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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

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キリスト教界のカルト化を防ぐために真に必要なことは何か

1.はじめに 村上密氏の記事について

 「教会成長論」の結びを書こうと思っていましたが、それはさて置いて、まずは注目の話題から取り組むことにいたしましょう。

 村上密氏が、ブログ記事「宗教トラブル相談センター」(2009年7月現在では削除された)の中で、「カルト監視機構は『現代の魔女狩りだ!』『秘密警察だ!』『異端審問だ!』との意見は悪意のレッテルです」と書いておられます。
 この主張は、まさに私が書いてきた記事内容に該当しますから、この二行は私への一大反論だと受け止めることができるでしょう。どうやら、氏から見ると、私はすでに「悪意のレッテル」を貼るような、悪意ある人物のうちに数えられているみたいですね…。

 村上密氏は、その穏やかで寛容な外見にも関わらず、これまでの行動から判断するならば、反対者に容赦ない厳しさを持つ方のようです。ネット上でも、これまで氏の活動に反対を唱えた複数のブログ主が、クレームをいただいているという事実があります。

 (余計なことかも知れませんが、具体例をまとめれば、村上氏の記事「思い込み」では、「吉祥寺の森から」の杉本氏の見解に対する批判が述べられているようです。杉本氏の記事「村上密牧師について」でそのことが触れられています。さらに、村上氏は記事「沖縄リバイバル教会」において、ORCを守る有志の会の主張への批判を行い、記事「インターネットの匿名対策」においては、2ちゃんねらー、DonDonDon氏、など、これまで村上密氏の活動を批判した人物を次々と批判しています。2chに関しては、過去ログを保存されているようです。)

 注意して欲しいのは、私がこうした批判そのものが悪いと言っているわけではないことです。正当な根拠に基づいた、合理的な批判は、有意義な議論を生み、学問の発展にも寄与します。しかし、問題なのは、村上氏の記事においては、昨今、反対者の発言に対して、十分な詳しい検証が行われないまま、反対者の意見がただ取り合う価値のない、悪意あるレッテル、もしくは誹謗中傷と決めつけられる傾向が強くなっていることなのです。
 今回は、私もまた、カルト監視機構を批判したことが、ほとんど何の根拠も提示されないままに、二行程度の文章にて、「悪意のレッテル」の一つととらえられる光栄にあずかったわけですが、私が膨大な時間をかけて、必要な証明段階を踏んで行ってきた検証作業を、たった二行で「悪意のレッテル」と断定してしまうのは、あまりにも根拠不足(それこそが思い込みであり、レッテル貼りである)と言わざるを得ない事は、誰の目にも明白でしょう。

 強い力を持ち、全国に名を知られた人物が、幾度も、名誉毀損、悪意、誹謗、中傷、などの言葉を多用すると、それが萎縮効果を生んで、ネット上でも、言論の自由を封じ込めてしまうことが憂慮されます。多様な意見の相違を受け入れるはずのこの民主主義社会では、一つの物事について賛否両論が存在するのは当然のことであり、カルト対策のあり方についても、同じことが言えます。そこで、何が重要な物事を進める上で、きちんとした議論、平和で根気強い対話の努力が必要であることは明白です。にも関わらず、それを行わないまま、ただ決めつけだけが横行するようになると、そのことで社会が悪影響をこうむることが懸念されます。

 しかしながら、同時に、訴訟を起こすことも、市民に与えられた当然の権利ですから、今後、ブログ主、カルト被害者、カルト対策関係者は、この種類の話題に触れられるときには、十分にご配慮ください。カルト被害者であっても、反対者の発言が、具体的に検討されずに、「悪意」と捉えられる危険性が出てきているので、どうぞ、今後、カルト被害者は、このことをお含み置きください。これからは、私も初めにそうしていたように、「イソップの言葉」に戻ることにいたしましょう。

 さて、悪意ある人物のようにみなされれば、最低限の自己弁明の権利くらいは、誰にでもあるでしょうが、しかし、今は、主イエス・キリストをこのブログで証することが、私にとって何よりの最重優先事項です。ですから、自己弁護などは脇にうっちゃり、聖書の御言葉に基づいて、穏やかに、平和に話を進めていくことにしましょう。
 それにしても、何という喜びでしょうか。

「わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、
 あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、
 あなたがたは、さいわいである。
 喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。
 あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ5:11-12)

 かつては福音の落伍者であり、ただ神の怒りを買うだけであったこの私が、キリストのために早くも悪口を言われる名誉にあずかることができたこの幸いを思います。私はすでに福音のための馬鹿となっていますので、私の命もただ神様のご用のために永らえているのですが、このようなことがあると、やはり恵みとして感謝を感じずにいられません。

 かつて、私の人生の宝、私の自由、私の欲望、私の意志、そういったものが強く私の生活に働いていた時期があったのですが、それらは全て使い尽くされました。私が目の欲、肉の欲、持ち物の誇りに生きて、人生を謳歌していた時代は、カルト化教会という、絶対に出会いたくなかった出会いを通して、主によって切断され、無情にも私から切り離されました。
 私は失った宝のことで、随分、泣き暮したものですが、今となっては、もうどんなに望んでも、そのような時代が戻って来ないことは明らかです。神によって私の気ままな自由は粉々に打ち砕かれ、この無情な切断が、十字架上での己の死が、肉による命の代わりに、霊による新しい命をもたらしたのです。ですから、これは私にとってはつらいことでしたが、主の前には正しいことだったのだと思っています。

 こうして、悪なる生き方をする人が、いずれ主の厳しい裁きに見舞われることを、これほどはっきりと思い知らされた今、私にとって、神によって義とされるかどうか、という以外に最も重要な争点はありません。神以外の、肉に過ぎない人間から、いたずらに悪人扱いされたとしても、それが何になりましょう。ですから、クリスチャンは誰しも、他人からの根拠のない批判や中傷を恐れることはありませんし、それに対して名誉毀損の訴訟を起こす必要もないでしょう。

 今、心から残念なことは、ある人物のブログにおいては、初めからそうでしたが、最近、ますます、主イエス・キリストの十字架による罪の贖いの話、御子イエスの話題、福音についての話が聞かれなくなってきていることです。牧師の文章なのですから、福音、罪、御子、十字架、復活、贖いといったテーマを読者が期待してしまうことは、どうしても避けられません。それらのテーマが出て来ないのは、どうしてなのだろうと不思議に思われるのです。

 もしも、真のクリスチャンとして、心から主を愛して生きているならば、私達はイエスの十字架について語らずにいられないのです。カルトの問題の話ばかりを続けて、御子イエスへの愛を語らず、イエスが神の子であり、人類の罪の贖いのために死なれたということを日本全国に向かって伝道しないことはできないのです。

 もしも私がかつて信じていた通りに、ある人物が私達クリスチャンすべてにとっての同胞であるならば、私は決して、どんなことがあろうとも、今後、その人物から永遠の命が失われることがないようにと、真剣に祈ります(どうぞ皆様もお祈りください)。しかし、もしも万が一、(これは考えるのも怖いことですが)、その人物が初めから同胞でなかったのだとしたら、その時は、聖書の御言葉が成就するでしょう(コリントⅡ11:15 )。

 これまでにも語ってきたことですが、偽預言者や、反キリストと親しく交わったり、もてなしたりする人間はその悪事にあずかり、大きな災いをこうむることが、聖書にはっきりと記されています(ヨハネⅡ1:10-11)。真のクリスチャンは、偽預言者、偽教師、反キリストと交わることはできません。

 しかし、誰が本当に主の僕であるのかについて、はやまった判断は禁物です。ただ、主の僕でない人の霊は、神であられ、同時に、人となられて十字架にかかられたイエスを証しない、この一点だけを、しっかりと念頭におかれるよう、皆様にお勧めします。
 もしも、バラムの道を行く人々を非難しながら、自分もまた同じ道を行っている人があるとすれば、それは盲人による盲人の手引きに他なりません。彼らの末路については、聖書が次のように告げています。

「この人々は自分が知りもしないことをそしり、
 また、分別のない動物のように、ただ本能的な知識にあやまられて、
 自らの滅亡を招いている。
 彼らはわざわいである。
 彼らはカインの道を行き、利のためにバラムの惑わしに迷い入り、
 コラのような反逆をして滅んでしまうのである。
 彼らは、あなたがたの愛餐に加わるが、それを汚し、
 無遠慮に宴会に同席して、自分の腹を肥やしている。
 彼らは、いわば、風に吹きまわされる水なき雲、
 実らない枯れ果てて、抜き捨てられた秋の木、
 自分の恥をあわにして出す海の荒波、
 さまよう星である。
 彼らには、まっくらなやみが永久に用意されている」(ユダ1:10-13)


2.キリスト教界のカルト化を防ぐために今、真に必要なことは何か

 さて、このような恐ろしい話題は、ここで終わりにして、今、教会のカルト化を防ぐために、キリスト教界に真に求められていることは何か、という、本日の主題に移りましょう。

 今、キリスト教界には色々な恐るべき不祥事が起こり、多数のカルト化教会が出現し、教界全体に腐敗やスキャンダルが広がり、裁判が起こり、とめどない混乱が広がっています。この状態を何とかすべく、色々な人が立ち上がり、色々な活動を行って来ました。私も教会で被害を受けた一人として、何が必要なのかを色々と考えて来ました。
 しかし、そこから得た結論はたった一つしかありませんでした。腐敗を食い止めるただ一つの策は、聖書の福音(キリストの十字架)に立ち戻ることだけなのです。

 聖書によれば、人の心は甚だしく悪く、歪んでおり、どんな厳しい法律や罰則の適用によっても、あるいは、マインドコントロール、洗脳、その他の外的強制力によっても、人の罪なる性質は変えられません。たとえ裁判に負けて、有罪判決が下り、世間から非難を浴びたからと言って、それで人が決して、過去の過ちを反省するものでないことは、聖神中央の牧師の例などによって、すでに証明されています。

 聖書が人間の生まれながらの本質について教えているのは、次の通りです。

「義人はいない、ひとりもいない。
 悟りのある人はいない、
 神を求める人はいない。
 すべての人は迷い出て、
 ことごとく無益なものになっている。
 善を行う者はいない、
 ひとりもいない。
 彼らののどは、開いた墓であり、
 彼らは、その舌で人を欺き、
 彼らのくちびるには、まむしの毒があり、
 彼らの口は、のろいと苦い言葉で満ちている。
 彼らの足は、血を流すのに速く、
 彼らの道には、破壊と悲惨がある。
 そして、彼らは平和の道を知らない。
 彼らの目の前には、神に対する恐れがない」(ローマ3:10-18)

 つまり、聖書によれば、自分の力で、または外からの影響力によって、義人となれるような人は、生まれながらの人間の中には、誰一人としていないのです。人間には、善ではなく、悪こそが、生まれながらの自然な性質なのです。他人を欺き、平然と悪口を言い、嘘を述べたて、偽証して、無実の人を陥れ、無実の人を殺し、互いに争い、破壊し、流血と悲惨に生き、平和に生きようと思っても、生きられないのが人間の本質だ、ということなのです。つまり、生まれながらの人間は、神を知らず、平和を知らず、ただ無益な営みをすることができるだけなのです。
 ですから、今日、キリスト教界に見られる腐敗は何なのかというと、これは人間の生まれながらの姿がそのまま観察されているのだ、と言えましょう。

 聖書が本来、教えているのは、神の独り子なるイエス・キリストが、人となって地上に来られ、人類の罪のために身代わりとなって死なれた、その御子イエスの十字架の贖いを信じて、人が自分の罪を悔い改め、バプテスマ(洗礼)を受ければ、その人はキリストを通して、神から新しい命をいただくことができ、それによってのみ、人は罪から清められ、聖霊に導かれて、神に喜ばれる正しい生き方をすることができるようになる、ということでした。

「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。
古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」(コリントⅡ5:17)

「わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。
それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや罪の奴隷となることがないためである」(ローマ6:6)

 この教えを信じ、守っているクリスチャンは、本来ならば、すでに罪に死んで、新しい命に生き、聖霊に導かれて、正しい、偽りのない、自己中心でない、神を喜ばせる善なる生き方ができるようになっているはずなのです。

 ところが、今日のキリスト教界に、義ではなく不義、愛ではなく憎しみ、正義ではなく、不正、貧しい者への憐れみや施しではなく、搾取が見られるのはどういうわけなのでしょうか。
 それは本来、神の聖なる神殿であらねばならない教会が、次々と、福音から逸れていき、神の戒めを軽んじ、神ご自身を軽んじ、人間本来の罪なる性質の方へだんだんと魅かれていき、福音から逸れて行ったからに他なりません。誰よりもそのような不正に手を染めたのは、数々のカルト化教会の事件から分かるように、信徒のリーダーであるはずの牧師、聖職者たちでした。指導者が、聖書に基づかない、数々の誤った教えを語るようになり、それに惑わされた信徒たちが、誤った活動に手を染めたがために、教会が反社会的な活動場所になり、多数の信徒が大きな被害をこうむるに至ったのです。

 このように、神に背き、汚れてしまった聖職者の姿については、旧約聖書にも記述があります。

「子はその父を敬い、しもべはその主人を敬う。
 それでわたしがもし父であるならば、あなたがたのわたしを敬う事実が、どこにあるか。
 わたしがもし主人であるならば、わたしを恐れる事実が、どこにあるか。
 わたしの名を侮る祭司たちよ、と万軍の主はあなたがたに言われる。<略>

 わたしはあなたがたを喜ばない、
 またあなたがたの手からささげ物を受けないと、
 万軍の主は言われる。
 日の出る所から没する所まで、国々のうちにわが名はあがめられている。
 また、どこでも香と清いささげ物が、わが名のためにささげられる。
 これはわが名が国国のうちにあがめられているからであると、
 万軍の主は言われる。

 ところがあなたがたは、主の台は汚れている、
 またこの食物は卑しむべき物であるといって、これを汚した。
 あなたがたはまた『これはなんと煩わしい事か』と言って、
 わたしを鼻であしらうと、万軍の主は言われる。
 あなたがたはまた奪った物、足なえのもの、病めるものを、ささげ物として携えて来る。
 わたしはそれを、あなたがたの手から、受けるであろうかと主は言われる。
 群れのうちに雄の獣があり、それをささげると誓いを立てているのに、
 傷のあるものを、主にささげる偽り者はのろわれる。
 わたしは大いなる王で、わが名は国々のうちに恐れられるべきであると、
 万軍の主は言われる」(マラキ1:6-14)

 今日の教会では、旧約聖書の時代のように、動物が神への供え物として捧げられることはありません。すでに御子イエスの十字架で流された血が、すべての犠牲を補って余りあるものとみなされているからです。そこで、今日の教会では、動物の代わりに、礼拝、祈り、賛美、献金が神のために捧げられています。
 ところが、これらの神への捧げ物が、神の目から見て、聖さを失い、むしろ神を冒涜するような、汚れきった、忌まわしい捧げ物となっているのが、今日のカルト化教会のような、腐敗した教会に共通する姿なのです。

 今日のキリスト教界の中には、あまりにも豪勢で立派な礼拝堂を建て、はかりしれない献金額を集め、信徒数を果てしなく増加して、教会の権勢を無限に誇ったり、聖職者が裕福な暮しをしたりすることが最優先課題となってしまっている教会がいくつもあります。こうした教会は、神の戒めを守ることよりも、人間を喜ばせることを優先した教会であり、「目の欲、肉の欲、持ち物の誇り」にとりつかれ、神の戒めに背いて、罪のむさぼりの中に落ちて行った教会です。

 そうした教会では、貧しい信徒、病気の信徒、心弱い信徒から、ほとんど騙すようにして、巻き上げるようにして、献金が集められており、その献金が、聖職者の権勢を誇るために湯水のように使われます。
 献金は本来、聖職者にではなく、神に捧げられた聖なる供え物です。そこで、人を騙し、人から奪い、貧しい者を虐げて得た献金、つまり非道な手段でかきあつめた献金は、主の前に、決して聖なるものと映らないどころか、それは神を冒涜する、神の怒りを買う、忌まわしい捧げ物となってしまうのです。

 同じように、礼拝や賛美も、人間の興奮や歓喜のために、人間の権勢を誇る気持ちから、あるいは見栄から、捧げられるとすれば、それは決して神を喜ばせる聖なる捧げ物とはなりません。人の体裁がどんなに立派であろうとも、主はその人の外見ではなく、心を見られるのです。
 信徒が日曜礼拝を守っているかどうか、献金を定期的に払っているかどうか、どれだけ奉仕をしているか、といった外見的、形式的な行いではなく、聖職者や信徒の中に、本当に神を愛する気持ちがあるかどうか、神の戒めを守って歩む意志があるかどうか、それを実際に行っているかどうか、という点を神はご覧になるのです。

「父なる神のみまえに清く汚れのない信心とは、
困っている孤児や、やもめを見舞い、
自らは世の汚れに染まずに、身を清く保つことにほかならない」(ヤコブ1:27)

 ですから、外面的にどんなに立派に、敬虔そうに振舞っている信徒でも、内心に、神を恐れる気持ちがなく、聖なる神にふさわしくない、罪深い生活を送り、悔い改めることがなく、貧しい者を虐げ、困っている人を助けず、己の利益だけを求め、神を喜ばせる清い人生を歩もうとする覚悟がないならば、どんなに教会組織のために尽くし、奉仕していたとしても、多額の献金を捧げていたとしても、有名な伝道者として名を馳せていたとしても、信仰においては失格者となってしまいかねないのです。そのような偽善的な行いを続けていると、いつしか本当に救いを失ってしまうことは避けられません。

「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。
 それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)

 確かに、神は一人として人間が滅びることなく、すべての人が救われることを望んでおられます。しかしながら、人間の方では、その神の期待に応えられない人もまた多いのです。それどころか、神を信じて救われたように見えながらも、実際には、救いにあずかる心の準備が出来ておらず、習慣的な罪の生活に戻って行って、救いから漏れてしまう人たちも確かに存在するのです。

 キリストは、敬虔そうに見える信者が誰しも救いにあずかるわけではなく、父なる神の御心にかなって、罪なる性質に従わずに地上の生を歩んだ人だけが、救われるのだということを指摘しました。

「わたしにむかって、『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、
 ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけがはいるのである。
 その日には、多くの者が、わたしにむかって
 『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。
 また、あなたの名によって悪霊を追い出し、
 あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。
 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、
 『あなたがたを全く知らない。
 不法を働く者ども、行ってしまえ』」(マタイ7:21-23)

 この聖句は重要な意味を持っています。今日、イエスの名によって預言したり、イエスの名によって悪霊を追い出したり、大いなる力あるわざ(奇跡)を行っている偉大な伝道者が多数、存在しますが、そのような偉大な伝道者や牧師の中にさえ、内心では、父なる神の御心にかなった道を歩まず、習慣的な罪に堕ちている者が潜んでいる可能性があることを、聖書は告げているからです。

 では、人は信仰によってだけでは救われず、神の目から見て、完璧な行いをしていなければ、救われないのでしょうか? そうではありません。主イエスを信じてバプテスマを受けたからといって、いきなり信徒の人間性がパーフェクトに変わることはありません。やっぱり、知らずに罪を犯すことはありますし、気づいた度ごとに、私達は罪を悔い改めて、人と和解し、必要な償いをし、さらに御心にかなうように歩んでいくということを根気強く繰り返さなければなりません。そうしているうちに、いつしか次第に、その人の人柄そのものが、本当にキリストにふさわしい香りを放つようになっていくのです。

 ですから、ここで言われていることは、行いにおいて絶対に罪を犯すことのないパーフェクトな人間性を獲得しなければ、誰も天国へ行けないということではないのです。そうではなくて、どんなに神を信じているように口では告白し、神の名において、様々な偉業を成し遂げたとしても、もしもその人が習慣的な罪の中に落ち込んで、「目の欲、肉の欲、持ち物の誇り」という罪なる性質に魅かれていき、罪深い生活を愛するようになるならば、その人はもはや救いの対象とはならない、ということなのです。

 これまでにも幾度も書いてきましたが、聖書がクリスチャンに向かって、警戒するようにと、再三に渡って教えているのは、キリストを信じない異教徒たちではなく、クリスチャンのふりをしながら、罪なる性質に従って歩んでいる偽クリスチャンなのです。

 パウロは言います、私達クリスチャンが警戒せねばならないのは、「外のひとたち」つまり、キリスト教に属さない仏教徒や、イスラム教徒や、その他の様々な宗教の信者ではなく、「内の人たち」、「兄弟とよばれる人」たちの中にいるのだと。すなわち、クリスチャンとして互いに兄弟姉妹と呼び合い、まさに敬虔なクリスチャンであるかのように振る舞いながら、内心では神を裏切って、習慣的な罪の生活を送っているような偽クリスチャンこそ、キリスト者が最も警戒しなければならない対象なのです。

「わたしが実際に書いたのは、兄弟とよばれる人で、不品行な者、貪欲な者、偶像礼拝をする者、
 人をそしる者、酒に酔う者、略奪をする者があれば、そんな人と交際をしてはいけない。
 食事を共にしてもいけない、ということであった。
 外のひとたちをさばくのは、わたしのすることであろうか。
 あなたがたのさばくべき者は、内の人たちではないか。
 外の人たちは、神がさばくのである。
 その悪人を、あなたがたの中から除いてしまいなさい」(コリントⅠ5:11-13)

 今日、キリスト教界の中にこれほど腐敗が広がってしまった理由としては、本来ならば、クリスチャンの仲間とみなされるべきではない、早急に取り除いてしまわなければならないような、罪深い生活を送る偽クリスチャンたちが、キリスト教界から、除かれることもなく、批判されることもあまりなく、ただ放置されてきたことの苦い報いだと言えるでしょう。

 カルト化教会の牧師にはどのような人格者が見られるでしょうか。金に貪欲な者、不品行な者(=性的な罪に陥った者)、イエスを否定する異端を信じる者、根拠のない悪口を言いふらす者、貧しい者を搾取し、人を騙して金を奪う者などばかりではありませんか。
 パウロが、このような人たちは、クリスチャンの仲間とみなされるべきではない、と告げたにも関わらず、今日のキリスト教界では、このように根腐れを起こした偽クリスチャンを取り除く機能がほとんどと言っていいほど働かず、偽クリスチャンが跋扈し、その活動を止められないのが現状なのです。それどころか、不品行な牧師を他の牧師が支援していたり、貪欲な牧師が教会成長の見本として讃えられていたりするのです。

 こうして、偽クリスチャンを排除することができなくなった結果、イースト菌がパン全体を大きくふくらませるように、キリスト教界全体が、偽クリスチャンの誤った教えにさらされ、汚染されて、次々とカルト化教会が生まれ、大きな被害が各地で生れるようになってしまいました。

 なぜプロテスタントの教界でこのような倒錯した現象が起き、背教が広がることが許されたのかはよく分かりませんが、このような状態は、少なくとも、聖書が告げている「終わりの時代」の特徴に合致するものです。

「愛する者たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの使徒たちが予告した言葉を思い出しなさい。
 彼らはあなたがたにこう言った、『終りの時代に、あざける者たちがあらわれて、
 自分の不信心な欲のままに生活するであろう』。
 彼らは分派をつくる者、肉に属する者、御霊を持たない者たちである。<略>
 肉に汚れた者に対しては、その下着さえも忌みきらいなさい」(ユダ1:17-23)

「しかし、民の間に、にせ預言者が起こったことがあるが、
 それと同じく、あなたがたの間にも、にせ教師が現れるであろう。
 彼らは、滅びに至らせる異端をひそかに持ち込み、
 自分たちをあがなって下さった主を否定して、
 すみやかな滅亡を自分の身に招いている。
 また、大ぜいの人が彼らの放縦を見習い、
 そのために、真理の道がそしりを受けるに至るのである。
 彼らは、貪欲のために、甘言をもってあなたがたをあざむき、
 利をむさぼるであろう。
 彼らに対するさばきは昔から猶予なく行われ、彼らの滅亡も滞ることはない」(ペテロⅡ2:1-3)

 恐らくは、今の時代は、「背教の時代」に当たるのではないかと私は考えています。
 あざける者たち、不信心な欲に従って生活する偽クリスチャンたちが、公然とクリスチャンを名乗って、キリスト教界に入り込み、異端の教えで大勢の人たちを惑わし、大きな勢力の教会を作り、有名人となり、まるで自分の教えこそが正統なものであるかのように振舞い、逆に、真理を語っている人を迫害するようにさえなっているのが、今日のキリスト教界だと言えはしないでしょうか。

 Dr.Lukeが記事「『囲い』の呪縛を出よ」の中で訴えているのはまさにこのことです。つまり、今日のキリスト教界において、もしも異端に陥った教会が、全体の1%や2%程度なのであれば、私達はその教会だけを個別に異端として認定し、仲間の中から取り除き、絶縁するだけで、正しい教えを守っていくことができるでしょう。

 しかしながら、もしも今日のキリスト教界において、異端や、偽クリスチャンのパーセンテージが60-80%ほどに高まり、しかも教会を外から見ただけでは、どれが異端で、どれが正統なのか、その見分けもつかず、その上、正統な教会までが、異端の教会と交流を保って、互いに協力し合うようなことが常態化しているとすれば、後もう少しの時間が経てば、キリスト教界は100%、異端に汚染されてしまうであろうことは、誰しも明らかに予想できます。カビの生えたミカンを箱の中にずっと放置しておけば、やがてすべてのミカンがカビにまみれることになるのは避けられないのです。

 ニッポンキリスト教界の危険度については、人それぞれの判断があるでしょう。教界全体のうち、カルト化している教会はわずか数パーセントだと言う人もあるかも知れませんし、90%以上に達していると言う人もあるかも知れません。統計を取れないような事柄ですから、確かな証拠を提示することは誰にもできないことをあくまでお断りした上で、私自身の判断を述べれば、キリスト教界は四捨五入すればもはや100%、カルト化が進んでいるのではないかと思っています。

 つまり、ニッポンキリスト教界は、腐って、カビの生えたミカンがいっぱいにつまったダンボール箱のような場所になりつつあるのです。放っておけば、善良な活動を行っている最後の教会までが、カルト化という異端に染まってしまいかねない危険にさらされているのです。

 すでに申し上げたように、本来、カルト化を防ぐために、キリスト教界に必要なことは、福音に立ち戻ることなのです。ところが、異端が広まっている状況では、その福音に立ち戻ることが、かなり難しくなっており、絶望的であるとさえ言えるのです。こうして、ニッポンキリスト教界全体が深刻な危機にさらされ、救いをもたらす狭き門ではなく、破滅に至る広い門を歩みつつある、正しい道に立ち戻ることがもはや絶望的なまでに困難となり、もはや救いの可能性がほとんどなくなってしまっている、そのことが、私が昨年度からずっと記事において訴えてきた警告でした。

 ですから、このような危機感を抱いている人にとっては、解決策はただ一つしかありません。この危険なダンボール箱から外に出て、カビ菌のない、清浄な空気を吸うことです。危険なものとは縁を切って、新しい生活を始めることです。

 ここで覚えておかなければならないのは、仮にキリスト教界全体が甚だしく腐敗しているということが現実であるにせよ、その腐敗について、私達クリスチャンは平和に警告することはできても、何らかの実力行使(裁判等)に及ぶことは、すべきではないということです。キリスト者の武器は信仰であって、司法や政治の場における闘争ではありませんから、異端との闘いにおいては、非暴力・不服従が最も良い解決策であるように私には思えます。

 ですから、カルト化教会に傷つけられた人も、決して、キリスト教界全体を敵として、政治運動を起こしたり、キリスト教界全体を憎むようになってはいけないのです。ただ静かにそこを出て行き、同胞のクリスチャンに、それに交わらないよう警告を発し、信頼できる新しい交わりの場を見つければよいのです。

 今日、キリスト教界において、カルト対策と呼ばれている活動は、主として、司法の場において、異端に陥った教会の責任者に非難の矢を放つものでした。しかし、今までにも、すでに幾多の御言葉から学んで来たように、聖書が教えているのは、異端に陥った偽クリスチャンを裁判に訴えて、彼から受けた金銭的・物質的被害を、被害者が取り返すようにということではありません。聖書によれば、まず何よりも早急に、クリスチャンが、偽クリスチャンを仲間のうちから取り除き、異端に陥った者ときっぱり絶縁することが求められているのです。

 偽クリスチャンの「下着さえも忌みきらいなさい」、彼らと「食事を共にしてもいけない」という御言葉を文字通りに受け止めるならば、偽牧師、偽教師からどんなに大きな被害を受けても、彼から何かを取り返そうとすることは、結局、彼の悪事によって汚れされた金銭や物品を受け取ることなのだと気づかなければいけません。受けた被害を取り返したい、何としても、公の場で謝罪させたいという気持ちは、私にもなかったわけではありません。

 しかし、もしも、私が偽牧師からしかるべき金銭的な賠償を受けたとしても、その人が真に悔い改めて自分の方から補償を申し出たのでなかったならば、私が受け取る金銭は、偽牧師がきちんとした労働を通して得たものではなく、信徒を騙して巻き上げた、汚れた献金を財源とするものであるかも知れません。私が偽牧師を仮に裁判に訴え、勝訴することができたとしても、彼の懐にあるものを受け取ることによって、私は主の前により聖別され、より主の御心にふさわしい歩みを進められるのだと、確信を持って言えるでしょうか? いや、むしろ、ひょっとして、汚れたものを受け取ることによって、彼が受けるべき呪いに、私も共にあずかってしまうことになりかねません…。

 聖書が教えているのは、偽牧師自身に対してもそうですが、偽牧師の教えや、持ち物、彼の影響力の及ぶすべてのものときっぱり訣別し、そこからいかなる利益をも受けようと思ってはいけないということです。
 偽牧師、偽クリスチャンに対して裁判を起こすことは、ただ、偽牧師と真実なるクリスチャンという、本来、何の関係もあるべきでない間柄に、望ましくない関わりが続いていくことを意味するだけでなく、偽牧師からの何らかの利益を目当てに、偽牧師に接触することを意味し、それは、結局、私達が偽牧師の懐を当てにしていることになり、彼らの汚れた財源を共有することで、自分も汚れを身に引き受ける結果を起こしかねないのです。

 私には、目に見えるわけでない呪いについて、あまり語れませんが、少なくとも、このように御言葉を見ていくならば、今回、ORCに対して原告が勝訴しなかったことは、人の思惑から見れば、残念なことではありますが、しかし、神の目から見れば、最善の道だったのではないかと思います。
 なぜならば、原告がもしも勝訴していれば、原告は、偽牧者や偽クリスチャンによって汚された金銭を受け取らされていたかも知れないからです。私の理解を超えたことであるとはいえ、すべての物事に働いておられる神は、もしかすると、原告を偽クリスチャンのあらゆる汚れから守るために、あえて勝訴を妨げられたのかも知れません。

 繰り返しますが、ニッポンキリスト教界からどのような被害を受けようとも、そこにいる信徒を憎んではいけません。救われる人が一人でも多くなるように、異端に気づく人が一人でも多くなるように、彼らのために祈りましょう。実力行使のともなわない形で、静かに、警戒を呼びかけましょう。静かにそこを出て、腐敗に汚染されていない、心から神を喜ぶ、聖徒との交わりを続けましょう。

 今、カルト化教会に対して裁判が起こされているように、ニッポンキリスト教界に向かって何らかの実力行使を行うことは無意味です。腐敗した聖職者と闘おうとしてはいけません。彼らに向かって、自分の正しさを認めさせようとしても、意味がありません。悪口を言われても、讒言されても、主にあって喜びましょう。教界に異端や腐敗を持ち込んだ人々から、何か利益を受け取ろうとして、後ろを振り返ってはなりません。

 不法を働く人々、そして不法を働く者と交わり続ける者からは、きっぱりと離れましょう。

 昨年からずっと書き続けて来たように、私も次の主張に共感しています。
 ニッポンキリスト教界からエクソダスせよ。そして御子を信じ、世の諸々の欲に打ち勝ち、神に喜ばれる聖い生活を送りましょう。 

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