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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

教会成長論というむさぼりの教え

1.教会をカルト化させる教会成長論

 以前の記事の中で、私は教会成長論の誤りについて少しだけ触れた。しかし、それだけでは、セル・チャーチ、弟子訓練、トランスフォーメーションなどの、各種の教会成長プログラムの全てが誤りであることを証明するためにはあまりにも説明不足であり、納得しておられない方も多いだろう。
 そこで、今後、連続したシリーズの中で、教会成長論とは一体何なのか、その本質は何であるのか、また教会成長のプログラムの中にどのような危険性が含まれているのか、このプログラムを実行したために大いなる誤りに落ち込んだ教会の実例を挙げながら、具体的に徹底的に分析を進めたいと思う。


1)東京キリストの教会をカルト化させたディサイプリング・システム

 「東京キリストの教会はなぜ死んだのか」、というサイトがある。ここには、プロテスタントの一教会であった国際キリストの教会から派生して生まれた東京キリストの教会が、「ディサイプリング・システム」を導入して信徒数を大幅に増やしていく中でカルト化し、指導部による独裁体制が生み出され、全体主義に陥って、ついに体制崩壊に至るまでの経緯が詳細に述べられている。

 ディサイプリング・システムとは、ディサイプル(=弟子)という言葉からも分かるように、その発生の時期や形態はやや異なるとはいえ、今日よく知られている弟子訓練と明らかな類似性を持ったプログラムのようである。それが以下に紹介するような、教会成長論を論じた一連の著書を手本にして導入されていることからも、要するに、教会成長論の一形態であるとみなすことができる。

 さて、東京キリストの教会とはどのような教会だったのだろうか。ウィキペディアではこう説明されている。
「国際キリストの教会は一世代での世界宣教を目指し、2000年頃13万人近くの信徒がいた。万人祭司の思想の下、一人ひとりの信徒を『弟子』と定義し宣教と牧会などを務めた。
 結果、1979年の時点で30人だったのが、1999年5月で158カ国に358の教会が設立された。

 東京キリストの教会は1989年に主流派キリストの教会の代々木八幡キリストの教会から分離して約80人で発足、2000年頃には1000人近くの信徒数に増加した。しかし、急激な増加に比例して指導者の信仰は成熟せず、聖書に基づかない言動が目立ち始め、多くの信徒が傷つき教会を去った。さらに、信徒数の増加に伴い、会衆制の上に監督制をかぶせる教会政治の制度の歪が取り返しがつかないほど、大きくなった。 」

 国際キリストの教会、東京キリストの教会は、信徒全員を世界宣教に役立つ「弟子」(世界宣教のためのエージェント)として訓練するために、ディサイプリング・システムを導入した。短期間で爆発的に信徒を増やし、教会の権勢を驚くほど拡大した。当初、30人程度の集まりだった教会が、約20年間で、13万人の群れにまでに成長し、80人程度で始まった一つの教会が、10年間で、1千人の大教会に発展した。驚くべき成長率である。

 だが、こうして信徒数を増やす一方で、ディサイプリング・システムは、信者間に明確な主従関係を作ることを定め、教会内にピラミッド型の階層制を作り出した。主となる人は「ディサイプラー」と呼ばれ、従となる「弟子」の信者に対して、信仰に関する事柄だけでなく、交友関係、余暇の過ごし方などプライベートな事柄に至るまで、細かい報告義務を課した。さらに、ディサイプラーは弟子に対して、心の中で考えた内容に至るまで、「指導」し、思想統制を行った。

 ネズミ講を思わせるようなピラミッド型の組織構成には、おのずと支配階級が生じた。指導部による金銭的・道徳的腐敗が明るみに出、過酷な統制と、恐怖政治のために、大量の信徒が傷ついて教会を離脱した。2003年、信徒の支持を全く失った東京キリストの教会の指導部による支配体制は崩壊した。

 これを見れば、教会に驚くべき成長をもたらしたディサイプリング・システムが、他方では、成長の勢いと同じくらいに、破壊的な力を持っていたことが分かる。片方では信徒を増やしながら、もう一方では、多数の信徒を教会から離れさせ、教会を崩壊に至らしめた。この結果を見るならば、このシステムは、教会成長論としての有効な効果を少しも持っていなかったと言わざるを得ない。

 今日、教会に成長をもたらす目的で導入されたはずのセル・チャーチや、弟子訓練のプログラムが、同様に、各地の教会で深刻なカルト化や、教会の崩壊を引き起こしている。一体、どうしてそのようなことが起きるのか。これらのプログラムの欠陥はどこにあるのだろうか。
 以下では、各プログラムの詳細ではなく、まず、そもそも教会成長論とは何かという問題に焦点を当てて、分析を進めていきたい。


2)カルト、カルト化の定義について

 余談になるが、前述のウィキペディアの説明においては、東京キリストの教会はカルトではなかった、という主張が展開されている。だが、その主張が論拠としているのは、スティーヴン・ハッサン氏の著作におけるカルトの定義である。そのため、この主張だけに基づいて、東京キリストの教会はカルトとは無縁であったと結論づけるわけにはいかないと私は思う。

 カルト、カルト化とは何かということを説明する前に、挙げておきたいのは、ある宗教団体がカルトかどうかを判定する際の、国際的な指針の一つとみなされている、1995年12月にフランス国民議会で採択された報告書『フランスにおけるセクト』である(調査委員長の名前を取って『アラン・ジュスト報告書』とも呼ばれる)。
 ここでは、セクト(仏語ではカルトと同義)の本質は「新しい形の全体主義」であるとされ、セクトの構成要件として次の10項目が挙げられている。

 1.精神の不安定化
 2.法外な金銭的要求
 3.住み慣れた生活環境からの断絶
 4.肉体的保全の損傷
 5.子供の囲い込み
 6.反社会的な言説
 7.公秩序の攪乱
 8.裁判沙汰の多さ
 9.従来の経済回路からの逸脱
 10.公権力への浸透の試み

 以上の項目のいずれかにでもあてはまる団体は、カルトとみなされる。(ウィキペディア「カルト」参照。)

 このカルトという「新しい形の全体主義」は、今日、日本の様々なキリスト教会にも、疫病のように及んでいる。現在の日本のプロテスタントのキリスト教界を、全体としてとらえるならば、1、2、4、5、6、8の問題が頻発していることが分かる。(特に「霊の戦い」などの教えは、1、4などを引き起こしている。)これを見れば、今日のキリスト教界がどれほど重大な危険に陥っているかを誰しも理解できよう。

 さて、東京キリストの教会が、完全にカルトに至っていたかどうか、という議論はこの記事の焦点ではないため、これ以後、ここでは「カルト」ではなく、「カルト化」というやや曖昧性を含んだ言葉を使うことにしたい。

 教会のカルト化という言葉を、私は、教会が聖書の教えから逸脱し、徐々に全体主義化していき、最終的にカルトへと変わるまでの途中経過のことを指すと考えている。教会のカルト化とは、言い換えれば、教会が全体主義化していくことであり、その特徴として、教会に非民主主義的な独裁体制が敷かれ、官僚制度のようなものが出来、指導部によって、信徒の搾取、統制、支配が行われ、指導部の指令に信徒が隷従するようになり、恐怖政治が常態化することであると考える。カルト化した教会にあるのは、信徒の交わりではなく、過酷な支配関係である。

 カルト、セクト、カルト化、機能不全教会など、教会のカルト化現象を表すために、今日、様々な用語が用いられているが、これらの用語の厳密な定義については、別途、まとめることにしたい。カルト化の度合いには様々な段階ごとに、細かい区分を設けることも可能だろうし、さらにカルト化の途中で、つまり、完全なカルトに至らないうちに、信徒の大量離脱などによって、組織崩壊する団体があってもおかしくない。

いずれにせよ、今回論じるのは、教会がこのような常軌を逸した状態に陥るまでには、必ず、教会が聖書の教えから逸脱し、誤った教えに影響され、異端(背教)に落ち込んでいる事実があるということである。


3)教会組織の無限成長という貪欲の教えが、教会をカルト化させている

 教会にカルト化が起こる何よりの原因は、教会が何らかの非聖書的な(擬似キリスト教的な)イデオロギーや理論に汚染されて、聖書から逸脱し、教会全体が、その偽りの異端的理論の掲げる究極目的を達成するための手段となり、道具となってしまうためであると私は考える。

 キリストは十字架によるあがないを通して、人間(信仰者)に罪からの解放をもたらした。真理のあるところには自由があるはずである。だが、教会が正しい教えから逸れていく時、神がキリスト者に与えたもうた自由と解放を、人が勝手な思惑によって、再び奴隷のくびきに取り替えてしまうということが起こる。カルト化教会に顕著に見られる指導者・信徒間の隷従や支配関係は、そのような聖書から逸脱した偽りの教え、人間が作り出したむなしい教えが結んだ実の一つである。

 では、教会をカルト化させる偽りの教えにはどのような特徴があるのだろうか。

 カルト化した教会はほとんど例外なく、世界宣教という名目で、地上での終わりなき権勢拡大を目指していた。何らかの方法で信徒を叱咤激励しては、信徒が教会の権勢拡大、つまり、教会の地上的な繁栄を飽くことなく追い求めるように促したのである。そのために用いられた方法論が教会成長論であった。
 教会が、終わりのない地上的繁栄を求める、貪欲な、誤ったイデオロギーにとりつかれ、教会組織全体が、その究極的な目的達成のための手段となり下がり、信徒全員が真理から逸れて、教会を挙げてのむさぼりという罪の奴隷状態へと陥れたことが、教会をカルト化させた。

 聖書はこの世はサタンの支配下にあると教えている。従って、クリスチャンがどのように宣教をしようとも、世の終わりに至るまで、この世全体がクリスチャンの支配下へと奪回されることはないことを、クリスチャンは知っている。そこで、聖書の正しい教えを信じるクリスチャンは、世の中で生活しながらも、この世的な権勢、影響力を追い求めることはない。

 真のクリスチャンは、この世の誉れと富に執着を持たない。なぜならこの世の権勢を追い求めることは、主の御心に反すると分かっているからである。従って、正しい教えを知っているクリスチャンは、たとえ教会のためという名目であっても、富や誉、つまり自分たちの権勢の拡大を追い求めたりはしない。教会の領土を拡大したり、教会員を増やすことで、教会の権勢を拡大し、自分たちの教会の名前を全地にとどろかせることが主の御心だと勘違いすることはないし、自分の教会を日本の大リバイバルの重要拠点としようと考えることもない。大宣教命令そのものが、クリスチャンが内に向かう(自分の教会を拠点にしてそこへ人を集める)のではなく、外へ向かう(全世界へ出て行く)ことを促していることからも、そのような考えの誤りは明白である。

 真のクリスチャンであれば、ある都市や地域全体をクリスチャンの影響下に奪回し、クリスチャンの大都市を建設するような計画が、非聖書的であることを理解している。地上の都市を征服することは、地上の権勢を求めることであり、聖書の教えが肯定するところではない。

 聖書における使徒時代の教会は、信徒が集まって平和な交わりをし、神を賛美し、祈りを捧げ、聖餐を行い、聖書を教えるための場所であった。その当時、教会はリバイバルを成し遂げるための重要拠点ではなく、宣教のための特殊工作団体でもなかった。初代教会のほとんどのクリスチャンは、自分の家庭を中心に、平和で穏やかな信仰生活を送ったと思われる。確かに世界宣教に携わる者たちもいたにせよ、教会の信徒全員が特別な訓練を受けて、宣教のため強力な要員に変えられることはなかった(エペソ4:11-13、ローマ12:4-6)。また、彼らが荘厳で立派な礼拝堂の建設にこだわることもなかったし、献金額、信徒数の増加にこだわることもなかった。 
 クリスチャンは、神の国はそれぞれの信徒のうちに存在するものであり、見える形で、この世に成り立つものでないことを知っている。従って、真のクリスチャンが神の国の建設と称して、目に見える形での教会の地上的権勢を拡大しようと願うことはありえない。

 ところが、何らかの擬似キリスト教的な誤ったイデオロギーが教会に入り込んでくると、教会は地上的権勢を追い求めることが主の御心に反するものであることを忘れ、伝道や宣教を、目に見える形での教会組織の拡大と同一視するようになる。そうなると、教会は平和な交わりと礼拝の場所ではなくなり、終わりなき繁栄という究極目的を達成するための戦闘団体のように変えられてしまう。教会は、まるで一人でも多くの敵を倒すために攻撃的に戦う軍隊や、売り上げを競って伸ばそうとする株式会社のような様相を帯びて来る。

 教会が貪欲に権力を求め、地上的繁栄を求める教えに支配されるようになると、教会の組織構成や活動の全てが、その偽りの目的を達成するための手段となる。教会の指導者たちの役割は、正しい教えによって信徒を守り、導くことではなくなり、信徒が教会に利益をもたらすように訓練し、信徒を支配することへと変わる。教会成長に結びつかない考え方は、たとえ聖書に記されていても、メッセージなどの教えから排除される。

 また、教会組織の構成にも変化が生じる。少数の指導者による独裁体制が作り出されて、言論統制が行われたり、信徒の間に主従関係を定める階層制が敷かれるようになったり、信徒が互いに監視し合って、疑心暗鬼が生まれたりする。教会の権威と、教会に流れ込んだ富とが、効率的に、一極に集中するような仕組みが作られる。教会は繁栄の上にも繁栄を求め、指導者は、まるで会社の上司が売り上げの少ない部下を叱咤するように、教会員一人ひとりを生活の隅々に渡るまでコントロールしながら、教会成長を推進するための道具(エージェント)へと変えてしまう。教会の「営業成績」に貢献しないような信徒は、大切に扱われず、容赦なく非難され、しばしば無言のうちに、教会を去るよう求められる。

 こうして、教会の権勢を拡大し、教会に地上的繁栄をもたらすことが、教会の究極的な目的にすりかわってしまうと、教会の組織も、活動も、信徒一人ひとりの存在も、全てがその貪欲な目的を達成するための手段とされてしまう。礼拝と賛美の目的も、神ご自身に栄光を帰することではなく、教会の威信を誇り、教会に利益を還元することへとすり替わる。信徒の信仰生活の目的も、神を礼拝し、神に栄光を帰し、神と共に歩むことではなくなり、教会の拡大のために信徒の信仰生活が道具化される。教会活動内容の全てが、教会に地上的繁栄をもたらすという目的に沿って運営されるようになり、立派な礼拝堂の建設、派手なコンサートなどの豪華なイベント、豪勢な食事会、巨額の献金の要求、過酷な奉仕の促し…、等々、全ての活動が、世に対して教会の威信を誇示し、教会にさらなる繁栄と成長を呼び込むための材料となる。こうして、あらゆる点から見て、むさぼりに取りつかれた教会が出来上がる。

 つまり、カルト化した教会とは、程度の度合いこそあろうが、指導部を含む教会員全員が、教会の飽くことなき地上的繁栄というむさぼりの教えを理想として奉じ、教会全体がむさぼり達成のための手段となり、奴隷となってしまった状態を言う。
 そしてこのような聖書に反するむさぼりの教えに、公然とキリスト教の装いをかぶせて理論化したものが、教会成長論である。

 今日、様々な形態の教会成長論が次々と生み出されている。それぞれに形態が異なるために、たとえば、東京キリストの教会で実行されたディサイプリング・システムと、今日行われている弟子訓練を一概に同一のものとしてとらえることはできないだろう。
 しかしそれらの教会成長プログラムの表面的な特徴は異なっているとしても、根底に流れる思想は同じである。それは、教会の地上的権勢を無限に拡大しようという貪欲な目的を達成するために、教会そのもの、つまり教会組織、教会活動、信徒など、教会に属する全てのものを組織化し、集団化し、道具として支配していくことが、あらゆる教会成長論の本質だからである。

 さて、カルト化していた東京キリストの教会では、弟子訓練の必要性を提唱した『伝道のマスタープラン』(ロバート・E・コールマン著、いのちのことば社)や、セル・グループの必要性を提唱し、今日、教会成長論のバイブルようになっている手束正昭氏(日本基督教団、高砂教会主任牧師)による『教会成長の勘所』(マルコーシュ・パブリケーション、2003年)などが、ディサイプリング・システムの手本として、熟読されていたという。 (「教義の特徴」参照。 『教会成長の勘所』は雑誌「ハーザー」1998年5月―2002年10月号に連載された。)

 これらの書物に目を通すならば、私たちは、東京キリストの教会が崩壊したのは、決して、ディサイプリング・システムという固有の制度だけが原因だったのではなく、まず何よりも、教会成長論そのものに、あまりにも大きな誤りがあったことに気づかずにいられない。というよりも、教会成長論そのものが、聖書に反する異端だったのである。そのため、それを基礎として生み出されたディサイプリング・システムが、聖書に反して、信徒に自由を与えず、信徒を奴隷とし、教会を崩壊させるような、不健全で機能不全的システムとなったのは全く驚くには当たらない。ディサイプリング・システムのみならず、教会成長論を基礎とする全ての計画が、これと同様の危険や問題を背負っているのである。これを考慮するならば、今日盛んに提唱されている教会成長に基づく各種のプログラムを教会に導入することが、いかに教会を重大な危険にさらす行為であるかがよく分かるだろう。

 つまり、教会成長論とは、教会を崩壊に導く危険を内包するプログラムなのである。
 次回以降、そのことがはっきりと分かるように分析を進める。

<つづく> 

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