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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

偽牧師、偽教師、偽預言者への対処法

2.偽牧師、偽教師、偽預言者に対する対処法

1)偽牧師、偽教師、偽預言者を警戒せよ

 聖書は、終わりの時代には多くの偽教師、偽預言者が現われて信徒を惑わすと教えている。使徒の時代にも背教はあった。だが、今日ほど背教に対する警戒が必要な時代は他にないのではないだろうか。

 繁栄していたように見えた教会が、急にカルト化して崩壊する。有名な説教者が、突然、恐るべき不祥事を起こして起訴される。今日、聖職者の堕落や腐敗のニュースが後を絶たず、クリスチャンを驚かせている。しかし、聖書はそのようなことは少しも驚くべきことではないと教えている。
「驚くには及ばない。サタンも光の天使に偽装するのだから。だから、たといサタンの手下どもが、義の奉仕者のように偽装したとしても、不思議ではない。彼らの最期は、そのしわざに合ったものとなろう」(コリントⅡ11:14-15)

 今日、クリスチャンが、正しい教えに立った牧師や教師を見つけるのは至難の業だと言っても過言ではない。まさに義の奉仕者でなければならない牧師の職についている人たちの中から、背教に染まった偽教師がおびただしく出現しているせいである。聖書はそのように、私たちの時代には必ず、偽牧者、偽教師が出現することだけでなく、あまつさえ、偽の教えが主流の教えとなり、大勢の信徒がそのために真理から逸れていくとさえ告げている。

「民の間に、にせ預言者が起ったことがあるが、それと同じく、あなた方の間にも、にせ教師が現われるであろう。彼らは、滅びに至らせる異端をひそかに持ち込み、自分たちをあがなって下さった主を否定して、すみやかな滅亡を自分の身に招いている。また、大勢の人が彼らの放縦を見習い、そのために、真理の道がそしりを受けるに至るのである。彼らは、貪欲のために、甘言をもってあなたがたをあざむき、利をむさぼるであろう。彼らに対するさばきは昔から猶予なく行われ、彼らの滅亡も滞ることはない。」(ペテロの第二の手紙2:1-3)

 今日、実に多くの教会で、偽教師が牧師として堂々と講壇に立ち、多数の信徒を誤った教えで惑わせ、信徒を信仰に幻滅させ、傷つけた上で、教会から離れさせている。こうした偽牧師の真の目的は、貪欲を追求することであり、人を甘言で騙して、不当な利をむさぼることにある。
 カルト化した教会にいる信徒たちを見ればよい。信徒が牧師から多額の献金を要求されたがために自己破産したり、過酷な奉仕を強いられて極度の飢餓を経験したり、牧師から命じられた悪霊追い出しの祈りのせいで、病気が悪化したり、死に至ったり、牧師による性的逸脱行為の犠牲となって、家庭を壊されたり、自殺するまでに心傷ついたりしながら教会を離れている。

 こうして利をむさぼり、真理を否定し、信徒の生活や心を破壊する偽牧師の本質は「あざける者」であると聖書は教えている。(「終りの時に、あざける者たちがあらわれて、自分の不信心な欲のままに生活するであろう。」 ユダの手紙1:18) 偽牧師、偽教師たちの仕事は、まず神をあざけり、次に、信心深そうなふりをして、判断力のないキリスト者全員をペテンにかけて、彼らが騙されているうちに、貪欲の限りを尽くすことにある。
 偽牧師の使命は、信徒の信仰を養うことではなく、信徒から信仰を奪うことにある。従って、偽牧師が信徒を信仰につまずかせ、教会に幻滅させる時、彼らはまさに本職を忠実に果たしているのである。

 聖書は、悪徳牧師、偽教師にはやがてふさわしい最期が待っていると告げている。だが、彼らの悪事が公然と明るみに出て、偽牧師、偽教師が裁きの手に委ねられるまでには、しばらく時間がかかるだろう。その間に、餌食となってしまう信徒の数は多い。
 犠牲者とならないために、クリスチャンが全ての牧師や教師を浅はかに信用するのではなく、まず彼らを試して、偽牧師、偽教師を早い段階で見破ることの重要性を聖書は教えている。
「あの犬どもを警戒しなさい。悪い働き人たちを警戒しなさい。肉に割礼を受けている人たちを警戒しなさい」(ピリピ3:2)
「すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい。多くのにせ預言者が世に出てきているからである。」(ヨハネⅠ4:1)
 

2)偽教師、偽牧師、偽預言者の特徴と、彼らへの対処法

 どうすれば偽教師、偽預言者、偽牧師を見破ることができるのか。いや、今日、ただ特定の人物を偽教師として見破っただけではまだ足りない。それは、偽牧者だけでなく、偽信徒も多数、登場しており、教会全体が、偽の教えに影響を受けて、偽教会と化しているような場合があるからである(カルト化教会がまさに格好の例)。
 偽信徒、偽教会とはどのような教会を言うのだろうか。偽善者に対するイエスの警告を思い出そう。

「イザヤは、あなたがた偽善者について、こう書いているが、それは適切な預言である。
『この民は、口先ではわたしを敬うが、
その心はわたしから遠く離れている。
人間のいましめを教として教え、
無意味にわたしを拝んでいる。』
 あなたがたは、神のいましめをさしおいて、人間の言伝えを固執している」
(マルコ7:6-8)

 つまり、口先ではキリストを敬っているように言いながら、その実、「人間の戒めを教えとして教え」、「人間の言い伝えに固執し」、「無意味に神を拝んでいる」信徒、彼らこそ、主の民ではなく、偽善者なのである。こうした偽善者=偽信徒が集合している教会は、まさに偽教会と呼ばれるのがふさわしいだろうと私は思う。

 偽牧師、偽信徒のような偽キリスト者を私たちはどうやって見抜けば良いのだろうか。

 ヨハネの第一の手紙第四章2-3節では、偽預言者を見分ける方法として、「イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白する霊は、すべて神から出ているものであり、イエスを告白しない霊は、すべて神から出ているものではない」と教えている。
 また続く第五章10-12節にはこうある、「神を信じない者は、神を偽り者とする。神が御子についてあかしせられたそのあかしを、信じていないからである。そのあかしとは、神が永遠のいのちをわたしたちに賜り、かつ、そのいのちが御子のうちにあるということである。御子を持つものはいのちを持ち、神の御子を持たないものはいのちを持っていない。」

 すなわち、偽教師、偽預言者の何よりの特徴は、人となられ、私たちの身代わりとなって十字架で罪をあがなって下さった神の御子イエス・キリストを否定することであると分かる。

 だが、注意が必要なのは、今日の偽教師たちの手口はかなり巧妙化しているため、口先では、あたかもイエスの十字架を信じているかのように告白する者も多いということである。しかし、偽教師たちの行いを見るならば、彼らは口で教えていることとは矛盾して、事実上、自分を神以上に高く掲げ、イエスに成り代わっていることが分かるだろう(この二枚舌あればこそ偽善者なのである)。

 イエスを否定する者は、結局、自分自身を神としているのである。
「まず背教のことが起り、不法の者、すなわち、滅びの子が現われるにちがいない。彼は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して立ち上がり、自ら神の宮に座して、自分は神だと宣言する」(テサロニケⅡ2:3-4)

 今日の偽教師の多くは、「自分は神だ」と宣言するところまでは至っていないかも知れない。自分がキリストの再臨であると公然と言い張るような者は少ないだろう。しかし、偽りの父に仕える偽教師に共通する重要な特徴は、口ではなく、行いによって、事実上、自分を神に等しい者へと押し上げているところにある。説教の中で何と言っていようとも、彼らは行いにおいては必ず、自分を神に等しくし、自らをイエスに等しい者であるかのように見せかけ、真理と救いとは、ただイエス・キリストを通さなければ得られないものであることを信徒に忘れさせてしまい、自分を通さねばあたかも救いが得られないかのように信徒に教え、イエスにではなく自分に従うことを信徒に求め、実際にそのようにせねば教会に信徒がいられならないようなシステムを作り出すのである。

 牧師を通さなければ信徒が救われず、まっとうな信仰生活さえも送れないかのようなシステムが導入されている全ての教会は、偽教会と呼んで差し支えない。そのようなシステムの頂点に立っている牧師は偽牧者である。

 偽教師、偽預言者には決して近づいてはいけないし、偽教会に足を踏み入れてもいけない。ましてや、偽教師や偽預言者と協力して伝道するなど言語道断である。カルト化教会に通ったがために命を失ったり、健康を失ったりしている信徒がいる事実を見ただけでも、誤った教えに近づくことがどれほど危険であるか、十分に理解できようが、何よりも聖書が、はっきりと、「惑わす者」、「反キリスト」に近づいてはいけない、彼らとの接触を断たねばならないことを私たちに教えている、

「よくよく注意して、私たちの働いて得た成果を失うことがなく、豊かな報いを受けられるようにしなさい。すべてキリストの教をとおりすごして、それにとどまらない者は、神を持っていないのである。その教にとどまっている者は、父を持ち、また御子をも持つ。この教えを持たずにあなたがたのところに来る者があれば、その人を家に入れることも、あいさつすることもしてはいけない。そのような人にあいさつする者は、その悪い行いにあずかることになるからである」(ヨハネの第二の手紙1:7-11)。

 偽教師、偽預言者と親しく交流したり、協力することは、彼らの邪悪な行いに加担し、その罪を自分も引き受けることに等しい。

「『彼らの間から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。
そして、汚れたものに触れてはならない。
触れなければ、わたしはあなたがたを受け入れよう。
そしてわたしは、あなたがたの父となり、
あなたがたは、わたしのむすこ、むすめとなるであろう。
全能の主がこう言われる』。」(コリントⅡ6:17-18)

 汚れたものとは、何も魔術的なアイテムや、占いやオカルトの本だけを指しているのではない。何よりもまず、真理を否定する偽善者、偽キリスト者と分離する必要を聖書は教えているのである。

<つづく>

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