忍者ブログ

私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

クリスチャンは神の子か、それとも神の養子か?(4)

6)クリスチャンは神の子か、それとも神の養子か。

 それでは、イエスが純粋に「上から来た者」、すなわち神であると認め、カルケドン信条を認めて、曖昧な「養子論的キリスト論」をきっぱりと退けることにしよう。すると、手束氏が言うように、今日の肉なる人間に過ぎないクリスチャンとイエスとの間には、「非連続」性、つまり大きな断絶ができてしまって、イエスはクリスチャンの決して到達し得ない高みにある「例外的人間」となってしまうのだろうか?
 いや、それもまたとんでもない誤解である。

 聖書は言う、「すべてイエスのキリストであることを信じる者は、神から生まれた者である」(ヨハネⅠ5:1)。
 「もし人が、イエスを神の子と告白すれば、神はその人のうちにいまし、その人は神のうちにいるのである」(ヨハネⅠ4:15)
 「すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である」(ローマ8:14)
 「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』ということができない」(コリントⅠ12:3)

 つまり、聖書が述べているのは、イエスを神の御子と信じて告白した時点で、クリスチャンはすでに、「イエス・キリストによって神の子たる身分を授けられ」(エペソ1:5)、「聖霊の宮」(コリントⅠ6:19)となり、罪赦されて、聖められ、神の中にいて、神の子とされ、神の家族となっているということなのである。そして私たちは父なる神に向かって「アバ、父よ」と祈ることのできる神の子としての特権をいただいているのである。

 イエスを信じる信仰と、バプテスマを受けることを通して、クリスチャンは象徴的な肉体の死と、霊によるよみがえりを経験し、神の子となり、イエスを長兄として全ての信徒と兄弟姉妹になるのである。

 「だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。あなたがたは新しく生まれなければならない」(ヨハネ3:5-7)と、イエスは言われた。
 クリスチャンはイエスを信じて信仰告白をして、水によるバプテスマを受けた時点で、すでに内に聖霊をいただいて、新しいいのちを生きている。罪の法則に支配される肉体に死んで、霊によって新しくよみがえっているのである。
 もちろん、バプテスマを受けたからといって、実際には、肉体はまだ死んではいない。キリスト者が本当に永遠の命にあずかるためには肉体があがなわれなければならない。だが、バプテスマを受けた時から、「あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである」(コロサイ3:3)と、クリスチャンは新しい霊の法則によって生きるようにされている。

 クリスチャンを神の子たらしめているのは、水と霊による新生であり、聖霊だけがクリスチャンを神の子と承認するのでもなければ、イエスへの信仰を抜きにして、水によるバプテスマだけがクリスチャンを新生させるわけでもない。
 キリスト者の新生は、イエス・キリストを通さなければ成就しない。イエスこそ律法の完成者であり、真理であり、道であり、誰一人、イエスを通さないで救われる者はいないし、永遠の命を得る者もいない。聖霊は真理であり、キリストを証する霊であるから、イエス・キリストと聖霊とは不可分の関係にあり、神からの聖霊を受けた者は必ず、イエスを神の子であり、主であると告白するはずなのである。

 「あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである」(ローマ6:3ー-4)

 「あなたがたはまた、彼にあって、手によらない割礼、すなわち、キリストの割礼を受けて、肉のからだを脱ぎ捨てたのである。あなたがたはバプテスマを受けて彼と共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。あなたがたは、先には罪の中にあり、かつ肉の割礼がないままで死んでいた者であるが、神は、あなたがたをキリストと共に生かし、わたしたちのいっさいの罪をゆるして下さった」(コロサイ2:12-13)。

「このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである」(ローマ6:11)
「わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない」(ガラテヤ5:16)
「あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。<略>地上のものに心を惹かれてはならない」(コロサイ3:2)

 このようにしてキリストを信じることを通して、水と聖霊によって新生して、神の子とされたクリスチャンは、やがて来るべき時に、御国の相続人となる権利が与えられているのである。

「しかし、時の満ちるに及んで、神は御子を女から生まれさせ、律法の下に生まれさせて、おつかわしになった。それは律法の下にある者をあがないだすため、わたしたちに子たる身分を授けるためであった。このように、あなたがたは子であるのだから、神はわたしたちの心の中に、『アバ、父よ』と呼ぶ御子の霊を送ってくださったのである。したがって、あなたがたはもはや僕ではなく、子である。子である以上、また神による相続人である」(ガラテヤ4:4-7)。

「あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。<略>もしキリストのものであるならば、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである」(ガラテヤ3:26-29)。

「わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである。この聖霊は、わたしたちの救主イエス・キリストをとおして、わたしたちの上に豊かに注がれた。これは、わたしたちが、キリストの恵みによって義とされ、永遠のいのちを望むことによって、御国をつぐ者となるためである」(テトス3:5-7)。

 クリスチャンが神の家族とされたのは、やがて来るべき日に、「福音によりキリスト・イエスにあって、わたしたちと共に神の国をつぐ者となり、共に一つのからだとなり、共に約束にあずかるものとなる」(エペソ3:6)ためであり、「この主キリストにあって、わたしたちは、彼に対する信仰によって、確信をもって大胆に神に近づくことができるのである」(エペソ3:12)。

 これはまことに驚くべき教えである。クリスチャンが神の子とされたということは、それは私達人間に過ぎないクリスチャンが、元々完全な神性と人性を持って生れたイエスと共同の相続人、つまりイエスと同じ神の子としての資格と権利を与えられたことを意味する。本来、決して同一線上に立てないはずの神と人とが、イエスのあがないによって、一つに結ばれ、同じ神の子として承認されるのである。そうして、やがて来るべき時に、私たちはキリストと栄光を共にする者になると予告されているのである。

すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは『アバ、父よ』と呼ぶのである。御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである」(ローマ8:14-17)

 聖書では、クリスチャンはイエスが再び来られる時に、イエスの栄光の似姿へと変えられることが述べられている。
「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜ったことか、よく考えてみなさい。わたしたちは、すでに神の子なのである。世がわたしたちを知らないのは、父を知らなかったからである。愛する者たちよ。わたしたちはいまや神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである」(ヨハネⅠ3:1-2)

「だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである」(コリントⅡ4:16-17)

わたしたちのいのちなるキリストが現れる時には、あなたがたも、キリストと共に栄光のうちに現れるであろう」(コロサイ3:4)

 これでもう誰にでも理解できるようになったと思う。イエスが何者であるかということが、すなわち、クリスチャンは何者であるかを決定するのである。イエスがクリスチャンの長兄であられるのだから、私達は皆イエスと等しい資格と権利を神から与えられるのである。
 従って、もしもイエスが神の養子ということになれば、私達クリスチャンも皆、「神のまま子」と呼ばれることになるだろう。しかし私達は、本来、御国の相続の権利を持たない養子や私生児ではなく、正統な神の子として、御国の正統な後継者として認められているのである。
 クリスチャンは神の子である、ここには養子という言葉から来る薄暗い響きは一切ない。

 もちろん、クリスチャンはバプテスマを受けたからと言って、即座に神の国に引き上げられて神の子の栄光に入るわけでは全くない。肉体においては依然としてこの地上の罪の法則から完全には解放されておらず、さらに、神による訓練の最中を生きているのである。
 つまり、クリスチャンは御子を信じ、バプテスマを受けた時から、資格においては完全に神の子とされて、御国の相続人に定められているとはいえ、地上にいる限り、まだ約束された相続分の権利を行使することはできない。主の再臨が成就し、肉体があがなわれるその時まで、クリスチャンはあたかも後見人が必要な未成年のように、父なる神の監督と訓戒の下にあって成長し、やがて成人した神の子として、全ての権利を受け取る時まで忍耐して待たなければならないのである。

「御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。わたしたちは、この望みによって救われているのである」(ローマ8:23-24)。

「あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。だれでも受ける訓練が、あなたがたには与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは私生子であって、ほんとうの子ではない。<略>
肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、たましいの父は、わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである。すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる」(ヘブル12:7-11)

「こうして、あなたがたは、神に愛されている子供として、神にならう者になりなさい」(エペソ5:1)
「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。あなたがたはこの世と妥協してはならない」(ローマ12:1)
「肉の思いは死であるが、霊の思いは、命と平安とである。なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである」(ローマ8:6-7)

 クリスチャンにとっての地上での生とは、「心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えている」(ローマ7:25)という二重性の中にありながら、それでも世と妥協せず、肉の思いを捨てて、霊によって生き、神の御心を行うことを選び取って、主なる神を喜ばせるように、自分を生きた供え物として捧げることを続ける訓練期間である。

 さて一体、手束氏はこのような素晴らしい神の子としての栄光と自由の約束を退けてまで、キリストを神の養子とみなし、クリスチャンもまた神の子ではなく、神の養子であるとみなすことによって、どのような結論に至りつくのだろうか。
 氏の著書には、後年になればなるほどますます支離滅裂な非聖書的見解が入り込むようになる。それは狂気じみていると言えるほどで、文章にも整合性がすっかり取れなくなってしまっている。正統な教えから逸れた者には誰でも同様の末路が待っていることを私は疑わない。真理は一つ、御霊は一つ、そこから出ては調和も統一性もなく、ただ混沌と支離滅裂だけがあるのだから。

 手束氏の聖霊理解も、後年になるほどますます常軌を逸したものとなっていく。

「信仰というものは、外に居給う神に私達が懸命に従おうというものではない。それは言うならば、以前のコルネリオの信仰であり、ユダヤ教の信仰である。いまや、私達は聖霊をいただくことによって、内に居給う神の促しに従って、その神と一つとなって生きていくことができるのである。それが私達の信仰である。そこにあるのは、外なる神から内なる神への転換であり、服従としての神から交わりとしての神への転換である。更にこれは旧約から新約への転換なのである。

多くの学者達は不十分なままでいる。旧約聖書は預言であって、新約聖書はその成就であると解釈し主張している。この解釈は確かにまちがいではないが、しかし重要なことは、旧約というものは外なる神であり、新約というものは内なる神であるということである。更に旧約というのは律法であり、新約というのは聖霊なのである
ルターは宗教改革の合言葉として『信仰によって義とされる』と言った。ルターは更に『初代教会に帰れ』と言った。しかし私は、律法に対して信仰というものを対比させ、また恩寵というものを対比させるだけでは、初代教会に立ち戻るには不十分であると考える。

 今、私は『律法によらず聖霊による』と言いたい。『信仰によって義とされる』というのでなく、『聖霊によって新創造される』と言いたい。今日のカリスマ運動はこのことをはっきりとさせた点に偉大な功績がある。ルターの宗教改革の不徹底さを補い、更に徹底していったのである。すなわち、律法によらず聖霊によって、私達は新しく造られたもの、『新しい存在』(ティリッヒ)になっていく。このことを強調したのである。そして、これが私達をして更に初代教会の持っていた信仰のダイナミズムへと誘うのである。
かくて、信仰によって義とされると共に、私達は聖霊によって新創造され“新存在になる”ということを求めなければならない
(『聖霊の新しい時代の到来』、手束正昭著、マルコーシュ・パブリケーション、2005年、p.33-34)

 これは目の前が暗くなるような主張である。ここには「聖霊による新創造」という考えだけが高々と掲げられており、キリストの名は影も形もない。あの誰でも知っている賛美歌「誰でもキリストのうちにあるならば その人は新しく造られた者 古きは過ぎ去り 全てが新しい」という伝統的な教え(コリントⅡ5:17)はどこへ消えてしまったのであろうか。キリストを抜きにして、どうして聖霊だけが独自に人を新創造することがあろうか。そんな考えは、聖書のどこからも引っ張り出せない。

 ここにはかろうじて「信仰によって義とされると共に」という言葉は残されているものの、一体、何に対する信仰によって人が義とされるのかさえ全く言及されていない。
 手束氏はキリストによらず、聖霊こそが人間を新しく創造するのだとしている。氏の見解によれば、一体、聖霊はどのように人を「新創造」することになっているのだろうか。

「普通“霊”を意味する『プニューマ』というギリシャ語は、同時に“息”とも訳せる言葉である。同様にヘブル語の“霊”を意味する『ルアハ』も風あるいは息の意味をもつ。私たちは息を吸い息を吐く。呼吸は命である。すなわち、聖霊は真の命を私たちにもたらすことを示している。その意味でクオリティ・オブ・ライフをもたらすと言える。
聖霊の働くところ、聖霊に満たされるところ、質の高い人生や生活が生まれてくる。創世記二章七節の後半に、『主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった』とある。“神のかたち”としての人間というのは、生物学的意味ではなく、霊的意味即ち“クオリティ・オブ・ライフ”質の高い命を持った人のことである
その最高の体現者こそナザレのイエスであり、この方こそその霊的命を完全に全うされたのである。そして、私たちもまた、聖霊によって、ナザレのイエスのように質の高い人生、生き方をすることが可能とされている。

キリスト教とは『聖霊による可能性の宗教』だと、私は主張してやまない。そして『聖霊による可能性の宗教』とは、即ち真の“クオリティ・オブ・ライフ”であるといえる。まことの質の高い人生、生き方を保証するのが聖霊である
」(同上、p.170-171)

 これはもはやキリスト教と呼ぶべきではない、何か新しい宗教ではないだろうかと私は思う。
 私は、手束氏がここで聖霊と呼んでいるものは、聖書が教えている聖霊と決して同一のものではあり得ず、何か別の霊であると心から確信する。聖書における聖霊は、真理、すなわちキリストを証する方であって、人に「質の高い人生」をもたらす存在などでは決してなかった。
 ナザレのイエスは聖霊を受けて真理を宣べ伝え、死に至るまでも父なる神の御心に従順であられたのであって、聖霊を利用して自己完結的に「質の高い人生」を生きたわけではないし、また、私達が質の高い人生を生きるための模範として、イエスが存在するわけでもない。
 それに、「質の高い命」や、「霊的命を全うした」とは一体、何のことだろう。命の質に上下があり、霊にも寿命があるという意味だろうか。

 この文章の中には、肉と霊の二重の法則の狭間で葛藤しながらも、神のことだけに思いを馳せ、約束された自由と栄光に思いを馳せながら、御心に従うように日々努力しているクリスチャンの姿は全く示されていない。真の意味で「神と一つになる」、すなわち、肉体があがなわれる時まで、神の子として、神の懲らしめを受け、サタンの支配するこの世で艱難を忍びつつ、希望をつないでいるクリスチャンの姿はない。

 思い出されるのは次の御言葉である。
 「いったい、父に訓練されない子があるだろうか。だれでも受ける訓練が、あなたがたには与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは私生子であって、ほんとうの子ではない。」

 そうだ、まさにこれはほんとうに、神の子に向けられた教えではなく、私生児に向けられた教えだと言えよう。だからこそ、このように、真理であり道であるイエスの役割を否定して、キリストの完全なる神性を否定し、イエスを私達肉なる人間と同一線上に置き、さらに、真理の御霊である方の役割を否定して、「まことの質の高い人生、生き方を保証するのが聖霊である」と、聖霊の役割をすっかり歪めてしまい、キリストによらない人間の新創造、すなわち何らかの霊を通しての神人同一を掲げて、父なる神による訓練を抜きにした、安易な解放や達成などの現世利益を強調しているのだろう。
 これが「養子論的キリスト論」の正体である。この養子的教えを信じる者は、本当に、父なる神の御国の正統な後継者にはなれない。いや、養子どころか、父を持たないみなし子にしかなれないだろう。

「偽り者とは、だれであるか。イエスのキリストであることを否定する者ではないか。父と御子を否定する者は、反キリストである。御子を否定する者は父を持たず、御子を告白する者は、また父を持つのである」(ヨハネⅠ2:22-23)。

<つづく>

PR