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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

禁欲主義の誤りについて

禁欲主義の誤りについて

 多くの人の言うとおり、クリスチャンは決して禁欲主義者になってはいけないと私は考える。だから、私は美味しいものを感謝して食べるし、好きな音楽も聴く。時にはたくさん買い物をしたり、くつろぐためだけに目的のない時間を過ごしたり、夜っぴて人との会話を楽しんだりもする。

 毎日、苦しんで生きていかなければならない、とは、思っていない。しかし、これら主が与えられた恵みを、主がもし取り去られるならば、それらの恵みを一瞬にして、主に返却しなければならないと思っている。そして、私の生活にこれまであった苦しみも含めて、主が私のために、試練を用意なさるならば、私は今までの生活で得た安楽を捨てて、主の命じられるところへ赴かなければならないと思う。

 ひどい苦しみの後で、神は私に休息を与えて下さった。その恵みを今は感謝して享受している。しかし、私に限らず、信仰者の前途には、必ず、火で金が洗練されるように、信仰が洗練されるべく、信仰が試される時が来るだろうという確かな予感がある。その時に、無用なもの全てを私達は主の前に差し出すことを求められ、必要のないものは自然と焼き尽くされ、必要なものだけが残るだろう。

「あなたがたは、終りのときに啓示さるべき救にあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである。そのことを思って、今しばらくのあいだは、さまざまな試練で悩まねばならないかも知れないが、あなたがたは大いに喜んでいる。こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれに変るであろう」(ペテロⅠ1:5-7)

「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。たとい人が全世界をもうけても、自分の命を存したら、なんの得になろうか」(マタイ16:24-26)

「富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい(略)おおよそ、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍もを受け、また永遠の生命を受けつぐであろう」(マタイ19:24,29)

「善をおこなって苦しむことは――それが神の御旨であれば――悪をおこなって苦しむよりも、まさっている」(ペテロⅠ3:17)

「このように、キリストは肉において苦しまれたのであるから、あなたがたも同じ覚悟で心の武装をしなさい。肉において苦しんだ人は、それによって罪からのがれたのである。それは、肉における残りの生涯を、もはや人間の欲情によらず、神の御旨によって過ごすためである」(ペテロⅠ4:1-2)

 日曜礼拝を守っているか、十一献金をしているか、などの外からのものさしで、信仰をはかることは無意味である。律法主義的なものさしによって自分をはかっても、私には何一つ、基準を満たすものがない。私をクリスチャンたらしめているのは、私の行いではなく、キリストによる十字架のあがないをただ信じることである。(「律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。」(ローマ3:20))

 だから、主が人間のために創って下さった全ての麗しいものを捨てることで、人が義とされるわけでもない。主はこの地球を人間のために創造され、すべての物を利用する権利を与えられた。被造物は神の栄光をあらわしており、空を飛ぶ小さな鳥から、大海原まで、私達はどんなものでも、主の創られたものを喜び、楽しむことを許されている。
 
 しかし、同時に、エバの誘惑が五感から来たものであったことも忘れてはならない。そして、滅びに至る門は大きく、そこから入っていく人が多い、ということも忘れてはならない。目に麗しいもの、耳に心地よいもの、肌に柔らかいもの…、肉を喜ばせる全ての五感による刺激を愛でていくとき、それが無意識のうちに、「目の欲、肉の欲、暮らし向きの自慢」にリンクし、やがて主ご自身よりも肉の欲が優先される生き方を生む危険性を私達が忘れてはならないことは確かである。

 以下の一連の記事の中で、今日、キリスト教という名で非キリスト教的な目的の達成にいそしんでいる偽クリスチャンたちが確かに存在することを私達は見てきた。彼らは地上的な繁栄を武器にして、自分たちの団体にさらなる繁栄を呼び込もうと計画的に活動している。そういう場所には、五感に訴えかけてくるものがたくみに容易されているため、そのような感覚に惑わされることがないよう、注意しなければならない。いや、そこでは主ではなく、自分の五感をこそ楽しませることが最終目的にさえなっているため、本当に用心が必要である。人の五感に語りかけることにおいては、彼らはプロだからである。

 ネズミ講などがよく使う、違法な販売方式の中には、人の感情をたくみに煽り、人にはそれと気づかせず、無意識に訴えかけることによって、法外な利益を達成しようとするやり方がある。まだ科学的にははっきり解明されておらず、法律で禁止されるまでには至っていないものの、このような非道なやり方を様々に駆使して信者を集めているのが、今日の擬似キリスト教的な団体である。

 以下の記事では、教会成長論そのものが大きな異端的な教えであり、誤りであるということを指摘したが、とにかくも、成長する教会には、繁栄がある。繁栄があるということは、そこには、人を呼び込むための様々なもてなし(仕掛け、装置)が用意されているということである。その仕掛けは、人に優しく、親切で、五感に語りかけ、人の心を楽しませるものだ。来客のための温かい配慮から用意されているように思われる、数々のもてなしは人を喜ばせるだろう。耳に心地よい音楽(賛美)と、分かりやすく、心に語りかけてくる印象的なメッセージ、リラックスできる語らいの場、美しい会場、心地よい礼拝…。主の栄光を示しているように見える数々のアイテム、いつまでも浸りきっていたいような感慨がきっとそこにあることだろう。

 だが、これらのものは単なる仕掛けに過ぎない。そのようなものをふんだんに用意している教会が、美しい仮面の裏に、背教という致命的な毒を秘めているのであれば、そのような場所には決して、誘い込まれてはならない。

 クリスチャンの中には神社仏閣を嫌って、「あれは悪魔の巣窟だから近寄らない方が良い」などと言う人がある。しかし、真に警戒せねばならないのは、異教ではなく、信者を滅びに至らせるキリスト教内の異端(背教の教え)である。
 そして異端とは、イエス・キリストの存在そのものを否定するなどの、あからさまに誰にでもそれと分かる非聖書的な教えを語っている教会のことだと安易に考えてはいけない。人間の欲望を中心とし、人の欲望の満たしを最終目的とした教えを語り、そのような活動を行っている教会が、背教に冒されてしまっている教会なのである。

 私が何度も何度も警戒を呼びかけてきたのは、今日、正統な教えを教えている教会よりも、異端的な偽教会の方に、より人をひきつける力があるためである。無邪気な考えで生きている信徒は、自分をとらえる恐ろしい罠の存在がそこにあると思わず、そこには自分の力で決して気づくことのできない、計算されつくされた人為的な仕掛けがあるということに思いを馳せず、自分を優しくもてなしてくれ、人としての満足を感じさせてくれる方へ簡単になびいてしまう。その結果、多くの人たちがカルト化教会の罠にかけられて、救いから遠く引き離されているのである。

 この肉的な影響力を持つ大きな仕掛け、装置については、決して、恐れすぎる必要はないが、絶対に、その影響力を軽視したり、甘く見るようなことがあってはならない。背教は「目の欲、肉の欲、暮らし向きの自慢」から起こる。背教は極めて人の肉にとって喜ばしい形で始まるのである。だから、これに対する警戒は、何度、呼びかけても、呼びかけすぎということはない。

 だが、では、一見、無邪気を装って近づいてくるものの、その実、キリスト者をキリストから引き離そうとする諸々の誘惑や、異端の教えとその影響力を、クリスチャンはどのように見抜き、避ければよいのか。

 たとえば、私が記事の中で「あれは異端だ」と名指ししたものを、人々に無条件に信じてもらうことが必要なのか。このブログにおいて、異端の疑いのあるものについて徹底的に吟味し、議論し続けることが必要なのか?
 絶対にそうではない。牧師でもなく、専門家でもない私には、ただ一信徒としての判断が下せるだけであり、このブログでは、せいぜい、それを人に分かち合ってもらい、考える材料としてもらうために提示することができるだけである。

 では、クリスチャンはどうやって異端、背教を見分ければよいのか。まるで潔癖症のように、あらゆるものを疑い、疑いを払拭できないあらゆるものを、徹底的に避けることによって、背教から身を守れるのか。それとも、「カルト監視機構」によって、判別してもらって、「異端」の診断が下った場所に、極力、近寄らないようにすることによってか。

 どちらも答えになっていない。プロテスタントの教界において、組織的に異端を排除するためには、まず、専門家によって、神学的な議論が十分に行われる必要があると私は考える。だが、この机上での平和な議論が十分に行われていると言えない現在、クリスチャンは専門家からの診断が下るまで待っているわけに行かず、聖書を根拠に自ら判断し、内におられる聖霊に聴くことによって、「私は何を避けるべきか」を十分に知らなければならない。
 また、たとえ異端を排除するためのどのような活動が組織的に行われようとも、聖書と聖霊に聴くこと以上に、クリスチャンが背教を警戒するために有効な手立てはない。

 肉的なものがもたらす欺きの深さについては、多分、それを経験した人でなければ分からない部分があるのではないだろうか。自分が神に心から捧げる礼拝の中にさえ、神と共に喜んで歩む人生の中にさえ、不純なものが交じっていると、人は思いたくないものだ。

「世と世にあるものとを、愛してはいけない。もし、世を愛する者があれば、父の愛は彼のうちにない。すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇は、父から出たものではなく、世から出たものである。世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は、永遠にながらえる」(ヨハネⅠ2:15-16)

 だが、肉的なものへの思慕は、生きている限り、抜き難く人につきまとう。必要なのは、自分では意識しないその不純物(=努力では取り除くことができない)が常に自分の中にあることを認め、それを主に委ねていくことではないかと思う。私の中に「傷ついた道」があるかないかを、主に絶えず見極めて、探っていただこうとすることだと思う。
 肉による生涯を歩みながら、肉なるものをより捨てて行き、肉により死んで行き、霊によって生きることを学んで行く過程が、信仰が洗練される過程なのではないかと私は思う(聖化、栄化はこうした過程と切り離せないものであろう)。
 だが、そのような形での肉なるものへの死は、時に、見かけは、禁欲主義的な節制を行っているようにしか見えず、そのように非難されたり、無益なものとして笑われたりすることがあるかも知れないが、いずれにせよ、主に従って、すすんで自分の不要なものを捨てていく過程がなければ、信仰が試され、練られるということはあり得ない。それを怠り、肉に惹かれていく気持ちが強くなっていく時、私が、たとえ自分では心から神を礼拝しているつもりになっていても、その礼拝が、誤った場所へ私を導くことが実際に起こるのである(すでにそれを経験したために、私がこう言っているのだということをどうか思い出していただきたい)。

 禁欲主義の誤りは、罪に至る様々な思いや衝動を内側から(キリストによって)きよめていただくのでなく、自分の努力によって、外側から(行いによって)取り除こうとする点にある。
 人は外的な影響力によってはどうしても変わり得ない部分を持つので、行いによって人を変えることは不可能だ。私達はあからさまに精神を堕落させる何か(たとえば麻薬等)を控える必要があるものの、日常生活で必ず接触せねばならない多くのもの(たとえばキリスト教に起源を持たないあらゆる風俗習慣)までを、潔癖症のように避けたからと言って、それで聖潔を保てるわけではない。神社仏閣に立ち寄らないように努めたからと言って、あるいは仮に仏壇に供えられた食べ物を食べるのを拒んだからと言って、そのことでクリスチャンの内側が聖く保たれるわけでは決してない。

 多くの場合、何かを「避ける」とか、「しない」ことによって聖さが保てるわけではない。 聖さを獲得することは、ただ、キリストにすすんで従うことによってのみ、得られる。全てのものをキリストの照明によって照らし出し、吟味していき、不要なものを捨てて、キリストに従うところに、私達が現実に、キリストの似姿へと変わっていく秘訣がある。そして、キリストに従うとは、果てしなく自主的な行為であり、決して、外から強制されたりして行うべきことではない。また、形式的な禁欲主義(修道院生活のようなもの)を通して行われたり、「私は聖さを失いたくない」という恐れに基づいてなされるべきことでもない

 クリスチャンは、堕落を恐れるという気持ちだけから主に従ったりすべきではない。その人が信仰生活の上で、何を選ぶか、何を捨てるか、それは極めて自主的な事柄であって、それはその人自身が恐れからではなく、喜んで、自らすすんで主のためにすべきことである。
 捨てるときは、喜んで捨てる。与えるときは、喜んで与える。恵みを享受する時は、喜んで受ける。それはいずれも、主のために自ら喜んで行う選択である…。
 たとえ信徒が主のために貧しさ、苦難を引き受けることがあったとしても、それは義務感や、誰かの命令、または富むことへの恐怖心、自虐心、禁欲主義に基づいてなされるべきでは絶対にない。たとえ殉教したとしても、そこに神への愛がなければ、その善行はむなしい。

 クリスチャンは、こうして、主がクリスチャンを守って下さることを信じて、主に聞きながら、平安のうちに全ての選択を行うべきであって、ただ異教やら、異端やら、偶像崇拝やらを潔癖症のように毛嫌いし、恐れる気持ちから、または自らの意志によらず、誰かの指図に従って、考えられる限りのものを捨てて、禁欲的に生きていく必要は全くない。

 クリスチャンは神から与えられた恵みを享受してよいのである。ただし、その中にあっても、鳩のように素直に、蛇のように賢くあることは、捨ててはならない…。

 だが、きっとこれだけ説明しても、やはり、私の言っていることが、誤った偶像礼拝恐怖症、禁欲主義的節制として受け取られることは、これから先、免れられないことだろう。しかも、私は記事の中で、幾度も「堕落を引き起こす背教への警戒」を強調している。そこで、その点だけを取り上げて、私がいたずらに、背教と堕落への恐怖感ばかりを煽って、クリスチャンを、主が与えられた平安と恵みから引き離し、異端の恐怖だけに目を向けさせて、誤った信仰的潔癖症と恐怖心を人に植えつけているという非難がなされる時が、これから先にも、きっとあるだろうと予想する。

 何よりも、背教に対する警戒を呼びかけるような話題は、暗く、重く、つまらないので、聞かされる方もうんざりして投げ出したくなる時があるかも知れない。主にあっての喜びだけを受け取っていたい方にとっては、主にあっての警戒、主にあっての苦難、主にあっての貧しさという話題はあまり耳に快いものでないだろう。だからこんなつまらない話題を書くなという非難は当然起こってくるものと予想される。(どうか、私が展開してきた記事にすでにうんざりされて疲れたという方は、これ以上、我慢しておつきあい下さるようなことがないようにお願いしたい。)

 だが、このような話題を嫌い、愛想を尽かす方が、きっと、これから先、絶えないであろうことをあらかじめ十分に覚悟した上で、それでも、私は信仰に基づいて、異端を排除することの重要性や、(禁欲主義に基づいてでなく)肉の欲に従わない道を選ぶことの重要性を、今後も述べ続けていきたいと思っている。

 「滅びへ至る広い門」は、あらゆる肉的な高揚をもたらす力(芸術も含む)を駆使して、今日もいたいけな信徒を背教に誘い込んでいる。そこで、彼らが使っているテクニック、彼らの目的とするものを明るみに出し、警戒を怠らないよう呼びかけていくことは、重要な仕事である。

 どうか他人に起こったことが、自分には無関係だなどとは思わないで欲しい。私は背教の致命的な毒を身を持って経験したために、あえてこのような苦言を呈しているのだということを覚えて欲しい。背教がどれほどひどい苦痛を人にもたらすものであるかを知っているクリスチャンであれば、そのような苦痛をきっと身近な誰にも、決して味わって欲しくないと願うだろう。そこで、危機を回避するために、何が必要であるのかを最低限、示さずにはおれないのだ。

 それは耳に心地よくない、うるさくて、聞くのも不快な話題であるのかも知れないが、それを訴えることは、決して聖書に反していないと私は思う。
「わたしの兄弟たちよ。あなたがたのうち、真理の道から踏み迷う者があり、だれかが彼を引きもどすなら、かように罪人を迷いの道から引きもどす人は、そのたましいを死から救い出し、かつ、多くの罪をおおうものであることを、知るべきである」(ヤコブ5:19-20)

 異端の教えから信徒を救う人は幸いである。
 だが、ここにもまだ注意せなばならないことがある。それは今日、異端を排除するという名目で、誤った異端排斥活動が行われており、そのことに対する警戒も呼びかけねばならないので、話がより一層複雑になっているということである。

 一見、真理の道から踏み誤った者を救っているように見えて、道を誤った人を、さらなる誤りに誘い込んでいる活動が存在する。

 今回の記事のテーマは、禁欲主義の誤りを指摘することではなく、誤った異端排斥運動には、異端そのものと同じか、それ以上の危険性があるということを訴えることであった。だから、次の記事では、早急にその話題に移らせていただきたい。

<つづく>

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