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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

クリスチャンは神の子か、それとも神の養子か?(2)

4)聖霊は「母なる神」なのか。

 手束氏は、キリスト教には母性的なものが足りないという批判に応えて、聖書には元来、父性的な神だけでなく、母性的な神も存在しているとの驚くべき主張を展開する。その根拠として氏が挙げるのは、「新約聖書は母性的な神を主張している」という聞いたことのないような見解である。

「確かに旧約聖書においては、そのように父性的宗教としての特徴が前面に押し出されている。しかし新約聖書においては、事態は断然異なっている。つまり母性的な受容ということが、愛と赦しということが、強く打ち出されてきているのである。そして私たちキリスト教会は、父性的な神を強調する旧約聖書と、母性的な神を主張する新約聖書の両方を合わせて、正典と見なしてきたのである」(p.75)

 手束氏の見解によれば、律法の原理に支配される旧約の神が父性的であるのに対して、愛と赦しが説かれる新約は「母性的な神を主張する」ものだという。そして氏によれば、ルターもまた「愛と赦しの強調(恩寵のみ)による母性的神のイメージの回復」に努めたということにされている(p.76)

 一体、このような解釈をした場合、旧約の神と新約の神にどうやって同一性・連続性が保たれるのかという問題は全く不明だが、ともかくも、氏は、新約の「愛と赦し」を強調することにより、プロテスタントにおいて母性原理の回復をはかることができるとしている。
 また、それだけでなく、氏はさらに驚くべき主張を展開する。それは、「父なる神」「母なる聖霊」という主張である。

『父なる神』と『母なる聖霊』

 今日の『フェミニズム神学』の評価すべきところは幾つかあるが、そのうちの一つはこれまで父性的男性的な傾向の強かったプロテスタント的キリスト教のあり方に批判を加え、長い間隠され抑圧されていた母性的女性的な要素を回復しようとしたことにある。<略>

フェミニズム神学の論者たちは言う、『聖霊は女性ではないのか』と。従来、三位一体の一位格である聖霊もまた『父なる神』『子なるキリスト』に続いて、男性的人格として見なされてきた。
しかし
聖霊を示すヘブル語のルァハは女性形であるばかりか、『人間のダイナミックな生命力が表現される特別な呼吸の出来事』を意味した。これは具体的には性的興奮と分娩を指しているという。

しかも創世記の冒頭の天地創造の物語において、創造を直接的にもたらした神の言葉の前には、『神の霊』(ルァハ)が働いていたのである。さらに、『新しい存在』(新しい被造物)であるナザレのイエスの誕生に際しては、聖霊が介入している。『聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生まれ出る子は聖なるものであり、神の子と、となえられるでしょう』(ルカ1:35)。

つまり、聖霊の中心的な働きは創造や生命を与えるということにあるのであり、これは勝れて女性的母性的特徴と言える。このように見てくると、三位一体の教義も、新しい視点の下に解釈していくことが可能となる。すなわち、『父なる神』と『母なる聖霊』によって生み出されたのが『子なるキリスト』であり、三位一体は神の家族的象徴性を担っているということになる」(p.77-78)

 これは前代未聞の教えである。従来の神学において、聖霊はギリシア語では中性名詞“pneuma” で記述される「性を持たない人格」として扱われてきた。また、ラテン語では“Spiritus Sanctus”、男性名詞として扱われた(手束氏が従来、聖霊は男性的人格として扱われてきたと書いているのはラテン語表記に鑑みたものであろう)。他の言語においても、通常、聖霊は、男性か中性のどちらかの人格とみなされ(露語 Святой Дух 男性名詞)、女性的人格とみなされることはなかった。

 しかし、手束氏は、ヘブライ語で聖霊を指す“ruah” が女性名詞であることを根拠に、フェミニズム神学に習って、聖霊を「母なる聖霊」として捉え、三位一体を、「父、母、子」という家族的モデルとみなす。すると、必然的に、子なるキリストは、父なる神と母なる聖霊の協力によって生まれたものであるという結論が引き出されるのである。(文脈から判断して、父なる神と母なる聖霊の生殖行為の結果としての子の誕生が示唆されているのは明らかである。)

 さらに、手束氏は三位一体を「父、母、子」という家族的モデルとして捉えることによって、教会社会もそのようなモデルに従って、牧師夫妻が霊的な意味において父、母を体現し、信徒が子を体現するような三角関係に置かれなければならないと結論づける。

三位一体の神ご自身が『父性的存在』と『母性的存在』と『子的存在』の交わりとしてあられるならば、当然教会においても、このような交わりが必要であり、そのような交わりが成就するときに、教会は健全となり、安定性を持ち、従って成長していくことになるのではなかろうか。
 パウロはテモテを『愛する子』(第二テモテ一・二)と呼んでいる。牧師や牧師夫人にとって、信徒は『愛する子』であり、『霊の子』である。信徒にとって、牧師は『霊の父』であり、牧師夫人は『霊の母』である。ここにおいて、『神の家族』(エペソニ・十九)であり、『霊の家族』である教会は成立する。

だとするならば、牧師は父性原理の体現者として、信徒を教え導いて秩序付け訓練することに秀でなくてはならないし、牧師夫人は母性原理の具現者として、信徒を受容し、慈しむことのできる人でなくてはならない。このとき、教会は落ち着いた安定性を得、また信仰において成熟していくことになるのである。このような雰囲気を持つ教会には、必然的に多くの人々が集まってくるのである。」(p.79)

 日本語の文法には名詞の性の区別がそもそもないので、聖霊の性の区別はあまり重要に感じられず、聖霊に関する神学論争などは信仰の本質には関係がないように感じられるかも知れない。呼び名がどうあれ、ものの本質が変わるわけではないのだから…。正直に言えば、私自身の神学に関する知識は皆無に等しく、この話題を突き詰めるのに十分な資格があるとはとても言えない(どうか誤りがあれば指摘して下さい)。

 しかし、この「母なる聖霊」問題は見過ごしにできない重大な問題であり、これを語るに際しては、神学論争を避けて通ることはどうしてもできない。さらに、神学的議論は、実は、私達クリスチャンの信仰の本質に見えないうちに重大な影響を及ぼしているものであり、決して軽視してはならないものなのである。

 神学は、たとえて言うならば、食品の原材料表示のようなものかも知れない。教会に連なっているクリスチャンは、原材料表示のない教えを受け取っている。私達が教会で聞く「説教」は、聖書を材料として、誰か指導者がレシピに従って調理し、出来上がった後の姿である。
 完成した料理は目には麗しく、美味であるように見えるだろう。しかし、その中にどんな原材料が含まれているかを私達は知らない。知らないまま、その材料はきっと聖書に沿ったものが遣われているに違いないと信じて受け取っている。しかし、料理には調理した人間の傾向や好みが反映されているだけでなく、もしも万が一、加工の段階で、料理に致命的な毒素、すなわち聖書外の教えが使われていたとしたら、それを食べる者は死ぬかも知れない。

 今日、残念ながら、教会で語られている教えが、必ずしも、正しい教えであるとは限らないのが現状である。誤った教えを無批判に受け取って行った結果、カルト化教会の信徒たちは致命的な誤りに陥り、人生ではかりしれない実害をこうむって、最悪の場合、肉体的な死にまで至っている。そこで、私達クリスチャンはキリスト教界において、2千年もの時をかけて様々な議論を経て守られてきた正統な神学とは何であるかを知っておく必要があるし、それとは異なる耳慣れない教えを聞いた時に、それをどうでも良いこととしてとらえたりすべきではないと思う。

 さて、今日、正統な教義を信じるクリスチャンが信じている三位一体論の教義が成立したのは381年、ローマ帝国の皇帝テオドシウス帝が招集した第一回コンスタンティノポリス公会議でのことである。この公会議において採択されたニカイア・コンスタンティノポリス信条において、子なるキリストと共に、聖霊もまた、父なる神と同一の本質であることが認められ、三位一体論が確立した。
 Major Mar’s Diary 「聖書解題73」に三位一体について分かりやすい構図が示されているため、どうぞそちらをご参照下さい。

 正統な三位一体の教義においては、父なる神は誰によっても生れない、全てに先行する存在であり、御子イエスは父なる神によって生まれ、聖霊もまた父なる神から発出するとされる。だが、御子と聖霊は神の被造物ではなく、父なる神と本質的に一つであり、それぞれが永遠の初めから存在する神の人格なのである。三つの人格のはすべてが助け合って働き、本質的に一つである。

 「そんな話は理解不能だ」と思う人がいたとしても不思議はない。心配はご無用だ。神学者ですら、三位一体は、人間の知性ではとても納得できないものだと認めているのだから、私達はただそれを信じることしかできない。

(注:関西聖書学院の安黒務氏は三位一体について、次のように解説している、
「それを説明しようとしてごらんなさい。その時あなたは知性を失うでしょう。
それを否定してごらんなさい。その時あなたは魂を失うでしょう。」
キリスト教教理入門PPから、組織神学、11.神の三一性、三位一体 p.17を参照。)

 つまり、従来の正統とされている教えには、三位一体を、父、母、子という家族モデルとして解釈するという考え方は全く存在しなかった。もしも手束氏が主張するように、御子が父なる神と母なる聖霊によって生まれたものだと解釈するならば、「初めに言(ことば)があった」(ヨハネ1:1)という御言葉はどのように位置づけられるのだろうか、不明である。もしも乙女マリヤが聖霊によって身ごもった時点で、御子が聖霊の力を借りて初めて世に誕生したのだとすれば、御子が万物の創造以前から父なる神と聖霊と共に存在していたという従来の教えと矛盾することになる。

 三位一体を家族的構図として捉えることの弊害は、以下で詳しく説明するように、御子イエスの神性に聖霊への従属性、依存性を生じさせることにある。御子イエスは、聖霊の力によらなければ、生まれ得なかったのか。聖霊を抜きにすれば、イエスはただの人であったのか。イエスの神性は、聖霊によって付与されたものであって、彼自身に帰するものではなかったのか。そういう種々の議論が生じることになる。
 つまり、もしも聖霊の力に頼って初めて、御子の神性が可能となったという解釈を取るならば、私達は御子イエスを、まるでギリシア神話において、ゼウスと女神たちとの生殖行為によって生み出された様々な神々と同じように理解することになる。そのような考えに立つならば、子が独りである必然性もなく、イエスが神の独り子(最後のアダム)であらねばならない意味がなくなってしまう。

 さらに、手束氏は「聖霊の中心的な働きは創造や生命を与えるということにあるのであり、これは勝れて女性的母性的特徴と言える」と書いているが、これもうっかり聞き流して良い言葉ではない。聖書のどこにも、聖霊の中心的な働きが「創造や生命を与える」という「女性的特徴」にあるとは書いていない。

 聖書を見てみよう、「御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるのだからである。<略>神の思いも、神の御霊以外には、知るものもない」(コリントⅠ2:10-11)。
 つまり、聖霊の第一の働きは、神の御旨をきわめ、それを人に知らせることにある。
 また、イエスは言われた、「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。それは真理の御霊である」(ヨハネ14:16)。

 聖霊とは、真理の霊であり、人に真理を啓示するために送られる助け手である。そして、真理とはイエスそのものを指す。イエスは神の御心の忠実な体現者であり、御言葉が人となって現われたものである。バプテスマを受け、聖霊が鳩のように下ったその瞬間から、イエスは聖霊に導かれて、人々に向かって真理を語られた。イエスは、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ14:6)と、ご自身を真理そのものとして提示されたが、同時に、イエス自身もまた聖霊の導きによって、人々に真理を証するために語られたのである。ピラトの前でイエスが言われた通りである、「わたしは真理についてあかしをするために生れ、また、そのためにこの世にきたのである。だれでも真理につく者は、わたしの声に耳を傾ける」(ヨハネ18:37)。

 聖霊が啓示する真理とは、イエスのことであると同時に、父なる神の御心のことでもある。「わたしは自分からは何もせず、ただ父が教えて下さったままを話していたことが、わかってくるであろう。わたしをつかわされたかたは、わたしと一緒におられる。わたしは、いつも神のみこころにかなうことをしているから、わたしをひとり置き去りになさることはない」(ヨハネ8:28-29)と、というイエスの言葉の中には、もしもイエスが神に逆らうようなことを行ったならば、聖霊は彼から離れ去っただろうという言外の仮定が含まれている。

 イエスは神性を持って生まれたので、罪を犯すことはあり得なかったとはいえ、しかし、人間と同じ肉体条件を持って地上を歩まれたという点においては、実際に罪を犯すことが可能な条件下を生きられたと言えるだろう。それでも、神の御心に対して徹底的に従順であられたゆえに、聖霊はイエスを離れることなく働かれたのである。イエスは御言葉の成就、すなわち真理そのものとして生まれながら、同時に、地上にある間は、自らの意志によって、真理だけを証することを選び取った。イエスは聖霊によって神とされたのではなく、聖霊とイエスが共同してこの世に真理を証し、神の御旨を実現するために働いたのである。

 そしてイエスが復活し、天に去った後、聖霊はイエスを通して、クリスチャンにも助け主として与えられるようになった。「このイエスを、神はよみがえらせた。<略>それで、イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである」(使徒2:32-33)。
 聖霊は、何よりも、イエスについて証する霊である。「わたしが父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊が下る時、それはわたしについてあかしをするであろう」(ヨハネ15:26)。
 また、聖霊はイエスの教えをクリスチャンが理解するのを助け、来るべき事柄までも告げ知らせ、全ての栄光をただキリストに帰する。「助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう」(ヨハネ14:26)。「真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたに知らせるであろう。御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。父がお持ちになっているものはみな、わたしのものである」(ヨハネ16:13-15)。

 こうして、聖霊を受ける時、クリスチャンはイエスご自身がそうであられたように、真理と一つとされ、大胆にキリストを証し、キリストに栄光を帰する者となるのである。
 また、聖霊は力を付与し、賜物を与えることが示されている。「あなたがたは力を受けて、<略>地のはてまで、わたしの証人となるであろう」(使徒1:8)。「神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みの霊なのである」(テモテⅡ1:7)。
 しかし、聖霊を通してクリスチャンに与えられる賜物や力は、全てイエスを証する目的に沿って与えられるものであり、信徒の身勝手な自己実現のためではない。

 また、聖霊のあるところには平和と一致(エペソ4:3)がもたらされる。それはイエスの祈りが成就するためでもある、「あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つになるためであります。すなわち、彼らをもわたしたちのうちにおらせるためであり、それによって、あなたがわたしをおつかわしになったことを、世が信じるようになるためであります」(ヨハネ17:21)。

 「神が御霊をわたしたちに賜ったことによって、わたしたちが神におり、神がわたしたちにいますことを知る。わたしたちは、父が御子を世の救主としておつかわしになったのを見て、そのあかしをするのである」(ヨハネⅠ4:13-14)。聖霊は、クリスチャンが神の中にとどまって一致するのを助け、祈りの中でも父なる神にとりなしてくださる。「御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである」(ローマ8:26)。

 このように見ていけば、聖霊という名詞の性がそれぞれの言語でたとえ異なっていたとしても、いずれにせよ、聖霊の第一義的役割が決して女性的、母性的特徴であるとは言えないこと、また、聖霊の母性的特徴によって、イエスの神性が付与されたという主張が聖書に反する誤りであることが分かる。聖霊とイエスは従属関係にあるのではなく、互いに助け合って働かれたのである。

 聖霊を母なるものとして捉えるという、三位一体論に関するこれほど常軌を逸した見解が手束氏の著書にはっきりと現れたのは、私が知る限りでは、『教会成長の勘所』が初めてであるように思われる。しかし、このような異常な三位一体論の解釈の基盤となる考え方は、ずっと以前から氏の著書に現れていた。

 それが、氏がペンテコステ運動において主張して来た「養子論的キリスト論」である。 

<つづく>

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