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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

閑話休題

 教会成長論については、また話を続けるとして、ちょっと一休み。
 
 さて、きょうだいが無事に帰って来て、今までと別の生活が始まった。ようやく再会した日は、おかしな冷え込みのために、冬のように寒い夜となった。
 ファミレスからの帰りがけ、白んでくる夜空を見上げながら、二人とも凍えながら、バイクに乗って帰った。半月が浮かび、星空がきれいだった。

 我が家では、長い間、先祖崇拝が続けられてきた。祖母は毎晩、9時になると仏壇の前に座り、自分の祖先に向かって長々と祈りを捧げる。

 幼い頃、子供たちも祈祷に加わることを求められた。「私はクリスチャンだから、できない!」と断ると、父からうんと叱られた記憶がある。「ご先祖様を大切にしないなんて、なんて薄情な、キリスト教とはそんな非常識な宗教なのか」と思われたらしい。だが、幼心にも、昔から何かこの仏壇への毎日の「祈り」には不気味なものを感じて来た。それは最近、より一層強まっている。
 祖母は今腰痛がまだ完治していないため、祈れない状態にあって、私はむしろそのことでほっとしているような有様だ。

 祖父はこの家に婿養子に入った。そこで、この家の最高のリーダーは祖母ということになるだろう。
 だが、私はこの風景を見ていると、やっぱり、一家の長は男性でなければならない、女性であってはいけないのだという気がしてならない。

 祖父は養子に入った時から、ひたすら祖母を立てて、祖母の決定に従い、何事にも逆らわず、自分を抑えに抑えて生きてきた。家の主人を敬うというのは、昔からのしきたりであったので、そうするしかなかったのだが、しかし、イニシアティヴを失った男性を父として生まれてきた私の父親は、父とはいかにあるべきかというモデルを、生まれた時から間近に見ることができないまま成長したことになる。

 祖父は物腰はとても謙虚なのだが、内心ではとてもしっかりしたプライドを持ち、人からなめられて黙っているようなタイプではない。何事を学んでも、師範格の領域にまで達してしまうような努力家でもあるのだが、この「家社会」の秩序にだけは、どうしても逆らうことができなかったようだ。
 婿養子ということで、田舎社会では軽く見られることも多かったらしい。立派な仕事をしても、ふさわしい尊敬と感謝を受けられないようなこともあった。反骨精神で見返してやれと、人の何倍も努力してきたが、米寿も近づき、いくつかの分野で師匠と呼ばれるようになった今に至ってさえも、昔、感じた忘れられない屈辱の記憶が、どこかしらに名残として残っている。

 このようなことを言うと、しっかりとキャリアを作って、部下を束ねて働いている女性たちから、大目玉を食らってしまうかも知れない。けれども、私の考えでは、女性はどうしても気分と感情で物事を決定することが多く、強力な権威を帯びたリーダーになるには不向きだと思う。リーダーとしての決断力が求められる時にさえ、自分の気分を軸にして物事を決めてしまうことが多いように感じられるからだ。
 このことは、ほとんどの女性が生まれながらにして持っている大きな欠点だろうと私は思う。広く、公平に物事を見て、自分一人の気分や感情を離れて、決断を下すということが女性にはどうしても難しいように思えてならない。
 それはもしかすると、女性が受けてきた教育の貧しさから来るものかも知れないし、あるいは、女性という生き物が、常に外部の危険から身を守らなければならないという危機感の中で生きなければならないことの証かも知れない。自分を守ろうとする思いが本能的に強すぎるため、そこで、リーダーとして立った時にさえも、部下を守ることよりも、自分を守ることの方がつい優先されてしまうのだ。

 さて、祖母は近頃、元気を取り戻しつつある。とても良いことだが、回復すると、また先祖崇拝に戻って行くのだろうか、と不安を覚えることがある。毎日、一家全員のことを仏壇に祈願しており、中には私自身のことも含まれている。
 しかし、祖母の先祖崇拝とは、お家崇拝のことであり、結局は、自分を家長とする家そのものの絶対化だ。家を絶対化することによって、自分を絶対化している。先祖を拝んでいるように見えて、その実、自分を神聖視している。その先祖崇拝と、氏神信仰の思想が、形を変えて、人はみな生まれながらに神の子であるとする生長の家への信仰にまで至っている。生長の家とは、人が自分を神として拝むことに他ならない。

 祖母は人を拝む教えに、何重にも支配されている。その教えは、自分を高めてくれるものであるから、本人にとってはまことに心地よい。人を厳しく罪定めするキリスト教に比べて、「人間みな神の子」と言ってくれる宗教は、人に優しい、耳障りの良い教えだ。実際に、祈願をして、病が治ったということもあったらしい。

 私は目に見えない霊の世界を知ろうとしてそれほどの興味関心を持ったことがない。だが、先祖崇拝が具体的に、我が家にどんな見えない影響をもたらしたのかを思うと、時々、やりきれない思いがする。
 人に優しい教えにつきしたがっている多くの人は、一見、世間に温かく受けいれられており、常識的であり、繁栄さえ享受している。カルト化教会にも、見たところ、繁栄がある。

 自分を神とする宗教に入っている人たちは、権威を帯びており、周囲からの尊敬をも勝ち得ていることが多いが、他方、真のキリスト者は、世間からの受けが悪く、貧しく、苦難の多い人生を送っており、厳しすぎる教えを主張していると思われて、憎まれることが多い。キリスト教とは、何て、人間嫌いの、傲慢で、みょうちきりんな宗教だろう、キリスト教徒しか救われないなんて、なんてひどい宗教だろう、と面と向かって言われることもこれまで多かった。

 先祖崇拝vs.キリスト教。
 たとえ他の宗教を信じていても、誰もが大切な家族なのだ。主よ、どうか知恵をお貸しください。
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