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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

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教会成長論が生む牧師への個人崇拝

「人が見て自分で正しいとする道があり、
 その終りはついに死にいたる道となるものがある。」(箴言16:25)

3.教会成長論が義務づける牧師への個人崇拝

1)「パリサイ人のパン種」の危険

 教会を腐敗させるのはいつも人間による誤った教えである。
 イエスは「パリサ人のパン種とヘロデのパン種とを、よくよく警戒せよ」と言われた(マルコ8:15)。

 パン種とは、パンを膨らませるイースト菌のことである。だが、この文脈におけるパン種とは比喩であり、聖書に基づかない、人間による肉なる教えを指している。要するに、誤った教えを警戒しなさいとイエスは言われたのである。(パリサイ人のパン種とは偽善的な宗教の教えの原則、ヘロデのパン種とはこの世の政治の原則であると解釈できよう。)

 パン種にはパン全体をふっくらと膨らませ、食感を良くする働きがある。だが、キリスト者はパン種を持たない民なのである。パウロは言った、
「あなたがたは、少しのパン種が粉のかたまり全体をふくらませることを、知らないのか。新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたは、事実パン種のない者なのだから。わたしたちの過越しの小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。ゆえに、わたしたちは、古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭りをしようではないか。」(コリントⅠ5:6-8)

 クリスチャンは、神の教え以外には、どんな人為的な教えをも信じてはならないと定められている。古いパン種、すなわち、キリストを信じる前に持っていた自我の法則や、また、キリスト以外のどんな教えをも、信じてはならないのである。キリスト者にとってのパンはただイエス・キリストお一人である。
 イエスは言われた、「よくよくあなたがたに行っておく。信じる者には永遠の命がある。わたしは命のパンである。<略>わたしは天から下ってきた生きたパンである」(ヨハネ6:47,51)。

 パン種のないキリストの教えは、一見、ごつごつしていて、手触りも、耳障りも悪くて、まずそうで、人を寄せ付けない、厳しすぎる教えのように見えるかも知れない。だが、だからと言って、キリスト者は絶対に、それを自分に都合よく料理しようとして、勝手なパン種を何一つ付け加えてはならないのである。

 だが、今日、日本のキリスト教界においては、キリスト教を少しでも人に優しいものに見せかけて、教会に少しでも多くの人を呼び込もうと、誤ったパン種が教えの中に盛んに注入されている。要するに、有毒物質がおびただしく混入した偽装キリスト教が、今日、主流の教えであるかのように説教されているのである。

 人の目には見えない菌であるパン種は、誤ってパンに混入してもすぐにそれと分からない。人に優しい、誤った教えが教会に入りこむと、それと分からないうちに、教会全体がそれに汚染されていく。そして教会が大きく、大きく、膨らんでくる。気づかないうちに、カルト化が進行し、そしてある日、教会全体の恐るべき不祥事が明るみに出て、教会は多数の信徒を巻き込んだまま、世間の信用を失って、バブルのようにはじけ飛んで、崩壊する。

 ある人は、「背教は神学校から始まる」と言った。つまり、誤った教えがまず腐敗に先立ち、その後に、それに影響を受けた聖職者や教会の堕落が出現するというのである。今日、なぜプロテスタントのキリスト教界に、これほどおびただしい数の偽牧師や偽教会が生まれてしまったのかを考える上で、この発想は欠かせない。つまり、大規模の腐敗の裏には、必ず、誤った教え、すなわち肉的なパン種の普及があることを想像しないわけにいかない。つまり、キリスト教界の大規模の腐敗は、決して偶然の産物などではなく、また、個々の牧師の人格的欠点や、個々の教会の運営のまずさのせいだけでなく、誤った教えというイースト菌が、疫病のように各教会に蔓延した結果、毒々しい果実として、カルト化教会を各地に生んでいるのである。

 すでに述べたように、教界を大々的腐敗に陥れている汚染源の一つが、教会成長論であると私は見ている。だが、なぜ教会成長論が「パリサイ人のパン種」なのか? その証拠を具体的に示さなければ、私はただ教会成長論を誹謗中傷しているだけということになって終わるだろう。あるいは、一つの教会が教会成長を目指す過程でカルト化したからと言って、それはその教会の個別の問題であって、教会成長論そのものが誤っていることの証拠にはならないと言われかねない。

 教会成長論がどれほど恐ろしいものであるかをつぶさに示すために、これから、教会成長論賛同者の必読の書である『教会成長の勘所』(手束正昭著、マルコーシュ・バプリケーション、2003年)の文面を綿密に取り上げて、一言一句、聖書と対比しながら、その恐るべき誤りを明らかにしていこう。


2)教会の規模拡大を目指す教会成長論は聖書に反している

 『教会成長の勘所』、第一部「教会成長的教会役員論」、第二部「教会成長的牧師夫人論」では、教会が確実に成長を遂げるために、教会役員、牧師夫人がどのようにあらねばならないかということが説かれている。結局、教会役員(この書では執事と呼ばれる)と牧師夫人が、もっと教会成長のために役立つ確実な材料となるために、どうあるのが望ましいかということが述べられている。

 だが、詳細な分析に入るより前に、そもそも、なぜ教会が成長せねばならないのか、教会は果たして成長せねばならないものなのかどうか、という問題を初めに提起しておきたい。なぜなら、この書物が、暗黙のうちに述べているのは、全ての日本の教会は、今のような小さな規模で満足してはいけない、もっともっと確実に教会成長を遂げるべきである、そして、そのために、教会が全員一丸となって、信徒の最後の一人に至るまで、この目的に向かって奉仕できる強力な要員に変わらなければならないという主張だからである。

 このような考え方の裏には、教会は大規模であればあるほど価値が増す、という確信がある。そこにはメガ・チャーチの誇りと、弱小教会への蔑視的な見方が密かに隠されているだけではない。教会成長とは、煎じ詰めれば、教会員の増加と、教会財産の増加のことである。言い換えれば、全ての教会がもっと地上的権勢の拡大を戦略的に目指すべきだというのが教会成長論の根本的主張なのである。

 確かに、伝道、宣教が実を結んでクリスチャンの数が増えることそのものは悪いことではない。主を信じる人が増えることは主の御心なのである。だからこそ、一体、教会成長の何が悪いのか、すぐには分かりくいのである。信徒の数が増えることの何が悪いのか、信徒が増加した結果、おのずと教会の規模が拡大することの何が悪いのか、献金が増え、教会財産も増え、催し物も増え、狭い礼拝堂の代わりに、新しい礼拝堂が建設されたとしても、それは当たり前ではないか。一体、その何が悪いのか、という反論があって当然だろう。

 しかし、地道に伝道や宣教をした結果、クリスチャンが増えて、教会が拡大することと、教会成長を初めから狙って、それを終局的な目標として、宣教、伝道をその手段にしてしまうことは全く意味が違う。
 教会成長論の欺瞞は、伝道や宣教を、教会の組織拡大のための手段としてしまい、人の魂の救済を、引いては信徒そのものの存在を、教会組織の権勢の拡大のための手段として利用するところにある。すなわち、隣人を愛するがゆえに、そして罪からの解放という喜ばしいニュースを伝えるために、キリストを宣べ伝えるのではなく、教会に地上的繁栄をもたらす目的で人を教会に呼び込み、自由をもたらすのでなく、かえって教会組織に束縛して、可能な限り、手段として利用していくことが、教会活動の終局的目的となってしまうところに、教会成長論の最も恐ろしい危険があるのである。

 教会成長論の裏に隠されているのは、目の欲、肉の欲、持ち物の誇りである。
「しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。」(ガラテヤ6:14)
 
 もしも信徒が数十人しかいない教会の牧師が、メガ・チャーチの牧師に引けをとるように感じ、大規模教会を目指さなければならないように感じるとしたら、それはなぜだろうか。牧師が信徒や教会を自分の持ち物のように考えて、それぞれが自分の持ち物を競って誇り合うからこそ、そのような引け目が生まれてくるのではないだろうか。馬鹿らしいことである。私たちにはキリスト以外何も誇るものはあってはならない。誰かが救われてクリスチャンになることは信徒の大いなる喜びであるが、だが、それと教会の地上的規模の拡大は一切関係ない話であり、教会の規模が牧師の誇りになったり、引け目になったりするようなことはあってはならない。

あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたの命は、キリストと共に神のうちに隠されているのである。」(コロサイ3:2-3)

 地上のものとは、何より、地上的な富と誉れである。たとえ教会のためという名目であっても、自分たちのグループの人数増加や、財産の増加を求め、それを最終目的にして活動することは、地上的な富と栄誉を追い求める貪欲から出た行動なのである。
富むことを願い求める者は、誘惑と、わなとに陥り、また、人を滅びと破壊とに沈ませる、無分別な恐ろしいさまざまの情欲に陥るのである。金銭を愛することは、すべての悪の根である。ある人々は欲ばって金銭を求めたため、信仰から迷い出て、多くの苦痛をもって自分自身を刺しとおした。」(テモテⅠ6:10)

あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」(ルカ16:13)

 地上的な栄耀栄華を求めることが、あらゆる悪の根源であると聖書は教えている。従って、一人でも多くの人が救われるように、福音を積極的に伝えることは良いことであるが、それと、教会に属する人を一人でも多くして自分たちの教会の権勢を拡大することが、混同されてはならない。地上的権勢を求めることは、主が忌み嫌われることである。

 さらに、教会が地上的権勢を身につけることを目的に伝道するようになると、教会活動にはあらゆる形でこの世との妥協が生じる。なぜなら、この世との妥協なしに、つまり、この世に甘い顔を向けることなしに、教会が多くの世人を教会に誘い込むことは不可能だからである。それは教会が肉的方法論を用いて伝道することを意味し、教会行事が道徳的に腐敗したものとなるばかりか、キリスト者が目指すべき、「すべての思いをとりこにしてキリストに服従する」ことが消し飛んでしまう。

 メガ・チャーチのきらびやかさ、にぎやかさ、豊かさに惹かれて教会にやって来た人は、自分の肉欲に惹かれて教会に来るのであり、試練に遭っても、忍耐の限りを尽くしてキリストに服従しようという覚悟は全くないし、そのような忍耐が求められれば、即座に教会を去って行くだろう。

 人目を引くきらびやかな教会の装飾、心地よくダイナミックな音楽、珍しい外国人宣教師の英語説教、人でにぎわう集会、目を楽しませてくれる出席者の礼装、腹を満たすご馳走、…キリスト者の集まりにある程度の質素なもてなしが伴うことにまで反対するつもりはないが、様々な豪華な肉的なもてなしと装飾が、伝道の欠かせない要素となっては絶対にいけない。

わたしたちは、肉にあって歩いてはいるが、肉に従って戦っているのではない。わたしたちの戦いの武器は、肉のものではなく、神のためには要塞をも破壊するほどの力あるものである。わたしたちはさまざまな議論を破り、神の知恵に逆らって立てられたあらゆる障害物を打ちこわし、すべての思いをとりこにしてキリストに服従させ、そして、あなたがたが完全に服従したとき、すべて不従順なものを処罰しようと、用意しているのである」(コリントⅡ10:3-6)

「神の国は飲食ではなく、義と、平和と、聖霊における喜びとである。」(ローマ14:17)

 教会成長論の恐ろしさは、教会の権勢拡大が伝道の最終目的になり、伝道のあり方が世の中と妥協したものとなり、信徒が教会拡大の手段とされてしまうことだけではない。教会成長という名前の下で、このセオリーが教会に本当に導入しようとしているのは、教会内ヒエラルキーなのである。つまり、教会の権威を高めることによって人間の権威を高めることが最終目的なのである。『教会成長の勘所』を見てみよう、

「しかしながら、日本の教会においては、信徒の中にこのようなヒエラルキーを作ることについては、日本人の奥深くに潜む平等主義(これを私は『みんな一緒に』の美学と名付けたい)により根強い抵抗感がある。
しかも日本の教会はそのほとんどが教会員数十人という開拓教会であり、そのようなヒエラルキーを作る現実的必要性も皆無に等しく、考えもつかないであろう。
けれども今後日本の教会がリバイバルしていく過程の中で、1000人、2000人と増大する信徒をどのように管理していくかという課題に直面することが当然予想されるのであるから、今から信徒の中のヒエラルキーとそれに伴う昇進制度をも視野に入れておく必要がある」(p.53 太字は筆者による)

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 信徒の間のヒエラルキー昇進制度!?
 この耳慣れない言葉を聞いて、何の違和感も感じない信徒がいるならば、かなり危機感が足りないと言えよう。ヒエラルキーはまだ聞き流せたとしても、教会内の昇進制度とは一体何なのか? まるでカトリックの位階制を思わせるこの表現は何なのだろうか? だが、これこそ教会成長論の真の狙いがどこにあるのかを私たちに教えてくれる有力な鍵なのである。
 だが、教会内ヒエラルキーのことを語るよりも前に、まず個人崇拝とは何かということについて説明しなければならない。


3)個人崇拝という言葉の意味

 ロシアという国に旅行すれば、今でも私たちはモスクワの赤の広場にレーニン廟を見ることができる。ソビエト体制が崩壊してもう随分の月日が経つというのに、一向に取り崩されることもなく佇むものものしい石作りの霊廟の中で、まるでいつか甦る日を待っているかのように、恭しく「祀られている」レーニンの遺骸を見て、異様な感覚に襲われない観光客は少ないだろう。私にはこの霊廟が、この国に待っている運命が、これからも、ただ暗く、つらく厳しいものであることを暗示する証拠の一つのように感じられてならない。

 ソビエト体制の創始者であるレーニンは言うに及ばず、かつてこの国にあった社会主義体制の歴代指導者は、国民から神のように崇拝されていた(レーニンの場合は彼の死後に神格化が始まった)。今日の北朝鮮によく似た風景が広がっていたのである。だが、これらの指導者が崇拝されていたのは、決して、彼らの人徳や、人柄の良さゆえではなかった。
 このソビエトという国が、人類史上、類例のない共産主義という輝かしいユートピア社会を未来に生み出す母体であって、崇高なミッションを担った国であるのだと信じられていたからこそ、その「偉大な国の偉大な国民」は、国民の指導者を神のように崇め、奉っていたのである。つまり、社会主義国が持つ「偉大な使命」の輝かしさゆえに、その国の指導者は崇められていたのである。

 「個人崇拝」という言葉が政治用語として広まるきっかけを作ったのは、残酷な政策を行って、数え切れない国民を死や強制収容所に追いやりながら、自らを神のように崇めることを国民に強いたスターリンが死んだ後で、フルシチョフが党大会の秘密演説で、スターリンの諸政策を批判したことであった(1956年に開かれた第20回共産党大会での「個人崇拝とその結果について」と題する秘密報告。俗に、フルシチョフによるスターリン批判と呼ばれる)。この時に用いられた「個人崇拝」(культ личности)という言葉の「崇拝」に当たる単語は、「カルト」(“kul't” クリト)である。
 
 今日、破壊的カルトと呼ばれる危険な宗教の大半に共通する特徴として、指導者に対する個人崇拝が挙げられる。個人崇拝はヒトラー、ムッソリーニ、ポル=ポト、昭和天皇に対しても行われたことであるが、今日、カルト化教会を語る上でも、牧師に対する個人崇拝は欠かせない要件と言って良い。
 だが、カルト化教会に入信していた人の中には、次のように反論する人もいる、「いいえ、私たちは決して指導者を崇拝したりしていません。指導者に仕えることで、神に仕えようとしていただけなのです。私たちは指導者の人間的な過ちや、性格の欠点を、間近で見て、よく知っていました。ですから、そんなに欠点のある人を、まさか神のように崇拝することなんてできるはずがありませんでした。
 私は指導者の過ちのためにとりなしの祈りを捧げることさえよくありました。彼が悔い改めるように祈ることもありました。決して、牧師を欠点のない、神のように非のうちどころない、完全無欠な人間と考えて、敬っていたわけではないのです。彼が神から選ばれた器であると信じていたからこそ、彼が誤りを犯しても、祈りつつ、従っていたのです。ですから、人間への信仰ゆえでなく、神への信仰ゆえに、私たちは指導者に従ったのです。」

 しかし、個人崇拝という言葉の意味をもう少し深く考えてみれば、このような反論は適当でないことが分かるだろう。

 個人崇拝とは、決して、ある牧師などの指導者が、並外れてすばらしい個人的性格を持っていたり、優れた行いをするから、崇拝されるという意味ではないのだ。または、必ずしも、指導者が横暴極まりないやり方で、信徒に服従を命じたり、おおっぴらに「私は皆さんの神です、私を礼拝しなさい」と教えて、自分への礼拝を信徒に強要しているということをも意味しない。
 個人崇拝は、個人の性格や行いとはほとんど関係がなく生まれる。完全無欠の人だから個人崇拝が生じるわけではない。

 個人崇拝の対象として崇められる人間は、世間の人々と変わらないごく普通の人間である。独裁者というイメージからは程遠く、謙虚で、人当たりがよく、親切で、つつましい性格の場合もあるだろう。場合によっては、自分の過ちを、謙虚に人前で認めることさえできるような性格かも知れない。
 個人崇拝は、個人の優れた性格のために生じるのではなく、または個人の暴力的抑圧のために生じるのでもなく、個人の後ろ盾となっている組織や体制の「神聖さ」から生じるものである。たとえば、カルト化教会の指導者に個人崇拝が発生する時、それはその指導者の個性が信者に崇められているのではなく、指導者の背後にある、「神聖な」役割を担っている教会組織と、その教会のミッションが崇められ、その象徴としての指導者が崇められているのである。

 人類史上未だかつてない重要な使命を担うと自負していたソビエト体制という国があって初めて、その「偉大な使命」の力によって、歴代指導者が自分をあるがまま以上に偉大に見せかけることができたように、たとえば、教会が日本の大リバイバルの拠点となるなどの何か特別重要なミッションを担っているなどと標榜することによって、初めて、その教会の指導者がそのミッションの偉大さを後光にして、自分の偉大さをも人に信じさせることができるのである。

 人間の中には多分、誰一人として、自分一人だけの功績で、大衆に自分を崇拝させることに成功する人はいないのではないかと私は思う。肉なる人間が、崇拝されるにはあまりにも惨めで弱すぎる存在であることは、誰の目にも明らかである。従って、生まれ持った肉体的な特徴の他に、何か特別な権威の源、神聖の源となる何物かを持っていなければ、ただの人間が現人神となって、大衆に君臨することはあり得ないように私は思う。
 その神聖の源とは、何らかの人為的な理想や、大義名分、イデオロギーである。

 個人崇拝とは、指導者が、何らかの「偉大な理想」に向かっている団体をバックにつけて、その「偉大なミッションの象徴」として、自分を神聖なものに見せかけることなしには不可能である。従って、個人崇拝とは、一人の人が崇拝されるという意味ではなく、何らかのイデオロギー性を帯びた団体の指導者が、その団体の象徴として、団体ごと自らを神格化することを言うのである。従って、組織を離れては、個人崇拝はあり得ないし、また、個人崇拝のあるところには、必ず、組織崇拝がある。

 また、指導者への個人崇拝が生み出される時、必ず、指導者は彼が率いる団体や組織のただのシンボルとなっているだけでなく、組織を私物化している。たとえばある教会が、牧師一人の手中に握られて、まるで彼の私物のように利用できる状態になっている。教会組織は、民主主義的でなくなり、ただ牧師一人の指令だけを、唯々諾々として実行する官僚機構のようになっている。
 スターリンが反対者を次々と排除して、ソビエト体制の国家機関を中央集権化し、自分の手足のように動く機関へと変えて、私物化して行ったように、カルト化教会のリーダーも、長い時間をかけて、一つの教会を、自分一人だけに隷従する、自分の手足のような機関へと変えてしまう。こうして、何らかの理想を達成するという名目で、リーダーによって中央集権化され、私物化された官僚的組織が出来上がり、それをバックにつけて、いや、その上に君臨して、指導者の個人崇拝が成り立つのである。

 そんな風に、教会の権威と富が一人の牧師の手に集中し、独占されることは、異常な現象なのだが、そうなっても、カルト化教会の信徒たちは、その異常さになかなか気づかない。あるいは、何かの事件が起きて、牧師がどんなに不誠実な人物であるかが判明することもある。しかしそうなっても、なお、カルト化教会の信徒は不誠実な牧師についていこうとする。それは、彼らが指導者個人に希望を抱いているからではない。牧師がどんなに不誠実であっても、牧師は「教会を率いるよう神によって特別に召された器」であり、彼がリーダーとなってその教会が達成するはずの「特別なミッション」は、どんなことがあっても変わらないと信じているからこそ従うのである。教会に対する信仰(=教会崇拝)が牧師への涙ぐましい忍従(=牧師個人崇拝)を生み出すのである。(そのミッションとは、大概は、日本のリバイバルなど、地上における「神の国」建設を標榜するものであることが多い)。

 言い換えれば、カルト化教会の信徒は何よりも、自分たちの団体に与えられた輝かしく偉大な使命を信じているからこそ、万難を排して、それを実現してくれるリーダーに仕えようとするのである。彼らは指導者に仕えることによって、「自分たちの教会への特別な召し」に仕えているのであり、つまり自分たちの理想、自分たちの夢に仕えているのである。だからこそ、指導者の人間性に幻滅した後でも、自分の思い描いた夢がことごとく決定的に敗れ去るのを見るまでは、その教会をなかなか去らないのである。

 ソビエト体制は約70年間、神によらず、経済と科学の力によって、つまり人間の力によって、人類史上未だかつてない共産主義ユートピアを地上に生み出すという使命のために存続し続けた。多くの国民が、それを額面どおりに信じて、貧苦に耐え、あらゆる犠牲を払いながら、自分たちはこの苦しみによってユートピア建設に本当に貢献しているのだと思い続けた。だが、その影で、特権的な高級官僚たちが、国民を欺き、公金を湯水のように使い込んで、贅沢三昧の放蕩生活を送っていた。この官僚たちにとっては、イデオロギーの美名などは、支配の手段でしかなかった。党の指導者たちの多くが、共産主義ユートピアの実現など信じてはいなかった。彼らは自分たちが唱えている理想が、実現するはずもない真っ赤な嘘であることを十分に分かりながら、私腹を肥やすために、国民をあえて騙したのである。
 こうして、おびただしい血と、犠牲と、虚偽の他、結局、何一つ理想を達成せずに、この社会主義体制は恐るべき腐敗の中で、自壊した。

 カルト化教会の唱える崇高なミッションも、やはり、ソビエト体制の成立目的と同じように、見せかけだけの、実現不可能な大義名分である。「リバイバル」などの名前で、どんなにキリスト教的な使命のように見せかけられていたとしても、その実、大抵、結局は、十字架によらない、肉の力によるユートピア建設なのである(偽りの「神の国」建設については後述する)。
 従って、カルト化教会の信徒が、真に自分たちの教会の偽りに気づくのは、指導者個人に幻滅した時ではない。彼らの教会に与えられたと信じていた偉大で崇高なミッションそのものが、初めから、偽りであり、実現不可能であり、そんなミッションなどそもそも初めからなかったのだということに気づく時、初めて、彼らはその教会の神聖を疑い、教会を去ろうと思うのである。

 つまり、カルト化教会から信者を救うためには、指導者個人に幻滅させるだけでは足りない。指導者に偽りの神聖の輝きを与える根源となっている教会のミッションの欺瞞性に気づかせない限り、信者が自分たちは初めの初めから欺かれ、無駄に利用されていたということに気づく日は来ないのである。
 

4)教会成長論が生み出す牧師への個人崇拝

 さて、『教会成長の勘所』に話を戻そう。第一部では、教会役員はいかにあるべきかが述べられているが、この部の最も核心的な話題は、実は、教会役員にあるのではなく、牧師への個人崇拝にあると見て良いと私は思う。だから、そこから話を始めよう。

人格的象徴としての牧師

 『祈りの精神』という日本でもよく読まれている書物を書いた英国の神学者フォーサイスは、その書物の中で『牧師とは礼典的存在である』と主張している。礼典的存在とは、私の言葉で言えば人格的象徴ということである。『象徴性を担った人間』ということになる。
つまり、その人間を通して神の恵みと祝福、命と力が注がれてくる媒体としての存在ということである。
神の世界は四次元、人間の世界は三次元なので両者は直接的には交わり得ない。人格的象徴とは、この四次元と三次元をつなぐ通路、管としての存在と言ってもよい。<略>
宗教的象徴ということについての理解の不足は、信仰そのものの貧困さをもたらすことになりかねないということは明らかである。」(p.21-22)

 この短い文章を読んだだけですぐに、ある人々は、この書物がキリスト者をいかに破滅的な異端に誘い込む危険な内容であるかを察するだろう。
 よく読んでみよう。牧師は「礼典的・象徴的存在」であると手束氏は言う。

 確かに、あらゆる団体のリーダーとなる人物には、群れの模範、代表、シンボルマークの役割を担う力が必要になる。リーダーには確かにグループのシンボルとしての役割がある。そのことには異論はない。しかし、手束氏の言う「礼典的・象徴的存在」の意味は決してその程度の軽いものでは終わっていない。

 氏は言う、礼典的・象徴的存在とは、「その人間を通して神の恵みと祝福、命と力が注がれてくる媒体としての存在」であると。つまり、牧師を通して、信徒は神の恵みと祝福、命と力を受け取るというのである。
 確かに、敬虔なクリスチャンは誰でも神の愛と恵みを隣人に届けるための通り良き管となれるだろう。そのことに私は反対しない。私たちがキリスト者として、愛に基づいて隣人を助ける時、私たちは神の祝福の通り良き管となっているのである。従って、もしも優れた牧師がいるならば、彼は神の恵みを多くの人々に届ける管になるだろう。

 しかしながら、氏はこれでも終わらない。そこからさらに進んでこう言う、「神の世界は四次元、人間の世界は三次元なので両者は直接的には交わり得ない。人格的象徴とは、この四次元と三次元をつなぐ通路、管としての存在と言ってもよい。」
 ここまで来れば、どんなに鈍感な人でも、この文章の危険性に気づくのではないだろうか。私たちはこれをきちんと字義通り解釈しなければならない。この文章は、三次元の世界に住んでいる信徒は、神のおられる四次元の世界には「直接的には交わり得ない」、従って、「四次元と三次元をつなぐ通路、管としての存在」、つまり、「人格的象徴」である牧師を通さねば、事実上、信徒は神と交わることができず、神の恵みを受け取ることもできないと言っているのである。
 牧師を通さねば、信徒は神との直接対話は不可能だと言うのがこの文章の意味である。そして、そのことの重要性を見落とし、「宗教的象徴」についての理解が不足すると「信仰そのものの貧困さをもたらすことになりかねない」と氏は言うのである。

 眩暈がするような文章ではないだろうか。善良なクリスチャンにこれ以上の説明は不要だろう。しかし、これだけではまだこの論理の異常性が分からないという人がいるかも知れないので、念のために、最後まで、分析を進めよう。[四次元問題については、末尾の注を参照。]

 上記のような「人格的象徴としての牧師説」は、事実上のイエス・キリストの否定である。

 聖書を見よう、イエスは言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ14:6)

 クリスチャンが真理に至るため、あがないを得るため、永遠の命を得るため、父なる神の御許に至るために、唯一与えられている通路は、イエス・キリストただ一人である。象徴的存在としての牧師ではない。いかなる人間も、神と人とをつなぐために、イエスの代理人となることはできない。

「このイエスこそは『あなたがた家造りらに捨てられたが、隅のかしら石となった石』なのである。この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」(使徒4:11-12)

 イエスは「何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう」(ヨハネ14:14)と言われた。そこで、クリスチャンは今日、「イエスの御名によって」祈るのである。
 旧約聖書時代には、預言者を通さなければ、民は神の御言葉に接することができなかった。だが、十字架によるあがないのおかげで、クリスチャンがイエスの名を通せば、直接、神を礼拝し、神に願い求めることが可能となった。これは聖書理解の基本中の基本である。だが、『教会成長の勘所』はそこからしてすでに真理から逸れている。牧師が事実上、イエスの役割を代行する者として名乗り出ているのである。そのことは、続く文章を読めば、さらによく分かるだろう。

「ところで、象徴というものにはそれに対する信頼と尊敬があってこそ、その機能を発揮できるという性質がある。たとえば、聖書は只の古典ではなく、象徴としての書物即ち神の言葉である。それゆえにこの書物に対して鄭重なる尊敬と神の言葉としての信頼をもって読むことによってのみ、私たちはそこから汲めども尽きぬ恵みと神の命に与かりえるのである。
ましてや人格的象徴には、尊敬と信頼とが更に必要となる。あのナザレのイエスにおいてさえ、故郷の人々が尊敬と信頼を持たなかった時、奇跡を行うことができなかったのである」(p.22)

 この文章をよく読めば、著者手束氏が「象徴」という言葉をどのような意味で用いているかがよく分かるだろう。
 聖書は「象徴としての書物」であると氏は言う。つまり、神の御言葉が、見える形となって現われたものが聖書だという意味である。神の霊的な御言葉が、現実の地上世界の言語に表され、翻訳の不手際なども指摘されつつも、それでも可能な限り正確に文章化されて、見える形でクリスチャンの手元に届けられた。その見える形の聖書は、ただの物質ではないから、私たちはそれを小説や雑誌のようにではなく、神の言葉としての尊敬を払いつつ読まねばならないということが言われているのである。そのこと自体に異論はない。だが、それと同様に、牧師も「象徴」であるから尊敬を払われなければならないと氏は言うのである。

 不明なのは、牧師が一体、「何の象徴として」信徒から尊敬されなければならないのかという点である。教会の象徴としての牧師? 正しい教えの象徴としての牧師? この文章からはよく分からない。
 もう一度文章を読んでみよう。

「それゆえにこの書物に対して鄭重なる尊敬と神の言葉としての信頼をもって読むことによってのみ、私たちはそこから汲めども尽きぬ恵みと神の命に与かりえるのである。ましてや人格的象徴には、尊敬と信頼とが更に必要となる。」
 
 奇怪な文章である。信徒が聖書に尊敬を払うならば、「ましてや」人格的象徴である牧師には「更に」尊敬と信頼が必要だと言うのである。つまり、人格的象徴である牧師には、聖書に対する以上に、信徒からの尊敬と信頼がなければならない、と言うのである。牧師が事実上、聖書より高い位置に置かれていることが分かる。
 これはどういうことであろうか。ただの群れのリーダー、聖書を教える教師、教会の統率者が、聖書以上に尊敬と信頼を受けなければならない理由はない。従って、はっきりした説明はないものの、手束氏が「象徴的存在」である牧師が聖書以上に尊敬されてしかるべきだと述べているその根拠とは、「牧師とは御言葉の象徴であり、神ご自身の象徴である」と氏が考えているからだと受け取るのが、何よりも自然であろう。

 だが、さすがに「牧師は神と御言葉の生ける象徴である」とまで言い切ることはためらわれたのであろう。そこで、何の象徴であるのかを明確にしないまま、ただ「牧師は礼典的・象徴的存在である」という曖昧な説明でお茶を濁しているのだろうと想像される。
 結局、牧師は御言葉と神ご自身の人格的象徴であるから、聖書そのものにまして、信徒から尊敬と信頼を受けなければならないということが暗に言われているのである。

 ここで、イエスがユダヤ人に言われたことを私たちは思い出さなければならない、「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない。<略>わたしは父の名によってきたのに、あなたがたはわたしを受けいれない。もし、ほかの人が彼自身の何よって来るならば、その人を受けいれるのであろう」(ヨハネ5:39-43)

 もしもこの地上の人間の中に、御言葉や、聖書の人格的象徴と言える存在があるとすれば、それはイエス・キリストお一人だけである。父なる神の名によって地上に遣わされたのはイエスだけであり、それ以外の人々は全て「彼自身の名によって来た」のである。だからこそ、聖書を敬いながら、イエスを信じようともしないユダヤ人に、キリストは上記のように言われたのである。聖書自体が、イエスについてあかしする書物であり、イエスの存在は御言葉そのものである。にも関わらず、どうして肉なる人に過ぎない牧師が、イエスに成り代わって自分が御言葉の象徴となり、聖書に対する尊敬以上の尊敬をクリスチャンに要求することができるのだろうか。

 手束氏の言う、「人格的象徴」なるものが、事実上、牧師がイエスに成り代わり、聖書以上の権威を身に帯びて、自分を通さねば神からの恵みを誰も受けることができないと主張し、自分に対する個人崇拝を信徒に要求するものであることは、明らかである。

 
そのことは次の文章によってさらに裏付けられる。氏は、日本には牧師が粗末にされがちな嘆かわしい風習があるが、韓国では、日本と比較にならないほど牧師が教会で大切にされており、それが伝道の成功につながっている理想的な状況があるのだと説明する、

「韓国の教会には国会議員を初め法律家や大学教授、会社の社長など社会的地位のある人々が多数来ている。日本の教会では考えられないくらい、社会的に優れた人材が教会へやって来る。
もし日本の教会ならば、このような人々がやって来ても失望のうちに去っていくであろう。なぜならば、牧師には霊的実力がないし、信徒たちが牧師を敬っていないからである。
しかし韓国の教会は違う。信徒たちは牧師を下へも置かないほど尊敬している。それは長老と呼ばれている人々(信仰も立派で、人望もあり、社会的地位も持っている人たち)が牧師を礼典的存在、象徴的人格として崇め、牧師に対するすべての批判を受け止め、解消してしまうからである。牧師を絶対に貶めないようにするのである」(p.30)。

 はからずも、ここでこの書物の本音が暴露されていると言えよう。信徒が牧師を礼典的・象徴的人格として「崇め」る(あがめる)という言葉を、手束氏は使っている。崇めるとは、礼拝するという意味であるから、これは人間に対して使われるべき言葉ではない。
 だが、これまで見てきた文脈から判断して、これは決してうっかり言葉を選び間違えたわけではなく、これこそまさに氏の言いたかったことの本質だということが分かる。

 人望もあり、社会的地位もあり、クリスチャンとして非の打ち所のないような立派な信徒たちに囲まれて、信徒の尊敬を一身に集め、恭しくかしづかれている韓国の牧師。ただ敬われているだけでなく、まるで神のようにたたえられ、高く掲げられ、下にも置かれず、絶対的な尊敬を集めている韓国の牧師たち。彼らへの羨望の念がこの文章にはよく表れている。牧師とはこのように崇められるのが理想だ、下にも置かれないほど敬われ、絶対に名誉が貶められるようなことはあってはならない、という氏の強い信念がありありと感じられる。

 だが、これはあまりにもひどい。これはどこからどう見ても非聖書的であり、人間に過ぎない牧師を、教会が神に等しい地位にまで祀り上げるのが当然だという偶像崇拝の教えがここにある。これはすなわち、牧師個人崇拝の教えであって、神に対する恐るべき冒涜である。これは背教であって、もはやキリスト教とは言えない。

 聖書に戻ろう、キリスト教の教えの根本はこうである、
「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」(出エジプト20:2-3)。
 牧師個人崇拝は、偶像崇拝であり、聖書に反していることは言うまでもない。

「神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである。そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。」(エペソ、1:20-23)
 教会のかしらは牧師ではなく、キリストであり、キリストこそが未来永劫に、全ての権威にまさって権威あるお方なのである。教会は牧師の身体、すなわち牧師の私物ではなく、キリストの身体である。そこには牧師の人としての思惑ではなく、神の御心だけが満ちていなければならない。

「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者と見られている人々は、その民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」(マルコ10:42-45)

 神でありながら人に仕えられ、弟子たちの足を洗われたキリストを模範として、クリスチャンは誰しも心から喜んで、へりくだって人に仕える人となるよう勧められている。人にかしづかれ、人から賞賛され、誰からも下にも置かれないほどの尊敬を受けることを聖書が正当化している箇所は一つもない。神の祭司でありながら、自分の栄誉を求める立派な学者先生には、次の言葉が投げかけられているだけである。

あなたがたは、人々の前で自分を正しいとする人たちである。しかし、神はあなたがたの心をご存じである。人々の間で尊ばれるものは、神のみまえでは忌みきらわれる」(ルカ16:15)

人が皆あなたがたをほめるときは、あなたがたはわざわいだ。彼らの祖先も、にせ預言者たちに対して、同じことをしたのである。」(ルカ6:26)

だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」(マタイ23:12)

律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣を着て歩くことや、広場であいさつされることや、また会堂の上席、宴会の上席を好んでいる。また、やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈りをする。彼らはもっときびしいさばきを受けるであろう」(マルコ12:38-40)

 自らを義人と誇り、人からの尊敬と手厚いもてなしを当然のように求め、神に栄光を帰さず、かえって自らの栄光だけを貪欲に求める聖職者たちに、聖書は、人並み以上に厳しい裁きが待っていることを告げている。
 

<つづく>

注: 「神は四次元の世界に住む存在である」という主張が完全な誤りであることについて、Dr.Lukeが分かりやすく説明して下さいました。どうぞご参照ください。

「ニュートン力学では空間(3次元)と時間は独立しており、時間はあらゆる慣性系(加速度のない系)にとって一様に流れると思われていました。この時に例えば100㌔で走る車から前方に50㌔でボールを投げるとボールは150㌔の速度になるわけですが、これが実は違うことを明らかにしたのがアインシュタインです。彼は、

1)すべての慣性系にとって物理法則は同じ形で書けること
2)光速度はすべての系で一定値cをとること
の二点を公理として、空間と時間が互いに独立ではなく、x^2+y~2+z^2-(ct)^2を不変量とする一次変換で結ばれることを導きました・・・。

と、言うわけですが、要するに4次元の世界(時空体)は被造物の世界であって、神はそれを超えた世界の存在です。その時空間を越えた存在"I AM"が時空間に人間として介入され、人類の歴史において神を表現したのが受肉者イエスです。
最近の物理では10次元空間で宇宙を記述していますが、私たちの経験する世界はその次元のいくつかが退化した世界なのです。」

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