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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

バッハ・コレギウム・ジャパンを聴いて

昨日、バッハ・コレギウム・ジャパンの演奏でバッハのモテットを聴いてきた。

美しいコーラスと、古楽器も含めた伴奏を楽しんできたが、これらの曲は、鈴木雅明指揮者の解説によると、ほとんどが葬儀で歌われた合唱曲だったようだ。

なんと、葬儀で歌われた曲ばかりをたて続けに聴くという、普通にはない体験をすることができた。なにやらちょっと不吉な感じがせぬこともないが、私も以前、自分の葬式のためにいくつかの曲を作ったといういきさつもあって、偉大な作曲家の曲に真剣に耳を澄まして来た。

指揮者の解説の中でも言われていたことだが、キリスト教においては、肉体の死は、新しい生の始まりとしてとらえられるために、葬儀のために書かれたモテットには、決して、悲劇的な曲調や歌詞はない。ドイツ語の歌詞は、私には聴いても分からなかったものの、全てが聖書に基づいたものであると思われ、恐らくは、遺された者たちを信仰的に勇気付け、励ますような歌詞がメインだったのだろうと想像する。

『み霊はわれらの弱きを助けたもう』BWV 226
『恐るるなかれ、われ汝とともにあり』BWV 228
『イエスよ、わが喜び』BWV 227
『主を頌めまつれ、もろもろの異邦人よ』BWV 230
『来ませ、イエスよ、来ませ』 BWV 229
『主に向かいて新しき歌をうたえ』 BWV 225

曲調は全く違えど、今日のプロテスタントの教会でも似たようなタイトルの賛美歌が歌われているなと思った。

以前、教会に属していた頃、私の母は聖歌隊(婦人部コーラス)の練習を指導することが度々あった。子供の頃、母が家で聖歌隊のために楽譜を書き下ろしていたり、エレクトーンで各パートの旋律を録音していたのを覚えている。

今から思えば、プロでない人たちから成る聖歌隊をまとめるのはなかなか難しい技だったのではないかと思う。楽譜を書き、各パートの旋律をカセットテープに録音して、練習のために配っても、メンバーにはなかなかそれを練習する時間がない。みな別に仕事を持って働いている人たちであるし、さらに場合によっては、楽譜を読むことができないメンバーもいる。だから、音楽のプロでない人々を集め、毎日曜、礼拝後に集まって、少ない貴重な時間を使って、必要な練習をこなし、家に帰っても練習してもらい、本番でそれなりのものに仕上がるようリハーサルを行うのは難しいことだったのではないかと思う。

それでも、当時、教会で行われた合唱には、それほどまでに高度な水準が求められることはなく、どんな出来になろうとも、いつでも会衆にそれなりに楽しんでもらえていたものと思う。(メンバーの弁明のために付け加えれば、教会での練習の少なさにも関わらず、いつもそれなりに良い出来に仕上がっていた。)
当時、教会では、何かの大きな行事がある度に、必ず、儀式に花を添える「音楽的な出し物」が、無言のうちに要求されていた。とにかく、それをこなすことが信徒にとっての課題であった。
だが、それにしても、バッハの書いた曲を、もし私達の教会の聖歌隊で歌おうとしていたら、どうなっていただろうか。きっと、どんなに逆立ちしても、無理だったことだろう…。

バッハの生きていた時代には、訓練された合唱隊がそれを歌っていたのだから、きっと、難しいということはなかったのだろう…と想像する。ところが、案外、事実はそうではなかったかも知れない。

我が家に古くからあるバッハの伝記(『バッハ』、角倉一郎著、音楽之友社、昭和五十年)を見ると、バッハは38歳から65歳で世を去るまでの27年間、ライプツィヒの聖トマス教会付属学校カントル(合唱長)を勤めたとある。
活気ある自由都市ライプツィヒは、知的生活、信仰生活の点でも恵まれていた。街には進歩的なヒューマニズムの拠点となっていたライプツィヒ大学があり、五つの教会が、街全体の信仰生活の中で指導的役割を担っており、その中でも、バッハが勤務した聖トマス教会(付属の高等)学校は、特に、音楽教育が盛んであり、生徒による合唱隊は、街全体の教会音楽の中心となっていた。

しかし、このようにしてライプツィヒの音楽界の中心に立ち、街の教会音楽を一手に担いながらも、カントルとしてのバッハの生活はそれほどまでに恵まれたものとは言えなかったようだ。収入面から見ても、決して安定していたとは言えない上に、学校当局との政治的対立などのために、余計な苦労を強いられていたようである。
いつの時代も、真に優れた天才が、同時代人から十分に理解されることはあまりない(預言者は故郷では敬われない?)。当時、バッハは今日ほどの畏敬の念を持って同時代人から評価されていたわけでは決してなく、バッハもカントルに就任するために試験を受けているし、就任後も、雇われ人として、学校当局、宗教界からの注文に応えるために色々な苦労を強いられたようだ。

聖トマス学校の環境設備も、同書によると、決して良くなかったことが分かる。
「トマス学校の無規律さも、新任のバッハをひどく驚かせた。
一六八四年以来校長の地位にあったヨハン、ハインリヒ・エルネスティはりっぱな学者であったけれども、バッハが就任した当時すでに七十一歳の高令で、教師に対しても生徒に対しても統率力を失ってしまっていた。校舎もほとんど一五五四年に建てられたままの姿で寄宿舎も教室も狭く、ひとつの教室で三クラスの授業を同時に行うほどであった。こうした悪環境に加えて、バッハの直接の対象になった合唱隊員たちは、仕事が多すぎて音楽の基礎的な訓練がきわめて不十分な状態にあった。

日曜日や祝日の演奏だけでなく、雨が降ろうが雪が降ろうが、市のほとんどすべての葬式で歌い、また毎年正月には、クレンデとして戸毎に寄捨を求めて歌い歩かねばならなかったからである。こうした生徒たちを相手に、一週に三回か四回のレッスンをし、土曜日の午後には翌日の礼拝で歌うカンタータを練習するのが、学校におけるバッハの役目だった。」(p.101-102)

 つまり、バッハも、練習と教育が不十分な聖歌隊の指揮で難儀することがあったようなのである。
 さらに、バッハの何より重要な仕事は、礼拝で用いられる音楽の作曲と演奏であった。バッハが仕事で関わっていた二つの教会(聖トマス教会と聖ニコライ教会)では、毎日曜になんと四回も礼拝が行われていたという。まず、朝6時からの早朝祈祷と説教、7時から4時間も続く主礼拝、11時半からの祈祷と説教、1時半から2時間に渡る午後の祈祷…。

 日曜日以外にも、毎日、早朝礼拝と午後の祈祷会があり、土曜日の二時からは、翌日に備える礼拝が行われた。この全ての場面で、音楽が重要な役割を果たしたが、中でも、とりわけ、日曜の主礼拝と、祝祭の祈祷において大規模な音楽が必要とされた。そのために、カンタータを中心にして、バッハは作曲を行い、二大教会で毎週交互に、聖トマス学校の合唱隊の優秀なメンバーを指揮したようである。

「このように、聖トマスと聖ニコライのいずれかの教会では、<略>教会暦のすべての祝祭日(年間約六十日)にカンタータが演奏され、少なくともライプツィヒでの最初の数年間は、そのほとんどをバッハはみずから作曲した。そのほか、毎年聖金曜日に演奏される受難曲や、毎年行われる市参事会員就任式その他の祝典音楽、そして大きな葬式で歌われるモテットも、トマス・カントルたるバッハの責任であった。

たとえば、カンタータ『エルサレムよ、主を讃えよ(Preise,Jerusalem,den Herrn)』(BWV 119)は一七二三年の市参事会員就任式のために、美しい五声部のモテット『イエス、わがよろこび(Jesu meine Freude)』(BWV 227)は、同じ年のある葬式のために作曲されたのである。」(p.103)

同書によると、私が今回聴いてきた6曲のモテットが、バッハの書いたモテットの中で、今日まで残っている全てのようである。そのうち、BWV230を除いては、全てバッハのライプツィヒ時代前半に作られた曲だという。一曲(BWV225)だけは新年のために作られたもの、それ以外の五曲(BWV226-229)は全て葬儀用である。BWV226は聖トマス学校でバッハの上司であったヨハン・ハインリヒ・エルネスティの1729年の葬儀の際に演奏されたモテットである。

ライプツィヒ時代の作曲は、バッハの作曲生活全体の五分の三にも上るという。しかし、やがて学校当局との争いが、バッハの仕事に悪影響を与えるようになり、また、世相の移り変わりの中で、人本主義、啓蒙主義に注目が集まり、教会音楽に対する興味が失われていき、バッハの音楽に対しても、人々の関心が薄れていったようである。バッハの晩年はそういう意味では、幸せなものではなかった。

「啓蒙主義の支配し始めた時代の中で、バッハが孤独な晩年を生きなければならなかったのは、歴史的な宿命だったといわざるをえない。
 新しい時代思潮は、当然、音楽観にも決定的な影響をおよぼし、十八世紀前半のあいだに、人々の趣味は、複雑な対位法的音楽からおり単純明快な音楽へ、そして、教会音楽の普遍的な様式から主観的な感情の表出を求める多感様式へと、急速に移っていった。

バッハの音楽はどうであったか。最初にも述べたように、バッハの音楽は伝統の総合であると同時に、すでにそこには、古典派に通じる新しい技法の芽生えがある。しかし、それはあくまで、バロック様式を総合し発展する過程の中から生じたもので、彼の音楽は、とくに当時の人々の目から見れば、明らかに古い伝統の世界に属するものであった。<略>

バッハに対するこのような評価はその死後も続き、彼の作品、とくに教会音楽は、その後久しく世の中から忘れ去られることになったのである」(p.117-118)

政教分離が推し進められ、教会が権威を失っていくにつれて、教会音楽に対する人々の関心も急速に薄れて行った。さらには、教会音楽=難解で堅苦しいもの、人間を束縛するもの、生真面目で近寄り難いもの、といった偏見さえ生まれ、バッハの音楽もそれに倣って、大衆になじみ難いもののように思われるようになった。
そんな風潮に伴って、バッハの死後、長い間、彼の多くの作品が忘れられていき、演奏されなくなり、かなり長い間、バッハの名前さえ、人々の記憶から忘れられていたようである。

「バッハの教会声楽曲は、作曲者の死後久しく忘れられていたが、モテットだけは例外で、聖トマス教会と付属学校の、つねに重要なレパートリーでありつづけた。一七八九年にライプツィヒを訪れたモーツァルトが、第一番『主に向かいて新しき歌をうたわん(Singet dem Herrn ein neues Lied)』(BWV225)』を聴いて、いたく感動した話は有名である」(p.143-144)

バッハ存命当時、ライプツィヒにはコレーギウム・ムージクムと呼ばれる大学生の演奏団体が二つあり、バッハはそのうちテレマンが創設したコレーギウムの指揮者に迎えられ、十二年間、その楽団と活躍した。今日の学生オーケストラを思わせるこの楽団は、大学の祝典で演奏するほか、ライプツィヒ市民の楽しみの場であったツィンマーマンのコーヒー店でも、毎週一回演奏会を催したという。有名な『コーヒー・カンタータ』(BWV211)を初めとして、バッハの世俗カンタータの多くが、このコレーギウム・ムージクムのために作曲された。

今回、私が聴いてきたコレギウム・ジャパンの名はきっとこれにちなんだものなのだろう。

 * * *
 

バッハ存命当時、音楽の世界は、現在のような、世界を股にかけて活躍するようなヴィルトゥオーゾの舞台演奏家の独壇場ではなかった。当時、音楽は、主として庶民の仕事であり、音楽家は比較的身分の低い人々で構成されていた。そのため、プロテスタント教会を中心に活躍し、教会音楽の作曲と演奏に携わり、二百年に渡って五十人以上の音楽家を輩出したバッハ一族に生まれたヨハン・セヴァスチアン・バッハも、一生、生活の苦労と無縁ではなかった。

バッハの時代、音楽そのものが、今日よりも、もっと庶民の暮しに馴染んだものであった。地元に暮らす、市井の名もない人々が、大工やパン屋さんと並んで、楽器や、合唱に携わり、それを生活の糧として暮らしていた。人々は今日のように高いお金を払ってコンサート・ホールのチケットを買い、コンクール入賞暦をいくつもぶら下げた演奏家の演奏を聴きに行くことはなく、教会の日曜礼拝や、冠婚葬祭などの、暮しに欠かせない場面で、演奏を自然に耳にしていた。

今日、一つの楽器の練習のためだけに一日10時間もの時間を費やす演奏家がいる一方で、いくつもの楽器の演奏に精通し、多くの楽器への深い理解を持っている奏者は驚くほど少なくなってしまっている。だが、バッハの生存当時は、一人の奏者が複数の楽器を演奏することも、決して珍しい風景ではなかった。

バッハは、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェンバロ、オルガン等、いくつもの楽器の優れた奏者であった。そんな楽器への理解があってこそ、バッハの作品は生れた。『平均律クラヴィーア曲集』は、ピアノ(当時はチェンバロ、クラヴィコード)のための新境地を切り開いたし、バッハは、ヴァイオリン演奏にも、鍵盤楽器の手法を取り入れて、従来の演奏の限界を打破するという偉業を成し遂げた。中でも、『シャコンヌ(無伴奏ヴァイオリン・パルティータ)』は今日でも、ヴァイオリンのための不滅の作品として知られている。

バッハの作曲は、室内楽、管弦楽、協奏曲、合唱曲と多岐に渡っており、いずれの分野においても優れた才能とそれぞれの楽器への深い理解を示している。それはいかに彼が音楽に関して偏りのない総合的な知識を持っていたかということを物語っている。

バッハ以後、ピアノ(バッハの時代は主にチェンバロ、クラヴィコード)という楽器は、伴奏なしで単独に高度な演奏が可能な楽器として、外の楽器にぬきんでて、多くの作品が書かれるようになり、やがてソリストとしての演奏者自身に、注目が集まるようになっていった。しかし、他の楽器は、伴奏なしにソロを行えないせいもあって、その楽器の演奏者だけに注目が集まるということが比較的、少なかった。今になっても、ソロで演奏されるよりも、もっぱら、交響楽、室内楽などの中で用いられる楽器は多い。

ヨー・ヨーマやカザルスのような例もあるにせよ、少なくとも、クラシック音楽界においては、今日でも、ピアノとヴァイオリンの二つを超えて、世間の注目を集め、ソリストを多く生み出している楽器は他にない。

ピアノとヴァイオリンという二つの楽器がこれほどの人気と注目を集めるようになったのは、優れた楽曲を生み出した作曲家のおかげでもある。楽器の演奏は、演奏者だけが主体になって行うのではなく、作曲者と演奏者、(に加えて、伴奏者、共演者など)の協力によって作り上げられる。
ピアノという楽器は、その点で、他のどの楽器よりも多くの作曲家に恵まれたと言えよう。たとえば、もしもショパンという一人の作曲家がこの世に登場していなかったならば、ピアノ人口は、恐らく、現在の半分以下にまで減っていたのではあるまいか。

ヴァイオリンにしても、今日、これほどまでに、この楽器が世間の人気を博すようになった理由の一つとして、クライスラーの存在が挙げられる。自身が優れたヴァイオリニストであったからこそ、ヴァイオリンの長所を存分に引き出すことができ、なおかつ、イザイのように、理解できる人が限られてしまうような難曲でなく、聴衆誰にでも親しみやすい、馴染みやすい名曲を作ったクライスラーのおかげで、ヴァイオリンという楽器の知名度がより一層、向上し、ヴァイオリン演奏は一段と聴衆に親しみやすいものになったと言えるだろう。

今日、クラシック音楽界はどこかしら歪んでしまい、作曲の能力を持った演奏家が少なくなっているだけでなく、さらには、演奏家としての能力を持っていない教育者というものも珍しくなくなってしまった。その上に、クラシック音楽界そのものが、数々のコンクールなどの悪影響もあって、まるで演奏者が名人芸をひけらかして大金を稼ぎ出すための競争社会のようになってしまっている悲しい現状がある。

だが、実際には、どんなに優れた楽器演奏者も、作曲者の恩恵をこうむらずして、自分の演奏を聴衆に魅せることはできない。また、曲に対する深い理解なくして、完全な演奏を行うこともできない。作曲者あってこその、演奏者であるし、本来は、作曲者と演奏者とが完全に一体となっていることが何よりも望ましい。

バッハの教会音楽は、理解し難いとよく言われるが、それは大きな偏見ではないだろうかと思う。確かに、バッハの作曲の技法はかなり高度であるだけでなく、はかりしれない深さを持っており、その研究にどれほど時間を費やしても終わらないほどであることは否定し得ないが、演奏という点では、むしろ、バッハの時代の方が、今日に比べて、音楽ははるかに自然で、人々に親しみやすい形で存在していただろうことを私は疑わない。
教会は人々の生活の風景の一部だったのである。

そんなわけで、一家で教会に属し、名もない聖歌隊で歌ったりしていた頃が、妙に懐かしく思われるこの頃である。

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