戒しなさい」と教ええられたことは皆無である。

そんなわけで、キリスト教界にデビューしたての我らが主人公、ベビークリスチャンは、偽クリスチャンを警戒するようにと教えてくれる人が誰もいないので、信者を名乗って近づいて来る人すべてが本当の信者だと浅はかにも思い込んでいる。特に、御言葉を流暢に操る立派な牧師たちが、まさか偽クリスチャンである可能性など想像もしない。

だが、たとえベビークリスチャンが何も知らなくとも、偽教会というものがこの世にはれっきとして存在し、そこには、信者の心を神ではなく、人に従わせようとして、あの手、この手で信徒の心を操り、生活までも隅々に渡って支配・操縦しようとする危険な偽牧者がいるのだ。偽教会では、一人新しい信徒が生れると、早速、偽牧師がそばにすり寄って行って、あの手、この手で、信徒の思惑を自分の方に引きつけ、神ではなく、自分の栄光のために仕えるエージェントとするために、様々なマインドコントロールを仕かけようとする。

我らが主人公の新生クリスチャンを紹介しよう。彼女はまだ短大を卒業して間もない、若い娘である。親元を離れ、卒業後、下宿で一人暮らしを続けながら、仕事をし、今はキリストを受け入れたばかりの喜びに溢れ、若さと美しさに輝いている。しかし、彼女は知らなかったが、彼女が救いを得た教会は、偽教会であり、彼女に洗礼を授けた牧師は、偽牧師であった。

教会でイベントがあったある日、偽牧師は行事が終わり、礼拝堂に人が少なくなってから、ベビークリスチャンに近づいて言った、
「やあ、きみ、神様を信じて、その後、生活はどうだい?」
ベビークリスチャン(以後ベビー)は満面の笑顔で、溢れる喜びを率直に表した。

「先生、信仰生活がこんなに嬉しくて楽しいものだとは知りませんでした。主を信じる前は、色々な悩みが押し寄せてきて、まるで希望がないように感じられることが多かったんですが、今はそういう悩みにひしがれることはありません。たとえ悩みがあっても、生活の至るところに主の導きを感じるのです。
クリスチャンになるって何て素晴らしいことでしょう。職場でも私は御言葉を語らずにいられません。先生、私を信仰に導いて下さって、こんなにも大きな喜びを知らせて下さって、ありがとうございます」

偽牧師はベビーが早くも自分を讃え、自分に感謝を示したので、心の中で、満足そうにほくそ笑んで言った、
「それは本当に良かったね。神様もきみのために喜んで下さるはずだよ。ところでどうかね、きみは確か、随分とピアノが上手いようだが…」
ベビークリスチャンは顔を赤らめた、
「え、ご存知だったんですか、先生?」
「そりゃ知らないはずはないよ。だってこの前、礼拝堂で弾いてたじゃないか、牧師室にいて聞いていたんだよ」
「お恥ずかしい、全然知りませんでした…」
「何言ってるんだい、きみが素晴らしい賜物を神様からいただいていることが分かったよ。それに、きみは音大生なんだって?すごいじゃないか」
「ですが、私が出たのは短大ですし、卒業してから、仕事が忙しくって、練習もあまりできてませんし…」
ベビーは口ごもった。

偽牧師はベビーが大きな賜物を持ちつつ、それをひけらかさずに、むしろ自己卑下したことに、さらに満足しながら言った、
「どうだい、そのきみの賜物を主のために用いる気はないかい? 神様は喜んで捧げる人を目いっぱい祝福してくれるんだよ」
「それは…、ひょっとして、先生、私に奏楽者になれってことですか?」
偽牧師は優しそうにうなずく。
「うん、すぐに礼拝で弾かなくてもいいんだよ。水曜日の祈祷会や、小さな集会から初めてもいいんだ」
「でも…、私はまだ救われて間もないし、賛美歌もほとんど知らないし…、私には人前で主にご奉仕する資格なんてまだありません…。だって、私の信仰は未熟ですから、とてもそんな大それたことはできません」

偽牧師は、いつも人手が足りなくて困っているちっぽけな自分の教会の奉仕を、元音大生のベビークリスチャンが馬鹿にするどころか、畏れ多いものとみなしていることを知って、さらに満足しながら言った、
「あのね、きみはまだ知らないから、そうやって人と自分を比較してどうこうって思うんだろうけど、きみも信徒なんだから、覚えておかなければいけないよ、神様に捧げるご奉仕はね、人と比較するものじゃないんだよ。

神様にご奉仕するには、能力や経験なんて全然、関係ないんだ。上手い下手を問題にするのは、この世の人々だけだ。クリスチャンは、奏楽者のピアニストが上手く弾いているかどうか、その人がどのくらい長い間、奉仕してきたか、という経験を見るんじゃなくて、その人が心から主にお仕えする気持ちがあってやっているかどうかを見るんだよ。だから、経験とか技術とかは一切、必要ないんだ。主のために奉仕する心があれば、誰にでも、何でもできるんだよ、ね、聖書にもあるじゃないか、『私を強くして下さる方によって、私はどんなことでもできるんです』ってね」

「じゃあ、私みたいな初心者クリスチャンが奉仕しても大丈夫ってことですか?」
ベビーはためらいがちに言った。偽牧師は大喜びで答えた、
「大丈夫どころか、救われた喜びが心にあるうちに、早速、奉仕を始めた方がいいんだよ。ここでこんなことを言うのも何だけど、救われても、何もしようとしないで、ただ礼拝だけにぼんやり長年、通っている信徒もいるよ。でもね、そういう受身で惰性的な信仰生活を続けていると、どんどん心の中から喜びが失われていくんだよ。ねえ、一タラントを地中に埋めた人のたとえ話を、きみも覚えているだろう? 自分が持っている賜物を生かして、主のご用のために用いれば、それは何倍にも祝福されて、返ってくるし、周りの人にも命と豊かさをもたらすんだよ。でも、自分の賜物を生かそうとせず、ただ自分の手の中に握り締めているだけでは、祝福はどんどん失われていって、信仰も貧しくなっていくんだ…。だから、賜物を持っている人は、どんどん使った方がいいんだよ。そうすれば賜物もさらに成長して磨きがかかっていくんだ」

「でも、私なんかで、本当につとまるんでしょうか」
「この前、聞かせてもらった時も、思ったけど、きみなら絶対に大丈夫だよ」
言ってから、偽牧師はすでにずっと前から、彼女に奉仕を頼もうと思っていた魂胆をついうっかり口に出してしまったことを後悔した。何て厚かましい奴だと思われてはいまいかと、偽牧師は相手の顔をちらりとうかがった。だが、ベビークリスチャンは何も気づかずに、ただ喜んでいるようだった。
「私でも主のお役に立てるなら…」
偽牧師は目を輝かせた。
「そうか、それは良かった!じゃあ、できることから少しずつ始めたらいいよ、で、早速、来週の水曜日の祈祷会はどうだい?」

「ええ!? 来週ですか!?」
ベビークリスチャンはすっとんきょうな声をあげた。頭の中にスケジュールがよぎる。一週間、ほとんど予定が詰まっている。どうしたものか…。
「そうだよ、来週。ちょうどね、やってくれるはずだった人が用事があるから来られないって急に言ってきて、どうしようかと私も弱っていたところなんだ。でも、こうしてきみと話せたことに、神様の導きを感じるなあ。どうだい、一つ、きみに助けてもらってもいいかな」
偽牧者はできるだけ困ったような表情をしてみせる。

「でも、どうしよう、来週って言われても…」
「夜7時からだよ」
「仕事はもう終わってるけれど…でも…」
「曲もね、たった2曲しか歌わないんだよ、何だったら、祈祷会の最後まで残っていてもらわなくてもいいんだよ」
ベビーはしきりに考えをめぐらしたが、断るのは気が引けたのでついに言った、
「分かった、やります。夜7時ですね」
「ありがとう、本当に助かったよ。主が君を祝福してくださるように」

水曜日の祈祷会に行くと、信徒が誰しもベビーを歓迎してくれた。そして上手い上手いと、奏楽をほめてくれた。
信徒のおばちゃんたちがベビーを取り囲んで言った。
「あなた、素晴らしい賜物を持っているのね。これからきっとあなたは主のご用のために大きく用いられる器だわ」
「やっぱり、伴奏があった方が歌いいいわねえ。とってもいい気持ちで歌えたわ」
「プロの人って、やっぱり、違うのねえ」
「あのねえ、この教会、一応、奏楽者は他にもいるんだけど、皆、忙しい人たちばっかりでねえ…、伴奏がなくて寂しい日もいっぱいあったのよ。あたしたち、ほら、音感があなたみたいにないでしょう。だから、やっぱり、奏楽がないと歌いづらいのよねえ」
「若い人っていいわあ。これからも、あたしたちと一緒にいてね」
ベビーは皆から誉めそやされて、悪い気分ではなかった。

祈祷会が終わると、偽牧者が満足そうな表情で近づいて来て言った、
「ご苦労様。やっぱりぼくの思った通りだったね、随分と、歌いやすい奏楽だったよ。少しずつでいいから、これからも頑張って、ぼくらを助けてくれるかい?」
誉めそやされたベビーはうなずかざるを得ない。
「私にできることなら…」
偽牧師は満足そうに大きくうなずくと、急に話題を変えて言った。
「ところでね、きみ、確か前に、リサイタルを開きたいって言ってなかったっけ? 何だったら、それを教会でやってみたらどうかと思うんだ。会場は無料だし、友達と誘い合わせて、平日に演奏してみるのも悪くないと思うよ。チケットのこととか、ぼくも協力できると思うし…」
ベビーは顔を輝かせた。
「ほんとですか? 奉仕じゃなくても、教会で自分のコンサートを開いてもいいんですか?」
「もちろん、奉仕も大歓迎だし、コンサートだって構わないよ。平日は礼拝堂は空いているから、練習とかに使ってくれても構わないしね。この教会の奏楽者の一人がね、教会音楽を専攻にドクターを取った人なんだ。パイプオルガンの弾き手でもあるんだよ。彼女がよく別の教会でもリサイタルなんか開いているから、一度、きみを紹介してあげるよ、一緒に相談してみるといい」
偽牧師はスケジュール帳をめくりながら首をひねった。
「そうだねえ…、数ヶ月先の11月あたりくらいに、ぼくがきみのためにいい日を選んでおくよ、またこのことについて話そうね」
教会でリサイタルが開けると聞いて、ベビーは天にも昇るような気持ちで家に帰った。

こうして、ネズミ講の罠にひっかかるようにして、ベビークリスチャンは偽牧師の仕掛けた最初の罠にかかった。
その後、ベビーは、毎週、水曜日の祈祷会で奉仕させられることになり、最初の奉仕からわずか2週間も経たないうちに、偽牧師はベビーに日曜礼拝での奏楽の奉仕も頼んできた。
ベビークリスチャンは何か腑に落ちないものを感じたが、それでも、何とか心を納得させようとしながら、牧師の言うとおりに引き受けた。
(この牧師先生は、私を救いに導いてくれた大切な先生なんだし、間違ったことなんか、言うはずがない。そうだ、これはきっと主が与えて下さったチャンスなんだ。私が卒業後、あんまり練習をさぼってたし、人前で弾くチャンスもなくなってきていたから、きっと神様がこうやって、私が礼拝で弾くことで、腕がなまらないように配慮してくれているんだ…。それに先生は、リサイタルを開いてもいいって言ってくれたし、教会音楽専攻のドクターを紹介してくれるって言ってたし、頑張っていれば、もっともっと活躍の機会がめぐって来て、思わぬ道が開けるかも知れない…)

やがてどういうわけか、偽牧師の教会では深刻な奏楽者不足に見舞われるようになった。ベビーには理由は全く分からなかったが、教会に登録されている奏楽者は5人もいるはずなのに、なぜか毎週のようにベビーだけに奏楽が言いつけられるようになったのだ。毎週のようにピンチヒッターを頼まれるようになり、しかも、それが礼拝直前のこともあった。その度ごとに、偽牧師は困り果てたような表情で、ベビーの顔を拝むようにして言う、
「ごめんね、別の人が来られないって言ってきたから」
「来週はどうかな? 空いてるかな?」
「今、人がいなくて困ってるんだ、やってくれないかな?」

毎週、礼拝が終わる度に、手帳を持って、ベビーに奏楽を言いつけにやって来る偽牧師の厚かましさに、ある日、さすがのベビーも切れた。もう何ヶ月間も、ベビーだけが礼拝の奏楽をし続けている。他の奏楽者は一体、どこに消えてしまったのであろうか。
これ以上、偽牧師の言い分に引きずられるわけに行かないと判断したベビーは、しばらく奉仕を休むことに決めた。
「来週、頼んでいいかな?」
ある日、礼拝後に偽牧師が近寄って来た時、ベビーは思い切って言った、
「先生、私、今、ちょっと仕事が忙しくてどうしようもないんです…、来週は、悪いですが、できません」
来週だけでなく、再来週も、その後も、一ヶ月くらいはずっとできません…、そう言いたかったのだが、牧師の顔色がさっと変わったのを見て、ベビーは続きを言いよどんだ。
「ふうん、来週、だめなんだね。じゃあ、再来週はどうかい?」
ベビーは偽牧師の厚かましさに心の中でうんざりしながら言った、
「まだ分かりません、予定が決まってないから…」
「じゃあ、予定が決まったら、ぼくに知らせてくれるかな、ほら、メールで」
ベビーは偽牧師にメールアドレスを教えてしまったことを後悔しながら、しぶしぶうなずくしかなかった。
「分かりました」
はっきり断れなかったことをベビーは悔しく思いながら帰宅した。

ベビーはその後、偽牧師に何も連絡しなかった。面倒なので、しばらく礼拝にも行かなかった。偽牧師の方からも、ベビーへの接触はなかった。しばらくぶりに礼拝に出てみたが、牧師はもうベビーに奏楽を頼むこともなく、話しかけてくることすらなかった。あれほど、奏楽者が足りなくて困った、困った、と言っていたのに、不思議なことに、どこから沸いて出て来たのか、またも見知らぬ新しい奏楽者が礼拝に導入されていた。
ベビーは何かしら、侮辱のようなものを感じた。
(もしかして、先生は怒っている…? 前はあんなに私に奉仕させようとしていたのに、私があの時、断りの連絡を入れなかったから、それで、怒ってもう私には奉仕させないって決めたっていうこと…?)

水曜日の祈祷会の方の仕事もさっぱり回って来なくなった。あんなに歓迎してくれたおばちゃんたちの態度も、何だか急によそよそしくなったように感じられる。リサイタルの話も、どこかへ消えてしまった。
受洗した頃、友達だった信徒たちは、最近、仕事が忙しすぎるせいで、礼拝に来られなくなった。礼拝に来ても、ベビーは一人ぼっちで寂しい。信仰生活に張り合いがなくなり、もうこの教会に来るのはやめようかと思っていたある日の礼拝で、週報を見ると、次の月の奏楽者欄にベビーの名前が載っていた。
「やあ」
礼拝後、偽牧師が久しぶりに人懐こい笑顔でベビーに話しかけてきた。
「何だか久しぶりに話すみたいだね。ぼくの方も今まで忙しくて…きみとちゃんと話ができなかった、ごめんよ。ほら、前にきみ、忙しいって言ってただろう、だから、奏楽は頼むの控えていたんだけど、もうそろそろいいかなと思って、週報にきみの名前を入れてみたんだ。もちろん、都合が悪かったら、いくらでも断ってくれればいいんだよ、変更は効くからね、強制じゃないんだよ、どうだい、来月あたりは…」

ベビーは心の中でそろばんをはじく。これにOKと言って良いものかどうか。
偽牧師の態度は極めて丁寧で優しい。ベビーは自分がいつまでも何かよく分からない理由で彼に腹を立てているのが嫌になった。
(私が先生に腹を立ててるのは単なる八つ当たりなのかも。先生のこと厚かましいように思ってたけど、やる気がない時に、はっきり断れなかったのは私なんだし)
そう思って、ベビーは偽牧師への不信感を一切捨てて、また新たな気持ちで奉仕に取り組むことにした。

このようにして、お人よしなベビークリスチャンは偽牧師の仕掛けた果てしない罠の中に落ちていき、偽牧師の思うがままに利用されることになった。
そのうち、ベビーは教会の祈祷会で出会った青年信徒と恋に落ちて婚約の運びとなった。偽牧師は二人の交際に満足そうであった。二人は全会衆の前で婚約式を行い、清い交際をするよう偽牧師から勧められた。

その後、二人は普通の恋人同士のように何度か、喧嘩することもあったが、不思議なことに、二人の仲が悪くなると、すぐに偽教会の信徒たちがそれを察知し、噂にすることに気づいた。そんな事情があったので、だんだん、二人は教会でありのままの姿を見せられないようになった。偽教会の婦人部の信徒たちの嗅覚の鋭さには、並大抵でないものがあった。最初の祈祷会では、ベビーには気さくな人たちのように思われたおばちゃんたちは、実は、偽教会のある町のことを隅々まで知っており、100年前に町にどんな住民がいたかまで網羅しているだけでなく、ベビーが日頃、町のどんな店でどんな買い物をしているか、婚約者と会うために余暇にどんなレストランに行ったかまで知っていた。二人が家の外で喧嘩しようものなら、翌週の礼拝では誰もがそれを知っているような有様だった。そこで、二人は鵜の目鷹の目のような信徒達の前で、自分達の関係が品行方正で、落ち度なく、万事上手く行っていると受け止められるように、ことさらに気を遣うようになった。

さらに、ベビーの婚約者の青年は将来、その教会から献身して、牧師になることを夢見ていた。そうなれば、ベビーは将来、牧師夫人ということになる…。会衆は二人が本当に伝道者夫妻になるにふさわしいかどうか、いつも調べるような目つきで二人を見ていた。二人はすでにその教会の献身者としての自覚を持っていたので、将来のために教会運営のことをしっかり学んでおかなければならないと決意した。それから、より一層、ベビーは奉仕に熱心になった。

こうして、ベビーは三年間、その教会にいた。もはや礼拝、祈祷会の奏楽だけでなく、礼拝の受付、週報の印刷と折込、礼拝堂とトイレの掃除、イベントの準備と後片付け、それに礼拝堂の外の草木の水遣り、郵便物の管理、特別行事の際の奉仕など、一切合財の教会の雑務を引き受けていた。奉仕者への連絡と手配もベビーの仕事になっていた。偽牧師は教会から遠く離れた町のマンションに住んでいたので、礼拝堂の管理は信徒の仕事として任されていたが、それもベビーたちの仕事となった。一度、礼拝堂でボヤ騒ぎがあったため、毎日、礼拝堂を巡回する作業も欠かせなくなった。

ベビーはもうへとへとだった。仕事が終わった後、毎日のように教会に駆けつける。休日も、余暇も、すべてが教会行事のために費やされる。ベビーの側の事情などほとんど考慮することなく、次から次へと奉仕を言いつけてくる偽牧師の厚かましさに、ベビーはもう、我慢できないと思った。さて、ベビーの婚約者はこの間、一体、どうしていたかというと、彼は祈祷会での説教や、礼拝での勧士としての説教などを担当していたが、雑事にはまるで関わろうとせず、ただベビーだけが思い切り使い回されていた。しかも、どんなにベビーが立派に仕事をこなしても、彼女は縁の下の力持ちで、その手柄は全て、婚約者と、偽牧師のものとなってしまうのだ…。

優秀な助手をこき使って、一つ一つのイベントを成功裏にこなす度に、偽牧師と婚約者の二人がますます鼻高々になっていくのが感じられ、ベビーはいつしか二人への嫌悪感が心に生じるのを止められなかった。実際、血のつながらない偽牧師と婚約者の青年の二人は、今ではまるで血のつながった父と息子のようにそっくりになっていた。婚約者は偽牧師の言うことなら、どんなことでもはいと言う。偽牧師の要請であれば、ベビーの仕事であろうと、勝手に自分の一存で引き受けてくる。偽牧師とベビーの婚約者は、いかにして偽教会を拡大し、偽教会に繁栄をもたらすかということしか念頭になく、二人はしばしば隠れた場所で、信徒の悪口をこっぴどく言い合っては笑っていた。教会でのベビーの個人リサイタルは一度も実現していなかった。そしていつの間にか、婚約者はベビーに上からものを言うようになり、ベビーがどんなに疲れ切って奉仕している時にも、ねぎらうこともなくなっていた…。

ある日曜日、ベビーは床から起きようとしても、起きられない自分を発見した。それが偽教会との縁の終わりだった。婚約者はベビーが鬱になったと知ると、その原因が何であったか考えようともせず、早速、その話を教会の信徒たちに触れ回り、急な不幸に見舞われた哀れな献身者として、自分ひとりだけ信徒たちの同情を乞うたようだった。

ベビーは仕事も失い、礼拝にも通えなくなり、長い通院生活が始まった。婚約者とは別れたが、じきに彼が新しい信徒と婚約したという噂を聞いた。ベビーが病気になって以来、偽牧師は一度も、彼女を見舞いに来なかった。信徒も来なかった。婚約者は一度やって来て、激しい口論になって終わっただけだった。婚約者から一方的に捨てられたことが分かり、しかも、それが正当であったかのように見せかけるために、彼がベビーのことを信徒の前でさんざんに悪く言いふらしていたことが、ふとしたいきさつから判明した時、いくら彼にもはや愛情を抱いていなかったとはいえ、どれほどベビーは傷ついたことだろうか。長い間、これ以上、生きていても仕方がない、こんな屈辱を味わうくらいなら、死んだ方がましだ、という思いがベビーの心の中に渦巻いていた。

ベビーは偽牧師に長い長い苦情の手紙を書いたが、返事は一切、なかった。それから何年も経って、ベビーはやっと偽教会から自分の教会籍を返してもらおうと思い、思い切って、そこで偽牧師に手続きを要請する手紙を書いたが、偽牧師はベビーの要求を黙殺し、応じようともしなかった…。

こうして、偽教会に何の栄光ももたらすことができなくなったベビーは、身も心もズタボロにされて、捨てられた。ベビーはその後、何年間も、キリスト教という名前を聞くだけで、吐き気がするような思いであった。救われた当初とは打って変わって、心にはもう何の喜びもなく、救いの確信もなかった。クリスマスになると、町で流れる賛美歌を聞いただけで、涙が止まらなくなったり、突然、聖句が頭をよぎり、眩暈がして、心臓が止まるような思いがすることもあった。ベビーが涙なしに、聖書を手に取ることができるようになるまで、30年近い月日がかかった…。

さて、話はここで終わりである。これは偽牧師がいかに初心な羊を自己の野望の手段として搾りつくした上で、無情に捨てるかということを描くために作ったフィクションである。
しかしながら、こんなものは、カルト化教会から生じる被害の中では、序の口であり、比較的軽症であると言えるだろう。次回以降、これよりもさらに深刻な事例について書いていきたい。
 

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