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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

主に信頼して、善を行え。この地に住み着き、信仰を糧とせよ。主に自らをゆだねよ 主はあなたの心の願いをかなえてくださる。

「悪事を謀る者のことでいら立つな。
 不正を行う者をうらやむな。
 彼らは草のように瞬く間に枯れる。
 青草のようにすぐにしおれる。
 
 主に信頼して、善を行え。
 この地に住み着き、信仰を糧とせよ。
 主に自らをゆだねよ
 主はあなたの心の願いをかなえてくださる。
 
 あなたの道を主にまかせよ。
 信頼せよ、主は計らい
 あなたの正しさを光のように
 あなたのための裁きを
 真昼の光のように輝かせてくださる。」(詩編37編1-6)

* * *

いよいよゴールデンウィークも終わろうとしており、今年の筆者は、休息と未来に向けての準備だけに時間を費やした。コロナを機に、筆者自身も立ち止まり、今後、どのように生きるべきか考えさせられた。この国にもそうであるが、筆者自身にも、大きな転機が来ているのを感じている。

日本経済は、これまで奈落のどん底へ向かってひた走って来たのだが、コロナを機に、ついにその「奈落」が本当に見えて来た。おそらく、これから未曽有の大打撃を受けることになり、その影響ははかり知れないものと思う。

それに伴い、これまで就職氷河期世代の抱えていた問題を、はるかに超えるような巨大な問題が生じた。多くの人々が生活難に見舞われようとしているのである。

それにしても、今年からの2年間は、就職氷河期世代への政府の特別なプログラム支援の年になるはずであった。しかし、それも、コロナの影響でほとんどかき消されようとしている。

その現状を見ると、やはり、この世代は、政府の支援など当てにせず、自分の足で力強く立って、逆境を切り抜けて生きる秘訣を早く習得するのが最善だという気がする。

筆者自身は、以下にも書く通り、その秘訣をすでに見つけ、歩みを進めているところであるため、コロナがどうあれ、政府がどうあれ、社会がどうあれ、生き方に何の影響も受けてはいない。

だが、コロナがもたらした影響の大きさを思うのは、コロナは、これまでのように、就職氷河期世代と、それよりも若い世代だけでなく、バブル時代に入社した正社員たちにまでも、悪影響を及ぼしつつあることだ。

大企業が生産停止に追い込まれ、巨額の赤字を抱えるようになり、これまでは「社内失業状態」が許されて来た50代の大量の人々が、今後、真っ先にリストラの憂き目を見るかも知れないとの記事もある。

筆者は、コロナが本当に終わらせようとしているのは、「昭和の名残り」ではないかと思う。

筆者は、昭和生まれでバブルを経験した人々と話すとき、彼らには、バブル崩壊以降に、社会に出た人々とは、全く異なる考え方があるように感じられることがあった。

一概にひとくくりにはできないのだが、バブル世代は、自分たちの人生が絶頂期にあった時の「成功」のイメージに、今も非常に強くとらわれているように感じられる。

世の中が不況になって以後、そのような「成功」はもはやほとんど有り得ないものとなったのだが、彼らはずっとその時代の成功と繁栄のイメージにしがみつき、これを今もお手本のように生きている。そして、その夢が今も達成可能であるだけでなく、あたかも彼らが今、それを手にしているかのように演じることをやめられない傾向が強いように思う。

一言で言えば、彼らはものすごく強がりで、見栄っ張りなのである。自分が今も成功していることを、何とかして周囲にアピールしようと、自慢話を続けずにいられない。基本的に、社交好きで、派手好きで、パーティーや宴会が大好きな人たちも多い印象だ。

だが、世の中は、とうにそんな時代ではなくなっているので、彼らが演出し続けている「繁栄」や「成功」は、実体の伴わない外側の演技、虚勢のようなものと見える。もちろん、バブル時代に築いた人脈は、今も有効なのであろうし、彼らが家を買ったり、何人もの子供を成人させて世に送り出したり、蓄財したり、出世したのは事実かも知れないが、しかし、彼らはあまりにも強がりである一方、逆境に弱いので、そのままの価値観では、今後の嵐のような時代を生き抜けないかも知れないと、筆者は感じることがある。

特に、彼らがこれまで「当たり前」だと思って来た、昭和的価値観に基づく生活形態が脅かされ、崩れ去るようになれば、彼らはあっけなく自信喪失して、その先の時代に適応できないまま、人生の表舞台から退場して行くのではないかという危機感すらも感じることがある。

それに比べ、就職氷河期世代は、バブルが弾けたおかげで、逆境の時代に慣らされて来た。この世代は、上の世代の言うような「成功」を一度も経験したことがないので、それゆえ、良い意味で、過去の成功にとらわれることがないし、今がどん底であっても、未来に望みをつないで、一度も到達したことのない目標へ向かって、アグレッシブに、挑戦的な試みを続けられる。

この世代は、現状に対しては極めて悲観的であるが、同時に、未来志向であり、この20年近く、あまりにも浮き沈みが激しい生活を送って来たため、逆境に耐える術を知っている。その間に、絶望に追い込まれた仲間も多いが、考えられないような適応力を見いだした者もいる。

その適応力は、生まれつきの器用さとか、強さといったところから出て来たものではなく、どんな状況においても、望みを捨てずに、自分を見失わずに生きる秘訣を学んだところから来る。

人にもよるとは思うが、就職氷河期を生き残った人々は、バブル世代に比べ、揺れ幅の大きい生活の変化に耐える力がある。「今」を楽しむことよりも、未来へ向かって行くために英気を養うので、ストイックであるが、その分、不屈とも言える信念を持って目的へ向かって行く強い意志の力を持っている。

筆者は、約20年近くの不況時代を耐え抜くことで、学んだことは大きかったと思う。その最大の成果は、どんな状況にあっても、信念を変えずに、望みを捨てずに、自分らしく生きる秘訣を学んだことである。

「コロナ失業が広がっているときに、ヴィオロンさん、あなたは何を言っているんですか。またしても、夢物語ですか」と言われるかも知れない。

だが、どういうわけか知らないが、筆者は、長い長いトンネルをようやく抜けて、広い所へ出たという実感を持っている。やっと、就職氷河期という長い長い「隔離」期間が終わったのである。筆者は自分の歩むべき道を見つけた。だから、心配することはない。昭和の名残りには、さようならだ。

筆者が苦しめられて来たのは、就職氷河期ではなく、実は、バブルの名残だったのかも知れないと思う。

これまで、上の世代から、さんざん聞かされては、羨望を感じて来たバブル時代の名残り。かつてこの国にあった繁栄、豊かさ。そういうものへ回帰できるという望みや、そこへ滑り込むことのかなわなかった自分を責める思いが、見事に筆者の中から消えて行ったのである。

何を言っているのかと思われるかも知れないが、筆者が大学を卒業しようとしていた頃には、教授たちは、研究室でよくこんなことを言っていたのだ、「あと2年ほどでこの不況も終わり、すべてが元に戻り、きみたちのポストも復活するだろう」と。それから3年以上が経っても、まだ言っていた、「昔は就職に苦労することなんてなかったんだよ。企業が大学まで来て学生をスカウトしていたんだから・・・」

その頃、誰もバブルが本格的に終わったとは信じていなかった。あと2年したら、3年したら、来年になったら・・・まじないのようにそう唱えながら、昔の思い出話を繰り返していたのだ。

だが、昭和は過ぎた、もう戻らない。そうである以上、これ以上、昭和の価値観にとらわれ、バブル時代を振り返る必要はない。過去を脱ぎ捨て、新しい時代の新しい価値観を身に着けて生きなさい。「失われた」20年間に身に着けた価値観は、これからの時代、非常に大きな教訓となって生きて来るはずだ。

つまり、嵐のように激しい逆境の時代を、負けずに生き抜いてきたからこそ、身一つ、信念一つでも、これからも、何者にも頼らずに、すべてに勇敢に立ち向かい、生き抜くだけの自信が身に着いたのである。

だが、その勝利は、筆者一人だけのためではない。筆者はこの時代を生きたからこそ、自分のためだけでなく、多くの人々のために生きることの価値を知ったのだ。

筆者は信仰者であるから、信仰によって、天の秩序をこの地に引き下ろし、命の水を流し出す見えないパイプラインを、この地に建設したいと願う。その建設作業はあらかた完成し、初めて、この地から、広域に向けて、その命の水を流し出す段階に入った。そのための新たな事業を始めるべき時が来たのである。そして、その事業については、おいおい書いていくことにしたい。

* * *

さて、今回は、少し信仰の話ではないことも書いておこう。

日本の経済が弱体化した原因は、労働者の間に無限とも言えるヒエラルキーが作られたことの悪影響が大きいと筆者は考えている。

終身雇用の時代には、社員の競争相手は、せいぜいライバル企業と、同僚くらいであった。

だが、終身雇用制が崩れ、非正規雇用が蔓延してからは、事情が大きく変わった。一つの企業内に、正社員と、正社員以下の存在である契約社員や、派遣社員や、バイトといった、期間限定の使い捨て人材が無数に生まれたのである。

もちろん、以上はあくまで大雑把な表現である。実際には、契約社員が正社員以上の給与をもらっていたり、古株のアルバイトが、社内で正社員以上の影響力を持っていたりもするのだが、そういうことは今は脇に置いておこう。

こうして、同じ会社の中にヒエラルキーが出来たことにより、社員同士が、仲間を下に見て、踏みつけにしたり、モノのように使い捨てたりするようになった。

そうして、労働者間に、這い上がれないヒエラルキーが出来てしまったことが、日本経済の崩壊の始まりであったと筆者は見ている。

20代の正社員の下で、40代の派遣社員が働く。若い正社員は出世していく一方で、派遣社員は、契約期間が終われば去っていくだけだ。若い正社員は、新しく「派遣さん」がやって来たときには、「長期の雇用で良かったですねー」などと言う。「派遣さん」が去るときには、もちろん、送別会を開き、そのときには、お手製のケーキなどを持って行ったりもする。だが、「派遣さん」は「派遣さん」であって、名前はない。黙ってやって来て、黙って去っていく顔のない存在である。

こうしたヒエラルキーが社内で固定化し、年功序列は崩壊した。ヒエラルキーの下層に置かれた者は、どんなに努力しても、上に行くことはできない。何年働いても、びた一文、給与は上がらず、たった数ヶ月の雇用契約を更新するために、涙ぐましい努力をし、あらゆる雑務をこなし、上司たちに頭を下げ続けねばならない。その努力と引き換えに、得られるものときたら、年限が来れば、あっけなく去るように求められるというだけの話なのだ。

このように、永遠に出世の見込みのない使い捨ての雇用形態が蔓延したことが、日本の労働者の働く意欲を著しく低下させ、日本の企業の成長を押しとどめ、経済を弱体化させて行った最大の原因の一つなのである。

ちなみに、そういう差別的なヒエラルキーは、民間から生まれて来た発想ではない、と筆者は考えている。それは官主導で導入されたものであり、官が民を弱体化させるために、悪意に基づいて導入したのではないかと疑われる。

そのヒエラルキーは、国家公務員のキャリア制度を真似て導入されたものと筆者は見ている。

ところで、国家公務員のキャリア制度の起源は、以前にも書いた通り、戦前にさかのぼる。官吏が天皇の直属の使用人だった戦前に作られた制度が、多少形を変えて生き残ったものが、現在の国家公務員試験制度である。

天皇が「神」とみなされていた時代に、「神」にお仕えする人々は、とりわけ優秀な人材でなくてはならなかった。そこで、官吏の登用のためには、難易度の高い試験が作り出され、特定の大学を卒業していなければ、受験資格さえ与えられないといった縛りがもうけられたのである。

現在の国家公務員試験制度は、戦前の官吏登用試験の残滓と言えるものであり、20代の時に受験して合格した試験の種類で、その後の一生分の人生のキャリアが決まってしまうなどという不合理な制度は、時代にもそぐわず、憲法にもかなわない。国民の公僕たる公務員を、そのような不可解な試験によって選抜することが、誰のためになるというのだろうか。

そうした時代錯誤な制度に基づき、国家公務員には、I種、II種、III種といった等級や、その他に専門職やら、任期付職員や、期間業務職員といった存在がある。これらは厳格なヒエラルキーである。

労働者派遣制度は、厚労省が認可したことによって、民間企業に導入された。だが、派遣とは、国家公務員の世界にもともと存在していたヒエラルキーを、民間に移植したものではないかと筆者は見ている。

国家公務員の世界には、3年で満期を迎える期間業務職員というものが存在していた。それは正規の国家公務員のような試験を経ることなく採用される、準公務員的存在である。それは公務員の手助けを行うためのアシスタントであって、もっと露骨に言ってしまえば、正規の公務員のために、花瓶に生けられる花のようなものである。

花を花瓶に生けておくのは、それが新鮮で、美しい間だけでよい。枯れたり、しぼんでくれば、別な花に取り替えるだけだ。いつでも新鮮なものに取り替えられるように、初めから期限をもうけておけば万全だ。

正規の公務員は、異動を繰り返しており、新年度には、突如、違う部署に配属されたりもする。ところが、正規でもない職員が、ずっと何年間も、同じ職場にとどまっていると、正規の公務員以上に業務に精通するようになったり、力を持ったりもする。助手がどうして主人以上の存在になってよかろうか。期間業務職員ならば、同じ職場に3年しかいられないから安心だ。

これを民間に置き換えたのが、いわゆる派遣制度である。派遣社員が同じ職場に3年以上いられないという縛りも、公務員の世界から出て来た発想ではないかと推測される。

だが、もともと倒産することのない官公庁にあった職員のヒエラルキーを、民間企業に導入することに、意味があるだろうか。そもそも何年、働いても、昇給、昇格することなく、それどころか、一定期間が過ぎれば、会社を去って行かねばならないような仕事に、誰が魅力とやりがいを感じ、真面目に働くだろうか。そういうものは、市場競争にはなじまない。

このように、国家公務員のヒエラルキーは、もともと時代の遺物であって、民間企業には全くなじまないものなのだが、さらに、国家公務員は、もっととんでもないことを考え出した。

それが、政府のサービスの業務委託である。それによって、国民が、国家公務員のヒエラルキーの最下層よりも、もっと下層に置かれ、政府の下僕とされたのである。

ちょうどつい先日、厚労省からアベノマスクの調達を受注した4社目の企業の名前が発表されたが、その企業が、社員がほとんどゼロに近い、あまりにも怪しく、実績もない、しかも何社もの企業が同じ場所に名を連ねている、まるでプレハブのような建物に入った、ほとんど幽霊会社のような会社であることが世間で取り沙汰されて、騒がれた。

なぜ、何の実績もない、社員もろくにいないような会社が、突如、政府の事業を受けたのか。しかも、入札もなく、随意契約である。

それを見ても分かる通り、政府の委託事業には、この手の怪しい企業はたくさん群がっているのである。

そもそも一からビジネスを起こし、独自の発想でこれを成長させていきたいという本物の企業家は、政府の事業などに手を出さない。そこで、必然的に、政府の事業を受注する企業は、手っ取り早く安定を求める、本物の企業精神を持たない会社となる。

そこで、さしたる実績もなく、ホームページすら作成されていないような企業も、縁故で事業を受注したりする。

それだけならまだしも、政府の競争入札に参加して、最低価格で事業を受注するような企業の中には、労働者に残業代も払わずにこき使うブラック企業も含まれている。こういうハイエナのような企業が、政府に揉み手ですり寄り、下僕として事業を受注して行くのだ。すると、何年か後になって、その事業は失敗に終わり、大規模な不正が発覚して、スキャンダルになったりする。
 
一体、こういう行政サービスの業務委託の流れを歓迎できるだろうか。そもそも政府の行政サービスを、営利を目的とする民間企業に委託するという発想自体、異常ではないかと疑ってみるべきだ。

それでなくとも、政府は営利を目的とする企業とは異なるのだから、市場経済に参入してビジネスに乗り出すべきではない。政府が巨大事業主のごとく市場経済に参入して、大規模公共事業を売りに出したりすれば、民間企業のパイが奪われる。

その上、公務員が自ら行うべき行政サービスまで、外部委託事業として売りに出そうというのだ。これを受注した民間企業は、当然ながら、委託契約において政府から支払われた金額を超えるサービスを提供しようと心がけるため、それでは政府がまるで土地ころがしのように、行政サービスを転がして、民間企業を利用して金儲けをしていることになる。

このように、政府が巨大プレーヤーとして市場経済に参入すること自体、異常であることに加え、その上、国民の公僕たる国家公務員が行うべきサービスまでも民間に丸投げという姿勢では、もはや国家公務員のなすべき仕事は残らない。

各省庁に不祥事が起きれば、早速、コールセンターが民間企業に外部委託され、そこで役人の代わりに、派遣社員が国民に謝罪したりしているが、こうして面倒な仕事はみな民間任せにし、自らの不祥事の後始末までも、「くれてやった」と、恩着せがましい態度で民間に投げるのが、国民の公僕たる公務員のつとめなのか。

このように、政府が各種の行政サービスを切り売りするがごとくに外部委託して市場に売りに出すことによって、正常な市場競争が阻害され、公務員の国民の僕としての役割が失われているのが実状である。

そのようなことをやればやるほど、国民は政府の下僕と化していき、大規模公共事業は安定しているように見えても、それに群がった企業の独自の発想を殺して窒息させてしまう。

かくて、政府が行政サービスを次々に民間に委託するのは、断じてやめるべきである。国家公務員に、国民の下僕としての役目をきちんと果たさせるのが国民のつとめであって、それにも関わらず、国民が率先して政府の仕事を肩代わりし、政府の下僕になるようなことは、断じてやめなくてはならない。

そんなことをして、憲法の理念と真逆のことを、国民が自ら率先してやろうとするから、政府が異常に肥え太り、国民が虐げられるという結果に至るのである。

行政サービスは何年経っても改善されず、政府から委託を受けた民間企業が、超ブラックな環境で、労働者を搾取して働かせている間、国家公務員は、仕事もなくぼんやり遊んでいるという結果になる。

もちろん、不夜城では長時間残業が常態化して来たのだが、人手不足ならば、公務員を増やせば良いだけであって、人手不足を解消するために、汚れ仕事は民間へ委託というのはナンセンスである。

このように、政府の事業が怪しいハイエナ企業にたかられて思う存分に食い物とされ、役人が国民の上に君臨して、仕事をくれてやったと横柄な口を利き、次々と国民の意に反するサービスが導入され、その質が劣化して行ったりするのも、もともと政府が営利になじまない行政サービスを民間に投げ、民間企業がこれをありがたく受け取ろうとしたことが元凶なのである。

最悪なのは、それによって、民が官よりも下に置かれ、国民が公務員の下僕と化したことである。

郵政民営化によって、郵便局のサービスも、不便になって久しいが、業務委託も、民営化も、似たり寄ったりで、結局、国民が国民の首を絞めているのと同じである。

官の仕事は、官が最後まで責任を持って果たすべきであって、民が官の仕事を肩代わりしてはいけないのだ。その関係性を逆転させるから、国民に君臨して国民を抑圧する強大な政府という化け物が出来上がり、民は徹底的に自由と権利を奪われて踏みしだかれるのだ。

警察国家・戒厳令国家も、一日にして出来上がるわけではない。独裁体制も、ある日、突如として生まれるのではない。国民が自分の頭で物事を考えるのをやめて、プライドを捨て、長い物には巻かれろ式に、「お上」である政府にすがりつき、それによりかかっておけば安心だなどと考え、自ら政府の下僕と化すからこそ、その先に、独裁国家が現れて来る。

かくて、真に強くなりたいならば、国民は自分の僕であるはずの人々の情けにすがって生きようという考えを捨てて、むしろ、政府からは自立した立場から、政府を監視せねばならないのである。

以前から書いている通り、政府というのは、嘘をつくものであって、必ず、道を間違えるものなのだ。霞が関にある厚労省の庁舎の4階には、霊安室があり、そこには、今も、大戦時に大陸で行方不明になった身元不明の日本人の白骨がためこまれている。

近年、この省ではまたしても不祥事が発覚し、政府が収集した遺骨には、日本人だけでなく、身元の分からない外国人の骨がたくさん混じっていたことが、遅ればせながら、発表された。その事実は長年、隠されていたのだが、発覚したことにより、身元不明の遺骨が近親者に返還される見込みは、さらに遠のいた。

それさえ外部委託事業であるから、誰も責任を取ることはない。こうして、成果もあがらない委託事業が漫然と続けられ、そこに公金が湯水のごとく投じられる。しかし、事業を受注した企業が、それによって豊かになることもない。

どれだけ異常な事業運営が行われても、役人は誰一人責任を問われず、この省の有様は、もはや、自分の城の地下室に妻の白骨死体をためこんだ青髭の世界をリアルに実現していると言う他ない。

こんなものが、我々が助けを求めてすがりつくべき相手だろうか? すがりつけば、生かされる見込みがあるだろうか? いや、青髭にすがれば、行き着く先は、青髭の城の地下室である。

だから、私たちは、大戦時に国民が政府に何をされたのか、はっきり思い出すべきであり、それも棄民だったならば、就職氷河期も、棄民なのであり、今また、政府はその延長上に立って、補償なき休業を命じることで、新たな棄民政策を取っているだけである。

このような政府に対し、国民が自ら下僕になってはいけない。そういうことは、我々が憲法を否定し、時代を逆行させて、再び政府の悪事の片棒を担ごうとする以外の何者でもないことを、いい加減に、理解すべき時である。

各種の外部委託事業の甚だしい劣化は、そのことを示しているだけであって、国民が政府に仕えるのではなく、政府が国民に仕えるという正しい関係性を取り戻すためにも、国民が政府の仕事をいたずらに肩代わりして、その重荷を担ってやることは、やめなければならない。
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