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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

阿蘇への旅を終えて

さて、教会成長論を終えなければならないが、その前に余談をば…。

旅行はとりあえず無事に終わった。地元新聞でも宣伝していた、30名から成る安上がりな団体ツアーに申し込み、新幹線とバスを使って九州へ。耳に響いてくるバスガイドの説明を、時に子守唄に、時に目覚ましにしながら、たまにはこんな風に、小学生の修学旅行のように、何も考えず車に揺られ、団体の後をちょこちょこついて行くのも悪くないなと感じた。

私は瀬戸内海沿岸の地方で育った。いつも暮しの近くに海があった。そのため、今でも海を見るのが大好きだ。山の澄んだ空気も良いが、海ほど私を元気にしてくれるものはない。いや、海と山、どちらもあれば、それこそ、限りない贅沢というものなのだが…。

南方の空気は良い。気候の穏やかさ、緑の豊かさ、海の広さが、人間を渦巻く情念から解放してくれそうな気がする。瀬戸内海沿岸の田舎とは言っても、私が今住んでいる地方は、いかにも山と田んぼばかりのせせこましい土地だから、雄大な海のあるところには、比べられない…。

私の地元は、まるで宗教の宝庫のようだ。車で道を行けば、キリスト教界のあらゆる宗派の教会の看板が目につくだけでなく、その他、私の知らなかった様々な宗教が存在していたことが分かる。地方自治体の資金によって作られているはずの道路標識にさえ、黒住教本部がどこにあるかが明確に指し示されている。

気候が温暖で、作物が豊富に採れるこの地方の人間は、試練がなさすぎるために、甘やかされすぎて、わがままとなり、人間性がずるくなっている、と、時折、言われることがある。昔から農民独特のずるさというのはよく指摘されてきたことだが…。

この地方の人々は、最高の品質の果物や野菜を日頃から食べなれている。そこで、食べ物の味に関する評価はまことに厳しいものがある。都会のレストランでは、高級な料理は決してたくさんの量は出てこないのが普通だが、この地元においては、質と量とが両立していなければ、どんな店にも客がつかない。
そこで、料理店では、必ずと言っていいほど、食べ放題のバイキング形式を取ったり、食べきれないほどの料理を出す羽目になる…。しかも、食べ残して帰ることが少ないのがこの地方のお客だ。つまり、持ち帰り客のための対応も、店側はしっかりやっておかねばならない。食べきれようと、食べきれまいと、とにかく食べるに困るほどの料理が出て来ないと、誰一人納得しないのが、この地方の人間なのだ…。

さらに、この土地には昔ながらの家父長制が根強く残っているため、老人は年功序列の絶対性を心から信じている。しかし、過疎化に伴い、偉くなった老人ばかりが集まっているので、この地方は、若者にはちょっと住みにくいかも知れない。どこまで行っても、人を喜ばせるための配慮ばかりが行き届くこの土地に、時々、私は息苦しさを覚えることがある…。

新幹線が山口に差し掛かる頃には、すでに車中にいながら、私は身体が蘇って来るのを感じた。
山口県は、何度か旅行してきたウクライナを思い出させる。あまり好きな国ではなかったのだが、平凡な街の中に、緑と水、工業と農業が乱暴に両立しているところが、どことなく似ているような気がする。茫々たる黄色い農地の横に、もくもくと煙を吐き出す工場の煙突がある。農業のきめ細かさと、工業の威力、山の起伏と、海の平らが並んでいるところが、実にアンバランスで筋が通らなくて良い。ちぐはぐながら、雄大なこの風景の中に、あらゆる感情が吸い取られていくようだ…。

九州に入るとさらに、立っている大地そのものがエネルギーを含んでいるように感じられる。まるで自分が充電器の上に立っている電池のように思われる。私がこれまで人生で出会って来た全ての九州人の友人が、なぜあれほどのバイタリティを持っていたのか、納得できる気がした。空気そのものが命を含んでいるようだ。この空気を吸って成長した人がエネルギッシュになるのは当然だろう。しかし、自然の力がこうも強いと、人間は活動に重きを置いて、思考を働かせることが少なくなっていくかも知れない…。

天気予報によれば、降水確率80%であった阿蘇でも、幸いなことに、雨に降られることはなかった。日本国の歴史については、私は昔から無知であり、日本史の名所旧跡を訪れようという願いをほとんど持ったことがなかったが、今回、天照大神がおかくれになったという天の岩戸を訪れることができた。恐らくこの神話は、昔、阿蘇山の大噴火によって、太陽光がさえぎられ、大地が真っ暗になった歴史からが生れたのではあるまいか。火山の噴火が光をさえぎり、大地を夜のように暗くすることがあるのは有名だ。

今はまだ勉強不足ゆえに、神話については何も書けないが、きっとこれも何かの縁だろう、そのうち日本国の神話について、もっと真剣に考えねばならない時が来るような気がする。もう少し勉強しよう。

天照大神のことを考えながら、日本はやはり女神の国なのだ、と思った。この国は未だに「母なるもの」の中にまどろんでいる。この国は男尊女卑的だと言われるが、ところが、実際には、息子たちを陰で操っているのは「おふくろさん」だ。(オオクニヌシノミコトは天照大神によって黄泉の国に追放された。)

「おふくろさん」が持つ絶大な権威は昔も今も変わらない。男たちの溢れるエネルギーといかなる反抗心をも吸収してやまない「おふくろさん」の絶大な威力。演歌などでもそうだが、日本の男たちが「おふくろさん」を称える時の、あの絶対的なまでの敬慕の念には、不気味さを覚えるという人もある。これぞ、母性的なものへの信仰の表れではあるまいか…?

古来、人の信仰とは食べ物、着る物に困らないで済み、多産と豊穣をもたらしてくれる生命の原理への崇拝であった。
利得を離れて、ただ神に従順であることを第一義として生きるように定めたユダヤ教の父なる神は、当時、万国の国民には無縁であった。生命への信仰、つまり、ご利益信仰こそが、異邦人の宗教の根源だった。命をもたらすものへの信仰は、未だにこの国にも、隠れた宗教として残っていると言えるかもしれない。

沸き立つような自然の命の息吹、エネルギーに満ちた空気は、確かに、人を圧倒する。肉なる人は、この生命力溢れる磁場の上に立つと、強められ、命に浸されるような気がする…。
そこには確かに、肉なる人間にとっては、賛美に値するほどの命が溢れていた。異常な教会を去った後、半年で10年ほども年を取ったように感じた私だが、阿蘇に来て、1年ほど体内時計の針が元に戻ったような気がした。

きょうだいとの道中の会話からは、色々と考えさせられるものがあった。長年のコミュニケーション不足ゆえ、行き違いも多く、ぎこちない関係は直らない。だが、それを知ってか知らないでか、ツアーの参加客が、菊池渓谷にて、二人のためにアイスクリームを不意に差し入れてくれたりと、優しい心遣いが嬉しかった。

これも主が働いておられるのか…? そんな風に感じさせられる出来事だった。

阿蘇のホテルに滞在しながら、ネットをチェック。クリスチャンの朋友の言葉を読んで、ほっと胸をなでおろす。
まだまだ多くの問題を抱え、一体、良くなっているのか、悪くなっているのかすら分からない我が家の状態には、絶望するほどに落ち込むことも多くあり、きっと、落ち着いた家庭で普通の暮しを営んでいる人には、想像もつかないようなきりきり舞いが続いているのだろうと思う…。

しかし、見かけの事象をこれ以上、気にするのはやめよう。主の御手に何もかもを任せ、誰の言葉にも翻弄されず、御言葉に立ち、しっかりと毎日を送って行こうと改めて決意させられた。

* * *

私はこの旅の間に、残りの人生を主に捧げる決意をした。私の人生で最も前途有望だった日々はすでに過ぎ去ったかも知れない。その日々をきっと私は自分のために無益なことに使ってしまったのだろう。天での私は無産階級のようなもので、みじめなものだ。もはや献身しようにも、その資格さえ持たない。しかし、残された日々、キリストのために生きたい、ただキリストだけに結びついて、生涯を送りたいとの思いが強く心に沸き起こった。

献身などという平凡な言葉では表しきれない。ただ主とともに生きていきたい、それだけなのだ。もしもこれまで、人間の思惑に徹底的に絶望させられることなく、過剰なまでの愛に包まれて生きていたら、こんな心境に至ることがあっただろうかと思う。

恐らく、このブログにおいて、私がキリスト教界に対してあまりにも反発的な言動を繰り広げるので、それを面白く思っておられない方が、何人もいらっしゃることだろうと想像する。これを私怨だと解釈される方もあるだろう。しかし、申し訳ないのだが、このことについては、私は自分の人生そのものを教界に根こそぎ奪われているため、決して、何と非難されようとも、譲ることはできない。

私は異常な教会の暴走を食い止めるために警告を発しているつもりはない。カルト対策家として活動しているわけでもないし、言われなき非難に対する自己弁明の試みとして訴えているわけでもない。
私が訴えたいのは、ただ一つ、異常な教会を生み出す背景には、必ず、キリストの真理を曲げる異常な教えがあるということだ。その教えの誤りについて、調査を進めながら、誰にでも分かる形で、はっきりと真実を提示し、警告を発さなければならないと思っている。それがキリスト者の義務であり、使命であると私は考えている。

恐らくは、このことのためにこそ、主はカルト化教会の被害者の中から、幾人かを召し出されたのではないかと思う。異端の教えの恐ろしさを身を持って体験し、その教えの深みを理解した上で、守るべきものすら持たないほどに、全てを巻き上げられ、火の中をくぐるようにして助かった信徒が出て来たのは、この時のためだったのではないだろうか。なぜなら、そのような体験をくぐり抜けた人でなければ、異端というものの破滅的な恐ろしさを、、十分に理解した上で、警告を発することは難しいだろうからだ。

だが、「あなたは人間的な闘いに熱中して、自分のなすべきことを忘れてしまっている、あなたのやっていることも、結局はむなしい政治闘争ではないか」と非難する人がいるかも知れない。それに対しては、私は自分に完全な正義があるとは少しも思っていないと答えよう。

何度も言ってきたように、人の闘いにおいては、どちらの側にも完全な正義はない。人の心は欺くものであり、正義と真実はいつも人を超えたところにある。ただ神お一人だけが義なる方であり、人間の中には絶望しかない。そのことは誰よりもこの私にこそ当てはまるのだ。だから私を含め、人の言うことをあまり生真面目に信用されないのが良いだろう。私の書いていることは、ただの参考に過ぎず、何が正義で何が真実であるかは、御言葉と聖霊だけが確実に教えてくれる。聖書を開いて、各自が自分で考え、判断できるようになること、それこそが何より大切なことなのだ。

「自分に完全な正義がないと思っておられるならば、では、一体、あなたは何のために他者に闘いを挑むような発言をするのですか」と問われるだろう。それに対しては、プロテスタントの教界において、今日、異端を排除するための神学的議論、特に、護教学という分野が正常に機能してないのはなぜなのか、問い返そう。もし神学が正常に機能して、異端が確実に排除されてさえいれば、誰も自分の身に危険が降りかかることを覚悟した上で、このような気まずい話題を展開する必要はない。

本当に、どうしてプロテスタントにおいては、異端の排除ということがほとんど行われないのか。これでは異端オンパレードになるのは当たり前ではないか。今や各教会ごとに、各牧師ごとに、新しい教えがあるようなものなのに、それでもまだ公然と異端と闘う必要はないとおっしゃるおつもりか。
このことを非難した上で、私はサムソンの名を挙げるつもりだ。

異教徒の女に惑わされて、ナジル人としての禁を犯し、髪をそり落とされ、目をえぐられて、ペリシテ人の群集の前に余興として引き出されたサムソン。彼は自分の信仰的つまずきによって、全ての恵みを奪われ、主の栄光は彼から去った。彼はもはや生きていても何の希望もなく、人としての価値さえないような状態にまで追い込まれたが、そうなった後に、神に従って栄光の中に生きていた頃よりも、もっと多くのものを主のために遺して死んだ。

主はサムソンの嘆きを無視したりはなさならなかった。不思議なことに、主を裏切ったサムソンの通らされた嘆き悲しみの中に、主の嘆き悲しみが重なっていたのだ。

私もまた、両手を異教の神殿の柱にかけて叫んでいる。主よ、あなたの正義を全地にお示し下さいと叫んでいる。たとえこの世の全ての人が、その姿を見てただあざ笑うたけであったとしても、敗北を確信していたとしても、どうしてここまで来て、後に退くことなどできようか。ここまで徹底的に誤った教えの恐ろしさを学ばされた上で、なお、何も知らなかった頃のように、無邪気な妄信の中に生きる者がいるとしたら、それはよほどの愚か者だけだろう。

私はカルト化教会の事件の解決のために、裁判が有効であるとは思わないが、そう思っているからと言って、主に正義を求めることまでやめたつもりは微塵もない。主こそ正義なるお方である。公平な裁きを願う人は、誰しも、神により頼むのが良い。主こそ、最良の裁き手、我らが最良の裁判官である。主こそ、弱者をかばい、やもめの名誉を回復し、みなし子のためにパンを備え、貧しい者のために公平な裁きを行って下さる唯一のお方だ。

「信仰とは互いに愛し合うことだ、争い合うことではない、なのにどうしてあなたは争いを起こすのか」、と言う人があれば、異端の教えとの間に一体、どんな愛や友情が成立しうるのか、問い返そう。キリストが、自分は分裂をもたらすために世に来たと言われたのは、パリサイ人、律法学者の欺瞞と袂を分かつためであったことを思い出していただこう。

もしも、強盗的な偽牧者との間にも、信徒が愛をはぐくむことが可能だと考えている人があるならば、その人には、一度、カルト化教会へ行って、長期の研修を受けてもらおう。そして、そこで人生を徹底的に奪われてから、もう一度、命からがら、ここへ戻って来ていただき、そうなっても、なお、以前と同じように安易に考えることができかどうか、この破滅的な教えの危険を声を大に訴えずにいられるかどうか、改めてインタビューしたい。

主への従順の価値と、主を裏切ることの恐ろしい結末は、そのために犠牲を払った人にしかきっと分からない。主を裏切った者たちの悪事を知っていながら、黙って見逃すことは、それに加担する罪を引き受けるに他ならないことが、多くの人には分からないのだ。
もう一度言おう、異端の教えの存在を知りながら、黙ってそれを放置することは、それに協力していることと同罪なのだ

いずれにせよ、バアルの祭壇に火がつけられるのか、キリストの祭壇に火がつけられるのか。それは人ではなく、主ご自身がお決めになることだ。

人の思惑ではなく、ただ主の御心だけが地になりますように。

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