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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

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預言を売り物にするミニストリーの誤り

偽りの預言に関する記事の続き>

偽りの預言の特徴② 大量生産される預言、代価を求める預言は偽りである。

 正しい預言の取り扱い方においては、預言者は神に聞く姿勢を重視し、信徒としての生活を送りつつ、啓示が与えられる時まで、忍耐強く待つ。預言者が預言の代価として人々に金銭などの報酬(献金)や奉仕を求めることはなく、また個人預言と銘打って、お手軽に誰にでも預言を語ることはない。


1)預言に関する現代キリスト教界の混乱した状況

 神がいつ誰に何を啓示されるのか、それを人が前もって知ることはできない。サムエルが幼い頃、「主のことばはまれで、黙示も常ではなかった」(サムエル上3:1)とあるように、旧約時代、預言者たちには誰しも、主のことばを待つために、忍耐が要求された。預言者がいつでも好きな時に預言を語れるわけではなかった。
 
 それに加えて、預言者の任務は重いものであった。主が語って下さるその時まで、忍耐強く待ち、語りかけがなくとも、戒めを守って清い生活を送らなければならないだけでなく、語りかけがあれば従順に聞き、そして受け取った預言の内容が、たとえ民が聞けば悲鳴を上げるような内容であっても、忠実にその内容を民に伝えなければならなかった。
 そのため、預言者はしばしば預言内容を理由に民に恨まれ、迫害され、命を狙われた。だが、そうなっても、預言者には召命に従順であることが要求された。

 しかし今日、そのような、預言を取り扱うにふさわしい厳粛な態度を少しも持っていない人たちが、特別な賜物を見せびらかしたり、預言をビジネス・チャンスに変えて商売にしたり、人の運命を自在に操れる権力を持ちたいばかりに、自称預言者を名乗っている現状がある。こうした人々は啓示が上から下るまで待ちきれず、いつでもどこででもお手軽に預言を語れるようになろうと努力し、それが信仰的態度であると誤解したまま、主からの語りかけではない、自分たちの心のうちにある幻を、大衆に向かって語っている。

 そうした偽預言者の語る内容は様々である。中には、人を惑わすような、甘い繁栄や成功のヴィジョンばかりが預言として語られる集会がある一方で、人を脅し、不安に陥れるような不吉な預言ばかりが語られる集会もある。そして、そのような場所では、預言を受けた人に、無言のうちに、高い献金や、参加費、具体的奉仕が要求されている。(預言者が預言を利得の手段とし、わいろをもらって、預言内容をコントロールすることは罪である。 サムエル記上8:3、列王記5:16、ミカ3:11を参照。)
 
 今日、ペンテコステ運動の霊的なブームに乗って、数多くの場所で、自称預言者たちが「神の器」として講壇に立ち、大規模集会を開いて、「主の御告げ」と称して、順番待ちの列に詰めかけた不特定多数の会衆に、一人ひとり手を置いて祈ったりしながら、「個人預言」を語っている。主がそのように安っぽく人に語られることは決してないというのに、まるでコインを入れればいつでもコカ・コーラが出てくる自動販売機のように、預言を大量生産し、ビジネス・チャンスとするような動きが教界に起きている。

 このように、大規模に開かれる「預言のミニストリー」がある一方、小さな規模の内輪の集まりで、「主はあなたにこうおっしゃってます…」と言って、自分の心にひらめいた聖書の箇所を引用しながら、隣人に向かって、日常生活の細部に渡るまで、こと細かに指図を出しているような、お節介な自称預言者もある。

 さらに、預言に関する混乱の頂点を極める現象として、訓練さえ受ければ、誰でも預言者になれますと宣伝して、卒業生を預言者として世に送り出すための、預言学校なるものがキリスト教界内に開かれている。聖書のどこを見ても、学校を卒業して預言者となった人物はいない。にも関わらず、このような事業がまるで聖書的プロジェクトであるかのように大真面目に推進されている。
 まるで、ハリー・ポッターの物語の魔法学校を現実化させたかのような、預言者の学校については、キリスト教界の聖職者たちの中からさえ、深刻な懸念の声があがっている。多くの牧師たちが、このような学校やセミナーがうさんくさいものであることを心から確信している。にも関わらず、厳しい反対の運動が起こらないために、預言学校や預言者訓練セミナーは、キリスト教の装いのもとに、まるでれっきとしたクリスチャン的活動であるかのように、今も開かれているのである。

 さらに、預言カフェなどの教会外の催しもそこに加えれば、預言に関する今日的混乱は無限大に近いものとなる。まるで辻占いのように、神の啓示を安っぽく扱い、手っ取り早く売り物にしようとするような行事が、今日、堂々と指導者の承認を得て、複数の教会や、集会で行われているので注意されたい。
 預言者の召しをかくも軽々しく、まるで易者や辻占いと同列に扱うこのような流行が、聖書にかなった行為であり得ないことは、普通のクリスチャンであれば誰しも理解できるだろう。


2)預言を追い求めるとは御言葉に溢れることを追い求めることである

 このように預言の安易な大量生産に携わる人々が、自分たちの活動の正当化に用いるのは、大概、次の聖句である。「あなたがたは、みんなが学びみんなが勧めを受けるために、ひとりずつ残らず預言をすることができるのだから。かつ、預言者の霊は預言者に服従するものである」(Ⅰコリント14:31-33)。

 だが、この聖句を拡大解釈して、神の御心を信徒が自分の思惑によってコントロールすることや、聖霊の賜物を人間が自らの肉的な意志に服従させ、肉なる思いの中に閉じ込めることを正当化する根拠にすることはできない。私たちがそのような、賜物の濫用行為に走れば、聖霊は悲しんでその人から去って行かれるだろう。
 「あなたがたは…ひとり残らず預言をすることができる」という聖書の箇所は、決して、預言の安易な取り扱いを奨励し、クリスチャン全員が、まるで辻占い師のように、望めばいつでもどこででも誰に対してでも預言を語れるようになりなさいという意味で述べられているのではない。

 神からの啓示を受けることは、私たちが空腹時に冷凍食品を電子レンジで温めることとは全く別である。私たちがいつでもどこででも、望みさえすれば、神の懐から自分に必要な預言をもぎ取って行けるというような考えで、預言を取り扱うべきではない。それは主の言葉を軽んじ、御心をないがしろにすることである。

 預言を求めるためには、何よりも、私たちが神が働いてくださるその時まで、忍耐強く待つことをしなければならない。自分の心の必要性よりも、主に聞く姿勢を重視して、御心を追い求めなければならない。主のことばに出会うためには、自分の思いを排除して、聖霊の語りかけに耳を澄ます必要がある。心躍るような特別な方法を通して、神と個人的に出会いたいという願いには、一見、信仰的であるように見えても、その実、利己的な願望が含まれている。そのような思いは排除されなければならない。

 預言に関して間違った取り扱いが頻発しているのは、クリスチャンが、私たち人間の側が何を得たいか、知りたいか、という人間サイドの欲望に従って、神の御心を追い求めようとするからである。そのような自分サイドの願いに基づいて預言を求める姿勢を排除し、何が主の御心なのか、主は私たちに何を望んでおられるのか、という主の側からの視点に照準を合わせることをしなければ、クリスチャンは自分の心を喜ばせてくれる誤った預言に簡単に引きずられ、信仰から逸れて行ってしまうだろう。
 
 Dr.Lukeによる「新約の預言について」の解説にはこうある、「『キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。』(コロサイ3:16)とあるとおりです。私たちのうちに御言葉が豊かに住めば住むほど、溢れるように神の言葉を語ることができるでしょう。」

 この通り、預言の本質は聖書の御言葉である。現代にたとえどのような特殊な形で、上からの啓示が与えられることがあるにせよ、それが本当に真実、主から来たものであるなら、その内容は必ず聖書に合致するはずである。個々の預言にはそれぞれに違った色合いがあるだろうが、決して、それを聖書以上に重んじる姿勢をクリスチャンは取ってはならない。また、預言を何か心を躍らせてくれる特別な神との出会いのようにとらえ、特別に、超自然的な方法で、主からの語りかけをいただきたいばかりに、預言を追い求める姿勢は誤っている。

 私たちは聖書を開くとき、いつでも、内なる聖霊を通して、個人的に主と対話できる恵みをいただいている。大規模集会の盛り上がったムードの中で、「主はあなたにこう語られています…」と、耳に聞こえる語りかけをもらわなくとも、あるいは、祈った時に明確な回答のことばが心にひらめかなくとも、へりくだって愛なる神は、あなたの人生にいつも静かに共にいて下さり、インマヌエルの名の通り、「私はあなたを捨てて孤児とはしない」と言って下さるのである。私たちがこの地上で主と語らうことのできる恵みは、人生の終わりの瞬間まで、尽きることなく与えられている。すぐに信じられそうな、目に見える証拠に心を奪われ、外的な現象ばかりをしきりに追い求めることなく、静かに人に寄り添って、沈黙の中でも共に歩んで下さる主を信頼することを学びたい。

 預言を求めるとは、御言葉に溢れ、御心のうちに歩もうとすることと同義であり、従って、日々の生活の中で、いつも聖霊との対話を続けながら、それをクリスチャンと分かち合うことと同義であると考えて良いのではないかと私は思う。
 「預言をする者は、人に語ってその徳を高め、彼を励まし、慰めるのである。<略>預言をする者は教会の徳を高める」(Ⅰコリント14:3-4)という聖句も、このような文脈に立って解釈されるべきであろう。

 すでに述べたように、預言という概念の中には、未来予言的な啓示を受けることだけでなく、倫理的な訓戒などの意味も含まれている。クリスチャンが互いに主の御心に沿うために、互いに必要な事柄を訓戒し、忠告し合い、戒め合い、教え合い、より御言葉に精通するために励ましあうこと、それが預言を熱心に追い求めることである。

 肉的な思いで人を慰めようとする時、私たちは他人がすぐに安心できるような事柄、未来の成功を確信できるような事柄を語ろうとする。しかし、「信仰的に」、励ましや、慰めが与えられる時には、たとえ困難の中にあっても、忍耐強く主を見上げ、へりくだって、地道に愛に生きるように語られることが多い。壮大なヴィジョンや、成功の物語が語られることはまずない。
 従って、クリスチャンとして、あなたが何かわくわくするような特別な奉仕に召されているとか、巨大なリバイバルに仕える奉仕者となって、全国に影響を与えるミニストリーを率いるだろうといったような、大きな成功のヴィジョンが語られる時には、そのような自分の心を興奮させるような預言が、主から来たものとはまず考えられないことを疑うべきである(預言を吟味する必要性については、次の記事を参照)。

 真の預言は、人が主を見上げ、御言葉に溢れるために与えられるものであり、己が人生の成功や、己がプロジェクトに熱中するために与えられるのではない。従って、真の預言は、私たちが自己を厳しく振り返り、悪事から離れ、エゴイズムを捨てて、この世の誉れや、富を思い求める願いや、人生の成功者になりたいという欲望から遠ざかるように促すだろうし、ひょっとすると、私たちがこの世の富や、金銭や、権力に心惹かれ、執着していた罪や、権力者にこびへつらいながら、弱いものを足蹴にしていた不公平な態度などを暴き出し、悔い改めを迫ることがあるかも知れない。

 真の預言は、クリスチャンが公正と正義に基づいた生き方をし、へりくだって、苦しい時にも、主の御心のうちを歩むように促すはずである。預言の目的は、人の心を神に向けさせることであり、己自身に向けさせることではない。従って、私たちが心の中で抱いているプロジェクトの成功を保証してくれる預言に安易に飛びつくような態度は危険であるし、誤っていると私は思う。

 預言を熱心に求めなさいという勧めは、自分の思惑次第でいつでも神からの啓示を受けられる人になろうと努力することや、人生で迷った時、占い師や、民間療法師を頼るように、いつでも預言を求めて出かければよいという意味ではない。
 そのことをクリスチャンが理解せず、自分の心を静めて、自分の勝手な欲望に死んで、主の御心を探るということをしないまま、手っ取り早く人生の助言者(預言者ではなく助言者!)を求めて、様々な集会に出かけて行ったりすると、人の思惑によって人生を支配され、振り回され、大きな損失をこうむるという手痛い結果が起きかねない。


3)「個人預言のミニストリー」という形態は聖書には存在しない

 
 さらに、現代に横行している「個人預言」には、聖書的裏づけがないと私は考える。
 聖書においては、集会に訪れる不特定多数の信徒を対象とした、「個人預言のミニストリー」というものは、預言の重要な形態としても、伝道の形態としても、決して存在したことがない。(預言者が民の間での争いごとを知恵を持って裁くことはあったが、神からの語りかけを、訪れた一人ひとりに向かって語ることはなかった。)

 確かに、聖書を見れば、預言が特定の個人に向けて与えられる場合がなかったわけではない。だが、そのような場合は極めて限られており、さらに、個人に向けられる預言の内容は、具体的で、どのようにでも曖昧に拡大解釈できるような漠然としたものではなかった。
 しかもそのような「個人預言」(あえてそのように呼ぶならば)があった場合、その内容は、受けた人の心を喜ばせるどころか、恐れさせるような、ことさらに厳しいものである場合が多かった。

 個人の人生に何か信じがたいほど喜ばしく重大な事柄が起ころうとしている時には、神はその重要なメッセージを多くの場合、人には託されなかった。預言者を介して、つまり人を介して主が人に語られる時、人の耳に心地よいことが語られることは少なく、かえって厳しい忠告が語られることがほとんどであった。

 士師記第6章にその典型的な対比を見ることができる。イスラエルの民が悪事や偶像礼拝に走ったことの報いとして、異教徒ミデアン人のとらわれとなっていた時、ひとりの預言者が、神は「あなたがたはわたしの言葉に従わなかった」と民の罪を糾弾し、悔い改めを迫った(士師記6:7-10)。

 だが、神はこうして預言者を通して、民に耳の痛いメッセージを語らせた一方で、イスラエルを救うために密かに勇者ギデオンを選んでおられた。悩みの渦中にあったギデオンに向かって、主の使いが派遣され、「大勇士よ、主はあなたと共におられます」と励ました。
 注意すべきことは、人間が人間に向かって、「大勇士よ」と語り、相手を褒めちぎったのではないことだ。この偉大なメッセージを取り運んだのは、人ではなく、主の使いであった(士師記6:11-13)。

 同様に、アブラハムに向かって「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう」(創世記12:1-2)と語られたのは、人ではなく、神ご自身であった。アブラハムとサラに子供イサクの誕生を予告しに来たのも、この世の人間ではなく、三人の神の使いであった(創世記第18章)。
 家族を騙して父から祝福を受け、兄と対立して家を追われるように出て行き、野宿していたヤコブの夢枕に立って、彼を祝福したのは神ご自身であった(創世記第28章)。ナジル人サムソンの誕生をマノアと妻に告げたのも、神の使いであった(士師記13:3-5)し、イエスの誕生を予告するために乙女マリアのもと、そして羊飼いたちのもとを訪れたのも天使であった。

 これにひきかえ、預言者を介して、つまり、人を介して主からの言葉が伝えられる時、その内容は大概、不快かつ恐るべきものであった。旧約聖書の例を挙げるなら、預言者ナタンはダビデの姦淫の罪を指摘し、子供の死を予告した(サムエル記下第12章)。預言者アヒヤは王ヤラベアムの妻に向かって、王が犯した悪事のために、ヤラベアムの家に厳しい裁きが下ることを告げた(列王記上第14章)。預言者エリヤはアハブ王に無惨な死を預言した、「犬がナボテの血をなめた場所で、犬があなたの血をなめるであろう」(列王記上21:19)。預言者ミカヤはユダの王ヨシャパテに勝利ではなく敗北を預言した(列王記上第22章)。

 新約では、神と信徒とを欺いたアナニヤとサッピラに対してペテロが罪を糾弾し、死を予告した、「見よ、あなたの夫を葬った人たちの足が、そこの門口にきている。あなたも運び出されるであろう」(使徒行伝5:9)。預言者アガボはパウロに言った、「聖霊がこうお告げになっている、『この帯の持ち主を、ユダヤ人たちがエルサレムでこのように縛って、異邦人の手にわたすであろう』」(使徒21:11)。

 このように、個人に預言が与えられる場合、厳しい内容のものが多かったが、ただし、例外的に、主の前に正しく生きている困窮した弱者のために、預言者がまさに必要としている具体的な助けを差し伸べることもあった。エリヤは自分が身を寄せた貧しい家の女主人の油が尽きないようにし、祈りによって子供を生き返らせ(列王記上第17章)、エリシャは貧しいやもめの子供が奴隷にされないように、貧しかった彼女の家の油がつきないようにし、ある婦人に子供が生まれることを預言し、祈りによって子供を生き返らせた(列王記下第4章)。
 だが、このように良い事柄が預言された場合、その預言は必ず成就したことに注意されたい。

 聖書全体を通してみると、預言者がことさらに困窮しているわけではない誰か特定の個人に向かって、あるいは不特定多数の人々に向かって個人的に、大きな成功などの喜ばしいニュースを預言するという場面は、極めて少なく、特に、健康や、商売繁盛や、社会的成功や、または祝福されたミニストリーのヴィジョンを約束するということはほとんどなかったことが分かる。

 従って、現代にあっても、個人預言セミナーなどの会場で、訪れる不特定多数の人々に対して、祝福の預言が与えられる場合、そのようなものは100%、聖書とは関係ない行事であるとみなすことができよう。もしもあなたが、「土曜日の午後、当教会では有名な神の器、誰某先生をゲストとしてお招きし、預言のセミナーを開きます。参加者には誰しも個人預言が与えられ、預言の賜物がある希望者には、特別な預言者訓練コースも別途用意されています。参加料は¥2,000」というようなチラシを見た場合、これは主の御心を敬虔に求める心から出たのではなく、人間の欲望から出たセミナーであると判断して差し支えない。

 参加費を徴収して預言に関するセミナーや集会を開くことは、預言をビジネスの手段とすることであり、非聖書的行為である。さらに、人を興奮させ、喜ばせる、人の耳に心地よい内容ばかりを預言することも、聖書にそぐわない行為である。こういったものは、御霊の現われを人間の思惑に従って行使し、思い通りに量産しようという試みであり、しばしば金銭欲が隠れた動機となっている。さらに、その「霊の賜物」が本当に主から来たものであるかどうかも、甚だ疑わしい。

 いずれにせよ、量産されるものは必ず質的低下を引き起こす。預言が大量生産されるところでは、必ず腐敗した、劣化した預言が語られている。そして悪質な預言のために人生を狂わされるクリスチャンが出ている。厳粛に取り扱われるべき預言を、このように手っ取り早く、安っぽく量産しようとする堕落と腐敗には決して近寄らないようにしたい。

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