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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

神に疎外された者たちによる神への復讐の哲学としてのグノーシス主義ー映画"MISHIMA"から④

・金閣寺は果てしなく巨大化する ~すべてのものを押しつぶす被造物崇拝の恐ろしさ~
  
 三島は、死へロマンチックに憧れるような青年期を過ぎ、美しく死ねる年齢も過ぎてから、自分の死を壮大な自己完成の事業とすべく、創作の世界だけでなく、現実世界でも、周りを巻き込んで巨大な装置を作り出した。

彼は自分の死をありふれた死と同一のものとは全くとらえず、解放という特別な意味をもたせ、自らの死を自己完成であると同時に、国家的な宗教行事の域にまで高めようとした。

『金閣寺』の主人公が述べた言葉の通り、晩年に近づくに連れ、三島の人生と創作において、すべてのシンボルは、まるで綿菓子でも膨らますようにどんどん拡大し、概念的に昇華されて行く様子を見ることができる。

幼少期に三島の心を縛っていた祖母の言葉や、彼の肉体を疎外していた美意識は、三島の人生の中で、無限大な「母なるもの」の支配として拡大・発展して行き、東洋的な永遠の女性美の象徴となり、ついに天照大神や、「和の大精神」といった国家的神話にまで拡大・発展する。

「永遠(とわ)の美しさっちゅうもんは、怖いもんやで。どんどんどんどん大きなって、何もかも押しつぶしてしまうんや。」
「美しさはぼくの怨敵(おんてき)なんや。金閣寺が滅びん限り、とてもやないが、耐えられへん」
  

 三島の幼少期には、祖母という一人の女性による精神的呪縛に過ぎなかった「母なるものの支配」は、晩年には国家的神話のレベルまで拡大している。

それと同時に、かつて三島が、自分の肉体の弱さを個人的に克服しようとした過程も、今や個人の問題ではなくなり、敗戦によってプライドを傷つけられ、尊厳を失い、コンプレックスを抱えた日本が、どのように国としての自信を回復するかという国家的問題へと高められている。
 
また、三島が自らの個人的な弱さを克服するためだけの手段だったボディビルも、今や天皇を守ることを名目とする私営の軍隊「盾の会」に昇格している。

「盾の会」の目的は、「ますらおの心」と「みやびの伝統」を融合させることにあるとされるが、これも「男女の融合」、「精神と肉体の融合」という、三島が追求して来たテーマを概念的に昇華させたものである。むろん、そのテーマの根底にあるものが、神と人との一体化であることは言うまでもない。
 

 
「我々のことをおもちゃの軍隊と、そう呼ぶ人々もいます。しかし、我々のゴールは、我々の心の奥底に潜む、ますらおの心をよみがえらせることなのです。また、作家としての私個人が支持するのは、みやびの伝統であります。私が求めてやまないのは、この二つの伝統を一体化することなのであります。

 
 
こうして、すべてのシンボルが無限に拡大するに伴い、三島の創作の登場人物たちも、概念的に昇華される。

『金閣寺』では、金閣への放火は、主人公の異常心理のゆえの犯罪行為でしかなく、『鏡子の家』における俳優と高利貸しの女の心中も、自虐的な狂気の沙汰の行為でしかなかった。そうした主人公らの自滅が、『憂国』では、殉死というレベルにまで引き上げられる。

『金閣寺』や『鏡子の家』では、コンプレックスに苛まれ、自滅的な死を選んだだけであった主人公が、『憂国』では、国家的神話としての天皇に身を捧げる陸軍中尉に変身し、『鏡子の家』では、俳優を残酷に死の道連れにしただけの醜い高利貸しの女も、『憂国』では、夫の思想に忠実に従って、後追い自殺を遂げる美しく従順な妻に変身している。

つまり、三島の創作の中で、登場人物の思想的レベルが引き上げられ、彼らが、神聖かつ崇高な思想に身を捧げるジハーディストのような存在へと昇華され、美化されているのである。

『金閣寺』、『鏡子の家』で行われた神殿破壊のリハーサルは、『憂国』では、さらに概念的に昇華された形で、三島の現実的な死の予行演習となる。

『憂国』の主人公は、二・二六事件で追及を処刑を免れて一人取り残されて、自死することを選んだ陸軍中尉の青年である。この青年は、ちょうど天皇のために「散華する」という理想を抱きながらも、それを実現する機会のないまま戦後を迎え、理想的な生き様・死に様から取り残された三島自身にも重なる。

だが、三島の晩年になると、こうして登場人物の思想的レベルが引き上げられる代わりに、これらの男女はすっかり個性を失って、非常に退屈な人物になってしまう。 『憂国』の陸軍中尉は、国家神道に心を奪われて個性を失っており、その妻も、ほとんど夫のコピーのような存在でしかなく、この二人にはおよそ人格と言えるものは何もない。

 「母なるものの支配」があまりにも巨大化しているがゆえに、それが主人公らの個性をほぼ完全に奪い取り、押しつぶしてしまっているのである。

こうして、最初から「母なるものの支配」に個性を飲みつくされている主人公たちを待ち受けるのは、ついに命までもこの思想に捧げ切るという最後の段階だけである。ほぼそれだけが、小説の中心的テーマであると言っても過言ではない。

とはいえ、『憂国』では、陸軍中尉とその妻が殉死を決めてから最後に持つ肉体的交わりが、極めて重大な出来事であるかのように、長々と紙面を割いて描写される。

小説では、この夫婦が肉欲にふけることには、何の後ろ暗さも後ろめたさもない出来事として描かれる。仲間がすでに非業の死を遂げた後で、自分たち夫婦が彼らの後を追うことも、すでに決定している。にも関わらず、彼らには、そのような「火急の時」に、自分たちが重大なミッションを差し置いて、卑しく自己中心な欲望にふけっているという感覚は微塵もない。

むしろ、二人の肉体的結合は、「御真影」として祀られる天皇皇后の承認のもと、また、彼ら自身の死を目前にして、いささかの後ろめたさもなく、あたかも聖なる儀式であるかのように、概念的に昇華されるのである。

そのようなことが起きている理由は、この「儀式」の中に、三島が「ますらおの心」と「みやびの伝統」の一体化が具現化しようとしているためであると考えれば理解できよう。

つまり、この夫婦の交わりの中には、「男女の区別を取り払うことにより、完全な自己を取り戻そうとする」グノーシス主義の悲願が込められているのである。

ヴァレンティノス派のグノーシス主義には「新婦の部屋」という概念が存在した。それは、人が「真実の伴侶」を得て、これと「対」を形成し、結婚の儀式を通して、完全な自己存在を取り戻すという儀式であったようである。

教父エイレナイオスが、異端反駁の中で、グノーシス主義者がこの「新婦の部屋」という概念を利用して、性的放埓に耽っていると激しく非難していた事実(『グノーシス主義の思想<父>というフィクション』大田俊寛、春秋社、2009年、p.166)からも推測されるのは、実際に当時のグノーシス主義者たちは、「新婦の部屋」という概念を使って、「対となるべき男女の結合によって真の自己(原初的統合)を取り戻す」ことを儀式化していたのではないかということである。

このようなグノーシス主義的概念に照らし合わると、なお一層、陸軍中尉とその妻との最後の結合は、まさに「人が男と女の区別を取り払うことで自己を完全なものとする」という、グノーシス主義的路線に沿って描かれた「神聖な儀式」という意味を持つものと理解される。

つまり、それは隠された思想的な意義を持つ「秘儀」であるからこそ、三島はこの「儀式」を、作品の極めて重要なプロットとして、自死の場面と同じほどの重きを置いているのだと考えられる。

 『憂国』では、このように主人公らが、男女の区別のない「原初的な自己」を取り戻した後、さらに自分を縛っているすべての制約から自分を解放し、自らが理想とする思想と一体化するために、有限なる肉体を脱ぎ捨てて手に手を取り合って死に至る。

ただし、どんなに作品中で、この夫婦の死が美化されて、神聖な儀式のように描かれているとは言え、結局、その本質は『鏡子の家』で描かれた俳優と高利貸しの女の心中と何ら変わらず、ただそれが思想的に引き上げられ、スケールが拡大されただけであることが読者には分かる。

すでに見て来たように、グノーシス主義の「統合」の本質は、「弱い者が強い者を乗っ取る」ことにあるため、男女の区別を取り払うと、男が女に飲み込まれて消えるという結末になるだけである。

それゆえ、『憂国』でも、『鏡子の家』と同じように、男が先に死に、女がその死を見届けてから、その後を追うという展開になっている。

本来、夫よりも弱い存在であるはずの妻が、夫への従順さを装いながらも、最後には夫よりも強い存在として、物語の中に君臨するのである。この妻がちょうど「鏡」や「虚無の深淵」と同じく、死の象徴として、夫を飲み込んで滅ぼす役割を果たしていることが分かる。

だが、その妻も、自ら死に化粧を施して夫の後を追うため、この夫婦はともに「永遠の美」のシンボルの中にまるごと飲み込まれて消失する。

物語に最後まで残って勝ち誇るものは、人間を抑圧し、その命を残酷に奪い尽くす「永遠の女性美」だけである。これは東洋的な慈悲の神であり、被造物の美の化身であり、国家的神話にまで昇格された天照大神=日輪である。

結局、人が自らの美を永遠のものとして完成するためには、人は自己存在を抹殺するしか手段がないという結論だけが明らかにされるのである。


・グノーシス主義の隠れた目的は「肉欲および肉体を精神の抑圧から解放する」ことにある

ここで少し補足しておきたいことがある。今日、グノーシス主義については、この思想が人間の肉体を、悪神ヤルダバオートが創造した「出来そこないの世界」に属するものと考え、その世界を憎むがゆえに、「肉体は魂(霊)の牢獄である」と考えて、肉体からの解放を目指していたということが強調されるあまり、リューサーが述べたように、「グノーシス主義とは、人間の肉体に対する憎悪・蔑視の教えである」という見解がまるで定説のように広まっている。
 
しかし、当ブログでは、グノーシス主義における人間の肉体のとらえ方は、それほどまでに単純ではなかったものと考える。

むしろ、グノーシス主義においては、二段階の解放が存在したのであり、その第一段階では、「肉体の復権」、すなわち、肉体および肉欲をあらゆる制限から「救い出し」、肉体を自己疎外の状態から解放するという問題に、非常に重要なウェイトが置かれていたことを、私たちは見る必要がある。
 
もしも今日一般に広まっている定説の通り、グノーシス主義者が、人間の肉体を初めから霊を閉じ込める「牢獄」としかみなさず、一方的に嫌悪し、無用の長物のようにみなしていたというのであれば、グノーシス主義者は、彼らの言う、「真理の知識の啓示」を得た後で、すぐに「肉体からの解放」へ向かうだけで良く、肉体の中にとどまって禁欲主義的な修行や、その他の儀式を行うことで、自己修練する必要は一切なかったはずである。

しかし、グノーシス主義の様々な流派では、ある場合は、禁欲主義的な修行によって、ある場合には、性的放縦という、まるで対極にあるように見える手段を用いながら、人が肉体の中にあるうちに、自己完成に到達しようと、様々な儀式や訓練が重ねられていたのである。

このようなことは、グノーシス主義者が、肉体の中に生きているうちから、精神と肉体との融合によって、自己疎外を解消し、自らの存在を「全一的」なものに高め、さらに、男女の区別を廃し、自己と自他の区別を取り払うことで、完全な自己を得ることができると考えていたことを示している。

そのように、あらゆる区分を取り払って全的自己を取り戻そうとする試みの究極の形が、「新婦の部屋」における「真の伴侶との結合」といった、自他の融合(男女未分化の原初的自己の回復)という「儀式」になって現れていたと考えられるのである。

そう考えると、グノーシス主義の第一段階において、肉体および肉欲は、人が原初的統合を実現し、彼らの考える「完全な自己存在」を得るためには必要不可欠な要素とみなされていたと言えるのであり、グノーシス主義者が、最初から、人間の肉体を一方的な嫌悪・蔑視の対象と考え、これを人間にとって用のないものとみなしていたという見解は成立しなくなる。

繰り返すが、グノーシス主義の「解放」には大きく分けて二段階のステージが存在したと言え、第一段階は、グノーシス主義者の内側で、精神と肉体との隔てが取り払われ、肉体の自己疎外が終わり、彼らの言う「全一的な自己」が取り戻されるという過程であった。

それが達成された後で、彼らは自己存在を完全かつ永遠にするために、自分と世界とを隔てる壁となる自らの肉体を脱ぎ捨て、死によって自分を「解放」しようと考えたのである。

グノーシス主義とは、弱い者(抑圧される者・疎外される者)が、強い者(抑圧する者・疎外する者)との区分を自ら廃することで、それまで自分を疎外して来た強い者になり代わって、これを支配することを正当化する教えである。

それはあらゆるヒエラルキーを覆すことにより、人間が自分を縛っているすべての制約から自分を解放しようとする思想であから、その原則は、男女の区別や、自他の区別だけでなく、グノーシス主義者自身の内側における、精神と肉体の区別にも当てはまる。

グノーシス主義の思想の中には、リューサーが述べたように、また、三島が自分自身を実験台として行ったように、「精神(言葉)によって(不当に)抑圧されている肉体を、精神の束縛から救い出す」というテーマが含まれており、「肉体の精神からの解放」は、グノーシス主義において極めて重要なテーマだったと考えられるのである。

このように見て行くと、我々は、グノーシス主義者が「霊を肉体の牢獄から解放する」という、最後の結末に行き着くまでのプロセスは、決して今日、一般的にそうであると信じられているほどに単純ではなく、この思想がただ単純に肉体に対する一方的な嫌悪や蔑視に基づいていたわけでないことを確認できる。

グノーシス主義者の考える「解放」は、すでに述べた通り、大まかに二段階あり、彼らがまずは自分のうちで「全一的な自己」を達成しようと試みた後、世界の融合を目指すことは、三島自身の人生を振り返っても理解できる。

これまでの記事で確認したように、三島の心の中に、自分の肉体への嫌悪が生まれた最初のきっかけは、祖母が彼の幼少期に誤った考えを植えつけたことにあった。幼少期に三島が本当に病弱であったかどうかは不明であるが、彼を手元に置いておきたかった祖母が、彼は体が弱いという嘘を信じ込ませたのである。

だが、いずれにしても、祖母の言葉をきっかけに、三島は自らの弱すぎる肉体が、外界との隔ての壁となっているという制約に気づいた。三島の残る全生涯は、祖母の言葉をきっかけに気づいた自分の肉体の制約を、どうやって克服して、自己を永遠の存在に高めるかという問題に費やされたと言っても過言ではない。

三島は、リューサーが宣言したように、自分で自分の肉体を縛っている「言葉」の制約を取り払い、肉体に沸き起こる自然な衝動に身を任せて生きることで、「言葉が健康な肉体から自分を切り離している」状態を解消しようとした。

彼は、ハワイや、ギリシアで、頭上に明るく降り注ぎ、心を陽気にしてくれる太陽の光に誘われるがままに、自分の肉体の自然な衝動に従って生き、それによって、あたかも今まで自分と外界とを切り離していた壁がなくなり、「太陽と握手したような衝動を覚え」た。

この時、太陽は三島には解放のシンボルのように映り、彼は「太陽が自分を解き放ってくれた」と感じる。

「私はいつも、自分の中にある化け物のような感受性に苦しめられて来た。言葉の世界が、私を健康な肉体から切り離していた。その私を太陽が解き放ってくれた。ギリシアは私の自己嫌悪を癒し、健康への意志を呼び覚ました。」
 
三島は、リューサーが唱えたのと同じように、自分自身の肉体および肉欲を、言葉による制約から解放することで、自己の内で肉体が嫌悪すべきものとして疎外されている状態を解消しようと試みた。さらに、彼は自分の肉体を鍛え、これを自分の目に適う「美しいもの」に引き上げることで、それまで精神によって肉体が恥ずべきもの、醜悪なものとして疎外されていた状態を完全に解消しようとして、肉体の「復権」を試みるのである。

「私は美しい作品を作ることも、自分が美しいものになることも、その道理は同じなのだと見つけた。

こうして、三島の中で、グノーシス主義的な第一段階の「解放」が達成されて、彼は自分の中で、肉体が精神と並ぶものとなり、肉体に対する精神による「不当な抑圧」は終わったと考えた。

ところが、奇妙な逆説現象が起きる。幼少期に聞いた祖母の言葉は、三島が自分の体の弱さを克服した後も、依然として消えることなく、ますます大きくなって、三島の耳にこだまする。「ぼうやは体が弱い」という祖母の声は、いつしか「人間は誰しも老いて死ぬ」という被造物全体の限界を唱える大合唱となって、三島の作り上げた「美しい」肉体を脅かしていた。

三島は、肉体を「美しいもの」にすることによって、ようやく精神と肉体の乖離状態を終わらせたと思ったのに、今度は、死という現実を眼前に突きつけられ、自分が造り出した「美しい肉体」に対する「製造物責任」を問われる。

歯を食いしばって、汗を流して、その生きた芸術作品が出来たとしますね。しかし、それが老いさらばえることはどうするんですか。その美しさはどうなるわけ。作ったあなたが、それをどうにかしなきゃならないんだから。」

三島がこの問題に対して出した回答は、我々にとっては驚くべきものである。

だから、一番美しい時に、死んでしまえばいいんですよ。

私たちは、三島が本気でこのような結論を出していると知って、それをあまりにも馬鹿馬鹿しい考えだと笑うだろう。こんな方法で、どうやって死を克服したことになるのか。そんな死は、老いに直面したくない人間の身勝手な現実逃避であって、無駄死であり、敗北以外の何物でもないと。

ところが、グノーシス主義者はそうは考えない。グノーシス主義者の目から見れば、その死には全く違った意味が込められているのである。

すでに述べたように、三島の中で、グノーシス主義的な第一段階の解放は成し遂げられた。そこで、「美しい肉体」を手に入れ、精神と肉体の乖離状態を解消し、自己存在を「全一的」に高めたと考える彼に残された課題は、その達成を永遠のレベルへ引き上げることだけである。

つまり、自らの肉体の有限性という壁を打ち破って、自分と全世界とを隔てている最後の壁を取り払い、世界と一体化し、神と人とが、創造主と被造物とが区別なく一つの永遠の中に溶け合う世界へ向かって、最後の一歩を踏み出し、永遠と同化することだけである。

そのために、有限なる肉体からの脱出、すなわち、死によって自分自身の限界から解き放たれることが、ぜひとも彼には必要なのである。なぜなら、肉体がある限り、自分と外界との隔ての壁はなくならないからである。

かつて当ブログでは、聖書を甚だしく歪曲するグノーシス主義文献『ユダの福音書』を取り上げて、そこでは、イエス・キリストを銀貨30枚でユダヤ人たちに売り渡した恥ずべき弟子であるイスカリオテのユダが、他のどんな弟子にもまさって、イエスの使命を忠実に理解する優秀な弟子だったとされ、ユダは師匠が「肉体の牢獄から脱出する」ことを手助けするために、率先してイエスを十字架につけたとみなされていることを見て来た。

『ユダの福音書』では、イスカリオテのユダの裏切りは、決してイエスに対する憎悪や蔑視からなされた行為でなく、まさにイエスの霊を肉体から解放するという師匠の悲願の手助けとして行われたことであり、「必要悪」だったとされ、イエスもそれを理解した上で、ユダの行為を評価していたとされる。
 

「今回発見された『ユダの福音書』が注目を浴びたのは、それまで知られていたのとはまったく違うユダがそこに描かれていたからだ。この福音書に描かれるユダは、悪者でもなければ、不正直者でもなく、イエスを裏切り敵に引き渡した弟子でもない。

むしろユダは、誰よりもイエスのことを理解していた最も親しい友で、イエスの「依頼」で、彼を官憲に引き渡したのである。イエスを引き渡したことで、ユダは最大の奉仕をしたのだ。
この『ユダの福音書』によると、イエスは神に反逆するこの世界を逃れて、天にある自分の家へ帰りたかったのだ。」(『原典ユダの福音書』、ロドルフ・カッセル、マービン・マイヤー他著、日経ナショナル・ジオグラフィック社、2006年、p.103)


グノーシス主義の書によれば、<略>、最終的で完全なる神聖さは人々が死すべき運命の肉体と離別して初めて実現するという。『ユダの福音書』のイエスは、セツ(グノーシス主義者)のあの世代の人々が亡くなるとき、肉体は死んでもその魂は死なず、解き放たれた魂は天にある彼らの家へ戻ると告げる(チャコス写本四三ページ)。死ぬと肉体に付随するものすべて、この死を免れえない世界の家にあるものすべてを手放すことになる。知識を獲得した人々の死すべき肉体が放棄されることで「彼らの魂が天上にある永遠の御国へと昇っていく」と、イエスはユダに告げている(同四四ページ)。(同上、p.173)


 
このように、グノーシス主義では、神聖なる霊を宿す人々にあっては、肉体は死んでも、霊は永遠であるため、肉体の死は敗北ではなく、むしろ「霊を天界という家へ帰す」ための解放の手段だと考えられていたのである。
 
だが、私たちは、グノーシス主義者が考えるように、肉体の死によって「霊を天界へ帰す」ことなど不可能であり、そのようなものは、偽りの解放でしかない事実を知っている。

そこで、私たちは、なぜ三島のようなグノーシス主義者が、一方では、自分の肉体に対する極端なまでの美意識に駆り立てられ、肉体を善なるもののようにみなし、愛し、永遠の存在に高めようとしながら、もう一方では、肉体の破壊という自殺行為に至るのか、一体、彼らが肉体の破壊によって到達しようとしている真の目的とは何なのか、という問題について考えたい。

そして、この問題を解くために、もう一度、聖書の創世記の記述を通して、グノーシス主義とは、人間の内部における秩序転覆の教えであるという事実を確認しようと思う。


・グノーシス主義の隠れた目的は「肉欲および肉体を精神の抑圧から解放する」ことにある
 
グノーシス主義の原型は、エデンの園で、蛇が人類に吹き込んだ偽りの知恵にあり、その目指す目的は、とどのつまり、「肉のものを霊のものに見せかける」こと、つまり、人が己が欲望に従って生きることで、あたかも偽りの霊性を身に着け、神に等しい存在になるかのように錯覚させることにより、人間を破滅へと至らせることにあった。

そこで、グノーシス主義においては、その当時だけでなく、今日も、「霊の解放」に見せかけた「肉欲の解放」が極めて重要なテーマとなる。この点を見逃して、グノーシス主義が一方的な肉体嫌悪の教えだと考えているうちは、この思想の本質的な危険性は見えて来ないであろう。

グノーシス主義とは、人間の欲望をあらゆる制約から解放し、欲望を無限大に解き放つことで、人間を解放できるとみなす偽りの思想であり、彼らは「欲望の解放」を、人間を永遠の存在にまで高めるために必要な「霊の解放」と同一視して、美化し、奨励して来たのである。

前回も確認した通り、聖書において、人間は「霊」と「魂」と「体」という三部位から成ると定義される。これらの部位には、それぞれ正しい支配関係(秩序)があり、人間の内でその正しい秩序が成立していることこそ、人間のあるべき正常な状態である。

その正しい秩序とは、霊が魂を治め、魂が肉体を治めるという順位が守られることである。この支配関係はそのまま、この三部位の序列を示している。
 
人の中で神と交わることができ、最も貴い機能を備えている器官は、霊のみである。魂は神の霊との交流とは関係なく、ただ霊の中にあるものを受けて、これを解釈し、自ら思考・判断して、体に意志を伝達して、命令を実行させる機能を持つ。
 
体は、魂から受けた命令を遂行する器官であって、人の中で最も卑俗で、神聖からは最も遠く離れた部位である。

聖書において、人間の三部位は、旧約時代の神殿の原型としての幕屋に当てはめられるが、そのたとえからも、肉体が人間の中で最も卑俗な部位であることが分かる。

霊は、大祭司が年に一回のみ入り、民の罪の贖いのために、いけにえの血を捧げた「至聖所」にたとえられ、魂は「聖所」、体は「外庭」に当たる。外庭とは、犠牲となるべき動物が持ち込まれて殺され、解体され、その血が犠牲として注ぎ出された作業場であり、幕屋の中で、最もこの世に近く、神聖な至聖所から遠い場所である。
 
キリスト教の信仰の全くない人であっても、人間の内で、精神によって肉体が治められている状態が正常であり、その逆に肉体が人間の中で精神を凌駕して主人となるべきではないことは否定しないものと思う。

人間の魂(精神)には、良心の機能があり、どんな人であれ、何が正しく、何が間違っているかを、自らの精神によって判断する。肉体は、精神の判断に従って動くのが当然である。もしもその順序が逆になり、肉体の衝動によって精神が動かされるようになれば、それは動物的生存であって、理性的な生き方ではない。

しかし、グノーシス主義は、人間の内側で、この三部位の秩序を転覆し、聖書とは真逆の秩序を打ち立てようとするのである。
 
もう一度、聖書の創世記の記述を振り返ろう。

「さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。

 女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、 ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。
へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。 それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。
 
女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。
すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。 」(創世記3:1-7)

グノーシス主義とは、この創世記の場面で、蛇が人間を神に背かせて堕落させるために吹き込んだ悪魔の知恵と本質的に同じものであり、その今日的な延長であると言える。

そこで、その思想の骨子は創世記の時代から変わらず、それは人間が肉欲に従って生きるようそそのかし、かつ、そのように欲望に従って生きる結果、「偽りの霊性」を身に着け、自己存在を神に等しい高次の存在へと引き上げられるかのように錯覚させる欺きの教えだと言える。

それゆえ、グノーシス主義において、人間の肉体および肉欲が果たす役割は、はかりしれないほど大きいのである。

以上の創世記の記述を見ると、私たちは、エデンの園において、人間の中で理想的な秩序が実現していたこと、人は己が知性によって肉体を治めるという秩序が成り立っていた様子を確認できる。

人間は、園にある木の実を食べることが許されていたが、「善悪を知る木の実」だけからは、取って食べるなという制約が神によって課されていた。その制約は、神の言葉を通してもうけられた。

人間は、楽園にいた当初、自らの知性によって神の掟をわきまえ、神の言葉に従って生きることで、知性によって自分の肉体を治め、人間の「知性」と「行動」との間には、いかなる乖離もなかった。その時、人間の肉欲はまだ罪とはなっておらず、人には自分の肉体を恥じる意識もなかった。

つまり、人が神の掟(神の御言葉)を知るという知性によって肉体を治めていた間は、人間は「全一的存在」であり、肉体の知性からの乖離も、肉体の疎外も起きていなかったのである。

しかし、そこへ悪魔がやって来て、人間に、神がもうけた制約は、人間の知識と力をいたずらに制限するための不当な制約であるかのように思い込ませた。そして、「善悪の知識の木の実」を取って食べれば、人間は、神が定めた不当な制約から解放されて、死ぬどころか、むしろ、「神のような高次元の存在になれる」と嘘を吹き込んだ。

つまり、悪魔は、人間が神の言葉に縛られる必要は初めからなく、己が欲望のままに行動して、タブーを破ることで、逆に神のように高次元の存在となれるのだと教え、「言葉によって健康な肉体から自分自身を切り離す」のをやめるようそそのかしたのである。

人が「善悪の知識の木の実」を見ると、それは「食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましい」ものと見えたため、人は、悪魔の勧めに従って、自分の肉体の衝動(肉欲)に思うがままに身を任せ、その実を取って食べるという行動に及んだ結果、罪を犯し、堕落した。

こうして、人間が肉欲に従って知性を捨てた瞬間、人間の中で、秩序転覆が起こったのである。それまであった知性と行動の一致は壊され、精神が肉体を統御するという秩序も転覆された。そして、最も卑しむべき肉体および肉欲が、人間の中で主人となり、肉体が精神を屈服させたのである。

だが、その瞬間に、奇妙なことに、人間の心に自分の肉体に対する羞恥心が生じた。

おそらく、その羞恥心は、人の霊および魂の中に、まだかすかに残っていた正常な良心の機能がもたらしたものだったと推測される。人間の魂は、神の御言葉を知る知性に従わず、魂の命令を聞こうともせず、自分勝手に行動して罪に堕落した肉体を、恥ずべきものとして自ら嫌悪したのである。それゆえ、この時から、人間の内側で、自らの肉体に対する恥の意識が生じ、肉体の疎外という状態が生まれたのである。

しかし、人間が「善悪を知る木の実」を食べたことにより、人間の魂の知性の中にも、悪が入り込み、魂も全く当てにならなくなった。人間の霊は死に、魂も正常な機能を失い、そのせいで、それ以後、人間の歩みにおいては、「知性」も「行動」も両方とも当てにならないデタラメなものとなり、両者はますます乖離を深め、混乱や矛盾を生じさせるばかりとなった。

それにも関わらず、グノーシス主義者は、人が正しい知性を捨てて肉欲に従い、霊および魂が肉体を統御するという当然の秩序を覆したことこそ、堕落の原因となったのだという事実を認めず、かえって、人が肉欲に従って生きることは、悪いことではないと正当化する。そして、人間は、より一層、肉体および肉欲を様々な制約から取り払うことで、自由になれるかのように教え、そのように転覆された秩序を引きずったまま、人間は再び「知」と「行」を一致させて、第二のエデンに帰れると教えるのである。

鈴木大拙の言葉には、そのようなグノーシス主義者のイカサマ的な願望が非常に端的に表れているため、もう一度引用しておきたい。

人間の本質とでもいうべきは、理性的、知性的なものでなくて、むしろ情性的、意欲的なものである。知性はどうしても二分性を根本的に帯びている。それゆえ、表面的になりがちである。すなわち薄っぺらだということになる。これに反して情意的なものは未分的すなわち全一的であって、人間をその根本のところから動かす本能を持っている。人間は行為を最先にして、それから反省が出る、知性的になる。知が行を支配するようになるのは、知がその本質からはなれて、その底にあるものと一つになるところが出なくてはならぬ。

アダム、イブの世界には『行』のみがあって『知』がなかった。それでエデンの楽園が成立した。一旦、知が出ると、失楽園となったのである。入不二法門の世界では、その知をそのままにして、もとの行の世界、意の世界を、新たな面から再現させている。この点で入不二界はエデンと相違するのである。一段の進出といってよいのである。二度目の林檎を食べぬといけない。」(『東洋的な見方』、鈴木大拙著、岩波書店、pp.195-196)



鈴木大拙がここで言わんとしている内容は、リューサーや三島と全く同じである。しかし、それだからこそ、この記述には、多くのトリックが含まれているので、よくよく注意して読まなければならない。

まず、鈴木大拙は、「アダム、イブの世界には『行』のみがあって『知』がなかった。それでエデンの楽園が成立した。」と言うが、この記述が、大きな誤りであることに気づかれたい。
 
なぜなら、すでに見たように、エデンにおいて、人間は神から教えられた掟を知って、これに従って生きていたわけであるから、そこにはれっきとして「知」が存在しており、鈴木の言うように「行」のみが存在したわけではないのである。

エデンでの生活では、人間の中で、神の言葉を知るという「知」と「行」とが完全に一致しており、人間は精神によって肉体を治めていた。それこそが人間のあるべき本来的な姿なのである。

ところが、鈴木は、エデンにおいては、あたかも「知」が存在せず、「行」だけが存在したかのように主張することにより、「行」がすべてをほしいままにしている状態こそ、人間にとって理想状態であるかのように主張する。

こうして、鈴木は、暗黙のうちに、「人間にとっての楽園とは、人が己が肉欲を、いかなる制限も受けることなく、ほしいままに解放した状態である」と言っているに等しい。要するに、彼は「行」のみが存在する世界こそ「楽園」であるとして、人間がいかなる欲望でも叶えることのできる唯物論的ユートピアを至上の価値としたマルクス主義者と大差のない楽園観を唱えているのである。

さらに、鈴木の言う「一旦、知が出ると、失楽園となった」という言葉にも、トリックがしかけられている。そこで、鈴木が「知」と呼んでいるものは、悪魔が人間をそそのかして、神に逆らわせるために吹き込んだ「悪知恵」であって、偽りの知恵であるから、そのようなものは、正常な「知」とは呼べない。

しかも、私たちは、これまでのいくつもの記事において、鈴木大拙が聖書の御言葉の二分性に激しい抵抗感や嫌悪を示して来たことを確認して来た。そこで、ここで鈴木大拙が、失楽園の原因となった「知」という言葉で非難しているものは、悪魔のもたらした悪知恵ではなく、聖書の御言葉であることも理解できよう。

つまり、鈴木大拙は、ここでも看過できないトリックを用いて、失楽園をもたらした原因が、あたかも悪魔の悪知恵にはなく、神の御言葉が、人間を楽園から追放した諸悪の根源であるかのようにみなして、そのような論旨のすり替えに立って、「一旦、知が出ると、失楽園となった」「知性はどうしても二分性を根本的に帯びている。それゆえ、表面的になりがちである。すなわち薄っぺらだということになる。」と述べているのである。

つまり、鈴木は、神の言葉を知るという「知性」を、誤った、薄っぺらなものとみなし、それは人間の行動をいたずらに制限し、罪に定めて排除するだけの、表面的なものでしかないため、そんな「知性」は人間の本質たりえないと言うのである。

そして、彼はエデンには「行」だけがあって「知」がなかったのだから、その状態こそ人間にとっての理想状態であるとして、「人間の本質とでもいうべきは、理性的、知性的なものでなくて、むしろ情性的、意欲的なものである。」と決めつけるのである。

このような理屈は、この世には法があるから、罪人や悪人が生まれるのであって、法をなくせば、罪人や悪人もいなくなると言っているのと変わらない甚だしい詭弁である。
 
要するに、鈴木は、何が善であり、何が悪であるかを判断する「知性」そのものを取り払えば、人間の「行」は無制限に解放されて、それが悪とみなされて排除されることもなくなるため、人間の中で全一的な自己が成立する、と言うのである。

このような理屈は、まさに悪魔的な詭弁であり、「裏返しのキリスト教」であるとしか言えない。

そもそも、「知性が二分性を根本に帯びている」と言えるのは、「行」が「知」に従わない場合のみである。
 
法律を守っている人間にとって、法律は自分を排除したり、罰する脅威とはならないのと同じように、聖書の御言葉をわきまえるという「知性」は、御言葉に従って生きている人々にとって、何ら自分を排除したり、疎外する二分性の脅威とはならないのである。

肉体が知性の統御に従っている限り、知性は何も分割する必要がなく、肉体の疎外という問題も生じない。

そこで、聖書の御言葉の二分性によって、「不当な疎外が生じている」かのように感じるのは、御言葉に従わず、それに逆らっているがゆえに、初めから御言葉から疎外されている者たちだけである。

だが、法に逆らった人たちの側から、自分たちを罰したり排除したりする法が悪いと言われたからと言って、なぜすべての人々が、そんな主張を真に受けて、法を撤廃する必要などあろうか。

「行」が「知」に従わないからこそ、「知」が「行」を恥ずべきものとして除外したのだとすれば、そこで悪者にされるべきは、「知」ではなく、「行」ではないだろうか。

ところが、グノーシス主義は、常に「抑圧された者」の側に立ってこれを一方的に擁護するため、「知」が「行」を排除したのが悪いと決めつけ、「肉体および肉欲が、人の中で精神によって抑圧され、疎外されているのは不当である」と言って、肉欲と肉体の復権を唱えるのである。

このような転倒した理屈で、グノーシス主義者らは、「行」を「知」よりも上位に置き、「行」を排除する「知」を屈服した上で、「知」を撤廃し、さらに「新たな判断」として、「行」を排除したり、罪に定めることのない、「新しい知」の概念を導入しようとする。

それが鈴木大拙の次の言葉の意味するところである。

「人間は行為を最先にして、それから反省が出る、知性的になる。知が行を支配するようになるのは、知がその本質からはなれて、その底にあるものと一つになるところが出なくてはならぬ。」

つまり、彼は、人間が「行為を優先にして、それから反省が出る」生き物であることを十分に理解して、そのような状態を決して罪に定めたりしない、新しい「知性」が必要だと言うわけである。そのような知性を得ることは、「二度目の林檎を食べる」ことを意味し、それによって、新たな「知」と「行」とが調和する「入不二法門の世界」に至る道が開けるというのである。

「入不二法門の世界では、その知をそのままにして、もとの行の世界、意の世界を、新たな面から再現させている。この点で入不二界はエデンと相違するのである。一段の進出といってよいのである。」

こうして、グノーシス主義は、人間が神の言葉を捨てて、「知」よりも「行」を優先して、肉欲に生きたために起きた失楽園という過失を全く人間の罪として認めることなく、人間は自らの生き方を少しも変えることなく、依然として肉欲に従って生きているままで、自ら失楽園という過ちを修正して(=ソフィアの過ちを修正し)、自力で第二のエデンに帰れると言うのである。

果たして、そんな都合の良さすぎる「うまい話」が本当にあるだろうか。その答えを、私たちは次章で三島の最期を通じて見て行きたい。

<続く>

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