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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

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教会成長論という強盗の教え(2)

3)教会成長論は教会役員を牧師専用の雑役夫にまで貶める

 聖書は言う、キリストは「ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師、教師として、お立てになった。それは、聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせ、わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである」(エペソ4:11-13)

 教会はキリストの身体であり、キリストを頂点として、全員が一致して愛のうちに仕え合うために全ての役割が存在する。もしも執事という役職が、教会の中にあるならば、それも他の役割と同様に、キリストの一つなる身体に、信徒全員を結び合わせるために存在するものでなくてはならない。
「キリストを基として、全身は全ての節々の助けにより、しっかりと組み合わされ結び合わされ、それぞれの部分は分に応じて働き、からだを成長させ、愛のうちに育てられていくのである」(エペソ4:16)

 だが、『教会成長の勘所』が唱えている教会役員すなわち執事の存在理由は、それとは全く別のところにある。

教会役員の役割

 執事選出の意味と役割の第一の理由は、四節に記されている。
『私達は、もっぱら祈りと御言葉のご用にあたることにしよう』。
霊的指導者が祈りと御言葉のご用に専念できるように、執事が必要だというのである

なぜなら、祈りと御言葉の説き明かしこそが教会の中心的生命であり、このことが十分に果たされる時、教会は教会たりえるからである。逆にこのことが軽んじられるならば、どんなに社会的に大きな働きをしようとも、教会は教会でなくなっていく。霊的生命力が衰えていくからである。
かくて牧師たるものは祈りと御言葉のご用に専心することに心掛けるべきだし、執事はこのことのために心を砕くべき立場に置かれているのである。」(p.19-20 太字は筆者による)

 こんな主張に惑わされてはならない。すでに見てきたように、使徒行伝第6章で使徒が言った、「『わたしたちが神の言をさしおいて、食卓のことに携わるのはおもしろくない。<略>…七人を捜しだしてほしい。その人たちにこの仕事をまかせ、わたしたちは、もっぱら祈と御言のご用に当ることにしよう』」という記述における「わたしたち」の中には、使徒たちだけでなく、信徒全員が含まれている。教会全体が、信仰と直接関係のない揉め事から解放されるために、7人は選出されたのである。
 ところが、手束氏は文脈を一切無視して、この時の7人の「執事」は、ただ「霊的指導者」だけが「祈りと御言葉のご用に専念できるように」とりはからうために選ばれたのだとする。

 さらに、手束氏は驚くべき解釈を続ける。氏によれば、執事、すなわち教会役員の第一の役割は「牧師に経済生活での煩いをさせない」ことであり、第二に、「牧師が雑用に忙殺されないように配慮すること」だとするのである(p.20)
 つまり、牧師を金の心配と、信徒のための各種の煩わしい雑用から解放するために、執事という職が教会に存在するのだと手束氏は言うのである信徒を整えてキリストの身体を建てさせるためではなく、牧師個人の煩いを極力なくすために役員が存在しているというのである

 これほど文脈を無視した聖書の読み方があるだろうか。本来、会衆全体が信仰生活に専念できるように、教会全体の機能を整えるために選出されたはずの7人の役割が、手束氏の解釈によれば、ただ「霊的指導者」だけが雑事に追われないで済むように、彼らの代わりに用事を片付ける雑役夫に変えられ、さらに、霊的指導者が金策に追われなくても済むように、彼らに金を貢ぐための後援者へと変えられてしまっているのである。

「執事の心砕きは、具体的に次の二つの点で考えられるべきであろう。
一つは、牧師に経済生活での煩いをさせないということである。日本では牧師の教会からの謝儀が低くて、多くの牧師たちがアルバイトをしているという現状がある。これでは祈りと御言葉のご用はなおざりにならざるを得ない。
牧師に本来の職務に集中してもらうために、執事は牧師が経済生活に困ることがないように十分に配慮しなくてはならない。日本では牧師が経済的に困窮することを当然視する向きがあるが、とんでもないことである。
それは教会の、特に執事たる者の恥と心得るべきである。

 第二の点は、牧師が雑用に忙殺されないように配慮することである。牧師という仕事には存外雑用が多い。教会の事務上の仕事は無論のこと、信徒たちの生活に係わる様々な世話などに多くの時間が費やされる(結婚、就職、はては住居の世話までも)。しかし、これは良くない。牧師が本来の祈りと御言葉のご用に打ち込めるように、執事たちがこれらの雑用を引き受けるべきである。

私はよく他の教会の牧師からの驚嘆の声を以って問われる。『あなたは、あのように成長し続ける大きな教会を牧会し、国内外の伝道旅行にもよく出かけられて多くの教会の面倒を見、しかもその上、次々と著書を出されるのは常人には考えられない仕業だ。何か秘訣があるのか』と。
秘訣は確かにある。それは雑用を一切しないということである。執事たち(もちろん副牧師や伝道師たちも)がすべての雑用を引き受けてくれている。特に二人の秘書担当執事は、私のプライベートな雑務もこなしてくれるので、私は自分本来の仕事にのみ専念できるのである。」(p.20-21)

 開いた口がふさがらないとはこのことだろう。
 これだけはっきりと宣言しているのだから、本当に、手束牧師は日用の雑事を一切、教会役員に任せているのに違いない。秘書がプライベートの雑務も引き受けているそうだから、牧師の服の洗濯や、牧師館の掃除、料理、庭仕事なども、きっと牧師の仕事ではないのだろう。もちろん、文書の印刷、手紙への返事、メールの送受信、そんな用事に、牧師が手ずから関与しているとはまず想像できない。

 氏は書いている、「日本教会宣教研修所」の研修員だった時分に、「彼女たち(注:秘書)は私のために多くの資料を作ってくれただけでなく、私の文書を私に代わって書いてくれたのである。私に代わって自分の文書を書いてくれたのではない。私に代わって私の文書を書いてくれたのである。秘書とは何とありがたいものだろうかと、私はつくづく思わされたのである」(p.123)。

 つまり、手束牧師の秘書となった教会役員は、牧師が提出しなければならなかったレポートのゴースト・ライターの役割さえも引き受けたということが書かれている。著作権という概念は記憶から消滅しているらしい。こんな種明かしを自慢げにされてしまうと、氏の一連の著作の本当の著者は誰なのかという疑惑が生じない方がおかしいくらいである。

 こうして、手束氏が牧師のためのただの雑用係とみなしている教会役員には、存外、人並み以上の優れた資質が求められている。執事となるために必要な具体的条件は、テモテへの第一の手紙第3章を引用して、色々と挙げられているが、ここでは省略しよう。

 もちろん、氏は「最初から理想的な執事などいない。信仰と期待をもって、忍耐強く養い育てていく他はない」(p.31)としながらも、同時に、ある人が教会役員にふさわしいかどうかは、必ず牧師によってチェックされなければならないと述べている。
「信徒が信徒をチェックするのではなく、教職者がチェックするのである。
その人の礼拝や祈祷会などの集会出席状況について、また献金状況について(滞納していないか、什分の一献金をしているか否か)、また家庭集会や職場において問題がないかどうかなど、チェックするのである。
執事は他の信徒たちの模範としての存在なのであるから、これらのチェックを通して、ある一定の基準以上を満たしていないと、他の信徒たちに対して示しがつかない、ということがあるからである」(p.39-40)

 苦笑せざるを得ない。献金は本来自主的なものであるはずだが、執事が献金を「滞納していないか」どうかが調べられるのだそうだ。まるで借金の取り立てのような表現である。さらに、牧師の雑用係として任命されるために、執事は家庭や職場までが調査対象になるのだそうだ。お気の毒と言う他ない。

 このようにして、他のクリスチャンの模範となるような、優れた資質を持つ人材が教会役員に選出されるわけだが、手束氏は、彼らをキリストの身体全体を建てあげるために用いるのではなく、牧師一人だけのご用をさせるために、私物化してしまう。そして、役員を自分の手足のように使役することによって、自分だけが、あらゆる煩雑な用事から解放されて、残る時間をひたすら伝道旅行や、各教会に招かれて出かけて行くことや、印税のもととなる著書を書くことなどに費やすのである。さらに、それが教会成長の手本であり、教会はその例に習うべきだと豪語してはばからないのである。

 果たして、この教会の執事にはほとんど給与が支払われていないのではないだろうかという推測が生じる。もしも全ての執事に対して、使用人としての働きに見合った正当な給料を払っていれば、教会財産はほとんど残らないであろう。それどころか、氏が言うには、教会役員には牧師を経済的に支える役割が第一義的にあるそうだから、この熱心な役員らの奉仕はほとんど無報酬に近いものとなっているに違いない。いや、きっと、役員自ら牧師に金を払って牧師に仕えさせていただいているというのが実情ではあるまいか。

 まことに恐るべき教えである。この教えは、神と信徒に仕えるためにこそ存在しているはずの教会の重要な役職を、牧師が公然と私物化して、自らの使用人にしてしまうことを許可しているばかりか、それが模範であるとさえ主張するのだ。
 ここで勧められている牧師の生活とは、要するに、雲上人(うんじょうびと)の暮しであり、庶民から遠ざかった貴族生活と呼ぶべきである。事実上、牧師が教会を私物化し、役員を使役することによって、貴族的生活を送ることを教えているのである。こんな主張は、前代未聞である。

 手束氏によれば、「良い執事は教会にリバイバルをもたらす」という。
 それは、「執事が教会の雑務を負うことにより、牧師が霊的修養に徹することができ、霊的実力が蓄えられるから」(p.28)だけでなく、さらに執事が自らを否定して憎まれ役、汚れ役に徹していくとき、それは牧師を守る防波堤をなし、牧師の礼典性、象徴性を保持していくがゆえに、社会的地位のある人々をも救いに導くことができるようになる」(p.29)からだという。

 使徒行伝の記述には、使徒時代の教会は、7人の担当者が選ばれて、配給問題の解決に当たった後、クリスチャンが増えていき、祭司も多数、信仰を受けいれるようになったとある。驚くべきことに、手束氏は、祭司たちのような「上流階級、裕福で社秋的地位のある人々」(p.29)がこの時、キリスト教に帰依した最も大きな理由は、何よりも「7人の執事たち」の功績にあったのだと言う。

「それは、一つには使徒たちの中に働いている聖霊による霊的実力を認めざるを得なかったからであるが、最も奥深い理由は、七人の執事たちが使徒たちを礼典的存在、象徴的人格として防護し、押し上げていったからである」(p.29-30)。

 「聖霊による霊的実力」という何やら不可解で薄気味悪い言葉には、今はこだわるまい。いずれにせよ、使徒行伝第6章には、選ばれた7人が、使徒たちを「礼典的存在、象徴的人格として防護し、押し上げていった」という記述は一切ない。彼らはただ配給に関する問題の解決に当たるために選ばれただけであり、使徒たち専用の雑用係として任命されたのではない!!
 にも関わらず、7人の配給問題担当者が使徒たちを「礼典的、象徴的人格」として防護し、押し上げていったことこそが、初代教会に社会的地位のある祭司や信徒が多数、来るようになったことの最も奥深い理由だと手束氏は言うのである。ユダヤ教の祭司たちがキリスト教に改宗したのは、使徒たちのうちに働く力強い聖霊の力のためというよりも、むしろ「7人の雑用係」の功績の方が大きかったというのである。

 この言語道断な論理をそのまま現代に適用すれば、一人の平凡な牧師と、7人の優れた雑用係が存在するならば、日本中どこかしこにも「リバイバル」が起こることになるだろう。教会成長論は一行で終わる。だが、果たしてそのような簡単な方法が現実的に有効ならば、一体、なぜ日本のクリスチャン人口は何年経っても未だ1%未満のままなのであろうか?

 さらに卒倒するような主張が続く。

「象徴的人格としての牧師がその四次元の恵みと祝福を信徒にむけてふんだんに流し出す管となるためには、信徒の牧師に対する信頼と尊敬とがしっかりと確立されていなくてはならない。
けれども、もし牧師が信徒間のゴタゴタや雑事に手を染めていくならば、信頼と尊敬は減退し、従って象徴性は損なわれていき、結果信徒に流れ出る恵みと祝福は消失していくということになる。かくて牧師が信徒の面倒を見れば見る程、却って天来の恵みと祝福が信徒に注がれなくなってくるという皮肉な結果が生じてくるのである。

かくて、執事の重要な役割は牧師を信徒間のゴタゴタや日常的なもろもろの泥にまみれることから遠ざけ、むしろ自らが憎まれ役や汚れ役となるところにある
自らは敢然として、他の信徒からチヤホヤされようとする行き方(注:誤植?)を拒み、むしろ牧師に代わって憎まれ役、汚れ役に徹することのできる執事こそ、良い執事なのである。
そして
このような執事がどれだけいるかによって、その教会の恵みと祝福の度合いが決定し、さらにはその教会の成長のあり方も決まっていくと言っても、決して過言ではない
だろう。」(p.22-23)

 なんと呆れるような話ではないだろうか。氏によれば、牧師が信徒の面倒を直接、見れば見るほど、牧師への信徒の信頼と尊敬が減退し、信徒には恵みと祝福が注がれなくなっていくのだそうだ。だから、教会役員が牧師に代わって、信徒のための煩わしい面倒を全て引き受け、牧師のために徹底した憎まれ役に徹することによって、牧師を信徒との煩わしい一切の接触から遠ざけねばならないそうだ。さらに、そのような憎まれ役執事が何人いるかによって、教会成長のあり方が決まるというのだ。

 こんなにも倒錯した異常な文章を私は未だかつて一度も読んだことがない。教会成長は、神の力によって成し遂げられるのではなく、キリストの愛の力によって成し遂げられるのでもなく、福音を宣べ伝えようとする信徒の努力によるのでもなく、ただ牧師の雑用と金の工面のために存在する執事の人数次第で決まるのだそうだ。

 極めつけに、次の文章も引用しておこう。

謙遜な執事は決して牧師を公に批判しない。それは牧師が主の器であり、霊的にも信仰的にも神学的にも自分たちよりも優れていることを知っているからである。
仮に牧師に何か問題を感じたとしても、謙遜な執事たちは陰でとりなしの祈りを捧げ、主の働きか示しを期待する。そして主が牧師に忠告せよと示されたならば、個人的に牧師を訪ねて諫言するのである。その後のことは、主の取り扱われる領域である。」(p.56)

 
手束氏によれば、たとえ牧師が罪を犯したとしても、執事は決して牧師のメンツを公に損ねてはいけないのである。そして牧師が執事のいさめを聞き入れなかったとしても、「その後のことは、主の取り扱われる領域」だとして、うやむやにしてしまうのである。

「さらに、礼典的・象徴的存在であるからには、牧師や牧師夫人は住居も身に着けるものも粗末であってはならない

二年前に私たちの教会にはとても立派な牧師館が与えられた
近くのほかの教会の信徒たちが『何て贅沢な』などと悪口を言っていたようであるが、そう言うことによって、自らの信仰的霊的レベルの低さを暴露している。
この牧師館の建設こそ、高砂教会の信徒たちが牧師や牧師夫人を礼典的・象徴的存在として敬っていることの証であり、しるしである。

また私は着るものについても充分に気を付けるようになったというより、信徒たちがヤボッタイ服装をすることを許さない。礼典的・象徴的存在として見ているからである。
かくて経済的にも充分な謝儀が与えられなくてはならないことは、言うまでもない。」(p.87)

 きっと、手束氏の教えに基づいて判断するならば、この記事を書いている私は、「自らの信仰的霊的レベルの低さを暴露している」クリスチャンの筆頭に当たるのに違いない。きっと、私の信仰的霊的レベルは最低と判断されて、私は、もしかするとサタンの使いということにさえなってしまうのかも知れない。
 しかし、たとえサタンの手下と罵られようとも、私に言えるのはただ一つ、こんな教会は不幸だ!!ということだけである。

 まあ、私の個人的感情は置いておくとして、聖書が何と言っているか確かめよう。
 聖書は、牧師が信徒の献金から有り余るほどの謝儀をもらって、贅沢な牧師館に住み、立派な着物を着て、貴族のような暮しを送ることを肯定しただろうか? 教会全体が粗末な服装やヤボッタイ格好から遠ざかり、貴族的雰囲気になることを肯定しただろうか? 牧師が罪を犯した時、信徒はどう対処するよう促しているだろうか?

 聖書は、「よい指導をしている長老、特に宣教と教のために労している長老は、二倍の尊敬を受けるにふさわしい者である」(テモテⅠ5:17)と言うが、これはあくまで「よい指導をしている長老」に限られる。(この当時の長老の地位は現在の牧師にも相当するほど高いものであった。)

 さらに、もし長老が罪を犯し、そのことに対する証人が複数名いる場合は、長老の罪は全会衆の面前でとがめられなければならないと聖書は定めている。
「長老に対する訴訟は、ふたりか三人の証人がない場合には、受理してはならない。罪を犯した者に対しては、ほかの人々も恐れをいだくに至るために、すべての人の前でその罪をとがむべきである。」(テモテⅠ5:19-20)

 パウロは、聖職についている者が信徒の奉仕と献金の上にあぐらをかいて貴族的な生活を送ることを、断じて認めなかった。
「兄弟たちよ、主イエス・キリストの名によってあなたがたに命じる。
怠惰な生活をして、わたしたちから受けた言伝えに従わないすべての兄弟たちから、遠ざかりなさい。
わたしたちに、どうならうべきであるかは、あなたがた自身が知っているはずである。あなたがたの所にいた時には、わたしたちは怠惰な生活をしなかったし、人からパンをもらって食べることもしなかった。それどころか、あなたがたのだれにも負担をかけまいと、日夜、労苦し努力して 働き続けた。それは、わたしたちにその権利がないからではなく、ただわたしたちにあなたがたが見習うように、身をもって模範を示したのである。」(テサロニケⅡ3:6-9)。

「つとめて落ち着いた生活をし、自分の仕事に身をいれ、手ずから働きなさい。そうすれば、外部の人々に対して品位を保ち、まただれの世話にもならずに、生活できるであろう」(テサロニケⅠ4:11-12)

 パウロは貧しい時にも、信徒に負担をかけず、当然、受け取ってよいはずの謝儀さえも自主的に辞退していた(コリントⅡ11:9)。ただキリストの誇りのために彼はそうしたのである。そして、そのように仕える姿を模範とするよう彼は信徒にも命じた。

 パウロが教会から謝儀を受け取らなかったため、コリントの教会はそのことで苦情さえ述べ立てたようである。パウロの経済状況が不明なので、彼には何か人の知らない財源があるのではないか、不法な手段で金を得ているのではないかという疑いさえ生じた。だが、そのことに対して、パウロは悲しみつつ、言葉を返している。

「わたしは今、三度目にあなたがたの所に行く用意をしている。しかし、負担はかけないつもりであるわたしの求めているのは、あなたがたの持ち物ではなくあなたがた自身なのだから。いったい、子供は親のために財をたくわえて置く必要はなく、親が子供のためにたくわえて置くべきである。
そこでわたしは、あなたがたの魂のためには、大いに喜んで費用を使い、また、わたし自身をも使いつくそう。
わたしがあなたがたを愛すれば愛するほど、あなたがたからますます愛されなくなるのであろうか。わたしは、あなたがたに重荷を負わせなかったとしても、悪がしこくて、あなたがたからだまし取ったのだと、人はいう。わたしは、あなたがたにつかわした人たちのうちだれかをとおして、あなたがたからむさぼり取っただろうか。<略>わたしたちは、みな同じ心で歩いたではないか。同じ足並みで歩いたではないか。<略>
愛する者たちよ。これらすべてのことは、あなたがたの徳を高めるためなのである。」(コリントⅡ12:14-19)

 パウロは親が子供のために惜しみなく犠牲を払うように、教会に負担をかけるどころか、かえって喜んで自分が信徒のために費用を負担した。また、信徒に仕えるために、自分自身の労力をも使い果たした。彼は、自分が信徒の面倒を見れば見るほど、信徒からの尊敬を失うとか、信徒に恵みが流れなくなるなどということは微塵も考えなかった。与えられるだけのものを信徒に与え、自らを神と人とに仕えるために捧げつくしたのである。

「わたしの考えはこうである。少ししかまかない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は、豊かに刈り取ることになる。<略>神は喜んで施す人を愛して下さるのである」(コリントⅡ9:6-7)
 
「わたしは、神の言を告げひろめる務を、あなたがたのために神から与えられているが、そのために教会に奉仕する者になっているのである。」(コロサイ1:25)

 パウロは貧しさについてどう述べただろうか? 「牧師たる者、十分な謝儀を得なければならない、そうでなければ、主のためのご用がなおざりになり、教会が教会たり得なくなってしまう」と言っただろうか?

わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。しかし、あなたがたは、よくもわたしと患難を共にしてくれた」(ピリピ4:11-14)

 どんな環境にあっても、ただ全ての恵みの源である神だけに頼ることを学んでいたパウロにとって、貧しさは全く問題にならなかった。だが、か弱い信徒たちを過酷な苦難に付き合わせてしまったことが、彼の気になっていたのである。

 肉なる一切のものを頼りにしなかったパウロはこう言った、「わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている」(ピリピ3:8)。彼は人としての栄誉も、富も、全てを無価値なものとしてかえりみなかった。

 だが、地上の富と栄誉を頼りにする偽クリスチャンについて、彼は涙ながらに信徒に警戒を呼びかけている。
あの犬どもを警戒しなさい。悪い働き人たちを警戒しなさい。肉に割礼の傷をつけている人たちを警戒しなさい。神の霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇とし、肉を頼みとしないわたしたちこそ、割礼の者である」(ピリピ3:2-3)

「わたしがそう言うのは、キリストの十字架に敵対して歩いている者が多いからである。わたしは、彼らのことをしばしばあなたがたに話したが、今また涙を流して語る。彼らの最後は滅びである。彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである。しかし、わたしたちの国籍は天にある」(ピリピ3:18-20)

 肉を頼みとする者は、貪欲を神とし、恥を栄光と思い違え、地上の富ばかりに心惹かれ、一時的には繁栄しているように見えても、その実、まっしぐらに滅びへと向かっていると聖書は言う。肉欲の到達点はただ滅びでしかない。クリスチャンにとっての「利得」とは、地上の富とは全然別のところにある。

信心があって足ることを知るのは、大きな利得である。わたしたちは何ひとつ持たないでこの世を去って行く。ただ衣食があれば、それで足れりとすべきである。」(テモテⅠ6:6-7)。

人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう」(ガラテヤ6:7-8)

 地上の富と栄誉を頼みとする者は、決して永遠の命に至ることはない。信仰を利得の手段と心得、主のご用に携わっていることで、主ではなく、自分に栄光を帰そうとする偽キリスト者を、使徒たちはいつも警戒していた。

もしある人が、事実そうでないのに、自分が何か偉い者であるかのように思っているとすれば、その人は自分を欺いているのである。<略>人はそれぞれ自分の重荷を負うべきである」(ガラテヤ6:3,5)

 また、教会の中で、信徒の服装や経済状況に応じて、待遇に差をつけることをヤコブの手紙は強く戒めている。
「わたしの兄弟たちよ。わたしたちの栄光の主イエス・キリストへの信仰を守るのに、分け隔てをしてはならない。たとえば、あなたがたの会堂に、金の指輪をはめ、りっぱな着物を着た人がはいって来ると同時に、みすぼらしい着物を着た貧しい人がはいってきたとする。その際、りっぱな着物を着た人に対しては、うやうやしく『どうぞ、こちらの良い席にお掛け下さい』と言い、貧しい人には、『あなたは、そこに立っていなさい。それとも、わたしの足もとにすわっているがよい』と言ったとしたら、あなたがたは、自分たちの間で差別立てをし、よからぬ考えで人をさばく者になったわけではないか

 愛する兄弟たちよ。よく聞きなさい。神はこの世の貧しい人たちを選んで信仰に富ませ、神を愛する者たちに約束された御国の相続者とされたではないか。しかるに、あなたがたは貧しい人をはずかしめたのである」(ヤコブ2:1-6)

 一体、「信徒たちがヤボッタイ服装をすることを許さない」と牧師が言ってはばからない教会は、どれほどひどい分け隔てをしていることになるだろうか。そのような教会には、みすぼらしい服装の貧しい人が、足を踏み入れることさえ許されておらず、ただ立っているだけの場所さえも用意されていないのだ。
 神が御国の相続人に定められた貧しい人をはずかしめるような教会に、キリストの御身体を名乗る資格があるのだろうか。立派な身なりをした、社会的にも地位のある麗しい人々ばかりを集めようとする教会のどこに、困っている人々、貧しい人々、孤独な人々への思いやりがあるだろう?

「父なる神のみまえに清く汚れのない信心とは、困っている孤児や、やもめを見舞い、自らは世の汚れに染まずに、身を清く保つことにほかならない」(ヤコブ1:27)

「不貞のやからよ。世を友とするのは、神への敵対であることを、知らないか。おおよそ世の友となろうと思う者は、自らを神の敵とするのである」(ヤコブ4:4)

 手束氏の言うような教えを奉じる教会は、神の敵となった教会である。教会成長論に影響を受ける全ての牧者のために用意されているのは次の御言葉であると私は確信する。

わざわいなるかな、自分自身を養うイスラエルの牧者。牧者は群れを養うべき者ではないか。ところが、あなたがたは脂肪を食べ、毛織物をまとい、肥えたものをほふるが、群れを養わない。あなたがたは弱った者を強くせず、病んでいる者をいやさず、傷ついた者をつつまず、迷い出た者を引きかえらせず、うせた者を尋ねず、彼らを手荒く、きびしく治めている。彼らは牧者がいないために散り、野のもろもろの獣のえじきになる。わが羊は散らされている。<略>
それゆえ牧者らよ、主の言葉を聞け。主なる神はこう言われる、見よ、わたしは牧者らの敵となり、わたしの羊を彼らの手に求め、彼らにわたしの群れを養うことをやめさせ、再び牧者自身を養わせない。またわが羊を彼らの口から救って、彼らの食物にさせない」(エゼキエル34:2-10)

富んでいる人たちよ。よく聞きなさい。あなたがたは、自分の身に降りかかろうとしているわざわいを思って、泣き叫ぶがよい。
あなたがたの富は朽ち果て、着物はむしばまれ、金銀はさびている。そして、そのさびの毒は、あなたがたの罪を攻め、あなたがたの肉を火のように食いつくすであろう。
あなたがたは、終りの時にいるのに、なお宝をたくわえている。

見よ、あなたがたが労働者たちに畑の刈入れをさせながら、支払わずにいる賃金が、叫んでいる。そして、刈入れをした人たちの叫び声が、すでに万軍の主の耳に達している。あなたがたは、地上でおごり暮し、快楽にふけり、『ほふらるる日』のために、おのが心を肥やしている。そして、義人を罪に定め、これを殺した。しかも彼は、あなたがたに抵抗しない。」(ヤコブ5:1-6)

 どうか信徒よ、目を覚まして欲しい、こんなに恐ろしい運命が予告されている偽牧者につき従って、共に滅びと裁きの道に下るようなことがあっていいだろうか。教会を私物化し、信徒から暴利をむさぼる偽牧者にどんな未来が約束されているだろうか。彼らから離れるべきである。主は必ず、偽牧者の手から、羊を奪い返されるだろう。

朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい。これは人の子があなたがたに与えるものである」(ヨハネ6:27)
 人間の作り出したむさぼりの教えを捨てて、永遠の命に至るイエスの教えに立ち戻ろう。
人間に従うよりは、神に従うべきである」(使徒5:29)

 <つづく>

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