忍者ブログ

私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

主よ、御名を知る人はあなたに依り頼む。あなたを尋ね求める人は見捨てられることがない。

あなたは誰との一致、一体化を目指すのか。目に見える人間、事物、制度、組織との一体化か、それとも、見えないキリストとの一致か・・・。

私たちは誰を自分の「代表」として生きるのか。それは非常に深刻かつ重要な問題である。

ある時、地上の権威者が、筆者はその権威者の代理人であって、筆者に話しかける人々はみな筆者を通して、その権威者自身に話しかけているのと同じだと述べたことがあった。

その時、筆者はそうした信頼が寄せられたことが嬉しく、それによって自分が高められ、かつ、その関わりの中に、キリストと信者との一致のひな型を見いだしたような気がした。

しかしながら、それは本物と似ているようでありながら、本物ではなく、厳密に言えば、大きな誤謬と言っても差し支えない考えであった。

なぜなら、私たちの代表は、ただ見えない主だけであって、目に見えるどんな人間も、私たちの代表や代理人とはなれないためである。

私たちは、目に見える人間との間で、どんなに一致や一体性を確保しようとしても、それをほんのわずかの間も、保つことができない。

目に見える人間は、他者を力づくで支配したり、あるいは指図したり、説得したりして感化を及ぼし、あるいは他者の関心を自分に向けさせたりすることはできるかも知れない。

しかし、どんなに強い心の結びつきが出来たとしても、それは決して他人を内側から変える力とはならないし、内側からの一致ともならない。

目に見える人間同士は、どんなに互いを愛し、信頼しているつもりであっても、決して真に互いを理解し合うことはなく、互いを満たすこともできず、やがて来る別離を避けることもできない。

人間同士の結びつきは、非常に脆弱で、不完全で、一時的なものに過ぎず、どこまで行っても、真の一致には至ることがない。

だからこそ、私たちには、私たちの真の助け手として、また代表として、信仰により、内側にキリストを持つことが必要なのである。キリストの中にこそ、私たちに必要な一切のものが満ちているからである。

A.B.シンプソンは「キリスト生活 第3章 キリストにある」の中でこう述べている。
 

聖書に示されている私たちとキリストとの結合には二つの面があります。それらはギリシャ語の前置詞「~にある(in)」によって最もよく表されています。それは、私たちに祝福の半球を二つ与えます。第一は「キリストにある(in Christ)」であり、第二は「あなたがたの内にあるキリスト(Christ in you)」です。

これらは異なる思想ですが、互いに相補的であり、組合わさって私たちがこれまで語ってきたキリスト生活を構成します。

まず第一に、私たちはキリストにあります。「キリストにある」とはどういうことでしょう?それは、キリストが代表となって、私たちのために立ち、私たちがそのすべての恵みと特権にあずかることです。

アダムを盟主としていただく限り、私たちはアダムにあります。同様の意味で、私たちの政治的代表者は私たちのために立ち、私たちを代表するので、私たちは彼の中にあります。そのように、キリスト・イエスは私たちのためであり、私たちの代表者です。そして彼の行為はある程度私たちのものとなります。彼はご自身のためよりも、私たちのために行動されます。


 もしもアダムに属する古き人を自分の代表とみなすなら、私たちの行動様式の一切は、古き人を導く罪と死の法則に支配され、そこから寸分たりとも抜け出ることができない。どんなに優れた偉人であろうと、どんな権威者であろうと、肉なる人間を頼るなら、私たちはそこから何一つ得るものはない。

私たちはその人間の外見や行動様式を模倣することはできるかも知れないが、模倣によって同じ性質が得られるわけではない。滅びゆく人間から受け継ぐことができるものは、しょせん、滅び以外にはないのである。
  
だから、私たちは、私たちのために死んでよみがえって下さった、神の目にただ一人完全な人であるキリストに、私たちの代表者となっていただく必要がある。

その時、その代表者の人格、思い、知恵、力、行動様式が、私たちのものとされるのである。

その法則を説明したという一点においては、地上の権威者が筆者に告げたことは、幾分か真実を含んでいたと言えるが、私たちは、キリストによって救われていない者でなく、キリストご自身を代表として生きなければならない。いや、その方が私たちの内側から生きて下さるようにしなければならない。

私たちが心の内側で、確固としてこの方の命、人格と結びつくことにより、キリストの知恵、力、すべての優れた性質が、私たち自身のものであるかのように、内側から生きて外に流れ出すようになる必要がある。

とはいえ、それが起きたからと言って、私たちは何ら超人のようにはならず、実に素朴な生活が待っているだけであろうが、それでも、私たちには、主が共にいて共に生きて下さっていることが、確実に分かるはずである。

一体、そのようなことが机上の空論としてでなく、可能なのかと、首をかしげたくなるかも知れない。

だが、先人たちの証を通しても、それは可能であることは明白である。聖書がそう告げている以上、私たちは「わたしにとって、生きるとはキリスト」である(フィリピ12:21)と言えることを信じるべきである。学習は少しずつであるが、進んでいる・・・。

* * *

もしもあなたが今、心に平安がない・・・と思っているならば、または、生きることに不自然なほどの疲れを感じる時があるなら、まずは心の扉をきっちり閉めて、主イエス以外に頼るものがない心の状態を作り出すことをお勧めする。

あなたの心は、家のようなものである。家の外では嵐が吹き荒れている。その上、強盗やごろつきどもが外をうろついている。獣だっているかも知れない。

心の平安を取り戻すためには、まずは家の鎧戸をぴったりと閉めて、隙間風が入らないようにし、外にたむろしている怪しい連中や獣たちの怒号が、家の中に届かないようにしてから、静かに神に向かって語りかけることだ。

あなたに信仰があるなら、キリストはあなたの内に確かに生きて共におられ、あなたの呼び声に応えて下さる。だから、その方に静かに呼びかけてみると良い。怖いなら、助けを求めると良い。

ならず者たちを心の中から追い出しただけでも、驚くほど心の平安が回復したことにあなたは気づくだろう。

あなたは外にいる者たちが、ならず者だということに、気づいていなかった。あなたは友を求め、助言者を求め、慰め主を求め、あらゆる場所を奔走し、目に見える人間に声をかけ、すがりついたが、誰もあなたを助けてくれる者はなかった。

彼らは、自分たちに得になる時にしか、あなたに関わらず、あなたが助けを必要としている時には、甚だ冷淡であった。彼らは、あなたをへとへとになるまで利用し、これ以上、取るものがないと分かると、あなたをぼろ切れのように投げ捨て、踏みつけて去って行った。

目に見える存在は、どんなに優れた者のように見えても、あなたを寸分たりとも、救う力を持たない。そういうむなしいものにすがり続ける限り、あなたは力を失って行くだけである。

だから、それらすべての偶像を、心の外に毅然と締め出しなさい! そして、主と二人きりになって、見えない主ご自身から、すべての必要な力を引き出しなさい。そうするだけでも、あなたは、内なる力がどれほど回復し、心に平安が戻るかを知ることができるだろう。

どんなにあなたが失敗を重ね、疲れ切っていたとしても、関係ない。主はへりくだって、心優しい方であるから、あなたが主以外のものに頼ることが誤りであると認めさえするならば、あなたの罪を赦し、責めずに受け入れ、恥じることなく、あなたの弱さを力で覆って下さる。

だから、ダビデが詩編第18編で述べた通り、あなたは大胆に宣言することができる。

「主よ、わたしの力よ、わたしはあなたを慕う。
 主はわたしの岩、砦、逃れ場
 わたしの神、大岩、避けどころ
 わたしの盾、救いの角、砦の塔。
 ほむべき方、主をわたしは呼び求め
 敵から救われる。」

「主は高い天から御手を遣わしてわたしをとらえ
 大水の中から引き上げてくださる。
 敵は力があり
 わたしを憎む者は勝ち誇っているが
 なお、主はわたしを救い出される。

 彼らが攻め寄せる災いの日
 主はわたしの支えとなり
 わたしを広い所に導き出し、助けとなり
 喜び迎えてくださる。」
 
 「わたしは主の道を守り
  わたしの神に背かない。
  わたしは主の裁きをすべて前に置き
  主の掟を遠ざけない。
  わたしは主に対して無垢であろうとし
  罪から身を守る。
  主はわたしの正しさに応じて返してくださる。
  御目に対してわたしの手は清い。」(詩編18:2-4,17-20,22-25)

あなたがどんな状況にあり、どれほど万策尽きていようとも、神には行き詰まりはない。

運転手が何度道を間違えようとも、ナビが狂うことはないように、主は、あなたが頼り続ける限り、あなたを嘲笑することも、見捨てることもなく、あなたを正しい道へと導いて下さり、すべての悪から遠ざけられ、目的地を指示して下さる。

だから、あなたは以前は幾度も道を間違えて迷っていただけであったが、ついには勝利の歌を歌うことができるようになる。

 「わたしは心を尽くして主に感謝をささげ
  驚くべき御業をすべて語り伝えよう。
  いと高き神よ、わたしは喜び、誇り
  御名をほめ歌おう。
  御顔を向けられて敵は退き
  倒れて、滅び去った。

  あなたは御座に就き、正しく裁き
  わたしの訴えを取り上げて裁いてくださる。
  異邦の民を叱咤し、逆らう者を滅ぼし
  その名を世々限りなく消し去られる。

  敵はすべて滅び、永遠の廃墟が残り
  あなたに滅ぼされた町々の記憶も消え去った。

  主は裁きのために御座を固く末
  とこしえに御座に着いておられる。
  御自ら世界を正しく治め
  国々の民を公平に裁かれる。

  虐げられている人に
  主が砦の塔となってくださるように
  苦難の時の砦の塔となってくださるように。
  主よ、御名を知る人はあなたに依り頼む。
  あなたを尋ね求める人は見捨てられることがない。」(詩編9:2-11)

さて、A.B.シンプソンの「キリスト生活 第3章 キリストにある」の中から、キリストのご性質がどのように私たちのものとされるのか、その描写に注目してみたい。

罪の赦し、義認というテーマが重要でないと言うわけではない。しかし、ただ罪が赦され、義とされ、無力な者が神の強さによって覆われ、無知な者が知恵を得て、キリストの人格、性質が私たちのものとされる、という以上に、代表者であるキリストを通して、私たちにいかにとてつもない特権が付与されているか、そのことについて考えてみたい。

* * *

神の子供たち

もし人がキリストにあるなら、その人は彼との交わりに入り、神にとってキリストと同じ者になります。イエスは「私の父またあなたがたの父、私の神またあなたがたの神」1と言われました。

「彼を受け入れた者、すなわち、彼の御名を信じた人々に、彼は神の子どもとなる力をお与えになりました」(ヨハネによる福音書一章一二節)。「あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子どもなのです」。2

1 ヨハネによる福音書二十章十七節(訳注)
2 ガラテヤ人への手紙三章二十六節(訳注)

子たる身分を表すのに、新約聖書では二つの言葉が使われています。一つは「生まれた息子」を意味しますが、もう一つにはそれ以上の意味があります。子たる身分を表す二つ目の言葉は、ほとんどの場合キリストの子たる身分にあてられており、イエス以外の他の誰にもめったに使われていません。

しかし、その言葉はキリストと結合された人たちを指すのにも使われています。彼らは新しく生まれて神の子供になっただけでなく、キリストが受け入れられたのと同じ意味で受け入れられます。すなわち、彼らは新生によって子たる身分を持つだけでなく、キリストご自身の立場をも持ちます。彼らは神の子供であるだけでなく、「長子」でもあります。

東洋人の考えでは、息子と長子には大きな違いがあります。長子は世継ぎです。他の者は何らかの分け前にあずかることができますが、年長者が跡継ぎです。それで「御子は多くの兄弟たちの中で長子であり」1と述べられており、信者たちは「長子たち」と呼ばれています。

ですから愛する人々よ、あなたがたは天使がなることのできない「子供」なのです。私たちはイエスのように子です。私たちは「天に登録されている長子たちの教会」2に近づいています。私たちは「神の相続人、イエス・キリストと共同の相続人」3です。

1 ローマ人への手紙八章二十九節(訳注)
2 ヘブル人への手紙十二章二十三節(訳注)
3 ローマ人への手紙八章十七節(訳注)

聞き届けられる祈り

私たちはキリストにあります。そして、偉大な大祭司であるキリストが、御座の前で私たちを代表しておられます。ですから、私たちの祈りや礼拝は、彼ご自身が受け入れられるのと同じように、彼のゆえに受け入れられます。

彼はあなたの名によって嘆願を手渡して、その裏に彼の御名を記されます。そして、まるで彼が願っておられるかのように、あなたの祈りは御父のみもとに届きます。

キリストはご自身の人格と性格において、あなたを代表しておられます。彼は個人としてそこにおられるのではありません。私たちは個人と見なされているのではなく、キリストと一つである者と見なされています。

私たちがこのようにキリストと一つである者として来る時、私たちは自分の欲するものを願い、それを受けます。これが次の約束の意味です、「もしあなたがたが私の内に住み、私のことばがあなたがたの内に住んでいるなら、何でも望むものを願いなさい。そうすれば、それはあなたがたにかなえられます」(ヨハネによる福音書十五章七節)。

共同の相続人

私たちはキリストにあって万物を受け継ぎます。私たちは彼と共に御座に座します。彼のすべての豊富、すなわち後の時代に来ようとしているものはみな、私たちのものになります。彼はご自身の未来と私たちとをつないで下さいました。

キリストは私たちと一緒でなければ、決してなにものも所有されません。愛する人よ、もしあなたが「私はキリストにあります」と言えるなら、続けて「私は彼にあってすべてのものを持っています」と言うことができます。

それで、パウロはエペソ人のために、「キリストがどのような方であるのか、彼らが見ることができますように」と祈りました。「神はキリストを、すべての支配、権威、力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く上げられました。また神は、彼をかしらとして教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであって、すべての中ですべてを満たしている方の豊満です」(エペソ人への手紙一章二十一~二十三節)

彼は「私のものはすべてあなたのものです」と仰せられます。永遠の時代をもってしても、その測り知れない富を使い尽くすことはできません。

彼の所有は私のものとなり、
 彼のように私はなります。
 彼の神聖な栄光を着せられて、
 私は彼のようになります。 

* * *

私たちは、キリストと共に、死んで復活させられただけでなく、御座にまで引き上げられ、天の無尽蔵の富の共同相続人とされている。

文字通り読めば、恐ろしいと思うほどに、とてつもない特権が約束されていることが分かる。

とはいえ、これほど絶大な特権が与えられているにも関わらず、私たちの歩みは、あくまでいつも恐る恐る、新たな一歩を定めるようなものであって、決して超人的なものとはならない。それは、キリストは果てしない大海のようであっても、私たちはその海に浮かぶ小瓶のようなもので、私たちは自分というちっぽけな器を、絶えず彼のはかりしれない命によって満たしてもらうために、御前に進み出る必要があるためである。

そのはかりしれない権威、力、知恵、富、栄光は、あくまでキリストのものであって、私たち自身から出て来るものではない。しかし、私たちが彼の中にとどまるときに、それはあたかも私たち自身のもののように、私たちの内側から生きて働き、私たちは神の御前に、彼と全く同じ者のとして受け入れられるのである。

PR