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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

ニッポンキリスト教界の終焉と、新しい時代の始まり

 私は今、子供のような喜びを感じている。それは、私がどんな信仰の群れにも所属していないにも関わらず、各地にいる兄弟姉妹が、まるで私と歩みを合わせてくれているかのように、同じ感慨、同じ理解、同じ境涯に至っていることを感じるからである。
 まったく何の連絡も取り合っておらず、顔も見たことのないような人々、口裏を合わせようにも、それが不可能な、連絡の途絶えたところにいる人々の言説の中に、自分と同じ理解があることを発見して、本当に嬉しくなってしまう。

 ネットはしばしば人間の欲望渦巻く、不穏な世界となる。今日の社会の乱れた風潮のいくつもがネットをきっかけに始まった。そして、ネット上で度々、民衆の恨みを買って、引きずり下ろされる権威者たち…。
 かつてソ連邦崩壊時に、TV画面を通して、私たちはレーニンやスターリンの銅像が引き倒される歴史的瞬間を目の当たりにした。ベルリンの壁崩壊の場面も印象深かった。

 それは、一つの権威が音を立てて崩れ落ちる瞬間であった。その劇的場面は人々の記憶にまざまざと焼きついている。しかし、従来の権威が倒れた後で、自由と解放が訪れるかと思いきや、喜びも束の間、その国の政治や社会、経済には長い混乱が続いていくのが常であった。

 しかし、今、ネットも含め、この荒廃した日本社会で、ニッポンキリスト教界という一つの権威が倒されることにより、ただ混乱が生み出されるのでない、新しい形の権威の移譲が行われているように私は感じる。
 ここ数日、その予想を私は身近な人々に嬉々として語っていた。今、何かしら、日本社会が変わりつつある。それは今まで私がさんざん警告してきたような、悪い方への変化ではなく、良い変化だと感じるのだ。

 もしかすると、ヨナの預言のように、私の予測は大はずれにはずれたのではないかと思って、嬉しくなっていた。このままでは暴動が起きかねないとか、革命が起きるかも知れないとか、戦争にさえなりかねないとか、教界がまるごと炎上するとか、様々な言葉を使って、さんざんに混乱に満ちた予測を私は語り続けてきた。
 もし、対策がなければ、この国は必ず滅びる!、それが私の主張であって、それは今も変らない。だが、国策にはまだ何の変化も見られないものの、それでも、社会の最前線である民衆の動きを見れば、この日本社会にはまだ、目の前に壁があることを知らされれば、壁にぶつかる前に、すんでのところで、ハンドルを切るくらいの知恵は確かに残っていたのだと感じるのだ。

 もちろん、戦争や暴動の危険性はいつになってもなくならない。それでも、私は日本社会が今、大きな衝突の手前で、無我夢中でハンドルを切って、悲惨な事故を回避したように思われてならず、本当に喜んでいる。その証拠を出せと言われても、これは何か直観のようなものだから、説明することが難しいのだが。
 とにかく、クリスチャンもまた、恐るべき事故を回避したように思われてならない。クリスチャンが長い間の権威主義によるマインドコントロールの眠りから目ざめた時、教界にどんな悲惨な崩壊状態がもちあがるかと私は思っていたのだが、そんな壊滅的状態に至らない前に、多くのクリスチャンが静かにハンドルを切って、その場を自主的に立ち去ろうとしているのではないだろうか…。

 暴動でもなく、革命でもなく、打ちこわしでも、社会運動でもなく、個々人の心の中で、ただ静かな変化が起こることによって、社会全体が静かに動かされ、変わろうとしているのだ。

 私がずっと懸念していたのは、私がブログにおいてニッポンキリスト教界を厳しく非難することで、それが破壊のエネルギーを持った何かの不穏な運動に結びつきはしないかということだった。だから、幾度も、幾度も、私は、教界に対していかなる政治運動をも組織しないことを宣言しなければならなかった。私の言葉がきっかけとなって、何らかの教団教派などの、特定の団体に対して、一揆や打ちこわしのような、めくらめっぽうの破壊運動が起こされることは真っ平ごめんだったので、そのようなことがないよう、呼びかけずにいられなかった。

 私が読者に呼びかけたかったのは、権威者を倒すという一揆に参加して満足を得ることではなく、クリスチャンが目の前で展開する事実をしっかりと見据えて、何が正しいのか、人に頼らず、自分自身で考える力を養うことの重要性だった。ただ誰かを安易に非難したり、特定の団体をバッシングすることで問題を終わりとするのではなく、または、どこかの団体に所属することで安心してしまうことなく、今後、どのように生きて行けば、キリストと直結した生き方をしたことになるのか、どうすれば、与えられた場所で、信仰を体現して生きることができるのか、クリスチャン一人ひとりが自分で考え、誰の言葉をうのみにすることもなく、未来を鋭く予測した上で決めていける、確かで力強い判断力を持つことの重要性だった…。

 だから、そのように深く沈思黙考することなく、誰かの言葉に安易に踊らされたクリスチャンが、ただ打ちこわしのような運動に走って行きはしないかと思うと不安だった。ペンテコステ・カリスマ運動だけを叩けば、ことは終わりになるとか、そのように特定の運動だけに罪を着せて問題を終わらせるような、浅はかな結論が出てしまうことは避けたかった。
 しかし、そのような危惧は去ったと思う。クリスチャンは愚かではなかった。

 私はニッポンキリスト教界を非難したことを後悔していない。この闘いは政治運動ではなく、打ちこわしでもなく、ただ言葉だけを頼りに、一人ひとりが考える力を取り戻すための闘いであった。それは教界が言うような「霊の闘い」とは一切、関係がない、一人ひとりが虚妄に巻かれることを拒否し、人間らしく物事を考える力を取り戻すためだけの闘いだった。そしてニッポンキリスト教界はひとりでに倒れた。私の言葉などなくても、教界に終わりは見えていたのだ。そのことは多くの人々の証言によってすでに立証されている。

 今、ニッポンキリスト教界という巨木が倒れたことにより、これまで、日の当たらないところで成長を阻害されていた一本一本の草たちが、生気を取り戻そうとしているように感じる。これまで社会に君臨してきた大きな権威が音を立てて倒れたわけだが、かといって、それはソビエト崩壊後のような混乱をもたらすことなく、静かな変化の中で、これまでに全くなかった新しい解放をもたらすだろう。

 なぜ混乱が起きないかって? それは、地上の権力闘争ではないからだ。
 解放は個人の解放であって、社会現象でも、解放運動でもない。
 「イエス革命」、「ペンテコステ運動」、「フェミニズム運動」…、これまで大衆に起こった劇的な変化は全てある枠組みの中での運動という形で現れて来たが、これから起こる変化は、きっと、どんな運動の枠にもはまらない、静かなさざ波のような変化になるだろう。
 個人という粒子が静かに変えられていくことで、結果的に、社会全体が変わるのだ。社会を変えようとして個人が動くのではない。個人が変わることで、社会が変わるのだ。

 昨日、私は身近な人々に、このような楽観的な予測を語っていた。
 泥沼のような荒廃状態にあったこの日本が、今、変わろうとしているのではないか?
 もう一度、この国が、世界に先駆けて豊かな社会のモデルを示せるほどに、力を取り戻そうとしているのではないか? それはこの国が今まで捨ててきたモラルを復活させることによってのみ実現するのではないか?

 キリスト教界でも、今後は、団体や教会の囲いにのみよりすがった信仰のあり方や、どこかのカリスマ的指導者の指導をうのみにした妄信的な信仰のあり方が奨励されることはなくなり、はたまた教会成長論などのアメリカから輸入されたプログラムにクリスチャンが安易に踊らされることもなくなって、ただ、個人個人が真に力強い信仰を持つために何が必要なのか、自分自身の頭で判断していくことが求められる時代になるだろう。

 愚かな大衆が集まれば、衆愚政治が生まれるが、一人ひとりがきちんと考える力を持った社会ならば、大衆社会には違った未来が開かれるに違いない。これまでの日本社会はあまりにも拝金主義に陥りすぎて、モラルを失いすぎた。人数だけにこだわった浅はかな教会成長論や、献金さえ増えれば良いというキリスト教界の流行もまた、経済に顕著に見られた人間の資材化と、拝金主義に沿って生まれた考えである。

 だが、今、日本社会はこれまで長きに渡って破壊してきたモラルを取り戻すことにしか、社会の延命の道がないことに自ら気づきつつあるのではないか。不況の逆効果によって、カネさえ儲かれば良いという考え方では、誰一人としてこの先、生きられないことを大勢が感じ取っているのではないだろうか。
 自分一人儲けるのでなく、身近にいる人々と助け合って、共に手を携えて生きることこそが、社会全体の延命の秘訣だということが、社会の最前線に立っている名もない人々の間では、すでに常識となりつつあるのではないか。人間を「数」として見るのでなく、「かけがえのない成員」として見ることだけが、この社会を今までのような殺伐とした場所ではないところへ変えて行ける秘訣なのだと、人々は早くも気づきつつあるのではないだろうか…。

 今、拝金主義という偶像が倒れることによって、今まで漠然と社会を覆っていた無力感、あきらめ感が去ろうとしている。牧師にさえまかせておけば何も考えなくて良いという風潮の中で、知性と力を奪われてきたクリスチャンが、牧師中心主義、権威主義という偶像が倒れたことによって、無力感から解放されようとしている。今、一人ひとりがきちんと考えれば、この先、悲観的な未来は必ず回避できるだろう。一人ひとりがしっかりと未来を考えることによって、必ず社会をもっと良い場所へ変えていける。その希望と勇気が生まれつつある。

 Dr.Luke 率いるKFCに、私はこれまである危惧を抱いていた。それはDr.Lukeの魅力と吸引力が強いだけに、そこがカリスマティックなリーダーのもとに結集する群れになっていきはしないかという危惧であった。
 だが、記事の中で、彼の爽やかな弁舌が、私のそんな浅はかな危惧をしっかり退けてくれている。

「本日のメッセージでも語りましたが、これからニッポンキリスト教界は荒廃に落ちるでしょう。イエスの名以外に高くされる名はことごとく打ち倒されるでしょう。それは戦後の東京の焼け野原のイメージです。しかしそこにはよく見ると、小さな青い目があちこちに芽吹いていることでしょう。これが神の御業です。復活のいのち、青く芽吹いた双葉たち。弱々しく、派手ではなく、しかしキラキラと輝いているのです。私が今見ているビジョンはこれです。それはいわゆる教派とか神学とか、そのような形骸化した教えや教義の制限とは関わりなく、自由にまさにあちらこちらに、今はまだ点々とですが、芽吹くのです。否、すでにその兆しを見ることができますし、確かな手応えを感じています。

それは一切人の手によらず、ただ神のいつくしみとあわれみの中で、恵みによって水を注がれ、養分を与えられ、着実に育つことでしょう。具体的には『二人または三人がわたしの名の中へと集まる時、わたしもまたその中にいる』と言う主のお約束の実体化です。これは『ニ、三人集会運動』ではありません。集まるのは何人であっても構いません。少ない時はその味わいが、多いときもその味わいがあるのです。大切なのはわたしの名の中へ集まることです。そしてこれが実際的に実行できる人々が育てば、すでに特定のミニストリーは彼らにとっては不要です。なぜなら育てて下さるのは神ご自身だからです。

今後、このようなビジョンによって神はいのちを荒廃の中で増殖されることでしょう。煌びやかではありません。力もありません。しかしこの小さな芽はアスファルトすら打ち破って芽を出すのです。この時がすでに来ています。そしてあらゆるいのちの誕生と成長のための資源は十字架にあります。それを見い出した者は幸いです。ハレルヤ!

『神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。』」

 これまで巨木によって成長を妨げられ、暗闇の中で押しつぶされようとしていた若い芽が、今、光の中で顔を上げ、一斉に、伸びやかに天を仰いでいる。聖霊の与える理解が、これらの取るに足りない小さな葉の上で、朝露のようにきらきらと見事に輝いていることだろう。どうか主がこれらの人々の心を守られ、それぞれに与えられた場所で導きを与え、豊かな信仰へと育んでくれますように!

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