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私ではなくキリストⅡ(東洋からの風の便りI)

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」(ピリピ2:15)

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神の恵みは水のように、より低い方へ、恵みを素直に求める飢え渇いた人々へ向かって流れる

さて、長らく記事を書いていなかったので、その間のことを補っておこう。
 
かなり前の記事ではあるが、澤藤統一郎の憲法日記「へそまがり宣言」、なかなか面白い内容だったので、ここに全文転載しておきたい。
 
有史以来連綿として、一つの妖怪が我が物顔に日本の社会を徘徊している。最近、むやみにその妖怪の威勢がよい。――妖怪の名は「同調圧力」。この妖怪、別名を「長いものには巻かれろ」「出る釘は打たれる」とも言う。「附和雷同」「寄らば大樹」「地頭には勝てぬ」「ご無理ごもっとも」などという渾名もある。この妖怪は毒気を撒き散らし、その毒気は空気感染する。多くの人をして「みんなと同じでなければ、生き苦しい」「はみ出すのは恐い」「ボッチは耐えられない」「イジメを傍観できなければ、イジめる側に付かざるをえない」と思わせている。

日本のあらゆる支配構造が、この妖怪との神聖な同盟をむすんでいる。政治・経済・教育・メディア・学問、どの分野においてもだ。アベ政権、自民党、象徴天皇制、神社庁、日本経団連、NHK、新聞協会、民放連、JOC、教育委員会、PTA、学級、町内会…、いずれもこの妖怪と結び、この妖怪に生け贄を差し出して見返りに与っている。

現代の日本において、およそこの妖怪の毒牙による被害を被らなかった者がどこにいるだろうか。この「妖怪・同調圧力」は理性や知性を目の仇として忌み嫌う。自立した個人の敵であり、民主主義の攪乱者であって、全体主義の温床にほかならない。

これまでの日本社会の歴史は、多数派による少数派に対する同調圧力に、少数の側が果敢と異を唱え困難な抵抗を試みた闘争に彩られている。多くの場合、少数派はあえなく敗れている。もともと、闘い我に利非ずなのだ。

多数派とは、現体制であり、現体制を支えるイデオロギーの担い手である。多数派に与していることは、安全で安心であって、多数派との角逐は面倒であるだけでなく、常に孤立と排斥の危険を背負い込むことになる。だから、学校も家庭も子どもに対しては、「素直に大勢に順応せよ」「現行の秩序に波を立てるな」「和を以て貴しとせよ」「敢えて強者に逆らうな」と教えこむのだ。「社会を変えようなどと不埒なことを考えず、おまえこそ社会が望む人間になれ」というのが、「妖怪・同調圧力」がもたらした恐るべき害毒の惨状だ。

多数派との対決を敢えて辞さない社会的少数者の闘いのあり方に2種類がある。ひとつは、今は少数でも明日の多数派を目指す組織的な運動。言論の自由市場において、多数派と対峙して、市場の勝利をおさめようというこれが正統派。政党を作り、民衆を説得し、選挙に訴え、やがては自らが多数派になろうという積極的で生産的な日向の存在。

もう一つ日陰の存在がある。そもそも将来の多数派形成を意識することなく、現多数派の非を徹底的に攻撃しようという立場だ。その言論が、自らが多数になるのに有効か否かを斟酌しない。この立場を「へそまがり」という。

へそまがりは、自分の言論が社会にどう受け容れられるかを斟酌しない。ひたすら正論を吐き続けることで、「妖怪・同調圧力」と対峙する。勝てる見込みがあるかどうかは、視野の内にない。青くさい、へんくつ、などの陰口を意に介さない。

へそまがりは、徒党を組まない。孤立を恐れない。そして、へそまがりは、けっして社会におもねらない。どんな権威も認めない。権力には徹底して抗う。それなくして、「妖怪・同調圧力」と対峙する方法はないものと信じるが故だ。

へそまがりはけっして天皇の権威を認めない。天皇についての敬語一切を拒否する。元号での表記は絶対にしない。天皇の就位から歳を数え始めるなんて、まっぴらご免。「日の丸」にも「君が代」にも敬意を表しない。
へそまがりは、「民主的な手続」で選定された政権や知事を大いに嗤う。アベ政権も、小池百合子都政も徹底して批判する。
へそまがりは、ナショナリズムを拒否する。オリンピックはうんざりだ。感動の押し売りはいい加減にしてもらいたい。

へそまがりは孤独であるが、孤独恐るるに足りず。国家にも、資本にも、天皇制にも、メディアにも、町内会にもなびかない「へそまがり」バンザイ。

そう、自分に言い聞かせて、「へそまがり宣言」とする。ことの性質上、けっして宣言への賛同も同調も求めない。ひとり、へそまがり精神を貫徹するのみ。
(2016年8月17日)

 
まことに面白いし、賛成である。筆者も天皇に敬語は使わない。オリンピックは聖霊派のリバイバルと同じで、決して来ない夢であり、日の丸と、アベマリオを現人神のごとく担ぎ上げ、まことの神に逆らうこの異教の祭典は、過去に幻に終わった祭典同様、我が国で開かれることは決してないであろうと、かねてより確信している。大体、その頃までこの国が持つかどうか。

筆者は世間の評価がどうあろうとも、『シン・ゴジラ』の筋書きへの失望と幻滅を隠さないし、安倍首相がロシアの経済発展に全面的に協力すると約束し、プーチン氏の訪日日程が確定したらしいことにも、決して喜んでなどない。それにしても、まったく何という愚かな外交的敗北であろうか。政治的手柄を立てたいばかりに、安倍はまたしても自分の方から、全面的にロシアに有利なカードを切ってしまった。どうしても「平和条約締結」という手柄を立てたい軽薄な首相がこの調子では、領土問題などまるでなかったことにしてでも、ロシアの前に涎を垂らして跪き、調印をお願いするのではあるまいか、と思えて来る。

それに対して、ロシア大統領は「ありがとう、晋三」と、上から目線の礼をそっけなく述べて、安倍の提案をただ検討するとしか答えていない。これまで日本の米国への片思いのゆえにさんざん肩透かしを食らったその非礼も考え合わせれば、ロシア側の回答としては当然であろう。だが、野心を見透かされているとしか思えない、到底、対等な外交からはほど遠い反応である。

それにしても、全く幼稚としか言えない安倍外交は、国益を度外視し、なおかつ、ロシア人の気質をも全く理解していない。ロシアの友情とはすなわちロシアの国益と不可分であり、かの国に対して必要なのはかの国と同じほどにしたたかな交渉である。そのしたたかさ、図太さがないと、外交的成功はあり得ない。それが政治的な手柄欲しさに涎を垂らして安っぽい笑顔をふりまき、しかも、まだ相手が何も約束しない前から、かの地へ出向いて行き、全面協力を申し出て、訪日の際にも、山口県へ招待するなどの国内他府県を全てよそにした手前勝手なパフォーマンスを繰り広げるという自己満足ぶりだから、呆れるほかない。民間の草の根外交の使節ではないのだ。一国の首相が、打算も警戒心もなしにそんな風に物欲しそうな様子を隠しもせずにうろついていたら、森の熊さんに捕えられて餌にされるか、危険な場所へ誘い込まれるだけである。いずれにしても、子供のようにしか見なされてないことであろう。こんな調子だと、仮に平和条約が結ばれたところで、我が国の国民が少しでも浮かばれるとは到底、思えないから、その意味でも、前途多難である。

筆者は、日ロ間に平和条約が結ばれさえすれば、何かが劇的に前進するとは思っていない。そもそも、主権国家としてのプライドと独立心を備えていない属国には、どこの国とも対等な外交は無理である。我が国の精神的課題はそのレベルに始まっている。

さて、話を戻せば、「同調圧力」という名の妖怪にはまだ一つ、有名な名がある。「和をもって貴しとなす」という名だ。

この「和」なるもの、非常な曲者である。そして、この「和」というものと、聖書の唯一の神への従順は決して両立しない、と筆者は確信する。「和」は世の方を向いており、神の方を向いておらず、クリスチャンにとって、神と世とを両方愛することは、不可能事だからだ。だから、「和の精神」というものは、信者にとって大敵である。それが分からないと、クリスチャンは信仰生活に大きくつまづくだろう。

全く話が変わるようだが、今でも筆者がよく覚えている出来事の中に、KFCである時に行われた聖餐式がある。すでにBr.Takaがこの団体をかき回し、団体が異端化していた頃のことだ。その聖餐式の時に、Dr.Lukeが奇妙なメッセージを前もって述べた。はっきりは覚えていないが、「あなたがたの中で資格のある(罪がない)者だけが、この聖餐にあずかりなさい」といった内容であった。

そもそも、KFCというのは非常に底意地の悪い団体で、自分たちだけの暗黙のルールを作っては、それに従わない人間を陰で中傷し、恥をかかせては、次々団体から放逐して来た歴史があった。まだ筆者がこの団体に関わる前から、そうして追放された人々は数知れず存在した。それが、KFCが公にアッセンブリーズ教団の信徒と手を結び、Br.Taka夫妻を招き入れてからは、その愚かしい集団イジメの傾向が、より一層強まった。アッセンブリーズ教団の悪質さについては、当ブログですでに幾度となく述べて来た通りであり、このような悪質な異端の教団の信者と手を結べば、仮にもとはKFCのようではないもっと優れた団体であったとしても、必ず、堕落するのは必至である。
 
当時、すでに筆者はDr.Lukeからも、この団体の信者たちからも睨まれ、危険人物としてマークされていた。それは筆者がDr.Lukeに向かって、信者との霊的姦淫をやめるよう忠告したためであった。古参信者の証言によると、KFCには二重統治のような体制があり、礼拝に出席もしておらず、信徒の交わりにも出ていない信徒が、陰で大きな実権を握って、団体全体に影響力を行使しているということであった。

この頃、KFCはすでに自己を神として、己が罪を全く認めず、真摯に御言葉に立ち戻るようにとの信徒たちからの忠告にも全く耳を貸さないまでに至っていた。筆者よりも前に、そういう忠告を彼らに行った他の信者たちがいたのである。Dr.Lukeのもとに、彼のメッセージがどんな風に聖書と相違しているのか、項目ごとに列挙して持参した信者もいたし、彼らに罪を捨てて御言葉に立ち戻るように忠告したゆえに、Br.TakaとDr.Lukeから睨まれて、呪われて団体から放逐された信者もいた。

こんな風に、アッセンブリーズ教団と手を結んでからは特に、恐怖政治が甚だしかったので、筆者はその時に行われた聖餐の儀式もまた、彼らが悪だくみによって仕組んだ一つの罠なのだということをも理解していた。

それでなくとも、この団体の信者たちは、Dr.Lukeを筆頭として、何をするに当たっても、自分たちが特別に選ばれた存在であり、他者とは違って、他者にあずかり知らぬ特権を持つ、他者とは別格の存在なのだということを、あらゆる機会に人前で誇ることを常としていた。礼拝も、結婚式などの儀式も、祈りも、賛美も、すべてが他者に対する圧倒的な優位性と、自分たちが選ばれた民であることを自己顕示し、自己満足に浸るために行われていたのである。だから、聖餐さえも、彼らは自分たちの「特権」を強調し、気に食わない他者を排除して勝ち誇るために利用したのである。

案の定、筆者が見回してみると、古参信者たちはパンにも葡萄ジュースにも手を伸ばそうとはせず、神妙な面持ちで頭を垂れたまま、全く聖餐にあずかろうとしていなかった。Dr.Luke本人も、パンも葡萄ジュースも手に取ろうとしなかったと記憶している。

しかし、筆者はその時、そんな周囲の行動と、Dr.Lukeの言い分など気にせず、全く臆することなく、聖餐に備えられていたパンと葡萄ジュースを手に取った。

そして、どこの教会でも、信者たちがみな行っている通りに、筆者は一人の信者として、信者の当然のつとめとして、主の御前に信仰告白と共に、自然に、ごく普通に聖餐にあずかったのである。

むろん、あとでさんざんKFCの連中から陰口を叩かれたことは想像に難くない。多分、「ヴィオロンはふさわしくないのにKFCの聖餐にあずかり、主の御身体を穢した」などと言われていたのであろうと想像する。現に、何か別のことについても、そのように悪しざまに言われていた他の信者が存在した。「あの信者は主の血潮を穢した」とかいった言葉で、身内の信者を非難し、呪い、排斥して行くのが、彼らの常套手段であったからである。

彼らがそのように聖餐にあずかった者たちを辱めるために、わざと聖餐式をきっかけに他の信者たちに罠をしかけたのだということも、筆者には分かっていた。

だが、そんな風に、自ら聖餐式を行いながら、その儀式に加わらないことを是とするほどまでに異常化した団体の中にいても、筆者は彼らの思惑を気にせず、聖書の御言葉だけに従って行動した。その異常な信者たちが、集団イジメと、気に入らない信者たちの排除だけを目的に、聖餐式を利用し、わざと自分は主の御身体にふさわしくないかのように振る舞い、主の御身体の一部であることを自ら否定するならば、筆者は、なおさらのこと、自分が確かにキリストの御身体の一部であることを、彼らの前ではっきりと表明しなければならないと思った。
 
信者は、常に神と人と悪魔の前で、自分が一体、神と悪魔、どちらの側に立っているのかを明白に表明しなければならない義務を負っている。我々の行動の一つ一つが、聖書の御言葉の正しさを証明するための信仰の証なのである。だから、たとえある人々から仲間でないとみなされ、敵視されたとしても、悪魔と行動を共にして自分がキリストの御身体の一部であることをわざわざ自分から否定するほどの恐るべき罪を犯すことに比べれば、人間の思惑など全く無害である。
 
キリスト者が従うべきは、人の思惑ではなく、聖書の御言葉である。さて、聖書は何と言っているか?

「それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。

食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」(ルカ22:19-20)

主はこのように「わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われたのだ。パンは、私のために裂かれたキリストの御身体であり、杯は、私のために流された主の血潮である。なのに、なぜキリストを信じていると告白する者、主の血潮の価値を知っており、それによって罪赦されて、神の子供として受け入れられた者が、「自分は聖餐にあずかるにふさわしくない」とみなし、まるで主の御身体と血潮が自分には無縁であるかのように振る舞い、自ら主の御身体の一部であることを否定する必要があるのか。

そんな告白は、信者が自分で神の救いを否定し、血潮による罪の赦しを退け、自分を悔い改めない罪人とみなし、御身体の一部であることを否定するに等しく、謙遜でもなければ、悔い改めでもなく、信仰とは無縁の行動である。そのような告白をして、聖餐にあずかることを自ら拒否し、人前で主の血潮と御身体を恥じた者たちには、それにふさわしい報いが待ち受けていることであろう。そして、それはもうすでに始まっているのである。

その儀式のとき、筆者と同じく、聖餐式にあずかった信者たちが、集会全体でどれくらいいたのかは分からない。だが、その時、暗黙のルールとして、Dr.Lukeの心を満足させて、同氏と行動を共にするために、自ら聖餐を拒否した信者たちは、その瞬間に、確かに主の救いを恥じ、血潮と御身体を恥じて、これを自分とは無縁のものとして拒否したのである。

だから、もしこの時、聖餐に加わった信者が「主の血潮や御身体を穢した」と非難したい信者らがいたならば、実は、彼らこそが、信仰者を名乗りながら、自ら聖餐を拒否したその行為によって、主を恥じ、血潮と御身体を恥じて拒否するという罪を犯したのである。そして実際、彼らは恐るべきことに、確かにその後、キリストの御身体から切り離されてしまい、キリスト教そのものを敵視した上、自己の義により頼んで血潮による赦しからも遠ざかり、Dr.Lukeと共に、自己を神として、唯一の神に敵する道を歩んで行ったのである。

それを考えると、あのような異常な儀式はたとえ一回きりであったとしても、霊的には、必ず「踏み絵」としての効果を持つのだと思わずにいられない。すなわち、それはKFCの連中が、仲間を排除し、恥をかかせるために悪巧みとして考え出したような意味での「踏み絵」ではなく、「あなたは聖書の御言葉を信じて従い、神の側につくのか、それとも、人間を恐れ人間に媚びて人間から嫌われないために、御言葉を捨てて人間の思惑に従うのか」という、神の側から見た「踏み絵」だったのである。

集団の「和」から弾き出されて、他の信者の悪口やイジメの対象とされたくないという怖れから、同調圧力に抵抗できないような人間は、その瞬間、悪魔に魂を売ってしまうであろう。そして、その影響は後々まで尾を引くことになるのである。

だから、筆者は、その時点から、KFCという団体が、筆者をどう評価し、どんな風に誉め、あるいはけなし、陰口を叩くかといったことを全く気にせず、御言葉だけに従うことを選んだ。主の御身体であることを自ら否定して、生涯に渡り、我々の罪を覆うことのできる血潮を拒否するという恐るべき罪に比べれば、人間の評価など、全く恐れるに足りないと今も思うだけである。

たとえ全世界の人々が聖餐式に加わることを拒んだとしても、筆者は彼らと行動を共にすることによって神の救いを自ら失いたくないと思う。それでは、一体、何のためにクリスチャンになったのか分からない。世人と何らの違いもないであろう。人に誤解されたり、見捨てられることなど、一時的な問題でしかなく、全くさしたる影響もないが、自ら神を拒み、神に捨てられる以上に恐るべき状態は人には存在しない。それは永遠に関わる問題だからである。

だから、筆者はただ単なる「へそまがり」として、自らの主義主張や、性格のゆえに、同調圧力から外れて立っているのではなく、そこには聖書の御言葉という、れっきとした根拠が存在するのである。

すなわち、幾度となく繰り返して来た通り、

人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。」(ローマ3:4)

と聖書にある通りだ。神を真実な方とするとは、神の御言葉を真実なものとみなし、御言葉に従う、ということ以外の何物でもない。

思えば、KFCに深く関わった人たちは、常に誰かを排除するという形でしか、行動できなかったように見受けられる。たとえば、その当時、Mr.SugarはKFCを批判してすでに関わりを断っていたとはいえ、それでも、筆者がデッドライン君の自慢のリビングルームに異議を唱え、彼らの聖餐に水を差すような発言をしたとき、筆者はデッドライン君の家で最初に開かれた聖餐式から、Mr.Sugarによってふさわしくないと判断されて、弾き出されてしまったことをすでに書いた。

筆者はその当時は、その事件の意味が理解できなかったので、衝撃を受けたものだが、今はそこにある排除の論理が結局、KFCと全く同じであることが良く理解できるのである。つまり、彼らにとっての儀式とは、神への従順のために行われるものでなく、常に彼ら自身の威信と栄光を高めるために行われるものでしかなく、従って、彼らの自己満足に疑問を呈し、その喜びに水を差すような発言をする人間を、彼らは徹底的に排斥し、あるいは報復するのである。

神に捧げられる儀式は、そもそも人間の自己満足や、威信の発揚のために行われるのではないにも関わらず、この人々にはそのことがどうしても分からないのである。そして彼らはそのようにして、常に親しい仲間の誰かを排除したり、見下しては、自分たちこそ、神の特権に与る恵まれた存在であり、少数の勝利者であり、そこに加われず、その価値が分からない愚かな連中とは別格の存在なのだという優越感に浸ることをやめられないのである。

KFCの聖餐式は、儀式にあずからないことによって特権意識を強調するという裏返しの形になっていたが、儀式そのものが、彼らの自己満足の手段、彼らの特権意識を確認する場として利用されている点で、原理は同じである。そういう優越感と特権意識によって他者と自分とを区別し、他者を凌駕し、圧倒し、排除することによって、自らの信仰の立派さや、優位性を強調しようとすることこそ、KFCという団体の理念と深く関わった者たちに共通して見られる病的な誘惑なのだ、と筆者は思わずにいられない。

つまり、まるで受験競争のごとく、他者と競争し、他者に対する優位を勝ち誇ることでしか、彼らは自分の信仰の正しさや立派さを認識することも証明することもできなくなってしまっているのだ。神に賞賛してもらうことを願って、神だけの評価を勝ち得ようと、人の目から隠れたところで努力するのではなく、人前で、他者に対する圧倒的な「優位性」を見せつけるために、しかも、他者を悲しませ、弾き飛ばし、酷評することによって、自分の威力を誇示するために、絶えず他者に対して罠をしかけるような暗黙のルールを作っては、誰かを蹴落とし、辱め、排除し、その一方で、自分は安全圏にいる成功者であり、選ばれた数少ない勝利者なのだと自分に言い聞かせ、こうして常に自分が他者より一段高いところに立っていなければ落ち着かないのである。

そのような見栄に憑りつかれた人々は、神の霊の内なる承認を得ようとして戦っているのではなく、ただ人の目に失格者と見られず、人前に立派な人間だと評価され、支持を失わず、己の威信を誇示し、名誉欲を叶えることだけを第一として生きているのである。だから、結局、彼らを動かしているのは、御言葉ではなく、信仰でもなく、彼らが気にしているのは神の眼差しではなく、この世の評価なのだと言える。

そういう生き方は、純粋な信仰生活とは決して両立しない。そのようにして、歪んだこの世的な価値観に染まってしまった信者たちは、飽くことなく自己の栄光だけを追い求めるようになるので、時には、我が子さえも競争相手とみなし、子供たちから徹底的に出番を奪ったり、子供たちを自分自身が栄誉を得るための手段とみなして利用する。その結果、そういう家庭では、子供の自殺という悲劇が起きることも少なくない。

親たちは自分たちの外見的な見栄を飾るために、子供を一生懸命、「立派な信仰者」に育て上げようとするのである。だが、それはしょせん、自己の見栄のためでしかないので、親の欲望をかなえる道具とされた子供たちは、精神的に追い詰められ、最悪の場合、その苦痛に満ちた束縛から逃れるために、自ら死を選ぶのである。

それは霊的搾取と呼ばれるべき構図であり、それはむろん、信者の家庭内だけでなく、信者と信者との間でも行われる。アッセンブリーズ教団を含め、既存の教団教派でも、指導者の栄光のために信徒が搾取されるということが当然のように行われるが、さらに、組織を持たないと自称している団体の中でも、同じことが起きるのである。KFCのみならず、ゴットホルト・ベック氏の集会など、複数の集会を見学した結果、そのことが、よりはっきりと筆者に理解できるようになった。

今現在、筆者はそのようなシステムをネズミ講と同じものとみなしている。信者が、他の有望そうに見える信者を、自己の栄光を築き上げる道具とするために「スカウト」しては、自分自身が教師然となって、その信者を「弟子化」し、弟子を増やすことによって自分の手柄を増やしながら、無限のピラミッドを築き上げようとするのである。

そういうことが行われているのは、断じて、献金を集めねば存続できない公の宗教団体だけではない。たとえ団体名がついておらず、公の組織が存在していないように見え、あるいはネット上の関わりしかなくとも、それでも、多くの場合、そこには何かの見えないピラミッド・システムが存在し、人間の絆を通して、霊的搾取が連綿と広がっているのである。そこから抜け出るただ一つの方法は、指導者や教師になりたがる人物に決して頼らず、神だけに依存して生きることのみである。
  
以上のような「弟子化」の際によく使われるのが、何らかの霊的先人たちの教えを記した教本である。それを教科書のようにして、古参の信者が新しい信者を自分好みに教育しながら、次第に自らの精神的支配下にからめ取り、自分の栄光を築き上げるための道具として束縛して行くのである。

もしも誰かが、それが霊的搾取のために作られた悪しきピラミッド・システムであるという異常性に気づいて、そこから離脱しようとすると、一斉に、システム全体が彼に敵対する。それまでシステムなど存在しないと思っていた信者も、その時が来ると、自分がピラミッドの末端にいたことに気づかざるを得ない。それまで優しい友・教師・助言者だと思っていた指導者が、実は残酷な支配者でしかなかったことに気づくのも、その時である。

このようなものは、信仰であるかのように装ってはいるが、実のところ、巧妙に作られた信仰生活の偽物に過ぎない。たとえそこに本物の信仰がわずかに存在していたとしても、このようなシステムの中に組み込まれ、拘束されている以上、その信仰も正常に機能しない。だから、もし健全で正しい信仰生活を送ろうと願うなら、信者はいずれこのピラミッドと訣別することが不可欠となる。

クリスチャンのほとんどは組織や団体の中で信仰を持つようになるが、その後で、もしも本当に主の御前に、真実な信仰生活を送ろうと願うならば、どこかで「踏み絵」の瞬間がやって来る。つまり、人間の理解や賞賛や励ましを失いたくないばかりに、神の御言葉を否定してでも、人間の集団の中に残るのか、それとも…。その時に、人間の集団を選ぶと、永久に後戻りが不可能となってしまう。

だから、ピラミッドに組み込まれることを拒否し、空気は読まず、指導者の意を忖度もせず、周囲に波風を立て、「和をもって貴しとしない」生き方を、筆者は恥じるつもりはない。

そのような生き方を生意気だと思ったり、疎ましく思っていた信者たちは存在するし、同調圧力に屈した人々からは、陰口も叩かれていたのであろうが、筆者はそのような非難を、全く苦にしておらず、むしろ、もっと早くから、どうして断固たる不動の決意がなかったのかと思っているくらいだ。

筆者も若く未熟なうちは、それなりの遠慮もあって、20も30も年上の連中に対し、なかなか面と向かって言い出せない数多くの確信を心の内に秘めていた。だが、そのような他者への遠慮は、恐れから来るものでしかなく、百害あって一利なく、余計なしがらみに巻き込まれて無駄に人生を失わないために、早くなくなるに越したことはない、と今は思う。

人への優しさ自体は悪いものではないが、日本人の多くの人々の空気に逆らえず長い物に巻かれる習性は、臆病さと優柔不断さの現れでしかなく、長所ではなく欠点である。何より、クリスチャンは、ご機嫌伺いするなら、人の顔色を読むのでなく、神の顔色をこそ読むべきであるのに、そのことを全く認識していない人々が多い。

もし世に媚びて人の寵愛を失わず「和」に生きたいと願うならば、クリスチャンをやめた方が良いだろう。神の福音を知りながら、世を愛し、世に媚びて、神の救いを拒むくらいならば、福音を最初から知らなかった方が罪が軽く幸福である。そのことを筆者は信者たちに向かってはっきりと断言しておきたい。

最後に、再び話が大きく変わるが、「shueiのメモ」より、「暴力は暴力を、憎悪が憎悪を生みます。これは良い解決策につながりません。わたしたちは、わたしたちの価値観のための戦いを続けます。」という記事も、全文に目を通す価値がある。

これは大きな参考事例だ。大量殺人を行った犯人に対して、ノルウェーはどう接したか? この記事を読むと驚かされる。かつての記事で、歌手のレーナ・マリア(旧姓ヨハンソン)について触れた際、北欧ならではの理念が彼女の教育の背景に存在すると筆者は確信したが、この記事を読むと、またしても、北欧の日本人にはない発想に驚かされる。

ノルウェーと同じ方法を、たとえば、日本で植松容疑者に適用できるだろうか? きっとこの国ではできないだろう。この国ではいつも悪い方に合わせ、厳罰によって対処したような気になって終わるという感情論以上のものがないからだ。しかし、上の記事では、厳罰を下すことによっては、犯人と同じように憎しみに生きることを助長するだけで、社会は何も変わりはしないとはっきり結論づけている。世界の考え方の多様性を学ばされる事例である。

筆者は、最近、日本的な物の考え方の限界をしきりに認識するようになった。それは特に、ピラミッド・システムの中に人を閉じ込め、決してそこから外に出そうとしない「和をもって貴しとなす」という、個性を否定する役割重視の集団性の精神の弊害を痛切に感じるためである。たとえ信仰者でなくとも、人々は、そのような価値観の中からは、既存の体制を是とする以上の何の革新的な発想も生まれて来ないので、閉塞感を覚えざるを得ないであろう。

今、日本政府の凶暴さと利己主義が余すところなく明らかになっているので、その著しい犠牲となっている沖縄の日本からの独立論もネットでは盛んだが、沖縄人でなくとも、この社会のバビロン化した体系からのエクソダスの時が本当に近づいていると感じざるを得ない。このような悪しき体制のもとでは誰も幸福に生きられはしない。

基地問題の他にも、我が国には、福島原発事故処理など、従来のものの考え方では、およそ対処できないような深刻な問題が山積みになっている。ところが、政府には解決を生み出す能力がなく、その意欲も展望もなく、人々の想像力も枯渇しつつあり、西を向いても東を向いても、「神になりたい」だけの人たちばかりの様子に、筆者もほとほとうんざりしている。日本人の謙遜はどこへ消えたのかと思うほど、悪しきイデオロギーが至る所で跋扈し、人々はより尊大に高慢に恥知らずになって行っている。そして、そこには必ず異端の影響がある。悪魔的思想だけが、人間性をそのように腐敗させることが可能なのだ。

だが、たとえそのような異端者たちが、大手を振って弱い者を侮蔑し、踏みにじっては、己が栄耀栄華を誇って、自分たちは特権階級だ、選民だ、と豪語してみたところで、ヒエラルキーの競争は果てしなく、彼らの競争に永遠にゴールはない。グノーシス主義というものは、果てしない差別の階層制なのだと筆者は述べたことがあるが、その果てしない競争こそが、この悪しき異端思想の重大な落とし穴なのである。

どんなに人前に評価を得、どんなに他者を凌駕し、圧倒して、どんなに高みに上ってみたところで、そこにはさらなる競争が待ち受けているだけで、その競争は永遠に終わりがない。だから、そんな競争は、関わった誰一人にも、幸福をもたらさないのである。

さて、天皇の生前退位の問題には、この点で、多くの示唆が含まれていたように思う。むろん、この問題には多くの議論が存在するので、通りすがりに触れられるような単純な事柄ではないが、それにしても、筆者は、天皇自らがお勤めを降りたいと表明したことに、注目せざるを得ないのである。つまり、戦後の天皇の仕事は、一見、国民を慰め、励まし、多くの人たちを支える、人に感謝され、喜ばれる、有益で尊い仕事のように見えたであろう。天皇皇后に出会った人たちはみなそれを誇りにするし、かつての大戦の犠牲者を弔うことも、重要な仕事に見えた。

だが、天皇制は、天皇自身の人間性の否定の上にしか成り立たないことが判明したのである。特に、いつまでもかつての大戦に対する反省と懺悔の仕事を、生きた一人の人間に集中して押しつけるべきなのであろうか? そうすることによって、本当にこの国は責任を果たしたことになるだろうか? むしろ、もっと重要な何かがそれによって覆い隠されてしまっているのではないか? 天皇をありがたがる人たちは、自己の満足と慰めのために他者に強いている犠牲を考えてみるべきなのである。

これと同じように、教師や牧師やリーダーといったものにも、世で考えられ、ありがたがられるような価値も栄光も、本当は全く存在しないのだと筆者は思わずにいられない。それどころか、「人の間で尊ばれるものは神に忌み嫌われる」(ルカ16:15)と聖書にある通り、人の目に貴く輝いて映るものほど、ほとんどの場合、まるで実体がなく、むしろ、そこにあるのはメッキのような偽りの栄光と、祀り上げられた人間の忌まわしい犠牲だけなのである。

だから、筆者は、人の上に立つということ自体が、ある意味で、人間にとっては呪われた所業なのだと思わずにいられない。多くの人たちに乞われて高みに上り、師となり、リーダーとなり、象徴となって、人前に栄光と賞賛を受けることは、決して人間の歩むべき道ではないのだと確信する。猿に失礼なたとえだが、猿のごとく知性の欠けた愚直な人間だけが、そのような地位にしがみつくのであって、誠実に正直に生きる人間ほど、その危険性に早く気がつき、そのような忌むべき場所からは一刻も早く降りたいと願うのではないだろうか。

だから、たとえこの国の99%が虐げられた民であり、侮蔑され、見下されているのだとしても、だからと言って、彼らを踏みにじって勝ち誇る1%に入り込むことが、人間の幸福では全くないのだと確信する。そのようにして他者を凌駕し、君臨するために、果てしない競争の階段を上って高みに立とうとすること自体が、敵の仕掛けた罠であり、それは永遠の競争に人を巻き込むだけで、何の解決も、満足も、人にもたらしはない。

人が人間らしく生きるためには、富を蓄積し高みに上り他者の及びもつかない雲上人(神)を目指すのとは、全く違う価値観が必要なのである。そして、それは自分と他者とを比較して優位を誇ったり、あるいは誰か自分よりも可哀想な人間を見つけて来ては、哀れんだり、助けてやったり、あるいは排除したりして、自分の優位を確認することによって得られるものではなく、人間そのものに生まれながらに備わった、他者との比較によるのではない、自己の個性の独自性を基にしてしか生まれて来ることのない価値観である、という気がしてならない。

たとえば、深海や、空の高いところや、人に知られない地の暗闇に、何のために生きているのかもよく分からないような生態不明の生物もたくさん存在する。そのような生物にも、おそらくは、人には理解できずとも、何かの意味が必ず隠されているのである。自分に理解できないからと言って、その生命には生きる価値がない、とか、無用な存在だ、などと誰が言えるであろうか。人もこれと同じであって、多くの人の注目を集め、賞賛され、もてはやされ、評価され、感謝されて生きることが、人間の価値なのではないのだ。むしろ、そうやって他者を喜ばせ、他者に尊ばれ、ありがたがられ、評価されることばかりを目指して、自己アピールに生きると、結局は、他者を失望させないために、絶えず人目を気にし、他人の評価に踊らされ、それに縛られることになる。他方、たとえ人から理解されず、賞賛を受けずとも、そんなものは初めから度外視して、自らの独自性を存分に発揮して、自分本来に備わった自然な役割と能力を生き生きと発揮できるならば、その方が、はるかに自然で幸福ではないだろうか?

人が生命としてのと自分自身に生まれながらに備わった個性の独自性とは何なのかを理解するためにも、世の特定の集団における人間の「役割」や「有用性」だけを至上の価値とするような、忌むべきピラミッド型収奪システムからは早く永遠にエクソダスした方が良い。

今も大勢の人々が、世の中を思うがままに牛耳り、自分たちの圧倒的な優位を他者に誇示して、弱い者たちや、気に入らない他者を辱め、排除するために作り出した儀式が、至る所で執行されている。受験競争においても、就職戦線においても、教会においても、人々が排除されている。オリンピックも、これに賛同しない人々を「非国民・テロリスト」扱いするために、利用されるのだという噂が根強い。この先、政府を批判し、オリンピックに水を差すような言動を繰り返している人間には、共謀罪が適用されるのではないかという危惧さえ囁かれている。一体、ここはどこの国だろうかというほどの有様である。

つまり、そういった一連の晴れがましい儀式は、ある人々が、気に入らない他者を排除するための「踏み絵」として利用されるかもしれないというわけである。それはKFCで行われた異常な聖餐式のように、一部の「選ばれた特権階級」を、それ以外の人々から区別し、自称「エリート」が勝ち誇るためだけに作られたものだというわけである。

だが、筆者の言いたいことはこうだ。神は不思議な方であるから、たとえそのような悪意に満ちた計画のもとに様々な行事が進められていたとしても、ある瞬間が来ると、神は上からの不思議な知恵によって、人間が考え出した意地悪な「踏み絵」をさっと裏返しにされる。そうすると、それまでエリートだと主張していた人々こそ、実は落ちこぼれであったという事実が公に判明するのである。

それはちょうど主イエスが地上に来られるまでは、人々に宗教的権威とみなされて尊敬を受けていたパリサイ人や律法学者が、主イエスの出現によって、その欺瞞が暴かれ、辱められたのと同じ構図である。聖餐式を拒否したKFCの「自称エリート」たちは、神の恵みを拒んで自己の義によりすがったので、神の恩寵から排除されてしまった。そして、彼らは今や神の敵となって歩んでいる。そして、そのような「自称エリート」からは軽蔑され、排除され、見下されて、非難の対象となっていた者たちが、かえって神の恵みに存分にあずかったのである。

自己の義によりすがり、自らを高く掲げる人間は、神の恩寵から自ら除外されて行き、最後には、神ご自身によって排除される。その法則は、イエス存命当時も今日も、何ら変わらない。

神の恵みは常に水のように低い方へ向かって流れる。また、せき止めておけない。せき止めれば、水は淀み、腐るだけである。だから、神の恵みは誰にも独占できない。それなのに、自分たちはエリートだの、義人だの、選民だの、神だのと言って、他者に対する優位を勝ち誇っては、神の恵みをまるで自分たちだけの専売特許のように誇っている連中は、必ず、最後には、神によって打ち倒され、他者を陥れようと自分がしかけた罠に落ちて終わるだろう。

むろん、そうなる前から、彼らは人々に忌み嫌われ、愛想を尽かされているので、特段、彼らを憎んだり、破滅を願うだけの価値すらもなく、まして復讐する意味など全くないが、ただ、上からの知恵によって、この高慢な愚者らに対する神の手厳しい平手打ちが、一体、どんな形で現れるのか、それだけは注目に値すると筆者は思っている。

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