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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

急いで出る必要はない 逃げ去ることもない。あなたたちの先を進むのは主であり しんがりを守るのもイスラエルの神だから。 

「奮い立て、奮い立て
 力をまとえ シオンよ。
 輝く衣をまとえ、聖なる都、エルサレムよ。
 
 無割礼の汚れた者が
 あなたの中に攻め込むことは再び起こらない。
 立ち上がって塵を払え、捕われのエルサレム。
 首の縄目を解け、捕われの娘シオンよ。

 主はこう言われる。
「ただ同然で売られたあなたたちは
 銀によらずに買い戻される」と。

 主なる神はこう言われる。
 初め、わたしの民はエジプトに下り、そこに宿った。
 また、アッシリア人は故なくこの民を搾取した。
 そして今、ここで起こっていることは何か、
 と主は言われる。

 わたしの民はただ同然で奪い去られ、
 支配者たちはわめき、
 わたしの名は常に、そして絶え間なく侮られている、
 と主は言われる。
 それゆえ、わたしの民はわたしの名を知るであろう。
 それゆえその日には、わたしが神であることを、
 「見よ、ここにいる」と言う者であることを知るようになる。

 いかに美しいことか
 山々を行き巡り、
 良い知らせを伝え
 救いを告げ
 あなたの神は王となられた、と
 シオンに向かって呼ばわる。
 その声に、あなたの見張りは声をあげ
 皆共に、喜び歌う。
 彼らは目の当たりに見る
 主がシオンに変えられるのを。
 
 歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃墟よ。
 主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。
 主は聖なる味腕の力を
 国々の民の目にあらわれにされた。
 地の果てまで、すべての人が
 わたしたちの神の救いを仰ぐ。

 立ち去れ、立ち去れ、そこを出よ
 汚れたものに触れるな。
 その中から出て、身を清めよ
 主の祭具を担う者よ。
 しかし、急いで出る必要はない
 逃げ去ることもない。
 あなたたちの先を進むのは主であり
 しんがりを守るのもイスラエルの神だから。
(イザヤ書第52章)

* * *

ハーバービジネスオンラインの離婚のエキスパート弁護士によるモラハラ夫特集が面白い。

 弁護士・大貫憲介の「モラ夫バスターな日々」

これを読みつつ、筆者は、就職と結婚は似ているように感じた。何が似ているって、悪い職場は、モラハラ夫が妻を威嚇し、恐怖によって支配しようとする夫婦関係にそっくりな点だ。

前にも書いた通り、悪い職場は、悪い家庭とよく似ており、たとえるならば、おとぎ話の「青髭」の支配する家のようだ。青髭は、それまで数えきれない数の「妻」(=労働者)を娶っては、ひそかに首を切り、あろうことか、自らの城の地下室に、殺害した妻たちの骨をためこんでいる。さらに、貧しさにつけ入って、数えきれない娘たちを「愛人」として囲っては、さんざん泣かせて来た。

だが、初めてお見合いする無知な娘にそんなことが分かるはずもない。不誠実な男ほど饒舌で甘言を弄するのがうまく、まんまと騙されて娶られた娘は、しばらくの間は、青髭と「蜜月」を過ごすが、ラブシャワーの後で、青髭は残酷な本性を現す。

モラ夫の支配する「家」と、社員を搾取するブラック企業は根底で一つにつながっている。そこにあるのは、強い者が弱い者を虐げ、搾取し、支配する関係だ。 

職場で一方的な命令を下し、弱い者を威嚇し、自分に逆らうことを許さず、逆らった者を闇雲に罰したり、女性に一切の口答えを許さないような男尊女卑の上司は、きっと家庭内でも同じことをしているに違いない、と筆者は思う。

彼らはあまりに心が傷つき、さらに自分では何も生産できない無能者のため、常に自分よりも下に見る人間、自分の代わりに厄介な仕事を片付けてくれる搾取する対象がいなければ自分を保つことができない。

モラハラは一生治らないと言われている。だから、職場でも、悪しき人間関係の中にとどまっていても、生産的な人生は送れない。面白い診断があった。もしもあなたの上司に、10項目全てに○がつくようであれば、その職場は早くあきらめて脱出した方が良い。 

【ダメな管理職】コイツの下では働けないと感じさせてくれる無能な管理職の10個の特徴!
1、責任者ではなく権力者だと勘違いする
2、個人的な好き嫌いで判断をする
3、情報共有と指示を的確に伝えられない
4、意見の強要や決定事項の突き付けをする
5、無駄な会議を開きたがる
6、問題やトラブルを大ごとにする・責任転嫁する
7、思い込みが激しく客観性や根拠がない
8、部下を納得させられていない
9、行うことの目的や動機を与えられていない
10、仲良くしたいという間違った欲求を持つ

だが、偽物があれば、本物があるように、嫌な関係があるなら、正常な関係もある。

幸福になる秘訣は、限りなく、正常な関わりを追い求めることにある。だが、正常なものに巡り合うためには、自分自身を高めなければならないことも、忘れてはいけない。

淀んで腐敗した水にボーフラがわくのと同じで、ダメな人間ばかりが集まる場所には、それなりの特徴がある。善良かつ誠実で、高い品性を持つ人々に巡り合いたいと切に願うなら、望んでいる環境にたどり着くための努力が、自分自身にも必要だ。

仕事であれば、質や内容を厳正に選ばなければならない。誰でも就けて、大した努力の必要のない職場に、特別に良い人間が集まるはずがないことは明白だ。

自分で自分の生きるフィールドのハードルを低く設定していながら、そこで最良のものに巡り合えると考えるのは、お門違いである。
 
だから、真に価値ある仕事をしようと願うなら、無責任な人々よりも、ハードルを高く設定し、自ら責任を負って立つ覚悟を固めねばならない。

「モラ夫」に「おまえはおれの情けによって生かされているんだ」などと恩着せがましい言葉を言われないためには、彼の専業主婦であることをやめねばならないのと同様、気に入らない、ダメな職場により、「メシ」を食わせてもらっている立場で、不満だけを言い続けても無駄だから、そこを脱しなければならないのだ。
 
モラ夫に仕える代わりに、身の安全を保障してもらえるという、お仕着せのパッケージを捨てて、自分自身で、上司と同じか、それを上回る責任を担い、人に頼らない人生を始める覚悟を決めねばならない。なおかつ、それができると信じなくてはならない。

逃げるとき、モラのディスカウントの言葉が、耳に聞こえて来るかも知れないが、絶対にそれを信じてはいけない。 そんな人間関係が、世の中の全てではない。自分で自分を何者と考えるかがあなたの人生を規定するのだ。

繰り返すが、あなたが自分を何者と考えるかが、あなたを規定するのである。

* * *

自民党が打ち出した減収世帯への現金30万円の給付が、公明党により、強引に国民一律への10万円の給付に変えられようとしていた頃、我が職場でも、クーデターが完遂し、ナンバー2であった上司が、トップに拮抗するほどの権限を持つようになった。
 
トップとナンバー2に逆らった社員が、社内軟禁状態にされたのを見て、筆者はここから逃げねばならないと悟った。

それは反カルト運動を繰り広げる牧師たちが、カルトからの脱会者を密室に隔離して、再教育を施そうとしていた光景を思い起こさせた。反カルト運動の指導者らは、カルト宗教からの脱会者を誤った教えから救うと言いつつも、その「救済」手段として、信者を鉄格子と南京錠つきの密室のアパートに軟禁して、ディプログラミング(再洗脳)を施したのである。信者の家族が、信者が脱走しないように24時間、つききりで監視し、その言動を牧師たちにつぶさに密告した。

職場で起きていた現象は、その光景にとてもよく似ていた。隔離された者には、苦しい仕事が与えられ、周囲との交流が断たれた。そして、全社員がその者を集団で監視し、密告を繰り返したのである。

筆者はブラックな職場をそれなりに見て知っているつもりであったが、これほど宗教めいた、気色の悪い、極端に悪口の多く、敵意に満ちた団体は、他に知らなかった。調べてみると、幹部はフリーメイソンへつながる団体の会員であった。やっぱり、そうだったかと、筆者は心の中で唸った。
 
協調性とは、グノーシス主義から生まれる概念である。それは、和の精神、自他の区別の廃止、対極にあるものの融合を意味する、聖書に真っ向から敵対する間違った理念であるから、協調性を重要な理念の一つに掲げている団体は、まともではないと見て良い。

以前にも書いたことだが、協調性とは、自他の区別を曖昧にすることによって、人が相応の努力をせずに、他者の持っている優れた資質を、自分のために盗み取ることを正当化する概念である。協調性が説かれる場所では、善人だけがひたすら努力を続ける一方、悪人は誰にも歩み寄らず、我が道を行くので、正直者が馬鹿を見るだけである。
  
当ブログを書いて来た筆者には、そうしたことは十分に分かっていたはずなのだが、筆者はずっとそれに気づかないふりをして、今までやり過ごして来た。しかし、ついにその団体が、滅茶苦茶な基礎の上に成り立っていること、破滅へ向かっていることを、目を開いて見ずにいられなくなり、悪しきものとは訣別せねばならない時がやって来たのである。
 
グノーシス主義とは、キリストの十字架なしに、人類が己が力で自分の罪をあがない、神に到達できるというサタンの教えである。そこで、グノーシス主義の教えには、共通の型があり、グノーシス主義者の考えることは、時代を越えて変わらない。

密室への隔離や、懲罰労働による人格改造、恐怖政治による支配などのグロテスクな方法によって、理想郷へ到達できるという、有り得ない誤った発想も、時代を超えて同じである。

19世紀、ロシアのデカブリストの一人は、理想郷を生み出すためには、200年間かけて警察国家を作り、国民の自由を奪い、民衆に再教育を施して、人類を作り直さねばならないと考え、クーデター計画を練った。 彼は帝政ロシアの軍隊によって反乱が鎮圧される前日に逮捕され、人類改造計画を記した大量の書類も押収されて、死刑に処された。
 
今日、コロナウィルスの蔓延は、グノーシス主義者による各国社会の収容所化のためのアジェンダだという説がある。

それは悪意ある人々が、恐怖によって人々の自由を奪い、日常生活を奪って、自宅や、職場に閉じ込め、再教育を施すことを目的に、人工的に計画したのだという。ステイホームも、自宅収容所化の手段なのだと言われる。

そんなグロテスクな計画を本気で考え、その達成の手段として、人為的にウィルスを世界にばらまき、騒動を煽る人々がいるのかどうか、筆者には疑わしい。

だが、その説をあながちトンデモ論として笑えないのは、実際に、コロナを口実にして、緊急事態条項を作ろうと、改憲を目論んでいる人たちが確かに存在していたり、政府が、事業者に100%の休業補償をせずに休業を命じることで、まるで「貧しい人は路頭に迷え。潰れるべき企業はさっさと潰れろ」と言わんばかりの冷淡な態度を取っているからだ。

一体、コロナウィルスは、悪意ある人々による、弱く貧しい人々の人工的な淘汰の手段として作られたのだろうかという疑問が、人々の心に生まれて来るのも仕方ない。

筆者の職場でも、以上に書いた通り、まるで労働によって人間の本質を改造しようとしたマルクス主義さながらなことが行われている。

マルクス主義は、労働によって、人類の幸福社会を築こうとした。人類が自らエデンを取り戻すためには、罪という終わりなき連帯債務を、労働によってあがなうべきと唱えたのである。

もちろん、マルクス主義において「罪」という概念はないが、要はそういうことである。人類の負い切れない罪の返済手段が、労働だったのである。人類が理想郷へたどり着くために必要なすべてを、人類自身が連帯責任として背負い、労働によってまかなうべきと唱えたのである。
 
だが、労働によって、人が己が罪を自力で贖うなどのことは、達成不可能な偽りであるから、そうしたスローガンに騙されて働く人間も、愚か者だけということになる。だからこそ、共産主義国においては、労働しない人間が、最も出世したのであり、政府の上層部は、卑劣漢、悪党、盗人で占められた。誰も責任を取らないので、その体制は、ありとあらゆる悪事を犯し、崩壊するしかなかった。

悲しいかな、筆者の職場では、まさにそれに等しいことが起きつつあるのだが、筆者は何度も、他でもないグノーシス主義者の幹部から、まだその人がグノーシス主義者だとは筆者が気づいていなかった頃に、組織を出て、新たな出発を遂げるよう、幾度も促された。

「あなたが望んでいるような自由は、あなたが自ら経営者にならない限り、きっと得られないと思いますよ」と、その人は言ったのである・・・。
 
筆者はその頃、職場が間違った基礎の上に築かれているとは知らずに、色々なことを語り合った。その人がグノーシス主義者でさえなければ、どんなに良い旅の道連れになっただろうかと、今でも名残惜しい。

筆者は、その人が筆者と話しているときに、時折見せた、自分はもう助からないとでも言うような、絶望的な表情を覚えている。それは一瞬、垣間見えただけであるが、それがあまりにも哀れであったので、筆者は何とかして、命に至る道を見つけて欲しいと願い、無理やりにでも、バビロンから連れ出したいと願った。残酷なナンバー2にも、同じことを願った。

だが、彼らは呼べば呼ぶほど、ますます筆者の忠告を振り切り、焼け落ちる火宅に自ら駆け戻って行く人のように、反対方向へ走って行った。

筆者には分かっている、神は悪人と正しい人を一緒に滅ぼすようなことはなさらないので、筆者がいる限り、組織が崩壊することはないと。筆者には、バビロンの崩壊を遅らせることもできれば、エリコの再建のように、滅んだ組織を再興することもできる。
 
だが、滅ぶべきものを延命させるという間違いは、二度と犯してはならない。誤った理念の上に築かれた城に、人情のゆえに、同情の涙を注いでも意味はない。タイムリミットは近づいており、そろそろエクソダスせねばならない。
 
記事には具体的なことを書けないので、かなり曖昧な表現を使わざるを得ないが、以上に書いた通り、職場で極端なカルト化現象が起きなければ、筆者は今でも見込みのないものに望みをつなぎ、戸口の前で、足踏みをしていたかも知れない。

何より、その職場が根本的に誤った反聖書的な理念を土台として成り立っていることに、今も気づかず、バベルの塔建設のためのレンガ運びの作業にいそしんでいたかも知れない。

だが、レンガ運びの作業が、苦行と化し、それを拒んだ者には、厳しい懲罰が科されるようになったことにより、分かったのである。それは収容所における囚人労働と同じであって、自由な明日を作り出すことに貢献することはないと。

隔離された社員だけが、密室に閉じ込められているのではない。そこでは、幹部から末端の人間に至るまで、誰もがみな閉じ込められているのだ、労働という檻の中に――。

その収容所に閉じ込められている限り、みなが破滅へ向かうだけで、誰にも自由な明日はない。労働による人格改造などあり得ない。だから、恐怖政治の果てに、待っているものは、ただ滅びだけである。
 
もちろん、だからと言って、筆者は、幹部の勧めに従って、明日、独立するつもりはない。そんな風に、一足飛びに何かを達成できると思うのは間違いだからだ。だが、それでも、幹部の言葉のおかげで、狭い密室を出て、地境を広げねばならないことに気づいた。より多くの自由、権限を手にするために――。

こうして、筆者が呼びかけた人は、筆者の招きに応じず、救いにも興味がなく、滅びると分かっている建物に戻って行っただけであるが、筆者は、ここで立ち止まるわけには行かないので、まだ見ぬ都へ向かって、進んで行かなくてはならない。

たとえ今、筆者の手元に、自分の身一つ以外に何もなくとも、信仰によって、無から有を生み出し、いつか想像をはるかに超えた大きな目的を達成できると信じて、勇気を持って、颯爽と、歩き出さなければならない。

バビロンを出て、聖なる都、新エルサレムへ向かって――。

* * *

キリストは花嫁なる教会のためにご自分の命を捨てられた。それは部下のために上司が命を捨てるような、奇跡的な愛である。いや、違う。部下のために命を捨てる上司くらい、いるだろう。だが、神は私たちが罪人であったときに、救う価値のない罪人である私たちのために命を捨てられたのだ。

神がそうされたのは、正しいことであり、神は無限に強く、正しい方であればこそ、その正しさと力を行使して、ご自分の被造物である私たちを助けられたのである。

だから、この世においても、権威ある者は、自分の権威の下にある者たちを守らなければならない。強い者の権力は、弱い者を守るために与えられているのであって、弱い者を脅かし、痛めつけるためではない。

ところが、グノーシス主義は、いつも正しい秩序を逆にして、弱い者が、強い者のために命を捨てるようにと、無理な要求をする。

たとえば、「親孝行」という、世間ではまことしやかに美徳のごとく讃えられている概念について、考えてみよう。

考えればすぐに分かることだが、自然界の動物社会では、親が子の世話をすることはあっても、子が親の世話をしたり、親のために命を捨てるという原則はない。そもそも弱い子供にどうやって親の世話ができるというのか。弱肉強食は、同じ種の親子間でなく、異なる種類の生物の間で起きることである。

ところが、人間社会では、「親孝行」という、自然界の動物にはあり得ない教えがまかり通っている。
 
それは元を辿れば、死者の霊の崇拝、すなわち、先祖崇拝に由来する。

人間が生まれ持った命は、本当は、神聖でも何でもない、ただの動物的命である。虫でも繁殖くらいはしているのだから、人間に子孫が生まれることも、珍しくもなければ、偉業でもない。

ところが、偽りの教えにかかると、それが神業のようなものにまで変化する。つまり、人間の子孫は、「ご先祖様」から「神聖な命」を受け継いでいるから、自分に命を与えてくれた先祖に絶えず感謝し、先祖供養につとめると共に、その「神聖な命」を絶やさないために、「家名」を背負って、これを穢さず、「神聖な家」を維持していく責務を負う、ということになる。

それゆえ、その子は、生きている限り、「神聖な家系」の入れ物となる「家」を守るために、親に孝行するだけでなく、口を利くこともできない先祖の霊の供養を続けねばならない。

我が国では、戦前戦中、万世一系の天皇家を「神」にいただく「神国」などというフィクションが作り出され、その虚構の物語に基づき、臣民は天皇の赤子であるから、親である天皇のために命を捨てるのが当然、などという荒唐無稽な教えが説かれた。

もしも天皇が「親」であるというなら、天皇こそ、「赤子」なる臣民を守るために、身を投げ出し、命を捨てるべきであると筆者は思うが、それとは全く正反対の教えが説かれたのである。

それと同じ理屈で、戦後になっても、男は会社組織や共同体社会のために身を捧げよとか、妻は夫のために身を捧げて尽くすのは当然といった誤った考えが、社会の至るところにはびこっている。共に生きるために協力するのではなく、命を捨てても服従せよというのである。三島の『憂国』を彷彿とさせる世界観だ。

もちろん、親に感謝したり、親を尊敬することは何ら悪いことではない。だが、「親に感謝せよ」という考えを究極まで推し進め、子の人生を親(先祖=家)から一生離れられないように束縛してしまうのは、罪なことであり、異常である。

自然界の動物社会では、子は成長すると、自立して親を離れ、新しい家を形成する。近親交配を避けるためにも、生まれ落ちた家をいつまでも存続させることに意味はない。

子が自立して親を離れるのは、親が子より早く老いて死ぬためである。親は力の上では、子よりも強いかも知れないが、老いと死には勝てない。そのため、子をいつまでも守ってやることはできない。

だからこそ、子は親が老いる前に、親から自立し、自力で生きて行く方法を獲得せねばならないのだ。自立して初めて、親と一緒に死の中に引きずり込まれるのを避けられる。

ところが、人間社会においては、子は親が死ぬまで面倒を見、親が死んであの世に行っても、なお、面倒を見続けねばならない(供養せねばならない)という、自然界の掟にも逆らう、支離滅裂な、むなしい虚構の概念が普及している。

現代社会にも、そうして時代錯誤な家制度が生きている。自立した夫婦は、生家を出て、新たな家を築いているように見えるかも知れないが、依然として、多くの場合、男性が自分の生家の名を継承している。それは、彼が生家から離れられていないことの証である。

一体、子をいつまでも自立させず、死んでもなお手放さないという姿勢が、親心と言えるだろうか・・・。

こうした家制度の根本には、先祖崇拝という、しょせん、人間に過ぎない者を「神」として祀りあげる「神聖な家系」というフィクションの世界観がある。

そのようなフィクションに騙された子孫が、生きているうちから、親の望みをかなえることで、「家」に名誉をもたらそうと、親の附属物のようになって、苦しい人生を生きたりしながら、先祖という死者に縛られ、一生、「家」という密室の入れ物から離れられなくなるのだ。

それは何もかもを滅びと死へ引きずり込み、破滅させてしまうオカルトの教えなのであるが、多くの人々はそれに気づかないまま、これを信奉している。

この教えが究極的に目指しているのは、罪に定められた人間の欲望を、永遠にまで至らせることである。滅びゆくアダムの命を、神聖なもののように偽り、人間が堕落した欲望に生き、そのままの姿で、神のような永遠に達することができると教える。

その教えは、人類が罪に堕落したという事実を認めず、罪のゆえに死に定められたという事実も否定して、己が欲望の追求の果てに、神のような永遠性を手に入れられるとうそぶく。

人間が生まれながらの命のままで、永遠性を手に入れるなど、できるはずもないことなのだが、その教えは、代々、家系が続いていることにより、あたかも命の連続性が保たれ、永遠性が獲得できるかのように、屁理屈を並べているのである。

* * *

さて、筆者はいきなり経営者になることはできないと述べたが、それでも、人格改造のために懲罰労働が課されるような密室に居続けてはならないと悟った。

筆者の職場のみならず、現代社会における労働は、およそその多くが、収容所生活になぞらえた方が良いようなものである。

そうした人間性を奪い取る密室から解放されるためには、自分の仕事の内容と質を高めて行くしかない。一歩一歩、自らの責任の範囲を拡大し、他の人々と異なる、より自分の裁量が大きくものを言う、自由な仕事、そして、広範囲に影響の及ぶ、決定権のある仕事を模索していかねばならない。

それは筆者が見えない領域で、多くの「扶養家族」を持ち、多くの人々を養う仕事をするようになることを意味する。

筆者の目指している「事業」とは、ジョージ・ミュラーがしたように、信仰によって、たくさんの人々を養い、支え、命と自由を与えるためのものだからである。

その願いが、可能な限り、広範囲の人々に及ぶよう、筆者の仕事の責任をより重いものに、より大きな内容に変えて行かねばならないのだ。
 
だが、いきなり一足飛びの生長は、誰にもかなわない。そういうことを試みるのは危険である。
  
たとえば、10人しか社員を雇ったことのない事業所が、いきなり50人もの社員を採用して、億単位の新規事業を始めると、どういうことが起きるだろうか。

事業所の意識は一日では変わらず、それが手かせ、足枷となって、成長を妨げる。つい昨日まで、田舎の商店街にある個人商店のように、電話回線も少なく、アシスタントもごくわずかしかいなかったような小さな事務所が、いきなり大企業と並んで、巨大ビルのフロアに大きな部屋を借り、そこに大勢の社員を雇って、労務管理を行い、大規模事業を支えられるようになるかと言えば、そうはならない。そういう無理なことをしようとすると、あらゆる方面にひずみが生じる。

大規模な事業を創設し、これを育成し、完成にまで導いて行くためには、必ずメソッドが必要となる。それを打ち立てた経験が過去に一つもなく、ノウハウすらも持たない人たちを、人数だけ揃えても、いきなり事業が軌道に乗ることは絶対にない。

下手をすれば、組織が成長途中に、組織の体をなさなくなり、半熟卵のようにドロドロに溶けて、メルトダウンして行くだけだ。

同じことが、事業所のみならず、働く側の人間にも言える。昨日までパートタイムのアルバイトしかしたことのなかった人間が、いきなり、大きな店の店長や、大企業の社長になっても、物事はうまくいかない。学生時代の趣味が高じてベンチャー企業の社長になるような人々も、まずは小さな会社を立ち上げるところから始める。
 
このように、堅実な歩みを進めるためには、一歩、一歩、地道に責任の範囲を拡大して行くしかないのであって、そうした小さな意識改革を積み重ねて行った先に、ようやく、大きな事業を手がけるスキルが生まれる。

ステップを数段すっ飛ばかして、いきなり濡れ手に粟式に、巨大な成功を手に入れられると思うのは間違いである。たとえ大きなチャンスに巡り合っても、それを活かす知識と経験がなければ、失敗に終わるだけなのである。
 
そういうわけで、筆者は、自分を閉じ込めていた密室を出て行こうとしている。だが、自分一人、収容所から釈放されて、孤高の高みに君臨するためでない。大勢の人たちを生かし、自由にするために、筆者は、これから山へ登って行こうとしている。

小さな一歩かも知れないが、これまでの出発と違うのは、これから歩むべき行程がはっきり見えていることだ。神はその歩みを喜んで見守り、承認し、後押しして下さるだろうと思う。

* * *

人間とは、言葉(規則、掟、論理)が先に来るのか、それとも、行動が先に来るのか、という議論がある。

鈴木大拙は、人間の本質とは、考えるよりも先に行動するものだと言った。

しかし、筆者はそれは絶対に間違っていると確信する。なぜなら、聖書の秩序は、まず掟があって、次にそれに従った行動があるというものだからだ。

人間はエデンにおいて、神の掟よりも、自分の快楽を求める衝動に負けて、行動を先にしてしまったことにより、罪に堕落した。

だが、それは悪魔の唆しによるものだから、それが人間の本質だとは言えないだろう。

ところが、グノーシス主義者は、今日も、それこそが人間の本質だとうそぶく。人間とは、まず衝動的に行動してから、後でその行為について反省し、知性が芽生えるのだと。そうして、いつも、行動を、言葉よりも優位に置こうとする。

世の中に、政治家を始めとして、やたら人前でむなしい演説を繰り広げ、空虚なパフォーマンスに明け暮れる人間が横行するのもそのためで、彼らは口先だけでペラペラと意味のないことをしゃべり、息を吐くように嘘をつき、人の注目を集めた後で、法律や規則を曲げて、ないがしろにし、義人を罪に定め、多くの人々に害を与える。

彼らの目的は、派手なパフォーマンスによって、身勝手な行動を実行に移し、これを既成事実化し、後付けで正当化するために、規則を変えることにある。

たとえるなら、ある人が人殺しに及んでおきながら、「世の中に殺人が横行するようになったので、いっそ殺人罪を撤廃しましょう」などと言うようなものである。

聖域なき改革だの、岩盤規制を突破するだのといった威勢の良い謳い文句のほぼすべても、古くからある規則を「悪」と見せかけることによって、規則を撤廃して、自分たちの悪事を正当化するために唱えられる。

もちろん、「コロナで社会不安が広がったので、改憲して、緊急事態条項を創設し、人権を抑制しましょう」などというスローガンも、同じ理屈に基づいている。

なぜコロナウィルスが蔓延したくらいのことで、最高法規である憲法を変えなくてはならないのか。そこにどれほどの論理の飛躍があることか。

だが、彼らのやり方はいつも同じで、まず、不安を煽る様々な現象や、衝動的な行為をあげつらい、それを抑制できなかった規則など無意味だからと、最も重要な法規を、無意味だと言って、彼らに都合良く変えて行こうとするのだ。
 
私たちはそういう政治的パフォーマンスに踊らされるべきではない。弁舌巧みで、パフォーマンスが得意なのは、詐欺師だけである。
 
実際には、コロナの脅威によって、むしろ、そうした空虚なパフォーマンスこそが抑制され、駆逐され、そのむなしい本質が暴露され始めているのは、良いことではないかと筆者は思っている。

たとえば、筆者は、コロナウィルスのおかげで、「連休中はどこへ行きましたか?」という愚問から解放されて、ほっとしている。毎年、この季節になると、行楽地に大量に押しかけ、人数にものを言わせて、孤独な人々を隅に追いやり、自分たちこそ世界の中心だと言わんばかりに、厚かましく自慢話に明け暮れる家族連れを、今年はもう見なくて済むことに、安堵している。

連休は出かけるためにこそあるという、この人々の愚かな思い込みを解くのに、どれほど無益な苦労をさせられ、非難を浴びせられたことだろう。マウンティングだけが目的の、むなしい自慢話を聞かされずに済むようになって、筆者は安堵している。

休暇は休息のためにこそある。休息の方法など十人十色だ。休息期間には、大切な考察が行われ、未来への挑戦が始まる。何もしていないように見える1日、1日が、エネルギーチャージに必要な時間なのだ。

だから、筆者は今年は、心の休息を得て、信仰によって、未来をどのように創造していくか、それを思い描くことに、主要な時間を費やすことにしている。それもコロナウィルスがなければ、与えられなかった静けさだったかも知れない。

さらに、コロナは社内で行われるつまらない会議にとどめを刺し、社員同士の無駄話にも大いに水を差した。裁判所にさえ、コロナの影響は及び、法廷における弁論が、停止に追い込まれたのだ。

それによって、限りなく重要な教訓が、証明されつつあるように思うのは、筆者だけだろうか。物事の重要な本質は、耳目を集める口先だけの言葉や、見せかけのパフォーマンスにはない。行動に先んじて、行動を支配する見えない掟、法、規則、理念、思考があって初めて、人の行為には価値が生まれるのだ。

だから、断じて、行動が先んじて、思考が後に来るのではない。その反対こそが正解なのだ。どんなに束の間、繁栄しているように見えても、人間の本質を逆にしようとした者は、自らの行動の価値を証明できない。どんなに衝動的な行動をたくさん行っても、それが掟破りなものであれば、少し時が経てば、間もなくその価値は全くないことが判明し、その成果も、跡形もなく消えて行くだろう。
 
コロナウィルスの襲来によって、むなしいパフォーマンスの数々が駆逐されたなら、それは筆者にとって、非常に喜ばしいことである・・・。

* * *

グノーシス主義者の考えるユートピアは、広き門である。それは神の戒めに従わず、キリストの福音から落ちこぼれた、ダメ人間ばかりを救おうとする、偽りの大衆救済宗教である。
 
己が罪を悔いることもなく、他人ばかりを責め続け、本物の福音には到達できず、その意欲もない、無責任で、無反省な人ばかりを救おうとする偽物の福音だからこそ、その偽の福音には、最も怠惰で、最も無能な者、最悪の利己主義者、この世の失格者、落伍者、筋金入りの悪党、卑劣漢など、悪い人々ばかりが群がる。結局、その悪者のユートピアは、何一つまともなものを生み出せないまま、自壊して行くことになるのだ。

怠惰な人間を富ませるためには、真面目な人の労働の成果を盗むしかない。ダメ人間を救済するためには、ダメ人間でない人々の評価を下げるしかない。悪人を救うためには、正しい人を罪に定めるしかない。

こうして、グノーシス主義の唱えるユートピアは、ダメ人間を聖人に祀り上げるために、何もかもをさかさまにした世界観に基づいている。

そうして出来上がる「広き門」が、人に優しく見えるのは、最初のうちだけで、悪と偽りと不法と搾取は、やがて彼らが復権しようとしたダメ人間も含め、その教えに帰依した人々全員に及ぶことになる。

キリストの十字架がないので、悪人には罪が赦されることは永遠になく、その代わり、労働による人格改造という懲罰が待っているだけだ。そこで、労働による彼らの救済は、何万光年経とうが、永遠に達成されることはない。

人類の罪を人類が自力で贖うための果てしなく重い軛は、人類に連帯責任として落ちかかり、最後には、真面目で誠実な人間だけでなく、悪人も含め、すべての人々が、極度の抑圧の中に投げ込まれ、自由を奪われ、恐怖政治が出来上がる。

こうして、グノーシス主義の偽りの福音は、多くの人を救う「広き門」に見えても、その先に待ち構えているのは、滅びと、死だけであって、それは結局、彼らが退けたキリストの福音よりも、はるかに厳しく、誰も耐えられないような裁きと懲罰を繰り広げるだけに終わる。

かくて広き門によって救われる人間はゼロなのだ。ダメ人間のユートピアなどあり得ず、そういうものを作ろうとすれば、生まれるのは、ファシズムだけであり、その結果としてもたらされるのは、滅びであり、死である。

それを考えれば、「労働廃絶論」(ボブ・ブラック)などという説が出て来るのも、頷ける話だ。
 
* * *
 
ちなみに、筆者は、あらゆる労働――いや、人間の社会への奉仕が一切合財、無価値だと言っているのではない。あくまで人が罪から逃れるために、死の恐怖から逃れるために、自己救済のために行う労働が、無意味だと言っているだけである。

人々は筆者に問うかも知れない。「ヴィオロンさん、あなたはプロテスタントにおける礼拝と、資本主義における労働が車の両輪で、今の時代には、その両方が終わりに瀕しているなんて、荒唐無稽な説を唱えています。

あなたによれば、日曜礼拝と、月曜から金曜まで会社にお参りすることは、本質的に同じなのだそうです。そして、それは自由をもたらす解放どころか、自己懲罰のために、人々が自ら「隔離」されていることなのだと、あなたは言います。あなたによれば、その労働は、強制収容所における人格改造と同じほどむなしい、無意味なものなのだと…。
 
それでは、あなたは労働そのものに反対なんですか? それなら、あなたはこの先、一体、どうやって生きるつもりなんです? 社会に必要なサービスは、誰が行うんですか?」

もう一度言うが、筆者が反対しているのは、罪のゆえに、死の恐怖の奴隷となっている人々が、その恐怖を紛らし、偽りの救済を得るために、強いリーダーのもとに馳せ参じ、そのリーダーに生存を保障してもらおうと、その教えに帰依し、自力で救済を得るための手段として労働を用い、みなで結集して、バベルの塔を構築する、そういう生き方である。

プロテスタントの日曜礼拝は、「自分が本当に救われているかどうか分からない」という、救いの内なる確信の持てない信者が、自らの心の不安をなだめるために作り出した鎮静剤のようなものである。

同じように、資本主義におけるサラリーマンの労働も、もともとは「救われているかどうか分からない」という不安を抱えるプロテスタントの信者が、日々、勤労に励むことで、神の御前に善行を積み、不安心理をなだめようと発生したものである。

現代社会においては、労働における宗教色はほとんど見いだせないほどに薄れているが、それでも多くのサラリーマンは、「自分がどういう生き方をすれば良いか分からない。どんな事業が自分の天職なのかが分からない。それを自分で始める力もない」という無力感を、手っ取り早く、誰かに埋め合わせてもらうために、他人に仕えて働いている。

産業革命以後、仕事の機械化、細分化が進んだことにより、人々は昔に比べてより一層、自己というものを喪失し、労働においても、より家畜のように一元化して管理しやすくなった一方で、逆に機械に使役される人間が大量に作り出された。

そのおかげで、神の救いが分からず、自分自身が分からないだけでなく、自分の仕事にも、価値を見いだせないという、迷える羊のような人々が大量に生まれた。

その迷える羊に対して、様々な職場は、一見すると、救済のように見える、各種のパッケージをケアキットのように提供している。その中には、コンビニエンスストアの店長や、政府の公共事業などのように、自らにアイディアや元手がなくとも、手軽に始められる事業もある。

それをいくつもいくつも取り替えながら、自分をごまかして生きている人々は多いだろう。一つの仕事に飽きれば、次の仕事を見つければ良い。
 
だが、それは「パッケージ」であるがゆえに、そこには自由がなく、最初は入りやすく見えて、その先には、厳しく搾取される日々が待っているだけだ。一つの密室を出ても、気づくとまた別の密室に囚われている。隔離でない労働とはどこにあるのか。
 
私たちは、自分たちが喪失してしまった二つのもの――神へのまことの礼拝と、天職――この二つを再発見しなければならない時代に来ている。

この二つのものを発見するためには、やはり、広き門ではなく、狭き門をくぐるしかない、と筆者は考えている。自分の人生の決定権を安易に人に委ね、手っ取り早く、出来合いのパッケージに頼ろうとする限り、そこにあるのは、広き門――すなわち、密室へ続く道なのである。

そこで、そのように他人に頼る態度を捨てて、自分のことには、自分で責任を負い、自分で決める自由裁量の余地を取り戻し、これを増やしていくしかない。

だが、それは、今まで松葉杖をついて歩いていた人が、杖を捨てて、真直ぐ歩けるようになるためのリハビリの過程にも似て、一足飛びに達成できるものではない。内なる自分自身を、何者にも頼らずに、強めて行く過程が必要である。

その一歩一歩の先に、密室とは無縁の、真に自由で、心から健康で、自立していると言える生活が待っている。松葉杖に頼ろうとしている限り、自由な空間には出て行けない。

私たちの自由と豊かさは、いかに目に見えるものに依存せず、目に見える誰かに依存せず、見えない神だけに頼り、自分の裁量と自分の責任で、自分の人生を決めたか、その度合いに応じて決まる。

誰かに頼って、自分の人生を何とかしてもらおうと願っている限り、金銭的搾取だけでなく、霊的中間搾取からも、逃れられない。
 
信じる者の内側には、死を打ち破ったキリストの復活の命が宿っている。それゆえ、コロナであろうと、他のどんな脅威であろうと、信者は、信仰だけによって、すべての脅威に立ち向かい、勝利をおさめる秘訣を得ている。

その本当の命の力に頼って生きねばならないのである。だが、信者の内なる人は、まだ弱く、未熟であるがゆえに、その信じる力を、十分に養い、行使するための秘訣を十分には知らない。そこで、彼は自分に与えられた命の力を引き出すことを、まずは学ばなければならないのである。

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