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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

偽預言者に対する厳しい裁き

<続き>

偽りの預言の特徴その③ 預言の成就の有無と、預言の吟味の必要性について

 真実の預言者は自らの預言の成就に対して責任を負う。偽預言者は自分の預言が成就しなくとも一切責任を負わず、預言を吟味する作業を、ただ預言を受ける者の自己責任に委ねる。
 正しい預言の取り扱い方においては、預言を吟味する作業が、預言とほぼ同時に、複数の者によって行われる。預言を信じるかどうかが、預言を受けた者だけの自己責任とされることはない。


1)預言を吟味する作業を聞く者の自己責任にしてはならない


 聖書は、私たちが預言の真偽を厳しく峻別できるだけの知恵を持つことの重要性を強調している。特別な啓示を受けたと思う場合は特にそうであるが、預言に携わる全ての人が、預言を厳粛に取り扱い、内容を厳しく吟味し、正しいものと偽りとを区別する識別力を持っていなければ、預言はただ人の躓きの源となるだけである。

 厳しく、また、慎重に預言を取り扱う態度を保とうとするならば、大規模集会や、毎日開かれているカフェテラスのような便利な場所で、インフレ時の紙幣のように、手っ取り早く預言を大量に配り歩くような態度が、いかに誤っているか、すぐに分かるだろう。そのような安易な預言の大量生産においては、預言を吟味することの重要性はほどんどかえりみられていない。誤った預言を信じ、人生を狂わされる被害者が現われても、それは預言を浅はかに信じた信徒の自己責任ということにされてしまう。

 だが、聖書は、預言を信じるかどうかを、ただ聞く者の自己責任に任せるようにとは教えていない。聖書は全ての預言は必ず吟味される必要があることを教えている。
「預言をする者の場合にも、ふたりか三人かが語り、ほかの者はそれを吟味すべきである」(Ⅰコリント14:29)。
「御霊を消してはいけない。預言を軽んじてはならない。すべてのものを識別して、良いものを守り、あらゆる種類の悪から遠ざかりなさい」(Ⅰテサロニケ5:19)。

 聖書では、預言が語られる場合、その場でそれが複数の者たちによって吟味され、識別される必要性があることが説かれている。従って、預言が吟味されることの必要性をきちんと認識している預言者ならば、預言を聞いた者が客観的にその真偽を吟味する心理的・時間的余裕さえないような場所、たとえば密室で、あるいは人の多すぎる場所で、あまりにも限られた短い時間で、慌しく預言を授けて、終わりにするようなことはないだろう。

 先に引用したジョン・ビビア氏の著書は、キリスト教界に横行する個人預言に関する偽りを暴露し、偽預言に騙されないようにと信徒に警告している点で、先駆的な価値を持っている。しかし、この著書には決して見逃すことのできない著しい欠陥があると私は思う。それはビビア氏が、個人預言のミニストリーそのものの誤りを追求していないことと、「それ(預言)を受け入れるか受けないかは、私たちに責任があるのです!」(p.93)と、預言に信憑性があるかどうかを吟味する作業を、ただ預言を受ける側の自己責任に帰してしまっている点である。

 この著書の中では、偽の預言を信じてしまうことから来る、つらく重い代償については語られているが、偽の預言を語る者に、どんなに重い責任が伴うか、どんなに厳しい裁きが待っているかということがあまり触れられていない。
 さらに、アメリカのキリスト教界において、おびただしい数の偽りの個人預言が横行していることを警告しながらも、偽預言者を一人として実名で告発していない点で、この著書にはあまりにも大きな欠点がある。指導者同士の告発のし合いや、訴訟沙汰を避けるためであったのか、理由は分からないが、いずれにせよ、誰が偽の預言を語ったのかという事実の詳細を知りながら、それでもその指導者の実名を挙げることなく、またその預言の詳細を記さないことは、事実上、偽預言者の活動を容認しているのと同じである。
 

2)偽預言者を見分ける方法と、偽預言者が受ける厳しい裁き

「『預言者が、わたしが語れと命じないことを、わたしの名によってほしいままに語り、あるいは他の神々の名によって語るならば、その預言者は殺されなければならない。』 <略>
 もし預言者があって、主の名によって語っても、その言葉が成就せず、またその事が起こらない時は、それは主が語られた言葉ではなく、その預言者がほしいままに語ったのである。その預言者を恐れるに及ばない。」(申命記18:20-22)

 聖書を見ると、預言者を名乗る者が、神に背き、主から出たのでない自分の心の幻を言葉を語ったり、主の言いつけに背いて道を踏み誤ったりする場合、はかりしれないほど厳しい裁きが待っていることが分かるだろう。列王記(上)第13章には、初めは大胆に神の言葉を語り、奇跡を行う預言者だった者が、人の言葉に騙されて、神の命令に背いた結果、道端で獣に食い殺されたことが記されている。

 聖書に登場する預言者たちは、いつも偽預言に対して公然と対処してきた。すでに述べたように、エリヤはバアルの預言者に対して公の場で毅然と対決したし、エレミヤはハナニヤの偽預言に公衆の面前で相対した。真の預言者たちはひるむことなく、偽預言者に対して、公然と、名指しで非難を行ったのである。

 偽預言者とはどのような人々を言うのだろうか。聖書は言う、「もし預言者があって、主の名によって語っても、その言葉が成就せず、またその事が起こらない時は、それは主が語られた言葉ではなく、その預言者がほしいままに語ったのである。」 
 破滅を予告する預言は、聞いた者がもし心から悔い改めるなら、主の御旨により撤回されることもあるだろう。だが、特に、平和についての預言は、成就しなければ、預言が偽りだったことの証拠となる。巨大なリバイバルや、教会成長、人生の具体的祝福、事業の成功、ミニストリーの成功などを約束した預言が成就しなければ、それはそれを語った預言者が偽りを語ったことを意味する。成就しない預言を語ったり、人を惑わせるような預言を公然と行った預言者が、公の場で、偽預言者として非難され、信頼を失うのは当然である。

 私は今日においても、偽預言者の預言は公の場できちんと証拠立てて検証され、それに虚偽があるならば明らかにされてしかるべきであると考える。政治家は公の場での発言に責任を問われる。教師も同じである。あらゆる職業人は自らの仕事内容に対して責任を負う。それならば、仮にも預言者を自称し、「主はこう言われます」と人前で大胆に語る者がいるならば、その人は神の名を用いて自分が行った預言を公に記録され、どんな内容であれ、成就したかどうか問われ、成就しなかった場合に、偽預言者として責任を負わされるのは当然である。

 こうして預言者その人自身と、預言内容を厳しく吟味する作業をしなければ、預言にまつわるこの大混乱状態の中で、偽りの預言を見抜くことは不可能である。誰が偽預言を語ったのか、厳しく吟味する作業を自分自身で進めて行かなければ、誤った預言がもたらす破滅的な影響を食い止めることは極めて難しい。

 さて、預言の正確な吟味を行うために、まず、預言はどんなものであれ、記録に残すように心がけたい。いつ、どこで、誰が(何という名前の預言者が)、誰に向かって、どんな内容を預言したのか、詳細に記録に残すようにしたい。そして一人ならぬ複数の者たちで、その場でもそうだが、その後、時間をかけて、預言の成就の有無を確かめる必要がある。たとえ一人で個人的に預言を受けた場合でも、それを秘密にせず、記録に残し、吟味した方が安全であるだろうと私は考える。

 さらに、昨今、多く見受けられる個人預言は、まるで占いのように曖昧かつ抽象的で、具体的な状況説明に欠けており、わざとぼかした内容となって伝えられるので注意したい。いかにも神からの言葉であるような雰囲気を醸し出すために、聖書の御言葉を引用して重々しく伝えられ、しかも、聞いた人がその助言にすぐに従うことを求めていたりする場合もあるが、よく考えてみれば、あまりにも前後の文脈に乏しく、状況説明もなく、結論さえも曖昧にぼかされてはっきり断言されておらず、本当に事実関係をよく理解した上で発言されているのかどうか判断する根拠が全くない場合が多い。しかも、聞いた人がその内容の曖昧にぼかされた部分を自分の想像で適当に補った上で、その個人預言の醸し出す「雰囲気から」、「空気から」、結論を自分で読み取って判断しなくてはならならない場合が多い。

 聖書の言葉が引用されていて、荘厳に聞こえるというだけで、このような発言を信じてはならない。抽象的で曖昧な預言については、きちんと発言者に具体性な説明を求め、具体的状況説明ができないようであれば、そのようなものは疑わしいと考えて退け、徹底的に主に向かって是非を問い、自分自身で聖書と照らし合わせて検証することを勧める。

 このように個人預言の内容が抽象的でぼかされた形になっているのは、聞いた人がそれを信じやすくするため(自分にとって都合の良い内容であれば、曖昧な内容でも人は信じようとするし、自分にとって不都合な内容の場合であっても、意味がよく分からないという不安な心理が、逆にその人を「従わなければ大変なことが起こるのではないか」という思いにさせてしまう。不安を煽ることによってその人を従わせるよう駆り立てる心理効果を狙ったものと見られる)、また、個人預言の内容をわざと抽象的にしておくことにより、語った者が後になって責任追及されることを避けるためであると思われる。しかし、抽象的で漠然とした内容が伝えられるなら、なおのことそうだが、それを鵜呑みにすることは絶対に避け、発言者に具体的説明を求め、徹底的に聖書に照らし合わせながら、前後の文脈と具体的な事実関係を検証していかなければならない。

 そこで、もし皆さんがどこかで個人預言を見たり聞いたりすることがあれば、たとえそれが自分に関わる内容でなくとも、聞いたこと、見たこと全てを詳細に記録しておくようにお勧めしたい。そして当該預言者の名前と言動をしっかりと記録にとどめて、できれば成就の有無についても書き残されたい。その預言が人々にどのような具体的影響をもたらしたのかを、つぶさに調べることができればベストだ(たとえば信徒の熱狂を煽って、教会の推進する特定のプロジェクトへの支持者を増やした等)。

 このような預言の識別作業を、クリスチャンが共同して行うことができれば、かなりのパーセンテージで虚偽の預言を明るみに出すことができ、偽預言者の活動をいくらかは押しとどめることもできるはずである。誰がどこでどのような預言を行い、その結果がどうなったのかという情報を蓄積することによって、私たちはいかなる預言者を信頼してよいのか、判断する有力な材料を得ることができる。

 あらゆる預言者は、自分が公の場所で発した全ての預言について、人々から検証され、信頼性について判定を下されるべきである。聖書のどこを見ても、言いっぱなしの預言などない。そして無責任な預言、偽預言で、聞く人を破滅させているような人物がいるならば、実名で責任追及されるべきである。そもそも公の場で、預言者たちが自ら実名を公表して職務中に行った発言について、発言者の名を伏せる必要はない。預言は語った者の名前とともにきちんとで記録されるべきである。

 神の名を用いて信徒を惑わすことを戒める法律は日本には今のところない。そこで、預言詐欺を食い止めるには、信徒が目を覚まして、預言に対するハードルを高くし、真偽を自分自身で見分けることを積みかさねる他ない。

 さて、最後に、偽預言者に対しては、神からの厳しい裁きが待ち受けていることは、すでに述べたが、終わりの時代にあって、民を惑わす偽牧者、偽預言者がおびただしく登場することが聖書では警告されている。ゼカリヤ書には、そのような偽預言者に対する厳しい告発の言葉が並べられている。

「テラピムは、たわごとを言い、
占い師は偽りを見、
夢見る者は偽りの夢を語り、
むなしい慰めを与える。
このゆえに、民は羊のようにさまよい、
牧者がいないために悩む」(ゼカリヤ書10:2)

 これは終わりの時代に対する警告であると私は解釈する。終わりの時代には、クリスチャンを自称する人々が、まるで辻占い師のように偽りの夢幻をさかんに語って、信徒を惑わせるようになり、そのために、教会にはまともな牧者がいなくなって、主の民があちこち彷徨うことになる。

「万軍の主は言われる、その日には、わたしは地から偶像の名を取り除き、
重ねて人に覚えられることのないようにする。
わたしはまた預言者および汚れの霊を、地から去らせる。<略>
その日には、預言者たちは皆預言する時、その幻を恥じる
また人を欺くための毛の上着を着ない。」(ゼカリヤ13:2,4)

 「預言者および汚れの霊を、地から去らせる」と書かれていることに注意したい。これは、終わりの時代には、圧倒的な数の預言者たちが、主の霊ではなく、「汚れの霊」によって、預言を始めることを意味すると解釈できる。だがやがて、そのような偽預言者たちの偽りが暴かれ、偶像が権威失墜して、恥を見る時が来る。そして正しい預言者は、人の耳に心地よい預言ばかりを誇らかに語ることはもうできなくなり、旧約時代の預言者と同じように、預言を金儲けの手段にせず、しかも、自分や民に与えられる厳しい預言内容のために、主の御前に嘆いたり、恥じ入ったりするだろう。

「万軍の主は言われる、
『つるぎよ、立ち上がってわが牧者を攻めよ。
わたしの次に立つ人を攻めよ。
牧者を撃て、その羊は散る。」(ゼカリヤ13:7)

 「わが牧者を攻めよ」、「わたしの次に立つ人を攻めよ」。文字通りに解釈するならば、何と恐ろしい言葉であろうか。神に次ぐ者として立ち、多くの羊の群れを任されていながら、羊を飼わず、己の懐を肥やすことばかり考えて、羊を食い物にしているような牧者は必ず主によって撃たれる。

 黙示録では、こうある。「そして、彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄との池に投げ込まれた。そこには、獣もにせ預言者もいて、彼らは世々限りなく日夜、苦しめられるのである。」(黙示録20:10) 

「事はすでに成った。わたしはアルパであり、オメガである。初めであり、終りである。かわいている者には、いのちの水の泉から価なしに飲ませよう。勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐであろう。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。しかし、おくびょうな者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者には、火と硫黄の燃えている池が、彼らの受けるべき報いである。これが第二の死である。」(黙示録21:6-8)

 偽預言者、偽牧者に対する裁きはまことに厳しい。神を恐れず、偽り言を平然と語る人間にはならないようにしたい。
 

後日付記【2016年】:「わが牧者を攻めよ」というくだりは、キリストの十字架を指すのであって、偽預言者を指すのではないと指摘した人がある。だが、たとえそうであったとしても、やはり、偽預言者に対する裁きが厳しいものであることが聖書の随所から明らかであることは間違いがない。

さて、偽預言者とは具体的にどういう人々を指すのか。
今日、権力闘争と保身のためだけに、罪もない人々を偽預言者扱いして迫害中傷している人々がいるため、拡大解釈を防ぐ目的で、ここにきちんと証拠を記しておきたい。

数々の怪しい霊的ムーブメントを無批判に取り込んだがゆえに、背教の殿堂となっているアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団と、「カルト問題を解決する」ことを口実にそこから生まれて来た腐敗したカルト被害者救済活動、および、他教会へ潜り込んでは信徒に偽りを吹き込む同教団信者の工作員としての活動について、当ブログではいくつもの記事を書いているが、特に以下を有力な参考材料として提示しておく。この教団が偽預言者の養成所のようになっていることがよく分かる。

罪と罰――カルト被害者救済活動はなぜ聖書に反するのか
――ブログ「随想 吉祥寺の森から」の著者 杉本徳久氏による
多くのクリスチャンに対する聖書と法に基づかない虚偽の告発と
 カルト被害者救済活動が持つ反聖書的な意義についての考察――
 
大いなるバビロンからの脱却 反キリストの原則の明確な発展
――アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の非聖書的で危険な活動――
~村上密牧師と津村牧師による鳴尾教会人事の私物化問題について~

カルト被害者救済活動の暴走
 ~アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団による魔女狩りとしての
鳴尾教会への恫喝訴訟と、AG信徒による他教会の乗っ取り事件~

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