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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

正義と平和は口づけし、まことは地から萌えいで、正義は天から注がれます。

「そこで、わたしの子よ、あなたはキリスト・イエスにおける恵みによって強くなりなさい。そして、多くの証人の面前でわたしから聞いたことを、ほかの人々にも教えることのできる忠実な人たちにゆだねなさい。キリスト・イエスの立派な兵士として、わたしと共に苦しみを忍びなさい

兵役に服している者は生計を立てるための仕事に煩わされず、自分を招集した者の気に入ろうとします。また、競技に参加する者は、規則に従って競技をしないならば、栄冠を受けることができません。労苦している農夫こそ、最初の収穫の分け前にあずかるべきです。わたしの言うことをよく考えてみなさい。主は、あなたがすべてのことを理解できるようにしてくださるからです。

イエス・キリストのことを思い起こしなさい。わたしの宣べ伝える福音によれば、この方は、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです。この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。

しかし、神の言葉はつながれていません。だから、わたしは、選ばれた人々のために、あらゆることを耐え忍んでいます。彼らもキリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得るためです。次の言葉は真実です。

わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、
 キリストと共に生きるようになる。

 耐え忍ぶなら、
 キリストと共に支配するようになる。

 キリストを否むなら、
 キリストもわたしたちを否まれる。

 わたしたちが誠実でなくても、
 キリストは常に真実であられる。

 キリストは御自分を
 否むことができないからである。」(Ⅱテモテ2:1-13)

この御言葉は、まさに詩のように響く。

徴兵された者がどうして世俗の仕事を営めようか。競技に参加する者がどうして訓練をおざなりにして出稼ぎに出られようか。農夫がどうして自分の畑の収穫をすべて地主に与えてしまってよかろうか。

もしも私たちが本当に神によってこの世から召されたならば、神は必ず、私たちが自分で自分の命を維持するために、馬車馬のように労苦して暮らさなければならないような生き方から解放して下さり、心に平安を保つ秘訣を教えて下さるはずだ。

そこで、パウロが述べている言葉は、まさに筆者自身に対する個人的な語りかけのように響く。

たとえ私たちが不誠実であっても、主は誠実な方であって、ご自分の約束を否むことがおできにならない。だから、私たちが神を信じて待ち望むことをやめないならば、必ず、神は私たちを失望に終わらせず、速やかに助けの手を差し伸べて下さる。

だから、勇気を出しなさい、神の子供たちよ! 主にあって、強くなりなさい! イエス・キリストのために召された兵士として、主人を喜ばせるために、あらゆる苦難を立派に耐え忍び、栄光に満ちた褒賞にあずかる覚悟を固めなさい! あなたを召して下さった方が、あなたたがそのすべての訓練に耐えられるだけの必要を満たして下さいます…。

* * *

裁判所は筆者にとって特別な場所で、目に見える建物に近づく度に、見えない大地の奥底から、こんこんと命の泉が湧き出て、周囲を潤しているように思われる。

そこは、まさに「干潟」だ。人が目を背け、誰もが耳を傾けたくない、泥水のような紛糾した訴えが、毎日のように届けられる場所。虐げられ、踏みにじられ、かえりみられなかった人々の叫びが、あぶくのように、うず高く積み重なり、処理されるのを待って溜まっている場所。

いや、泥水は溜まっているように見えるが、それだけではない。ゆっくりだが、流れているのだ。毎日、裁判官らが紛糾した事件簿を人知れぬ法廷で紐解き、書記官らが新たな訴えを受理し、原告被告らが目を合わせずに廊下や待合室ですれちがう・・・。

誰も事件番号さえ知らない山のような訴えが、毎日のように人知れず処理され、当事者が誰も来ない法廷で、判決文が読み上げられる・・・。

この見栄えのしない、誰もができるだけ近づきたくないと思っている「干潟」を見る度に、筆者は、そこに注がれる神の正義の眼差しを思わずにいられない。

この世には不正な裁判官もいれば、不正な裁判もある。だが、そんなことは筆者にはどうでもよいし、関係もないことだ。この世に一つでもいいから、虐げられた者が、その訴えを届けられ、正義の実現を待ち望むための場所が残っていること自体、どれほど大きな恵みであるか分からないのだ。

どういうわけか、裁判所へ近づく度に、筆者はそこが、まるで生きた法の泉から、目に見えない命の流れが汲み出されている場所であるように思わずにいられない。

だが、この世の法体系よりも、さらに深いところに、我々の信じる神の御言葉の泉がある。そこにあるものは、この世のどんな法よりももっと完全な掟である。

だから、まことの命の流れを汲み出したければ、深く、深く、井戸を掘りなさい、神の御言葉の泉の前に、自分の心を注ぎだしなさい。

そこから汲み上げることができれば、それはこの世の法の基準も、御言葉の求める基準もすべて満たし、見えない神の御心に触れる訴えを作り上げることができる。あなたの心の叫びを、天におられる神のみもとへ届けることができる。

そのために、筆者は深い深い井戸を掘り、本当の命の泉の水脈に到達し、そこから水を汲み上げようとしている。それは、最初は汲み出せても、わずかな流れに過ぎないかも知れないが、次第に水量が増し、いつかは洪水のように溢れ出すはずだ・・・。

それは筆者の周辺だけでなく、もっともっと広域を潤すようになり、県内全域を覆うようになる。目には見えずとも、きっといつかは、この日本のすべての地域のうちで、唯一、神の名のついたこの都道府県から、果てしない広域に及ぶことであろう・・・。

この「干潟」は、筆者にとって不思議なエネルギー資源の採掘場だ。

泥水のようにしか見えない数々の訴えに、命の水が流れ込み、そこに上から光が当たって、神秘的な光合成が起きる。そして、汚水のようにしか見えなかったものが、神の光に当てられて、人間を生かし、潤す糧となって行く・・・。

筆者はその変化をまだ一度もこの目で見たことがないが、やがて来るべき変化を思うだけで、深い感動を覚えずにいられない。こんなにも深いスケールの戦いは、これまで見たこともなかったが、それだけに、その解決のためには、他のどんな恵みとも代えがたい、特別な答えが与えられると信じている。
 
筆者は初めて真の戦いと呼べるものの始まりに立っている。この戦いを通して、筆者は、この地に正義が実現されるためならば、筆者自身、どれほどの代価を払い、どれほど長い間、待ち望んでも、惜しくないと思った。

義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。」(マタイ4:6)と主イエスが言われた通り、この地に正義がなされ、悲しむ者が慰めを得、義に飢え渇く者が心飽かされ、心の清い者が神を見、「正義と平和は口づけし」(詩編85:11)、正義が天から注がれるのを見るためならば、筆者は幾度、自分を完全に投げ出しても惜しくない。

それほど、神の義というものを、生きてこの目で見たいと熱望したのだ。

だから、筆者は、自分が待ち望んでいる判決を、まだ見てもいないうちから、喜びを持って迎えている。むろん、筆者の訴えはこれでは終わらず、まだすべては始まりに過ぎないのだが、筆者は己が人生で初めて受けとる判決を、神聖なもののように厳かに、そして、喜びを持ってすでに心に迎えている。

神の御心にかなう決定に、心厳かに、深い感動をもって、思いを馳せる。そして、その感動はきっと、生きている間中、なくならず、心に思い返す度に、主の恵みに満ちた御業を思い起こしては、感謝するものとなるのではないかという気がする。

山上の垂訓をもう一度引用してみよう。

心の貧しい人々は、幸いである、
 天の国はその人たちのものである。

 悲しむ人々は、幸いである、
 その人たちは慰められる。

 柔和な人々は、幸いである、
 その人たちは地を受け継ぐ。

 義に飢え渇く人々は、幸いである、
 その人たちは満たされる。

 憐れみ深い人は、幸いである、
 その人たちは憐れみを受ける。

 心の清い人々は、幸いである、
 その人たちは神を見る。

 平和を実現する人々は、幸いである、
 その人たちは神の子と呼ばれる。

 義のために迫害される人々は、幸いである、
 天の国はその人たちのものである。
 
 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたよりも前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ5:3-12)

この目に見えない神の国の秩序がこの地に信仰によって引き下ろされることを、どれほど筆者は強く心に待ち望んでいることか。むろん、これは地上の法廷における判決のことだけではない。やがて来るべき神の完全な宣言に、どれほどまでに強く思いを馳せ、それを今から待ち焦がれていることだろう。

わたしは神が宣言なさるのを聞きます。
 主は平和を宣言されます。
 御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に
 彼らが愚かなふるまいに戻らないように。

 主を畏れる人に救いは近く
 栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう。
 慈しみとまことは出会い
 正義と平和は口づけし
 まことは地から萌えいで
 正義は天から注がれます。

 主は必ず良いものをお与えになり
 わたしたちの地は実りをもたらします。
 正義は御前を行き
 主の進まれる道を備えます。」(詩編85:9-14)
  
我が神よ、悪人どもが、私について何を言っているか、あなたはご存じですね。
彼らは、私の神は、もの言わぬ、私を助け得ない神であって、
私はむなしいものにより頼み、いたずらに期待をかけて、
強がっているだけだと言って、私を嘲笑っているのです。

でも、私は知っています。
あなたは決して私を失望させる方ではないと。

主よ、あなたがどんな方であるか、私は生きてこれまでずっと確かめて来ました。
あなたは偉大な神であって、恐るべき方であると知っています。

あなたが私に下された自由の決定を覆すことのできる人は誰もいません。
あなたは正義と真実と平和を愛される方。
寄る辺なく、打ち捨てられた者の悲しみを慰め
虐げられた者を決して蔑まれることのない方。

主よ、あなたご自身が正義であり、真実であり、平和であり、
すべての問題に対する解決なのです。

ですから、この地のすべての生きとし生ける者の前で、
あなたの正義を現して下さい。

私は喜びを持ってあなたを迎えます。
見えないものを、見ているもののように、すべての苦しみを忍び通して、
あなたの解放のみわざを慕い求め、信じて待ち望むのです。

主よ、あなたはご自分を頼みとするすべての人々を
決して見捨てず、失望に終わらせない方です。
私はそれを固く心に信じており、かつ知っています。

来たりませ、主よ、
私たちはどんなにかあなたの義を慕い求め、
あなたの下さる平和を待ち望んでいることでしょう。

義に飢え渇いた民は、あなたの正しい裁きを知って、
ご自分の民のために、十字架で命を捨てて下さったあなたのはかり知れない愛に、
深く頭を垂れて、御名を讃え、とこしえに賛美し、感謝するでしょう。


* * *


「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会をご自分の前に立たせるためでした。そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。」
(エフェソ5:25-28)

パウロの言葉には多くの比喩がある。いや、比喩というよりも、二重の意味が込められている。先に挙げた「婦人」(Ⅱテモテ2:8-15)に関する箇所もそうであるし、以上のくだりも、夫婦に向けられたものである以上に、キリストと教会との関係を指す。

そのことは、パウロが次のように述べている通りである。

「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。」(エフェソ5:31)

自分が独身でありながら、パウロがこのように語っていたとは、驚くべきことのようだが、地上の夫婦は単なる絵図に過ぎず、真のリアリティは、キリストと教会にあるのだから、それを知っていたパウロが、このように述べたのは、不思議ではない。

キリストと教会との関係は、自己満足のためでない、肉の堕落が一切入り込む余地のない、清い愛の結びつきである。

それは神が先に独り子なるキリストを地上に送って、私たちの贖いのために十字架につけ、命を捨てて下さったその愛に、私たちの側からも、命をかけて応答する愛の結びつきである。

このような愛の中で、信じる者がキリストに固く結ばれ、離れることなく一つにされ、キリストの愛の中を生きることが、「しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会」であり、それこそが、まさに私たちのテーマである、小羊の婚礼のために整えられた花嫁エクレシアの姿を指すのだ。

キリストはすでにみわざを成就されて、神の右に御座に座しておられる。次はエクレシアが信仰によって地上でキリストに応答してわざをなし、それによって、天に収穫をもたらし、天的な喜びの中で、主と共に生き、そして栄光の内に入れられる秘訣を学ぶべき時なのだ。

「しみやしわやそのたぐいのものは何一つない」というのは、どういうことだろうか。

それは、罪の痕跡が一切なく、堕落して、汚れた、古き肉の痕跡の一切がない、全く清められ、聖なるものとされて、神の目に完成した花嫁のことである。

今、すべての被造物が、虚無に服し、産みの苦しみの中にあるのは、このように神の目に全く聖なるものとして完全に贖われるときを待っているからである。

黙示録には、新しい天と地が到来し、花婿なるキリストが教会を花嫁として迎えられ、その時には、「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(黙示21:4)とある。

だが、これはただ単に、私たちが空を見上げて待ってさえいれば、いつか主が天から降りて来て、私たちのためにすべての不幸を拭い去って下さる、というような受け身の意味ではない。

これは、私たちの側からの、贖いの成就に向けた信仰の前進によって勝ち取られるものなのだ。教会が、信者が、完全に贖われて、罪の痕跡がなくなり、すべてが新創造とされ、キリストの性質で満ちあふれるためには、私たち自身が、戦い抜いて、試練をくぐり抜け、大胆に前進して行かねばならないのである。

その程度に伴い、神は教会をご自分と同じ性質にあずかるものへと変えて下さるであろう。そのようにしてすべてが新しくされればこそ、サタンのわざが打ち壊され、この世を覆っている悲惨、不幸、災い、嘆きが取り除かれ、年老いた蛇が、天から投げ落とされ、私たちの自由の喜びが満ち溢れるのだ。

その新しい秩序は、すでに信じる者一人一人の中に来ている。だが、その贖いがどれくらい前進して完成に近づくかは、あくまで私たちの信仰にかかっている。

「でも、ヴィオロンさん、主は私たちのためにすでにすべてをなして下さったのではないですか?」と問われるだろう。

もちろん、そうだ。すべては主が私たちのためになして下さったことであって、私たちの側の努力によるものではない。だが、主がなして下さったことを、私たちは自分の手を伸ばし、自分の意志と行動によって、受け取る必要がある。

神の恵みを、御言葉の確かさを、自分の人生でどれだけ生きて実際として経験できるのかは、あくまで私たちの信仰による応答にかかっているのだ。

もちろん、地上にいる間には、完全な聖化には誰も到達しないが、それでも、神が私たちのために用意して下さっている完全に、近づくことはできる。主が求めておられる、古きものの痕跡が何も残らない、純潔の花嫁なるエクレシアの姿に、神の喜ばれるキリストのご性質を備えた新しい人に、限りなく、近づこうとすることはできるのだ・・・。

だが、そのために必要なのは、信者に対するより深い十字架の死の働きである。信者の存在が、真にサタンに取って恐るべき脅威となるのは、信者の堕落した肉に、完全に主と共なる十字架の霊的死の効果が働き、サタンの足場となるものが、その人の内に完全になくなる時である。

肉はサタンの作業場である。従って、それが生きている限り、私たちには、あの忌むべき堕落の痕跡がつきまとい、罪と死の法則が働き、私たちはこれに振り回されて苦しまねばならない。信者の肉に対して十字架の死の働きが成就していないうちは、サタンはいくらでも信者を利用することができる。

だが、主の十字架の死が、私たちの自己、堕落した肉に真に完全に及ぶ時、私たちはその時こそ、大胆にキリストと一つになって、暗闇の勢力に対して、御言葉の衝撃力を存分に行使し、そして神のみわざを体現して生きることができるようになるだろう。

このように、信者がどれくらいキリストと一つになっているかが、信者が、神の御思いをどれくらい現して生き、かつ、キリストのために、その信者の受けた苦難が、神の目の前に、大いなる信仰の従順として尊ばれるかの基準なのである。

私たちが信仰によって、キリストと完全に一つであると、はっきりと確信を持って言える時に、サタンが我々に対してなした攻撃は、我々個人に対しての攻撃でなく、キリストに対する攻撃であると、神はご覧になる。それに対しては、私たちの側から防衛する前に、神御自身が応答される。

そこで、 「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」(フィリピ1:21)と大胆に言える程度にまで、つまり、生きるにも死ぬにも、すべての瞬間が、完全に主のためであると、はっきりと言えるほどまでに、私たちは、霊において彼と一つにならなければならないのである。

そんなことができるのだろうか。いや、信仰によって、そのことを、切に知りたいと願うならば、主は必ず私たちに知らせて下さるであろう。

もう一度、以下の御言葉を繰り返しておく。

霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。」(ガラテヤ5:16-17)

霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制である。これらを禁じる掟はありません。」(ガラテヤ5:22)

キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。」(ガラテヤ5:16-25)

わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神子に対する信仰によるものです。」(ガラテヤ2:19-20)


 「このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。」(ガラテヤ6:14)

わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、
 キリストと共に生きるようになる。

 耐え忍ぶなら、

 キリストと共に支配するようになる。

 キリストを否むなら、
 キリストもわたしたちを否まれる。

 わたしたちが誠実でなくても、
 キリストは常に真実であられる。

 キリストは御自分を
 否むことができないからである。
(Ⅱテモテ2:11-13)

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