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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

神よ、わたしの内に清い心を創造し 新しく確かな霊を授けてください。

毎年、2、3月は、筆者が静かに冬眠させてもらいたいと切に願う季節だ。一体、なぜ大人の社会には、春休みというものがないのか。

筆者のような人間は、この時期、ひたすら家に閉じこもり、世間に顔を出さずに、布団でもかぶっているのが無難である。これは筆者が若い時分から、一年で最も気力が衰える時期であり、そのエネルギー枯渇の習慣は、全く変わらない。

2月には、絶望的な気分がどっと押し寄せ、すべてが嫌になり、活動意欲がゼロに近くなる。3月には、ただ生き永らえるだけで精一杯となる。春にたどり着く直前に、新年度の戸口に手をかけたまま、ばったり倒れてそこでお終いになってしまわないために、かろうじて生きているとしか言えない状態になる。

それにも関わらず、社会は立ち止まってはくれない。そこで、筆者は起きて来る出来事に対処する能力がなくなり、うつ状態にも近い絶望的な気分で、やっとのことで春にたどり着く。

今年も例年にならって、この時期に、未だかつてない悪い出来事が連続して起きた。筆者はそれに対処する気力もなく、絶望的な気分で、信頼していた人々の助けさえも拒んで、自らより一層の絶望的な窮地に立った。

それと同時に、なぜか世界にも、コロナウィルスという未曾有の災難が押し寄せた。しかし、もともと何もなくとも、たとえようなく陰鬱な気分になる季節だけに、世界的な災禍も、筆者にとっては大した出来事には感じられなかった。

とにかく、生きて行かねばならない。何が起きようと、歩みを止めるわけにはいかない。あらゆる災禍に立ち向かうしかない。自分の痛みと疲労に無感覚になってでも、日々、新たな一歩を踏み出すしかない。
 
ところが、3月になると、信仰による新たな友・協力者も現れて、筆者の回復のために祈ってくれた。そこで、桜の咲く頃には、絶望的な気分も振り払い、3月最後の雪の降る寒い日曜日には、筆者はすべての災難に自ら立ち向かって、これを打ち破って生きる気力をほとんど完全に回復した。

今もみぞれまじりの冷たい雨が外では降っているが、筆者は全く天候に左右されず、果たさねばならない仕事を果たした。
  
祈りの力は大きかった。ただ単に暖かくなって、活動意欲が回復したというだけにはとどまらない。長年に渡り、失われた人生を取り戻すための、内なる大いなる力が回復してきたのである。

地中深く蒔かれた種も、春が来れば、その気配を察知して、固い殻を破って発芽する。そのように、神がお与え下さった筆者の命に込められた回復の力が、自然と効力を発揮し、ただ生きるために生きるといった次元ではなく、心身の深いところで、どのように生きたいのかという願いが、何かを成し遂げるための力が湧いて来たのである。

筆者が頼るのは、人でも、状況でもない。主なる神ご自身である。筆者がどんなに愛する人間も、肉なる弱い人間に過ぎず、筆者を助けたり、支えたりする力はない。もしも人に助けを求めれば、共倒れに終わるだけである。

だから、筆者は人ではなく、神に助けを求める。

涸れた谷に鹿が水を求めるように
神よ、わたしの魂はあなたを求める。
神に、命の神に、わたしの魂は渇く。

いつ御前に出て
 神の御顔を仰ぐことができるのか。

昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。
人は絶え間なく言う
「お前の神はどこにいる」と。

わたしは魂を注ぎだし、思い起こす
喜び歌い感謝をささげる声の中を
祭りに集う人の群れと共に進み
神の家に入り、ひれ伏したことを。

なぜうなだれるのか、わたしの魂よ、
なぜ呻くのか。
神を待ち望め。
わたしはなお、告白しよう
「御顔こそ、わたしの救い」と。
わたしの神よ。

わたしの魂はうなだれて、あなたを思い起こす。
ヨルダンの血から、ヘルモンとミザルの山から
あなたの注ぐ激流のとどろきにこたえて
深淵は深淵に呼ばわり
砕け散るあなたの波はわたしを超えて行く。

昼、主は命じて慈しみをわたしに送り
夜、主の歌がわたしと共にある
わたしの命の神への祈りが。
(詩編42:1-9)

かつて筆者が嵐のような苦難の中で、主に見え、十字架のキリストを知った日のことを思い出す。多くの友が、神が力強い御腕を持って、筆者を窮地から救い出して下さったことに、快哉を叫んだその時のことを。

苦難や試練や孤独は、何と人の心を神に向けさせるのに好都合であろうか。もしも孤独がなかったなら、苦難がなかったなら、どうして筆者が真剣に神を呼び求めることなど起きようか。

だから、何が起きようと、落胆する必要などなく、すべてのことに感謝し、すべてのきっかけを主なる神に心を向けるために使うべきなのである。

神よ、わたしの内に清い心を創造し
新しく確かな霊を授けてください。
御前からわたしを退けず
あなたの聖なる霊を取り上げないでください。
御救いの喜びを再びわたしに味わわせ
自由の霊によって支えてください。

わたしはあなたの道を教えます
あなたに背いている者に
罪人が御もとに立ち帰るように。

神よ、わたしの救いの神よ
流血の災いからわたしを救い出してください。
恵みの御業をこの舌は喜び歌います。
主よ、わたしの唇を開いてください。
この口はあなたの賛美を歌います。

もしいけにえがあなたに喜ばれ
焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら
わたしはそれをささげます。
しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。
打ち砕かれ悔いる心を
神よ、あなたは侮られません。
(詩編51:12-19)

静かな平安が心に満ち、暗闇の中で目を凝らせば、すべての問題に対する解決が、もうすぐそこにあり、手の届くところに、おぼろげに見えているのが分かる。それは人の耳にはとらえがたい霊の歌のようである。人の思いをはるかに超えて、主の静けさ、平安の中に住み、主からすべての物事の解決を受けなさい。

心静まっていると、カルバリの十字架において取られた勝利が、筆者の人生に適用されるのが分かる。主が血潮を適用して下さる。あなたの人生のすべての問題に対し、主ご自身が解決となって下さる。主は災いの日に、ご自分の僕たちが、損失を被ることがないよう、一人一人、印をつけるように見つけ出し、助け出して下さる。だから、恐れることは何もない。

キリストは、へりくだった方であり、私たちを苦難から助け出すことを、まるでこの上ない光栄のように考えて下さる。私たちの心の渇きを、慰めによって満たして下さり、すべての問題に対し、解決となって下さり、心を煩わせないようにと言われる。

だから、私たちは静かに主の助けを待つべきである。主の霊は、私たちのために給仕する姿を取り、僕のようにへりくだって仕えて下さる。その謙遜を知るとき、私たちの心は一層、砕かれて柔らかになり、慰めを得る。

そして、心の深いところから、霊のうめきのように、賛美と感謝の歌が流れだす。

私の魂よ、神を待ち望みなさい。大いなる方を。地上の何ものでもなく、ただお一人の神を、その清い、尊い霊を真直ぐに待ち望みなさい。主は必ず、あなたの呼び声に応えて、あなたのもとに来て下さり、あなたを満たして下さる。主は遅れることはないし、あなたを見捨てられない。

だから、私の魂は、主に向かって、感謝と勝利の歌を歌う。そして、私の愛する方は、地上の何者でもなく、天に住まわれるただお一人の神であると告白する。たとえ全地のすべてのものが、これを否定し、嘲ったとしても、私は疑わない、主が私のために勝利を取られたこと、そして、私を生きている限り、守り、支えて下さることを…。

そういうわけで、この先も様々な苦難に対し、勇気を持って、立ち向かって生きて行かねばならないが、主が筆者の勇気となり、力となって下さると信じられるため、筆者には、恐れることは何もない。
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