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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

畑の幸を楽しみつつ

今朝、手のひらの半分ほどはあろうかというほどの巨大な苺をもらった。

今年は畑の苺がなぜかあまり実らない。巨大な実をつけるはずの苺の木が、ランナーの芽ばかりを出し、少しも実を結んでいないそうだ。去年は苺のタルトを売るほど作ることができたのに、今年の冬は厳しい寒さがなく、いきなり春のような暖かさになったためもあってか、あまり採れない。

この地方は気候が温暖で、台風もなく、冷害もなく、土地も肥沃で、年中、野菜や果物を尽きることなく育てられる。そのことをある人に言うと、「それは天国のような土地ですねぇ、ここはアスファルトばかりですから羨ましい」と言われた。

私自身も長い間、アスファルトしかない街に住み、田舎暮らしに憧れていた。憧れていただけなので、田舎暮らしについて何も知らない。畑に植えられている作物の葉っぱを見ても、それが何の種類か見分けられない。いつかなどは、田んぼに生えているビール麦を稲穂だと思って、家人に悲しい顔をされたくらいだ…。

この地方で、農業に携わる人々はどんどん減っていく。荒れて放棄される畑も出てくる。都会暮らしに慣れ、重労働に従事したことのない私のような人たちには、これから、小さな畑仕事くらいはできたとしても、今更、百姓を継ぐことはできない。

祖母は身長150センチにも満たない小さな身体で、米俵一俵を一人で抱えることができる。今はぎっくり腰のため、休養中だが、鋤や鍬を一人でつかいこなすことができる。でも、私がそのまねをすれば、一日で寝込んでしまうだろう。重労働に従事してきた祖父も、重いダンボールを軽々持ち上げるし、屋根より高い松の木に乗って枝の剪定をする。

誰がこの先、百姓を営むのか? だれがこの人々の生活の知恵を受け継ぐのか? それはこの地方一帯の抱える問題だ。

さて、畑で取れる数え切れない作物に加えて、近所の人々が、やれ筍を水煮した、たらの芽を摘んだ、山で採れたしいたけだ、寿司を炊いた、赤飯を炊いた…、などと言っては、食べきれないほどの食事を分けてくれる。魚を釣ったけれども料理できないといって、鯛が差し入れられたこともあった。

何も食べ物の自慢をしようというわけではないので、あまり怒らないで欲しい。
都会に住んでいた頃、不摂生と貧しさがたたって、私は飢餓に近い空腹を抱えて過ごしていたことがあった。もちろん、私の飢餓感など、カルト化教会の深刻な弟子訓練の被害者の経験には、及ぶべくもない軽いものだったが…。

その経験から分かることは、人の身体は、一度でも、飢餓を体験すると、絶対にその記憶を忘れないということだ。体中の細胞が、以前、私がどんなに自分の身体をないがしろにした悪い主人であったかという前科を決して忘れてくれないのだ。そこでもしも、大した理由なく、1、2日食うや食わずでいると、たちまち脳に赤ランプが点灯する。「危険だ、危険だ! この無責任な主人は、放っておいたら、いつまでも何も食わずに、自分の身体を死に至らしめかねないやつなのだ! 早く何か食べてもらわなければいけない! さあ、脳よ、空腹のサインをどんどん送れ!! できるなら、今日、3日分くらい一気に食いだめさせてやれ!」といった具合に、体中の細胞が声をあげて食物を要求してくる。

多分、ダイエット後のリバウンドというのがこういう感じなんだろうと想像する。せっかくダイエットをしても、リバウンドの暴飲暴食のせいで、体重が逆に増えたりする例があるのは、人体のこういう本能的なセンサーが働いてのことなのだろう。かくて言えるのは、食事は定期的に取らなければいけません、飢餓状態に陥ったりしてはいけません、という当たり前のこと。

祖母がぎっくり腰になってから、否応なく早起きをせねばならなくなったが、少しもつらいことはない。朝5時には、鳥が鳴いて、自然の目覚ましになる。朝食を作る。味噌汁、魚の塩焼き、納豆…。大体そんなメニューだ。野菜にはことかかない。新たまねぎがガレージに山ほどつんであり、スナックえんどうはちぎれば畑からいくらでも持って来られる。青梗菜、水菜、レタス、小松菜も山ほど採れる…。
庭に出てみるとまた新しい花が咲いている。

なぜ朝が来るとあんなにも鳥たちは嬉しそうに声を上げるのだろう。彼らは一体、朝毎に何をあんなにも面白そうにさえずっているのだろう。
なぜ主に愛される生きとし生ける動物たちは、こんなに苦痛の多い世の中にあって、毎朝、毎朝、不思議な新しい喜びに満たされているのだろう。

キリスト教界について実名を出すべきかどうか、私は長い間、迷った。実名を出すと、これまで一切反応のなかった人々が、途端に動き始める。闇の世界が即座に反応する。きっと、今後、キリスト教界を公然と名指しで批判するような人がいれば、次々と、闇の世界からの非難の標的にされていくだろう…。

こんなに恐ろしいヤクザな世界が現代キリスト教界なのだ。訴訟沙汰の多さ、ゴシップの多さ、拝金主義的教会運営と、会堂建築ラッシュ、いつまでも終わらない権力闘争。カルト化対策すら、権力闘争の一環になっていることの怖さ。そして何よりも、教界に属している「正統な」クリスチャンの攻撃性、冷たさ、愛のなさ、聖潔のなさ、異様な言動…。このことがキリスト教界全体を覆っている暗闇を何よりもはっきりと示している。

私はキリストによって救い出されなければ、ただ滅び行く罪人であったに過ぎないから、私の中にボロをさがすのはいとも簡単だし、過去の誤りを指して非難されたとしても仕方がない。そして実際に、今後、私が再び罪人の道に公然と転落していかない保証も、どこにもないのだ。もっともらしいことを口では言いながら、その実、世の誉れと富とを追い求め、将来、地獄の長者番付の上位に名を連ねていないとも限らない(もちろん、そうなりたいという意味ではないが)…。人の心は何にもまして欺くものだ、人の心の中に潜む悪ははかりしれない。

だが、主の名のゆえに迫害される時、躍り上がって喜びなさい、なぜなら天での報いは大きいから、と聖書は私たちに教えている。だから、人から嫌われること、非難されることを過度に恐れて、聖書にはっきりと記されている真実を曲げてまで、沈黙する必要はないだろう。
詐欺の横行する今の世界にあって、誰を信じればよいのか分からない不安を私たちはしょっちゅう感じる。しかし、キリストは弟子たちを残して昇天する前に、私たち全てのクリスチャンの安全のために祈って下さった。

「聖なる父よ、わたしに賜った御名によって彼らを守って下さい。
それはわたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。<略>
わたしは彼らに御言を与えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世のものでないように、彼らも世のものではないからです。
わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪しき者から守ってくださることであります。<略>
真理によって彼らを聖別して下さい、あなたの御言は真理であります。
あなたがわたしを世につかわされたように、わたしも彼らを世につかわしました。<略>
わたしが彼らにおり、あなたがわたしにいますのは、彼らが完全に一つとなるためであり、また、あなたがわたしをつかわし、わたしを愛されたように、彼らをお愛しになったことを世が知るためであります。」(ヨハネ17:11-23)

このように、真実なるクリスチャンは決して世と一つになることはなく、世にもてはやされることもない。教界政治において出世を望むことはなく、地上の権力拡大には関心を持たないだろう。だがそれは、クリスチャンが世俗を離れ、世を軽蔑して、孤高の人として隠遁生活を送ることを意味しない。神がこの世を愛されたように、クリスチャンの使命もまた、この世に生きる魂を愛し、福音を語るために世に出て行くことである。だが、世は彼らを憎み、蔑み、いわれなく非難し、ののしり、悪しき者たちがハエのように襲いかかるだろう。
クリスチャンがこの世の魂をどれほど愛しても、この世から愛し返されることは決してない。それでも、悪しき者のしかける罠から守られるようにと、前もってイエスは祈って下さった。

「彼らも一つになるためです。」
あらゆる人間関係の中で、真実のクリスチャンの間に見られる一致ほど麗しいものが、他にあるだろうか。いつかそのような、キリストにある交わりの中に一つとされたいと願う。この世さえも、神がクリスチャンをどれほど愛されているかを知らずにはおれないほどに、強い、強い、愛による一致の中に導きいれられる日が来て欲しい。そのようなエクレシアの姿を私は見たい、そう切に願わずにいられない。

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