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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

空の鳥も憩うほどに…

昨日、夜遅く、窓の向こうから、不思議な鳥のさえずりが聞こえてくるのに誘われるようにして外へ出た。人々が寝静まった田園のしじまの中で、ナイチンゲールが互いに美しい声で呼び合っていた。
(*ナイチンゲールは日本には棲息していないと言われるが、確かに夜鳴き鶯としか言いようのないこの声の主は何だろう?)
多分、恋人同士の語らいだったのだろう。口笛で真似してみると、積極的な応答がある。面白いので、しばらくの間、私も暗がりを散歩しながら、鳥のふりをして呼びかけてみた。だが、あまりの下手さに、偽者が交じっていることがばれてしまったのだろう、やがてナイチンゲールはどこかへ移動してしまった…。

水田にはまだ水が引かれていないが、もう少ししたら、稲が植えられ、蛙の大合唱が聞こえるようになる。子供の頃は、大好きだった田園風景だが、今は望まずしてここに帰って来た経緯が悲しく思い出される。

きょうだいが、また新しい仕事に出発することが決まったようだ。まだ十分な語らいがあったとは言えないので、私の方に心の準備ができていない。また、この環境に一人、取り残されるのか…、そう思うと、寂しさがどっと心に押し寄せる。きょうだいが帰宅して何日にもなるのに、私を除いて、今日に至るまで、これまでに生じた溝を埋めるべく努力した家人は一人もいなかった。この世に生きている時間は限られているというのに、互いに口を利くことさえ避ける家人…。

時々、こんな曲がり切った環境にいつまで耐え続けねばならないのか、と、愚痴を言いたくなる。まるで自分が、今読んでいる『天路暦程』の主人公そのもののように思えてくる。なのに、みじめなことは、私はあの主人公の基督者と違って、「滅びの街」を脱出する方法さえ分からないまま、ソドムの街中をいまだウロウロしているように思われることだ。こんな街で、私の一生は終わってしまうのか!? こんな街に、私は骨を埋めなければならないのか!?

だが、主の御約束は完全だ。聖書の約束の成就は、環境条件によらず、人の努力にもよらない。「権勢によらず、能力によらず、私の霊によって。」 

草は枯れ、花はしぼむ。
しかし、われわれの神の言葉は
とこしえに変わることはない。(イザヤ40:8)

寂しさを覚える時に、いつも思い出す言葉がある。
京都A教会を去る時、キリスト教界から味わわされた痛みと、前途に待ち受けている困難のために、激しく失意落胆していた私に、ある信徒が贈ってくれた別れの言葉だ。
「ヴィオロンさん、あなたは貴いキリストの裂かれた身体なんです。この意味が分かりますか、あなたはキリストの貴い裂かれた身体の一部なんですよ…。ぼくらは同じキリストの血が流れ、同じ身体に属する仲間なんです。あなたは主の前に高価で貴いのです。ぼくらが共にキリストの一つの身体であるという事実は、あなたがどこへ行こうと、永遠に変わりません…」

今となっては、遠く離れ、その上音信も途絶え、同じ教会に属する望みも全くなくなってしまった兄弟だが、彼の教えてくれた「ともに一つの身体である」という事実、そして私自身が「キリストの裂かれた貴い身体の一部」であるという事実によりすがることなくして、私はあのすさまじい痛みから立ち上がり、福音そのものを拒絶せずに済むことはなかったかも知れない。

何しろ、自分の犯した過ちを思い返すだけで、そこには絶望の深淵しかなかったのだ。赦されるにはあまりにも多くの過ちを犯し過ぎた。誤った人生の道を選び、誤った教会に人生を捧げ、あまりにも遠く、主の御心から遠く離れてしまった。放蕩息子のようにボロボロになり、「正統な」信者からは、鼻先で笑われ、門前払いを食らわされ、愛想を尽かされるほどだった。
そんな私でさえも、「貴いキリストの裂かれた身体」として認めてくれたその信徒の深い愛に基づいた言葉なくして、福音の幸いと恵みを、私は失わずに済んだろうか。「私もまたキリストの身体の一部なのだ」、その希望と確信があって、初めて、私はその後の困難を耐えることができたのだ。

自分の掲げる義や、人が与えてくれる義への期待にことごとく打ち破られていた私は、多分、その時、自分の力では決して、立ち上がることができなかっただろうと思う。私はアイデンティティそのものを失っていた。キリストによる義認、キリストによる一方的な恵みによりすがらねば、自分の支えとなるものが他に何もなかったし、生きていくことすら、恐らく不可能だったのではないか…。
あの時、私に向かって、「あなたはキリストの裂かれた貴い御身体の一部だ」と言ってくれた兄弟の言葉を、私はこれからも、決して忘れることはないだろう。

そして、「裂かれた」という言葉の中には、言い尽くせない悲しみと痛みがこめられているように思う。

私は自分からキリスト教界を拒否したことはなかった。キリスト教界が私を辱め、私を見捨て、私を同胞として認めることを拒否したのだ。長い間、所属し、奉仕して来た教団は、私の教会籍一枚、取り返す力はなかったし、その意欲すら持たなかったことが判明した…。

こんないきさつがあり、しかも、キリスト教界に様々な惑わしの教えが入り込んでいることが明らかとなった今も、だからと言って、私はキリスト教界そのものを敵対視するつもりはないし、特定の教会に所属する全てのクリスチャンが誤りに陥っていると考えて、教会と名のつくもの全てと縁を切ろうというつもりも全くない。

キリスト教界の組織的な活動が、今日、どれほど誤った方向に進んでいるにせよ、そこにいる信徒全員にまで、希望がないということはあり得ない。主の救いは組織的に与えられるものではなく、信徒一人ひとりに、個人的に与えられる恵みである。だから、キリスト教界の組織がどれほどスキャンダルにまみれようとも、そんなこととは関係なく、教界の枠組み、教団・教派の枠組みを超えて、主は心から、真実、神を信じるクリスチャンを、全国各地に起こしておられるのではないかと思う。
ネットでの礼拝参加者が増えているとしたら、それもまた、そんなボーダーレスな信仰の表れの一つだろう。

まことの主イエス・キリストを信じている者たちは、どの組織に属していようと、どんな土地にいようと、ともに一つの身体なのだと私は信じる。一人、孤独の中にうち捨てられているように思われる信徒も、失望することはない。迷える一匹の羊のために死なれたキリストが、あなたを忘れ去ることなどあり得ないのだから。
教会につまずいた人たちも、どうか失意のうちに信仰を捨てたりしないで欲しい。私のような者がいまだにキリストにつながった枝として主から認められているのだから、あなたたちには、なおさらその資格があるはずだ。信仰から離れて何年も経つ人には、今、主イエスの十字架による救いに立ち戻って欲しい。

今夜もまたナインチンゲールのさえずりを聞きながら思う。遠く離れていても、あの兄弟もきっと、今日も共にキリストの身体として歩んだだろうな…と。私たちはたとえ言葉を交わすことがなくとも、同じ御身体につながっている枝であり、また、このブログに書き込みをしてくれて、私を必要な時に励まし、勇気付けてくれる信徒たちも、皆が共にキリストという太い幹につながった大切な兄弟姉妹たちであるのだ。

私と肉なる親兄弟、親戚縁者との間には、どうしてなのか知らないが、まるで最初から何のつながりもなかったかのように、年々、さらなる誤解と隔たりが生まれていくばかりだが、不思議なことに、それとは全く違ったところで、血縁によらない「親戚縁者」が続々、登場してくるところに、神のユーモアを感じる。
「あなたを捨てて孤児とはしない」という御言葉は、こんな形でも成就されるのかと、思わず、笑ってしまう。孤児には親も兄弟もいないはずだが、クリスチャンには父なる神がおられ、長兄イエスがおられ、そして信仰による兄弟姉妹が無数にいるのだ…。

私の教会籍はなくなり、所属教団もなくなり、所属教会もなくなった。だが、それが一体、何だったのだろうかと思う。キリスト以外に誇りとするものは、クリスチャンにはあってはならないのだから、たとえ所属教会があったとしても、それは何の誇りにもなり得ないはずだ。むしろ、地上の国籍が消滅し、寄留者(悪い言葉で言えばジプシー・クリスチャン)としての身分が確定した後になって、かえって、天での国籍がより明らかな形で魂に迫って来たことは、私にとって大きな幸いだった。信仰の仲間も、かつてよりも、もっと大きく広がりつつあると言えるかも知れない。

いつになれば、エクレシアの仲間と、互いに顔を見合わせて、話せる時が来るのだろうか。それがまだ成就していないことに、孤独を感じる時もある。だが、そんな時には、今後、からし種一粒の信仰が、どれほど大きく成長していくのかに思いを馳せる。今まだ小さな芽に過ぎないものが、どうやって、太い幹となり、枝葉を茂らせ、空の鳥も憩うほどの大樹となっていくのだろうか。
神は今後、まだまだ多くの羊を呼び集められ、私達の兄弟姉妹を多く増し加えて下さるだろうと思う。そしていつか、クリスチャンが豊かに生い茂らせる平和の枝の上で、空の鳥たちが憩い、歌う日が来るだろう。楽しみなことだ。人には出来ないことも、神には出来るのだ。

見よ、主なる神は大能をもってこられ、
その腕は世を治める。
見よ、その報いは主と共にあり、
そのはたらきの報いは、そのみ前にある。
主は牧者のようにその群れを養い、
そのかいなに小羊をいだき、
そのふところに入れて携えゆき、
乳を飲ませているものをやさしく導かれる。(イザヤ40:10-11)
 
藪の中で迷い、孤独に泣いているか弱い羊が、一匹でも、主の御手によって救い出され、そのふところに抱かれて安らぐようにと願う。

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