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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

偽預言者をゲストに招く教会

「主を恐れるとは悪を憎むことである。
 わたしは高ぶりと、おごりと、悪しき道と、
 偽りの言葉とを憎む。」(箴言8:13)

1.背教を取り締まらないアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団

 これまで、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の教会や、同教団の行うカルト被害者救済活動に対して、ここでは批判的な記事ばかりを書いてきた。そんな私の考えは、先入観や個人感情に基づくものだと考える人が、あるいはあるかも知れない。
 たとえば、子供時代に教会で受けた負の記憶から抜け出せないために、私は「アッセンブリー・アレルギー」にかかっているのだとか、相談した問題が上手く解決に至らなかったために、カルト被害者救済活動を逆恨みしているのだといった疑いをかける人もあるかも知れない。
 
 今、そのような疑問を持つ人がいるならば、あえて声を大にして疑惑を晴らそうとは思わない。どのような考えをお持ちでも構わないから、読者の方々には、ただ、今後じっくりと全ての人たちの言動を時間をかけて観察して欲しいと呼びかけるのみだ。誰がどのような動機に基づいて行動しているのか、長い目で見れば、必ず時が明らかにしてくれる。どうか全ての事柄について、早合点するのでなく、時間をかけて、じっくりと経緯を追い、事実を冷静に見定めることの重要性を見逃さないでいただきたい。
 私が書いていることはその判断のための材料の一つに過ぎない。

 クリスチャンの使命は、正しい教えを厳しく峻別して受け入れることであり、教師という名前をぶらさげてやって来る人誰でもを無条件に受け入れることではない。この点で、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団全体に関する私の疑惑は昨今、ますます強まっていることを述べないわけにはいかない。今、振り返っても、私はN教会で語られていた教えには正統なキリスト教から逸脱する部分が含まれていたと思わざるを得ないし、アッセンブリー教団がフランスではすでに準カルトに認定されている事実を、私たちは深刻に受け止めるべきであると思う。

 以下の記事の中で、私はN教会にいた頃、誤った個人預言のために無駄に奔走させられたことを書いた。その事件はN教会牧師の見解とは何の関係もなかったが、しかし、以前にも引用した佐々木正明氏の説明にも明確に表れているように、アッセンブリー教団の中には、個人預言だけでなく、ペンテコステ運動における様々な問題ある教えが、あまりにも数多く、何の批判も受けることなく浸透している。この教団では、正しい教えと、背教とを区別するチェック機能が働いておらず、外国で何らかの不祥事が公にされた後になって、ようやく問題ある運動と袂を分かつといった程度の対策しか取られていない。

 佐々木氏の次の説明に注意を払おう、「アッセンブリーズ・オブ・ゴッドは常に非聖書的見解や極端な主張をする人々を内に持ち、またその教えに晒されながら、大きな捕らえ方では、それらの人々を直ちに排除するのではなく、忍耐と時間をかけて、聖書をもって指導しながら、そのような主張や見解が沈静するのを待つという方向性を保って来たのです。(注3 最近の出来事としては、ベニー・ヒンのアメリカ・アッセンブリーズ・オブ・ゴッドへの加入と脱退の経緯が好例です。)」

 ここまで率直に語られている事実を私たちはきちんと直視したい。
 「アッセンブリーズ・オブ・ゴッドは常に非聖書的見解や極端な主張をする人々を内に持ち、またその教えにさらされながら」、それに厳しく断固たる対処をあえて取らずに活動して来た団体なのだということを、この教団の教職者自らが認めている。この事実は、どれほど深刻に受け止めても、行き過ぎということはないと私は思う。いかにこの教団が誤った教えの宝庫となって来たかを、これほど明確に示す文章は他にない。

 誤った教えは、教会の正常な機能を壊し、最終的には、教会に破滅をもたらす。腐敗が進行し、聖職者や教会の不祥事が世間に大々的に明るみに出た時点では、すでに多くの犠牲者が出ている。大勢の信徒が惑わされ、見える形、見えない形で損害をこうむり、心傷つけられて教会を離れたその後になって、やっと教団が重い腰を上げて、その運動を禁止しているようでは、その教団はとても正常な危機感を持って、背教を取り締まっているとは言えない。

 教界に多くの混乱をもたらしている個人預言に関しても、教団の対応には危機感が全く見られない。佐々木氏は言う、「私たちもまた、現行の個人預言の問題を、異端狩りのような取り扱いをするのではなく、アッセンブリーズ・オブ・ゴッドの伝統的な寛容性をもって対処したいと思います」。
 このような文脈で「寛容性」を強調することが不適切であることは、クリスチャンならば誰しも理解できるだろう。正しい教えと誤った教えを吟味する力もない教団の無力を、どうして「寛容性」という言葉でカモフラージュすることが許されようか。罪もない多数の羊を犠牲にして教会から離れさせた後になって、教職者は今更、誰に向かって、寛容性を訴えるのだろうか。寛容であるべきなのは、誤った教えに対してではなく、弱い人々の弱さに対してである(ここで守られるべきは信徒であって、道を踏み外した教職者ではない)。

 いみじくも神の言葉を述べ伝える者たちが、誤った教えを語って、信徒を惑わせ、背教と破滅へと誘い込みながら、そのような教職者に対する責任を何一つ取らせようとしない教団があるならば、それは正常に機能している団体とは言えない。信徒にだけのっぴきならない犠牲を負わせ、しかも犠牲の大きさが無視できないほどになってから、ようやく、ちょっとばかり教義を軌道修正をするような対応の中には、キリスト者の聖潔を命がけでまもり、背教に対して厳しく対処しようという覚悟は微塵も見られない。


2.アッセンブリー京都教会はなぜ偽預言者を招いたのか

 さらに、今まで私はできるだけ詳述することを避けてきたが、カルト被害者救済活動を推進するアッセンブリー京都教会に関しても、今回、ぜひはっきりと自分の見解を書いておきたい。それは私が最近、この教会(の組織構成および、同教会の主催するカルト被害者救済活動)にのっぴきならない危険性を感じるようになり、どうしても警戒を呼びかけないわけにはいかないと考えるためである。
 ただし、これはあくまで私個人の見解として述べるにとどめたい。これが私の勝手なる個人的な印象に過ぎないものなのか、それとも真剣に考慮に値する疑惑なのかどうかは、読者自身の判断に委ねたい。

 さて、キリスト教カルト被害者の一人であるコアラ氏が最近、次のような記事を書いている、
「今日、教会でゴスペル・コンサートがありました。
 日曜に、ゴスペル・コンサートの案内を見た時、ゲスト・スピーカーの名前を見て、心臓の鼓動が早くなりました。なせなら、その牧師は(以下D牧師)、私が所属していたカルト化教会、京都シティ・チャーチの開拓時代において、多くの預言を教会に与えた人だからです。<略>
 D牧師は、京都シティーチャーチに関する主の計画、御心を情熱的に預言し続けました。
それを聞くとき、私の心は躍りました。日本のリバイバルの為に、主は、この教会を始められた、そして、開拓を始めるときに、その一部として私を招いてくださった、なんという光栄に預かれるのかと、嬉しくなりました。
 D牧師から、次々と、心が躍るような『啓示』が預言として与えられました。
 それは、開拓を始めたばかりのメンバーにとっても、私にとっても、衝撃的で、希望となりましたし、神様からの召しについて、強い確信を与えるものになりました。」

 京都シティ・チャーチは深刻なカルト化の道を辿り、宣教師デローは国外逃亡、訴訟事件にまで発展した。コアラ氏は、自身がブログにおいて詳細に書いているように、アッセンブリー京都教会でカルト団体からの被害者の救済活動に携わる村上密氏の助けにより、カルト化教会の過酷な弟子訓練の影響下から脱出した。
 
 コアラ氏の記事の中で問題となっているオーストラリア人の「D牧師」が、ディーン・イートン(Dean Eaton)氏を指していることは誰にでも容易に想像がつく。なぜなら、アッセンブリー京都教会のホームページに掲載されているゴスペル・コンサートのパンフレットには、はっきりとゲスト・メッセンジャーとしてディーン・イートン氏の名が記されているからである。
 イートン氏はオーストラル・アジアン・クリスチャン・チャーチの牧師であり、「God in the Hands of Angry Sinners(怒れる罪人の手中に落ちた神)」の著者である。

 (この著書の表題が、18世紀アメリカ植民地においてリバイバル運動を率いた神学者ジョナサン・エドワーズ(1703-1758)の有名な説教「Sinners in the Hands of an Angry God(怒れる神の御手にある罪人)」をもじったものであることにすぐに読者は気づかれるだろう。 聖書のたとえ話に登場する、ぶどう園に取り立てに派遣された主人の一人息子を袋叩きにした雇い人を思わせるような、怒り狂った群集心理を表すこの表題は、まさに現代という時代を象徴するかのようである。
 全米で有名な歴史家Garry Wills、カルヴィニストの神学者R.C.Sproulが、これと同名の著書を著しており、特に、G.Willsの著書は、キリストが怒れる群集のサディズムの犠牲になるところを描いたメル・ギブソン監督の映画『パッション』と何らかの関わりがあるようであるが、このことについて、今は説明を省略させていただく。)

 さて、記事によると、コアラ氏はこのD牧師に、かつての誤った個人預言について直接責任を問うた、
 「私は、ゴスペルコンサートの案内を見て、D牧師の名前を見た時に、心が激しく痛んだと伝えました。そして、開拓初期に、D牧師から予言された事が実現しなかった事について、『あなたのした預言、あれは、なんだったのですか』と質問しました。
 そして、今でも、心が激しく痛む事、私は自分自身を捧げきっていた事を伝えました。
 D牧師の表情が、こわばりました。
 そして、『今、君は、この教会に来ているの?それは良かった。彼(注:デロー氏のこと)は最初は純粋に教会を始めたけど、途中でおかしくなったんだ』と言いました。
 D牧師が教会に与えた預言、私に与えた個人預言に対しての説明も、謝罪もいっさいありませんでした。
 私は、彼の目をまっすぐに見つめて、『私の心は非常に痛んでいます』と伝えました。
 彼は、私の目をまっすぐに見ながら『君がこの教会にいるのは良かった。君にあえてよかった』と繰り返しました。
 D牧師の人柄が見えたような気がしました。」

 神の名を用いて、何の根拠も持たない荒唐無稽な預言を多発して、信徒の興奮をいたずらにあおり、カルト的宣教師による誤った教会運営を助長しておきながら、預言が実現しなかったことに対しても、彼の支持した教会がカルト化したことに対しても、微塵の負い目も、後悔の念も見せなかったイートン氏。その不誠実な人柄がまさに明らかになった。

 公に偽の預言を語った者は、公に責任を追及されて当然であると私は考える。だが、預言詐欺を認めようとしない人物の前で、被害者にはなす術がない。怒りを抑え、この事件を飲み下すように自分に納得させようとしているコアラ氏の記事を読んで、一体、被害者だけがいつまで耐えねばならないのだろうかと、やるせない気持ちにならざるを得ない。
 
 だが、それよりも、もっと驚くべきはアッセンブリー京都教会牧師の態度である。
 村上密氏は「偽預言者」と題する4月27日の記事で、タイムリーに偽の預言の弊害に触れている。

 「偽預言者は主から受けたことばではなく、自分自身から出てくる霊感(inspiration)を語っています。真の預言者は神の啓示(revelation)を語ります。
 今日の偽預言者は占い師のようです。未来のことを語ります。それがどんなにすばらしい内容であってもそれはむなしいものです。語った中に、当たることがあります。当たったことが正しいことの証明なら語った全てが実現しなければなりません。しかし、全てが実現しているわけではなく、それに責任を取ることもありません。言いっぱなしです。又、聞いた人も責任を問うことをしません。何と責任のない預言でしょう。昔、預言者は生命をかけて預言したのです。」

 この文章はまるで一般論のように書かれているので、そのまま読み流してしまいそうだが、この記事がまさにこのタイミングで書かれた背景には、見えない文脈として、イートン氏の存在があることを疑わないわけにいかない。
 カルト被害者救出活動に深く関わって来た専門家である村上密氏と宗教トラブルセンターのもとには、どの聖職者がこれまでカルト化教会の体制を積極的に助長・支持してきたのかという情報が膨大に蓄積されているはずである。特に、京都シティ・チャーチの事件にも、直接、関わって来た村上氏が、そこでイートン氏が無責任な預言を繰り返した事実をこれまで全く知らなかったとはまず考えられない。

 だが、京都教会がイートン氏に関する詳細を知らなかったため、うっかり彼をゲスト・メッセンジャーとして教会に招いてしまったということが全く考えられないわけではない。もしもそうであれば、そのことについて村上氏はブログにおいて何かしら釈明を行うであろう。
 そして仮に、イートン氏が偽預言を過去に繰り返した事実を知った上で、村上牧師が彼をゲスト・メッセンジャーとして教会に招くことを容認したのであれば、村上牧師は偽預言者をゲストとして教会に招聘したことになる。そうだとすれば、彼は、片方で偽預言者の活動に協力しておきながら、もう一方で偽預言者を平然と非難することがどうしてできようか。

 善良な牧師であれば、過去に偽預言を行って信徒を惑わせた事実が判明すれば、その教職者とは、一切、関わりを断つだろう。自分の教会の大切な信徒の前に、不誠実な人間を講師として立たせようと思うような牧師はいない。従って、イートン氏が何者なのかという事実について、村上氏のブログに何一つ言及がないことは、読者にはかりしれない不信感を与える。

 「、預言者は生命をかけて預言したのです」と村上氏は書いている。
 「昔」とは一体、どいう意味なのだろうか。今日の預言者は、旧約聖書時代とは大きく役割が異なっているから、昔のような命がけの厳しさを求めることはもうできないという意味だろうか?

 氏は書いている、今日の預言は「言いっぱなしです。又、聞いた人も責任を問うことをしません。何と責任のない預言でしょう」。無責任なのは誰なのか。それはまず偽預言者本人であり、次に、偽預言者を決して公の場で糾弾しようとせず、過去に何があろうと不問にして集会に招いたり、偽預言者と協力してミニストリーを行う他の教職者たちである。そのことを一切記していないこの文章こそ、何と責任感に欠けることだろう?

 神の言葉を預かる預言者が、偽の預言をすれば、どれほど大きな責任を問われるかは、聖書にははっきり書いてある。すでに述べたように、ハナニヤは偽預言のために命を取られなければならなかった。さらに、偽預言者の言葉を聞いてはならない、彼らについて行ってはいけないと、聖書にはある。なのに、過去の自分の預言の誤りを何一つ認めようとせず、それによって生じた悪影響に対して一言の謝罪もない偽預言者が、今も無反省なまま、威厳ある指導者のように、堂々と講壇に立ってメッセージを語り、それを判断能力のない信徒が聞かされることが、どれほど会衆にはかりしれない悪影響をもたらすかという問題について、村上氏は少しの心配も持たないのだろうか。

 村上氏は同ブログの中で、儀間氏、有賀氏などの教会運営に対してかなり厳しい批判を向けている。だが、こうしたキリスト教界の大御所的な指導者の不正問題に対しては、声をあげる一方で、日本では比較的名の知られていない小者の似非指導者に対しては、その個人名をしっかり挙げて警戒を呼びかけることがなく、さらに自教会において彼らと協力した活動を行っているという矛盾を、私たちはどう受け止めれば良いのだろうか。


3.アッセンブリー京都教会と宗教トラブルセンターに対するその他の疑惑

1)被害者頼みのカルト対策

 アッセンブリー京都教会の活動について、私が不信感を感じざるを得ない理由はこの他にもある。以前、記事の中で、私は、村上密氏が、教職者として道を踏み外した者に対して、同僚の教職者や教団が率先して厳しい対応を取るべきことを述べず、かえって被害者の力によって悪徳牧師を救済する必要を呼びかけていることが、全くのナンセンスであるということを書いた。そのような被害者頼みのカルト対策活動は、道を踏み外した牧師に対して、教団が厳しく処罰を下すことの必要性を世間に忘れさせてしまう効果を持っている。

 村上氏が関わった多くのキリスト教会カルトの裁判のように、被害者自身が立ち上がることに重きを置いたカルト対策活動は、教団教職者の責任という問題をうやむやにし、教職者同士のもたれあい、かばあい、隠蔽体質、危機感のなさ、甘い対応を、かえって助長することにつながりかねない。(なぜなら、このような解決方法では、立ち上がる力のない被害者は泣き寝入りを強いられるしかないためである。)

 そこで、こうした被害者頼みのカルト対策は、実際の効果としては、教会のカルト化を食い止めるどころか、かえって助長する側面を持っていると言っても過言ではない。教会のカルト化に全力を挙げて対応すべきは、教団、聖職者本人であって、被害者ではない。そのことを世間に忘れさせてしまうような村上氏の主張は、カルト対策を根本から講じようとしている専門家にふさわしいものではない。


2)教会の二重の名称

 さらに、村上氏の言動には彼の活動の二重性を示すいくつもの事例がある。
 たとえば、アッセンブリー京都教会という名称について。
 重箱の隅をつつくような些細なことにこだわっていると思われるかも知れない。だが、教会の名称は教会の表札であるから、馬鹿にできない重要性を持っている。

 アッセンブリー京都教会の正式名称は七條基督教会である。アッセンブリー京都教会という名前は「世界の京都」をアピールする目的で使われているらしいが、通称に過ぎない。
 なぜこの教会は相応の手続きを踏んで、正式名称としてアッセンブリー京都教会という名前を採用しないのだろうか。なぜ二重の名称を使い続けるのだろうか。名称の使い分けがあるからと言って、即、何らかの実害が生じるわけではないにせよ、七條基督教会という名称も捨てられず、アッセンブリー京都教会の名前も捨てきれず、どちらをも選ぶことができない不決断と、何かしら不透明な印象をそこから受けるのは私だけだろうか。


3)カルト入信暦という負の経歴のPR

 次に、統一教会に入信していたという村上密氏の経歴について。
 クリスチャンは誰しも、自分がかつてバアルの神官であったという事実を誇ることはできない。信仰を知らず、罪深い生活を送っていた頃の知識は、信徒にとって恥にしかならず、クリスチャンがそれを人前で誇ることは全くのナンセンスである。
 しかし、キリスト教界では、昨今、元ヤクザ、元シンナー中毒者、等々、罪深いこの世的生活をしていた過去の経歴を、まるで逆手にとって宣伝し、ステータスとしてひけらかすかのような牧師が複数、登場している。この異常な現象については、「吉祥寺の森から」の著者杉本氏も「悪の経歴をPRしてはいけない」という記事の中で憂慮している。

「かつてやくざ、極道であろうと、刑務所に服役していた人物であろうと、キリストの道に入って改心し、人生を全く新しくやり直すことは良いことである。教会はそれを拒むことはない。だが、信徒になった後もなお、かつてのスタイル、様式をそのままに、自身の悪に染まった経歴をことあるごとにPRの素材に使うのはいったい、どういうことだろうか。<略>
 
 人の世ではやくざやちんぴら、暴力団、服役者だったという経歴は決してプラスに作用するものではない。その時点で大きなハンディを負っており、人の倍以上努力して周回遅れになった人生を取り戻そうという気持ちにならなければいけない。<略>

 悪の人生を歩いたことは反省すれば良い。だが、その後、その悪の経歴を自分の人生のためにPRしてはいけない。それはキリスト教の教えの勘違いに直結している。実際、望ましい実りはもたらされていない。松沢事件や藤本事件のように最悪の結果に直結してしまえば取り返しがつかない。悪の人生遍歴を宣教の手法として用いることは許されない。
(太字は筆者) 

(後日付記:
残念ながら、上記のように記しながらも、「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久氏は、後に村上密氏の活動への支持を公に表明し、村上氏の活動へ疑念を示す私のブログに対する大々的なバッシング記事を掲載して、自身のブログを炎上させるに至った。以後、杉本氏のブログとコメント者らは今日に至るまで、同教団及び村上氏サイドと組んで、私に対する様々な嫌がらせを続けている。

 残念なことである。私の記憶では、杉本氏はかなり早期にAG教団と村上氏の不透明性に相当に深刻な疑念を表明していたものと思うが、カルト被害者を救済するとの美名のゆえに、同氏らの活動に欺かれてしまった。そして教団の手先として虚偽のキャンペーンに加担して捨て駒とされる道を選んでしまったのである。

 杉本氏はこの記事の発表後ほどなくして、自身のブログにおいて、私へのバッシングのみならず、アッセンブリー教団の思惑通り、N教会(鳴尾教会)の現在の山田牧師夫妻に対する誹謗中傷のネガティブ•キャンペーンにも加担させられて行くことになる。当時からすでにこの記事のコメント欄で鳴尾教会関係者が危惧を示していた通り、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、村上氏とT氏(津村氏)がかつて鳴尾教会で引き起こしたスキャンダラスで不都合な事件を隠し通す目的で(この事件については最新の記事で詳述した)、鳴尾教会の現在の牧師山田夫妻に対して虚偽の情報を流布するネガキャンをしかけ、それによって事件の責任の所在をうやむやにしてごまかそうと準備していたのである。そのネガキャンに積極利用されたのが、杉本氏のブログであった。

 教団は公の声明を発表して公式に自らの見解を発表し、そこで反対者への弁明や反論を行うことができたのに、それをせずに、杉本氏のようなアッセンブリー教団とは何の関係もない個人のブログを利用して、教団にとって不都合な人間に対するネガティブ•キャンペーンを行わせるという卑劣な行為に及んだ。それを主導した人物が村上密氏であることには疑いの余地がない。

村上氏は教団と無関係な一個人を利用して、教団に有利なネガキャンを行わせて他者を中傷させた上、これらのキャンペーンに使われた虚偽情報を発表した全責任を、身代わりに押しつけて、使い捨てようとしたことになる。

このように、自らは矢面に立たず、自分は決して責任を問われることのない隠れた場所から、無関係を装いつつ、第三者を積極的に利用しながら、クリスチャン同士の対立を煽り、デマを流布して政敵を貶めるという手法は、村上氏におなじみのものであり、それは同氏が鳴尾教会の事件へ介入した際にも一貫して見られた行動である。

むろん、デマに惑わされ、これを流布するために利用された信徒の側にも逃れようのない重い責任が残ることは言うまでもないが、こうして教団に無関係な個人に全責任を負わせる形で、自分たちに都合の良い捏造された虚偽の情報を発表させては、卑劣で無責任なキャンペーンを組織ぐるみで推し進めて来たアッセンブリー教団の不誠実さ、身勝手さ、卑劣さは説明する必要もない。この点で同教団とその指導者らの犯した罪ははかりしれないほど重いものとなるだろう。)


 元ヤクザ、元麻薬中毒者といった過去の負の経歴が、まるで自慢話のように繰り返されるキリスト教界の倒錯した風潮の中で、元統一教会員であったという負の経歴もまた、牧師の大きな強みになっているようだ。
 カルト団体への入信暦があればこそ、現在、カルト被害者救出活動に携わっている村上密氏を筆頭に、まるで彼を手本として見習うかのように、アッセンブリー教団の中では、元統一教会の信者、元カルト化教会の信者が、牧師として献身するということが次々起きている。こうした人々にあっては、元カルト団体の信者であったということが、献身者となるにあたって、決して著しいマイナス要因としては働いていない。

 元統一教会員であった経歴を活かして、カルトの専門家として名を馳せたことにより、村上氏ははからずも、このような風潮を助長したのだと言えよう。こうして、今やキリスト教界は負の過去を持つ人々にとってのパラダイスになりつつあるのだろうか。
 だが、バアルの神官がキリストの神官に転職する際に、バアルに関する専門知識をアピールしているようでは、世も末だと私は感じざるを得ない。「バアル対策セミナー」が今やキリスト教界における重要な活動となっていることの恐ろしさを、今一度、読者に考えていただきたいと思う。

 元カルト団体への入信暦をPRしているようでは、元カルトの信者は回心前の過去をきっぱりと断ち切り、その罪を完全に離れたと、本当に言えるのだろうか。聖霊を汚す全てのものと、きっぱり分かれることの重要性を聖書は述べている。それなのに、不信仰だった頃の生き方が、キリスト教伝道者として名を成すための有力な専門知識になり、さらに、伝道の道具にさえなっているこの現状は何なのだろうか。


4)教会生長論に対するあいまいな態度

 さらに、教会成長論について。
 村上氏は記事の中で、他者の考えを引き合いに出しながら、教会成長論の弊害について触れている。それによれば、彼はあたかも教会成長論の弊害をよく認識しているように見えるが、しかし実際には、ここで彼は自分自身の意見をはっきりと打ち出していない。
 しかも、アッセンブリー京都教会は、私の見る限りでは、信徒を教会成長のための材料とする教会成長論と少しも縁を切ってはいない。各大学におけるバイブル・クラスの浸透や、各種イベント、コンサートの開催、そして全国のカルト被害者たちのブランチ化という形での京都教会への併合などの現象を見れば、明らかに、この教会は信徒の組織化、そして組織的な教会成長を目指しているし、実際にそれを実践して成長を遂げていると言えよう。
 さらに、聖書研究会などの形式を取った大学への浸透は、カルト団体の常套手段であることも忘れないでおきたい。

 私は、あらゆる教会成長論は全て誤りだと思っている。なぜなら、それは組織としての教会の拡大を計画的に行おうとする理論だからである。それは教会を訪れる信徒を組織化し、集団化し、一定の目的に従って、行動を様式化し、プログラミングすることを意味する。これは人間の自由に対する制約となるだけでなく、聖霊の自由な現われを肉的な思いでコントロールしようとする試みであり、伝道の目的を地上的な教会組織の拡大と同一視する誤った信仰観に基づいている。

 アッセンブリー京都教会には、組織構成にも、教会成長論の多大なる影響が伺える。つまり、カリスマ的指導者を頂点にいただく、トップダウン式のピラミッド的構造がますます顕著に育っている様子が伺えることが憂慮される。若い牧師たちは、主任牧師の負担軽減のために様々な雑用を引き受けている。宗教トラブルセンター代表者に送ったはずのメールに、何の断りもなく、いきなり別の牧師のアドレスから返信が帰って来るといった奇妙なことが起こるのもそのためである(この時点で、すでに宗教トラブルセンターでは守秘義務が完全には守られていないことが分かる)。

 だが、いかに忙しいにせよ、牧師が自ら雑用を手がけなくなり、メールのチェックや返信の作業までも代理人に任せるようになれば、もはやその時点で、彼のプロの職業人としての生命は失われたも同然である。 『神の汚れた手』という曽野綾子氏の小説を思い出すが、イエスは神の右に座するほどのその高い位を自ら捨てて、地上に苦しみ多い生を受け、大工の息子として庶民の生活を送り、自分の足で歩き、自分の手を煩わせながら、常に自らの手足を汚して、貧しい人々に神の愛を宣べ伝えた。華々しい活動だけに従事している人の人格が、華々しく生まれ変わることは昔も今も、未来にも決してないだろう。人から評価されない、地味で煩わしい仕事を地道にこなし続けながら、人は謙虚さを学んでいくしかないからだ。


5)引退したはずの牧師の教職への再登板

 T牧師について。
 私が以下の記事で触れたN教会のT牧師は、村上密氏の親族に当たる。T師はN教会において、独裁的教会運営や、伝道師に対する抑圧的な言動などといった、牧師にあるまじき一連の行動を取った疑惑を受けて、疑惑を晴らすことができないまま、責任を取って、N教会の牧師を辞職した。信徒はことの詳細が今も分からないままであるが、この騒動の影響により、N教会全体が深刻な打撃を受け、信徒の大量離脱が起こった。
 相当な年齢でもあったので、T師はもし何事もなければ、平和裏に引退して教職を完全に退いても不思議はなかったであろう。だが、騒動が持ち上がった時、村上氏は仲裁に乗り出し、その後、T師を自分の教会に招き、そこで教職者として再起用し、ブランチでの説教などに当たらせている。

 政治家ならば、不祥事があったとしても、しばらくの期間、公職を退いて「みそぎ」を受ければ、選挙に再出馬しても構わないと世間では考えられている。だが、そのような考え方を、クリスチャンの教職者にそっくり適用して良いものだろうか。教職者にあるまじき言動を行った牧師は、教会を辞任しさえすれば、それで「みそぎ」を受けたことになるのだろうか。T師の騒動のために教会を離れたクリスチャンには、今も誰からの助けの手も差し伸べられていない。
 しかも、村上氏は、社会的けじめをつけるために引退を宣言して辞職したはずのT師を、再び教職の任務に就かせることにより、この事件に関するT師の社会的決着を完全にうやむやにしてしまった。N教会で騒動の影響を受けた信徒たちの目から見れば、これはただ聖職者優先の、もたれあい、かばいあいの心理で動いているようにしか見えないだろう。


最後に。 神を選ぶのか、バアルを選ぶのか。
 
 最後に。
 「ベニー・ヒン・ミニストリー」などに代表されるように、ミニストリーに個人名を冠する牧師や伝道者には注意が必要である。村上氏のブログも氏の名前になっている。そこに掲載されているプロフィールによれば、氏は「終末に出現する偽キリスト、偽預言者、偽教師に対する備えを研究し、ライフワークとしている」のだという。
 
 だが、偽預言者を自分の教会にゲストとして招聘し、そのことに対して釈明すらない牧師が、終末に出現する偽預言者に対してどんな具体的備えをしていることになるのだろうか。偽預言者への対応を、彼はどう定義しているのだろうか。偽預言者を研究の見本として教会に招聘し、信徒への悪影響の度合いを調べることが、まさかカルト専門家の仕事だというわけではあるまい。

 偽預言者、偽教師と判明している教職者がいても、絶縁しようという考えを持たない教団や、牧師には注意が必要である。聖霊を汚すもの、聖絶のものときっぱり縁を切ろうとせず、教職者の不祥事の責任追及をせず、教職者同士かばい合い、馴れ合い、しかるべき犠牲を払って、自分の聖さを保とうとしないような指導者は、背教を助長しているのである。そのような指導者を、どうして信徒は信用することができるだろう。

 聖書は教えている、「あなたたちは、いつまで迷っているのか、神を選ぶのか、バアルを選ぶのか、はっきりしさない!」
 現代のキリスト教界に何よりも必要なのは、悪事や罪ときっぱり関係を断つことである。

 「主を恐れるとは悪を憎むことである。
 わたしは高ぶりと、おごりと、悪しき道と、
 偽りの言葉とを憎む。」

 高ぶりと、悪しき道と、偽りの言葉を憎むどころか、それを糾弾もせず、うやむやにし、むしろ助長するような人間に、神への恐れはない。

 一方ではカルトを取り締まると言いながら、もう一方ではカルトを甘やかし、不誠実な教職者を甘やかし、悪事をうやむやにし、ただ被害者だけに重い負担を負わせるような教会にとどまっていても、カルト被害者が苦しみから救われる日は決して来ないと私は思う。そのことに早く気づき、どうか一刻も早く安全なクリスチャン生活を取り戻されたい。

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