忍者ブログ

私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(11)―耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる。

「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、
 キリストと共に生きるようになる。

 耐え忍ぶなら、
 キリストと共に支配するようになる。

 キリストを否むなら、

 キリストもわたしたちを否まれる。

 わたしたちが誠実でなくても、

 キリストは常に真実であられる。

 キリストは御自身を

 否むことができないからである。」(二テモテ2:11-13)

1.掲示板で起きた集団リンチと、カルト被害者救済活動の終焉
 ~神の承認を受けずに、人間が己の被害だけを訴え続けることの恐ろしい危険~


さて、味方のように装って登場しながら、陰でその人間を裏切り、勝手に人の名を使って騒ぎを無限に拡大して行く人間は、敵よりも始末が悪い・・・。

この結論は、これまで幾度となく実際に裏づけられて来たものである。

唐沢治も、当初は筆者の味方であるかのように装っていたが、実際には、筆者を自分のために都合よく利用し、筆者の事件をますますこじらせただけで、今や公然と筆者を敵のように断罪している。

この度、唐沢と同様に、これまでさんざん当ブログの名や主張を利用して、杉本徳久を挑発し、陰から対立を煽って来た坂井能大牧師に直接、メールを送ってみたところ、坂井は、当ブログをダシにして杉本を挑発した行為があったことを自ら認め、当該記述をすべて非公開にするか削除することに同意した。

筆者は、坂井が唐沢を通じて入手した筆者の転送メールを対杉本との裁判で利用した行為や、巧妙に筆者のブログの記述を利用して、杉本徳久を挑発するような内容の投稿を重ねたことが、どれほど筆者にとって迷惑であったかを告げて、二度とこのようなことを行わないよう、もしも杉本徳久に恨みがあるなら、筆者を利用せず、自分自身の言葉で、直接、杉本に呼びかけるよう求めた。

このことについて、坂井からは何一つ、反省も謝罪の言葉もなかった。ただし、投稿を非開示もしくは削除することを速やかに行ったことだけは、唯一評価できるポイントであった。(この他、事実かどうかまでは知らないが、坂井は唐沢と手を切ったことを明言していた。)

筆者から見れば、この人物が杉本との裁判に負けて以後も、杉本を嘲笑する投稿を続けて来たのは、自分の負けを認めたくないがゆえの、うわべだけのポーズに過ぎない。
 
結果はすでに裁判で確定している。なのに、坂井が当ブログの内容を利用して、杉本に宣戦布告していたのは、自分ではもはや杉本を訴えられないので、筆者の主張を利用するしか方法がなかったのであろう。

だが、坂井の場合は、杉本に敗れる以前から、そうした行動をしきりに繰り返して来たことから、坂井の行ったことは、結果的には、杉本を挑発することによって、筆者を重大な危険に陥れるものであったと言える。
  
実際に、そのとばっちりは、これまですべて筆者に向けられて来たのである。このことは、唐沢治が杉本徳久に民事提訴を予告しながら、これを実行しなかった際に、杉本の怒りの矛先が、筆者はエシュコルのようなKFCの信徒等に向けられたのと同様である。

筆者は、このような現象を、牧師たちの信用ならない内心を如実に示すものだとみなしている。牧師たちが、意識的にか、無意識的にかは知らないが、非常に巧妙な形で、信徒を陥れては、対立や紛争に巻き込んで、人生を失わせて来た様子がよく分かるように思う。
 
まるで牧師たちが気に入らない信徒を陥れるために陰からしかけているゲームのようにさえ見える。

唐沢治、村上密の両名が、現在、筆者に対してどういう態度を取っているかに加え、坂井能大牧師の行動を見ても、筆者が当ブログにおいて、決して牧師という連中を信用しないようにと呼びかけて来たことが、事実無根の主張ではないことが、読者に分かるのではないかと思う。

しかも、プロテスタントの牧師の幼稚さ、低俗な人間性が、これらの人物を通じてよく分かろうというものだ。(これらの人々がキリスト教徒としての全うな理念を持っているかという問題は別として、いかに牧師という連中が、人格的に未熟で幼稚であるかだけは、よく分かるはずだ。)

そこで、筆者は改めて、聖書の御言葉を信じる信者として生きることと、このような牧師たちの支配下に身を置いて生きることは全く訳が違うので、信仰を持つ者たちには、牧師たちとは一切関わらないで生きることをお勧めするのみである。
   
とはいえ、今回、坂井が書き込みを削除したことで、筆者の中では、今後、こういう出来事が起きた場合には、投稿者の本心を確かめるために、直接、その人物にコンタクトを取るのが一番良いという結論が判明した。

確かに、直接、コンタクトを取ることによって、罵詈雑言に満ちた返答が返って来て、騒ぎが大きくなり、事件が炎上する危険がないわけではない。とはいえ、たとえそうなったとしても、今回の裁判でも、筆者が2009年に杉本にコメント削除の依頼のメールを送ったことが、正当な要求であったと認められたように、相手が要求に応じないリスクを踏まえたとしても、もしそれが正当な根拠の伴う要求であるならば、きちんとした意思表示を、早い段階で直接、明白に行っておくことは重要なのである。

同じことが、掲示板の投稿者にも当てはまるであろう。

掲示板の匿名の投稿は、これまで、村上や杉本や唐沢を不必要に焚き付けて筆者と対立させるために、つまり、争いの火に油を注ぐために大いに役立って来た。

筆者は個人的に当ブログを使用して彼らに対する主張を投げかけているが、掲示板では、当ブログの主張に、尾ひれ背びれをつけ、これを無限大に歪曲・拡大するなどして、筆者が述べてもいない事柄を、村上や杉本や唐沢に対して述べたかのように記し、筆者を中傷しつつ、争いを激化する投稿が無数に続けられて来た。

さらに解せないことは、こうした内容の投稿が、筆者がパソコンから離れている時間帯、もしくはブログ記事を更新しようとしている時間帯に集中的に行われていることである。
  
本日も、掲示板において、筆者を中傷する投稿が重ねられたのは、筆者がパソコンからも、携帯からも、遠ざかっていた20時から21時までの間であった。21時を過ぎて、筆者が坂井に以上のメールを送ってやり取りを続けてから、中傷の投稿は一旦、やんだ。

それから、23時を過ぎて、掲示板を確認し、当記事を書き始めると、再び中傷(および著作権侵害)の投稿がなされた。
 
さらに、掲示板では、24時を回ると、翌朝4時~6時くらいまで、規則的に中傷の投稿がやむという特徴もある。(これは他の匿名掲示板では見られない現象ではないかと思う。)

このようなことが、これまでも終わりなく、繰り返されて来たのである。
   
掲示板における当ブログへの中傷の投稿は、明らかに筆者がオンラインにしていない時間帯を狙って集中的になされているとしか思えず、その目的も、内容も、全く一致した方向を向いており、しかも一定の時間が来ると、まるで業務終了のベルが鳴ったがとごくに中断する。

このような現象は、自然発生的に起きるものではない。 早い話が、掲示板の話題が、常にカルト被害者救済活動の支持者に不利にならないように、当ブログに対する攻撃に転じるように仕向ける、人為的な世論操作が行われているとしか思えないのである。
 
仮にこれが、筆者の過剰な推測であるしても、そう考えるなら、放っておけば良いだけである。

ところが、掲示板の投稿者たちは、躍起になって、筆者が監視されていると感じていることを、嘘だ、妄想だ、幻想だ、創作だと否定し、筆者が現存していると主張したわけでもない「サイバーカルト監視機構」の存在を、必死に否定していることは、筆者から見て、たとえようもなく不自然なことだ。

なぜ彼らはそれほどまでに「サイバーカルト監視機構」の話題にこだわり続け、それゆえ、筆者の感じていることを躍起になって否定せざるを得ないのか? 何度、議論をよそへ向けても、結局は、彼らの主張はそこへ戻って行く。そして、 「俺たちがヴィオロンを監視している事実などない!!そんなのは妄想だ!!」と合唱を続けるのである。

ついに唐沢でさえ、そうした主張に加担し始めたことは、筆者には驚くべきことである。
 
しかも、筆者はKFCを2012年に去ってから、KFCとは一切関わりのない数人の兄弟姉妹と交わりを行っただけで、その交わりすらも、兄弟たちの逝去などによって途絶え、それ以後、筆者は宗教界とは一切関わりのない生活を送っている。

そこで、信者の中には、筆者の容姿がどのように変化したかなどを詳細に知っている人間はいないはずであるが、それにも関わらず、これらの匿名の投稿者らは、非常に細かく筆者の外見的な特徴をあげつらい、それを材料に、筆者を中傷・罵倒していることは、不審極まりない事実である。

もちろん、そうした内容の中には、嘘もたくさん混じっているとはいえ、いずれにしても、掲示板においては、以上の通り、筆者自身や、筆者の行動を事細かに監視していなければ、とてもではないが、想像だけで、そこまで細部に至るまで、様々な特徴をあげつらいつつ、筆者を中傷したり、なおかつ、当ブログの更新を細かく見張りつつ、新しい文章が発表されるや否や、ただちに剽窃して悪質な投稿を繰り返すことはできない、と言えるだけの内容の投稿が、おびただしい回数、重ねられて来たのである。

そのような仕打ちを受ければ、筆者でなくとも、行動を監視されていると考えるのは、ごく自然な成り行きでしかない。
  
さらに、この掲示板で、筆者に対して中傷を重ねている人物は、全員が、唐沢治、村上密、杉本徳久のいずれか(もしくは全員の)擁護者であり、なおかつ、カルト被害者救済活動を熱烈に擁護する人物ばかりであることも見逃せない。

次の記事では、杉本徳久が未だ判決に従わず、賠償金から逃げ回っている事実と、カルト被害者を擁護する人たちが、被害者という美しいベールで自己を美化しながら、いかに暴虐に満ちた行為に手を染めて来たかについて語る予定であるが、筆者はそもそも2009年から、カルト被害者救済活動などという聖書の神に逆らう冒涜的運動とは、手を切らなければならない、と主張して来た。

被害者意識を隠れ蓑に、人間が自己を無限に美化し、己の罪なる本質から目を背けたまま、神によらない救済を目指し、自分自身が神に代わって裁き主になろうとするこの運動は、終わらなければならない。

筆者はそうした見解に立ちつつ、ずっと以前から、カルト被害者救済活動は、正義を失って、今や嘘の温床となり、無法地帯と化していると告げて来たが、今や掲示板を見れば、誰もがその事実を客観的に確認できるまでの事態となりつつある。

掲示板を見れば、カルト被害者を擁護する人々が、どれほど自分たちの被害を訴えることだけに熱心で、その被害を否定する人々に対して、残忍で、容赦のない制裁を加えずにいられない利己的で粗暴な人々と化しているか、いかに彼らが被害者意識に溺れるあまり、常識を失い、法令順守の精神をも失い、自分にとって不都合な事実は見ようともせず、自己を美化し、気に入らない人間に対してのべつまくなしに汚い言葉で罵詈雑言を浴びせ、執拗かつ徹底的な権利侵害を繰り返さないではいられないか、しかも、いかに彼らがその残忍な行動の責任を微塵も感じることなく、一人前の社会的責任を負うことから逃げつつ、ただ「藪の中から石を投げ」ては他人を傷つけるだけの卑劣で無責任な人間に成り果てているか、誰にでも分かるはずである。
 
筆者が幾度も予告して来たように、このように被害者意識に溺れて自己を失った人々は、反社会的になり、法を犯しても、良心の呵責もなくなり、それゆえやがて厳しく裁かれて、人生を失って行くことは避けられない。

彼らは未だに、あたかも筆者が妄想や幻覚に陥り、あたかも当ブログが犯罪的な内容となっているかのようにさえ示唆する記述を続けているが、かく言う彼らこそ、正常な意識を失い、現実と妄想の区別がつかなくなり、やがて反社会的な行動に手を染めて、それが犯罪行為として厳しく裁かれるに至るのである。
 
筆者は、この掲示板が、カルト被害者救済活動の悪質な本質を、また、カルト被害者を擁護する人々の隠されていた悪意に満ちた内心を、こうまで赤裸々に表してくれたのは、非常に幸いで、良いことだったと考えている。

おそらく、この投稿を見て、今後、カルト被害者を支援したいと願う人は、出て来ないだろう。筆者が2010年から2011年頃にかけて、いかにカルト被害者救済活動が反聖書的で、神に逆らう冒涜的運動と成り果て、法にも社会常識にも逆らう無法地帯と化しているかを述べていた頃は、まだこれほどまでには、この運動の悪質さを証拠立てる客観的な事実が揃っていなかった。

だが今や、当時、予告した通りの現象が起きつつあり、この運動の悪しき本質が、またとないほどはっきりと露呈したのである。
  
今、この掲示板で、筆者に向かって、味方を装い、僭越なアドバイスを行っている人たちや、悪質な中傷を行っている人たちに必要なことは、おそらく、現実社会に引っ張り出されて、自分の発言の責任を厳しく取らされることであろうと思う。

次の記事でも触れるが、かつてはあれほど筆者がペンネームでブログを執筆している行為を「匿名に隠れている」と非難していた杉本徳久が、今やブログからそそくさと自分の名を消して、「匿名に隠れている」事実も見逃せない。

これが彼らの本質なのである。他者に向かってはさんざん根拠のない要求を繰り返し、途方もなく厳しい非難や断罪を行うにも関わらず、自分に対しては、微塵も同じ基準を適用せず、自分だけは何をしても許されるかのように、一切の法的・社会的責任を負おうとしないのである。

今日、掲示板の投稿者の中で、一人でも、インターネットにとどまらない接触を、筆者と直接行って、公然と日の下に出て来て、自分が誰であるかを示し、さらに訴訟のリスクを背負いつつ、実名で責任を負って立つ勇気と覚悟のある人はいるのだろうか?

おそらく、そういう勇気を持った人間は、彼らの中には、一人もいまい。だが、筆者は彼らの思惑とは無関係に、そろそろ彼らと現実社会における接触が必要な頃合いが来たと感じている。

彼らの実名を特定し、法的・社会的責任を取ってもらうことは避けられないであろうと筆者は考えている。杉本も、かつてこれと全く似たような言葉を口にしていたが、杉本はそれをただ脅し文句のように振りかざすばかりで、決して掲示板の匿名の投稿者に対して、合法的かつ正当な方法で向き合おうとすることはなかった。

だが、筆者は、市民として許された合法かつ正当な方法で、このように悪質な権利侵害を繰り返す人々を、匿名の世界から、リアルな社会へと引っ張り出して来て、自己の行為の責任と向き合わせることは、この先、ぜひとも必要だと考えている。そのために必要な根気強い労を厭おうとは思っていない。

なぜなら、そうした時に初めて、彼らが一体、カルト被害者とどのようなつながりがあって、村上密や唐沢治といかなる関係にあるから、これほど熱心に彼らを指導者として擁護しつつ、筆者を中傷しているのか、分かるからである。
 
そして、この事実が明らかにならない限り、一体なぜ、この人々がいつまでも「サイバーカルト監視機構などない!!」と叫び続けているのかも、明らかとはならないであろうと思うからである。
 
* * *

2.第一審で提出された原告および被告の書面の分量比較

さて、村上密がまたも筆者を断罪する記事を書いている。またもや筆者が村上の像を「創作」しているのだという。だが、不思議なことに、この記事の中で、村上は、筆者が一体、村上の像をどのように「創作」しているのか、一切、触れていない。

これはおかしなことである。村上は筆者の記事をまるごと「創作」と決めつけているだけで、何をどう否定したいのかが分からないのだ。具体的な反論にすらなっていない。

以前には、村上は、自分が「教会の破壊者」と呼ばれていると、自慢げに吹聴していたことを忘れたかのように、筆者が村上の像を不当に「悪魔化」しているとして、筆者を非難していた。

だが、今回は、筆者の主張が「感情論」であるかのように決めつけているだけで、何を具体的に否定したいのかもよく分からない。

ひょっとすると、村上は、以下の記事で、筆者が、カルト被害者の裁判を支援する人々が、勝訴した被害者から、成功報酬のごとく、賠償金の何割かをキックバックされた可能性があると発言したことが、そんなにも気に入らず、「創作」だと言いたいのであろうか。

あるいは、村上がカルト被害者の救済のために全国各地を飛び回るための旅費が、どこから出ているのか分からず、ほとんどが被害者の自主的な負担となっているのではないかと、筆者が指摘したことが、「創作」に当たると言いたいのであろうか。

あるいは、村上が筆者の著作者人格権を侵害し、筆者を刑事告訴したとブログで発表した上、その記事を一瞬で削除し、今や、控訴審で筆者から名誉毀損を主張されるはめになっていることが、「創作」に当たると言いたいのであろうか。

あるいは、筆者が何を訴えたところで、村上の率いるセンターはびくともしないと、村上が記事でアピールしているように筆者が感じられたという印象を述べたことが、「創作」に当たると言いたいのか。
 
筆者は以上の事柄について、何一つ事実として断言していない。すべて単なる推測の域を出ない話としか書いていない。むろん、状況も、人物も、特定されておらず、それで名誉毀損など、成立するはずもないことである。それらが「創作」に当たると言いたいのであれば、なぜ漠然と十把一からげに作り話であると決めつけるのでなく、具体的に事実を摘示して、個別に反論しようとしないのか、不思議に感じられる。
   
さらに、村上は「一審で大量の準備書面を出したが、何の効果もなかった。」とぼやいている。

主語のないこの短い文章を読んだとき、筆者は、村上が「私はヴィオロンに反論するために大量の準備書面を出したが、ヴィオロンには何の効き目も無かった」と書いているのだと受け止めた。

そして、村上は、毎回の口頭弁論に、たった1枚~3枚程度の書面しか出していないのに、何を言っているのだろうかと笑った。

後になって、この文章について考えを巡らすと、村上はおそらく「ヴィオロンは一審で大量の準備書面を出したが、それによって私を追い詰めることはできなかった」と言いたかったのだろうと、ようやく合点が行った。
  
主語がないのだから、受け取りようによっては、正反対の解釈が成り立つ、誤解を招きかねない紛らわしい一文である。このような曖昧な表現では、意図したのとは正反対に解釈されたとしても、文句は言えないことであろう。

だが、その問題はさて置くとしても、ついでながら、ここに先日、判決言い渡し直後に、筆者が事件ファイルを閲覧して、原告側・被告側から提出された全ての書面のページ数を集計した結果を記しておきたい。
 
これを見れば、毎回の口頭弁論に、村上がどれほど少ない書面しか出さなかったかが読者によく分かるはずだ。

原告・訴状 149頁 30.5.25(日付)
原告・訴状訂正 4頁  30.6.4
訴状訂正(2) 10頁 30.6.12
訴状訂正(3)6頁  30.6.29
被告村上・答弁書 2頁 30.7.23
被告杉本・答弁書6頁 30.7.25
原告・訴状訂正(4) 3頁 30.7.25
原告・準備書面 52頁 30.7.30
原告・訴状訂正(5)2頁 30.7.30
原告・申立の趣旨変更申立書 2頁 30.7.30
被告村上・準備書面 2頁 30.8.31
被告杉本・準備書面 9頁 30.9.3
被告杉本・準備書面 11頁 30.9.10
原告・訴状訂正(6) 12頁 表2頁 30.8.26
原告・準備書面(2) 11頁 30.9.3
原告・準備書面(3) 171頁+5頁 30.10.14
被告村上・準備書面(3) 3頁 30.11.2
原告・準備書面(4) 80頁 30.11.21
被告杉本・準備書面(その4) 37頁 30.11.22
原告・準備書面(3・4)の訂正申立書 12頁 30.1.26
被告杉本・準備書面(その5)4頁 30.11.27
被告村上・準備書面 1頁 30.12.3
原告・準備書面(5) 151頁 30.12.10
被告杉本・準備書面(その6)3頁 30.12.20

書証(枝番号を除く)
原告・甲1号証~甲109号証
原告・証拠申出書 30.10.3
裁判所・調査嘱託 30.11.9
被告杉本・乙1号証~乙32号証
 
書証からは枝番を除いているので、枝番も含めれば、筆者が出した書証の数は、130はあるだろうと見られる。
 
この書面の分量の推移を見れば、村上と杉本が当初、唐沢治からの「不知」で通せとの助言に忠実に従ったのか、極端に枚数の少ない答弁書を出していたことが分かる。

その後、杉本の書面の分量は次第に増加したが、村上の反論は、依然として、1~3頁程度にとどまり、3頁を超えたことがない。また、村上の提出した書証はゼロであった。

筆者が100頁を超える準備書面や、100を超える書証を出していたにも関わらず、このようなことが、村上に可能であったのは、村上が杉本を盾のようにして筆者と全面対決させて、自分は傍観者的な立場に立っていたためである。

第一審では、誰が杉本に筆者の個人情報を渡したのか、筆者の側で、これを明白に特定する証拠がなく、それが村上の不法行為であることを明白に証拠立てる内容が提示されていなかったので、村上は必至に自己防御する必要がなく、1枚の反論で事足りたのである。

その代わり、一審で杉本が筆者をあらん限りの言葉で誹謗中傷した、途方もなく支離滅裂な内容の書面を提出して、筆者と全面対決に及んだ。
 
そして、村上がこのように極端なまでに少ない枚数の反論しかしなかったことは、筆者にとって不幸中の幸いであった。もしもこの時点で、村上が杉本と同じほどに錯綜した内容の文書を、同じほどの分量で出して来ていたならば、筆者は、2名の被告に全力で反論するために、次回期日までの期間を倍にしてもらわなければならなかったからだ。

この一審を通して、筆者は、訴訟に立ち向かうためには、何よりも時間的余裕が必要であることを思い知った。どんなに優れた文章力があろうとも、優れた思考能力があろうとも、時間が用意されない限り、人はいかなる反論も行うことができない。

すでに書いた通り、この時間的余裕を得ることこそ、論敵に対して優位に立つために必要不可欠な前提条件なのである。
  
だが、限られた条件下で、時間的優位性を生み出すことは、まさに神の采配なくしてはできないわざであり、主だけがそのような采配がおできになることが、この訴訟において、筆者に関しては、見事に証明されたものと考える。

また、一審では、すでに述べた通り、ほとんど書面を出して来なかった村上も、終結前には、杉本と一緒に筆者に反訴の脅しをかけて来たため、筆者は準備書面を通して全力でこの圧迫を撃退・粉砕せねばならなかった。

反訴はそれ自体が権利なので、これを否定することはできず、従って、被告が反訴すると言っているときに、原告がこれを押しとどめることは、およそ常識で考えて容易に出来ることではない。そこで、この戦いには、まさに強力な御言葉の裏づけの伴う信仰が必要であった。
 
筆者の提出した最終準備書面を読めば、その内容はもはや訴訟というよりも、信仰による激しい戦いにふさわしいものとなっていた様子がよく分かるだろう。

実際、筆者はただ御言葉に基づく信仰だけによって、彼らの反訴の予告を空中で粉砕したのであった。そして、このように、第一審では、非常に広く深い信仰的な議論が展開されたからこそ、筆者にとって、これは限りなく深い満足を覚える、主の栄光となる訴訟だったのである。
 
だが、第二審は、もはや第一審ほどのリスクは伴わないであろう。

二審では、反訴のリスクはほぼ回避できるばかりか、それはもはや筆者と杉本ではなく、筆者と村上との争いになると予想される。しかも、明白な証拠の伴う村上自身の不法行為が争点となるので、村上には、一審のように薄っぺらい反論で、筆者の論に立ち向かうことは、不可能となることだろう。

村上がこれからその作業をどんな風に成し遂げるのか、お手並みを拝見したい。

筆者は弁護士という職業がどのようなものであるかを知っているので、弁護士相手の戦いを、一切、恐れていないが、相手方に弁護士がつくとすれば、それには筆者にとってもメリットがある。

それは、弁護士は裁判所の決定を軽んじたりは決してしないことだ。訴訟の相手方に弁護士がついている場合には、杉本が今しているように、自分に不利な判決からはどこまでも逃げ回るような悪質な態度を取ることはまず考えられない。

筆者が勝訴すれば、弁護士は速やかに判決に応じようとするはずである。
 
<続く>
 
補足:この記事は4月22日の深夜2時~2時半頃に投稿したものであるが、本来ならば、多くの人々が寝静まっており、当ブログの更新など全く気にかけていないはずのこの時間帯に、ただちに更新を察知して記事を閲覧しに来るIPアドレスが以下の通り、確認されている。
常時更新を見張っているIPアドレスの一つと見られるが、
訪問回数を見ても、管理人と見まごうほどに、おびただしい回数、当ブログを訪問している様子が分かるため、およそ善良な訪問でないことは推知できる。
ちなみに、杉本のIPアドレスも、4月21日の深夜に掲示板に中傷の投稿がなされる前後に確認されている。

 

PR