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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

今からは、妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のようにすべきです。

「いかに幸いなことか
 神に逆らう者の計らいに従って歩まず
 罪ある者の道にとどまらず
 傲慢な者と共に座らず
 主の教えを愛し
 その教えを昼も夜も口ずさむ人。
 その人は流れのほとりに植えられた木。
 ときが巡り来れば実を結び
 葉もしおれることがない。
 その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」(詩編第1編1-3)

(後日付記:この記事を発表した後、我が職場は、社員への休業補償を6割から満額に改めることを発表した。)

昨日の雨が嘘のように、夏のようによく晴れた空の下を車で走った。

いよいよコロナの波が首都圏を本格的に襲い、我が国は、ヨーロッパで起きている悲劇を対岸の火事と見ている場合ではもうなくなった。

ヨーロッパも、ほんの2~3週間前には、今の我が国のような状態だったのだ。

3.11の時が思い出される。その当時、筆者は職場で、パンク状態になった電話回線に一瞬も途切れることなくかかって来る電話への応対にかかりきりだった。個人の力では、何としてもおさめられない大パニック。人々の阿鼻叫喚の叫びの前に、我を忘れて立ち向かったが、それも大海からスプーンで水をすくって捨てるようなむなしい奮闘だった。

ライフラインが止まり、電車もバスも止まっているにも関わらず、上司は毎日のように電話をかけて来て、我々に出勤を命じた。

津波は? 放射能は? 外へ出て良いのか? 政府発表からは聞こえてこない情報に耳を澄まし、もどかしさを覚えつつ、それでも仲間と共有していた危機感から、筆者は勇気を持って職場へ駆けつけた。

だが、事態がほんの少し、回復の兆しを見せると、出勤を命じた上司たちは、ことごとく異動して早々と消え去り、クライアントの会社も、我々の努力に頭を下げることもなく、たちまちもとの傲然とした態度に戻った。

もちろん、賃金が微塵も上がることはなかった。それだけではない。事故については口外しないよう箝口令が敷かれ、非常事態に津波のように襲いかかる苦情に勇敢に立ち向かった社員たちには、より一層厳しい統制が敷かれた。褒賞が与えられるどころか、休むことさえままならなかった。

筆者は幻滅と疲労感だけを手土産に、何とか無難にその職場と別れたが、今でもその頃の光景を思い出すし、あの日、あの時、バスや電車を乗り継いで、無理に無理を重ねながら出勤したのは、正しかったのか、間違いだったのか、と問い返す。もしも津波が、原発事故の影響が、報道よりもさらに重かったなら、あの時、外へ出た我々には、命はなかったかも知れない…。

今も、当時と似たような選択を迫られている。「3密」そのものであり、すべての対策が後手後手に回り、沈みゆく泥船のように、ますます環境が悪くなって行くだけのこの職場に、今日も駆けつけるべきか、否か。

迫りくる破滅を一向に考えず、乗客同士が目先の利益を我先にと争い、互いを押しのけ合い、裏切り合っている泥船のような職場に、今、命の危険を冒してまで、駆けつけるべきなのか、否か。

そこで与えられる幻想に過ぎない利益に、しがみつくべきなのかどうか。

我が職場にいる人々は、未だに昇進、昇格、昇給などの夢に憧れ、それが到達可能であるかのように信じている。権勢を拡大し、人脈を強化し、人々と連帯し、人生を謳歌し、自分の待遇を良くするという希望によすがを見いだしている。

だが、筆者の目には、それらはすべてはかなく消えて行くだけの、幻のような夢に見える。

もはや、コロナの襲来によってそれらの希望はすべて潰えたのに、なぜそのことが分からないのだろうか。それだけでなく、目的に到達するための方法が正しくないから、彼らがそうした目的に至り着くことは絶対にないことも。

己が利潤だけを追求し、それと引き換えに誠実な人々を侮り、嘘をつき、弱者を虐げ、欺きと搾取によって得た富で、享楽をむさぼるような道徳的退廃が、どうして正しい成果をもたらすことがあろうか。

そういう光景はすべて滅びの前兆でしかない。だから、そういう光景を見たならば、そこには期待をかけず、一目散に逃げた方が良い。ところが、残念ながら、我が職場で毎日のように繰り広げられる光景とは、以下のようなものだったのである。

「ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れるときにも起こるだろう。ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。

ロトの時代にも同じようなことが起こった。人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった。

人の子が現れる日には、同じことが起こる。<略>ロトの妻のことを思い出しなさい。自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。」(ルカ17:26-33)


そういうわけで、今年に入った頃から、筆者は、職場の人々が飲んだり食べたりしながら繰り広げる享楽的な自慢話に、強烈な違和感を覚えるようになり、それに背を向けて、心の耳を閉じて、遠ざかっていた。

一時期、筆者もそうした人々の仲間入りをしようと試みたことがあった。それは、滅多に職場に来ない上司が、筆者の目を書類から上にあげさせて、彼を見つめさせた時期である。

その上司は、かつて出会った裁判官にもどこかしら似て、善良で、心優しく、へりくだって、高貴な人のように見えた。その人は、まるで主イエスが、筆者の心に語りかけるように、へりくだって、筆者に寄り添い、彼と筆者とは同じ考えを共有していると言って、筆者を勇気づけようとした。

この世の人であったにも関わらず、まるでキリスト者のように、深い霊的な交わりが可能に思われたのである。

だが、しょせん人間は人間に過ぎず、神ではない。そして、神ではないにも関わらず、主イエスがされるように、その人が腰を低くして、筆者の心を自分に向けさせようとした理由が何であるかは、少しずつ分かった。
 
やはり、よく確かめて行くと、その人はグノーシス主義者であった。これまでにも、光の天使のように、善良そうに親切な姿で、筆者に近づいて来る人は、後になって、ことごとくグノーシス主義者であることが判明するのだったが、その人が何より大切なスローガンとして唱えていた協調性も、偽りであった。

協調性とは、グノーシス主義のシンボルである「輪(和)」を指す。それはとどのつまり、本来は二分された相容れないもの、別個のものを統合するための錬金術であり、対極にある概念の統合を指す。もっとはっきり言ってしまえば、協調性とは、盗みである。

考えてみれば分かるはずだ。ふてぶてしい悪党と、お人好しな正直者が、二人で向き合い、協調性を発揮するよう命じられたら、どうなるだろうか。悪党はふてぶてしい態度を貫き、一歩たりとも正直者には歩み寄らない。だが、お人好しな正直者は、心理的圧迫に負けて、次第に譲歩して、悪党に歩み寄らざるを得なくなるだろう。

本来、悪党と正直者の間には、何の共通点もありはしない。ところが、「協調性」なる魔法の言葉を使うと、正直者が悪党に歩み寄らなくてはならなくなってしまうのだ。

聖書には「協調性」なる概念は存在しない。あるのは、むしろ、「二分性」である。

あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。キリストとベリアルにどんあ調和がありますか。信仰と不信仰に何の関係がありますか。神の神殿ご偶像にどんな一致がありますか。

わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。
「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。
 そして、彼らの神となり、
 彼らはわたしの民となる。
 だから、あの者どもの中から出て行き、
 遠ざかるように』と主は仰せになる。
 『そして、汚れたものに触れるのをやめよ。
 そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
 父となり、
 あなたがたはわたしの息子、娘となる。』
 全能の主はこう仰せられる。」(2コリント6:14-18)
 
こうして、聖書は、絶対に交わってはいけないもの、絶対に相容れないものの間に、しっかりと線を引いて、両者を切り分ける。

ところが、グノーシス主義は、聖書の「二分性」を否定する。そして、様々な美辞麗句を弄しながら、絶対に相容れないはずのものの間に引かれた境界線を巧みにずらして行き、俗なるものを、聖なるものに見せかけ、自他の区別を排し、自分のものでないものを、自分のものと言い、他人のものを横領する。

こうして、盗みを正当化し、美化するために作り出された概念が、「和」であり、「協調性」なのである。その魔法の言葉を使えば、劣った者が、優れた者の性質をただで盗み取り、努力しない人間が、努力する人の成果を盗み取り、聖でない者が、聖なる者から、聖なる性質を盗み取れるようになる。平和の名のもとに行われる侵略、兄弟愛を唱えながらの搾取や支配なども、みなこうした考えから出て来る・・・。究極的には、それは神でない者(悪魔)が、神の性質を盗み取り、神を詐称することを正当化する思想であり、悪魔が作り出した偽りの思想、それが「和」の概念の本質である。

さらに調べてみると、その上司は、もとを辿れば、フリーメイソンにたどり着く団体に属していることが分かった。キリスト者のような深い満足をもたらす霊的交わりが可能であった理由は、そこにあると見られた。

つまり、グノーシス主義者は、ただの人ではない。彼らは、無宗教を装ってはいるが、実際には、肉なる自分自身を神とする宗教に入信し、自分を拝むための儀式に参加しているのと同じである。

彼らは、ある種の礼拝儀式を行っていればこそ、主イエス・キリストを信じて救われた信仰者とよく似て、霊的な力を持っている。だからこそ、筆者とその上司は、互いを見た瞬間に、何か双子のようによく似た者に出会ったような、懐かしさを覚えたし、その人は、筆者の持っている力に気づいたのであろう。

筆者は、その人に何かしら信仰者に似た雰囲気を感じ、その人もまた、筆者の希望が、彼の絶望を打ち負かす力があることに気づいたのだろう。そして、筆者の信仰を利用すれば、すべてを成功に導けると考えたのであろうと思う。

確かに、筆者には、自分が心を込めて面倒を見ているすべてを生かす力がある。それは筆者の力ではなく、筆者の信仰を通じて働くキリストの復活の命の力である。

筆者は、キリストの復活の命を流し出すためのパイプラインを建設中であり、その命の水を流し出せば、その圏内に入れられたものはすべて生きる。

だが、筆者は、その上司の信じている教えの偽りなることが分かってから、その教えを心の外へ追いやり、命の水を流し出すパイプラインの元栓をひねり、水の流れを止めた。

彼は筆者の心をこの世の事柄に向けさせて、それを受け入れさせようとした。目に見える人々との交流、協力、連帯を打ち立て、肉なる力によって建て上げるレンガの塔の建設に関わり、目の欲、肉の欲、持ち物の誇りを語り続けるむなしい会話を受け入れ、人助けに邁進するようにと…。

そうして、ヒューマニズムの名のもとに、神から与えられた筆者の持てる力を、徐々にそれに値しない者のために盗み取って行こうとしたのである。そのことに気づいてから、筆者は光の天使のようなその人の美しい像から目を背け、再び、無味乾燥な書類に目を落とした。むなしい会話に耳を塞ぎ、滅びゆく目に見えるもの全てを視界から遠ざけた。

神でないその人が、筆者が彼の像を拝まなくなったことに、腹を立てたのかどうか知らない。やがて、したたかな反撃がやって来た。筆者が人々の自慢話に耳を塞ぎ、レンガの塔を建て上げる作業から手を引こうとすると、人々の怒りが、襲いかかった。
 
そうした事態に直面して、改めて筆者は思った、やはり、労働とは人が自力で罪を贖うためのレンガの塔の建設であり、神への反逆としての自己救済なのだと。どんなことをしても、その労働を美化することはできない上に、牧師であろうと、弁護士であろうと、裁判官であろうと、どんな立派な教師であろうと、職場の上司であろうと、誰も神ではないから、信頼などできはしないと。

神でないものを神のように信頼しようとすると、したたかな報復を受けるだけなのだ。

だが、主は確かに筆者の信仰を知っておられ、筆者が窮地に立たされる前に、コロナ禍が襲って来て、筆者を圧迫していたすべての原因を取り去った。公判は止まり、上司は職場から逃げ去り、職場の人々も、筆者の前で、自慢話を繰り広げようにも、もはや会話することも、互いに近づくことさえ危険となった。

そればかりか、一般市民が、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりすることさえ、後ろめたいことのようにみなされる時代となったのである。

「兄弟たち、わたしはこう言いたい。定められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。」(1コリント7:29-30)

ある意味で、コロナがもたらしたこの市民生活の変化の中には、筆者にとって、ありがたい解放のように受け止められる側面があった。なぜなら、これまでのように、職場で終わりなく繰り広げられていた人々の享楽的な自慢話や、当たり前のように他人を押しのけて道を歩く赤ん坊連れの親子や、レストランの座席を占める大勢の家族連れなどの姿を目にしなくて済むようになったからである。

光の天使のように美しく見えた上司も、筆者がこの職場の理念の偽りに気づき、上司を信頼することをやめ、パイプラインを自ら断絶し、命の水が流れ出ないようにしたことが分かると、すべてを部下に任せて、職場から逃げ去った。

筆者の信頼が失われたことが分かるや否や、筆者を置いて逃げ去って行ったのである。そればかりか、死ねとばかりに、残る社員に出勤を命じ、休業させるにしても、路頭に迷えとばかりに、いきなり給与を減じた。

やっぱり、そうだったかと、それを見て、筆者は心の中で頷いた。すべてが順調に行っているときには、あんなにも謙遜で、親し気で、人情味に溢れていたように見えた人物であり、とてもではないが、他人に苦しみをもたらすような所業に手を染めるとは思えない人物であった。ところが、その美しい外見、善良でへりくだったように見える態度、優しい物腰と言葉、ヒューマニズムは、すべて見せかけでしかなかったのだ・・・。

これがグノーシス主義者の本質である。見かけは非常に崇高で、高潔に見えるが、内実がない。口では大言壮語し、美辞麗句を語るが、試されると、逃げることしかできない。最も危機的な時に、そばにいて助けてくれない存在に、何の価値があろうか。無責任に、部下たちを危険の中に放り捨てて行くような上司の命令にしがみついて、生き延びられるはずがない。

それは神ではなく、死神と呼ぶべき存在であり、普段から虐げと搾取を繰り返していればこそ、危機にあって、残酷な本性が現れるだけだ。

だが、このように大胆な非難の言葉を発している筆者も、まことの羊飼いは、羊のために命を捨てるという聖書のフレーズを知らなければ、危険の中に部下を置き去りにしていく上司の態度が、残酷で無責任だということにさえ、気づかなったかも知れない。

悪魔は、盗んだり、滅ぼしたり、殺したりするために来る。だが、私たちのまことの羊飼いである主人は、私たちに命を与え、しかも、豊かに与えるために来られる。

私たちキリスト者は、自分を生かすことのできる本当の主人を知っている。だからこそ、何が偽りであるかを見分けることができるのだ。

「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。

わたしは負い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は、羊を奪い、また追い散らす。――彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。

わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられr、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。」(ヨハネ10:9-15)

そこで、筆者は、この火急の時に、この世の富にしがみつき、それによって焼け太りする人々がいても、むなしい利益はもう見たくないと、そこから目を背ける。沈みゆく泥船に背を向け、死出の旅路に他ならない片道切符を払い戻し、ソドムを後にしようと決意した。

幸いなるかな、神に逆らう者たちのはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、嘲る者と共に座らなかったその人。主はその人を緑の牧場に伏させ、豊かな牧草を与え、決して乏しくなることがないよう、取り計らって下さる・・・。
 
だから、誠実な人間を騙し、嘲り、不法と、虐げを重ねて、富を積み上げる罪人の集会にはもう属すまい。

このような言葉で、自分のいた職場を形容せざるを得ないとは、情けないことではあるが、気づくと、そこはすっかり沈みゆく泥船としか言いようのない状態に陥っていたのである。

コロナ禍の襲来がなければ、そのことに今も気づかなったかも知れない。この災いが、物事の真相がよりはっきりと見えるよう、助けてくれたのである。

ただある団体や、理念が異常というにはとどまらず、このような生き方、働き方には先がないということを示してくれた。

それは教会も会社も同じである。一人の指導者のもと、一つの場所に、多くの人々が詰めかけ、同じ時間に、同じ理念、同じ活動を共有し、同じ社員証を身に着け、あたかも、その一人の指導者を礼拝して、そこから命の保障を得ようとするかのように、行動を同じくし、他人に自分の命を預ける生き方が、終わりに来ているのだと…。

そのようなむなしい目に見えるものに、命の保障を見いだそうとする生き方が、破綻したのだと。

そうである以上、見かけ倒しの空虚な美と、呪われたむなしい利益には、もう心を奪われたくない。

そこで、目先の利得に振り回される人が、自分の命も、周囲の人々の命もかえりみず、ただ賃金と地位を得るためだけに、今も我先にと死の中へ率先して突撃して行くような働き方には背を向けて、鳥が飛び立つように、ソドムを逃げ去ることを決めた…。

そうして、筆者はまたしても、御国の利益のための書類作成にとりかかることにして、この記事を書く時間を確保している。
 
今、このような危機的な時代にあって、私たちが、真っ先に考えねばならないのは、神に背かず、良心を捨てず、御言葉に従って、残りの人生をどのように守り、人間らしい尊厳を保って生きるか、ということではないだろうか。

外面の美や、地位や肩書や俸給を保つことではなく、自分たちの内面の美を、良心を、人格を、真に高潔で品性ある人格を、どのように保てるかということではないだろうか。

改めて次の御言葉を思う。

わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。」(ルカ9:23-26)

「信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:31-34)
 
自分の命を救おうとする者は、それを失うとある。筆者は、自分の利益でなく、天の利益を第一として生きたい。

だから、心から祈ろう、我が神よ、私にはこれ以上、偽りの指導者に従ったり、偽りの理想に基づく、むなしい、実りのない生き方はできません。けれども、あなたは私を今日まで助け、守って下さいました。あなたはこれからもただ一人、私を守り、導くことのできる方です。ですから、あなたは必ず、私が次になすべき働きを与えて下さるでしょう。私の誇りはあなたであり、私はあなたを知っていることを幸いに思います。あなたは私の羊飼い、ただ一人のまことの羊飼い、あなたは私をお見捨てにはなりません…。

こうして、一つの街を通り過ぎ、天の都エルサレムへ向かって、筆者の旅路は続く。何度目だろうか、こうして腐敗したレンガの塔の倒壊を見させられるのは。だが、少しずつ、少しずつではあるが、偽りは後退し、あんなにも隆盛を極め、驕り高ぶっているように見えたバビロンにも、己が富を誇る力が失せつつある。確かに、バビロンには、滅びが近いらしい。その高笑いは聞かれなくなり、自慢話は封じられ、美しかった屋根瓦は、一つ一つ剥がれて、崩れ落ちて来ている。

他方、イサクを連れたサラは、まだまだ取るに足りない、か弱い存在であるが、少しずつ、少しずつ、尊厳を身に着け、信仰が力強くなり、勇気を増し加えている。

権勢によらず、能力にょらず、主の霊によって、見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからだ。

いつの日か、偽りの都バビロンは倒壊し、聖なる都である天のエルサレムが、着飾った花嫁として、真の尊厳と美を身にまとって現れる日が来る。

「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(2コリント4:18)
 
わたしの民よ、彼女から離れ去れ、
 その罪に加わったり、
 その禍に巻き込まれたりしないようにせよ。
 彼女の罪は積み重なって天にまで届き、
 神はその不義を覚えておられるからである。
 彼女がしたとおりに、
 彼女に仕返しせよ、
 彼女の仕業に応じ、倍にして返せ。
 彼女が注いだ杯に、
 その倍も注いでやれ。
 彼女がおごり高ぶって、
 ぜいたくに暮らしていたのと、
 同じだけの苦しみと悲しみを、
 彼女に与えよ。

 彼女は心の中でこう言っているからである。
 『わたしは、女王の座に着いており、
 やもめなどではない。
 決して悲しい目に遭いはしない。』
 それゆえ、一日のうちに、さまざまの災いが、
 死と悲しみと飢えとが彼女を襲う。
 また、彼女は火で焼かれる。
 彼女を裁く神は、力ある主だからである。」(黙示18:4-8)
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