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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。主はその僕の魂を贖ってくださる。主を避けどころとする人は罪に定められることがない。

「どのようなときも、わたしは主をたたえ
 わたしの口は絶えることなく賛美を謳う。
 わたしの魂は主を賛美する。
 
 貧しい人よ、それを聞いて喜び祝え。
 わたしと共に主をたたえよ。
 ひとつになって御名をあがめよう。

 わたしは主に求め
 主は答えてくださった。
 脅かすものから常に救い出してくださった。
 主を仰ぎ見る人は光と輝き
 辱めに顔を伏せることはない。
 
 この貧しい人が呼び求める声を主は聞き
 苦難から常に救ってくださった。
 主の使いはその周りに陣を敷き
 主を畏れる人を守り助けてくださった。

 味わい、見よ、主の恵み深さを。
 いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。
 主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。
 主を畏れる人には何も欠けることがない。

 若獅子は獲物がなく飢えても
 主に求める人には良いものの欠けることがない。
 
 子らよ、わたしに聞き従え。
 主を畏れることを教えよう。

 喜びをもって生き
 長生きして幸いを見ようと望む者は
 舌を悪から
 唇を偽りの言葉から遠ざけ
 悪を避け、善を行い
 平和を尋ね求め、追い求めよ。

 主は、従う人に目を注ぎ
 助けを求める叫びに耳を傾けてくださる。
 主は悪を行う者に御顔を向け
 その名の記念を地上から経たれる。

 主は助けを求める人の叫びを聞き
 苦難から常に彼らを助け出される。
 
 主は打ち砕かれた心に近くいまし
 悔いる霊を救ってくださる。

 主に従う人には災いが重なるが
 主はそのすべてから救い出し
 骨の一本も損なわれることのないように
 彼を待追っ手くださる。

 主に逆らう者は災いに遭えば命を失い
 主に従う人を憎む者は罪に定められる。
 
 主はその僕の魂を贖ってくださる。
 主を避けどころとする人は
 罪に定められることがない。」(詩編第34編)

前回も同じ個所を引用したが、共同訳の方がどことなくしっくり感じられる箇所である。

命を永らえることを望む者は、何をなすべきであろうか。まずは偽りから遠ざかり、悪を離れ、善を行い、平和を追求すべきである。

嘘偽りが洪水のように溢れるこの時代、偽りを避けるというだけでも、人の目には狭き門であろう。人々は自分の見栄えが少しでも良くなるよう世間に気を使い、SNSで自分を粉飾し、企業も嘘の広告を出し、偽の期待を人々に持たせ、役所は文書を改ざんし、誰もが息を吐くように嘘をついている。

そんなこの時代に、世間に迎合することなく、偽りのない生き方を見つけることは、非常に困難なように思われる。自分を粉飾して、過大な実力があるように見せかけ、人々の関心を引くことができるなら、その方が楽に生きられるように感じられるだろう。

しかし、その道を行けば、命を失うと御言葉は言う。

どんなに狭き門に見えても、確実に勝利へと続く道を行くのが一番、近道なのだ。そのためには、偽りや、悪から遠ざかることは、決して外してはならない条件である。

さて、少し本題から逸れるようだが、インターネット上では、数年前から、「聖書信仰」やら「福音主義」への攻撃が盛んに行われている。これはカルト被害者救済活動のことだけを指すわけではない。

むしろ、カルト被害者救済活動は、以上の大きな流れの一端として現れて来たものである。そして、この流れが真に正体を現すのもこれからである。

「カルトを告発する」と言いながら、カルトとそうでないものをごちゃ混ぜにし、無実のクリスチャン、しかも、聖書に忠実に歩もうとするクリスチャンを攻撃するというのは、暗闇の勢力が用いるいつものやり方である。

聖書を敵視する運動は、今のところはまだ「聖書信仰」やら「福音主義」だけを攻撃する形を取っているように見えるが、やがて彼らの主張は、必ずや「聖書そのもの」を否定し、排除する流れへと変わって行くだろうと筆者は予想している。

共産党政権下の中国のように、国民の誰かが聖書を所持し、開いているだけでも、犯罪者扱いされるような国を作りたい、聖書を所持し、真面目にその内容を知ろうとしている人間は、みなカルト信者ということにして葬り去ってしまいたい、そういう悪しき思惑が渦巻いていることが感じられる。

そうした思惑は、時を追うごとに、国家神道やら共産主義やら日ユ同祖論やら先祖崇拝やらを一緒くたに混ぜ込んだ新たな異端思想(これこそまさに新手の新興宗教!)の形となって勃興しようとしている。

これもやがては、愛国主義、軍国主義、天皇崇拝などの一連の流れの一環として、戦前回帰という本流へ合流して行くだろう。

たとえば、ネット上には、プーチン政権下ロシアを極端なまでに美化したり、さらにマルクス主義を礼賛したり、日ユ同祖論を唱えたり、国家神道に近い考えを提唱するなど、様々な思想の持主を寄せ集めたような勢力がある。

その勢力は、大きく見れば、陰謀論と呼ばれる流れの中に位置するが、一見、安倍政権に反旗を翻すアウトサイダーのような立場から政権批判を繰り返しつつ、同時にEden Mediaが告発しているような悪魔的思想(グノーシス主義)を告発し、悪魔崇拝を告発すると言いながら、実際には「聖書信仰」を目の敵として、キリスト教を仮想的とする非難を開始している。

グノーシス主義を批判しながら、自らがグノーシス主義に陥っているという点で、この勢力は、まさにカルト被害者救済活動と同じ道を辿っていると言える。

しかし、マルクス主義であれ、国家神道であれ、日ユ同祖論であれ、もともとこうした思想の持主らが掲げている思想が、いずれも明らかに人類の生まれながらのルーツを神聖視するというグノーシス主義の系譜に属する思想ばかりであることを見れば、こうした勢力のものの考え方が、結局、グノーシス主義を批判しているように見えても、グノーシス主義から一歩も外に出られず、かえって正しい思想を攻撃するだけに終わるのは、初めから当然予想できる結果である。

当ブログでは、以前から、「プーチン率いるロシアが日本や世界を救ってくれる」などという考えが、どれほど愚かなものであり、国家としての主権の放棄に等しいか、また、極端なまでのロシア美化・賛美が、どのような背景で生まれて来るのかということを書いて来た。

天皇を賛美し、日本の文化やルーツを礼賛すると言っている連中が、それとは全く相矛盾することに、「プーチン政権下ロシアが日本を救う」などと言っているのだから、呆れることしきりである。最近は、日ロの経済協力も領土問題も全く膠着状態に陥ったので、かつてほどそうした声は聞かれなくなったが、そんなことからも、要するにその声は、表向きには安倍政権を非難しながら、背後では政権とぴったり歩調を合わせていることが分かる。

また、そうした異常なほどのロシア美化の背景には、マルクス主義が存在していることが多い。

マルクス主義の影響を甚大に受けている人ほど、ロシアを非現実的なまでに美化することが多い。今日、ロシアという国を極端なまでに美化してこれをまるで救世主か何かのように信奉している人々の歩みを追って行けば、若い頃に学生運動に参加していた、などのマルクス主義との接点が出て来ることが稀ではない。

すると結局、彼らは若い頃から今に至るまでずっと変わらず、思想的にはマルクス主義者のままだったことが分かるのである。だが、彼らは現実のロシアのことはほとんど知らない。ゆえに、自分の心の中で思い描いたユートピアをロシアに重ねているだけで、ソ連時代の暗黒の歴史がどんなものであったかも、彼らは真正面からは決して見ようとはしない。

マルクス主義は、宗教の形を取っていないが、とどのつまり、人間がキリストの十字架を介することなく地上にユートピアを建設できる(=救いに達することができる)と見なす点では、アダムを神としているグノーシス主義に分類されて差し支えない思想である。

そこで、マルクス主義と、国家神道、日ユ同祖論、先祖崇拝、天皇崇拝などといった思想は、一見、何の共通点も類似点もないように見えても、みな根底では、アダム(生まれながらの人間)を神とし、人類の生まれながらのルーツを神聖視するという、人間崇拝へとつながる点で、ベースが全く同じなのである。

だから、これらの思想がごった煮のように集まって来て「結婚(重婚)」に至ったとしても、不思議ではない。繰り返すが、これらの思想はもともと根本が同一であり、異なるのは表層部分だけだからである。

ロシアには歴史上、「ロシアが世界を救う」と言ったメシアニズムの思想が存在しており、なぜこうした思想が登場して来たのか、その分析はここでは行わないが、ロシア正教の中にもそうした思想が存在したことがあり、マルクス主義はそうしたロシアの文化的・思想的な土壌を背景に、その歴史的延長として、ロシアに移植されたと見てもおかしくないことは以前にも述べた。

さらに、『国体の本義』などを読んでも分かることは、かつての日本が唱えていた「八紘一宇」だとか、「大東亜共栄圏」などのスローガンも、みなメシアニズムの思想から出ているということである。戦前・戦中の国家神道は、天皇を救世主になぞらえ、皇国日本が世界を救うというメシアニズムの思想である。

そこで、これらの各種のメシアニズムの思想が、類は友を呼ぶ式に集まって来て結合し、それらの思想をことごとく闇鍋のように内包している勢力が、今や「聖書信仰」を新興宗教力ルト扱いして攻撃し、否定しにかかっているのも、何ら不思議なことではない。

もともとそういう似非救済思想が、聖書と相性が良いはずもない。彼らも聖書を利用したり、キリストの名を語ることがないわけではないにせよ、その目的は必ず、彼らが「自分たちは、先祖代々から伝わる神聖なルーツを受け継いでいる」と主張するためであり、日ユ同祖論者などは、自分のルーツを美化(神聖視)する道具として、イエス・キリストの名を利用しているに過ぎない。要するに、自分たちはメシアの末裔だから、世界を救う活動に参加する資格があると言いたいのである。

こういう思想を持つ人々が、歴史的に、はた迷惑な世界救済事業に乗り出して来たのであり、それらの思想にとって、聖書などはもとより自分を美化するための添え物に過ぎない。

キリストの名を都合よく騙って自分のルーツを美化・神聖視したいだけの人々にとって、本気で聖書などを読み、真剣にその教えを実践・探求する信者は駆逐したい邪魔者と映るのは当然に予想できる。

だが、もしも「聖書信仰」を攻撃するなら、プロテスタントのほぼすべての教会は「聖書信仰」に立っているため、これらのすべての教会が「カルト」ということにされて終わってしまう。そういう暴論は、ネット上でしか成立し得ないものである。

今日、「カルト」という呼び名は、あからさまな蔑称とみなされ、使用を避けられつつあるため、以上のような人々はやたらと「新興宗教」という言葉を使いたがる。新興宗教という呼び名には、何ら罵倒や侮蔑の意味は含まれていないのだが、こうした言葉をやたら振り回す人々は、「新興宗教と言えば、要するに、キリスト教系のカルトのことだ」という暗黙の了解を前提としているようである。

「新興宗教」などという曖昧模糊とした呼び名は、あらゆる宗教を十把ひとからげに疑わしいものとして攻撃するには、もってこいなのである。

だが、こうしてネット上で、気に入らない思想にのべつまくなしに「新興宗教」のレッテルを貼り、かつ「聖書信仰」を目の敵にして非難している人々のほとんどが、実のところ、統一教会とキリスト教界の区別もつかない人々である。統一教会とはキリスト教なのだと思っている人々が大半という有様で、もちろん、エホバの証人や、ローカルチャーチが使っている聖書と、プロテスタントの教会で使われている聖書の区別もつくはずがない。

彼らはそもそも聖書などほとんど読んだこともなく、キリスト教の基本的な言い回しも知らない人々であるから、彼らの糾弾している「聖書」が、一体、どの「聖書」を指しているのかも定かではない。

彼らはただ、「聖書を真面目に信じるのは狂信者だけのすることである」という先入観・固定概念を作り上げ、人々を聖書から遠ざけたいがために、攻撃的な言葉を振り回しているだけなのである。

しかし、彼らが聖書をあらゆる攻撃対象の中でも、とりわけ攻略せねばならない本丸とみなしていることだけは確かである。「新興宗教批判」は、手始めに創価学会、統一教会などから始まるが、ほとんど間をおかずに、キリスト教への攻撃に転じる。本当の目的は、キリスト教の中でも、「聖書信仰」を攻撃することにある。

こうした動きは、カルト被害者救済活動が辿って来たのと同じように、最初は「危険な新興宗教について警告を発する」という口実を用いながら、様々な宗教への攻撃を正当化して行き、そのうちに、自分たちに属さないすべての思想を攻撃するようになり、独麦と一緒に本物まで一緒に抜くために、もっぱらキリスト教徒に敵意を向けるようになる。

彼らの「本命」は、最初から、創価学会でも統一教会でもなく、キリスト教にあると言って差し支えない。だから、キリスト教徒はこれらの人々の出現に警戒せねばならない。

彼らが聖書を敵視するのは、聖書が彼らの思想の誤りを明白に証明するためである。特に、日ユ同祖論者などは、聖書の御言葉が本物であっては困る人々である。

それはなぜか?

聖書こそ、彼らの血統が偽物であることを証明しているからである。

誰かがチャンピオン犬の直子を買えば、きっと血統書がついて来るだろうが、聖書は、一体、誰がキリストの子孫でありうるのかをはっきりと証明している。

日ユ同祖論者にとって重要なのは、「日本人はユダヤ人の末裔だ!だから、俺もメシアの末裔なのだ!」と主張することである。天皇崇拝者にとっても、天皇の血統を神聖視し、日本国のルーツを高めるためならば、何でもありで、日本人がユダヤ人の末裔だという実に荒唐無稽な説も、天皇崇拝を肯定し、日本人を美化するエッセンスになりうるなら、ウェルカムというところだろう。

だが、聖書は言う、
「愚かな議論、系図の詮索、争い、律法についての論議を避けなさい。それは無益で、むなしいものだからです。」(テトス3:9)

新約聖書を開けば、まずマタイによる福音書における
「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」が目に飛び込んでくる。しかし、このようにして最初の福音書の冒頭に、キリストの系図が登場することの最も重要な意義は、「この素晴らしい選ばれたメシアの血統」を誉めたたえることにはない。

むしろ、メシアの系図という最も選りすぐりの系図も含め、人類の生まれながらの系図の意義は、ことごとくイエス・キリストと共に価値がなくなり、終わった、ということが示されている。

人類の生まれながらの系図は、ただキリストと共に無価値とされただけでなく、キリストと共に「呪われたものとして木にかけられて罰せられた」のである。

そこで、今日、キリストの子孫とは、こうした系図によって、キリストに連なると主張している人々を指すのではない。信仰によって水と霊によって生まれ、キリストに連なる兄弟姉妹となり、神の家族となった人々のことを指すのであって、「日本人のルーツはユダヤ人だ!」などと主張して、自らの血統を誇る人々は、キリストに属する人々には含まれない。生まれながらの血統は、キリストとは何の関係もなく、木にかけられて、罰せられる根拠にしかならなかったのである。

だが、悪貨が良貨を駆逐するように、偽物は本物を駆逐しようと活動しており、そこで、信仰もないのにただ日ユ同祖論のような荒唐無稽な思想を根拠に、「自分はキリストの子孫だ!」と誇り、そのために聖書を飾りとして利用したい人々の目には、聖書など真面目に読んで信じている人々は邪魔な存在としか映らないのである。

一言で言えば、日ユ同祖論であれ、国家神道であれ、天皇崇拝、先祖崇拝であれ、マルクス主義であれ、あらゆるグノーシス主義の流れを汲む思想は、みな今日では「日本スゲー系」などと呼ばれている自画自賛の潮流と何ら変わらないものであって、

セルフの美化 セルフの神化

を究極目的としている。キリストの十字架によらず、自己の死を経ることなく、生まれながらの自己がそのまま神となるという究極目的を彼らは追い求めているのである。

最終的には、天皇を頂点とする軍国主義日本の再来、戦前回帰の流れの中に合流し、一致団結して向かって行くことであろう。このようなものは、キリストの名とは本来的に全く関係がない。

もちろん、「天皇を頂点とする」と言っても、彼らにとっては、天皇も、キリストと同じように、自己のルーツを美化するための道具でしかないため、しょせんは飾り物である。

彼らにとっては、何であれ、すべてが自己を高めるためのツールなのである。そこで、そのような勢力がこの国を占拠するようなことがあれば、この国は「俺様スゲー!」と自己を賛美する人々で溢れかえることになるだろう(考えたくもないが)。

今日、安倍政権に反対しているように見えるほとんどの潮流は、このように、実質的には安倍政権と同一であり、間もなくその本質を表すであろうことに注意が必要である。

たとえば、そこには、護憲を唱えながらも、実質的に、天皇崇拝に陥っている政党も含まれる。

さらに、キリスト教徒を名乗りながらも、天皇に宗教的意義を見いだし、天皇制を強調している者も含まれる。

さらに、キリスト教を装いながら、ニッポンキリスト教を盛んに攻撃している「俺様スゲー系似非キリスト教」もそこに含まれる。

これらはすべて、表向きには日ユ同祖論やマルクス主義とは手を結んでおらずとも、最終的には、一つの勢力として結集して行くであろう思想たちである。

これらは「俺様スゲー!」という自己愛(セルフへの執着)を基軸として、国民が再び一致団結して立ち上がるという究極目的へと続いて行く道である。一体、何に対して集団的に団結して立ち上がるのか? 死の恐怖に対し、侵略の恐怖に対し、自己を喪失する恐怖に対してである。

要するに、自分の内側にある恐怖をごまかすために、「日本はスゴイ!天皇はスゴイ!だから俺達もスゴイ!」などと吹聴して集団的な自画自賛に明け暮れ、自分の罪を見なくて良いように、絶えず自分の外に仮想敵を作り出しては、それに自分の罪を転嫁して集団的に攻撃を繰り返し、さらに、その攻撃を「世界の救済のため」などと言い換えながら、破滅へ向かって進んで行くのである。

こうした思想に欠かせない特徴は、「絶え間のない自画自賛」と「己の欠点から目を背け、自分が他者より優れていることを誇示するために、絶え間なく仮想的を必要とすること」だと言えよう。

たとえば、「ニッポンキリスト教」などという呼び名を使い、キリスト教への絶え間のない攻撃を行っている勢力も、これに含まれる。我々は、そのような勢力が、本質的にキリスト教とは無縁の勢力であることを心しておく必要がある。(現に彼らはキリスト教を否定し、自分たちは宗教とは一切関係がないと公言している。)

本当はキリスト教を攻撃し、駆逐することを目的としている勢力が、表面的には、自分たちがあたかもキリスト教徒の一部であるかのように装いながら、聖書を用いて、偽物の福音を語るということは昔から行われて来た。

エホバの証人やモルモン教徒がキリスト教を名乗っているのと原則は同じである。

もちろん、筆者は日本のキリスト教の宗教組織としての教会のあり方が正しいと言うわけではない。筆者のような人間は、牧師制度も必要ないものとみなしている。だが、そうした地上的な組織の有様に関する議論と、聖書の根底に流れる思想そのものを否定・攻撃することはわけが違う。

聖書66巻を神の霊感を受けて書かれた書物だと認めている人々の間には、いかに教団教派が違えど、宗教組織を超えた連帯が存在する。

しかし、ニッポンキリスト教を絶え間なく批判している勢力は、自分たちがキリスト教よりも優れた勢力であることを誇示したいだけである。彼らは聖書を利用はするが、決してその教えに従わない。十字架を語っても、自己の死を認めない。信仰のゆえの苦難を厭い、自己を高く掲げて栄光化し、目の欲、肉の欲、持ち物の誇りに邁進し、己を低くして日々の十字架を負うこともない。このようなものがキリスト教と一切、関わりのない自画自賛の思想であることは明白である。ニューエイジの思想も取り込み、アセンションを経て、すでに自己を神とする領域へ達している。

どんなに自己を栄光化し、高く掲げても、彼らがのべつまくなしにあらゆる牧師をひっきりなしに批判し続けねばならないことが、彼らの内心の空虚さを何より物語っている。他者を否定したところで、寸分たりとも自分が進歩し、神聖な存在に近付けるわけではないのに、そのようにして絶えず、自分の処刑場に誰かを引っ張り出して来ては、自分には関係もなく、自分に害を加えたこともない赤の他人をひっきりなしに貶め、辱め、非難し、嘲笑し、否定せずにいられないことが、彼らの内心にある絶えざる恐怖、払拭できない空虚さを何よりもよく証明している。

そのようにして彼らが勝ち誇り、凌駕したい相手とは、最終的には、まさにキリストご自身なのである。キリスト教界に対して勝ち誇ることは、神に対してマウンティングをしていることとほとんど同じである。今日のキリスト教界はあまりにも弱体化しすぎており、牧師という人々が神聖を表すのではないとはいえ、そこにはやはり教会の名残がある。神の教会を貶める行為は、神ご自身を敵に回すのとほとんど同じである。

創価学会や統一教会がカルトと非難されて仕方がないものであるにせよ、あらゆる宗教には、神への畏敬の念が投影されていることは確かであるから、すべての宗教をのべつまくなしにカルト扱いしたり、十把一からげに「新興宗教攻撃」に走る人々は、要するに、あらゆる宗教を攻撃することによって、神ご自身を否定し去ろうとしているのだと言える。

そして、神を否定する代わりに、自分を神として高く掲げるのである。

ニッポンキリスト教を攻撃している勢力の所業は、まさにキリストの名を存分に利用しながら、キリストご自身を否定して、自己をそれに置き換え、自己を神とすることである。

そうして神と自己を置き換えることが、異端思想の特徴である。だから、このように、絶え間なくキリスト教を悪罵しては、「自分だけは本物だ!」と豪語している勢力こそ、まさに偽物のキリスト教なのである。(繰り返すが、彼らは自分たちをキリスト教徒だとみなしていない。すべての宗教とは無縁であり、キリスト教とも別格の存在だと主張している。だが、それならば、いっそ誤解のないように、聖書を使うこともやめれば良かろう。)

筆者はあくまで聖書の御言葉に固く立って歩みを進めるつもりである。それを時代遅れや偏ったものの見方のように吹聴する人々がどれほど現れようとも、事実は逆である。人の目を恐れるのか、それとも神の目を畏れるのか。私たちは常に選択を迫られている。世相になびいて神の御言葉を捨てる者は愚かである。

「「人は皆、草のようで、
その華やかさはすべて、草の花のようだ。

草は枯れ、
花は散る。
しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」

これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。」(Ⅰペトロ1:24-25)

さて、この話題はここまでにしておこう。脱線が長くなってしまったので、手短に本題に入りたい。

「かめの粉は尽きず、瓶の油は絶えない。」これは筆者がよく思い出す、好きな箇所の一つである。預言者エリヤがケリテ川のほとりで、主のはからいにより、カラスを通してパンと肉を運んでもらって過ごしたというあの有名な箇所の後で、彼は今度は貧しいやもめ女のもとへ身を寄せる。

やもめにはエリヤを養う余裕など全くない。むしろ、彼女は最後の食糧や水を使い切って死のうとしているところであった。そこへ預言者がやって来て、その最後の食べ物を要求する。やもめはこれを断らず、エリヤの命に従った。それによって、預言者も彼女も双方生き永らえるのである。

「しかし国に雨がなかったので、しばらくしてその川はかれた。
「その時、主の言葉が彼に臨んで言った、「立ってシドンに属するザレパテへ行って、そこに住みなさい。わたしはそのところのやもめ女に命じてあなたを養わせよう」。

そこで彼は立ってザレパテへ行ったが、町の門に着いたとき、ひとりのやもめ女が、その所でたきぎを拾っていた。彼はその女に声をかけて言った、「器に水を少し持ってきて、わたしに飲ませてください」。

彼女が行って、それを持ってこようとした時、彼は彼女を呼んで言った、「手に一口のパンを持ってきてください」。 彼女は言った、「あなたの神、主は生きておられます。わたしにはパンはありません。ただ、かめに一握りの粉と、びんに少しの油があるだけです。今わたしはたきぎ二、三本を拾い、うちへ帰って、わたしと子供のためにそれを調理し、それを食べて死のうとしているのです」。

エリヤは彼女に言った、「恐れるにはおよばない。行って、あなたが言ったとおりにしなさい。しかしまず、それでわたしのために小さいパンを、一つ作って持ってきなさい。その後、あなたと、あなたの子供のために作りなさい。 『主が雨を地のおもてに降らす日まで、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えない』とイスラエルの神、主が言われるからです」。

彼女は行って、エリヤが言ったとおりにした。彼女と彼および彼女の家族は久しく食べた。主がエリヤによって言われた言葉のように、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えなかった。 」(列王記上17:7-16)

筆者はあらゆるところでこの話を思い出す。今日、目に見える形で預言者エリヤが私たちのもとを訪れることはない。私たちと共におられるのは、目に見えないキリストである。

そして、キリストは、私たちに地上のものを預けておられる。それを使って神を証しなさいと言われる。しかし、時折、主は私たちが持っているごくわずかばかりのものを指して、「それを私のために使いなさい」と言われることがある。

その命令は、声なき声のようであるから、無視することも簡単にできるだろう。だが、私たちはあらゆる限界、欠乏、死の恐怖を打ち破って、自らの限界ある命を神に差し出し、神に使用してもらおうとする。その時、私の限界、欠乏、死の恐怖が去り、洪水のようにとは言わずとも、日照りで焼け付く地にオアシスが生まれるように、私たちに信仰によって与えられた永遠の命を通して生ける水の川が流れ、荒野に食卓が整えられる。

エリヤとやもめが共有したパンと水とは、まさにキリストの体を象徴していることだろう。

やもめの家に絶えなかった粉、油は、地上でキリストの体を養い、キリストの証しを維持するために与えられたのである。

まことにダビデが歌った通り、敵前でも、主は僕のために食卓をもうけて下さり、杯に注ぎ入れ、頭に油を注いで下さる。それは、人の目には瞠目するような豪勢な食卓には見えないかも知れないが、それにあずかる者には、確かに主が共におられることが分かる、他のどんなものにもかえがたい食卓である。

現代は御言葉の飢饉の時代であり、命の水の川は国中で絶え果てたように見える。嘘偽りがはびこり、どこにも真実など見いだせず、誠実な人々は、このやもめ女のように、恐ろしい危機的時代の様相に倦み疲れ、生きる道など見いだせまいと考えているかも知れない。

だが、その中で、主に従って生きる望みを捨てさえしなければ、私たちは常に一抹のごくわずかな真実を土台に生きて行くことができる。国中が暗黒に包まれたような恐るべき時代に、人の目から見れば、存在しているかどうかも分からないほど貧しく取るに足りないエリヤとやもめの限界の中に、主は確かに共におられ、生きて力強く働かれたのである。

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