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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

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クリスチャンに社会的弱者に対する負い目の意識を植えつけることで、神ではなく世に奉仕させる偽りのキリスト教としてのペンテコステ運動

・クリスチャンに社会的弱者への負い目の意識を植えつけることで、キリスト教を世人の利益に都合よく改造し、神ではなく人類に仕えさせようとする偽りのキリスト教としてのペンテコステ運動の危険
 
さて、これまでの記事において、イゼベルの霊というテーマを用いて、クリスチャンが怨念と被害者意識に支配されて、すべての物事を「加害者・被害者」の対立というフィルターを通して見るようになり、自分自身を被害者とみなすか、もしくは自分を加害者の立場に置いて、罪の意識から絶えざる懺悔と自己批判を繰り広げ、他者への償いを使命として生きるようになることの危険性を見て来た。

すでに見た通り、こうしたトリックは、異端の宗教では普通に用いられており、統一教会においては、信者に罪の意識を植えつけることで、償いとして奉仕活動や献金を促そうとする手法が使われている。しかし、今日、統一教会の脱会者である村上密牧師の主導で、ペンテコステ運動において繰り広げられている、キリスト教会で傷つけられた被害者を「救済する」ためのカルト被害者救済活動も、以上に書いたのと同じ心理的カラクリに基づくものであり、これはキリスト教の中にいながら、キリスト教への加害者意識を捨てられない者が、自らの拭い去れない罪の意識から繰り広げるキリスト教への自己批判であると同時に、罪の償いとしての社会的弱者への懺悔の活動であることを書いた。

だが、これに類似する現象は、ペンテコステ運動の枠組みを超えて、キリスト教界に広く普及しており、ホームレス伝道などの中にも同じ性質を見て取れる。ホームレス伝道に関しては別途、稿を改めて書きたいと考えているが、すでに過去の記事でも触れた通り、解散した学生団体SEALDsの代表者であった奥田愛基氏の父である奥田知志牧師や、マザー・テレサのケースに見るように、生涯を弱者救済活動に捧げる人間には、幼少期もしくは青春時代に何かの事件を通して決定的な罪の意識が心に植えつけられている場合が多く、(奥田牧師は釜ヶ崎で、マザー・テレサはインドのコルカタで、そのような体験をしたものと思われる)、こうした人々はその時に植えつけられた自らの罪の意識を払拭せんがために、残りの生涯を弱者救済事業に捧げざるを得なくなるのである。

このような文脈における弱者救済活動は、弱者救済という美しい響きとは裏腹に、実際には、たとえクリスチャンを名乗っていても、心傷つき、罪悪感に苛まれ、神の救いを見いだせない信者が、自らの心の傷を慰め、自分自身を罪から贖うために行う偽りの自己救済の試みであって、そのようなものは、真の意味での他者への愛や支援にはならない、ということをこれまで書いて来た。奥田牧師の場合にも、同牧師が自分の家庭を半ば置き去りにするような形で、ホームレス伝道にのめりこんでいた影響なども手伝って、息子の愛基氏が幼少期に絶望に至り、学校でのいじめなどを苦にして自殺未遂にまで至っていることが、息子の手記から明らかになっているという。このように、まるでかつての学生運動時代の共産主義の革命家を、キリスト教の社会活動家に置き変えただけのような、家庭をも自分をもかえりみない、痛ましいまでに自己犠牲的で熱血で悲壮な救済事業への取り組みは、決して健全な心理から生まれるものではなく、隣人愛に基づくものでもなく、ただ人間の罪の意識から出て来るものであって、決して誰に対しても正常な結果をももたらさないであろうと言える。

奥田家の場合は、同牧師は家庭に異変が起きても、ホームレス伝道への自らの熱意の裏にある動機の根本的な危険性に気づくことなく、同氏のホームレス救済事業は成功談のように美化され、息子もまた父の事業の根本的な歪みを疑うことなく、父の持っていた罪意識から来る使命感を受け継ぎ、路上デモ支援に身を捧げるなど、親子二代に渡って、類似する道を歩むことになっている。

本当は、このように人の家庭を歪め、子供たちを犠牲にしてまで行われる弱者救済事業は根本的に何かがおかしいのだと気づいて、これを美談として扱うことなく、息子は、この事業に働く怨念と罪の意識の呪縛を見抜いた上で、これと訣別し、いつまでも罪の償いのために生き続ける人生を拒否すべきであったろう。しかし、現実はそうはならず、親子二代に渡って、罪の意識による弱者への自己懺悔の活動が継承された。路上デモ者の苦難に寄り添い、彼らの苦難に自分の苦難を重ね、彼らに手を差し伸べることで自らに手を差し伸べ、路上に人生の活動の場を積極的に見いだす愛基氏の行動は、もともとキリスト教会の信者が繰り広げるホームレス伝道や路傍伝道から福音伝道の要素を抜き去っただけのものであり、そのスタイルはもともとキリスト教会の社会事業、もっと言えば同氏の父の活動に由来する。

本来、牧師という職業は、イエス・キリストが十字架において信じる者の一切の罪を贖われたので、これを信じるなら、もはやその信者が罪の意識に苦しめられて、自分で己が罪の償いを続ける必要はないという聖書の普遍的事実に立って、世の罪を指摘し、世に悔い改めを迫り、世に救いの道を指し示すべき立場にあるはずなのだが、今日のキリスト教は、神の福音だけではどうしても飽き足らなくなって、キリスト教は独善的で冷たいという世からの批判をかわすために、世に譲歩し、世からの承認と賛同を求めずにはいられなくなっている様子である。その歩み寄りが、社会的弱者の救済事業となって表れるのである。

近年、キリスト教においては、『キリスト教の自己批判:明日の福音のために』(上村静著、新教出版社、2013年)などといった著書にも見られるように、社会的弱者への憐れみの欠如した伝統的なキリスト教のあり方を厳しく批判し、これをキリスト教の「独善性」や「排他性」とみなして断罪(クリスチャンの側から自己批判)しながら、キリスト教徒はこれまで自ら無関心に見捨てて来た社会的弱者に対して罪の償いを果たすために行動すべきであると唱える理論がしきりに登場している。社会的弱者のために、という美化された口実があるために、こうした理論の本質的な危険性に気づいて声を上げる人間はほとんど皆無と言って良い状況にある。だが、「明日の福音のために」という、以上に挙げた著書のタイトルにもよく表れているように、こうした理論は、社会的弱者の利益に仕えようとしない排他的で独善的な宗教に未来はないとして、信者自身の告白という形を取りながらも、暗にキリスト教そのものを仮想敵のごとく非難し、変革を迫っているのである。

これまでにも幾度も述べて来たことであるが、このように、キリスト教の内側から出て来る自己批判を装いながら提示される偽りの弱者救済の理論には非常な注意と警戒が必要である。当ブログでは解放神学の危険性を考察することで、こうした偽りの弱者救済理論の持つ危険性を指摘して来たが、このような理論には、「キリスト教は社会的弱者の利益に奉仕するものでなければならない」という大義名分を振りかざして、従来のキリスト教を社会的弱者を排除する「残酷で独善的で排他的な宗教」であったと糾弾し、キリスト教に有罪を宣告し、キリスト教はもっと社会に貢献する寛容で慈愛に満ちた宗教に変革されねばならないと唱え、キリスト教の福音の本質を、巧妙に何か別のもの(すなわち、神の利益に奉仕するものから、人間の利益に奉仕するものへと)すり替えようとする意図がその根底に隠されている。

以上に挙げた『キリスト教の自己批判』においても、解放神学とほぼ同じように、キリスト教の使命を、人間の魂を救うことではなく、信仰を持たない社会的弱者の利益を確保するための社会奉仕活動へとすり替えてしまうよう効果が見て取れる。

こうした理論は、社会的弱者の存在を口実にしつつ、信者が目に見えないパンよりも、目に見える地上のパンを優先して生きるよう促し、キリスト教が人間の魂の救いよりもこの世の物質的な利益を優先して、神ではなく人類の利益に奉仕するものとなるよう、「救済」の概念を巧妙にすり替え、キリスト教の福音を人間の地上的な利益にかなうものへと変質させる効果を持っている。

このように神とこの世の地位を逆転させ、目に見えない霊的な糧とこの世の物質的な糧との優先順位を置き換える転倒した思想を普及させるために、偽りの弱者救済の理論は、「キリスト教はこれまで社会的弱者を十分にかえりみて来なかった」と言ってはクリスチャンを責め、クリスチャンに罪悪感を植えつけることで、世から贖い出された信者たちを、再び、この世の奴隷とし、人類の利益に奉仕する存在へと変えようとするのである。

一旦、このトリックにはまって、罪の意識を持ってしまえば、その信者は良心を汚されてしまい、もはや神の目に清められた者として自信を持って立つことはできなくなる。たとえかつてはキリストの十字架の贖いを信じて罪赦されたという自覚を持っていたとしても、再び、罪の意識の奴隷となれば、その負い目ある限り、その信者はずっと罪の奴隷、この世の奴隷として束縛された状態に置かれ、自ら「被害者」を名乗る人間(世)の意のままに動かされることになる。

聖書には、人間の罪を表すものとして「いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書」(コロサイ2:14)という言葉が用いられているが、罪悪感とは、霊的な文脈における貸し借りの関係であり、もしもある人が罪のために負い目の意識を持つならば、その人は霊的な負債を負っているのであり、たとえその負い目を発生させる源となった出来事がどんなに遠い過去であって、仮に当事者がすでに亡くなっているなどして、誰一人それを記憶している者がなかったとしても、本人さえもその出来事を忘れていたとしても、その霊的な負債が完済されて、貸し借りの関係が一切解消されていない限り、その人はいつまでも罪による束縛の下に置かれ続けることになる。

罪意識は、それがキリストの贖いによって解消されない限り、人が悪魔に脅され、この世の支配下に屈する最大の根拠とされるものである。これは悪魔が人を脅し、ゆすり、支配するための格好の材料である。統一教会を含む、いかがわしい各種の宗教では、不幸な事件に遭遇した人に対して、「あなたは十分に先祖供養しなかったために、先祖の祟りとしてこのような災いがふりかかったのだ」などと言って、人を脅し、その「罪」を解消するために高価な壺などを買わせようとする手法が知られているが、そこでは、人に罪悪感を植えつけることで、これを植えつけた人間がその相手を思い通りに支配するという心理的トリックが利用されているのである。

そこで、「キリスト教は社会的弱者を容赦なく見捨てて、自分たちだけで神の救いを独占して来た排他的で独善的な宗教であるから、キリスト教は自らの排他性を罪として悔いて、もっと世に役立つ寛容で慈愛に満ちた福音となって、社会的弱者の利益にも積極的に貢献するようつとめるべきだ」などといった主張も、実のところ、上記の「先祖の祟り」による脅しとさほど変わらない心理的トリックに貫かれていることを見抜かなければならない。

そこではただ「被害者」の仮面をつけて登場しているのが「先祖」なのか、それとも「社会的弱者」なのか、という違いがあるだけで、その他の事項はほとんど基本的に変わらない。結局、そこでは、クリスチャンに対して、何かの行動が不足していたと言っては、真の被害者とは到底言いがたい第三者が巧妙に「被害者」の仮面をつけて登場し、クリスチャンを罪に定め、罪悪感を持たせることで、信者が己が罪を償うためには、「自称被害者」の希望に従って、彼らの注文通りに行動することで、自らの行動を改めるしかないのだと思い込ませるのである。

こうした考えの偽りを見抜けず、そこでしかけられた心理的な罠にはまってしまうと、クリスチャンはとがめのない良心を失って、自分を「加害者」とみなすようになり、「キリスト教や教会やクリスチャンに見捨てられた被害者」を名乗り出る人々に全く頭が上がらなくなり、彼らに対して終わりなき罪の償いを果たさなくてはならなくなる。実際には、ただあらぬ罪の意識を植えつけられ、世から言いがかりをつけられ、その因縁のために脅され、ゆすられ、たかられ、自分の人生を自由に生きられなくなっているだけにも関わらず、「弱者救済」の美名がついているがために、懺悔活動にいそしんでいる人々は、自分は社会に役立つとても良い事業を行っているのであって、まさか信仰を持たない人の背後に働く悪霊に都合よく脅されて彼らの利益の操り人形になっているのではないと思い込んでいるのである。

だが、本来ならば、世から罪定めを受けるどころか、世に罪を告げ知らせ、世に悔い改めを迫り、世の利益のためでなく、神と御国の利益のために働くべき牧師や信者たちが、このようなトリックにまんまとはまって、神を知らない不信者に自分の罪意識を解消してもらおうと、彼らのもとを訪れてはその注文を聞き、こうして世人への罪の償いに努力している様子は、まさに皮肉としか言いようがない。

筆者は、ホームレス伝道にいそしむ奥田牧師や、カルト被害者救済活動に携わる村上密牧師は、以上のように、隣人愛ではなく、罪悪感から弱者救済に突き動かされている人々であると考えている。こうした人々は、自分自身の抱える心の闇(罪の意識や、絶望や、空虚感)を埋めるために、自分と同じような、あるいは自分よりももっと「可哀想な人々」を見つけて来ては、彼らを支援することで、自己の空虚な心を慰め、かつ、自分自身の心の抱える怒りのはけ口を、何らかの救済事業(という名目での抵抗運動)に求めずにいられないのである。

筆者は、クリスチャンが社会的弱者に対して憐れみのない行動を取るべきだと言いたいわけではなく、また、真に困っている人に対して物質的支援が一切、無駄だと言うわけでもない。だが、ここで提起しているのはそれよりももっと深い問題なのである。 

ここで問題となっているのは、「加害者・被害者」という対立構造を持ち出して、クリスチャンであるにも関わらず、罪悪感から、見捨てられた弱者・被害者の救済にいそしむ人々は、人間の罪を指摘し、また人間の罪を赦すことができる存在とは誰かという問いへの答えを、巧妙に捻じ曲げ、はき違えており、そうした人々の思考においては、信仰を持たない者が、社会的弱者という立場に名を借りて(もしくは社会的弱者の存在を巧妙に口実として利用して)、キリスト教とクリスチャンに対して「神」のごとく君臨してこの宗教全体を罪に定め、信者であるはずの人々が、それに反論するどころか、信仰を持たない彼らの言い分を全面的に認めて、自ら言いなりになってその要求に従うことを肯定している異常さである。

そのようにして、信仰を持たないこの世の不信者が、自らの利害に基づいてキリスト教を断罪し、この宗教の足りないところを数え上げて、罪に定めるなど全く恐ろしいことであり、さらに、そのような理不尽な言い分を大真面目に聞いて心に罪悪感を植えつけられた一部のクリスチャン(?)たちが、自分は神に贖われたという清い良心と御子の贖いの完全性を信じる信仰を失って、世人の言いなりとなって、自ら加害者の立場に立って、世の不信者に懺悔し、彼らの利益に仕える道具となって、キリスト教の第一義的使命が、神に仕えることでなく、世に対する奉仕活動にあるかのようにみなしていることは、大変、恐ろしい事実である。

もしもこのような転倒した理屈が成立するならば、クリスチャンは、キリスト教に何らかの被害者意識を持つ者たちが現れれば、簡単にその言いなりになって、彼らの気のすむまで脅され、ゆすられ、たかられ、賠償を要求されるであろう。こうして、キリスト教全体が不信者の利益のために都合よく書き変えられ、全く別の宗教に変質することであろう。このような理屈は、「見捨てられた社会的弱者」を口実にして、キリスト教を脅して思うがままに従わせたい人々の欲望を正当化しているだけである。こうした理論は、キリスト教に恨みを持つ者たちにとってはまさに好都合であり、そこから皇帝ネロの犯したキリスト教徒への迫害と殺戮の罪までの距離はわずかに数歩程度でしかない。

世人はいつの時代も、ネロのような大規模迫害を用いなくとも、常に自ら神となってキリスト教に君臨したいと願っており、そのためにキリスト教の福音を骨抜きにして、この宗教全体を世の利益に仕える道具へ変えて行こうと狙っている。このような不信者の思惑にクリスチャンが自ら迎合し、この世の人間の非難に屈して、地上的・物質的支援(目に見えるパン)を神の福音(見えないパン)と対等かそれ以上の位置に掲げる時、キリスト教の福音は完全に骨抜きにされ、存在意義を失うのである。そうなると、これはもはや塩気を失った塩として捨てられ、踏みつけられるだけである。

さて、ペンテコステ運動に話を戻せば、自ら抱える拭い難い罪の意識の償いとして弱者救済事業にいそしむ牧師たちの活動の一環として、アーサー・ホーランドや元ヤクザの牧師(ミッション・バラバ)による世界各国での十字架行進なども挙げられるだろう。この十字架行進は、公式ページの記載によると、1992年に始まり、ごく最近まで、長年に渡り、世界各国で続けられて来たようであるが、イエス・キリストがすでに負われたはずの十字架を、人間に過ぎない者が再び背負って歩こうとするこの活動は、福音伝道の観点からは全く意味をなさない二番煎じであるばかりか、霊的には有害でさえあると筆者はみなしている。

確かに、奇抜な格好をした牧師が、十字架を背負って各国を巡り歩く姿は、人目を引くであろうし、そのパフォーマンスを見て、これをクリスチャンの巡礼の一種ととらえ、信者の謙遜さや世に対する愛の表れであるかのように誤解して、感動し、涙を流すような人間も、ひょっとすると、いるにはいるのかも知れない。しかし、たとえそうであったとしても、人が十字架を背負って歩くという行為は、クリスチャンならば誰もが知っているように、霊的には罪を負った人間が世のさらし者となりながら己が罪を悔いつつ死へ向かって行進することを意味するだけであるから、信者にふさわしい行動とは言えない。それは罪人が自ら犯した罪のゆえに、恥辱を負って、衆目に晒され、罵倒されながら、自らの罪にふさわしい罰を受けるために刑場へ引かれて行く惨めな姿そのものである。

一体、なぜキリストの贖いを信じて受け入れ、罪赦されたはずの人間が、このような行為をせねばならないのか? それが意味するところは何なのであろうか? 十字架が価値ある貴いものとなるのは、罪を犯したことのない聖なる神の御子キリストが、人類の身代わりに罪無くして十字架において罰せられることによって人類のために贖いとなられたという霊的な文脈においてのみであり、それ以外のケースで、罪ある人間が自ら十字架を背負って歩くことには、ただ単に人類の自業自得の罪を表す以外の意味はない。もっと言うならば、キリストの十字架の贖いを受け入れたはずのクリスチャンが、キリストがされたのと同じように、自ら十字架を背負って歩くことは、その信者がキリストの贖いを内心では否定しており、これを退けて、再び、自分で自分の罪を贖うために終わりなき苦行に励んでいるのと同じ無益で無謀な行為を象徴的に意味する。信者にそのような行動をさせるのは、キリストの御霊ではなく、反キリストの霊だと言われてもおかしくない。

聖書には、「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。」(マタイ10:38)という主イエスの御言葉があるが、これは信者が信仰ゆえに自らの生活において負わなければならない目に見えない様々な代償(自己の死、霊的な試練等々)を意味するのであって、信者が文字通り、目に見える十字架を肩に担いで世界各国を巡礼せよという命令を意味するのではない。さらに、信者が十字架を負って従うべき対象も、目に見えない主イエス・キリストのみであって、世人の目に認められるためのパフォーマンスとして十字架を負えという意味ではない。

アーサー・ホーランドの十字架行進は、この牧師自身がキリストの贖いを自ら退けていることを物語っているにも等しい。こうした活動は、世に対するパフォーマンス以上の効果はなく、その必然性がどこにあるのかも不明であるが、これをクリスチャンになっても罪の意識を捨てられない牧師や信者たちが、自らの負い目の意識から繰り広げる世に対する自主的な罪の告白と償いという文脈でとらえるならば、初めてその意味が明白になる。

アーサー・ホーランドが、牧師になった後でも、根本的に罪赦されたという実感を持てないでいるであろうことは、同氏が創設した元ヤクザの牧師の伝道団体である「ミッション・バラバ」の命名にもよく表れている。

一般に、クリスチャンが、聖書において自分自身をどの人物に同形化するのかは、極めて重要な問題であるが、ミッション・バラバのメンバーの牧師たちは、ゴルゴタに立てられた三本の十字架のどれにも自分を同形化せず、むしろ、キリストの代わりに無罪放免されて十字架刑を完全に免れた殺人者バラバに自分を同形化したのである。

筆者が覚えている限り、ミッション・バラバの命名の根拠については「十字架を免れたバラバも結局は、その後、自分の代わりに十字架に処せられたキリストの死に衝撃を受け、自らの罪を悔い改めてクリスチャンになったのではないか」などという楽観的な推測が用いられていたような気がするが、いずれにしても、そんな話は聖書にはない。

だから、バラバは決して悔い改めた罪人の代名詞ではないのである。この命名には、ひょっとすると「バラバが赦されたことは、キリストに対して申し訳ないことであった」という思いが込められていたのかも知れない。バラバに代表されるような、「恥辱と死の苦痛を免れたいばかりに、罪なきキリストを身がわりに十字架につけてまで、自分自身を無罪放免した卑怯で身勝手で頑なな加害者」としての人類の側から、「人類の横暴のために罪なくして殺された被害者であるキリストへの懺悔」としての意味合いが込められていたのかも知れない。

だが、もしそのような考えが根本にあるとすれば、それは一見、神に対する罪の悔い改めのように見えるかも知れないが、実際には、そこにあるのは、甚だ不遜な考えである。なぜなら、人類が神を人類の「被害者」であるかのように考えて、神に対して同情するほどまでに不遜な考えはないからである。人間に過ぎない者が、神を自分たちの悪行の「犠牲者」とみなして、自ら神に同情することによって、神の霊をなだめ、慰めようとするのは、傲慢以外の何物でもない。聖書をきちんと読めば、キリストは人類の罪の「被害者」として十字架にかかられたわけでなく、人類の凶暴さという意味では、そのような側面が確かに一面では見受けられはするものの、同時に、この十字架にはそれよりも深遠な神のご計画があり、キリストの十字架は、人類の贖いのために神の側から愛によって自主的に差し出された犠牲であり、人類はそれを自分自身の罪の贖いとして感謝して受けとるべきであって、自分とは無関係のものとして涙を流して同情すべき対象ではないことが分かる。

にも関わらず、もし誰かがキリストに「同情する」ならば、その人は、御子の十字架を自分のものとして受け取っていないのである。なぜなら、自分は運よく罰を免れたが、他人は不器用のせいかあるいは不運のせいでそれを免れられなかったと考えている人だけが、自分と違っていわれなく重い刑罰に処せられた誰かに同情することができるからである。もし信者が本当に自分自身の罪を認め、キリストの十字架を自分の罪に対する身代わりの刑罰として受け取っているならば、キリストの受けられた刑罰は、信者が当然受けるべき罰であるから、信者はこれを「不当なもの」として受け止めることはできない。彼はキリストを通して贖いが達成されたことを喜び、感謝し、御子の犠牲を賛美しこそすれ、キリストを人類の罪の被害者のようにみなして「同情」することは決してないであろう。たとえ約二千年前にゴルゴタの丘で死んだのが信者の肉体でなく、信者自身はキリストと同じ苦痛を寸分たりとも味わっていないとしても、信仰を通じて、霊的にその信者は確かにキリストと一体となって、永遠に十字架において罰せられたのである。キリストの受けた刑罰は、信者自身に下された刑罰であり、そこでは信者の信仰を通して、キリストが信者と一つになっていればこそ、キリストの贖いがその信者に対して生きて効力を発し、キリストと共に霊的に死んだ信者は、キリストと共に復活し、贖われた者として新しく生きるのである。

だが、ミッション・バラバという名を見る限り、アーサー・ホーランドを始めとして、そのメンバーは、キリストの十字架の贖いを自分自身の罪に対する贖いとして受け取っていなかった可能性が極めて高いように見受けられる。彼らは、ゴルゴタに立てられた三本の十字架のうち、ただキリストの十字架に自分を同形化しなかったのみならず、死の直前でキリストに向かって罪を悔い改めて、彼をメシアと認め、救われて御国に受け入れられた罪人にも自分をなぞらえなかった。むしろ、十字架刑を完全に免れて、ゴルゴタに立つこともなかったバラバに自分をなぞらえることで、キリストの十字架と自分自身を無縁としたのである。これは極めて暗示的である。

どんなに表向きクリスチャンを名乗っていても、内心ではキリストの十字架の贖いの霊的意義を自分自身に適用していないからこそ、彼らはバラバと同じ立場に立って、不当に十字架を免れた罪により、未だに神(と人類)に赦免を求めて懺悔と償いを続けねばならなくなっているのではあるまいか。そのようにして、自分自身を神の贖いと無縁の者として切り離しているからこそ、彼らは元ヤクザとか、元不良といった過去の負のレッテルを捨てることもできず、この恥ずべきレッテルを貴重なものであるかのように、社会的弱者の証としてかえって売り文句にしながら、神の贖いを退けた人間が、自分自身で背負わねばならない負いきれない刑罰の象徴としての十字架行進などといった活動にいそしんでいるのではないか。それは牧師でありながら、彼らの内心では罪の意識が全く内側で払拭されていないことの証拠である。

アーサー・ホーランドは十字架行進の開始以前から、元不良や元ヤクザの信者仲間と共に、路傍伝道にも精力的に乗り出していたが、このように、世人に対して、特に、世人の中でもとりわけ社会的弱者を対象に、神の愛と憐れみを積極的に説きながらも、同時に、自分自身には罪赦された自覚がなく、内心で深い絶望感を抱えながら、弱者救済という名目で、自らの罪の償いに従事する様子は、奥田牧師や、マザー・テレサ等と共通しているように見受けられる。

マザー・テレサの場合もそうであるが、信仰を持たない世の方を向いて、打ち捨てられた不信者に寄り添い、愛を示すことで、世に愛想を示そうとする活動から見えて来るのは、彼らがその不信者に自分自身を同形化し、彼らの苦しみの中に、自分自身の内心の苦悩を重ね、彼らの中に、自分自身の絶望感を投影することで、自分自身を救おうとし、彼らを「神」とすることで、自分自身を「神」として拝んでいるという事実である。

結局、そこでは、信者の信仰生活を評価するのが、見えない神ではなく、世の人々であるかのように置き換えられ、「社会的弱者」や「被害者」などといった世の人々が、クリスチャンに対して「神」になってしまっており、牧師や信者が、聖書の御言葉に基づき、世を罪に定め、悔い改めを迫るどころか、世に向かって「あなたは神に愛されている」などと語って世の罪を積極的に覆い隠し、世に媚びて、世の利益の代弁者となり、そうしてキリスト教の使命を、人間に奉仕し、人間の欲望をかなえるための社会活動へとすり変えているのである。

このように世に迎合した行動を取るのは、決まって、何かの罪悪感を心に抱え、自分の魂を世に質に取られ、神の救いを拒んでいる人間だけである。「犯罪者は(繰り返し)現場に戻る」という言い回しに表れているように、彼らは自らの心に負い目があり、罪によって自分の魂を世につながれ、担保に取られていればこそ、世という現場に縛りつけられ、繰り返し、そこへ戻らざるを得ないのである。彼らは神を見失っていればこそ、信仰を持たない世人を肯定することで、自分自身を肯定し、世の不信者を美化することで、自分自身を美化し、不信者を「神」のごとく高く掲げることによって、自分自身を崇拝しているのである。

しかし、クリスチャンとは、世から贖い出された者であり、信者はもはや自分自身や、世の栄光のために生きているのではなく、神の栄光のために生きている人々である。信者は罪のゆえに悪魔の奴隷として死の恐怖に脅かされながら、この世の支配下に置かれている者ではないので、世人の利益に媚びて、彼らの言いなりになる必要もない。クリスチャンを無罪放免するのは、世人ではなく、世の社会的弱者でもなく、神お一人だけである。

「義人は信仰によって生きる」と聖書にある通り、信者がどんなに立派な人間性を誇り、熱心な社会奉仕活動を誇ってみたところで、それはマルチン・ルターが登るのをあきらめたピラトの階段を信者が自らの膝で這い上ることと同じであり、それらの行為によって、信者が己が罪を自ら贖い、神の目に義とされることは永久にない。そうした行為によって、人が自らを義としようとすることは、みな人類による自己懺悔、終わりなきむなしい自己救済の試みでしかなく、どんなに社会的弱者に罪の償いを続けても、彼らは罪を告白すべき相手を完全に間違えている以上、人がその行為によって罪赦される日は永久に来ないのである。

聖書の神が、昨日も今日も、永遠に変わらないお方であるように、聖書の福音は時代を通じて一つであり、福音の本質は、過去も未来も永遠に変わらない。キリスト教の福音の本質は、時代のニーズの変化や、人間の思惑によって左右されるものではない。だから、欺かれてはならない、昨日や今日とは全く異なる「明日の福音」なるものは決して存在しない。もしそのようなものがあるとすれば、それは偽りの福音だけである。

福音が一つである以上、人間が罪から解放されて、自由になりたければ、そのために通るべき道もただ一つしかない。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)「あなたがたは、代価をもって買われたのです。人間の奴隷となってはいけません」(Ⅰコリント7:23)聖書にこのようにある通り、キリストの贖いを通して、世から贖い出された信者が、その自由を失わないでいるためには、信者がただ神にのみ従い、再び世の(人の)思惑に屈して、世の(人の)奴隷とならないことが必要である。

世に真理はなく、正義も、真実もない。加害者であろうと、被害者であろうと、弱者であろうと、マイノリティであろうと、御子の贖いの下にいない者は、全て罪人でしかなく、人間の罪を赦す権限は世にはなく、神にしかない。それにも関わらず、信者が、世のために、弱者のためにという美名に欺かれて、世の顔色を伺い、世の軍門に下るならば、世は自らの前に跪き、その支配に下る人間を徹底的に騙し、盗み、滅ぼすだけであろう。「貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。」(ヤコブ4:3)

このように、
信仰を持たず、神を敬わず、神に従うこともない世に媚びて、世の悔い改めない不信者に対して「あなたは神に愛されている」などと言っては世の罪を無罪放免し、すすんで世の利益の代弁者になろうとする人々は、今日も自分自身を神の敵として、「この人を除け。バラバを釈放しろ。」(ルカ23:18)と叫んでいるのである。だからこそ、そのような人々は決して世を罪に定めようとはしない代わりに、キリスト教を「独善的で排他的な宗教」だと言って罪に定め、クリスチャンに有罪を宣告し、罪の償いを求める。それは結局、彼らが神を罪に定め、敵に回しているのと同じことである。そういうことをしておきながら、同時に「キリストが無罪であるにも関わらず十字架にかけられたのは申し訳ないことであった」などと言って、神のために同情の涙を流し、神を犠牲者に見立てて見当外れな懺悔の活動にいそしむのである。

バラバとは、「都に起こった暴動と人殺しのかどで牢にはいっていた者」(ルカ23:19)であり、一説によれば、革命家だったとも言われる。虐げられた民衆の不満を手っ取り早く解消するために、都の秩序転覆を企てて暴動を起こし、悪代官のように見える役人を何人も殺害したりしていたのかも知れない。そんな荒くれ者の男の方が、キリストに比べ、民衆には親しみやすく、身近に思えたのである。それは、バラバが民衆の利益、つまり、弱者の救済を口実にこれらの犯罪を行ったからであろう。バラバの名前の由来も、息子を意味する「バル」と父を意味する「アバス」から成っているというが、それも偶然ではなかろう。問題は、彼の父は誰なのかということである。ピラトの前には二人の男が立っている。一人は聖なる神の独り子なるキリストであり、もう一人は罪深い人類から生まれたバラバである。当然ながら、キリストを罪に定めることによって無罪とされたバラバは人類を代表しているのであり、その父については、次の御言葉が当てはまる。

「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときには、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。」(ヨハネ8:44)

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