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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

教会成長論という強盗の教え(1)

「あなたがたにゆだねられている神の羊の群れを牧しなさい。しいられてするのではなく、神に従って自ら進んでなし、恥ずべき利得のためではなく、本心から、それをしなさい。また、ゆだねられた者たちの上に権力をふるうことをしないで、むしろ、群れの模範となるべきである。そうすれば、大牧者が現われる時には、しぼむことのない栄光の冠を受けるであろう」(Ⅰペテロ5:2-4)


4.教会成長論は牧師による教会の私物化を義務づける教えである

1) 偽牧者は神の栄光を盗む者、天国の門を閉ざす偽善者

 イエスは言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。わたしは羊の門である。わたしよりも前にきた人は、みな盗人であり、強盗である。羊は彼らに聞き従わなかった。わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう」(ヨハネ10:7-9)

 神の羊たるクリスチャンにとって、命に至る門はただ一つ、キリストである。そしてキリストは、信徒に神からの豊かな恵みを受け取らせるために地上に来られた。
「神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである」(テモテⅠ2:5)
「わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。わたしはよい羊飼いである。よい羊飼いは、羊のために命を捨てる」(ヨハネ10:10)

 十字架上で私たち人間のために命を捨てて下さったキリストを通してのみ、クリスチャンは「豊かに命を得」、「牧草にありつく」ことができる。罪からの解放と永遠の命をいただけるだけでなく、日々の糧を得て平和な暮しをすることができる。人の思惑という奴隷の檻や柵に束縛されずに、「出入り」する自由を得ることができる。(「主の霊のあるところには、自由がある」コリントⅡ3:17。)
 キリストだけが、神と人との間をとりもつただ一人の仲保者である。

 ところが、いつの時代にも、イエスではなく、自分を仲保者として通さなければ救いは得られないと主張する異端者が出現する。クリスチャンが真に警戒し、断固、対処するようにと聖書が教えているのは、他の宗教を信じている異教徒ではく、キリスト教界に「滅びに至らせる異端をひそかに持ち込み、自分たちをあがなって下さった主を否定」する偽キリスト者、偽牧者、偽教師である(ペテロⅡ2:1)。偽の教えこそ、クリスチャンが何にも増して警戒すべきものであると聖書は教えている。

 偽牧者、偽教師とは、信心深そうなふりをしながら、その実、イエスよりも自分を前面に押し出し、イエスの名よりも自分の名を高く掲げ、自分だけが神の恵みの唯一の管であり、自分を通さなければ誰も救いと恵みを得られないと主張する人々のことである。
 彼らの説く誤った教えに惑わされた信徒は、やがてキリストの十字架を信じなくなり、救いと恵みを失ってしまう。こうして、信徒たちの目から真理を覆い隠す偽牧師、偽教師は、天国の門を閉ざしているのである。

「彼らは神を知っていると、口では言うが、行いではそれを否定している。彼らは忌まわしい者、不従順な者であって、いっさいの良いわざに関しては、失格者である」(テトス1:16)
「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせない」(マタイ23:13)

 行いによって神を否定する偽牧者、偽教師たちの本質は、盗人であり、強盗であるとイエスは言われた。
 一見、どんなに親切そうな、良い羊飼いのふりをしていたとしても、偽牧者の真の目的は、決して羊を養うことにはない。羊を滅ぼすことなのである。「盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない」(ヨハネ10:10)。

 強盗たる偽クリスチャンは、一体、誰から何を盗むのだろうか? まず、第一に、彼らは神の栄光を盗み、第二に、キリストの花嫁たる教会を盗み、信徒たる羊の命や財産を奪い、羊を食い散らすのである。
 今日、様々な教会で起こっている不祥事を見れば、そのことがよく分かる。牧師が神のような栄光に包まれていたり、教会組織を私物化して自分の手足のように使っていたり、信徒の献金を「盗んだり」、病気の信徒に治療を拒否させて「殺したり」、信徒に性的暴行を行って家庭を壊したり、様々な方法で羊の人生を滅茶苦茶にして、「滅ぼし」ているさまが見られる。このような事件は、彼らがまさに偽牧者であって、本質的に強盗であったことを証明している。
 
 異端に対する警戒心を失いすぎて、自らを厳しくかえりみる能力を失った結果、プロテスタントのキリスト教界は、雑草の生い茂る荒れ果てた庭のように、どちらを向いても異端しか見られないほどにまで、背教がはびこってしまった。

 あからさまにそれと分かる強盗的偽牧師の他に、「サラリーマン牧師」という控えめな偽牧者もいることをイエスは教えられた。「羊飼ではなく、羊が自分のものでない雇い人は、おおかみが来るのを見ると、羊をすてて逃げ去る。そして、おおかみは羊を奪い、また追い散らす」(ヨハネ10:12)

 牧師という職業を、ただ社会的地位と給料を得る手段として利用しているだけの人たちには、危険が迫る時に、命がけで羊を守ろうとする覚悟や信念は全くない。面倒なことには何一つ関わろうとせず、教会でどんなにもめ事が起こっても知らん顔。大量の信徒が牧師と教会に幻滅して、追われるように教会を去って行っても、我関せずだ。
 どんなに頼りない新米の学校教師でさえ、このような放任かつ無責任な牧師に比べれば何倍もましである。学校の教師は、生徒が教室からいなくなったのを見過ごしにしたりしないだろうから。

 イエスは、「羊は彼らに聞き従わなかった」と言われた。真の羊、すなわち本当に神を信じる民であるならば、偽クリスチャンの声には決して聞き従わない。彼らの教えが神から来たものでないことを見抜いて、ついて行かないはずである。ところが今日、どうだろう、どれほど多くの信徒がこうした偽者の餌食にされ、つまずかされていることだろうか。

「わたしを信じるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海に投げ込まれた方が、はるかによい」(マルコ9:42)
「主は言われる、『わが牧場の羊を滅ぼし散らす牧者はわざわいである』。<略>『あなたがたはわたしの群れを散らし、これを追いやって顧みなかった。見よ、わたしはあなたがたの悪しき行いによってあなたがたに報いると、主は言われる』」(エレミヤ23:1-2)

 信徒につまずきを与える偽キリスト者に、重く厳しい裁きが待っていることに疑いの余地はない。
 だが、同時に、忘れてはならないことは、つまずかせる者の罪も大きいが、つまずいた方にもまた大きな罪が残るということだ。偽りを見抜けず、つまずかされたまま、信仰を失ってしまえば、信徒にはそれが自己責任として降りかかる、「彼らが滅びるのは、自分らの救となるべき真理に対する愛を受けいれなかった報いである。そこで神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り、こうして、真理を信じないで不義を喜んでいたすべての人を、さばくのである」(テサロニケⅡ2:10-11)

 どんなに警戒していたつもりでも、クリスチャンが偽の教えにつまずかされることがあるかも知れない。偽者を本者と思い込んで、偽牧者に従うことがあるかも知れない。しかし、失敗したとしても、大きな苦しみを経験したとしても、私達はキリストの御許へ戻って行くことを続けなければならない。裁判に勝って、悪徳牧師を懲らしめることよりも、はるかに重要なことは、偽教会や偽信徒につまずいて幻滅したまま、信徒が信仰を失ってしまわないことなのだ。教会カルトとの闘いを繰り広げる時、クリスチャンはそのことを忘れないようにしなければならない。


2)教会役員は牧師の雑用係ではない

 さて、『教会成長の勘所』第一部に話を戻そう。ここでは教会に成長をもたらすために教会役員はいかにあるべきかということが述べられている。だが、あえてまず、教会役員という役職の聖書的根拠とその役割について考えてみよう。

 手束氏は教会役員を「執事」と呼ぶ。労働組合を思わせる「役員」という名称は世俗的で意味的にも不適切だというのがその根拠であるが、今は呼び名にはあまりこだわらないことにしよう。

 テモテへの第一の手紙第3章を見るならば、使徒時代の教会には、「監督」や「執事」という役職が確かに存在していたことが分かる。だが、この執事なるものが、次に挙げる使徒行伝第6章の記述と関係があったかどうかは聖書には示されていないし、具体的に執事がどのような仕事をしていたのかも明らかにされていない。

 ちなみに、「執事」という単語は、聖職の名称の一つとして、今日、様々なキリスト教の宗派に普及している。広辞苑によれば、聖公会では主教と司祭に次ぐ第三位の聖職が執事であり、カトリックでは助祭に当たるようだ。また、ロシア正教では司祭の下位の輔祭を意味する。
 だが、手束氏の言う「執事」とは、任命を受けてなる聖職者の職業的地位のことではなく、実質的に、今日プロテスタントの多くの教会に見られる役員と同じく、信徒職のことを指している。メソジスト派系の教会で「幹事」、長老派系の教会で「長老」、カトリックや聖公会で「委員」と呼ばれる人々と実質的に同等の役職に当たるという。

 さて、手束氏がこの「執事」選出の聖書的根拠として挙げているのは、使徒行伝第6章1-7節の次の聖句である。

「そのころ、弟子の数がふえてくるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人から、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して、自分たちのやもめらが、日々の配給で、おろそかにされがちだと、苦情を申し立てた。
そこで、十二使徒は弟子全体を呼び集めて言った、『わたしたちが神の言をさしおいて、食卓のことに携わるのはおもしろくない。そこで、兄弟たちよ、あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判のよい人たち七人を捜しだしてほしい。その人たちにこの仕事をまかせ、わたしたちは、もっぱら祈と御言のご用に当ることにしよう』。この提案は会衆一同の賛成するところとなった。

そして信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ、それからピリポ、プロコロ、ニカノル、テモン、パルメナ、およびアンテオケの改宗者ニコラオを選び出して、使徒たちの前に立たせた。すると、使徒たちは祈って手を彼らの上においた。
 こうして神の言は、ますます広まり、エルサレムにおける弟子の数が、非常にふえていき、祭司たちも多数、信仰を受けいれるようになった。」

 手束氏は、この記述には「執事」(ディアコノス)という単語は登場していないものの、「給仕する(食卓のことに携わる)、仕える」(ディアコネオー)という言葉から、「執事」という語が発生したと考えられるため、実質的に、これは執事選出の場面と考えるのがふさわしいと言う。
 仮に二つの単語の間に言語学的な関係があったとしても、だからと言って、文脈を無視して、これを執事選出の場面と決めつけることはできないが、しかし実際に、これを執事選出の場面だと解釈しているキリスト教の宗派は多い。

 簡単に表すならば、この聖書の箇所は「7人の給食問題解決係」選出の場面である。イエスが復活されて後、この時が来るまで、使徒時代の教会に、(アナニヤとサッピラの偽証事件を除いて)、実務的な問題が発生したことを記す聖書の箇所はない。
 集まったクリスチャン「一同はひたすら、使徒たちの教を守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈をしていた」(使徒2:42)。

 使徒時代の教会には完全な平等が実現していた。信徒が財産を共有にし、貧しい者は一人もおらず、役割分担について争いが生じることもなかった。「信じた者の群れは、心を一つにし思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものだと主張する者がなく、いっさいの物を共有にしていた。<略>彼らの中に乏しい者は、ひとりもいなかった。<略>それぞれの必要に応じて、だれにでも分け与えられた」(使徒4:32-35)。

 だが、その後、教会内の不平等が初めて問題として持ち上った。日々の配給の不公平な分配を理由に、ギリシア語を使うユダヤ人とヘブル語を使うユダヤ人たちが対立してしまったのである。(ひょっとすると、配給問題はただのきっかけであり、その奥には別の問題が隠れていたのかも知れない。何しろ異なる言語を使う者たちだから、日頃から何らかの意志不疎通がたまっており、この事件をきっかけに、それが激しい争いへと発展したとも考えられないこともないように思う。)
 いずれにせよ、やもめたちへの配給をめぐってユダヤ人たちの対立が重大な争いへと発展し、両陣営が真っ二つに割れて喧嘩が始まったために、使徒たちをも巻き込んで、一時、教会生活全体を停止させるトラブルとなったものと考えられる。

 この時、この問題を解決して、教会の機能を正常に戻すために、使徒たちの主導で「御霊と知恵とに満ちた、評判のよい」7人の担当者が選ばれた。だが、ここに「執事」という単語が登場していないことを考慮しても、果たして、この7人の任務が、この問題が解決した後になっても、教会の常任の役職としてずっと残り続けたかどうかには、疑問の余地が残るように私は思う。

 この7人の役割は、非常事態を解決することだった。従って、問題が解決された後は、7人は通常通りの信仰生活に戻ったのではないか? さらに、この時に選ばれたステパノは、その後、殉教してしまうが、「執事」職の欠員を補うために誰かが選出されたという記述は聖書にない。そこで、はっきりしたことはあくまで不明であるものの、この給食問題は、使徒時代の教会にとって、あくまで一回限りの事態であり、7人の役目もその場限りのものであった可能性があるのではないだろうか?
 少なくとも、この時の議論が、臨時の会議であって、定期的な会議には当たらなかったことは確かだろう。そこで、これを手束氏が言うような、「最初の教会総会」(p.18)と呼ぶのがふさわしいかどうかにも疑問が残る。

 しかし、細かい議論は抜きにして、この時、選ばれた7人の役目が、やがて教会に現れる「執事」職の基盤となるものだったと仮定しよう。だが、そう仮定してみたとしても、この「執事」職の役割が、あくまで信徒間の平等を実現するために知恵をしぼり、揉め事を収拾し、教会の機能を正常化することにあって、使徒たちのために日用の雑事を引き受けることでなかったのは明白である。

 こうして、優れた知恵を持つ7人がやもめたちの配給の問題の解決に当たったおかげで、全会衆が揉め事から解放されて、教会はやっと祈りと御言葉のご用に戻ることができた。この時、7人が選出されたおかげで、教会本来の活動に戻ることができたのは、ただ使徒たちだけでなく、この事件に無関係であった会衆全員がそこに含まれているという文脈は明らかである。

<つづく>

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