忍者ブログ

私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

クリスチャンは神の子か、それとも神の養子か?(1)

5.教会成長論 (続): クリスチャンは神の子か、それとも神の養子か?

1)教会成長論は牧師夫人をも「礼典的・象徴的存在」とする

 これまで、教会成長論は、牧師を「礼典的・象徴的存在」としてあがめるよう信徒に教え、牧師を通さなければ信徒は神と接触することができないと説くことによって、事実上、神と人との唯一の仲保者であるイエス・キリストを否定し、牧師個人崇拝を教会内に敷き、その上、教会役員を牧師の雑用係として私物化することを公然と認める教えであることを確認した。
 教会成長論とは何かということを一言で述べるならば、それは神の栄光と、キリストの御身体であるはずの教会組織を指導者が盗み、私物化することを正当化する教えである。

 さて、『教会成長の勘所』第二部「教会成長的牧師夫人論」に移ろう。
 ここでは、教会成長のために牧師夫人はいかにあるべきかという問題が論じられているが、その内容は結局のところ、教会役員の場合とほとんど変わらない。「礼典的・象徴的存在」としての牧師をいかに効果的に押し上げていくかということが牧師夫人の最重要課題とされており、結局、牧師夫人の役割も、牧師が私物化することを認めている。

 だが、手束氏によれば、教会役員にはない役目が牧師夫人にはある。それは牧師夫人もまた牧師に準ずる「礼典性・象徴性」を持たなければならないということである。『教会成長の勘所』を見てみよう。

「今日の教会の牧師夫人のあり方は、大幅に訂正されなくてはならないであろう。
現実の日本の教会では、牧師夫人は礼典的・象徴的存在であるどころか、まるで下女的存在である。<略>聞くと、教会の清掃なども牧師夫人が先頭に立って行っているという。困ったことには、教会員たちがそのことを当然としているだけではなく、当の牧師夫人もなんらの抵抗感もなく行っているというだけでなく、そうすることに自らの役割アイデンティティーを見出していることである。

そこで、私がそのようなあり方の変更を求めて、教会の雑用は信徒がやるようにし、牧師夫人は雑用から手を引くように促すと、かなりの牧師夫人たちは当惑し、かえって落ち着かなくなるのである。下女的役割が身についてしまっているからである。

 確かに奉仕する姿は尊い。信徒に仕える姿は美しい。しかしそれを常習化してしまうならば、やがて本来の礼典的・象徴的存在としての地位は失われ、下女的存在に堕してしまい、結果として教会は恵まれなくなり、成長してなくなってしまうのである。
牧師夫人はあくまで礼典的・象徴的存在に留まらなくてはならない。そのために雑用からは一切身を引くべきである(たまにやるのは構わない。そうすることによって、一層教会員の信頼と尊敬を勝ち取ることができるが、決して常習化しないように気をつけなければならない)。

 それではいったい牧師夫人は何をするのか。まず礼典的・象徴的存在に適しく自らを磨くべきである。豊かな人格と教養を身に付けるとともに、良き人間関係を築けるように自己練磨しなくてはならない。時として、教養は豊かであるが、信徒との良き人間関係が築けず、信徒との間に様々なトラブルを起こして、牧師である夫の足を引っ張っている牧師夫人を見かける。これはとても残念というより、悲劇的でありさえする。これで、どうして教会が成長することができるだろうか」(p.85-86)

 このナンセンスな文章を改めて議論する必要はないだろう。手束氏は、教会内の雑用を習慣的に行うことは「下女的存在」に堕することだとしている。そのような考えに立つならば、たとえば教会内トイレ掃除を毎週行っている信徒がいれば、その人は「下女」だということになろう。
 牧師と牧師夫人は「礼典的・象徴的存在」であるから「下女」の仕事に携わってはならず、信徒ならば大いに「下女」となってよろしいと主張するこの文章が、どれほど非常識なものであるかは改めて説明しなくとも誰にでも分かるはずだ。これは事実上、信徒を使用人扱いし、教会内に身分制度を認める主張である。

 イエスは言われた、「あなたがたのうちでいちばん偉い者は、仕える人でなければならない。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」(マタイ23:11-12)。
 御言葉に照らし合わせて、手束氏の言う、一切雑用に携わらない「礼典的・象徴的存在」が聖書の唱える模範に真っ向から反するものであることは言うまでもない。

 この他、牧師夫人に対しては、著書の中で、牧師の身勝手な高い要求が山ほど突きつけられており、お気の毒と言う他ないが、その中から一つだけ、牧師のわがままさ加減が何よりもよく分かる例を挙げよう。この著書において述べられている牧師夫人の重要な役割の一つは、雑用一切から遠ざかった牧師が、毎週、作っている日曜礼拝の説教の「最高の聴き手」となること、すなわち「牧師の最高のファン」になることである。

「かくて、良い説教を作り語ることほど難しいことはない。私は説教を生み出すのに、毎週生みの苦しみをしている。それは、作家が一つの作品を生み出すのに、心血を絞り出すのと似ているが故に、作家と同じくその作品がどのように会衆に受け止められているのかは、どの牧師も大いに気になるところである。
そんなとき、会衆から良い反応が返ってくるならば、牧師にとってこれほど嬉しいことはない。しかしときとして会衆の反応は見当違いの場合がある。正しく説教が意図していることを汲み取らず、どうでもよいようなところで感動していたりする。
その点、牧師夫人はそのような見当違いに陥ることはない。会衆よりは正しく客観的に説教を聞き取る耳を持っているはずである。そのような牧師夫人が、牧師である夫の説教の語らんとするところを正しく汲み取り、感動し、適切な言葉で評価していくならば、その効果たるや抜群であろう。牧師たる夫は、それによって励まされ、翌週の説教もこれまで以上のものをと願いつつ、取り組み始めるであろう」(p.92-93)

 恐らく、こんな牧師は、きっと永久に、自分にふさわしい会衆を見つけることはできないだろう。自分の妻たる牧師夫人に対して、夫の説教のどこでどう感動すべきかまで指図しなくては気が済まず、しかも、それをこのような著書を刊行することで、妻に義務づけようとは…。こうして、内心の自由まで奪われなければならない牧師夫人の哀れさが、著者にはまるで分からないのだろうか…。

 自分への賞賛ばかりを果てしなく求めてやまない駄々っ子のような人間は、教会成長論を語って他人に過大な要求を突きつけたり、「生みの苦しみ」に耐えつつ、毎週、説教を作っては、会衆の反応に失望させられる必要はないから、そんなことよりも前に、まず聖書を通じて、人としての基本を学び直すことから始めた方が良いと思わずにいられない。


2)「霊の父」、「霊の母」とは何か。牧師は信徒の「霊の父」か。

 さて、牧師夫人の「礼典的・象徴的存在」という問題は以上で終りにして、さらに重要な問題に移ろう。手束氏による牧師夫人論の中で核心となるのは、これから述べる「霊の父」、「霊の母」という問題である。

「クリスチャンには三人の父がいると言われる。まず第一には、言うまでもなく、『肉親としての父』である。次に、信仰の対象としての『天の父』、そして第三には、『霊の父』である牧師である」(p.74)。

 手束氏は、プロテスタントでは、カトリックにおける神父という呼び名が使われず、牧師という呼称が用いられているのは、「カトリック的職制に対する反発と、信徒訓練の側面を重視してのことと思われる」(p.74)と述べながらも、「にもかかわらず、プロテスタントにおいても牧師に『霊の父』としての役割と任務があることは否めない。それゆえに、牧師にはどうしても父性的であることが意識的にも無意識的にも要求せられることになる」(p.74)と、職制としての「霊の父」の役割が、教会に必要なのだと述べている。

 だが、一体、ここで言われている「霊の父」とは何のことだろうか。聖書には、牧師に当たる教会指導者を信徒が「霊の父」として敬うようにと教える記述はない。むしろ、聖書が教えているのは、次のことである。

「しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはならない。あなたがたの先生は、ただひとりであって、あなたがたはみな兄弟なのだから。また、あなたがたは地上のだれをも、父と呼んではならない。あなたがたの父はただひとり、すなわち、天にいます父である。また、あなたがたは教師と呼ばれてはならない。あなたがたの教師はただひとり、すなわち、キリストである」(マタイ23:8-10)

 これは、まさにプロテスタントが拒絶したカトリックの職制としての「神父」を暗示しての台詞ではないかと私は解釈する。これはそもそもキリスト教界における職制としての「父」や「教師」全般のことを指しているのではないだろうか。もちろん、そこには手束氏の言う「礼典的・象徴的存在」としての「霊の父」も含まれるだろう。

 イエスがここで言われたのは、キリスト教界において、制度化された「教師」や、「父」という一般的な役職を作ってはならないということである。キリスト教徒のつながりの中には、俗世間の組織に見られるような上下関係はあるべきでなく、全てのクリスチャンはただ一人の父なる神から生まれた兄弟であるのだから、互いに仕え合うべきだということをイエスは言われたのである。

 そうは言うものの、聖書はクリスチャンの間に役割分担があって、信徒はそれぞれ異なる役割に召されていることを述べている。そして、その中には教師の役目も確かに存在する(ローマ12:6-8)。しかし、それでもイエスがあえて上記のようなことを言われたのは、特定の信徒が、自分に与えられた賜物や、役割を根拠にして、自分こそが父なる神の代理人であるかのようにふるまって、他のクリスチャンに対して、特別に大きな権威を行使し、自分への特別な尊敬を義務づけるような上下関係を役職として定めたりしてはいけないということを言われたのだと解釈できる。

 そこで、私達は考えてみなければならない。クリスチャンの間では「父」と呼ばれる人があってはならないとイエスが教えているのに、牧師と信徒が、霊的な絆において、父と子に相当する関係に置かれて良いものなのか。そこから、一体、どのような結果が生じるのだろうか。
 カルト化した教会のいくつかでは、実際に、牧師は「霊の父」であると信徒に教えられていた。そのことを考えても、結論から先に言うならば、牧師が信徒の「霊の父」になることは、ただ聖書の記述にそぐわないばかりか、実際に、大きな危険を含んでいるのである。

 だが、手束氏はここから進んで、牧師が父性的な役割を担う「霊の父」であるならば、牧師夫人は信徒の「霊の母」でなければならないと言う。それには、以下に記すように、二つの理由が挙げられている。一つ目は、教会には父性原理と母性原理の両方がバランス良く働くためであり、二つ目は三位一体の新しい解釈にあるとされている。


3)キリスト教には母性原理が補われる必要があるのか。

「著名な心理学者河合隼雄氏によると、父性とは『切断する』ことにその特性を持っている。物事を上と下に、善と悪に、主体と客体に分類して、秩序付けや成長を促していく。他方、母性とは『包含する』ことにその特性があり、すべてのものを良きにつけ悪しきにつけ受容していくのである。

人間が精神的に健全に成長し成熟していくためには、どうしてもこの父性原理と母性原理のバランスが必要なのであり、どちらかに偏重すると、いろいろな点で不健全さ、不安定さを免れ得ない。河合隼雄氏は日本社会の様々な病理的現象の背後には、父性が欠如し、母性が過剰になっているとことにあると分析している。さらに遡って河合氏は、このような日本の母性文化の発生の理由を、日本の宗教の母性的性格に見ている。日本人は『父なる宗教を知らぬ国民』なのである」(p.74-75)

 手束氏は、河合隼雄氏の意見を根拠にしながら、人間社会においては、母性と父性のバランスがほどよく保たれなければならないと言う。父性が「切断」の原理であり、切り分け、裁くものであるなら、母性は「包含」の原理であり、愛し、赦すものである。社会において母性が過剰になると、甘えがはびこり、父性が過剰であると、人を裁き、排除するばかりとなる。手束氏はこれを根拠にして、教会内社会にも、母性と父性のバランスが保たれなければならないと結論づける。

 さて、父性を切断と分割の原理、母性を赦しと包含の原理としてとらえ、キリスト教は父性的な側面が強すぎる一方で、包含するという母性的側面が欠如している宗教であるという考えを述べたのは、河合隼雄氏ばかりではない。禅者の鈴木大拙氏も同様の見解を著書の中で述べている。
 鈴木大拙氏によれば、切断するという父性的な特徴は、西欧文明文化や科学の発達の根底となっており、他方で、包含するという母性的な特徴は、東洋文化の根底に横たわっている。そしてキリスト教の父性的な二分性の原理は、知性の発達、すなわち西欧科学文明の発達を支えてきた。

「分割は知性の性格である。まず主と客をわける。われと人、自分と世界、心と物、天と地、陰と陽、など、すべて分けることが知性である。<略>知るものと知られるもの――この二元性からわれらの知識が出てきて、それから次へ次へと発展してゆく。哲学も科学も、なにもかも、これから出る。個の世界、多の世界を見てゆくのが、西洋思想の特徴である。」 (『東洋的な見方』、鈴木大拙著、上田閑照編、岩波書店、1997年、p.10-11)

 世間でも、キリスト教には厳しい二分性があるとよく言われる。聖書においては、創造主と被造物、神と人間、善と悪などがはっきりと区別されて対比され、人は神によって造られたもの、神によって知られる者であるから、客体としての側面を持っている。被造物としての人間には、創造主である神に従う従順が要求される。
 旧約聖書を読めば、創世記におけるノアの洪水、ソドムとゴモラの街の滅び、エジプトから脱出するためにモーセによって荒野に導かれたイスラエルの民の多数が、神に反逆したことの報いとして剣や病に倒れたなどの記述があり、多くの人間が神に従えなかったことの報いとして滅ぼされている。
 新約では、イエスの与えた十字架上の赦しによって、人は律法から解放されてはいるものの、依然として、十字架を受けいれられず、御子イエスを通して父なる神との正しい関係を築くことの出来なかった民は救済の対象にならない。新約・旧約を問わず、聖書においては、父なる神を信じ、その規範に従うか従わないかが、人の生涯の決定的な分かれ目となっている。
 クリスチャンでない人々は、このような神による裁きや、神への服従が求められる話を聞くと、恐れと不満を感じ、キリスト教の二分性はあまりにも人間に容赦のない、残酷なものであるからこの宗教は受け入れ難いと結論づけることが多い。

 キリスト教の二分性は、確かに、多くの非キリスト教徒の不満の源になってきた。いや、本当のところを言えば、不満の根源は、二分性にあるのではなく、キリスト教における人間の客体性にあると言えるだろう。キリスト教では、人は神との関係から絶対に逃れることができず、人はみな神の御前での正しさを求められる。人が絶えず神によって探られ、従順を求められる対象であることが、キリスト教を信じられない多くの人々にとって不満なのである。
 神と無関係でいられる人間の自由、神を持たない自由、神に脅かされずに生きる自由、神に裁かれない自由、つまり人の神からの自由というものは、キリスト教にはない。聖書は神の物語(His-story)であって、人間が主役の物語ではない。絶対者である神との関係をいかに築くかが、神が人に与えられた御子の贖いの十字架に対していかなる態度を取るかが、キリスト教においては、人間の生涯を決定する重大な分かれ目である。絶対者である神を人が拒否することは神への反逆となり、人間に滅びをもたらす。この有無を言わさぬ「人間の客体性」、被造物としての客体性、神によって裁かれ、神によって心を探られ、評価される者としての人間の客体性が、キリスト教を受けいれられない人々にとっては、人間の自由を束縛する、まことにいとわしいものであり、この宗教のひどい欠点のように映るのである。

 このような、キリスト教の持つ二分性、排他性を、残酷さや非人間性としてとらえる人は昔から多かった。洪水などの聖書的記述だけでなく、カトリックにおける異端審問や、魔女狩り、十字軍、戦争などの歴史的事件や、現代キリスト教界における分裂抗争を引き合いに出して、これぞキリスト教の排他性、寛容さのなさ、二元論の残酷さが招いた結果ではないかと詰め寄る人々もいる。

 全知全能の神、畏れをもって崇めなければならない父なる神というものに対して、人間はどうしても何かしらの抵抗感を持たずにいられないようだ。そこで、キリスト教は、裁き、切断する父性ばかりが過剰であり、全てを赦し受け入れる母性が欠落しているがゆえに、大衆に受けいれられるはずがないという主張が生じる。厳しすぎる父なる神ではなく、優しい母なる神が欲しいと主張する人たちが出て来る。ここで、母性的な要素を多分に含んでいる東洋の宗教の方が、キリスト教よりも日本人には合っているという結論に至る人も多い。

 話が脱線してしまうが、鈴木大拙氏もやはりキリスト教的二元性には大きな短所があると主張する。
「西洋文化といえば、ギリシャ、ローマ、ユダヤ的文化の伝統ということになる。その不完全さは、宗教の上に最も強くあらわれる。自分はキリスト教をみだりに非難するのでなく、また悪口するものでない。
これはいうまでもないところだが、キ教には、二分性から来る短所が著しく見え、それが今後の人間生活の上に何らかの意味で欠点を生じ、世界文化の形成に、面白からぬ影響を及ぼすものと信ずる。キ教はこれを自覚して、包容性を涵養しなくてはならぬ。」 (『東洋的な見方』、p.170 太字は筆者による)

 キリスト教の二分性から生じる著しい短所が、世界文化の形成や、今後の社会形成にまで必ずや行き詰まりをもたらさずには置かないだろうと、鈴木大拙氏が主張する理由は大体、以下の通りである。

 キリスト教の二分性は、「われ」と「他者」分割して把握するという認識方法をもたらしたことにより、西洋的な知性の発達を促し、西欧社会において科学を発達させた。それにより、現代社会は、網の目のようにはりめぐらされた無数のシステムが連なる場所となった。

 現代社会はどこまでもつづく人間関係のしがらみが網の目のようにはりめぐらされた一個の大きなシステムであり、その中には無限に重なり合う蜘蛛の巣のような無数の組織があって、一人ひとりの人間はそこにからめとられ、閉じ込められている。
(教会成長論やら、セル・グループやら、弟子訓練やら、トランスフォーメーションやらの計画も、このような文脈で捉えるならば、巧妙なシステムの一つであると言える。)
 このどこまでも重なり、続いてゆく人間社会の組織の中に組み込まれた人類は、組織に束縛されて、創造力を失いつつあり、一般化、平均化の道を辿っている。人間そのものがモノ化され、機械化されるという非人間性が、社会に平均化と衰退をもたらしつつある。

 もともとシステムは世界に存在するものであり、人間はそこを離れては生きられない生き物である。世界そのもの、宇宙全体がシステムであると言える。だが、現代人の問題点は、システムの探求と、新たな組織を作り出すことばかりに熱中し、結局、組織に緊縛されて、かえって人間らしさを失っているところにある。人間が次々と作り出す新しい組織は一見、社会を効率よく動かすように見えて、その実、人間を閉じ込めて束縛する。次々と作り出される新型の機械は便利であるように見えて、その実、機械の欠陥によって人間が振り回され、使役されているような始末である。

 システムは人間を拘束する。組織の中にいる「われ」は永久に「他者」から自由でない。会社における自己、学校における自己、家庭における自己など、現代社会において、人は他者との相関関係においてしか自己を認識することができない悩みに陥っている。他者との相対的な関係をどれほど考え抜いても、人は絶対的に自由な自己というものにたどり着くことはできない。
 「われ」に対して常に「他者」が対比させられる世界では、かけがえのない、絶対的な価値を持つ自由な個人という認識は生まれない。そこで、個と個とが二分されたと言いながら、結局、西欧的世界観においては、「われ」は「他者」から決して自由にならない。「われ」は、社会のシステムの中に永久にネジのような部品として組み込まれたまま、社会の歯車の動きが変わる度に、移動を求められ、他者から新たなる負荷をかけられて苦しんでいる。その結果、時にはシステムから受ける圧力に耐えられず、「われ」が折れるか、卵のようにはじけて割れてしまうことも起こるだろう。

 システムの中における「われ」は一見、安楽な位置を見いだしているように見えて、その実、本当の自分自身を見失っている。こうして、「われ」が永遠に「他者」によって拘束される奴隷であり、圧迫される存在でしかないのが西洋的世界観だということになる。

 鈴木大拙氏は、大体、以上のような形で、西欧文明社会を動かしてきた二分性の原理の短所を指摘した上で、今後は、東洋的・母性的な包含の原理に価値を見いだし、東洋的なもの(母性的なもの)を補うことによって、人類はシステムによる緊縛という窒息状態から抜け出さなければならないと言う。

「なぜ、西洋的に見たり考えたり行動したりしてゆくと、行き詰まりを見なくてはならぬかというと、人間の生きている世界は、五官で縛られたり、分別識で規定せられる外に、いま一つ別の世界があるのである。これを明らかにしておかぬと、人間は生きてゆけぬのである。生きていると思っていてもそれは自己欺瞞で、虚偽の生涯である。『今一つ別の世界』などいうと、また数の概念に収めこんで、そんなものが、この可視的、可把握性の世界の外にあるかのごとく、思惟せられるのであろう。これが言葉なるものの短所で、禅者はことにこの点に気を配る。」(『東洋的な見方』、p.22)

 システムの奴隷状態という因果の世界、業の世界を抜け出すために、禅は何を提唱するのだろうか。この記事の本題を少し脇に置いて、耳を傾けてみるならば、人間らしさを取り戻すためには、情性的、意欲的なものを取り戻さなければならないと大拙氏は言う。それがさとりである。さとりと言うと、知性の極みのことのように聞こえるが、そうではなく、真のさとりとは、知性そのものを超越したところ、行動と知性の完全な一致、全一的なものへの統合にある。このさとりを通して「今一つ別の世界」にアクセスし、この世を生きながら、同時に、この世の業に束縛されることのない、生き生きした本来の自由な自己を取り戻すのが理想だというのである。

「人間の本質とでもいうべきは、理性的、知性的なものでなくて、むしろ情性的、意欲的なものである。知性はどうしても二分性を根本的に帯びている。それゆえ、表面的になりがちである。すなわち薄っぺらだということになる。これに反して情意的なものは未分的すなわち全一的であって、人間をその根本のところから動かす本能を持っている。人間は行為を再先にして、それから反省が出る、知性的になる。知が行を支配するようになるのは、知がその本質からはなれて、その底にあるものと一つになるところが出なくてはならぬ。
アダム、イブの世界には『行』のみがあって『知』がなかった。それでエデンの楽園が成立した。一旦、知が出ると、失楽園となったのである。入不二法門の世界では、その知をそのままにして、もとの行の世界、意の世界を、新たな面から再現させている。この点で入不二界はエデンと相違するのである。一段の進出といってよいのである。二度目の林檎を食べぬといけない。」(『東洋的な見方』、p.195-196)

 別な宗教の信者によって書かれたにも関わらず、この記述には大いに考えさせられるところがある。アダムとイブは自らの意志で善悪を知ろうとすることによって、神に反逆する存在となった。神の戒めを破ることで、彼らは神と人との関係が何であるかを逆説的に確かめようとした。二人は善悪を知ったのではなく、悪に関する知識を新たに獲得しただけであったが、悪という反意語に照らし合わせることによって、善とは何かを知ろうとしたとも言えるだろう。

 だが、新たに獲得した知性は、彼らを神から遠く引き離した。彼らが善悪を知ろうとして神の戒めを破ったその行いが、人間を堕落へ導いた。人類は知識を獲得したが、それは正しい知恵とはならず、人は神との交わりを失って、神のおられる調和の世界から疎外されて、神との断絶の中で生きて行かなければならなくなった。その時から、生まれながらの人類は堕落した知性を道しるべに生きている。地球上のあらゆる動物は知性によって悩むことなく生きているが、人間は自ら知性を働かせ、思考し、もがき、真理とは何かを探し求める。楽園とはこの世の地理的・空間的な場所のことを言うのではなく、神との関係が調和の中に回復すること、神のおられる世界から疎外されることなく生きること、神の永遠のまことの命から断絶せずに生きることである。それができなくなることが、失楽園なのである。

 この世が堕落した失楽園の世界であること、つまり、因果の世界、業の世界であり、人間の生まれながらの生は不自然であり、不調和であるということに、ほとんどの宗教は異論がない。そもそも人が何も考えず、この世を無条件に楽園と捉えることができたならば、宗教などは一切人間に必要なかっただろう。この世は宿業にとらわれた世界であり、どうにかしてそれを超越する方法が欲しいという人間側のあがきが、また新たに無数の宗教を生み出し続けていると言ってもよく、仏教、キリスト教ともにこの世に対する問題提起は変わらない。だが、どうすれば神との疎外関係を解消し、人間が自己存在を調和の中に回復できるのか。禅の言葉で言えば、それは「神」ではなく、「ローゴス以前」の万物との一体感ということになるようだが、どうすればそれを取り戻すことができるのか、どうすれば失楽園の苦しみから抜け出せるのか。

 禅はさとりによって「二度目の林檎を食べる」、すなわち、この世に生き、苦しみの源である知性を持ちながらも、同時に、知性と行いとの不調和をなくして、「ローゴス以前」の世界に飛び込んで生きることができるようになると提唱している。そのさとりを得るために修行が必要となり、その修行の長さ、厳しさは各自によって異なるようであるが、ともかくも、それによってこの因果の世界に生きながら、同時に、行いと知性との分割以前の境涯に達して生きることができるとしている。
 ここにはいつまで経っても逃れられない神との関係から来る人間の苦しみという問題はない。さとりによってこの世の因果を超越することができた人間は、「今、ここに生きている」という主体的な感覚を取り戻すことができるとされている。それを得るまでには気の遠くなるような時間を経なければならないかも知れないが、ともかくも、人間はその開放へ向かっている。しかも、一度限りでなく、繰り返される生の中で、個々人はさとりの完成を目指し続けているという。これは魅力的な教えであるし、実際に、学べるところも大いにあるだろう。

 他方、キリスト教は、御子と共に十字架上で己の死を経験することによって、人は罪と死に定められるだけの律法から解放され、「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」(コリントⅡ5:17)という境地、つまりキリストの新しい復活の命によって生かされるに至る。それによって、禅者の言うような開放が得られるのだろうか? 絶対的に自由な自己を取り戻すことができるのだろうか? 因果の世界からの完全な開放が得られるのだろうか? 知性と行いの完全な一致に到達できるのだろうか? 

 確かに、部分的にはそうである。御霊によって生まれ、キリストが内に住んで下さることにより、クリスチャンは罪を赦されて、神との断絶を癒され、神との調和の中に回復され、神によって受け入れられる神の子供となり、御国の前味を味わうことが許されている。イエスは言われた、「しかし、わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなた方のところにきたのである。」(マタイ12:28)。御国は一人ひとりのクリスチャンの内にすでに来ている。御子と共にこの世に対して十字架につけられ、御子のよみがえりの命によって生かされることにより、信仰者は神をいとうのではなく、喜ぶようになり、神を恐れ、避けるのではなく、父なる神としてたたえ、崇めて生きることができるようになり、「生きることはキリスト」(ピリピ1:21)と言えるほど、キリストのよみがえりの命に生きることの意義を大胆に、深く知ることはできる。このことによって、神が本来人間を創造したもうた目的、真に健やかな人間のあり方を知ることは可能である。十字架の死を通して、この世から自由にされ、神との調和の中に入れられ、御子の汚れのない永遠のいのちによって生かされ、神が天に蓄えられた無尽蔵の富を前味として味わうことが許されている。

 しかしながら、生まれながらの人間のうちには、密かに十字架をいとう気持ちがあり、いつでも、神から自由になりたいという気持ちが潜んでいる。神を喜び、神に従いたいと心から叫んでいるつもりでも、もう一方では、神によって支配されたくない、被造物という名で呼ばれたくない、自らこそが何者にも支配されない絶対者となり、造物主となりたいという反逆の願いが、人の心の奥底にある。その思いが、人をキリストのよみがえりの命から引き離し、むしろ、自分の生まれながらの命によって生きさせようとする。「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。主であるわたしは心を探り、思いを試みる。おのおのに、その道にしたがい、その行いの実によって報いをするためである。」(エレミヤ17:9-10)

 キリスト教においては、地上に生きる限り、完全な解放というものはまだない。パウロが「わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている」(ローマ7:18)と言っているように、人の生まれながらの肉、「罪の法則」(ローマ7:23)に支配された肉が、神に絶えず逆らっており、クリスチャンは神が与えられた新しい人と自分の生まれながらの古い人との葛藤の中にある。クリスチャンは「肉体を宿としている間は主から離れていることを、よく知っている」(コリントⅡ5:6)。そこで、クリスチャンの真の解放は、来たるべき主の再臨の時に、「滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望み」(ローマ8:21)にある。キリストがやがて来られる時、罪と死の法則に支配される肉と、サタンの支配するこの世から完全に解放され、主と共に栄光にあずかる者とされる。それまで、肉とこの世に対しては十字架の死の立場にとどまりながら、救いを失わないよう、しっかり目を覚まし、神の御心に従って永遠に至る実を結ぶように生きていくのである。

 再臨の時が来るまでは、人と神との間にある隔たりが完全になくなることはない。また、堕落したこの世が終わりを迎え、サタンが滅ぼされ、新天新地が来るまでには、まだ時を待たなければならない。そこで、クリスチャンは神に受け入れられ、神との疎外関係が解消した後でも、この地上にある限り、一生を通じて、父が子を訓練するように、神によって子として訓練される。ここに、キリスト者がこの地上において逃れられない苦しみがある。それは罪ゆえの神との疎外という苦しみではないかもしれないが、依然として、神に近づき、キリストの似姿へと変えられるために試練は避けては通れないものである。

 また、信仰生活が進めば進むほど、クリスチャンはますます神が全面的に自分を占有されようとしていることを知るはずである。「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。」(マタイ10:37-39)。このような信仰を貫き通すのには困難が伴う。キリストを信じることが自分にとって益になるうちは、人々は喜んで従うものの、キリストの御名のために迫害や試練が起こって十字架を負うことを求められる時、つまずきが起こる。自分の自由と栄光を確保しておきたいと願って、キリスト教を捨ててしまうことがありうる。

 結局、この地上に生きる限り、苦難を忍ばねばならず、真の栄光と自由にはまだ到達できないのがクリスチャンである。天で約束されている豊かな朽ちない宝を得るまでには、まだ時が必要である。そのせいで、待ちきれなくなって自ら終末を作り出そうと願い、正常な教義から逸脱していく人々も出現している。

 これはなかなか人に優しい教えであるとは言えないだろう。むしろ、生まれながらの人にとっては最も厳しい宣告であるとも言える。生まれながらの人が罪によって堕落しているため、悔い改めが必要だと教えるだけでなく、聖書の御言葉を、内なる聖霊を通して、ただ信じるということ以外には、クリスチャンには何の保証も与えられていないのだから。誰がこれを自力で達成できる人がいるだろう? そこで、この教えに不満を持って、人に優しいキリスト教を作り出そうとして、新たにパン種をつけ加え、水で薄めようとする人たちも後を絶たないが、そのようなことをすると、それはもう聖書から逸れて、異端になってしまうのである。

 ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の中には、イヴァン・カラマーゾフが空想の中で作り出した大審問官が、イエスに向かって反論する有名な場面がある。キリストは人間に高望みしすぎたのだ、イエスの教えだけでは大多数の無分別な人間は到底、救いには達し得ない、だから、イエスの教えとは別のヒューマニスティックなシステムを考案して、自分こそが彼らを救ってやるのだ、これは正しいことなのだと、大審問官が言っているのも、あながち理解できないことではない。

 確かにキリスト教は「狭き門」であり、「命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない」(マタイ7:14)と、初めから言われているのである。イヴァン・カラマーゾフの大審問官と同様に、人に優しい宗教を開いてやろうと、もっと大きく、広い門を作って、多数の信徒を呼び込み、教会の成長をもくろんだがために、聖書の真理から逸脱していく例は、今日も後を絶たない。

 さて、あまりにも長い脱線であったので、本題が何であったかすでに忘れられてしまったに違いないと思うが、とにかく話を元に戻そう。キリスト教には父性原理が、すなわち、切断とふるい分けと裁きだけがあって、全てを包含する寛容性が足りない、キリスト教には母性原理が足りなさ過ぎる、こんな非人間的宗教であっては社会に悪影響を与え、人を精神的な病に追い込むから、キリスト教も母性の不足を補うよう努力しなければならないという批判があるということを、私たちはすでに確認した。

 しかし、ここではっきりとこの批判に答えておこう。このような批判があるからといって、クリスチャンはそれに耳を貸してはいけない。聖書の教えに何か重大な欠けがあって、キリスト教徒は早急にそれに何かを付け加える必要があるようなことが言われる時に、それを信じてはならない。その批判に応じようとして、「母性を付け加えよう」としてはいけない。聖書は完全な御言葉なのであって、それが人に優しく感じられるか、厳しく感じられるか、という人間側の都合を基準にして、切ったり貼ったり、足したり引いたりしてはいけないのである。

 ちなみに、前述の鈴木大拙氏は、キリスト教に母性原理が欠けているという「欠陥」を補うために、プロテスタントにも聖母マリア的な要素が必要なのだと提案している。

「マリアはキリスト教やユダヤ教本来のものでなくて、東洋からの輸入だと自分は考えている。マリアのない新教が後退しがちであるというのは、今日、世界一般に見られる形勢でないかしらん。<略> いずれにしても、『宗教』には、マリアと観音がなくてはならぬ。それがないと『宗教』は親しまれぬ」(『東洋的な見方』、p.62-63)

 私たちは「人に親しまれる宗教」を開こうとしているのではないから、こんな主張に耳を貸す必要はそもそもないのだが、手束氏はおそらくこうした批判を考慮に入れてのことだろう、『教会成長の勘所』の中で、プロテスタントが父性的宗教になりすぎたことを反省してこう書いている。

「ところで、<略>その後のキリスト教の歴史においては、どちらかと言うと、母性的要素がことさら抑えられてきたように思える。特に我らプロテスタント教会はその感が強い。
カトリック教会の場合は『マリヤ崇拝』を導入することによって、何とか父性の偏重にバランスをとろうとした努力がうかがえるのであるが、プロテスタント教会は“聖書のみ”の立場から、聖書からは導き出し得ない『マリヤ崇拝』を廃棄せざるを得なかったのである。その結果、プロテスタントは、<略>極めて父性的で、厳粛な宗教に陥ってしまったのである

しかしそこには人間性の安定や健全さを求めることは難しく、従って、プロテスタント国においては精神的な病を患う人々がより多く排出されることになったのである。父性というのは、上と下、善と悪を峻別して、秩序立てていこうとするので、どうしても心理的葛藤が起こりやすいからである」(p.76-77)

 手束氏はこうしてプロテスタントにおける「父性偏重」を批判し、母性的なものを補うことの必要性を主張する。だが、一体何によって、彼はプロテスタントに母性的なものを補うのだろうか? 氏の主張は驚くべきものである。彼はこれから新しい何かの要素を導入しようというのではなく、何と、聖書には初めから、父性的な神という側面だけでなく、母性的な神の側面もあったのだと言うのである。
 

<つづく>
 

PR